2022年6月8日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(3) 〔590〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(3)


天平勝寶三年(西暦751年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二月庚午。遣唐使雜色人一百一十三人。叙位有差。乙亥。出雲國造出雲臣弟山奏神賀事。進位賜物。己夘。典膳正六位下雀部朝臣眞人等言。磐余玉穗宮。勾金椅宮御宇天皇御世。雀部朝臣男人爲大臣供奉。而誤記巨勢男人大臣。眞人等先祖巨勢男柄宿祢之男有三人。星川建日子者雀部朝臣等祖也。伊刀宿祢者輕部朝臣等祖也。乎利宿祢者巨勢朝臣等祖也。淨御原朝庭定八姓之時。被賜雀部朝臣姓。然則巨勢雀部。雖元同祖。而別姓之後。被任大臣。當今聖運。不得改正。遂絶骨名之緒。永爲無源之民。望請。改巨勢大臣。爲雀部大臣。流名⾧代。示榮後胤。大納言從二位巨勢朝臣奈弖麻呂。亦證明其事。於是。下知治部。依請改正之。

二月十七日に遣唐使の雜色人(雑役係)百十三人それぞれに叙位している。二十二日に出雲國造の出雲臣弟山(果安に併記)が神賀事を奏し、進位させて物を賜っている。

二十六日に典膳(内膳司の次官)の「雀部朝臣眞人」等が次のように言上している・・・「磐余玉穗宮」(継体)天皇と「勾金椅宮」(安閑)天皇の御世に、「雀部朝臣男人」は大臣に任じられ、お仕えした。しかし、誤って「巨勢男人大臣」と記された。眞人等の先祖である「巨勢男柄宿祢」には息子が三人あった。そのうち「星川建日子」は「雀部朝臣」等の始祖、「伊刀宿祢」は「輕部朝臣」等の始祖、「乎利宿祢」は「巨勢朝臣」等の始祖である。浄御原(天武)朝廷が八色の姓を制定した時、「星川建日子」の子孫に「雀部朝臣」の姓を賜った。そのため巨勢と雀部は元々祖先が同じだが、氏姓が分かれた後で大臣に任じられた。今、天皇の運が盛んな時に当たり、是正することができなければ、氏族の由緒が忘れられて、起源を持たない氏族となっであろう。そこで巨勢大臣を改めて雀部大臣とし、氏族の名誉ある名称を永く後世に伝え、光栄を子孫に示したいと要望する・・・。また、大納言の巨勢朝臣奈弖麻呂もそのことを証明し、明らかにしている。よって治部省に命じて、申請の通りに改正させている。

「雀部朝臣眞人」の上記の言上は、実に興味深い記述であろう。「巨勢朝臣」については、書紀の記述が曖昧であり、また、大幅な省略も行われていることが推測される。「雀部朝臣・輕部朝臣」は、天武天皇紀の『八姓』(朝臣賜姓)が初見であり、それ以前には全く記載されていないのである。それは、「雀部・輕部」が”淡海”に絡む表記だから、と推測した。

関連する古事記の表記を列記すると、「磐余玉穗宮」は「伊波禮之玉穗宮」、「勾金椅宮」は、「勾之金箸宮」である(こちら参照)。また、「巨勢男柄宿祢」は許勢小柄宿禰、祖となったのが、許勢臣・雀部臣・輕部臣と記載されている。「磐余」↔「伊波禮」、「椅」↔「箸」、「巨」↔「許」、「男」↔「小」の対応する文字が当該の地形の別表記であるが、詳細は省略する。

<雀部朝臣眞人>
● 雀部朝臣眞人

古事記では、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の子、建内宿禰を父親に持つ巨勢男柄宿禰(以下の人物名は續紀に従う)が三つの臣の祖となったと、実に簡略に記載されている。

ここで三つの(朝)臣の祖となる人物の具体的な名前が明らかにされ、「乎利宿禰」(巨勢朝臣)、「伊刀宿禰」(輕部朝臣)及び「星川建日子」(雀部朝臣)と述べている。

先ずは三人の祖の出自の場所を求めてみよう。乎利宿禰乎利=口を大きく開いて息を出すように延びた山稜が切り分けられているところと読み解ける。挿入図に示したように「巨勢」の谷間に延びる山稜が途切れている場所と推定される。この山稜には書紀に登場した德太・德陀等の居処があった。

伊刀宿禰伊刀=谷間で区切られた山稜が[刀]の形をしているところと読むと、図に示した場所が出自であり、古事記で推定した輕部臣の地と矛盾の無い結果と思われる。書紀の天武天皇紀に輕部朝臣足瀬が登場していたが、その一度きりであり、輕部朝臣としてもここで記載された以外には記載されることがないようである。

星川建日子の「星」=「日+生」=[炎]のような山稜が生え出ている様であり、星川=[炎]のような山稜のが生え出ている地から川が流れ出ているところと読み解ける。「建」=「廴+聿」=「筆のような山稜が延びている様」、頻出の「日子」を合わせると、建日子=筆のような山稜が延びている先に[炎]ような地が生え出ているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

巨勢男人大臣については、書紀で読み解いた場所が全くの誤りであったことに気付かされる。敢えて訂正せずに残すことにするが(こちら参照)、上図にその本来の出自の地を示した。姓ではない人名の眞人は、眞人=谷間が寄り集まった窪んだところと解釈すると、その西側の谷間と推定される。

纏めてみると、古事記の記述との整合性は極めて高く、現地名の直方市頓野・感田及び北九州市八幡西区笹田の地形に見事に当て嵌ることが解った。繰り返すようだが、書紀は、『日本紀』では決してない。古代史を生業とする者ならば、先ずは書紀の”還元”に注力すべきであろう。

尚、聖武天皇紀で、「雀部朝臣」の東側の山麓に佐佐貴山君親人・足人の居処があったと推定した。古事記の穴穗命(安康天皇)紀に・・・淡海之佐佐紀山君之祖、名韓帒白「淡海之久多綿之蚊屋野、多在猪鹿。其立足者、如荻原、指擧角者、如枯樹。」・・・と記載されている。彼等の祖は韓帒であり、「雀部朝臣」とは異なる氏族だった、と伝えている。

いずれにしても、「淡海之佐佐紀山」の近傍に住まう「雀部朝臣」であり、「淡海⇒近江」の置換えではなく、即ち「近江の雀部」とせずに、書紀は、抹消する手段を選んだのである。「巨勢」は、”誤記”ではなく、恣意的な書換え、と断じられる。續紀は、書紀の記述を意識しながら、古事記が伝える”真実”を語ろうとしているのであろう。

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<雀部>
古事記に記載された建内宿禰の子、許勢小柄宿禰が祖となった雀部臣に始まる一族として読み解いて来たが、「雀部(ササベ)」と訓されることから淡海之佐佐紀山の近辺を、その出自地と推測した。

しかしながら、何故「雀」の文字を用いたのかは、釈然としないままであった。確かに大雀命(仁徳天皇)でも「雀(ササギ)」と訓するのが通例となっていることから、何となく深読みしていなかったのである。

「雀」に「ササ(キ、ギ)」の読みは存在せず、「大雀命」の大雀=平らな頂の山稜の麓にある頭の小さな鳥の形をしているところと読み解いた。ならば、雀部=頭の小さな鳥の形をした山稜の近隣にあるところと解釈することになる。

<讚岐國・飯依比古>
その地形を国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、明らかに確認できる。現在は広大な住宅地に変貌していて、地形図では全く窺い知ることができなかった。

勿論、「佐佐紀山(山稜が笹のように曲がっている様)」の近隣であり、「雀」と表記しても呼称は「ササ」と読んでいたのかもしれない。

すると、「大雀(ササキ)命」については「ササキ」の地形はあるのか?…一目瞭然で、粟國の「粟」の穂先の地形を「佐佐紀」と見做したのであろう(大雀命は再掲した図の左下隅)。「雀部・大雀」の文字を用いた根拠が、その読みも含めて、あらためて確認されたようである。

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夏四月丙辰。遣參議左中弁從四位上石川朝臣年足等。奉幣帛於伊勢太神宮。又遣使奉幣帛於畿内七道諸社。爲令遣唐使等平安也。甲戌。詔以菩提法師爲僧正。良弁法師爲少僧都。道璿法師隆尊法師爲律師。

四月四日に参議・左中弁の石川朝臣年足等を派遣して、幣帛を伊勢太神宮に奉っている。また、使者を派遣して、幣帛を畿内・七道の諸社に奉り、遣唐使等が安泰であるようにさせている。二十二日に詔されて、「菩提法師」を僧正、良弁法師(漆部良弁)を少僧都、「道璿法師」・隆尊法師を律師に任じている(天平八[736]年十月の記事に「施唐僧道璿波羅門僧菩提等時服」があった)。

秋七月丁亥。天皇御南院賜宴大臣已下諸司主典已上。授正六位上紀朝臣伊保從五位下。女嬬无位刑部勝麻呂外從五位下。
八月辛亥朔。日有蝕之。

七月七日に大極殿の南院に出御されて、大臣以下諸司の主典以上を招いて宴を賜っている。「紀朝臣伊保」に従五位下、女孺の「刑部勝麻呂」に外従五位下を授けている。

八月一日に日蝕があったと記している。

<紀朝臣伊保(富)>
● 紀朝臣伊保

久々に系譜が知られている紀朝臣である。父親が雜物、となると大口の曽孫に当たる人物と知られている。なかなかの閨閥に属した出自と思われる。

「大口・弓張(祖父)」が居処とした海辺の地には、兄弟である大人の系列が大きく蔓延り、「弓張」の系列は「雜物」のように山側に移り住んだと解釈した。

名前のみを頼りとしたが、今回の伊保の登場で、「雜物」の出自場所が再確認されることになる。「保」が用いられている以上、どうやら真っ当な結果だったように思われる。

頻出の文字列である伊保=谷間に区切られた山稜が延びた端が丸く小高くなっているところと読み解ける。「雜物」の北側の谷間の出口辺りが出自と推定される。別名の伊富も「富」が表す酒樽の地形とすれば、問題なく適用される表記であろう。この後も幾つかの話題に関わって、續紀に登場されるようである。

<刑部勝麻呂-息麻呂>
● 刑部勝麻呂

「刑部」は、天武天皇の「刑部(忍壁)皇子」や文武天皇紀に登場した「刑部眞木」に含まれた文字列である。間違いなく「刑部」の地、古事記の忍坂大室の近辺と思われる(こちら参照)。

ところで、”女孺”と冠されていて、勝麻呂は男性の名前のようであり、些か腑に落ちない感じがするのだが、男性と間違えられるから、”女孺”と付記したとも考えられる。事実は闇の中であり、そのまま、この人物の出自の場所を求めることにする。

麻呂=萬呂とすると、「眞木」の北側の谷間にその地形が見出せる。もう、金辺峠が間近に迫る谷奧の地である。勿論、「刑部」から外れているわけではない。勝=朕+力=盛り上げられた様であり、台地上になっている場所を示していると思われる。地形象形的には、男女の区別よりも、正確な表現である「勝麻呂」を採用したのではなかろうか。そうあれば、実に稀有な例かもしれない。

後(淳仁天皇紀)に刑部息麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。反乱での戦に功があったようである。息=自+心=口から息を吐き出すよう様と解釈したが、「勝麻呂」の南隣の場所を表していることが解る。麻呂=萬呂、小ぶりだが同じ解釈となる。「眞木」を含めて「刑部」の三つの谷間が全て埋まった配置となったようである。

冬十月丙辰。從五位上伊香王。男高城王。无位池上王。賜甘南備眞人姓。丁巳。大倭國城下郡人大倭連田⾧。古人等八人賜宿祢姓。戊辰。布勢眞虫賜君姓。佐伯諸魚連姓。壬申。詔曰。頃者。太上天皇枕席不穩。由是。七ケ日間。屈請卌九賢僧於新藥師寺。依續命之法。設齋行道。仰願。聖躰平復。寳壽⾧久。經云。救濟受苦雜類衆生者。各免病延年。是以。依教大赦天下。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。丁丑。外從五位下吉田連兄人授從五位下。正六位上答本忠節外從五位下。

十月七日に伊香王、その息子の「高城王」、「池上王」に「甘南備眞人」の氏姓を賜っている。八日に「大倭國城下郡」の人、「大倭連田長・古人」等八人に宿祢姓を賜っている。十九日に「布勢眞虫」に君姓、「佐伯諸魚」に連姓を賜っている。

二十三日に以下のように詔されている・・・最近、太上天皇(聖武)の健康がすぐれない。そこで七々四十九日の間四十九人の優れた僧を新藥師寺に招き、続命の法を行うため供養に食事を用意し、行道を行いたい。乞い願わくば、天皇の病気が平癒して、御寿命の長久であることを。経典に[苦しみを受け、迷っている諸々の衆生を救済すれば、病から逃れて延命することができる]と言っている。そこでこの教えに従って、全国に大赦を行う。但し、八虐を犯した者、故意に殺人を犯した者、贋金造り、強盗・窃盗、及び通常の罪では赦免されない者は、恩赦の対象にはしない。

二十八日に吉田連兄人に従五位下、「答本忠節」に外従五位下を授けている。

● 高城王・池上王 二人の王については、既に父親の伊香王に併記した。臣籍降下後に賜った「甘南備眞人」氏姓は神前王に賜ったもので、彼等は同祖だが系列の異なる一族であったことが分かった。古くは古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、本牟智和氣の出自の場所と重なる地でもある。

高城=皺が寄ったような山稜が平らな高台になっているところ池上=川が蛇行して流れる地の上にあるところと読むと、前図に示した場所が出自と推定される。いずれにしても父親の近隣の地形を表していると思われる。

<大倭國城下郡>
大倭國城下郡

磯城(古事記の表記では師木)を分けて上・下郡とした、と知られている。その境界は何処?…これは思いの外に明瞭なのである。

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)に含まれる「久米」の谷間が相当する。多くの例があるように郡分割は、極めて明確であり、城上・下郡も例外ではないようである。現地名では田川郡香春町と田川市伊田との境である。

さて、登場した四名の人物、日付は異なるが後の二名も、「城下郡」を居処としていたのであろう。

大倭連田長・大倭連古人 前者の田長=田が長くのびているところは、特徴のない表記であるが、後者の古人が決め手となって彼等の出自場所を求めることができた。古人=丸く小高い地が谷間にあるところであり、その地形を図に示した場所に見出すことができる。

八人の集団に宿祢姓を与えていることから、この地の周辺に蔓延っていた一族と推測される。地図を再度詳細に確認すると、図に示した谷間が長く延びていることが分かった。「田長」の出自を特定するのは難しいが、おそらくその中央部、残り六人がその周辺に広がっていたと思われる。 

● 布勢眞虫・佐伯諸魚 共に大豪族の「布勢・佐伯」の氏名を持つ人物?…氏名が固有であれば、彼等は大豪族の一員となってしまうであろう。サイトを調べても解説されたものもないようである。相変わらず、”地名”に由来するしかなく、その”地名”の由来は不詳である。何度も述べたように、”地名”ではなく、”地形”に由来するのである。

ここでも後者の佐伯諸魚について先に述べる。頻出の佐伯=左手のように延びた山稜の傍で谷間がくっ付くところと解釈した。その地形が図に示した場所に見出せる。諸魚=魚(頭部)のような地で耕地が交差しているところと読み解ける。この場所が出自と推定される。

すると布勢眞蟲の場所が見えて来た。布勢=布を広げたような地の傍らで丸く小高くなっているところと解釈した。その地形が「諸魚」の東側に確認される。眞蟲=三つに岐れた山稜の端が寄り集まっている窪んだところが出自と思われる。正に、續紀は隈なく人物を登場させているのである。

<答本忠節>
● 答本忠節

「答本(答㶱)」氏は、書紀の天智天皇紀に百濟から避難した一族であり、「遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城」と記載されているように兵法に優れた人物として叙位もされている。

日本における居処は、名前が地形象形表記として近江大津宮・大郡・小郡の近隣と推定した。後(聖武天皇紀)に息子の「陽春」が登場し、「麻田連」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

忠節の「忠」=「中+心」=「真ん中を突き通すように山稜が延びている様」、「節(節)」=「竹+卽」=「山稜が折れ曲がったような様」と解釈すると、忠節=真ん中を突き通すように山稜が延びて折れ曲がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と思われる。

おそらく「陽春」の子らしいのだが、資料が残っていないのであろう。ならば、「麻田連」かと言うと、そうではない。「麻田連」は、淺井田根(『壬申の乱』における中臣連金大臣の処刑地)に由来する氏姓と推測した。「忠節」の谷間は、全く外れていることが分かる。このあたりも興味深いところなのだが、後日としよう。

調べると、「忠節」は、吉田連兄人と同様に、医師として活躍されていたことが知られている。多分、太上天皇の病気回復に寄与したのであろう。医師には、情報が集まるのであるが、口が災いし、後に政争に巻き込まれて命を落とされた、と言われている。

十一月丙戌。以從四位上吉備朝臣眞備爲入唐副使。己丑。勅。自天平勝寶元年已前。公私債負未納者。悉從原免。其借貸者不在此例。但身亡者准前。

十一月七日に吉備朝臣眞備を遣唐使の副使に任じている。十日に以下のように勅されている・・・天平勝寶元年より以前の公私の負債でまだ返済していない者があれば、全て免除する。借貸で借りている場合は、この適用を受けない。但し、借貸を受けた本人が死亡した場合は、前記に準じる・・・。

遣唐使の大使の藤原朝臣清河が従四位下だから副使の「眞備」の方が上位となっている。後に「清河」を昇位して体裁を整えるのであるが、左遷された身は、なかなかに辛いものがあったようである。朝廷としては「眞備」の遣唐使としての能力は捨て難ったのであろう。