天宗高紹天皇:光仁天皇(12)
寶龜五年(西暦774年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
五年春正月辛丑朔。宴五位已上於内裏賜被。壬寅。尚藏從三位吉備朝臣由利薨。甲辰。授无位弓削女王從五位下。丁未。天皇臨軒。授正三位藤原朝臣良繼從二位。從五位下三關王。三方王並從五位上。正四位下藤原朝臣百川正四位上。正五位下巨勢朝臣公成。石川朝臣垣守。藤原朝臣雄依並正五位上。從五位上安倍朝臣三縣。石川朝臣豊人。多治比眞人木人。榎井朝臣子祖。大中臣朝臣子老並正五位下。從五位下石川朝臣眞永。小野朝臣石根。藤原朝臣種繼。佐伯宿祢久良麻呂並從五位上。正六位上紀朝臣本。多治比眞人黒麻呂。正六位下藤原朝臣黒麻呂。藤原朝臣眞葛並從五位下。事畢宴於五位已上。賜祿有差。戊申。授正四位下藤原朝臣楓麻呂正四位上。己酉。授從四位上藤原朝臣濱成正四位下。辛亥。勅。先令大臣身帶二位者著中紫。自今以後。宜爲例行之。」授正五位上置始女王從四位下。丙辰。宴五位已上於楊梅宮。饗出羽蝦夷俘囚於朝堂。叙位賜祿有差。庚申。詔停蝦夷俘囚入朝。乙丑。山背國言。去年十二月。於管内乙訓郡乙訓社。狼及鹿多。野狐一百許。毎夜吠鳴。七日乃止。
正月一日に五位以上の官人等を内裏に招いて宴会を催し、夜具を賜っている。二日に尚蔵(後宮の藏司長官)・従三位の吉備朝臣由利(眞備に併記)が亡くなっている。四日に無位の弓削女王(三原王の子。『仲麻呂の乱』に連座し、位階剥奪)に従五位下を授けている。
七日、宮殿の端近くに出御されて、藤原朝臣良繼(宿奈麻呂)に從二位、三關王(❸)・三方王(三形王)に從五位上、藤原朝臣百川(雄田麻呂)に正四位上、巨勢朝臣公成(君成)・石川朝臣垣守・藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)に正五位上、安倍朝臣三縣(御縣)・石川朝臣豊人・多治比眞人木人・榎井朝臣子祖(小祖父)・大中臣朝臣子老に正五位下、石川朝臣眞永・小野朝臣石根・藤原朝臣種繼(藥子に併記)・佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に從五位上、「紀朝臣本・多治比眞人黒麻呂・藤原朝臣黒麻呂・藤原朝臣眞葛」に從五位下を授けている。事が終わって五位以上の官人と宴を催し、それぞれ禄を賜っている。
八日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に正四位上を、九日に藤原朝臣濱成(濱足)に正四位下を授けている。十一日に次のように勅されている・・・先に、大臣で二位の位にある者は、中紫の衣を着用させたが、今後はこれを恒例とせよ・・・。置始女王に従四位下を授けている。
十六日に五位以上の官人と楊梅宮で宴会をしている。出羽の蝦夷と帰順した蝦夷を朝堂で饗応し、位を授け、それぞれに禄を賜っている。二十日、詔されて、蝦夷と帰順した蝦夷が朝貢することを止めさせている。
二十五日に山背國が以下のように言上している・・・去年の十二月に國内乙訓郡の「乙訓社」に狼や鹿が多く、野狐は百頭ほどおり、毎夜吠えたり鳴いたりしていたが、七日で止んだ・・・。
● 紀朝臣本
相変わらず、途絶えることなく「紀朝臣」一族の新人が登場している。当然ながら、系譜不詳であり、名前を頼りに出自場所を求めることになる。
名前が「本」の一文字と記載され、地形情報が、一層制限されることになる。「本」=「木+一」と分解され、根本を表す文字と知られているが、地形象形的には、本=根のように延びた山稜が途切れている様と解釈する。
これだけでは一に特定することが難しいのであるが、図に示した場所が、その地形を示しているように思われる。鯖麻呂の西側に当たる場所である。現地名では、多くの人物が豊前市大村であるが、その西隣の鳥越となっている。
この後も幾度か登場され、陰陽頭や地方官を任じられ、續紀では肥後守となっている。昇進はなく、従五位下のままだったようである。
少し後に紀朝臣白麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。白=丸く小高い様と解釈すると図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度か登場して昇位もあるが、事件に連座・復位(恩赦)の紆余曲折があったようである。
更に後(桓武天皇紀)に紀朝臣安提・紀朝臣永名が従五位下を叙爵されて登場する。安提=谷間で嫋やかに曲がる山稜の端が[匙]のような形をしているところ、永名=山稜の端の三角の地が長く延びているところと解釈される。図に示した場所が各々の出自と推定される。その後に京官・地方官としての任官が記載されている。
● 多治比眞人黒麻呂
上記の「紀朝臣」同様に、系譜不詳の新人が「多治比眞人」一族でも続いている。『奈良麻呂の乱』に連座した者が多く、その影響が大きいのではなかろうか。
それにしても「黒麻呂」の名前が好まれて使われていたようである。黒=谷間に炎のような山稜が延び出ている様は分り易い地形象形表記だったのであろう。
しかしながら、「多治比眞人」一族が棲息した地域で、その地形を見出すのは容易ではなく、それらしき場所は既に登場済みであった。
そこで、未だ未開拓の谷間を探索することにして、左大臣であった嶋近辺の国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所の地形が、現在のゴルフ場開発以前には、「黒」の地形であったことが解った。後に周防守に任じられているが、その後の消息は不明のようである。
少し後に多治比眞人人足が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の人足=人の足のように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所、「黒麻呂」の南側が出自と推定される。その後幾度か登場されて、正五位下に昇進されたようである。
● 藤原朝臣黒麻呂・藤原朝臣眞葛
既に登場の「黒麻呂」は、是公(南家、乙麻呂の子)と改名していて、同一名の別人である。系譜は、しっかりと伝わっていて、同じく南家の「巨勢麻呂」の子と知られている。
国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、父親の西側に「黒」の地形を見出せる。「乙麻呂」の東隣の場所である。後に従四位下となり、主に地方官(周防守など)を務められたとのことである。
「巨勢麻呂」は『仲麻呂の乱』に連座して斬殺されたと記載されていた。息子の「黒麻呂」にはお咎めはなかったようであるが、登用は遅れ気味だったのかもしれない。
「眞葛」も系譜が知られていて、同じく南家の「豊成」の孫、「繼繩」の子である、眞葛=取り囲まれた地が寄せ集められて窪んだところと解釈される。父親の西側の場所に、その地形を見出せる。辛うじて、と言うよりも、奇跡的に現存している航空写真で判別された、と思われる。後に従四位上・治部卿となったと伝えらている。
少し後に「黒麻呂」の弟である藤原朝臣長河・藤原朝臣弓主が従五位下を叙爵されて登場する。長河=長く延びた谷間の出口のところ、弓主=真っ直ぐに延びた山稜の端が弓のように曲がっているところと解釈すると、それぞれの出自は図に示した「黒麻呂」の南隣・西隣の場所と推定される。
後の桓武天皇紀に藤原朝臣眞作・藤原朝臣乙叡が従五位下を叙爵されて登場する。前者は「巨勢麻呂」、後者は「繼繩」の息子であったと知られている。眞作=ギザギザとした谷間が寄り集まって窪んだところ、乙叡=奥深い谷間が[乙]の形に曲がっているところと解釈される。図に示した辺りが各々の出自と推定される。
また、藤原朝臣清主が従五位下を叙爵されて登場する。「巨勢麻呂」の孫、續紀に登場しない瀧麻呂の子と知られているようである。瀧=氵+龍=水辺で龍の頭部のように山稜が岐れて延びている様と解釈すると、図に示した「巨勢麻呂」の東側が出自と推定される。
清主=真っ直ぐに延びた山稜の前で四角く区切られたところと解釈される。地図の解像度の限界を越えているようで、詳細な場所を特定することは叶わないが、おそらく図に示した辺りが出自だったのであろう。
続いて藤原朝臣今川(河)が従五位下を叙爵されて登場する。「巨勢麻呂」の子と知られている。今河=水辺の谷間の出入口を覆い被さるように山稜が延びているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。最終従四位上・左京大夫であったと伝えられている。
また、「乙繩」の子の藤原朝臣淨岡・藤原朝臣岡繼が従五位下を叙爵されて登場する。地形の確認が難しく、図に示した父親の近隣が出自であったと思われる。その後に京官・地方官を任じられたと記載されている。前者は一時官位剥奪されて復位したことが知られている。後者は最終従五位上まで昇進されたようである。
蛇足になるが、既に述べたように、一方の「式家」の様子は、既に宅地にされて、全く当時の地形を伺うことは叶わないようである。今昔マップの精度では地形の詳細は読み取れずの状況であり、目下のところ、これ以上の探索は不可と思われる。
山背國乙訓郡:乙訓社
文武天皇紀に山背國乙訓郡に火雷神が「毎旱祈雨。頻有徴驗」と記載されていた。おそらく、この神を祀る神社のことを乙訓社と読んでいたのであろう。
そんな訳で、一件落着の様相なのだが、狼云々の記述がどうも気にかかって来た。上記本文を再度引用すると・・・狼及鹿多。野狐一百許。毎夜吠鳴。七日乃止・・・。
①狼及鹿多:平らな頂でなだらかに延びる山稜(狼)や谷間に延びでた山稜(及)や鹿の角のように延びている山稜(鹿)の端(多)があるところ
②野狐一百許:野にある平らな頂の山稜が瓜のような形(狐)をして連なって(一)丸く小高くなっている(百)麓で耕地が杵を突くように延び広がっている(許)ところ
③毎夜吠鳴:母が子を抱くように延びた山稜(毎)に挟まれた谷間(夜)の口が平らに広がった(吠)先に鳥のような山稜(鳴)があるところ
④七日乃止:切り分けられた(七)炎のような山稜(日)がしなやかに延びた(乃)端で足を止めたような形になっている(止)ところ
なんと、「乙訓郡」の地形、そして「乙訓社」の場所を表していることが解る。先達の編者等に、おいら達にも万葉の世界は書けるぜ!、と言い放っているようである。ご苦労様であるが、これで神社を参拝することができる、かもしれない。
少々文字解釈を補足すると・・・頻出の文字以外で「狼」=「犬(平らな山稜)+良(なだらかな様)」、「及」=「人(谷間)+又(手のような山稜)」、「狐」=「犬(平らな山稜)+瓜(瓜のような形)」、「吠」=「口(谷間の出口)+犬(平らな山稜)」、「鳴」=「口(谷間の出口)+鳥(鳥のような山稜)」、「七」=「十(切り分ける様)」と解釈される。
長岡宮 後の桓武天皇紀に「山背國乙訓郡長岡村」へ遷都すると記載されている。その長岡宮は、長岡=谷間にある山稜が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所に設営されたと推定される。
二月壬申。一七日讀經於天下諸國。攘疫氣也。壬午。京師飢。賑給之。壬辰。因幡國八上郡員外少領從八位上國造寳頭賜姓因幡國造。癸巳。以大法師鏡忍。法師賢璟。並爲律師。丙申。授正七位上平群朝臣野守從五位下。己亥。尾張國飢。賑給之。
二月三日に天下の諸國に七日間、経を読ませている。疫病の力を払うためである。十三日に京師に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。二十三日に「因幡國八上郡」の員外少領である「國造寶頭」に因幡國造の氏姓を賜っている。
二十四日に大法師の「鏡忍」と法師の「賢璟」を律師に任じている。二十七日に「平群朝臣野守」に従五位下を授けている。三十日に尾張國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。
因幡國八上郡
光仁天皇紀に入って間もない時期に「高草郡」の記載があり、その地を出自とする「國造淨成女」に「因幡國造」の氏姓を賜っていた(こちら参照)。
今回登場の八上郡は、勿論、古事記の稻羽之八上比賣の名前に由来する地域であろう。八上=山稜が二つに岐れた谷間に盛り上がった地があるところと解釈される。「高草郡」の南隣一帯の場所である。
既に述べたことだが、現地名の宗像市上八の「上八」は、「八上」をひっくり返した表記である。由来は諸説あるようだが、おそらく大國主神を見限って引き返した来た「八上比賣」に基づくのではなかろうか。ともあれ、久々に古事記と續紀との一貫性を感じさせられる記述である。
● 國造寶頭 既出の文字である寶=宀+玉+缶+貝=山稜に挟まれた谷間に玉のような地と缶のような地がある様と解釈した。頭=人の頭部のような様と解釈すると、これらの地形が寄り集まっている場所が図に示したところに見出せる。因幡國造の氏姓を賜ったと記載されている。「國造淨成女」とは三年でお役交替だったようである。
● 鏡忍・賢璟
大法師・法師の二人を律師に任じたと記載されている。前者の鏡忍に関する情報は見つからないが、後者の賢璟については、俗姓が「荒田井」氏で尾張國の出身であったことが分かった。
既出のように僧侶の名前も、その出自場所の地形に基づいていると思われる。いつもながら、少々小難しい文字を並べているが・・・。
名前に用いられた最初の例であろう。「賢」=「臣+又+貝」と分解され、「賢」=「谷間の前にある手のような山稜に切れ目がある様」と解釈される。「璟」=「玉+日+京」と分解される。「璟」=「太陽のように丸く小高く広がっている様」と読み解ける。
纏めると賢璟=[賢」と「璟」の地形がくっ付いているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を満足する場所を見出せる。俗姓の荒田井=山稜が水辺で途切れる傍らに四角く平らに整えられた地があるところと解釈すると、「賢璟」の西側の谷間を表していることが解る。現地名は北九州市小倉南区津田辺りである。後に大僧都になったと記載されている。
● 平群朝臣野守 前出の家麻呂と同様に平群朝臣一族(その一派)の居処と推定される場所の地形変形が凄まじく(旧筑豊炭田)、出自場所の特定は叶わないようである。それらしきところかと思われる場所を参考(こちら)に示すに止める。
三月癸夘。讃岐國飢。賑給之。」但馬守從四位下安倍朝臣息道卒。是日。新羅國使礼府卿沙飡金三玄已下二百卅五人。到泊大宰府。遣河内守從五位上紀朝臣廣純。大外記外從五位下内藏忌寸全成等。問其來朝之由。三玄言曰。奉本國王教。請修舊好毎相聘問。并將國信物及在唐大使藤原河清書來朝。問曰。夫請修舊好毎相聘問。乃似亢礼之隣。非是供職之國。且改貢調稱爲國信。變古改常。其義如何。對曰。本國上宰金順貞之時。舟楫相尋。常脩職貢。今其孫邕。繼位執政。追尋家聲。係心供奉。是以。請修舊好毎相聘問。又三玄本非貢調之使。本國便因使次。聊進土毛。故不稱御調。敢陳便宜。自外不知。於是。勅問新羅入朝由使等曰。新羅元來稱臣貢調。古今所知。而不率舊章。妄作新意。調稱信物。朝爲修好。以昔准今。殊無礼數。宜給渡海料。早速放還。甲辰。以從五位下池田朝臣眞枚爲少納言。從五位上小野朝臣石根爲左中弁。中衛少將如故。從五位下紀朝臣勝雄爲左少弁。近江介如故。大納言從二位文室眞人大市爲兼中務卿。從五位下藤原朝臣是人爲圖書頭。從五位下阿倍朝臣爲奈麻呂爲助。正四位下春宮大夫左衛士督藤原朝臣是公爲兼式部大輔。從五位下石川朝臣人麻呂爲少輔。從五位上日置造蓑麻呂爲大學頭。東宮學士如故。從四位上藤原朝臣家依爲治部卿。從五位上石川朝臣名繼爲少輔。從五位下山邊眞人笠爲玄蕃頭。從五位下安倍朝臣弟當爲主税頭。從四位下紀朝臣廣庭爲兵部大輔。從五位下紀朝臣門守爲兵馬正。正四位下藤原朝臣濱成爲刑部卿。從五位下石川朝臣在麻呂爲少輔。從四位下石上朝臣息繼爲大藏卿。從五位上中臣朝臣常爲宮内大輔。從五位下大宅眞人眞木爲少輔。外從五位下船木直馬養爲園池正。從五位下大伴宿祢東人爲彈正弼。從四位下百濟王理伯爲右京大夫。從五位上笠朝臣道引爲亮。正五位下掃守王爲攝津大夫。從五位下大原真人清貞爲亮。正五位下葛井連道依爲勅旨少輔。從五位下健部朝臣人上爲員外少輔。伊豫介如故。從五位上文室眞人高嶋爲造宮大輔。外從五位下土師宿祢和麻呂爲大和介。從五位上紀朝臣廣純爲河内守。從五位下藤原朝臣鷲取爲伊勢守。從五位下紀朝臣古佐美爲介。從五位下石川朝臣豊麻呂爲尾張守。中衛員外中將從四位上伊勢朝臣老人爲兼遠江守。内膳正從五位下山邊王爲兼駿河守。從五位下安倍朝臣諸上爲介。外從五位下村國連子老爲伊豆守。從四位下大伴宿祢家持爲相摸守。刑部卿正四位下藤原朝臣濱成爲兼武藏守。從五位下布勢朝臣清直爲介。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲上総介。彈正尹從四位下藤原朝臣乙繩爲兼下総守。外從五位下秦忌寸伊波多氣爲飛騨守。從五位下石川朝臣望足爲信濃守。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲上野介。從五位下大中臣朝臣宿奈麻呂爲下野守。從五位上上毛野朝臣稻人爲陸奥介。從五位下百濟王武鏡爲出羽守。外從五位下下毛野朝臣根麻呂爲介。從五位下多治比眞人名負爲能登守。從五位下牟都伎王爲越中介。從五位下紀朝臣犬養爲越後介。右兵衛督從五位下藤原朝臣宅美爲兼丹波守。外從五位下日置造道形爲介。從五位下藤原朝臣刷雄爲但馬介。外從五位下六人部連廣道爲出雲介。從五位下文室眞人眞老爲石見守。右衛士督正五位上藤原朝臣雄依爲兼播磨守。右大舍人頭從四位下神王爲兼美作守。從五位下紀朝臣眞乙爲介。從五位上三方王爲備前守。外從五位下秦忌寸眞成爲介。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲備中守。從五位下廣川王爲備後守。陰陽頭從四位上大津連大浦爲兼安藝守。外從五位下安都宿祢眞足爲介。外從五位下上毛野公息麻呂爲周防守。從五位下大伴宿祢田麻呂爲土左守。從五位下多治比眞人公子爲肥前守。從五位下多治比眞人豊濱爲豊前守。外從五位下秦忌寸蓑守爲日向守。乙巳。以外從五位下長尾忌寸金村爲伊賀守。丙午。侍醫外從五位下清岡連廣嶋爲兼丹後介。」大和國飢。賑給之。戊申。賜諸國糶私稻者七人爵各一級。」叙越前國丹生郡雨夜神從五位下。」參河國飢。賑給之。甲寅。授无位文室眞人古能可美從五位下。丁巳。勅。比年。員外國司。其數寔繁。徒有煩擾之損。弥乖簡易之化。永言其弊。理合廢省。宜仰所司。歴任五年已上。一皆解却。其未秩滿者。毎滿五年。解任放上。不必待符。辛酉。能登國飢。賑給之。戊辰。以從五位下藤原朝臣刷雄爲但馬守。
三月四日に讃岐國に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。但馬守の安倍朝臣息道が亡くなっている。この日、新羅國使で礼府卿・沙飡の金三玄以下二百三十五人が大宰府に到り、停泊している。河内守の紀朝臣廣純、大外記の内藏忌寸全成(黒人に併記)等を遣わして、その来朝の理由を問わせている。三玄は[本國の王の命を奉じ、昔からの友好関係を引き継ぎ、常に相互に訪問し合いたいと願っている。また、わが國からの贈物と唐に滞在中の遣唐大使の藤原河清(清河)の書簡を持って来朝した]と述べている。
廣純等は[”昔からの友好関係を引き継ぎ、常に相互に訪問し合いたいと請い願っている”とは、対等の礼儀で付き合う隣國の関係に似ており、朝貢の礼をとる國の関係ではない。また、”貢調”を改めて”わが國からの贈物”と称して、古くからの慣例を変え、常に行っていた方法を改めている。何故、そのようにしたのか]と問うている。
三玄等は[本國の上宰の金順貞の時は、船と楫を連ねて常に貢物を納めていた。今、その孫の邕が位を継いで政を執るようになった。家の名誉を遡って尋ね、日本にお仕えしようと考えている。そこで、昔からの友好関係を引き継ぎ、常に相互の訪問し合いたいと請い願ったのである。また、三玄は元々は貢調の使ではない。本國が友好を結ぶための使のついでに、少々ながら土地の産物を進上している。だから御調とは言わない。以上、あえて使の旨を申し述べる。この他のことは存じない]と答えている。
そこで新羅入朝の由を問い質す使に次のように勅されている・・・新羅が元来臣と称し、調を貢上して来たことは、昔から今に至るまでよく知られている。それなのに昔の規約に従わず、勝手に新しい判断をして、調を贈物と称し、入朝を友好を結ぶことと言っている。昔のことを考えると、甚だしく礼の道理を無視している。帰りの渡海の費用を支給して、早く送り返せ・・・。
五日に池田朝臣眞枚(足繼に併記)を少納言、小野朝臣石根を中衛少將のままで左中弁、紀朝臣勝雄を近江介のままで左少弁、大納言の文室眞人大市を兼務で中務卿、藤原朝臣是人を圖書頭、阿倍朝臣爲奈麻呂(謂奈麻呂。詳細はこちら参照)を助、春宮大夫・左衛士督の藤原朝臣是公(黒麻呂)を兼務で式部大輔、石川朝臣人麻呂を少輔、日置造蓑麻呂(眞卯に併記)を東宮學士のままで大學頭、藤原朝臣家依を治部卿、石川朝臣名繼(眞守に併記)を少輔、山邊眞人笠(笠王)を玄蕃頭、安倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を主税頭、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を兵部大輔、紀朝臣門守を兵馬正、藤原朝臣濱成(濱足)を刑部卿、石川朝臣在麻呂を少輔、石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)を大藏卿、中臣朝臣常(宅守に併記)・を宮内大輔、大宅眞人眞木(國見眞人眞城)を少輔、船木直馬養を園池正、大伴宿祢東人を彈正弼、百濟王理伯(①-⓭)を右京大夫、笠朝臣道引(三助に併記)を亮、掃守王を攝津大夫、大原眞人清貞(都良麻呂)を亮、葛井連道依(立足に併記)を勅旨少輔、健部朝臣人上(建部公人上)を伊豫介のままで員外少輔、文室眞人高嶋(高嶋王)を造宮大輔、土師宿祢和麻呂(祖麻呂に併記)を大和介、紀朝臣廣純を河内守、藤原朝臣鷲取(❷)を伊勢守、紀朝臣古佐美を介、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を尾張守、中衛員外中將の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を兼務で遠江守、内膳正の山邊王(❽)を兼務で駿河守、安倍朝臣諸上(常嶋に併記)を介、村國連子老(子虫に併記)を伊豆守、大伴宿祢家持を相摸守、刑部卿の藤原朝臣濱成(濱足)を兼務で武藏守、布勢朝臣清直(清道)を介、藤原朝臣黒麻呂を上総介、彈正尹の藤原朝臣乙繩(繩麻呂に併記)を兼務で下総守、秦忌寸伊波多氣(伊波太氣)を飛騨守、石川朝臣望足を信濃守、賀茂朝臣人麻呂を上野介、大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)を下野守、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を陸奥介、百濟王武鏡(①-⓮)を出羽守、下毛野朝臣根麻呂(吉弥侯根麻呂。君子部眞鹽女に併記)を介、多治比眞人名負を能登守、牟都伎王(牟都支王)を越中介、紀朝臣犬養(馬主に併記)を越後介、右兵衛督の藤原朝臣宅美(乙刀自に併記)を兼務で丹波守、日置造道形(通形)を介、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を但馬介、六人部連廣道(鯖麻呂に併記)を出雲介、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を石見守、右衛士督の藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を兼務で播磨守、右大舍人頭の神王(❸)を兼務で美作守、紀朝臣眞乙を介、三方王(三形王)を備前守、秦忌寸眞成(首麻呂に併記)を介、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を備中守、廣川王(廣河王。❸)を備後守、陰陽頭の大津連大浦を兼務で安藝守、安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)を介、上毛野公息麻呂を周防守、大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)を土左守、多治比眞人公子(乙安に併記)を肥前守、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を豊前守、秦忌寸蓑守(秦勝古麻呂に併記)を日向守に任じている。
六日に長尾忌寸金村を伊賀守に任じている。七日に侍医の清岡連廣嶋(淨岡連)に丹後介を兼任させている。また、大和國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。九日に諸國で私稲を売った者七人に位階をそれぞれ一級ずつ賜っている。また、「越前國丹生郡」の「雨夜神」を従五位下に叙している。また、參河國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。
十五日に「文室眞人古能可美」に從五位下を授けている。十八日に次のように勅されている・・・近年、員外國司は人数がまことに繁くなり、いたずらに煩わしく乱れるという損失が生じ、簡易に世を治める道に益々背いている。永らくその弊害について考えていたが、道理としては廃し、あるいは減らすべきである。担当の役所に命じて、任じられてから五年以上になる者は、全て解任退職させよ。また、任期が満ちていない者は、満五年になるごとに解任して、すぐに帰京させよ。これついては太政官符を待つ必要はない・・・。
二十二日に能登國に飢饉が起こって物を恵み与えている。二十九日に藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を但馬守に任じている。
「越前國丹生郡」は、既に登場した角鹿郡・足羽郡・加賀郡・江沼郡に続く、初見の郡名である。広範囲の國ではあるが、その大半がこれらの郡に属する地となっているが、現地名の北九州市門司区柄杓田辺りが抜け落ちている。
この地が丹生=谷間の隙間から山稜が生え出ているところの地形を示しているのであろうか?・・・全くの杞憂であることが解る。「丹生」の「丹」は、「河内國丹比郡」に用いられている文字である(例えばこちら参照)。
さて、従五位下に叙位された雨夜神に含まれる既出の文字列である雨夜=山稜が雨が降るように延び落ちている地で二つの谷間が並んでいるところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。中央の山稜の端に鎮座していたのであろう。
後に同郡の小虫神・大虫神が登場し、「大虫神」にも同じく従五位下を叙爵している。小虫(蟲)=三角の頂から山稜が細かく岐れて延びているところ、大虫(蟲)=平らな頂から山稜が細かく岐れて延びているところと解釈すると、図に示した場所に鎮座していたと推定される。
かなり明確な系譜かと思われるのだが、「波多麻呂・子老」以外は明らかになっていないようである。今回の人物も同じく不詳であり、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。
古事記風の名称であり、そのまま読み下すと、古能可美=丸く小高くなった地の隅で谷間の口が広がっているところとなる。長皇子の子、河内王の谷間の出口辺りの地形を表していると思われる。この王の後裔は續紀に登場せず、この近辺を出自とする初めての人物であり、この後續紀に、この名前が記載されることはないようである。