2022年6月26日日曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(6) 〔593〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(6)


天平勝寶五年(西暦753年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月癸夘朔。廢朝。天皇御中務南院。宴五位已上。賜祿各有差。丁未。伊勢大神宮神主外從五位下神主首名授外從五位上。」内人。物忌男卌五人。女十六人。授位各有差。庚午。從四位上平群朝臣廣成卒。

正月一日、朝賀を廃している。中務省の南院に出御されて、五位以上の官人等と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。五日に伊勢大神宮の神主の神主首名に外從五位上を授け、物忌の男四十五人・女人十六人には、それぞれ位階を授けている。二十八日に平群朝臣廣成が亡くなっている。

二月辛巳。以從五位下小野朝臣田守爲遣新羅大使。辛夘。正六位上小田臣枚床授外從五位下。甲午。齋宮大神司正七位下津嶋朝臣小松授從五位下。

二月九日に小野朝臣田守(綱手に併記)を遣新羅大使に任じている。十九日に「小田臣枚床」に外從五位下を授けている。二十二日に齋宮大神司の「津嶋朝臣小松」に從五位下を授けている。

<小田臣枚床>
● 小田臣枚床

「小田臣」は、黄金を産出した陸奥國小田郡の郡領、小田臣根成の氏姓と記載されていた。この地の地形は、「天平感寶」の年号の由来でもあり、多くの情報が凝集した図になっているので、改めて登場した人物名のみを纏めて示した。

外従五位下の叙爵は、黄金に関係するようでもあるが、むしろ前記の遠田君小捄・金夜と同様に”蝦夷対策”だったのではなかろうか。

既出の文字列である枚床=山稜の端が岐れた先に四角く区切られた地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。当時は、その高台の東側は海面下にあり、入江になっていたと推測される。かつての丹取郡の名称の由来と推測した地である。

「遠田君」の二人と合わせて、谷間に南北に並んでいることが解る。蝦夷の挙動を一早く知る役目を仰せつかったのであろう。黄金の産地を守ることも含めて、彼等三人への期待が込められた叙位だったと推測される。

<津嶋朝臣小松>
● 津嶋朝臣小松

「津嶋朝臣」は、元明天皇紀に堅石眞鎌共に従五位下を叙爵されて登場していた。その後、聖武天皇紀に家道(初見で外従五位下だが後に従五位下)、家虫・雄子(従五位下)が登場する。「家道」のみに初見で”外”を付いているが、不明である。

小松は從五位下で登場し、齋宮に関わっている。伝えられているように「中臣朝臣」と同祖であったことが伺える。いずれにせよ、使者派遣を命じたりして、新羅の挙動に関する情報収集と防御策を目論んだ叙位だったのではなかろうか。

既出の文字列である小松=二つの山稜が開いて延びる(松)前に三角の谷間(小)があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。現地名は、対馬市厳原町西里・今屋敷の境である。「津嶋朝臣」の中心地が厳原町西谷から移っているようである。

三月庚午。於東大寺。設百高座講仁王經。是日飄風起。説經不竟。於後。以四月九日。講説。飄風亦發。辛未。大納言從二位兼神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈氐麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫。淡海朝中納言大紫比登之子也。

三月二十九日に東大寺に百の高座を設けて、仁王経を講じさせている。しかし、この日につむじ風が起こって講義は途中までしか終わらなかった。その後四月九日に講じさせたが、またつむじ風が起こっている。三十日に大納言・神祇伯・造営卿を兼ねる巨勢朝臣奈氐麻呂が亡くなっている。小治田朝廷(推古天皇)の小徳の大海の孫、「淡海朝廷」(天智天皇)の中納言・大紫の比等(人、毘登。紫檀の兄)の子であった。

淡海朝廷の「淡海」は、書紀の記述では近江大津であり、通常、”近江國の大津”と読まれている。本著は、この「近江」は「淡海」を機械的に置き換えた結果と断定した。即ち、”淡海の大津”と解釈した。續紀が、正にその解釈を支持する記述を行っていることが確認された。より正確には、”近淡海の大津”である。續紀も、些か忖度して曖昧さを残した、のであろう。

幾度か述べたように、續紀は古事記の表現に限りなく近い。そして、まぼろしの『日本紀』は、日本書紀ではない、と推察した。書紀の表現に惑わされたままでは、續紀の解読には違和感が生じるであろう。それが續紀研究の少なさに通じているように思われる。

夏四月丙戌。詔曰。頃者皇大后寢膳不安。稍延旬月。雖用醫藥療治。而猶未平復。以爲。政治失宜。罹罪有徒。天遺此罸警戒朕身。其母子之慈。貴賎皆同。犯罪之徒。豈獨無親。庶悉洗滌。欲救憂苦。宜大赦天下。常赦所不免者。咸悉赦除。但殺其父母。毀佛尊像。及強盜竊盜。不在此例。若有入死減一等。癸巳。以正五位下大倭宿祢小東人爲參河守。從五位下阿倍朝臣小嶋爲駿河守。從五位上大伴宿祢犬養爲美濃守。從五位下平群朝臣人足爲越後守。從四位下巨勢朝臣堺麻呂爲丹波守。正四位下安宿王爲播磨守。從五位下安曇宿祢大足爲安藝守。從五位下石津王爲紀伊守。外從五位下清原連淨道爲筑後守。己亥。從五位下葛木連戸主授從五位上。

四月十五日に以下のように詔されている・・・この頃、皇太后(光明子)は寝食の状態が不安なことが十ヶ月にも及んでいる。医薬を用いて療治をしているが、なお回復には至らない。思うに朕の政治に誤りがあって、罪に陥って者が少なくない。天はこの罰を下して、朕の身を戒めているのである。母と子の慈愛は、身分の上下を問わず皆同じである。どうして罪を犯した者たちはその者たちだけが親なしでありえようか、そうではない。朕の願いとしては、彼等の犯した罪をすべて洗い流し、その親等の憂いや苦しみを救いたいと希望する。そのため天下に大赦を行うべきである。尋常の赦しに含まれない者もすべて赦免することにせよ。但し、父母を殺した者、仏の尊像を壊した者、及び強盗・窃盗は赦免の例には入れない。もし、この中で死罪にあたる者がおれば、罪一等を減ぜよ・・・。

二十二日に大倭宿祢小東人を參河守、阿倍朝臣小嶋(子嶋。兄の駿河に併記)を駿河守、大伴宿祢犬養(三中に併記)を美濃守、平群朝臣人足を越後守、巨勢朝臣堺麻呂を丹波守、安宿王を播磨守、安曇宿祢大足(阿曇宿祢。刀に併記)を安藝守、石津王を紀伊守、清原連淨道(淸道。高祿徳に併記)を筑後守に任じている。二十八日に葛木連戸主に従五位上を授けている。

五月庚戌。无位篠原王。伊刀王並授從五位下。乙丑。渤海使輔國大將軍慕施蒙等拜朝。并貢信物。奏稱。渤海王言日本照臨聖天皇朝。不賜使命。已經十餘歳。是以。遣慕施蒙等七十五人。齎國信物。奉獻闕庭。丁夘。饗慕施蒙等於朝堂。授位賜祿各有差。

五月十日に「篠原王」・伊刀王(道守王に併記)に従五位下を授けている。二十五日に渤海使輔國大將軍慕施蒙等が拝朝し、贈物を貢上している。そして次のように奏上している・・・渤海王(大欽茂)は、日本に君臨している神聖な天皇の朝廷に申し上げる。王は、天皇よりなすべきことのご命令を賜らなくなって既に十余年を経た。そこで、慕施蒙等七十五人を遣わし、我が国の贈物を持たせて朝廷に献上申し上げる・・・。二十七日に慕施蒙等を朝堂で饗応し、それぞれに位階を授け、禄を賜っている。

<篠原王>
● 篠原王

調べると鈴鹿王の子と分かった。即ち、高市皇子の孫である。同じ系譜では、前記に出雲王が多くの王たちと共に従五位下を叙爵されて登場していた。

すると出自の場所は、「出雲王」の東側の谷間と思われるが、その谷間は、「美和眞人」氏姓を賜って臣籍降下した壬生王・岡屋王の出自と推定した。

篠原王の既出の篠=竹+條(条)=細長く延びた山稜が連なってると解釈した。「笹のような様」とも読むことができる。その地形が、谷間の奧の西側に見出せる。

後に臣籍降下して豐野眞人氏姓を賜ったと知られる。豐=丰+丰+山+豆=高台に多くの段差がある様であり、谷間の西側の山稜の地形を表していると思われる。東側は「美和」の地形、実に上手く書き分けた臣籍降下だったようである。長屋王の子、黄文王の谷間と推定したが、その地に高市皇子一族が広がった様子が伺える。

六月丁丑。慕施蒙等還國。賜璽書曰。天皇敬問渤海國王。朕以寡徳虔奉寳圖。亭毒黎民。照臨八極。王僻居海外。遠使入朝。丹心至明。深可嘉尚。但省來啓。無稱臣名。仍尋高麗舊記。國平之日。上表文云。族惟兄弟。義則君臣。或乞援兵。或賀踐祚。修朝聘之恒式。効忠款之懇誠。故先朝善其貞節。待以殊恩。榮命之隆。日新無絶。想所知之。何假一二言也。由是。先廻之後。既賜勅書。何其今歳之朝。重無上表。以礼進退。彼此共同。王熟思之。季夏甚熱。比無恙也。使人今還。指宣往意。并賜物如別。」陸奧國牡鹿郡人外正六位下丸子牛麻呂。正七位上丸子豊嶋等廿四人賜牡鹿連姓。

六月八日に慕施蒙等が帰国している。天皇の印を捺した文書を賜り、次のように述べられている・・・天皇は敬んで渤海国王に尋ねる。朕は德は薄いが、うやうやしく天子の地位をお受けして、人民を育て養い、国の隅々まで君臨して治めている。王は、海外の僻地に居ながら、遠く使いを派遣し、入朝させている。真心は、まことに明らかで、深くこれを褒め称える。但し、もたらした書状を見ると、王は自身を臣とは称していない。そこで高麗の旧い記録を調べると、渤海が国を平定した日、王より天皇への上表文では次のように言っている。[日本と渤海は血族に例えるなら兄弟の関係だが、義の上では君臣の関係にある。そのため、時には援兵をお願いしたり、あるいは天皇の御即位をお祝い申し上げている。朝廷に参上する不変の儀式を整え、臣下としての忠誠の真心を表す]。---≪続≫---

それ故に、先代の聖武朝において渤海王の貞節を褒めて、使者に特別の恩恵を与えてもてなした。王の栄えある運命は日増しに隆盛となり、絶えることがないであろう。思うに王はこれをよく知っているであろう。どうしてそれに触れる必要があろうか。これにより、先回の後に、渤海に使者を遣わし、既に勅書を賜った。それなのにどうして汝の国は今歳の朝貢に際し、重ねて上表しようとしないのか。礼に従って行動することは、汝の国でも我が国でも共に同じである。王よ、よくよくこのことを思え。時は夏の末にあたり、暑さは甚だしい。近頃王は無事であるか。使人は今帰国しようとしている。朕はかねて思っていたことを指し示して申し渡し、併せて物を下賜するが、それは別紙の通りである・・・。

この日、「陸奧國牡鹿郡」の人、「丸子牛麻呂・丸子豊嶋」等二十四人に牡鹿連姓を賜っている。

<陸奥國牡鹿郡>
<丸子牛麻呂-豐嶋-嶋足(牡鹿連)>
陸奥國牡鹿郡

「牡鹿郡」は初見ではあるが、前記に牡鹿柵が登場していた。陸奥國の五柵の中の一つであった(こちら参照)。おそらく、その柵があった一帯を表していると思われる。

地図を確認すると「牡鹿」の地形は明瞭なのだが、その周辺となると、現在は大きく変貌していることが分かる。

国土地理院航空写真1961~9年を確認すると、それ変貌する以前の状態が分かるが、極めて不鮮明であり、少し時代が進んだ1974~8年の写真を用いることにした。

と言っても、海辺に山稜が迫った、実に狭隘な地であったことが認められた。だが、いつものように谷間があり、そこが記載された人物の出自の場所と思われる。

● 丸子牛麻呂・豐嶋 丸子は、図に示したように延びる山稜から丸い形の山稜が生え出た地形を表現したものと思われる。このあたりが、山稜が削り取られて全く消失してしまっている。牛麻呂は、牛の頭部を模した表記であろう。こちらもどうであるが、当時に近い地形をしていたと推測される。

豐嶋=段差のある高台が鳥の地形の傍らにあるところと読み解ける。「牛麻呂」の東側の場所を表していると思われる。賜った牡鹿連姓は、郡名そのままである。直近で登場した”小田郡の小田臣”、”遠田郡の遠田君”に類する氏姓である。八月記で丸子嶋足も牡鹿連を賜ったと記載される。併せて図に示した。これら人物等も蝦夷対策の一環として引き摺り出されたのであろう。

秋七月庚戌。散位從四位下紀朝臣清人卒。戊午。左京人正八位上石上部君男嶋等卌七人言。己親父登与。以去大寳元年。賜上毛野坂本君姓。而子孫等籍帳猶注石上部君。於理不安。望請。隨父姓欲改正之。詔許焉。
八月癸巳。陸奧國人大初位下丸子嶋足賜牡鹿連姓。

七月十一日に散位の紀朝臣清人が亡くなっている。十九日に左京人の「石上部君男嶋」等四十七人が次のように言上している・・・私の父の「登与」は、去る大寶元(701)年に「上毛野坂本君」の氏姓を賜った。ところがその子孫たちの戸籍・計帳には、なお石上部君と記されている。道理からしても納得できない。そこで父の姓に従って上毛野坂本君に改正されることを望む・・・。詔されて許されている。

八月二十五日に陸奥國の人、「丸子嶋足」(上図参照)に牡鹿連の氏姓を賜っている。

<石上部男嶋・上毛野坂本君登與>
● 石上部男嶋(上毛野坂本君)

「石上部」の氏名は、聖武天皇紀に上野國碓氷郡の人である石上部諸弟が登場していた。「左京人」と記されているが、出自の場所は「諸弟」の近隣だったのであろう。

「石上」は、勿論、「磯の上」であり、「部」=「近隣」を表しているから、現在の五徳川沿いの地か?…と錯覚しそうになるところである。

と言うことで、迷わず「碓氷郡」で前の男嶋=「男」の地形がある鳥の形をした山稜が延びているところで探索することになる。ところが、一見では「嶋」=「山+鳥」の地形がすんなりとは見出せなかった。結果、「鳥」の形をいつものように羽を広げた形ではなく、側面から眺めた表記であることに気付かされた。

図に示したように、長くしなやかに曲がって延びる山稜を長い首、その端に細かく岐れている形を羽と見做した表記である。「男」は、首の付け根辺りの山稜の形を表してると思われる。

言上している氏姓の名称、上毛野坂本君(公)は実に興味深い。「上毛野」とくれば、多くの人材を輩出している地、ではなかろう。「上毛野」を表す地形がこの地に存在するのである。上毛野=盛り上がった地がある鱗のような形をした野と解釈した。「上毛・下毛」の」ような上・下流域を示すのではない。

既出の文字列である坂本=延びた山稜が麓で途切れているところと解釈した。図に示した通り、途切れる場所を「上毛」と表現しているのである。何度も述べるように、固有の人名・地名は存在しないのである。この一連の記述が、「上野」=「上毛野」とする従来の解釈の根拠となってしまったようである。

父親の名前である登与(與)=山稜が岐れる地にある高台で二つの山稜が寄り集まっているところと読み解ける。「登」も「與(与)」も重要な人名・地名に含まれる文字である。「男嶋」の西側にある谷間の奧を表している。

九月戊戌朔。无位板持連眞釣獻錢百万。授外從五位下。壬寅。攝津國御津村南風大吹。潮水暴溢。壞損廬舍一百十餘區。漂沒百姓五百六十餘人。並加賑恤。仍追海濱居民遷置於京中空地。乙丑。從四位上石川朝臣年足。授從三位。爲大宰帥。從四位上紀朝臣飯麻呂爲大貳。

九月一日に「板持連眞釣」が銭百万(文。一千貫)を献上し、外従五位下を授けている。五日に攝津國の「御津村」では、南風が大いに吹いたため海水がにわかに陸地に押し寄せ、家屋百十ヶ所が壊れ損じ、人民五百六十余人が流され沈んでいる。それそれ物を恵み与えている。これにより海浜に居住する人民を召して京中(難波京か?…ではなく、高台が大きく広がった地である)の空地に遷し住まわせている。二十八日に石川朝臣年足に従三位を授けて大宰帥に、紀朝臣飯麻呂を大弐に任じている。

<板持連眞釣>
● 板持連眞釣

「板持連」は、元正・聖武天皇紀に板持連内麻呂・安麻呂が登場していた。河内國錦部郡、現地名では行橋市下崎辺りと推定した場所である。

この二人の出自の場所は、何とか通常の地形図で求めることができたが、この地も上記の「陸奥國牡鹿郡」と同じく大変貌の地であり、国土地理院航空写真に頼ることになった。

眞釣眞=窪んだ地に寄せ集められている様であるが、「釣」は少々解釈をしてみよう。「釣」=「魚を釣り上げる」意味を示すが、「釣」=「金+勺」と分解する。地形象形的には釣=先が尖った高台(金)が柄杓のような形(勺)をしている様と読み解ける。

この地形を、国土地理院航空写真1974~8年の地図で確認することができる。現在では、ほぼ全て山稜が削り取られているようである。「眞釣」の出自の場所は、図に示した場所と推定される。銭一千貫も献上できる財力をこの谷間で生み出したのであろう。後に地方官として取り立てられ、昇位もされたようである。

攝津國御津村について、補足しておこう。書紀の孝徳天皇紀に記載された四天王寺の別称に「御津寺」あり、そして斉明天皇紀に難波三津之浦が登場している。即ち、「三津之浦」の背後の地を御津村と称したものと思われる。現地名は行橋市西泉である。上記でも述べたが、遷し住まわせた「京」の解釈、地形を表しているのである。

冬十月壬申。散位從四位下紀朝臣宇美卒。甲戌。中務卿從三位栗栖王薨。二品長親王之子也。

十月五日に散位の紀朝臣宇美が亡くなっている。七日に中務卿の「栗栖王」が亡くなっている。「長親王」の子であった(こちら参照)。

十一月己亥。尾張國獻白龜。
十二月丁丑。免攝津國遭潮諸郡今年田租。己夘。西海道諸國。秋稼多損。仍免今年田租。

十一月二日に尾張國が「白龜」を献上している。

十二月十一日に攝津國の高潮にあった諸郡の今年の田租を免除している。十三日に西海道の諸國は、秋の収穫の多くを損失している。よってこれら諸國の今年の田租を免除している。

<尾張國:白龜>
尾張國:白龜

尾張の地で白龜を探しなさい!…何ともご親切なことなのだが、勿論、「白い亀」ではない。幾度も記述されたように、白龜=亀のように見える地がくっ付いているところである。

これほどまでに記載されたなら、既に瑞祥ではない、筈である。解釈のしようがないので「白い亀」としてしまうのであろう。勿体ない話である。未開の地が開拓された歴史を見逃すことになる。

尾張國には山田郡が存在していたと記述されている。そもそもは、書紀の天武天皇紀に登場したのであるが、續紀もそれを引き継いで、生江臣安久多という人物を記載している。國分寺への寄進が認められて外従五位下を叙爵されていた。かなり精力的に山奥の谷間を開拓していたのであろう。

現在は高速道路が通り、地形の変形が見られるので、例によって国土地理院航空写真1961~9年を図に示した。と言うことで、少々不鮮明ではあるが、二匹の龜が並んでいるところが見出せる。そのくっ付いた谷間を耕地にし、公地として献上したのである。