2022年6月2日木曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(2) 〔589〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(2)


天平勝寶三年(西暦751年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月戊戌。天皇幸東大寺。授木工寮⾧上正六位上神礒部國麻呂外從五位下。庚子。天皇御大極殿南院。宴百官主典已上。賜祿有差。踏歌歌頭女嬬忍海伊太須。錦部河内。並授外從五位下。己酉。授正四位上大伴宿祢兄麻呂從三位。從四位上安宿王正四位下。從四位下大市王從四位上。无位道守王從五位下。正五位上阿倍朝臣虫麻呂。多治比眞人國人並從四位下。正五位下佐伯宿祢毛人正五位上。從五位上多治比眞人家主。大倭宿祢小東人並正五位下。從五位下高丘連河内。百濟王元忠。大伴宿祢古麻呂。縣犬養宿祢古麻呂。中臣朝臣清麻呂並從五位上。外從五位下余義仁。土師宿祢牛勝。正六位上三國眞人千國。石川朝臣人成。爲奈眞人東麻呂。藤原朝臣濱足。正六位下石上朝臣宅嗣並從五位下。正六位上甘味神寳。文忌寸上麻呂。河内忌寸廣足並外從五位下。」正三位竹野女王從二位。從三位多藝女王正三位。從五位下置始女王正五位下。无位呉原女王從五位下。從五位下佐味朝臣稻敷從五位上。是日。一品多紀内親王薨。天武天皇之皇女也。辛亥。賜正五位下大井王奈良眞人姓。无位垂水王。男三室王。甥三影王。日根王。名邊王。无位廬原王。男安曇王。三笠王。對馬王。物部王。牧野王。孫奈羅王。小倉王。无位猪名部王。男大湯坐王。堤王。菟原王。三上王。野原王。砺波王等三嶋眞人。无位御船王淡海眞人。无位等美王内眞人。无位壬生王。岡屋王美和眞人。无位清水王。男三狩王海上眞人。田部王春日眞人。文成王甘南備眞人。平群王。常陸王志紀眞人。

正月十四日に東大寺に行幸され、木工寮⾧上の「神礒部國麻呂」に外従五位下を授けている。十六日に大極殿の南院に出御され、百官の主典以上と宴を催して、それぞれに禄を賜っている。踏歌の音頭取りである女嬬(下級の女官)の忍海伊太須(忍海連伊賀虫に併記)・錦部河内(吉美に併記)に外從五位下を授けている。

二十五日に大伴宿祢兄麻呂に從三位、安宿王に正四位下、大市王に從四位上、「道守王」に從五位下、阿倍朝臣虫麻呂多治比眞人國人(家主に併記)に從四位下、佐伯宿祢毛人に正五位上、多治比眞人家主大倭宿祢小東人に正五位下、高丘連河内百濟王元忠()大伴宿祢古麻呂(三中に併記)縣犬養宿祢古麻呂中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に從五位上、余義仁土師宿祢牛勝・「三國眞人千國」・「石川朝臣人成」・「爲奈眞人東麻呂」・「藤原朝臣濱足」・「石上朝臣宅嗣」に從五位下、「甘味神寳」・文忌寸上麻呂(黒麻呂に併記)・「河内忌寸廣足」に外從五位下を授けている。また竹野女王を從二位に、多藝女王(多伎女王)を正三位に、「置始女王」を正五位下に、「呉原女王」を從五位下に、佐味朝臣稻敷(虫麻呂に併記)を從五位上にしている。この日、多紀内親王(託基皇女)が亡くなっている。天武天皇の皇女であった。

二十七日に「大井王」に「奈良眞人」姓(こちら参照)、「垂水王・(その子の)三室王・(その甥の)三影王・日根王・名邊王」及び「廬原王・(その子の)安曇王・三笠王・對馬王・物部王・牧野王・(その孫の)奈羅王・小倉王」及び「猪名部王・(その子の)大湯坐王・堤王・菟原王・三上王・野原王・砺波王」等に「三嶋眞人」姓、「御船王」に「淡海眞人」姓、「等美王」に「内眞人」姓、「壬生王・岡屋王」に「美和眞人」姓、「清水王・(その子の)三狩王」に「海上眞人」姓、田部王(山田史女嶋に併記)に「春日眞人」姓、文成王(伊香王に併記)に甘南備眞人姓、「平群王・常陸王」に「志紀眞人」姓を賜っている。

<神礒部國麻呂>
神礒部國麻呂

「木工寮長上」と記載されているが、東大寺造営において如何なる貢献があったのかは定かではない。憶測するに、材木の調達に寄与したのではなかろうか。木工作業もさることながら、資材の確保が優先するものと思われる。

「神礒部」は、勿論、記紀・續紀を通じて初見であり、この後に登場することもない氏名である。頻出の神=示+申=長く延びた山稜が高台になっている様であり、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)に含まれる「神」を示しているのであろう。

既出である礒=石+羊+我=谷間に幾つもの山稜が突き出ている様、結果として「谷間がギザギザ(我)としている様」を表すと解釈した。すると、その近く()に、谷間が少し広がって囲まれたような地()が見出せる。この場所が出自と推定される。

この谷間に畝火之白檮原宮があったと推定した。「神礒」は、”夜麻登”の最奥に当たる場所となる。東大寺の材木は、”白檮”であったことを暗示している、のかもしれない。

<道守王・伊刀王>
● 道守王

全く情報が欠落している王のようである。従五位下の叙位及び原文に記載された順序からすると天皇の曽孫だったのではなかろうか。

これまでに登場した諸王の中では、「穂積皇子」の子には坂合部王上道王の二人がいたと知られているが、この二人は共にかなり若くして亡くなった、おそらく二十代半ばであったと推測されている。

言い換えれば、「穂積皇子」の周辺に当て嵌る人物の登場が極めて少ないことも分かって来た。そんな背景でその地を中心に探索してみることにした。

道守王に含まれる既出の文字列である道守=両肘を張り出したように延びる山稜の端に首の付け根の形をした地があるところと読み解いた。「上道王」の南側の山稜の端辺りが、その地形を示していることが解る。

直ぐ後に伊刀王が従五位下を叙爵されて登場する。「道守王」と同様に系譜不詳で、かつ他の情報も殆ど得られない有様である。既出の文字列である伊刀=谷間に区切られた山稜に刀の形があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。

前記で系譜不詳だが「穂積皇子」の子と推定した日下女王の出自場所に近接する。憶測だが、「道守王・伊刀王」は「坂合部王」の子だったのかもしれない。

<三國眞人千國-百足-廣見>
● 三國眞人千國

三國眞人一族は、御諸山(現在の谷山)を発祥の地として、東に延びて北九州市門司区吉志に向かう谷間に広がった一族と推定した(こちら参照)。

その谷間の出口は、後に上野國邑樂郡と推定する場所となる。要するに三國眞人一族の登場人物は、「邑樂郡」に向かって広がって行ったのである。

既出の文字列である千國=谷間を束ねるように取り囲まれたところと読み解ける。「廣庭」の東側にその地形が見出せる。着実に、東へ東へ、である。

この後の續紀に記載される人物に三國眞人百足三國眞人廣見がいる。百足=山稜の端が小高くなっている地が並んでいるところ廣見=谷間が広がり延びているところと解釈される。更に東へ東へと延びていることが伺える。三國眞人の本貫の地、ほぼ確信となったようである。

<石川朝臣人成-豐成>
● 石川朝臣人成

調べると石足の子と知られていることが分かった。前出の「年足」の弟となる。それにしても凄まじいばかりの人材輩出であろう。

そんな事情で前記の図に併記することも考えたが、煩雑になり過ぎるので改めて作成することにした。人成の出自の場所は、石足の東側、谷間にある平らな台地になっているところと推定される。

孫の登場によって、やや曖昧であった祖父の安麻侶の出自の場所が露わにされて来たように思われる。それにしても、現在と変わらぬ賑わいの地であったことが伺える。いや、より栄えていたのかもしれない。

「人成」の最終官位は従五位上・民部大輔であり、この後の活躍は限られていたようである。子の石川朝臣道益が知られているが、その活躍される時期は續紀の記載範囲ではなかったようである(出自は「人成」の東隣)。

少し後に石川朝臣豊成が従五位下を叙爵されて登場する。「人成」の弟であったことが知られている。豐=丰+丰+山+豆=多くの段差がある高台の地形を示す場所を見出すことができる。最終官位正三位・中納言であった。

<爲奈眞人東麻呂-玉足-豊人>
● 爲奈眞人東麻呂

「爲奈眞人」の氏姓を持つ人物は、聖武天皇紀に馬養が外従五位下を叙爵されていた。「猪名眞人」、更には「韋那公」と同祖の一族であったと推測した。”イナ”の読みを同じくして、地形に依る表記を行っていると解釈された。

「爲奈」は、現在の観音山(団地)の西側に広がる地形を表し、古事記で登場する淡海之柴野入杵・柴野比賣等で表記される地と重なる場所である。書紀に、全く無視された人々である。

東麻呂の「東」は、大半が「東人」=「谷間を突き通すところ」として用いられる。狭い谷間の入口辺りを表す便利な表記なのである。その形式に順えば東麻呂=麻呂を突き通すところと解釈される。

ここで、「麻呂」=「積み重なった地が擦り潰されたようになっているところ」と読むと、観音山(現在は宅地開発されているが)を突き通す谷間の入口辺りを出自とする人物だったと思われる。従五位下に叙爵されているが、この後の記録は残っていないのであろう。

ずっと後(光仁天皇紀)になるが、爲奈眞人玉足が従四位下を叙爵されて登場する。女官としてかなり高位な人物であるが、およそ十年後に亡くなり、その時、従四位下・典藏(後宮藏司の次官)と記載されている。有能であったのであろう。玉足=玉の形の地に足が付いているようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。観音山は二つの玉のような山稜が寄り集まった地形だったと推察される(こちら参照)。

更に「玉足」の少し後に爲奈眞人豊人が従五位下を叙爵されて登場する。豐人=段差がある高台が谷間にあるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。この後幾度か登場されているが、爵位は変わらずのようである。

<藤原朝臣濱足-淨辨>
● 藤原朝臣濱足

濱足は、京家麻呂の子と知られている。前出の百能の弟であった。今回が初見であり、他の藤原三家の従弟等とは年代が離れていたことが伺える。後に参議・従三位と昇進するが、紆余曲折を経ていたようである。

頻出の文字列である濱足=水辺の近くに足のような山稜が延びているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

父親の血を引いたのか、文人として事績を残しているとのことだが、上記の昇進に現れているように官人としては目立った存在ではなかったように思われる。後に改名して濱成と名乗っているが、地形象形していることが解る。

少し後に藤原朝臣淨弁が民の困窮を調べるために東海・東山両道への使者に任じられている。藤原一族でありながら、系譜が不詳、関連する情報も見当たらないようである。その後に幾度か登場されるが、續紀では正六位下の爵位のままである。

系譜が些か曖昧なのは、京家の「麻呂」の子孫に見られることから、出自場所もその近隣として探索するとそれらしき場所が見出せる。既出の文字列である淨弁(辨)=水辺で両腕のような山稜で取り囲まれた地が切り分けられたところと読み解ける。「麻呂」の西側の山稜の端辺りが出自と推定される。

<石上朝臣宅嗣-奥繼-家成>
● 石上朝臣宅嗣

物部一族の奔流となり、「石上朝臣」氏姓を賜った「麻呂」の孫と知られている(大連物部目系譜参照)。古事記が記す邇邇藝命の兄、天火明命(邇藝速日命)の後裔に対する畏敬なのであろうか、物部一族の取り扱いは、異例である。

兎も角も、着実に世代を越えて人材が輩出されていることが伺える。宅嗣本人の実力もあり、「石上大朝臣」を賜り、最終官位は正三位(贈正二位)・大納言であったと伝えられている。

既出の文字である宅=宀+宅=谷間に山稜が延び出ている様嗣=囗+冊+司=谷間が山稜に挟まれて狭まった様と解釈した。図に示した場所を表していると思われる。この後、多くの「藤原朝臣」一族が政権の中枢を占める中で、その一角を担った”大物”の出自場所である。

後(淳仁天皇紀)に北陸道巡察使に任じられた石上朝臣奥繼が登場する。「宅嗣」の弟であろうと言われている。それを参考にすると奥繼=囲まれて奥まった地が繋がっているところ、即ち「宅嗣」で示される狭まった谷間の奥に当たる場所を表している。この人物も最終従四位上・大宰大弐まで昇進されている。

更に後に石上朝臣家成が従五位下を叙爵されて登場する。調べると「東人」の子であったことが分かった。家成=豚の口のような山稜の端の麓で平らな高台になっているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。その後、昇進されて従三位・宮内卿となったと伝えられている。

<甘味神寶>
甘味神寳

孝謙天皇の侍医だったと知られているらしいが、續紀での登場はここのみであり、素性は全く不詳のようである。渡来系の人物が名乗った名前であろう。

「甘味」を”甘い食べ物”と読んでは身も蓋もない、いや、そうとしか読めないから、この人物に関する解説が皆無なのであろう。

「甘味」は、「檮岡(書紀、本来は日本紀)+白檮(古事記)」の表記から抽出して合わせた名称と推測される。実に味なことをした医者だった、のである。

既出の文字列の神寶神=示+申=延びた山稜が高台になっている様寶=宀+玉+缶+貝=山稜に囲まれた谷間に玉や管のような地がある様であり、前出の藥園宮の取り囲まれた丸く小高い地と傍らの四角く延びた地を捉えた表記と思われる。藥園宮に含まれる医薬に関わる意味を重ねた表現であり、また、大郡宮も含めて両宮が甘檮岡(味白檮)にあったことが裏付けられた、と思われる。

<河内忌寸廣足>
● 河内忌寸廣足

「河内忌寸」は、元正天皇紀に「人足」が解工(用水工事)に優れた人物として褒賞され、また従五位下を叙爵されている。

文武天皇紀では、攝津國造であった「凡河内忌寸石麻呂」が行幸に寄与したとして位階を上げられたりしている(出自場所はこちら参照)。

廣足も彼等の近隣を出自としていたと推測され、名前が表す地形を求めると図に示した場所が見出せる。古事記で記載された天津日子根命が祖となった凡川內國造という、実に由緒ある地である。

「凡河内忌寸」も”凡”が省略された「河内忌寸」も、この後續紀には記載されることがなく、この人物が最後の登場となる。全く未開の近淡海國が徐々に発展し、人々が下流域へと移住して行ったのであろう。日本の歴史は、山奥の谷間から河口部へ移行する有様を物語っていると思われる。

<置始女王>
● 置始女王

いつものことながら系譜不詳の女王である。ならば、先ずは飛鳥近辺を探索することに・・・「置始」は既出の文字列である。

書紀の孝徳天皇紀に置始連大伯が登場していた。物部派生氏族であり、その本貫の地周辺と推定した(現地名は北九州市小倉南区新道寺)。

置始が表す地形は、極めて特徴的である。あらためてその地形を表現すると、「置」=「閉じ込められたような真っ直ぐな様」、「始」=「嫋やかに曲がって耜のような山稜が延びている様」と解釈した。

要するにの谷間の出口が真っ直ぐになって狭まっている()地形を表していると解読される。その地形を氷高皇女・吉備皇女の南側に見出すことができる。活躍の具体的な記述はないようだが、最終官位従四位下となっている。

<呉原女王>
● 呉原女王

上記と同様に系譜不詳の女王であり、関連する情報も皆無のようである。呉原は、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に「此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也」と記載されている。

古事記が”呉人”だから”呉原”と述べるような時は、必ず重ねた表現なのである。即ち、「呉」が地形象形している筈である。

この「呉原」を現在の呉川が流れる谷間の奧にあったと推定した。帶中津日子命(仲哀天皇)の穴門之豐浦宮があった辺りである。勿論、「呉」は残存地名と思われる。

ところで、この谷間は、後の天武天皇紀に鏡王及びその娘の額田姫王の出自の場所と推定した(こちら参照)。「鏡」=「金+竟(坂合)」=「三角に尖った地の傍らで山稜が交差するようになっている様」と解釈した。これを思い起こすと、一気に全ての文字が繋がっていることに気付かされる。

「呉」は、「呉」=「夨+囗」=「交差するような様」と解説されている。「竟」に類似した地形を表す文字であることが解る。古事記の意味深な表現が漸くにして解読されたと思われる。

● 廬原王・安曇王・名邊王・三笠王・砺波王(三嶋眞人)

廬原王・安曇王・名邊王・三笠王・礪波王
総勢二十名の王を一挙に臣籍降下させて三嶋眞人氏姓を賜ったと記載している。

その中の一人ぐらいは、既に登場しても良さそうなのだが、現実はそうではなかったようである。

「三嶋」は、勿論古事記に登場した三嶋湟咋の出自の場所に関わる名称と思われる。今思えば、「湟咋」の登場以後、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に近隣に住まっていた意富多多泥古が現れたぐらいで、この地を出自とする人物は皆無であった。

西側には縣犬養一族が蔓延っていたわけで、この地に住まう人がいないわけがない、と思いつつも記紀・續紀を通じてお目に掛かれる機会がなかったのである。そんな背景で二十名の王の出自の場所を求めてみよう。

それなりに広範囲に渡る地域となることから下・中・上流域の三つに分けて述べる。また、⑴垂水王系列、⑵廬原王系列、⑶猪名部王系列の三つの系列があったことも記載されている。先ずは下流域に配置される各王の名前が示す地形に基づいた結果を述べる。

廬原王に含まれる既出の廬=广+虍+囟+皿=虎の縦縞のように並んだ山稜の麓に窪んで平らな地がある様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出すことができる。「廬」は、かなりの頻度で用いられて来た。特徴的な地形を表すのに都合のよい文字であろう。

「廬原王」の北側で雲のような山稜が延びる谷間が安曇王の場所と推定される。頻出の安=宀+女=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに延びている様曇=日+雲=[火]のような地の傍で[雲]のように延びる山稜がある様と解釈した。「日」は後に述べる「三室王」の場所を示している。

三笠王は、その北側の山稜に三角の頂上を持つ山が見られる。この山の形を三笠と表現したと思われる。「雲」の山稜の端が名邊王の出自の場所であろう。既出の文字列である名邊=山稜の端の三角州が広がり延びたところと解釈される。この三角州は、現在では三島団地となっている場所である。

河内之美努村に含まれる場所である。その南側にある山稜の端(波)の谷間が、最後に登場の砺(礪)波王の出自と推定される。幾度か登場した礪=石+厂+萬=山麓の地が[蠍]のような形をしている様と解釈した。下流域の隅々まで配置されたようにも伺えるが、まだまだ余裕がありそうである。また後日に登場するのかもしれない。楽しみに読み進んでみよう。

● 垂水王・三室王・三影王・日根王・對馬王・野原王・小倉王・三上王(三嶋眞人)

<垂水王・三室王・三影王・日根王>
<對馬王・野原王・小倉王・三上王>
中流域の中心は垂水王である。「垂」は、幾度か用いられた文字で、古事記では「垂根」の文字列があり、書紀では吉備笠臣垂が登場している。

「垂」=「𠂹+土」と分解されるが、要するに文字形通りに「谷間が二つに岐れて延びている様」を表す文字と思われる。垂水=二つに岐れた谷間に川が流れているところと読み解ける。

図に示した場所が出自と推定される。その東側の山が三つの谷間を寄せ集めたように地形を示し、そこが三室王の出自と思われる。三つの谷間で作られた形が日(炎)であり、上記の「曇」の「日」に当たると推測される。

更にその南側に高台が三段に並んでいる地が見出せる。三影王影=日+京+彡=[炎]の地の傍で高台がならんいる様と読むと、この王の出自の場所、多分真ん中の高台、と推定される。それぞれに地形の変化は小ぶりだが、明瞭であろう。日根=山稜の端が[根]のように岐れて延びて[火]のように見えるところ日根王の出自の場所と思われる。

對馬王對=業+寸=ギザギザとした山稜が手のように延びている様と解釈した。通常に用いられる「対(ツイ)」の意味とすると、全く見当違いに嵌ってしまうことになる。山稜の全体を馬の形と見做したのであろう。「對馬王」の出自の場所は、図に示した辺りと推定される。

西側の広い谷間に三つの小高い地が三角形の隅になって並んでいる地形が認められる。それを小倉と表記したと思われる。谷間の出口、今は池になっているが、辺りが小倉王の出自の場所と思われる。野原王は、一に特定するのが難しい表記であるが、おそらく、図に示した谷間が広がった辺りを出自としたのではなかろうか。

中流域の最後の三上王は、幾度か登場した三上=三段になって地が盛り上がっているところと読むと、最も北側の山稜がやや平坦になった場所と思われる。下流域と同じく、山稜に上手く散りばめられた配置となっている。がしかし、まだまだ余裕がありそうでもある。

● 猪名部王・大湯坐王・堤王・菟原王・物部王・牧野王・奈羅王(三嶋眞人)

猪名部王・大湯坐王・堤王・菟原王>
物部王・牧野王・奈羅王>
上流域は、「猪名部王」を中心とし
た配置であろう。山稜の起伏が明瞭になって来ることから、彼等の出自場所は、きっと、明確になる、かもしれない。

猪名部王猪=平らな頂の山稜が交差するような様名=夕+囗=山稜の端に三角州がある様と解釈したが、その地形が大きな谷間の中央に延びている二つの山稜の端辺りを表していることが解る。「部」が付加されていることから、その地の近隣であることを示している。

東側の谷間は、急傾斜の谷間が二つ並んでいる地形である。大湯坐王大=山稜の頂が平らになっている様湯=急流の川が流れている様坐=二つの谷間が並んでいる様と解釈した。「湯」は古事記の伊余湯で読み解いた文字である。「坐」は日子坐王に用いられた文字である。何とも懐かしい文字列にお目に掛かれたようである。

堤王堤=土+是=大地が匙のように延びている様と解釈したが、その地形が北側に見出せる。菟原王菟=艸+免=山稜が並んだ谷間で分娩時のように子が延び出ている様と解釈した。書紀でしばしば用いられた文字であるが、一例として菟道を挙げておこう。図に示した場所が出自と推定される。

物部王の「物部」は、所謂「物部一族」の地形であろう。正にぴったりと当て嵌まる場所を見出すことができる。牧野王牧=牛+攴=牛の角ような山稜が岐れて延びている様であり、最北に山稜の端にその地形を表していると思われる。その東隣は奈羅王の出自の場所と推定される。奈羅=高台が連なっているいるところと解釈される。

<三嶋眞人一族>

上図に全体を纏めて示した。併せて上記した
⑴垂水王系列、⑵廬原王系列、⑶猪名部王系列の三つの系列を記載した(親子:実線、甥:孫は破線)。総じて言えることは、かなり入り混じった関係であったことが伺える。例えば❻廬原王の子が、⓮猪名部王の近隣に広がったり()、逆に⓮猪名部王の子が❻廬原王の近くに()、また、その地には❶垂水王の甥()が広がったりしている。

一族内でのせめぎ合いかもしれないし、入り混じることによって一族間の結束を強固にしたのかもしれない。この後は、三嶋眞人廬原・安曇・大湯坐等の活躍が記載されるが、他は表舞台への登場は知られていないようである。上記で述べたように現地名の京都郡みやこ町勝山箕田・長川・宮原のほぼ全域に住まった王等であったことが解った。

<御船王(淡海眞人)>
● 御船王(淡海眞人)

神武天皇から元正天皇(神功皇后を含む)までの漢風諡号を撰定したことで知られる。天智天皇の子の大友皇子(天武天皇の娘、十市皇女)の曽孫である。

父親は池邉王、既に現在の田川郡赤村内田と赤との境にある場所を出自とする一家であったと推定した。赤村小・中学校があり、おそらく、この地域の中心的な場所であったと推測される。

長く地方官も勤め、最終官位は従四位下・刑部卿だったと知られている。また文人として、上記の石上朝臣宅嗣(最終正三位・大納言)と双璧であったと伝えられている。

既出の文字列である御船=船の形のような地を束ねるところと読み解ける。さて、船の地形が見出せるのか?…通常の地図では判り辛いが、陰影を強調した図を示した。すると山稜が岐れて細長く延びている地形を確認することができる。

賜った淡海眞人淡海=水辺で母が両腕で抱くように曲がった地の上に[炎]のような地があるところと読み解く。古事記で頻出する淡海ではなく、書紀の調連(首)淡海のように人名に用いられた場合に類似する。”船”と”淡海”とを合わせた、なかなかに妙を得た表記であろう。そして、十市葛野池邉淡海の文字が表す地形が登場する人物の出自の場所を詳細に伝えていることが解る。

<等美王(内眞人)-絲井-石田>
● 等美王(内眞人)

本王に関する情報は、皆無であり、ならば臣籍降下後の内眞人氏姓については、何らかの手掛かりが得られるかと、期待しつつも、結果は無残であった。

「内眞人」を名乗る人物が、かなり後になって二名ほど登場するようであり、後裔が存在していたことが伝えられている。しかし、系譜等の詳細は不明である。

そんな背景で、「内」一文字で表される場所は何処と考えるか?…古事記の穂積臣の祖である内色許男命・内色許賣命と表記された、即ち天押帶日子命が祖となった壹比韋臣の場所と推察される。

等美王等美=二つの山稜が揃って並んでいる谷間が広がったところと読み解ける。図に示した場所がと推定される。その谷間の出口の西側が前出の桑内王の出自の場所と推定した。「内」で繋がった表記が登場していたのである。現地名の田川郡赤村内田山の内、これらは立派な残存地名であろう。

後(淳仁天皇紀)に内眞人絲井が従五位下を叙爵されて登場する。多分女官かと思われるが、定かではない。出自の場所は、図に示した通り、絲井=細い山稜が並んでいる取り囲まれたようなところと解釈される。

また、ずっと後に内眞人石田が同じく従五位下を叙爵されている。「石田」の地形を地図上では確認し辛いが、図に示した辺りと思われる。「内」の場所は、ほぼ確定的のように思われる。

<壬生王-岡屋王(美和眞人)>
壬生王・岡屋王(美和眞人)

調べると「高市皇子」の子孫と、一説に言われているようである。すると、「長屋王」の子が東に広がった場所、特に黄文王の出自の谷間が広々としていたことが思い出される。

先ずは、この地で二人の王の出自の場所を求めてみよう。壬生王に含まれる既出の文字列である壬生=ふっくらとした山稜が生え出ているところと解釈した。「山背王」の背後の山稜(書紀の天武天皇紀に細川山と推定)の端が、その地形を示していることが解る。出自の場所は、その北麓と思われる。

岡屋王岡=网+山=谷間に山稜が延びている様と解釈したが、上記の「壬生」を表していると思われる。その行き着いた()ところが出自と推定される。

二人が賜った美和眞人美和=谷間が広がった傍らにしなやかに曲がる山稜が延びているところと解釈する。古事記の美和山で用いられた文字列である。どうやら高市皇子の系列と見做して問題ない様子である(父親は黄文王 or 山背王?…多分、後に謀反に連座し、系譜抹消の黃文王)。

<淸水王・三狩王(海上眞人)>
● 清水王・三狩王(海上眞人)

調べると、この親子は百濟王の子孫と知られているようである。詳細な系譜は明らかではなく、同じく臣籍降下した高安王や櫻井王(こちら参照、大原眞人氏姓)と同祖となる。

清水王の「清水」は、現在では見慣れた文字列なのだが、記紀・續紀を通じて初見である。頻出の「清(淸)」=「氵+生+井(丼)」=「水辺にできた四角く取り囲まれた様」と解釈した。それに「水」が繋がると、淸水=水辺にできた四角く取り囲まれた地が水を湛えているところと読み解ける。

確かに、水が絡むという稀な地形を表し、今まで登場しなかったのも頷けるようであるが、図に示した場所に求めることができる。この地は、古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった倭淹知造の場所と推定した。要するに水浸しの地なのである。全く矛盾のない記述と思われる。

三狩王の「狩」=「犬+守(宀+寸)」と分解されるが、これも初見と思われる。文字要素を繋げれば、三狩=三段になった平らな山稜が腕の肘を張ったように延びているところと読み解ける。おそらく出自の場所は、その中段辺りと思われる。

海上眞人海上=水辺で母が両腕で抱えるように盛り上がった山稜が延びているところと読み解ける。山稜の端で些か地形が崩れているが、的確に表記していると思われる。これより二十数年後に遣唐使の一員となって唐に向かう、幾多の不測の事態に陥ったが、無事に帰国したとのことである。

<平群王・常陸王>
● 平群王・常陸王(志紀眞人)

この二人の王に関する情報は、皆無のようである。名前も「平群」、「常陸」と既出の文字列であって、それぞれが表す地形の場所をそのまま近隣に並べるのは無理がある。

更に、賜った志紀眞人氏姓の「志紀」も既出であり、一層困難な状況に陥ってしまう。言い換えれば、これら三つが表す地形が寄り集まった地を一に特定できることに繋がるかもしれない。

また、王である以上、過去に皇子の居処及びその近隣であることも必要であり、これらの四つの要件を満たす地で二人の王の出自の場所を求めてみよう。

天武天皇の多数の子等が住まった地である忍坂、現地名の田川郡香春町で「紀」に関わる名前を持っていたのが、紀皇女であった。そして、故あって文武天皇の妃として紀朝臣竃門娘と記載されていたと推測した。

既出の常陸=北向きの山稜が並ぶ大地が盛り上がったところと解釈したが、「常」に含まれる文字要素の「向」は、煙が北向きの窓に向かう様を表す文字である。即ち、「竈」の様子を示し、常陸王の出自場所が紀皇女の近隣であったことが解る。正に驚きの解読結果となったようである。

平群王の既出の文字列である平群=谷間で山稜が区分けされて平らになったところと読むと図に示した場所が見出せる。志紀=うねって曲がる山稜の傍らに蛇行する川が流れているところであり、上記の四つの要件を満たす地であることが解る。

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「臣籍降下」(現在では皇籍離脱)は、様々な要因で行われたのであろうが(こちら参照)、多くの皇族が誕生し、”空白”の地が埋め尽くされようとしているという最も切実な課題への対応であったように思われる。

現在のように沖積が進行して平野が広がった地形を望むべくもなく、多くは山間の谷間が主たる居処ならば、自ずと”空白”の地が限られて来る。「臣籍降下」は、歴史の転換期に向かう、必然の作業だったのであろう。

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