寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(7)
天平勝寶六年(西暦754年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
六年春正月丁酉朔。上野國獻白烏。」宴五位已上於内裏。賜祿有差。辛丑。行幸東大寺。燃燈二萬。勅曰。初元啓暦。獻歳登春。天地行仁。動植霑惠。古昔。明主應此良辰。必布時和。廣施慈命。朕雖薄徳。何不由茲。可大赦天下。其八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不原者。不在赦例。但入死者皆減一等。癸夘。天皇御東院宴五位已上。有勅。召正五位下多治眞人家主。從五位下大伴宿祢麻呂二人於御前。特賜四位當色。令在四位之列。即授從四位下。壬子。天皇御大安殿。詔授從四位上藤原朝臣永手從三位。從四位下池田王從四位上。從四位上橘朝臣奈良麻呂正四位下。從四位下石川朝臣麻呂。藤原朝臣八束並從四位上。正五位上藤原朝臣巨勢麻呂從四位下。從五位上高丘連河内正五位下。從五位下多治比眞人犢養。小治田朝臣諸人。波多朝臣足人。大藏忌寸廣足。土師宿祢牛勝。上毛野君難波並從五位上。正六位上佐伯宿祢大成。小野朝臣竹良。石川朝臣豊成。粟出朝臣人成。藤原朝臣武良士。後部王吉並從五位下。正六位上林連久麻。物部山背。中臣酒人宿祢虫麻呂。高福子。日置造眞夘。黄文連水分。大藏忌寸麻呂並外從五位下。」位下。」入唐副使從四位上大伴宿祢古麻呂來歸。唐僧鑒眞。法進等八人隨而歸朝。癸丑。大宰府奏。入唐副使從四位上吉備朝臣眞備船。以去年十二月七日。來着益久嶋。自是之後。自益久嶋進發。漂蕩着紀伊國牟漏埼。丙寅。副使大伴宿祢古麻呂自唐國至。古麻呂奏曰。大唐天寳十二載。歳在癸巳正月朔癸夘。百官諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我次西畔第二吐蕃下。以新羅使次東畔第一大食國上。古麻呂論曰。自古至今。新羅之朝貢大日本國久矣。而今列東畔上。我反在其下。義不合得。時將軍呉懷實見知古麻呂不肯色。即引新羅使。次西畔第二吐蕃下。以日本使次東畔第一大食國上。
正月一日に上野國が「白烏」を献上している。この日、五位以上の官人と内裏で宴を催し、それぞれに禄を賜っている。五日に東大寺に行幸されて、二万の燈に火を灯させている。この日、次のように勅されている・・・年が改まって新しい暦が施行され、新年は春に始まる。天と地は慈愛をもたらし、動植物はその恩恵に潤う。昔、明王は、この良き時節に応じて必ず世の中をやわらげ、広く恵みある政令を施している。朕は德が薄いと言え、どうして明王の政治の仕方に倣わずにおれようか。そこで天下に大赦を行うことにする。八虐や故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦の場合に許されない者は赦の範囲に入れない。但し死罪にあたる者は、すべて罪を一等減ぜよ。
七日に東院に出御されて、五位以上の官人と宴会を催している。この時に勅があり、多治比眞人家主と大伴宿祢麻呂(兄麻呂に併記)の二人を御前に召して、特に四位相当の礼服を賜って四位の列に加え、直ちに従四位下を授けている。
十六日に大安殿に出御され、詔して次のように位階を授けている。藤原朝臣永手に從三位、池田王に從四位上、橘朝臣奈良麻呂(橘宿祢)に正四位下、石川朝臣麻呂(君子に併記)・藤原朝臣八束(眞楯)に從四位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に從四位下、高丘連河内に正五位下、多治比眞人犢養(家主に併記)・小治田朝臣諸人(當麻に併記)・波多朝臣足人(孫足)・大藏忌寸廣足(老・伎國足に併記)・土師宿祢牛勝・上毛野君難波(田邊史、史部虫麻呂に併記)に從五位上、佐伯宿祢大成(濱足に併記)・小野朝臣竹良(小贄に併記)・石川朝臣豊成(人成に併記)・粟田朝臣人成(馬養に併記)・藤原朝臣武良士(武良自。豊成の子)・後部王吉(高麗系渡来人)に從五位下、「林連久麻」・「物部山背」・「中臣酒人宿祢虫麻呂」・「高福子」・「日置造眞夘」・黄文連水分(許志に併記)・大藏忌寸麻呂に外從五位下を授けている。
この日、遣唐副使の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)が帰国(第二船)している。唐僧の鑒(鑑)眞と法進等八人が随行して来朝している。
十七日に大宰府が以下のように奏している・・・遣唐副使の吉備朝臣眞備の(第三)船が去年十二月七日に「益久嶋」に来着した。その後、「益久嶋」より出発したが、漂流して彷徨い紀伊國の「牟漏埼」に着いた・・・。
三十日に遣唐副使の大伴宿祢古麻呂は、唐国より平城宮に至り、次のように奏している・・・大唐の天寶十二年(天平勝寶五[753]年)、歳星(木星)が癸巳にある年の正月一日癸卯に、唐の百官人と唐に朝貢する諸外国の使節は朝賀を行った。天子(玄宗皇帝)は、蓬莱宮の含元殿において朝賀を受けた。この日、朝賀における「古麻呂」の席次を、西側に並ぶ組の第二番目の吐蕃(チベット)の下に置き、新羅の使の席次を、東側の組の第一番の大食国(アラビア)の上に置きました。そこで「古麻呂」は次のように意見を述べた。[昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢している。ところが今、新羅は東の組の第一の上座に連なり、我が日本は逆にそれより下位に置かれている。これは義に叶わないことである。]その時、唐の将軍呉懐実は、「古麻呂」がこの席次に従わない様子を見てとって、直ちに新羅の使を導いて西の組の第二番の吐蕃の下座につけ、日本の使を東の組の第一の大食国の上座につけた・・・。
上野國:白烏
上野國は、元明天皇紀に金青(紺青)、また元正天皇紀に赤烏の献上記事があった。勿論、「赤い烏」の瑞祥ではなく、「赤烏」が示す地を開拓し、公地として献上したのである。
今回は、「白い烏」ではなく、頻出の名称である白烏=[烏]のような山稜がくっ付いているところと解釈する。上野國に延びる山稜が描く模様を表現したのである。
この地の地形を長らく眺めていると、いつご登場かと思うくらいに、明瞭に判別される場所である。現在は高速道路が走って、麓の地形が若干変化しているが、図に示した山稜の端の地形を表していると思われる。
前回の赤烏も含めて、急傾斜の谷間及びその麓を弛まず開拓して来たのであろう。記紀・續紀、おそらくその他の史書は、日本の開拓の歴史を物語っていることが解る。実に貴重な資料であるが、全く読み解けていないのが現状である。
<林連久麻> |
● 林連久麻
「林連」は、記紀に登場することもなく、續紀でも初見の氏姓である。関連する情報を求めると、どうやら河内國志紀郡に関わる一族であったようである。
聖武天皇紀には、井上忌寸麻呂が登場している。この人物の素性も不詳なのであるが、やはり志紀郡に出自を持つ人物だったようである。これ等の人物名が表す地形から求めた場所は、志紀郡の海辺であった。そんな背景で、もう少し内陸部を探索することにした。
林連の林=木+木=山稜が小高くなって並んでいる様と解釈した。蘇我入鹿大臣の別称の林臣や林王に用いられていた。名前の久麻の「麻」の解釈には幾通りかあるが、ここでは「麻」=「迫っている様」と読むと、久麻=[く]の形の山稜が迫っているところと読み解ける。これらの地形要素を図に示した場所に見出すことができる。尚、林連一族がこの後引続き登場するようだが、追記はその時に行うことにする。
● 物部山背
「物部」一族は、実に多彩である。所謂「大連」が付いた一族については、既に「伊莒弗」からの系列を読み解いた(こちら参照)。
その系列から「麻呂」が現れ、「石上朝臣」の氏姓を賜っている。右図にその概略を示したが、殆ど関連する記述を行っていないが、麁鹿火も「伊莒弗」の後裔に当たる。
また、書紀の持統天皇紀に物部藥、元明天皇紀に物部乱、元正天皇紀に物部國依、聖武天皇紀に物部用善が登場していた。しかし彼等には、それぞれの出自の國・郡名が記載されていて、物部一族が蔓延ったのではなく、その地の物部の地形に由来する名称であると結論付けた。
今回の人物には、何ら修飾がない。ならば、本家の物部の地ではあるが、多くの人材が輩出した場所以外を出自とするのではなかろうか。すると、上記の面々より更に谷間の奥に広がったところが見出せる。山背=貫山が背後にあるところと解釈される。更に、山背國に類似して多くの”杙のような山稜が延びている地形”である。
後にもう一度登場されるようだが、出自に関する情報は皆無である。しばらくは、この場所が本貫として、先に進んで行こう。そうこうしているうちに、後の称徳天皇紀に物部孫足が私財を献じて外従五位下を叙爵される。「山背」と同じく関連情報は皆無であり、「孫足」が表す地形をこの地に求めることにした。
孫足=生え出た山稜が繋がった端が足のように二つに岐れて延びているところと解釈すると、それらしき場所が見出せる。塔ヶ峰の北麓に当たる場所がこの人物の出自と推定される。
<中臣酒人宿禰虫麻呂> |
● 中臣酒人宿祢虫麻呂
「中臣酒人連」は、書紀の天武天皇紀に『八色之姓』で宿祢姓を賜っている。「中臣連」には朝臣姓であり、明らかに同祖なのだが、区別された賜姓であった。
また、他の「複姓」は、連姓であり、当初より異なっていることも分かる。中臣の奔流なのだが、少々互いに意識し合った仲だったのかもしれない。朝臣姓が隆盛を誇った蔭の存在だったのであろう。
具体的な人物名として初見である。酒人=水辺で山稜を並べて束ねた地が谷間にあるところと解釈した。勿論、既に見出した場所であるが、虫麻呂の頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに岐れている様であり、その地形を「酒人」の地で確認することができる。前記で述べたように孝謙天皇は、埋もれた人材登用を盛んに行っているようである。
● 高福子
聖武天皇紀に「高正勝・高益信」が、それぞれ「三笠連・男捄連」を賜ったと記載されていた。高麗系渡来人の系列と推測されているが、詳細は不詳のようである。
前記で賜った「三笠連」が貴重な情報を提供してくれた、として彼等の出自を古事記の「玖賀耳之御笠」の地と推定した(こちら参照)。
若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、日子坐王が旦波征圧した時の相手方名前であった。手強い相手だったのであろう。高麗系渡来人として符合する物語である。その後、記紀・續紀にこの地に関わる人物が登場することは見られない。
高福子の福子=酒樽のような高台が生え出たところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。長い年月を経て、叙爵を受ける状況に至ったのであろうが、上記の二つの連姓には属さず「高」の名称のままのである。
● 日置造眞卯
「日置」については、聖武天皇紀に登場した日置女王の出自場所の地形の表記と解釈した。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大山守命が祖となった弊岐君の地であり、日置(ヘキ)と呼称される所以と推察した。即ち、「弊岐」の地形の別表記が「日置」である。
記紀・續紀を通じて、具体的な氏姓を持つ人物としては初見となろう。父親が「羽咋」であったことが知られており、併せて出自場所を求めてみよう。
眞卯の「卯」は、おそらく人名に用いられたのは初めてであろう。ただ、頻出である「留(卯+田)」の文字要素であることから地形的には、既に読み解いたことになる。「卯」=「隙間を押し開く様」であり、「田」=「平らな区切られた様」の地形ではないことを表している。
纏めると眞卯=隙間を押し開いた地が寄せ集められた窪んだところと読み解ける。若干地形が変形しているが、出自の場所を見出すことができる。父親の羽咋は、幾度か登場した名称であり、羽咋=羽の先のようにギザギザとしているところと解釈した。「眞卯」の東側の地形を表していることが解る。埋もれた人材登用の連発である。
後(淳仁天皇紀)に日置造蓑麻呂(外従五位下)が丹波介に任じられている。調べると「眞卯」の子であったと知られていることが分かった。蓑=雨具の蓑のように垂れ下がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。十数年後に栄井宿祢の氏姓を賜っているが、「栄」の旧字体は「榮」である。「日置」の地形をものの見事に表現していることが解る。詳細は後日に・・・。
二月己夘。正六位上百濟王理伯授從五位下。丙戌。勅大宰府曰。去天平七年。故大貳從四位下小野朝臣老遣高橋連牛養於南嶋。樹牌。而其牌經年今既朽壞。宜依舊修樹。毎牌顯著嶋名并泊船處。有水處。及去就國行程。遥見嶋名。令漂著之船知所歸向。
二月十三日、百濟王理伯(①-⓭:敬福❽の子)に従五位下を授けている。二十日に大宰府に対して次のように勅されている・・・去る天平七(735)年、故大宰大貮の小野朝臣老(馬養に併記)は、「高橋連牛養」を「南嶋」に遣わし、嶋ごとに立札を建てさせた。しかしその立札は、年を経たため今では既に朽ち果てて壊れてしまった。そこで元のように修理して建て、どの立札にもはっきりと嶋の名、船の停泊場所、水のある所、及び行き来する國までの道のり、遠くに見える嶋の名を書きつけ、漂着する船に帰り着くべき所を知らせるようにせよ・・・。
● 高橋連牛養
上記にあるように大宰府の指示で「南嶋」に赴いた人物である。勿論、高橋朝臣(膳臣)とは無関係であり、出自の場所は不詳となろう。
現在でも用いられている氏名であり、遡ると様々な由来があるようである。その中で筑後國を本貫とする一族があったと伝えられている。
「南嶋」での作業を命じるには、実に適切な位置にある國と思われる。そもそも、「南嶋」は、筑(前・後)の南方にある嶋と解釈した(こちら参照)。
そんな背景でこの人物の出自を求めることにする。前記で筑後國山門郡の許勢部形見が登場していた。白村江での戦闘捕虜となって四十年も囚われの身であったが、何とか帰国を果たしたと記載されていた。その「形見」の谷間で延びる山稜が注目される。
頻出の高橋=山稜の端がしなやかに曲がっている地(橋)が皺が寄ったようになっている(高)ところと解釈すると、正にその山稜の形を表していることが解る。その先端部は大きく変形し、国土地理院航空写真1961~9年を参考にすると、これも頻出の牛養=牛の頭部のような山稜の谷間がなだらかに延びているところと読むと、図に示した場所が求められる。
通説に従えば、薩摩國か日向國の住人が適切であろう。それを敢えて、記載しなかった續紀、編者の忖度が伺える記事である。「高橋」氏の発祥の地に、これら二國は見当たらないのである。
三月丙午。遣使奉唐國信物於山科陵。癸丑。大宰府言。遣使尋訪入唐第一船。其消息云。第一船擧帆指奄美嶋發去。未知其着處。
三月十日に使を遣わして唐国からの贈物を山科(天智天皇)陵に奉らせている。十七日に大宰府が次のように言上している・・・使を遣わして遣唐の「第一船」(遣唐大使、藤原朝臣清河が乗船)の様子を尋ね問わせたところ、その回答では「第一船」は帆を挙げて奄美嶋(阿麻彌)を指して出発したが、その到着場所はまだ不明である、とのことである・・・。次月の報告で「第四船」の消息が明かされるので、纏めて考察する。
夏四月庚午。以從五位上中臣朝臣清麻呂爲神祇大副。從五位下秋篠王。粟田朝臣人成並爲少納言。從四位上大伴宿祢古麻呂爲左大弁。從五位下石川朝臣豊成爲右少弁。外從五位下日置造眞夘爲紫微中臺少忠。從五位下當麻眞人子老爲雅樂頭。從五位上石川朝臣名人爲民部大輔。從五位下石川朝臣豊人爲主税頭。從五位上大伴宿祢家持爲兵部少輔。從四位上紀朝臣飯麻呂爲大藏卿。正五位下中臣朝臣益人爲造宮少輔。從五位下藤原朝臣武良志爲左京亮。外從五位下文忌寸上麻呂爲右京亮。從三位文室眞人珍努爲攝津大夫。從五位下百濟王理伯爲亮。從五位下多治比眞人土作爲尾張守。正五位下大伴宿祢稻君爲上総守。從四位上吉備朝臣眞備爲大宰大貳。從五位下小野朝臣田守爲少貳。外從五位下黄文連水分爲肥前守。壬申。入唐廻使從四位上大伴宿祢古麻呂。吉備朝臣眞備並授正四位下。判官正六位上大伴宿祢御笠。巨萬朝臣大山並從五位下。自餘使下二百廿二人亦各有差。癸未。大宰府言。入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主等來泊薩摩國石籬浦。
四月五日に中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を神祇大副、秋篠王・粟田朝臣人成(馬養に併記)を少納言、大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を左大弁、石川朝臣豊成(人成に併記)を右少弁、日置造眞夘を紫微中臺少忠、當麻眞人子老を雅樂頭、石川朝臣名人(枚夫に併記)を民部大輔、石川朝臣豊人を主税頭、大伴宿祢家持を兵部少輔、紀朝臣飯麻呂を大藏卿、中臣朝臣益人を造宮少輔、藤原朝臣武良志(武良自)を左京亮、文忌寸上麻呂(黒麻呂に併記)を右京亮、文室眞人珍努(智努王、臣籍降下)を攝津大夫、百濟王理伯(①-⓭)を亮、多治比眞人土作(家主に併記)を尾張守、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)を上総守、吉備朝臣眞備を大宰大貳、小野朝臣田守(綱手に併記)を少貳、黄文連水分(許志に併記)を肥前守に任じている。
七日に入唐廻使(無事に帰国した遣唐使)である大伴宿祢古麻呂(三中に併記)・吉備朝臣眞備に正四位下、判官の大伴宿祢御笠(御助。兄麻呂に併記)・巨萬朝臣大山(背奈大山)に從五位下を、その他の使の下の二百二十二人にもそれぞれ位階を授けている。
十八日に大宰府が以下のように言上している・・・入唐「第四船」に乗船している判官の布勢朝臣人主(首名に併記)等が「薩摩國石籬浦」に来着し停泊している・・・。
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ここで、あらためて遣唐使が乗船した四船の帰途の様子を纏めてみよう。大宰府の言上に従うと・・・、
1/16 第二船 帰国、唐僧鑒眞(鑑真)等随行→1/30帰朝報告。
1/17 第三船 前年12/7益久嶋→漂流→紀伊國牟漏埼(→帰朝)。
2/20 勅 南嶋の標識整備。
3/17 第一船 奄美嶋を目指すが未だ到着せず。
4/18 第四船 薩摩國石籬浦に停泊(→帰朝)。
「第四船」については、二十余年後の寶龜六(775)年四月に「授川部酒麻呂外從五位下。酒麻呂肥前國松浦郡人也。勝寳四年。爲入唐使第四船柁師。歸日海中順風盛扇。忽於船尾失火。其炎覆艫而飛。人皆惶遽不知爲計。時酒麻呂廻柁。火乃傍出。手雖燒爛。把柁不動。因遂撲滅。以存人物。以功授十階。補當郡員外主帳。至是授五位」と記載されている。
また「第一船」については、更に数年後の寶龜十(779)年二月に「贈故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位。副使從五位上小野朝臣石根從四位下。清河贈太政大臣房前之第四子也。勝寳五年。爲大使入唐。廻日遭逆風漂著唐國南邊驩州。時遇土人。及合船被害。清河僅以身免。遂留唐國。不得歸朝。於後十餘年。薨於唐國」と記載されている。
登場する地名について述べると、益久嶋は初見である。通説では「ヤクシマ」と読んで夜久(掖玖)と解釈されているようだが、表す地形が全く異なる文字である。そう読めるように仕向けられた表記であろう。紀伊國牟漏埼も初見であるが、紀伊國にある岬として後にその場所を示す。
南嶋及び奄美嶋は既出の通り(こちら参照)、通説では「益久嶋」も含めて薩南諸島に当てるが、前記したように全くの誤りであって、現在の博多湾に面する地と推定した。最後の薩摩國石籬浦については、後に述べる。
<遣唐四船・益久嶋> |
遣唐使船の帰途は、中国大陸から朝鮮半島西南端と済州島との間を抜けて壱岐島に至る行程を採ったと思われる。隋書俀國伝に記載された航路であり、書紀の孝徳天皇紀に記載された薩麻之曲・竹嶋之間合を通る行程(こちらは往路だが)と思われる。
順風満帆で帰着した「第二船」は、壱岐嶋から氣多之前(現在の鍾ノ岬)を回って日向國に入ったと思われる。これも隋書俀國伝で読み解いた内海航路である。古遠賀湾・洞海(湾)を抜ければ、筑紫大宰府に届く。1/16に随行者を引き連れて”帰朝”し、唐での報告は1/30に行った、と記載している。”帰朝”したのは大宰府であるから、それから二週間で平城宮で奏していることになる。
翌1/17に大宰府が「第三船」の消息を奏するのであるが、益久嶋を経て、紀伊國牟漏埼に辿り着いている、と述べている。勿論、大宰府は、何らかの手段で情報を得たから報告したのである。即ち、通説の薩南諸島から紀伊國(現在の和歌山県)の配置では、人が情報を運ぶ時代には、全くあり得ない状況である。
<紀伊國牟漏埼> |
その地形は、現在の福津市の西側の海に浮かぶ相島を表していることが解る。「第三船」は、おそらく同じような時期に壱岐嶋を出発したのだが、何らかのトラブル(操舵ミスも含めて)で予定航路を外れて相島に緊急停泊したのであろう。
その後、「第二船」と同様な航路に復帰して大宰府に到着し、更に進んで、難波津に向かったのだが、難所である駿河國が面する海、古事記の倭建命に登場する走水海で遭難しかかり、紀伊國牟漏埼に緊急着岸した、と記載しているのである。
頻出の牟=ム+牛=谷間に挟まれた山稜が延び出ている様、漏=水辺で漏れ出たような山稜がある様であり、その地形を図に示した場所に見出せ、その地を「牟漏埼」と読んでいたのであろう。大宰府との距離は、およそ10kmと見積もれる。早期に情報が伝わる配置と思われる。頃合いを見計らって、もうすぐの難波津に向かったのではなかろうか。
一ヶ月余りが過ぎた2/20に南嶋の標識整備の勅が発せられている。現在の玄界灘、また冬の時期に彷徨うと予定進路から南側に外れることが「第二船」からの報告にあったのかもしれない。すると現在の博多湾、即ち南嶋に漂着する可能性が高いと考えたと推測される。この巨大な湾に迷い込むと、出口が見出せないようである。
更に一ヶ月弱後の3/17に、大宰府が「第一船」は、その消息が不明と伝えている。多分、「第一船」は壱岐嶋への到着が遅れ、時は既に厳冬期に入り、波穏やかな博多湾に向かって、奄美嶋で停泊し、暫く海の状態を確認することにした、ひょっとすると、春まで過ごそうかと考えたのかもしれない。
ところが、上記したように二十数年後の寶龜十(779)年二月の記事で、「第一船」は唐國を離れて帰る日に遭難し、その國の南辺に漂着したと記載されている。壱岐嶋には届いていないのである。即ち、”奄美嶋を目指す”の情報は、「第四船」だったのではなかろうか。大宰府が人を遣わして消息を求められたのは、壱岐嶋及び南嶋辺りであり、また「第一船」と「第四船」の区別を現地の人には不可であったと推測される。
<薩摩國石籬浦> |
「第四船」は、更に一ヶ月後の4/18に、その消息が判明した。薩摩國石籬浦に停泊中と報告している。「第二船」が大宰府に到着してから三ヶ月後のことである。
その理由は?…上記したように二十余年後の寶龜六(775)年四月の記事で明かにされている。「船尾失火」より、通常航行が難しい中で、「第二・三船」より大幅に遅れて、漸く辿り着いた「石籬浦」で修理を行っていたのであろう。
石籬浦の「籬」=「竹+離」と分解される。「離」=「岐れてくっ付いている様」であり、「籬」=「二つの山稜が岐れてくっ付いているところ」と解釈される。
纏めると石籬浦=麓の小高い二つの山稜が岐れてくっ付いている地にある水辺で広がったところと読み解ける。図に示した薩摩國の東北端にある場所を表していることが解る。図では現在の標高およそ10m辺りが当時の海岸線であったと推測した。現在の福岡市博多区の大半は海面下であったと思われる。
「第四船」は、遅ればせながら、予定の航路を進み帰朝できたとのことである。因みに柁師の肥前國松浦郡の「川部酒麻呂」は、こちら(図中+)が居処だったと推定した。それにしても二十年過ぎての叙爵・褒賞とは・・・。
通説に言及しても致し方ないが、續紀の記述は、通常に比定された場所だと、時空に齟齬が感じられる。そのように参考にしている資料も注記している。記紀の解釈と同じく、そんな齟齬は、注記で済ませるのである。
些か余談ぽいが、續紀には登場しないが、遣唐船は唐國を出港した後「阿古奈波嶋」(通説は沖縄)に向かったと伝えられている。奈波⇄縄(ナハ)が根拠のようであるが、阿古(アコ)は何処に?…阿古奈波こそ、済州島の地形をものの見事に表現しているのである。
阿古=台地が丸く小高くなっているところ(漢拏山を中心とする火山島)、奈波=山稜が高台となって端にあるところ(裾野に無数に存在する火砕丘)から成る島である。「耽羅」の別表記として納得であろう。済州島の地形については、こちら参照。
また「阿児奈波」とも表記されている。「児(兒)」は『説文解字』で「小児の頭囟トウシン未合に象る」とされている。この文字の上部は「臼」と類似し、「囟」と同じく泉門を表す文字と認識されている。地形象形として表現すると、「臼」の形と見做して、児(兒)=頭部が窪んだ様となろう。”火口のある”漢拏山を示していることが解る(こちら参照)。
「阿古(児)奈波嶋」を沖縄とすることによって屋久島や奄美大島への海上無寄港航路の長さが低減され(唐國の東海岸沿いに南下後に渡海)、遣唐使南島ルートの存在の根拠となっている。上記で述べたように史書等に記載された嶋の比定の根拠は、極めて希薄である。またもや、日本の古代史学の杜撰さに遭遇する羽目になったようである。
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