2024年2月13日火曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(13) 〔664〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(13)


寶龜五(西暦774年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月己夘。勅曰。如聞。天下諸國疾疫者衆。雖加醫療。猶未平復。朕君臨宇宙。子育黎元。興言念此。寤寐爲勞。其摩訶般若波羅蜜者。諸佛之母也。天子念之。則兵革災害不入國中。庶人念之。則疾疫癘鬼不入家内。思欲憑此慈悲。救彼短折。宜告天下諸國。不論男女老少。起坐行歩。咸令念誦摩訶般若波羅蜜。其文武百官向朝赴曹。道次之上。及公務之餘。常必念誦。庶使陰陽叶序。寒温調氣。國無疾疫之災。人遂天年之壽。普告遐邇。知朕意焉。癸未。授无位藤原朝臣仲繼從五位下。己丑。美濃國飢。賑給之。庚寅。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。壬辰。以從五位下相摸宿祢伊波爲尾張守。從五位下石川朝臣豊麻呂爲美濃介。外從五位下下毛野朝臣根麻呂爲下野介。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲若狹守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲大宰帥。甲午。近江國飢。賑給之。

四月十一日に次のように勅されている・・・聞くところによれば、天下の諸國に流行病の者が多い。医者が治療してもそれでもまだ回復しない。朕は宇宙に君臨し、人民を子として育んでいる。ここにこのことを考え、寝ても覚めても心を労している。ところで『摩訶般若波羅蜜』は、諸仏の母である。天子がこれを念ずれば、戦乱や災害は國内に入らず、一般の人がこれを念ずれば、流行病や流行病を起こす神は家中に入らない。---≪続≫---

この慈悲に頼って、救おうと思っているので、天下の諸國に布告して、男女や老少を問わず、起っていても坐っていても歩いていても、みな念じ誦するようにせよ。文武の百官達も、朝廷に向かい、役所に赴く道の途中や、公務の余暇には、必ず念じ誦しなさい。願うのは、陰陽が順序に従い、寒温も順和がとれ、國に流行病の災いがなく、人が天寿を全うすることである。このことを普く遠近に告げて朕の意を知らせるようにせよ・・・。

十五日に藤原朝臣仲繼(藥子に併記)に従五位下を授けている。二十一日に美濃國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十二日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りが続いたためである。

二十四日に相摸宿祢伊波を尾張守、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を美濃介、下毛野朝臣根麻呂(吉弥侯根麻呂。君子部眞鹽女に併記)を下野介、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を若狹守、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を大宰帥に任じている。二十六日に近江國に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。

五月庚子。復當麻眞人高庭本位從五位下。壬寅。河内國飢。賑給之。癸夘。正四位上藤原朝臣百川。藤原朝臣楓麻呂並授從三位」。以從三位藤原朝臣藏下麻呂。正四位下藤原朝臣是公並爲參議。」復无位大原眞人宿奈麻呂本位從五位下。乙夘。勅大宰府曰。比年新羅蕃人。頻有來著。尋其縁由。多非投化。忽被風漂。無由引還留爲我民。謂本主何。自今以後。如此之色。宜皆放還以示弘恕。如有船破及絶粮者。所司量事。令得歸計。癸亥。散位從四位下大伴宿祢御依卒。丁夘。以從五位下坂上忌寸石楯爲中衛將監。 

五月二日に當麻眞人高庭(子老に併記)を本位の従五位下に復している。四日、河内國に飢饉が凝ったので物を恵み与えている。五日に藤原朝臣百川(雄田麻呂)・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に従三位を授けている。藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)・藤原朝臣是公(黒麻呂)を参議に任じている。また、大原眞人宿奈麻呂(今木に併記)を本位の従五位下に復している。<復位の人物は、『仲麻呂の乱』に連座していたのかもしれない>

十七日に大宰府に次のように勅されている・・・近年、新羅國の人々がしばしば来着する。その理由を尋ねると、多くは日本の王に德を慕って移住するのではなく、俄かに風に流されて漂着し、還る方法がなく、そのまま留まって民をなったものである。本國の主は、どのように思うのであろうか。今後このような場合は、みな送り還して、天皇の広い思いやりの心を示すようにせよ。もし船が壊れていたり、食粮が絶えている者には、担当の役所が事態を判断して、還ることができるように取り計らうようにせよ・・・。

二十五日に大伴宿祢御依(三中に併記)が亡くなっている。二十九日に坂上忌寸石楯(石村村主)を中衛将監に任じている。

六月庚午。始令太政官左右官掌把笏。壬申。奉幣於山背國乙訓郡乙訓社。以犲狼之恠也。」奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。辛巳。志摩國飢。賑給之。乙酉。伊豫國飢。賑給之。丁亥。飛騨國飢。賑給之。庚寅。以從五位下紀朝臣犬養爲伊豆守。外從五位下六人部連廣道爲越後介。外從五位下村國連子老爲出雲介。從五位下石川朝臣諸足爲備後介。

六月三日に初めて太政官の左右官掌に笏を持たせている。五日に山背國乙訓郡の乙訓社に幣帛を奉っている。犲(山犬)や狼が奇怪なことをするためである。また、黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。十四日に志摩國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。

十八日に伊豫國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十日、飛騨國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十三日に紀朝臣犬養(馬主に併記)を伊豆守、六人部連廣道(鯖麻呂に併記)を越後介、村國連子老(子虫に併記)を出雲介、石川朝臣諸足を備後介に任じている。

秋七月己亥。復女孺无位足羽臣黒葛本位外從五位上。辛丑。若狹。土左二國飢。賑給之。丁未。上総國獻白烏。戊申。大納言從二位文室眞人大市重乞致仕。詔。卿年及懸車。告老言退。古人所謂。知足不辱。知止不殆。此之謂也。思欲留連。恐非優老之道。體力如健。隨時節朝參。因賜御杖。庚戌。授命婦從五位下紀朝臣方名從四位下。丁巳。陸奥國行方郡災。燒穀穎二万五千四百餘斛。戊午。尾張國飢。賑給之。」以從五位下紀朝臣本爲左少弁。從五位上佐伯宿祢久良麻呂爲近江介。是日。尚膳從三位藤原朝臣家子薨。遣使弔賻之贈正三位。庚申。以河内守從五位上紀朝臣廣純爲兼鎭守副將軍。勅陸奥國按察使兼守鎭守將軍正四位下大伴宿祢駿河麻呂等曰。將軍等。前日奏征夷便宜。以爲。一者不可伐。一者必當伐。朕爲其勞民。且事含弘。今得將軍等奏。蠢彼蝦狄。不悛野心。屡侵邊境。敢拒王命。事不獲已。一依來奏。宜早發軍應時討滅。壬戌。陸奥國言。海道蝦夷。忽發徒衆。焚橋塞道。既絶往來。侵桃生城。敗其西郭。鎭守之兵。勢不能支。國司量事。興軍討之。但未知其相戰而所殺傷。

七月二日に女孺の足羽臣黒葛(眞橋に併記)を本位の外従五位上に復している。四日に若狹と土左の二國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十日に上総國が「白烏」を献じている。

十一日に大納言の文室眞人大市が重ねて辞任を願い、次のように詔されている・・・あなたは年が七十歳になったので、老年になったことを申告して、退職したいと言上して来た。古人が[足ることを知れば、辱められることはなく、止まることを知れば、危うい目に遭うことはない]とはこのような場合のことである。思うに、そのまま止めておこうと望むことは、老人を優遇する道ではない。もし体力が壮健ならば、時節に随って朝廷に参上するようにせよ・・・。これによって御杖を賜っている。

十三日に命婦の紀朝臣方名(豊賣)に従四位下を授けている。二十日に陸奥國行方郡の役所に火災があり、籾米と頴合わせて二万五千四百石余りを焼失している。二十一日に尾張國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。また、紀朝臣本を左少弁、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を近江介に任じている。この日、尚膳の藤原朝臣家子(百能に併記)が亡くなっている。使を遣わし、物を贈って弔い、正三位を追贈している。

二十三日に河内守の紀朝臣廣純に鎮守副将軍を兼任させている。陸奥國按察使で陸奥守・鎮守将軍を兼任する大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)に、次のように勅されている・・・将軍等は先日蝦夷征討についてとるべき適当な処置を奏上し、一人は伐つべきではないとし、もう一人は必ず伐つべきであると言った。朕は征討が民を疲労させるために、しばらく、万物を包み込む広い德を重んじて控えていた。しかし、今将軍達の奏上を得たところ、「蠢彼蝦狄」は人を害する心を悔い改めようとせず、しばしば辺境を侵略し、天皇の命令を拒み続けていると言う。事はもはや止むを得ない。全ては送って来た奏状に依り、早く軍を発して時機に応じて討ち滅ぼすようにせよ・・・。

二十五日に陸奥國が以下のように言上している・・・「海道蝦夷」が突然に多くの民衆を集めて、橋を焚き、道を塞いで、交通を遮断してしまった。桃生城を侵攻し、西の郭を破り、城を守る兵も成り行き上これを防ぐことができなかった。國司は事態を判断して、軍を興してこれを討った。但し、その合戦で殺傷された人数はまだ分かっていない・・・。

上総國:白烏 地形変形が凄まじい地域であり、国土地理院航空写真1961~9年を参照しても詳細を確認することは叶わないようである。多分こちら辺りと思われるが、定かではない。上総國は天羽郡の人物が虚偽の献馬をし、発覚して罪に問われたと記載されていたが(こちら参照)、今回は如何なる経緯となったのであろうか。

<蠢彼蝦狄>
蠢彼蝦狄

本文中で蝦狄(蝦夷)について、二種類の表記を行っている。勿論これは彼等が住まう地を区別しているのであろう。既に述べたように彼等の居処は肅愼國である。

現地名の北九州市門司区清見及び白野江を中心とした地域と推定される。佐渡國の北側に接し、最近接の場所は渡嶋蝦夷と表記されたが、後に帰順した人々が住まう地である。

蠢彼蝦狄の「蠢彼」が表す地形をこの周辺で探索してみよう。「蠢」=「春+虫+虫」と分解される。全て地形象形表記に用いられて来た文字要素である。即ち「蠢」=「細かく岐れた山稜が二つ並んで延び出ている前で[炎]のような山稜が延びている様」と読み解ける。

「彼」=「彳+皮」=「山稜の端が覆い被さるように広がり延びている様」と解釈した。纏めると、蠢彼=細かく岐れた山稜が二つ並んで延び出ている前で[炎]のような山稜がある地が覆い被さるように広がり延びているところと読み解ける。図に示した場所、佐度國に接する肅愼國側の地を表していることが解る。「蠢」=「愚かな」を意味するようである。重ねた表記となっているのであろう。

<海道蝦夷>
海道蝦夷

東海道等を連想させて、”海の道”をやって来る蝦夷のように読ませているが、上記と同様にこの蝦夷の居処を表していると思われる。「海」も「道」も立派地形象形表記なのである。

海道=水辺で母が子を抱くように延びた山稜に囲まれた地にある首の付け根のようなところと解釈される。それを肅愼國で探すと、図に示した場所が見出せる。

書紀の斉明天皇紀に津輕郡と名付けられた場所、現地名の北九州市門司区白野江辺りである。勿論、彼等が桃生城に侵攻するには”海の道”を使ったであろう。これも重ねた表現と言えるかもしれない。

参考にしている資料では、「蠢彼蝦狄」を”日本海側”の蝦夷、「海道蝦夷」を”太平洋側”の蝦夷と解釈されている。確かに企救半島を日本列島本州に見立てれば、位置関係は満足されているが、創作していることになろう。

以前にも述べたが、新羅(人)が騒げば、蝦夷が連動する。書紀の捻くれた記述から何度もその様子が伺え、續紀でも同様の記述となっている。通説に従うと、朝鮮半島南部と日本の東北地方が結び付いていたとは、到底考えられない空間配置であろう。それに疑問が生じないことが不思議である。

八月己巳。勅坂東八國曰。陸奥國如有告急。隨國大小。差發援兵二千已下五百已上。且行且奏。務赴機要。庚午。遣使秡淨天下諸國。以齋内親王將向伊勢也。壬午。以從五位下廣上王爲齋宮長官。甲申。勅。外國五位已上。身亡本居者。自今以後。宜割當國正税給其賻物。乙酉。上総守從四位下桑原王卒。己丑。幸新城宮。授別當從五位上藤原朝臣諸姉正五位下。外從五位下刑部直虫名正五位下。辛夘。先是。天皇依鎭守將軍等所請。令征蝦賊。至是更言。臣等計。賊所爲。既是狗盜鼠竊。雖時有侵掠。而不致大害。今属茂草攻之。臣恐後悔無及。天皇以其輕論軍興首尾異計。下勅深譴責之。

八月二日に次のように坂東八國(九國。常陸國を除く)へ勅されている・・・陸奥國がもし急を告げて来たら、國の大小に随って援兵二千以下、五百以上を徴発して、行軍しながら奏上して重要な機会に遅れないように努めよ・・・。三日に使を遣わして、天下の諸國を祓い浄めさせている。齋宮となる内親王(酒人内親王)が伊勢に向かおうとするからである。

十五日に「廣上王」を齋宮長官に任じている。十七日に次のように勅されている・・・畿内以外の國々にいる五位以上で、任地で死去した者には、今後はその國の正税を割いて弔いの物として給せよ・・・。十八日に上総守の桑原王が亡くなっている。二十二日に「新城宮」に行幸し、別当の藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正五位下、「刑部直外虫名」に外正五位下を授けている。

二十四日、これ以前に天皇は鎮守将軍等の要請によって蝦夷の賊を征討させた。この時に至って更に将軍等は以下のように言上している・・・臣等の推測するところでは、賊のなす行為は、犬や鼠が人に隠れてこそこそ物を盗むのに似ている。時々侵攻や略奪をするが、大きな害を及ぼすものではない。しかも今は草が繁っていて適さず、蝦夷を攻めるのは、きっと後悔しても及ばない結果となるであろう・・・。天皇は、将軍等が先に軽々しく軍を興すように論じるなど、計画が一貫しないので、勅して深く責め咎めている。

<廣上王>
● 廣上王

系譜も含めて情報が殆ど欠落している王のようである。その中でWikipediaによると、左京に土地を所有していたと言う記録が残っているとのことである。

土地の所有していることとは、必ずしも出自場所に限られたことではないが、左京で王の場所に相応しい地を探すと、首皇子(後の聖武天皇)の後裔の居処となっていた場所が思い浮かぶ(こちら参照)。

書紀で登場した新益京、後の聖武天皇紀に天王貴平知百年の文字を背負った龜が棲息していた場所である。この文字列から元号、「天平」が誕生することになったと記載されていた。

廣上王廣上=盛り上がった地が広がっているところと解釈すると、この龜の中央部の地形を表していることが解る。背中の”天王”に該当している。ひょっとすると、系譜が抹消された人物だったのかもしれない。この後、幾度か登場されている。

<新城・層富縣>
新城宮

書紀の天武天皇紀に登場した「新城」の地に造られていた宮と思われる(左図を再掲)。遷都の計画は頓挫したが、その後に宮が建てられたのではなかろうか。

聖武天皇紀に新城連の氏姓を賜った一族が周辺に居を構えていたようである。称徳天皇紀の神護景雲三(769)年十月の宣命体での文言に「新城乃大宮」と記載されていた。

文脈からして、明らかに元正天皇が坐した平城宮を示している。新城乃大宮=山稜を切り分けて平らに整えられた地にある宮であり、「平城宮」の場所を「新城」と表現しているのである。「新」を”新しい”と解釈しては、混迷に嵌るばかりである。

大和奈良にある”平城宮”を「新城」と見做すのは、些か無理があろう。”新しい城”では、元明天皇に失敬な振る舞いとなろう。結局のところ、通説では「新城宮」の場所は不詳のままとなっているようである。

<刑部直虫名>
● 刑部直虫名

行幸先での叙位も恒例となっているが、その一人の「刑部直」の氏姓は初見である。無姓の「刑部」は既に幾人かが登場し、ましてや「忍壁」の地に関わるとも考え辛いように思われる。

既に外従五位下を叙爵されているのだが、詳細は述べられていない。そんな背景ならば、この人物の出自は「新城」の近隣だったのではなかろうか。

既出のように刑部=四角く切り取られたような地の近隣のところと解釈される。名前に含まれる頻出の虫(蟲)名=山稜の端が細かく岐れているところと解釈すると、
「刑部」も併せて、ぞの地形を満足する場所を図に示したところに確認できる。

地図上の地形が明瞭であり、かつ、特異な山稜の形であることから確度高く推定することができたようである。また一人、辺境の地の人物を登場させているのであろう。後に命婦として内位の従五位下を叙爵されたとのことである。

九月己亥。齋内親王向于伊勢。庚子。授正六位上尾張連豊人外從五位下。以從五位下安倍朝臣弟當爲少納言。大納言正三位藤原朝臣魚名爲兼中務卿。從五位下石川朝臣淨麻呂爲少輔。從五位下高麗朝臣石麻呂爲員外少輔。從五位下藤原朝臣長道爲主税頭。從三位藤原朝臣繼繩爲兵部卿。左兵衛督如故。外從五位下日置首若虫爲漆部正。從四位上大伴宿祢伯麻呂爲宮内卿。從四位下大伴宿祢家持爲左京大夫。從五位下藤原朝臣鷹取爲亮。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲右京亮。外從五位下伊勢朝臣子老爲造宮少輔。外從五位下丹比宿祢眞繼爲鑄錢次官。外從五位下英保首代作爲修理次官。周防掾如故。從五位下藤原朝臣菅繼爲常陸介。左京大夫從四位下大伴宿祢家持爲兼上総守。從五位下巨勢朝臣馬主爲能登守。大外記外從五位下内藏忌寸全成爲兼越後介。從五位上石川朝臣眞永爲大宰少貳。辛丑。内匠頭正五位下葛井連道依爲兼右兵衛佐。丹波介從五位下廣川王爲兼内兵庫正。壬寅。令天下諸國修造溝池。癸夘。遣使覆検於天下諸國。戊午。復縣犬養宿祢内麻呂本位從五位下。辛酉。以春宮員外大進外從五位下河内連三立麻呂爲兼河内權介。外從五位下尾張連豊人爲山背權介。大監物從五位下礒部王爲兼參河守。從五位下笠朝臣名麻呂爲權介。」遣使於五畿内。修造陂池。並差三位已上。以爲検校。國一人。甲子。從五位下和氣宿祢清麻呂廣虫。賜姓朝臣。

九月三日に齋宮の(酒人)内親王が伊勢に向かっている。四日、「尾張連豊人」に外従五位下を授けている。また、安倍朝臣弟當(詳細こちら参照)を少納言、大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を兼務で中務卿、石川朝臣淨麻呂(清麻呂。眞守に併記)を少輔、高麗朝臣石麻呂を員外少輔、藤原朝臣長道を主税頭、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を左兵衛督はそのままで兵部卿、日置首若虫(日置毘登乙虫)を漆部正、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を宮内卿、大伴宿祢家持を左京大夫、藤原朝臣鷹取()を亮、弓削宿祢塩麻呂()を右京亮、伊勢朝臣子老を造宮少輔、丹比宿祢眞繼(嗣)を鑄錢次官、英保首代作を周防掾はそのままで修理次官、藤原朝臣菅繼を常陸介、左京大夫の大伴宿祢家持を兼務で上総守、巨勢朝臣馬主を能登守、大外記外の内藏忌寸全成(黒人に併記)を兼務で越後介、石川朝臣眞永を大宰少貳に任じている。

五日に内匠頭の葛井連道依(立足に併記)を兼務で右兵衛佐、丹波介の廣川王(廣河王。)を兼務で内兵庫正に任じている。六日に天下の諸國に命じて、池や溝を修理・築造させている。七日に使を遣わして、天下の諸國を繰り返し調べさせている。二十二日に縣犬養宿祢内麻呂(八重に併記)を本位の従五位下に復している。

二十五日に春宮員外大進の河内連三立麻呂を兼務で河内権介、「尾張連豊人」を山背權介、大監物の礒部王を兼務で參河守、笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を權介に任じている。この日、使を畿内五ヶ國に遣わして、堤や池を修理・築造させている。同時に國ごとに三位以上の官人を一人ずつ派遣して監督させている。二十八日に和氣宿祢清麻呂・廣虫に朝臣姓を賜っている。

<尾張連豊人>
● 尾張連豊人

「尾張連」は、書紀の天武天皇紀に定められた『八色之姓』で宿祢姓を賜っていて、その奔流以外の一族が未だに連姓のままとなっていたのであろう。

孝謙天皇紀に『壬申の乱』において、功があったにも拘らず、宿祢姓を賜る以前に亡くなっていた尾張連馬身及び子孫に宿祢姓を賜ったと記載されていた。

おそらく今回登場の人物は、「馬身」の周辺地域に住まっていたのではなかろうか。現地名の北九州市小倉南区長野(東町)辺りで名前が表す地形を求めてみよう。

既出の文字列である豊(豐)人=段々になった地の傍らに谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。直後に山背権介に任じられているが、この後に幾度か登場されて、内位の従五位下を授けられている。

冬十月己巳。散位從四位下國中連公麻呂卒。本是百濟國人也。其祖父徳率國骨富。近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。庚午。陸奥國遠山村者。地之險阻。夷俘所憑。歴代諸將。未甞進討。而按察使大伴宿祢駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。

十月三日に散位の國中連公麻呂(國君麻呂)が亡くなっている。元は百濟國の人であった。彼の祖父は徳率(百濟官位第四位)の國骨富である。近江朝(天智天皇)の癸亥(663)年に本國が滅びる戦乱にあって、帰化した。天平年間に聖武皇帝が広大な願いを起こして廬舎那仏の銅像を造ろうとした。その像の高さは五丈で、当時の鋳造の技術者には敢えてそれに挑む者はいなかったが、「公麻呂」は大変な技巧と思慮があり、ついにその仕事をやり遂げた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介に至った。天平字二(758)年、大和國葛下郡國中村に居住していたので、その地に因んで氏の名前とした。

四日に「陸奥國遠山村」は土地が険阻で、蝦夷が頼みとするところであった。そのため歴代の征夷の諸将も今まで進んで討とうとしなかった。しかしながら、按察使の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)等は、直接この地に進入して攻撃し、彼等の潜んでいる住居を顚覆し、ついには彼等を追い詰めて逃げらせ、降伏する者が相次いだ。そこで使を遣わして、勅を宣して慰労し、天皇の服や色とりどりの絹を賜っている。

<陸奥國遠山村>
陸奥國遠山村

陸奥鎮守将軍等の一貫性のない言上に業を煮やした天皇が檄を飛ばしたら、賊を退治したと記載されている。難攻不落かと思いきや、そうでもなかったようである。

その要塞のような山岳地帯の賊の地があったのが陸奥國の「遠山村」だと述べている。まだまだ陸奥國全てが平定されたわけではなく、帰順していない蝦夷がいたのである。

と言う訳で、「地之險阻」な地形の場所を求めることにする。遠山村に含まれている頻出の文字列の遠山=ゆったりと長く延びた山稜の先が[山]の文字形に岐れているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

現在は高速道路が通って大きく地形が変わっているが、この場所は山稜が谷間で区切られていたことが過去の地形図から確認できる(今昔マップ1922~6参照)。新田柵が造られていた新田郡と郡建てしたが、その谷奧に当たる山岳地帯となる。また、聖武天皇紀に設置されていた大室驛から谷奥へと進んだ場所である。

通説は、”登米郡”(廃藩置県で発足。續紀は未記載)と訓が類似する。”蝦夷”の言葉を漢語で表記したものと推測されているが、”蝦夷”を日本古来の人々とする解釈は、全くの誤りであろう。また、”遠い山の村”などと解釈されているようである。繰り返すようだが、記紀・續紀の「遠・近」を読み解くことが叶わず、学界も含めて、古代を浪漫化してしまっているのである。

十一月甲辰。幸坂合部内親王第。授從二位文室眞人大市正二位。四品坂合部内親王三品。乙巳。授大市妾无位錦部連針魚女外從五位下。陸奥國言。大宰。陸奥。同警不虞。飛驛之奏。當記時尅。而大宰既有漏尅。此國獨無其器者。遣使置之。

十一月九日に坂合部内親王の邸宅に行幸され、文室眞人大市(内親王の夫?)に正二位、「内親王」に三品を授けている。十日に「大市」の妾である「錦部連針魚女」に外従五位下を授けている。

この日、陸奥國が以下のように言上している・・・大宰府と陸奥國とは同じように思いがけない危機を警戒している。早馬の使の奏上文には、時刻を記すべきである。しかしながら大宰府には既に水時計があるのに、この國にはその道具がない・・・使を遣わして水時計を設置させている。

<錦部連針魚女-家守>
● 錦部連針魚女

無位から外従五位下に叙爵されて、目出度しであるが、「錦部連」の居処は、現在の行橋市にある幸ノ山の麓と推定した(こちら参照)。

ただ、その北麓と南麓に分かれていて、「針魚女」の出自場所がどちらにあたのか、名前が示す地形から求めることにする。

その名前に含まれる「針」の文字は、古事記では「針間(國)」で用いられいて、針間=針のような細長い谷間を表すと読み解いて来た。しかしながら、續紀で、この文字を名称に用いた例はなく、「針間國」は「播磨國」の文字に置換えられている(こちら参照)。

あらためて「針」の文字解釈を行うと、「針」=「金+十」と分解される。「十」=「寄せ集める・合わせる」のような意味を持つ要素であって、通常に用いられる「針」は布を合わせる動作を表している。地形象形的には「針」=「[金]を寄せ合わせる様」と読み解ける。纏めると針魚=[金]を寄せ合わせる[魚]のような形のところと解釈される。

「金」は「錦部」に含まれる「金」であり、「錦」の形の山が南北並んでいる地形から、図に示したような配置となり、出自の場所は、魚の尾鰭の辺りと推定される。「大市」には多くの子がいたと伝えられているが、その母親は不詳、「針魚女」の子に関する情報もないようである。ご本人も、この後續紀に登場されることもない。

後(桓武天皇紀)に外従五位下の錦部連家守が織部正を任じられている。叙位の記述は省略されているようである。家守=豚の口のような山稜の麓に肘を張ったような山稜に囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様にこの場限りの登場である。

十二月戊辰。復從五位下山邊眞人笠属籍。乙酉。右大臣正二位勳四等大中臣朝臣清麻呂上表重乞骸骨。優詔不許。丁亥。正三位圓方女王薨。平城朝左大臣從一位長屋王之女也。

十二月四日に山邊眞人笠(笠王)の(諸王としての)戸籍を復活させている。二十一日に右大臣・勲四等の大中臣朝臣清麻呂が上奏して、重ねて辞職を願っている。手厚い詔が下されて、許可されなかった。二十三日に圓方女王が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)の左大臣の長屋王の娘であった。