2022年6月14日火曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(4) 〔591〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(4)


天平勝寶四年(西暦752年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月己夘朔。大宰府獻白龜。辛巳。禁斷始從正月三日迄于十二月晦日天下殺生。但縁海百姓。以漁爲業。不得生存者。隨其人數。日別給籾二升。又鰥寡孤獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。己丑。地動。是日。度僧九百五十人。尼五十人。爲太上天皇不悆也。癸夘。以正七位下山口忌寸人麻呂爲遣新羅使。戊申。從六位下山田史君足授外從五位下。

正月一日に大宰府が「白龜」を献上している。三日、正月三日から十二月晦日まで全国に殺生を禁じている。但し、海の近くに住む民で漁を生業としなければ生活をしていけない者には、その人数に応じて日ごとに籾米二升を与えている。また、「鰥・寡・孤・獨」の者、貧苦に苦しんだり、年老いたり病気になったりして自活できない者に対しては、その程度に応じてものを恵み与えている。

十一日に地震が起きている。この日に僧九百五十人と尼五十人を出家させている。太上天皇が病気(不悆:心地よくない)のためである。二十五日に山口忌寸人麻呂(父親の大麻呂に併記)を遣新羅使に任じている。三十日に「山田史君足」に外従五位下を授けている。

<大宰府:白龜>
太宰府:白龜

正月早々の瑞祥の献上である。後日談があるのか否やは、後に述べるとして、勿論、「白い亀」では毛頭ない。地形象形表記の文字解釈は、白龜=亀の形をした山稜がくっ付いているところである。

太宰府の献上は、書紀の天武天皇紀に赤鳥(三輪君小鷦鷯の出自場所)、大鐘三足雀などが記載されている。現在の妙見山から北に延びる山稜の西麓、急峻な地形を開拓したことを伝えていると解釈した。

「龜」の地形を認識するのに些か戸惑ったが、どうやら、図に示した、現在の延命寺川が流れ出る谷間の出口の地形を示していると思われる。西は鞠智城(三足雀)、東は筑紫八幡社がある小山を「龜」の頭に見立てたと思われる。

その上流域は古事記の言う黄泉國・・・開拓は、そこまで進捗しつつあったのだろう。白龜は、両側の山稜が延びてくっ付くような()場所と推測される。現在は大谷池が造られて、大きく変化しているが、当時は谷合を整えて耕地としたのではなかろうか。

<山田史君足(廣野連)・山田御井宿祢公足>
● 山田史君足

山田史一族の登場が、それなりに多く見られるようになった。御形に始まって、直近では「女嶋・廣人」が山田三井宿祢の氏姓を賜ったと記載されている。

決して広い土地ではなく、果たして新規の登場人物を収めることができるのであろうか?…山田の地を散策すると、それらしき場所に辿り着けたようである。

既出の文字列である君足=区切られて整えられた高台から延びる山稜が足のような形をしているところと読み解ける。姓「君」ではなく、地形象形表記として用いられている。出自の場所は、最奥の谷間と推定される。後に「廣野連」の氏姓を賜り、廣野連君足と名乗ったと記載されている(更に長野連へ変わったとか)。谷間の奥が広がった様子を表記したのであろう。

後(称徳天皇紀)に女官の山田御井宿祢公足が外従五位下を叙爵されて登場する。立派な氏姓を賜っているのだが、系列が異なっていたのかもしれない。公足=谷間にある小高い地から足のような山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

二月丙寅。陸奧國調庸者。多賀以北諸郡令輸黄金。其法。正丁四人一兩。以南諸郡依舊輸布。己巳。京畿諸國鐵工。銅工。金作。甲作。弓削。矢作。桙削。鞍作。鞆張等之雜戸。依天平十六年二月十三日詔旨。雖蒙改姓。不免本業。仍下本貫。尋検天平十六年以前籍帳。毎色差發。依舊役使。

二月十八日に陸奥國の調・庸は、「多賀」より以北の諸郡には黄金を貢輸させるようにしている。その基準は、正丁四人につき一両としている。南の諸郡には旧来通りに、麻布を提出させている。

二十一日に京・畿内の諸國の鉄工・銅工・金作・甲作・弓削・矢作・鉾削・鞍作・鞆張等の雑戸は、天平十六年二月十三日の詔の趣旨によって、改姓を許すという恩典をこうむったが、本業を免除されたわけではない。そこで本籍地に照会して、天平十五年以前の戸籍や計帳をたずね調べて役種ごとに徴発し、旧来の通りに使役している。

陸奥國多賀は、前記で登場した多賀柵があった地であろう。黄金が出土した小田郡は陸奥國の最北地の一角にあり、多賀以北の人々が総動員された様子が伺える。広さでは陸奥國の半分以上となる。麻を収穫するより、黄金…実際、採掘に使役されたのだから、それが年貢となったわけである。

三月庚辰。遣唐使等拜朝。甲午。中務大輔從四位下安倍朝臣虫麻呂卒。
閏三月丙辰。召遣唐使副使已上於内裏。詔給節刀。仍授大使從四位上藤原朝臣清河正四位下。副使從五位上大伴宿祢古麻呂從四位上。留學生无位藤原朝臣刷雄從五位下。己巳。大宰府奏。新羅王子韓阿飡金泰廉。貢調使大使金暄及送王子使金弼言等七百餘人。乘船七艘來泊。乙亥。遣使於大内。山科。惠我。直山等陵。以告新羅王子來朝之状。

三月三日に遣唐使等が拝朝している。十七日に中務大輔の安倍朝臣虫麻呂(阿倍朝臣虫麻呂)が亡くなっている。

閏三月九日に遣唐使の副使以上を内裏に招集して、詔して節刀を与えている。よって大使の藤原朝臣清河に正四位下、副使の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)に従四位上、留学生の藤原朝臣刷雄(眞從に併記)に従五位下を授けてる。

二十二日に大宰府が次ように奏上している・・・新羅の王子で韓阿飡の金泰廉、貢調使で大使の金喧、及び王子を送る使の金弼言等七百余人が七艘の船に乗って来て泊まっている・・・。二十八日に使者を「大内・山科・惠我・直山」などの陵に派遣して、新羅の王子が来朝したことを報告させている。

前記で”従四位上”の吉備朝臣眞備を副使に起用したことから、大使、もう一人の副使を”従四位上”以上にしたのである。と言うことで、なかなかに大物が揃った遣唐使団となったようである。

大内陵:天武・持統天皇陵、大内山陵。山科陵:天智天皇陵。惠我陵:古事記の品陀和氣命(応神天皇)陵、川內惠賀之裳伏岡陵。新羅王子の末裔である母親(こちら参照)のお腹の中で新羅に渡り、天皇即位後に朝鮮半島から多くの文化・技術・人材を受け入れている。直山陵:元明・元正天皇陵、奈保山(那富山)。

夏四月乙酉。盧舍那大佛像成。始開眼。」是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設齋大曾。其儀一同元日。五位已上者著礼服。六位已下者當色。請僧一万。既而雅樂寮及諸寺種種音樂並咸來集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未甞有如此之盛也。」是夕。天皇還御大納言藤原朝臣仲麻呂田村第。以爲御在所。辛夘。以從四位下藤原朝臣八束爲攝津大夫。

四月九日に廬舎那大仏の像が完成して、開眼供養をしている。この日に東大寺に行幸され、天皇自ら文武の官人等を引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行っている。その儀式は、全く元旦のそれに同じであった。五位以上の官人は礼服を着し、六位以下は位階に対応する規定の朝服を着けている。僧一万人を招請し、それまでに雅楽寮及び諸寺から、さまざまな音楽に携わる人々が全て集められている。また、全ての皇族・官人・諸氏族による五節舞・久米舞・楯伏の舞・踏歌の舞・袍袴の舞などの歌舞が行われている。東西に分かれて歌い、庭に分かれて演奏されている。その状況の素晴らしさは、いちいち書き尽くせないほどであった。仏法が日本に伝来して以後、斎会として未だかつてこのような盛大なものはなかった、と述べている。この日の夕べは、天皇は大納言の藤原朝臣仲麻呂の「田村第」(邸宅)に帰り、御在所にしている。

十五日に藤原朝臣八束(眞楯)を攝津大夫に任じている。

<田村第>
田村第

藤原南家が所有していた邸宅と知られている。「還御」と記載されるのだから、東大寺から平城宮に還る方向にあったと思われる。多分、左京の一角を占める地であろう。

重要なのは、この邸宅に田村第と言う名称が付けられていたことである。勿論地形象形表記として、その邸宅の場所を突き止めることができる。

「田村」の「村」の文字、それが示す地形を読み取れるや否や、”村の名前”としてしまっては、記紀・續紀は全く読めていないことになる。「田村(木+寸)」=「開いた手のように延びている地に田があるところ」と解釈される。「第」=「竹+弟」=「段々に積み重なっている様」である。

纏めると田村第=開いた手のように延びている地に田が段々に積み重なっているところと読み解ける。図に示した藤原宮の西側の谷間の地形を表していることが解る。両宮より広くはないが、それらに匹敵するくらいの広さを持った場所である。流石、と言うしかないであろう。藤原朝臣一族の権勢を垣間見る思いである。

五月庚戌。正六位上小野朝臣小贄授從五位下。女孺无位藤原朝臣兒從從五位下。壬子。女孺從六位下鴨朝臣子鯽授從五位下。己丑。外從五位下大鳥連大麻呂授從五位下。庚申。无位中臣殿來連竹田賣授外從五位下。丙寅。免官奴鎌取。根足。鎌取賜巫部宿祢。根足賀茂朝臣。辛未。以從五位下多治比眞人犢養為遠江守。從五位下巨勢朝臣淨成爲下総守。從三位百濟王敬福爲常陸守。從五位下笠朝臣蓑麻呂爲上野守。從四位上平群朝臣廣成爲武藏守。從五位上佐伯宿祢全成爲陸奧守。從五位下粟田朝臣奈勢麻呂爲越前守。從五位上阿倍朝臣嶋麻呂爲伊豫守。

五月五日に「小野朝臣小贄」に從五位下、女孺の藤原朝臣兒從(眞從に併記)に從五位下を授けている。七日に女孺の「鴨朝臣子鯽」に從五位下を授けている。(己丑?、己未)十四日に大鳥連大麻呂に從五位下を授けている。十五日に「中臣殿來連竹田賣」に外從五位下を授けている。二十一日に官奴を免じて、「鎌取」に巫部宿祢、根足(虫麻呂に併記)に賀茂朝臣の氏姓を賜っている。

二十六日に多治比眞人犢養(家主に併記)を遠江守、巨勢朝臣淨成を下総守、百濟王敬福(①-)を常陸守、笠朝臣蓑麻呂を上野守、平群朝臣廣成を武藏守、佐伯宿祢全成を陸奧守、粟田朝臣奈勢麻呂を越前守、阿倍朝臣嶋麻呂を伊豫守に任じている。

<小野朝臣小贄-竹良>
● 小野朝臣小贄

列記とした小野朝臣一族だったのであろう。初見で従五位下を叙爵されている。直近では、田守(綱手に併記)が同じく従五位下を賜っているが、この人物も系譜不詳であった。

「妹子」からの系譜は、かなり詳しく伝えられているようであるが、この系列は、現在の御祓川の西岸に広がっていた(こちら参照)。

上記の「田守」は、「妹子」に北側に当たり、御祓川東岸の山稜の麓と推定した。既出の文字列である小贄=三角形(小)の谷間(貝)を両手を合わせて差し延べるような山稜で挟まれた(執)ところと読み解ける。「贄」=「執+貝」と分解して解釈される文字である。その地形を妹子の南側の谷間に見出すことができる。

少し後に小野朝臣竹良が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、竹良(竹のように山稜が並ぶなだらかなところ)の名前が表す地形から出自の場所を求めると、上図に示した辺りと推定される。別名に都久良([く]の字形に曲がった山稜が集まるなだらかなところ)があったと知られているが、地形的には、こちらの方がしっくりしているように感じられる。最終従四位下まで昇進されるようである。

今回もまた、取り残された地域からの登用のようである。九州東北部の全ての谷間を埋め尽くすかの様相である。續紀読解、途中で止めるわけにはいかない・・・ような感じである。

<鴨朝臣子鯽>
● 鴨朝臣子鯽

女孺であり、従五位下を授けれるとは、真っ当な鴨朝臣一族の女性だったのであろう。「藤原朝臣不比等」が「賀茂比賣」を娶って誕生したのが「宮子娘」(文武天皇夫人)・「長娥子」(長屋王妾)である(こちら参照)。

要するに「鴨」の地の東南部が彼女等の出自の場所であり、「藤原」の地で養育されたのではなかったのである。藤原四家が繁栄する以前、未だ藤原家の再興に漸く取り掛かった時期だったのであろう。

ともあれ、系譜が不詳な故に名前を頼りに出自の場所を求めることになる。「鯽」=「魚のフナ」であるから、子鯽=生え出た山稜が「フナ」の形をしているところと読むと、図に示した場所がその地形をしていることが解る。

<中臣殿來連竹田賣・中臣片岡連五百千麻呂>
● 中臣殿來連竹田賣

中臣一族の複姓氏族である。直近では配流されている中臣卜部紀奧乎麻呂が罪一等を減じられたと記載されていた。

何とも凄まじいばかりであるが、「物部」の派生氏族のように「物部」を冠しないのに比べると、少々ご親切な感じではある。

例によって、先ずは殿來連の「殿來」を解釈してみよう。幾度か登場の「殿」=「尻」であり、地形象形的には「山稜の端」と読める。頻出の「來」=「山稜が広がり延びる様」と解釈した。纏めると、殿來=山稜の端が広がり延びているところと読み解ける。

そんな地形を旧来の中臣(藤原を含めて)の地に求めることは不可であろう。目を更に山奥に向けると、そこには広大なゴルフ場が開発されていた。山間の奥地だが・・・しっかりと「殿來」の地形を活かした設計がなされていることが解る。

更に、竹田のような真っ直ぐに延びたフェアウェイを確認することができる。竹田賣の出自の場所は、おそらく図に示した辺りだったのではなかろうか。国土地理院航空写真1961~9を参照すると、その時点ではゴルフ場にはなっておらず、真っ直ぐに延びる山稜の形が示されている。

後(淳仁天皇紀)に中臣片岡連五百千麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。勿論、系譜など関連する情報は皆無であり、上記と同様に「片岡」が示す地形を探索することにする。どこにでも転がっていそうな名称なのだが、「中臣」の谷間からすると、極めて特徴的な地形である。既出の文字列である片岡=谷間にある山稜の端が区切られて小高くなっているところと解釈される。

「殿來」の東隣の場所に、その地形を見出せる。名前の五百千=丸く小高いところが連なって交差するように延びている山稜を谷間が束ねているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。図を眺めれば、既出の小殿連習宜連
「殿來連」との間にすっぽりと収まった配置となったようである。

<鎌取-巫部宿禰>
● 鎌取(巫部宿祢)

官奴となっていたのを元の「巫部宿祢」の氏姓に戻したのであろう。根足も元は「賀茂朝臣」と言う列記とした氏姓の持ち主であり、前年十月の大赦に含まれていたと思われる。

「巫部宿祢」の氏姓を持っ人物は、文武天皇紀に巫部宿祢博士が登場していた。書紀の天武天皇紀の『八色之姓』に巫部連が宿祢姓を賜ったと記載されている(現地名:北九州市小倉南区志井)。

その地で鎌取の地形を探索するのであるが、大きく変形していることが分かった。故に国土地理院航空写真1961~9年を併載した。

「鎌」は中臣鎌子で用いられたと同じく、「鎌のように山稜が延びている様」とし、既出の「取」=「耳+又」=「山稜の端が耳の形になっている様」と解釈すると、鎌取=鎌のような山稜と耳の形をした山稜が並んでいるところと読み解ける。「耳」の山稜がすっかり削り取って整地される以前の地形を航空写真で確認することができる。尚、「巫部」については、こちら参照。

六月己丑。新羅王子金泰廉等拜朝。并貢調。因奏曰。新羅國王言日本照臨天皇朝庭。新羅國者。始自遠朝。世世不絶。舟楫並連。來奉國家。今欲國王親來朝貢進御調。而顧念。一日无主。國政弛乱。是以。遣王子韓阿飡泰廉。代王爲首。率使下三百七十餘人入朝。兼令貢種種御調。謹以申聞。詔報曰。新羅國始自遠朝。世世不絶。供奉國家。今復遣王子泰廉入朝。兼貢御調。王之勤誠。朕有嘉焉。自今⾧遠。當加撫存。泰廉又奏言。普天之下無匪王土。率土之濱無匪王臣。泰廉幸逢聖世。來朝供奉。不勝歡慶。私自所備國土微物。謹以奉進。詔報。泰廉所奏聞之。壬辰。外正六位下君子部和氣。遠田君小捄。遠田君金夜。並授外從五位下。是日。饗新羅使於朝堂。詔曰。新羅國來奉朝庭者。始自氣⾧足媛皇太后平定彼國。以至于今。爲我蕃屏。而前王承慶大夫思恭等。言行怠慢。闕失恒礼。由欲遣使問罪之間。今彼王軒英。改悔前過。冀親來庭。而爲顧國政。因遣王子泰廉等。代而入朝。兼貢御調。朕所以嘉歡勤款。進位賜物也。又詔。自今以後。國王親來。宜以辞奏。如遣餘人入朝。必須令齎表文。丁酉。泰廉等就大安寺東大寺礼佛。

十四日に新羅の王子金泰廉等が朝廷を拝し、併せて調を献上し、次のように奏上している・・・新羅の王から日本に君臨する天皇の朝廷に言上する。新羅は遠い昔の王の時代から代々絶え間なく、船と楫を列ねて渡来して、天皇に奉仕して来た。この度も王自ら来朝して御調を貢進したいと思っているが、よく考えてみると、一日でも主がいないと国政は弛み乱れる。そこで王子の泰廉以下を派遣して、王に代わる名代として、使の者三百七十余人を率いて入朝し、その上色々な御調を貢進させる。以上謹んで申し上げる・・・。

天皇は詔して次のように答えている・・・新羅は遠い昔の王の時代から代々絶え間なく仕えて来た。今また、王子の泰廉を派遣して来朝し、一緒に御調を貢進して来た。王の忠誠を朕は喜んでいる。今からずっと将来まで、いたわりいつくしみを加えよう・・・。

泰廉がまた、次のように奏上している・・・全て天の下は、王の土地でないところはなく、陸地の続く限り全て王の臣下でないものはない。幸いにも泰廉は聖である御世に生まれ、日本に来朝して供奉することができ、喜びにたえない。個人的に用意して来た産物を、つまらないものだが、謹んで進呈する・・・。これに対する詔として・・・泰廉が奏上する件を聞き届ける・・・と答えている。

十七日に君子部和氣(立花に併記)・「遠田君小捄・遠田君金夜」に外從五位下を授けている。この日、新羅の使者を朝堂に呼んで饗宴し、次のように詔されている・・・新羅が供奉するのは、気長足媛皇太后(神功皇后)がかの地を平定した時以来のことで、今に至るまで、ずっと我が國を守る垣根(蕃屏)の役割の國となっている。しかしながら前王の承慶(李成王)や大夫の思恭等は、言行が怠慢で常に守るべき礼儀を欠き失った。そこで使者を派遣して、その罪を問おうと思ってる間に、この度新羅王の軒英(承慶の弟、景徳王)は以前の過ちを悔いて、自分から朝廷に来たいと乞い願ったが、しかし國政を顧みなければならないので、その為王子の泰廉等を派遣して、王の代理として入朝させ、兼ねて御調を貢進するという。朕はこれを聞いて、大変喜ばしく、使者に位を進呈し物を与える・・・。また、詔して・・・これから以後は、王自ら来朝して直接言葉で奏上せよ。もし代わりの人を派遣して入朝するのであれば、必ず上表文を持って来るようにせよ・・・。

二十二日に泰廉等は、大安寺東大寺に赴き、仏を礼拝している。

<遠田君小捄-金夜>
● 遠田君小捄・遠田君金夜

「遠田君」に関しては、天平九(737)年の新羅の無礼に端を発する出来事で、その対応に様々な策を講じた中に「田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人」が登場していた。

新羅が不穏な行動を取ると、蝦夷対策を行うのである。既に幾度か述べたように蝦夷の地は、新羅の日本国における橋頭保の位置付けにある(現在の企救半島北部)。

陸奧持節大使(藤原朝臣麻呂)を遣わして、蝦夷の鎮撫に当たらせたが、その役割を担ったのが”田夷”の「雄人」だったと記載している(多くの柵の防衛強化など、こちら参照)。この度の新羅来朝時の叙爵となれば、信頼できそうな”田夷”を取り立てて、新羅に関わる蝦夷の動向を監視することが重要だったのであろう。

外従五位下を叙位された「小捄」の「捄」=「手+求」=「手のような山稜が引き寄せられている」と解釈される。「小」=「三角の形をしている様」(小田郡にも用いられている)とすると、小捄=三角の形した地が手のような山稜を引き寄せているところと読み解ける。

「金夜」に含まれる頻出の文字列、金夜=谷間を二つに分ける山稜の端が三角に尖った高台になっているところと解釈される。図に示した辺りが出自を推定される。これらの地形が「雄人」の北側に見出せ、「雄人」の縁者であることは間違いないであろう。

そう考えると、今回の叙爵の筆頭に挙げられている君子部和氣の出自場所が意味するところが浮かび上がって来る。彼は古遠賀湾に面する地が居処(現地名は遠賀郡水巻町・中間市の境)であり、正に新羅船団の監視に最適な地である。また、海上を自由に行き来できる能力を有していたであろう。

防衛策を講じながら、新羅王子を迎え入れている。決して信用していないことが、最後の上表文がないことを指摘していることから伺えるであろう。何度か述べたように、新羅が不穏だと蝦夷対策、現在の東北地方への対策?…全く辻褄の合わない記述なのである。古代史は闇の中にある、いや、ロマンの塊か・・・。

蛇足だが、古事記の息長帶比賣命が新羅を平定したわけではないが、新羅王子に面と向かっての文言であろう。これを文字通りに受け取って、”三韓征伐”とする薄っぺらな解釈では、先が暗い・・・のではなかろうか・・・。