2022年6月20日月曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(5) 〔592〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(5)


天平勝寶四年(西暦752年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月甲寅。中務卿正三位三原王薨。一品贈太政大臣舍人親王之子也。庚申。正四位下栗栖王授從三位。甲子。下総國穴太部阿古賣一産二男二女。賜粮并乳母。戊辰。泰廉等還在難波舘。勅遣使賜絁布并酒肴。

七月十日に中務卿の「三原王」(御原王)が亡くなっている。太政大臣の「舎人親王」の子であった(こちら参照)。十六日に栗栖王に従三位を授けている。二十日に下総國の「穴太部阿古賣」は、一度に二男二女を産んだ。食糧と乳母を賜っている。二十四日に泰廉等は帰途について難波館に泊まった。勅されて、使者を派遣し、絁・麻布と酒や肴を賜っている。

<穴太部阿古賣>
● 穴太部阿古賣

「下総國」について、その詳細が記述されていたのが、「香取郡」及び外従五位下を叙爵された「香取連五百嶋」が登場していた(こちらこちら参照)。国土地理院航空写真1961~9年、所謂、日本列島改造が起こる以前の貴重な資料で地形を確認することができたのである。

「穴太部」は、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の子、間人穴太部王(廐戸皇子の母親)に用いられていた。その他の地の「穴太部」の名称を持つ人物が登場していた。穴太部=山稜に囲まれた谷間(穴)が大きく広がった(太)地の近く(部)にあるところと解釈した。

その地形を図に示した「香取郡」の東側に見出せる。既に整地が進捗している様子であり、実に際どい・・・阿古=台地(阿)が丸く小高く(古)なっているところと読むと、「穴太」に隣接して台地があることが解る。上側の現在の地形図でも辛うじて谷間及び台地を確認することができる。その麓がこの人物の出自と推定される。

八月庚寅。捉京師巫覡十七人。配于伊豆。隱伎。土左等遠國。
九月庚戌。中納言從三位紀朝臣麻路爲兼大宰帥。乙丑。從三位智努王等賜文室眞人姓。丁夘。渤海使輔國大將軍慕施蒙等著于越後國佐渡嶋。

八月十七日に京中にいる巫覡(男女のみこ)十七人を捕らえて、伊豆・隠岐・土佐などの遠國に配流している。

九月七日に中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を兼大宰帥に任じている。二十二日に智努王(長皇子の子。大市王:文室眞人大市に併記)等に「文室眞人」の氏姓を賜っている。二十四日に渤海使輔國大将軍慕施蒙等が「越後國佐渡嶋」に到着している。

越後國佐渡嶋について、天平十五(743)年に「二月辛巳。以佐渡國并越後國」と記載されていた。佐渡國渡嶋蝦夷の居処の嶋を示していると思われる。神龜四(727)年九月に渤海郡王の使者が出羽國に来着したと記されていて、彼等は大宰府には向かわず、「淡海」(現在の関門海峡)を通過するようである。

冬十月甲戌朔。地震。乙亥。亦震。戊寅。以常陸守從三位百濟王敬福爲検習西海道兵使。判官二人。録事二人。庚辰。遣左大史正六位上坂上忌寸老人等於越後國。問渤海客等消息。辛巳。伊世國飯野郡人飯麻呂等十七人賜秦部姓。

十月一日に地震が起こり、また翌日の二日にも発生している。五日に常陸守の百濟王敬福()を検習西海道兵使(臨時の官職、以後記載されない)に任じ、判官二人及び録事二人も併せて任じている。七日に左大史の坂上忌寸老人(犬養に併記)等を越後國に遣わし、渤海客等の消息を問わさせている。八日に「伊世國飯野郡」の人、「飯麻呂」等十七人に「秦部」姓を賜っている。

<伊世國飯野郡・秦部飯麻呂>
伊世國飯野郡

一瞬戸惑わさせられるのが、伊世國であろう。そんな國があったのか?…ありました。伊勢國の別名表記である。

いや、別名ではなく、そもそも伊勢の名称は、現地名の北九州市小倉南区蒲生にある虹山の地形()に基づく名称と読み解いた(こちら参照)。伊勢國は、実に広大な國だったのである。

「伊世」の文字列は、如何なる地形を表しているのであろうか?…伊世=谷間で区切られた山稜が途切れずに引き継がれているところと読み解ける。図に示しが場所、伊勢國飯高郡として登場した地に含まれている。「勢」ではなく「世」の地形
が支配的な地域なのである。

多分に戯れている様子なのだが、古事記の「須理毘賣命」の別表記に「須理毘賣命」があった(こちら参照)。「勢」と「世」が置き換えられることによって、より正確に出自の場所を表すことができる。地形象形の妙味と言える表記であろう。共に「セ」と読んで問題なし、では勿体ないことこの上なしである。

さて、飯野郡は、勿論伊勢飯高君が坐した、その前面に広がるなだらかな野(山稜が平らに延びているところ)であろう。因みに飯高=なだからに延びる山稜の後ろにある皺が寄ったようなところである。直近では飯高君笠目が登場していた。

● 飯麻呂(秦部) 伊勢國には珍しい広い水田地帯、そこの住人が一向に登場することがなかった。藤原朝臣京家吉日がその北側の山麓に蔓延ったのだが、彼等は、この飯野には進出した気配は感じられなかった。漸く、そこに人々住まっていたと伝えてくれている。

「飯麻呂」は、そのまま解釈されるとして賜った秦部について述べてみよう。既出の秦=艸+屯+禾=二つの山稜が長く延び出ている様と解釈した。部=近隣として、「飯高」の山稜を「秦」と見做した表記と思われる。正に空白の地を埋め尽くす様相である。

十一月乙巳。正六位上佐伯宿祢美濃麻呂授從五位下。」復置佐渡國守一人。目一人。」以從四位上藤原朝臣永手爲大倭守。從五位下藤原朝臣宿奈麻呂爲相摸守。從五位下大伴宿祢伯麻呂爲上野守。從五位下小野朝臣小贄爲下野守。從五位下佐伯宿祢美濃麻呂爲大宰少貳。」又以參議從四位上橘朝臣奈良麻呂爲但馬因幡按察使。兼令検校伯耆。出雲。石見等國非違事。己酉。勅。諸國司等欠失官物。雖依法處分。而至於郡司未甞科斷。自今已後。郡司亦解見任。依法科罪。雖有重大譜第。不得任用子孫。壬子。制。諸司無故不上者。令放還本貫。其有位者爲外散位。无位者還從本色。
十二月癸酉朔。日有蝕之。

十一月三日に「佐伯宿祢美濃麻呂」に從五位下を授けている。また、「佐渡國」に守一人、目一人を復置している。藤原朝臣永手を大倭守、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を相模守、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を上野守、小野朝臣小贄を下野守、「佐伯宿祢美濃麻呂」を大宰少弐に任じている。また、参議の橘朝臣奈良麻呂(橘宿祢)を但馬因幡両國の按察使に任じ、併せて伯耆・出雲石見などの國での違法の行為(非違事)を取り調べさせている。

七日に以下のように勅されている・・・諸國の國司等が官物を欠失した場合は法に依って処分しているが、郡司の場合は今まで処罰していなかった。今後は郡司も現職を解任し、法に依って罪科を処すことにする。代々郡司に任ぜられてきた有力な名門であっても、そのような者の子孫を任用することはしない・・・。

十日に以下のように制している・・・諸司の官人で理由なく出勤しない者は、本籍地に送還する。有位者は外散位にし、無位の者は、本籍地に帰して本来の身分に従わせよ・・・。

十二月一日に日蝕があったと記している。

<佐伯宿禰美濃麻呂-國益>
● 佐伯宿祢美濃麻呂

初見で内位の従五位下で叙爵されての登場である。直近では乙首名(全成に併記)も同様であり、多分、その近隣が出自と思われる。調べると、Wikipediaには、大伴宿祢美濃麻呂と混同された記事が掲載されているようである。

それは兎も角、「佐伯宿祢」の地で、美濃麻呂の「美濃」の地形を探してみよう。美濃=谷間が広がった地に二枚貝が舌を出したような山稜が延びているところと解釈した。「美濃」は固有の地名・人名ではない。

すると、「乙首名」の背後の山稜がその地形を示していることが解る。この近辺を出自とする人物名を併せて記載したが、何とも見事に配置されているように思われる。狭隘な谷間に?…全くの杞憂であった。

別名に美乃麻呂があったことが知られている(後の淳仁天皇紀に記載)。二枚貝の形を「乃」で表しているが、確かに「貝」よりも適切な表現かもしれない。この地の周辺は、急な斜面に凄まじいくらいに棚田が形成されていたのであろう。今に残る日本の原風景である。

後(淳仁天皇紀)に佐伯宿祢國益が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらず系譜は不詳のようである。國益=囲まれた大地が谷間に挟まれて平らに広がっているところと解釈すると、「美濃麻呂」の西側の山腹が出自と推定される。

<佐渡國>
佐渡國

上記したように佐渡國は、天平十五(743)年に越後國に併合されたのだが、またここで元に戻している。再掲した佐渡國の地形をあらためて見ると、越後國(図では越後蝦狄)が目を光らせるには、些か広範囲過ぎるであろう。

そもそも、佐渡からの侵入に対して、越後國の秋田村高清水岡に出羽柵を設置して防御する体制を採っていた。それは適切な配置かと思われるが、佐渡までの侵入を許したことになる。もう一歩進めた対策が必要だったのである。

勿論、これは「渤海」来着が、契機であろう。越後國に任せきりでは、彼等のその後様子が把握できない。慌てて使者を送る羽目になったと記載している。「渤海」の興隆に加えて、新羅の王子が語るように朝鮮半島統一の「新羅」が大船団で来朝したり、大陸内での動きが活発になりつつあったと感じたのであろう。太平の時代から動乱へと移って行く時を迎えていたのである。

按察使に監察をさせた但馬・因幡両國は、古の新羅王子に関わる地であり、淡海に面する伯耆・出雲両國は佐渡國周辺であり、その地の状況把握は極めて重要であったと思われる。また石見國は、大倭への直入する拠点の地である。「非違事」とは、武器の装備を暗示しているのであろう。

幾度も述べるように、朝鮮半島が騒ぐと、東北の蝦夷対策に走る日本、この史実を真面に説明できることが肝要であろう。佐渡國は、まかり間違っても現在の佐渡島ではない。

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『續日本紀』巻十八巻尾