2022年5月25日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(1) 〔588〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(1)


天平勝寶二年(西暦750年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月庚寅朔。天皇御大安殿受朝。」是日。車駕還大郡宮。宴五位以上。賜祿有差。自餘五位已上者於藥園宮給饗焉。己亥。左降從四位上吉備朝臣眞備爲筑前守。乙巳。授正三位藤原朝臣仲麻呂從二位。正四位上多治比眞人廣足從三位。從四位上多治比眞人占部正四位下。從四位下平群朝臣廣成。藤原朝臣永手並從四位上。正五位下藤原朝臣巨勢麻呂正五位上。從五位下大倭宿祢小東人從五位上。外從五位下大藏忌寸廣足。調連馬養。正六位上下毛野朝臣多具比並從五位下。正六位上秦忌寸首麻呂。大石村主眞人。大原史遊麻呂並外從五位下。左大臣正一位橘宿祢諸兄賜朝臣姓。丙辰。從四位上背奈王福信等六人賜高麗朝臣姓。」造東大寺官人已下優婆塞已上。一等卅三人叙位三階。二等二百四人二階。三等四百卅四人一階。

正月一日に天皇は大安殿に出御されて朝賀を受けている。この日に天皇は大郡宮に還り、五位以上の官人と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。その他の五位以上の者は、藥園宮で饗応している。十日に吉備朝臣眞備を左遷して筑前守としている。

十六日に、藤原朝臣仲麻呂に從二位、多治比眞人廣足(廣成に併記)に從三位、多治比眞人占部に正四位下、平群朝臣廣成藤原朝臣永手に從四位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に正五位上、大倭宿祢小東人に從五位上、大藏忌寸廣足(老・伎國足に併記)調連馬養・「下毛野朝臣多具比」に從五位下、「秦忌寸首麻呂」・大石村主眞人(廣嶋に併記)・「大原史遊麻呂」に外從五位下を授けている。また、左大臣の橘宿祢諸兄に朝臣姓を賜っている。

二十七日に背奈王(公)福信等六人に高麗朝臣の氏姓を賜っている。造東大寺の官人から優婆塞まで、功績が一等の者三十三人に位三階を、二等の二百四人に位二階、三等の四百三十四人に一階を与えている。

<下毛野朝臣多具比>
● 下毛野朝臣多具比

初見で従五位下の叙爵故に、既に多くの人材が輩出している下毛野朝臣の一員であったのであろう。ただこの一族の系譜が知られている場合は少なく、この人物も不詳のようである。

やや”古風”な名前であるが、既出の文字列であり、そのまま読み解いてみよう。久々に登場の「具」=「鼎+廾」=「窪んだ地が二つの山稜に挟まれている様」と解釈した。古事記では迦具夜比賣倭男具那命(小碓命)などに用いられている。

纏めると多具比=山稜の端で山稜に挟まれた窪んだ地が並んでいるところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出すことができる。その東側は大野朝臣一族が蔓延った地と推測したが、端境の谷間が出自と思われる。後に従五位上・遠江守に任じられたようである。

<秦忌寸首麻呂-眞成>
● 秦忌寸首麻呂

調べると「秦忌寸大魚」(外従五位下、下野守)の子と知られている。ならば葛野秦造河勝から始まる秦一族なのである。図に示したように”河勝→石勝→廣庭→大魚”と繋がった系譜である(こちらも参照)。

”外”が付くような家柄ではないように思われるが、父親の大魚も”外”が付いたまま、昇進することがなかったようで、それを引き継いでいるのかもしれない。

父親の近隣で出自の場所を求めると、「魚」のヒレの一つが、窪んだ地形をしていることが解る。それを「首」に見立てた表記かと思われる。ご本人の續紀での登場はこれが唯一であり、その後の様子を伺うことは叶わない。

後(称徳天皇紀)に弟の秦忌寸眞成が銭・牛を献上して外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である眞成=平らな高台が窪んだ地に寄り集まっているところと解釈される。「首麻呂」の東側の谷間を表していることが解る。「河勝」の嫡流は、牛麻呂(孫の朝元等)系列の活躍の陰に隠れた存在だったようである。

<大原史遊麻呂-大原連家主>
● 大原史遊麻呂

「大原史」そのものも初見であり、また関連する情報も得ることは難しいようである。續紀に記載されるのも、これが最初で最後という有様である。

「大原」は、高安王等が臣籍降下して賜った氏姓「大原眞人」に含まれている。ならば、彼等が出自とする地の「大原」を示している?…ではなかろう。土地の名称は、固有ではないのである。

関連する場所として、河内國丹比郡に棲息する河原史一族が登場していた。船史(連)津史(後に連姓を賜う)の下流域に広がっていたと推定した。その更に下流域に大原の地形を示す山稜が広がっていることに気付かされる。

先ずは姓の史=中+又=真ん中を突き通すように山稜が延びている様と解釈した。名前に用いられた「遊」は希少である。地形象形表記として、「遊」=「辶+㫃+子」と分解される。遊=たなびく旗のような地から生え出た様と読み解ける。また、麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と求められる。

後(淳仁天皇紀)に大原連家主が外従五位下を叙爵されて登場する。「史」から「連」姓は、「史」の使用を回避したからであろう。家主=真っ直ぐに延びる山稜の端が豚の口のようになっているところと解釈される。図に示した場所に、その地形を見出せる。

書紀の斉明天皇紀に有間皇子が謀議したとされた市經家が記載されている。その「家」に通じる場所と思われる。現在の大原八幡神社の祭神は、大原足尼命(推定した出自場所を図に記載)他と由緒に記載されているそうである。「大原連」との繋がりは?…”絶妙に”外しているのが、多くの神社の由来であろう。

二月癸亥。天皇御大安殿。出雲國造外正六位上出雲臣弟山奏神齋賀事。授弟山外從五位下。自餘祝部叙位有差。並賜絁綿。亦各有差。戊辰。天皇從大郡宮。移御藥師寺宮。乙亥。幸春日酒殿。」唐人正六位上李元環授外從五位下。壬午。益大倭金光明寺封三千五百戸。通前五千戸。戊子。奉充一品八幡大神封八百戸。〈前四百廿戸。今加三百八十戸〉位田八十町。〈前五十町。今加卅町。〉二品比賣神封六百戸。位出六十町。

二月四日に大安殿に出御されて、出雲國造の出雲臣弟山(果安に併記)が神齋賀事を奏上している(天平十八[746]年三月に國造に任じられた)。「弟山」に外従五位下を、その他の祝部にそれぞれ位を授け、並びに絁・真綿を身分に応じて賜っている。九日に天皇は大郡宮から薬師寺宮(藤原宮近隣の藥師を宮としたか)に移っている。

十六日に「春日酒殿」に行幸されている。この日に唐人の「李元環」に外從五位下を授けている。二十三日に「大倭金光明寺」に封戸三千五百戸を増加し、以前と合わせて五千戸となっている。二十九日に一品の八幡大神に封戸八百戸<以前に四百二十戸、この度が三百八十戸>、位田八十町<以前に五十町、この度が三十町>、二品の比賣神には封戸六百戸・位田六十町を寄進している。

<春日酒殿・李元環-小娘>
春日酒殿

調べると、現在の春日大社にある酒殿に関係する記事が多く見られる。酒造所らしいのだが、孝謙天皇が見学に来られたのであろうか。

今回の行幸の目的は、本文の脈絡からすると唐楽の名演奏家と知られる「李元環」への叙位、即ち唐楽演奏を視聴することであろう。

續紀編者も演奏会への行幸とは、直截的には記述し辛かったのかもしれない。いずれにせよ、「酒殿」を酒造所に置換えるとは、全く支離滅裂な解釈である。勿論、「酒殿」は、地形象形表記である。

「酒」=「氵+酉(畐)」=「水辺にある酒樽のような様」、「殿」の文字解釈は、些か複雑であり、結果のみを記すと「殿」=「底部でどっしりとしている様」と解釈される。通常の解釈もこの意味を含み、「臀部」などに含まれる文字である。纏めると酒殿=水辺にある酒樽のような山稜の端がどっしりとしているところと読み解ける。

図に示したように若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の春日之伊邪河宮の対岸の地に見出すことができる。伊迦賀色許男命・伊賀迦色許賣命の出自の場所と推定した谷間である(こちら参照)。直近では、その子孫の箭集宿祢の二人が登場していた。

● 李元環 唐人名であるが、「元環」は地形象形表記ではなかろうか。元=〇+儿=丸く小高い地から足のように山稜が延びている様と解釈した。名前に用いられたのは初見かと思われる環=玉+睘=丸く取り囲んでいる様と読み解くと、図に示した場所の地形を表していることが解る。

この子孫が後に淸宗宿祢の氏姓を賜ったことが知られている。淸宗=水辺で四角く区切られた地が谷間にある高台の傍らにあるところと読み解ける。少々適用範囲が狭められているいるが、真っ当な氏姓であると思われる。後(称徳天皇紀)に李小娘が内位の従五位下を叙爵されて登場する。事変での功績に基づいた叙位に紛れているが、高野天皇の思い入れではなかろうか。系譜は不詳だが、間違いなく唐楽に関係した女性だったと推測される。

「元環」が率いる唐楽演団の二胡の音色、超絶技巧に圧倒されたのであろう。女子十二楽坊の話題を聞かなくなったが、現在も活動されているのかな?・・・いきなりの外従五位下叙爵は、その感動を表しているようであり、流石に阿倍皇女かも、である。

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大倭金光明寺に「益大倭金光明寺封三千五百戸。通前五千戸」と記載されている。前記で本寺は金鍾寺(後の東大寺)として解釈したが、既に封戸四千戸が施入されていて、数が合わない記述である(こちら参照)。参考にしている資料では、単なる数字の間違いではないか、と注記されている。

前述したように「金光明寺」の表記では、その場所を求めることができず、「金鍾寺」からその場所を求めた。と言うことは、本寺の場所は不明とすべきであり、言い換えると、「金寺」とは異なる寺であり、多分近隣にあったと思われる。本来近江國甲賀郡紫香樂に建てられたが(金寺、甲賀寺)、紆余曲折あって大倭の地に移されたのである。この経緯を續紀は詳細に語らない。紫香樂宮への遷宮が思わしくなかった故に曖昧なままにされたのであろう。

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三月戊戌。駿河守從五位下楢原造東人等。於部内廬原郡多胡浦濱。獲黄金獻之。〈練金一分。沙金一分。〉於是。東人等賜勤臣姓。」又賜中衛員外少將從五位下田邊史難波等上毛野君姓。庚子。以正四位下多治比眞人占部爲攝津大夫。從五位下紀朝臣小楫爲山背守。從四位下百濟王孝忠爲出雲守。從五位下内藏忌寸黒人爲⾧門守。從五位上大伴宿祢犬養爲播磨守。正五位上多治比眞人國人。藤原朝臣乙麻呂並爲大宰少貳。 

三月十日に駿河守の楢原造東人等が管内の「廬原郡多胡浦」の浜で黄金を発見し、献上している<注。錬金一分、砂金一分>。よって「東人」等に「勤臣」(伊蘇志臣)の氏姓を賜っている。また中衛員外少将の田邊史難波(史部虫麻呂に併記)等に「上毛野君」(田邊史鳥の”胴体”を”毛”と見做した表記)の氏姓を賜っている。

十二日に多治比眞人占部攝津大夫、紀朝臣小楫を山背守、百濟王孝忠()を出雲守、内藏忌寸黒人を⾧門守、大伴宿祢犬養(三中に併記)を播磨守、多治比眞人國人(家主に併記)・藤原朝臣乙麻呂を大宰少貳に任じている。

<駿河國廬原郡多胡浦・益頭郡>
駿河國廬原郡多胡浦

この郡名は初見であり、勿論多胡浦も初登場である。そもそも駿河國そのものが詳細に語られることはなかった。書紀では、安閑天皇紀に初出し、斉明天皇紀に造船をさせたと記載されるのみである(こちら参照)。

廬原郡の「廬」は、既に幾度か用いられた文字である。古事記では大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の黑田廬戸宮に含まれている。廬=广+虍+囟+皿=山麓で虎の縞模様のような山稜が並んでいる様と解釈した。

現在の地図では、宅地になって不明だが、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、見事にその地形であったことが分かる。多胡浦の「多胡」は上野國多胡郡に用いられていた。類似の地形を表す表記であろう。多胡=山稜の端が小高く盛り上がって三日月のようになっているところと解釈した。図に示した場所と推定される。

尚、書紀の天智天皇紀に廬原君が登場していた。百濟支援のために白村江へ派遣された将軍(救将)であったと記載されている。今回で「廬原」の場所がより詳細に解読された。些か誤差があるが、前記は、そのままにして置くことにする。また、前記で陸奥國小田郡で得られた黄金は、「多胡浦」の浜辺で見つかるような”練金・沙金”ではなく、”金鉱石”であったことが裏付けられた、と思われる。

後に駿河國益頭郡が登場する。次の元号「天平字」の由来に関わる地と記載されている。既出の文字列である益頭=谷間に挟まれた一様に平らな地にある頭のような小高いところと読み解ける。「廬原郡」の西側の山稜の地形を表している。

夏四月戊午朔。正六位上佐味朝臣乙麻呂贈從五位下。」正六位上高向村主老授外從五位下。辛酉。勅。比來之間。緑有所思。歸藥師經行道懴悔。冀施恩恕兼欲濟人。盡洗瑕穢更令自新。仍可大赦天下并免今年四畿内調。其私鑄錢。及犯八虐。故殺人。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦限。但入死者降一等。又中臣卜部紀奧乎麻呂。減配中流。

四月一日に佐味朝臣乙麻呂(虫麻呂に併記)に從五位下を贈り、「高向村主老」に外從五位下を授けている。四日に次のように勅されている・・・近頃、心に期するところがあって、藥師経に帰依し、行道(経を唱えながら仏像などの周りを巡る行)や懺悔を行った。他に対して恵みと思いやりを施し、併せて民衆を救済したいと願っている。全ての過ちや穢れを洗い流し、その上で自分自身も生まれ変わりたい。そこで全国に大赦を行い、併せて今年度の畿内四ヶ國からの調を免除する。贋金造り、及び八虐を犯した者、故意に殺人を犯した者、強盗・窃盗、通常の恩赦では赦されない者は、恩赦の対象にはしない。但し、死刑に該当する者は、一等を減刑する。また、「中臣卜部紀奧乎麻呂」は、配流を中流に減じる・・・。

<高向村主老>
● 高向村主老

「高向村主」は、書紀の舒明天皇紀に登場した高向漢人玄理の出自の場所を居処とする一族であったと知られている。

「玄理」は、推古天皇紀に遣隋使小野妹子に随行して留学し、およそ三十年後に帰国している。更に遣唐使して皇帝高宗に謁見するも、客死したと伝えられている。

実に百年以上もの間、歴史の表舞台に現れる人物がいなかったようである。その地の現地名は、京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間と推定した。高向=皺が寄ったような山稜が北に向かって延びているところと解釈し、律令編纂に関わった鍜造大角(後に「守部連」氏姓を賜う)の対岸に位置する場所である。

余談だが、高向の由来は、河内国錦部郡高向村の地名に基づくとか。地名は由来にならない。高向村の地名由来は?…高向漢人が住まっていたから?…堂々巡りとなるのは、論理ではない。

それは兎も角、老=山稜が海老のように曲がっているところと読めば、図に示した場所が出自と推定される。尚、国土地理院航空写真1961~9年(こちら)を参照すると、見事な棚田が作られていることが伺える。高向漢人や鍜造大角のような渡来人が居住していた谷間である。日本は、彼等によって国としての基盤が形成されたのである。

<中臣卜部紀奧乎麻呂>
● 中臣卜部紀奧乎麻呂

何かの罪を犯して配流されていたのであろう。中臣卜部(連)、多数登場している”中臣〇〇連”の複姓(直近の例はこちら)の持ち主だったと思われる。

すると、「中臣」の地で卜部=山稜が折れ曲がったように近隣で延びている様の地形を求めることになる。図に示した通り、「中臣」の谷間の北側にある山稜の地形を表している。

紀奧=「己」の形に曲がって延びる山稜に取り囲まれている様と読み解ける。即ち、「紀」の山稜が複数あって、それらに囲まれた谷間があることを表現しているのである。乎麻呂乎=口を開いたように谷間が延びている様であり、その囲まれた谷間の様子を表していることが解る。

正に地形要素を余すことなく盛り込んだ命名である。通常に読んでは、全く意味不明であり、参考資料では、「卜部」を神祇官の一部署とし、紀”直”乎麻呂に換えられている。「中臣部」の解釈も同様に怪しいのであるが、それはまた後日としよう。

五月乙未。於中宮安殿。請僧一百講仁王經。并令左右京。四畿内。七道諸國講説焉。辛丑。以從三位百濟王敬福爲宮内卿。從五位上藤原朝臣千尋爲美濃守。外從五位下壬生使主宇太麻呂爲但馬守。丙午。伊蘇志臣東人之親族卅四人賜姓伊蘇志臣族。辛亥。震中山寺。塔并歩廊盡燒。」京中驟雨。水潦汎溢。」又伎人。茨田等堤往往決壞。
六月癸亥。備前國飢。賑給之。

五月八日に中宮の安殿で、僧百人を招請して仁王経を講義させ、併せて左右両京・四幾内・七道の諸國に講義・解釈させている。十四日に百濟王敬福()を宮内卿、藤原朝臣千尋を美濃守、壬生使主宇太麻呂(壬生直國依に併記)を但馬守に任じている。十九日に伊蘇志臣東人の親族、三十四人に「伊蘇志臣族」姓を賜っている。

二十四日に「中山寺」が雷火にあい、塔及び歩廊を全て焼失している。京中ににわか雨が降り、川の水が溢れ出ている。また、河内の「伎人堤・茨田堤」などが所々決壊している。

六月二十七日に備前國に飢饉が起こり、物を恵み与えて救っている。

<中山寺>
中山寺

いつものこととは言え、唐突な登場であって、二度とお目に掛かれることもないようである。歴史の舞台には、遠く離れた存在の寺であろう。

少々調べると聖徳太子(厩戸皇子)が建てたとの伝承を持つ同名の寺が存在しているとのことである。一体幾つの寺を建てたのであろうか?…寄って集って廐戸皇子に絡めることが望まれた、のかもしれない。

と言うことで、鵤の地の近辺でその名前が示す地形を満足する場所を求めることにする。すると、思いの外、それらしき場所が見出せる。中山=真ん中を突き通すように[山]の形の山稜が延びているところと読むと、古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮があった椅子のような形をした谷間(倉椅)の真ん中を突き通す山稜の端にある小高い地を表していると思われる。

ところでこの場所は書紀の天武天皇紀に齋宮於倉梯河上を建てたと記載さている。「中山寺」は、その跡地に造られたのかもしれない。「齋」の地形に含まれる三つの山稜を「山」と見做したのではなかろうか。

平城宮のほぼ真北にあたり、凄まじい雷鳴がとどろき、その後の火災を遠望したのではなかろうか。全く手の施しようもなく、神仏に祈念するしかなかったであろう。「齋宮」も「中山寺」も歴史の闇に紛れ込んでしまったようである。

<伎人堤・茨田堤>
伎人堤・茨田堤

伎人堤は後として、古事記の大雀命(仁徳天皇)の事績の一つに挙げられた茨田堤について再度その詳細を述べてみよう。超有名なこの堤は、現在の淀川の堤防にあったとされ、現地調査が行われている。がしかし、その痕跡も見出せず、現在に至っているようである。

茨田の意味が不明なまま堤防を探索しても見出すことは叶わないであろう。本著は、場所もさることながら、この堤は、川の堤防と言うよりも、むしろ海辺の防波堤であったと推察した。

図に示したように小ぶりな多くの谷間が海辺に延びる地形であり、そこに造られた茨田(棚田)の端で海に面するようにし、防波堤の機能を持たせたものと思われる。おそらく潮の干満に対応する水門も造っていたのではなかろうか。耕地面積の拡大に大きく寄与したと結論付けた。

伎人堤は初見である。先ずは「伎人」の既出の文字列を読んでみよう。「伎人=技術者」と読んでは全く意味不明となろう。勿論、地形を表しているのである。「伎」=「人+支」=「谷間が岐れている様」であるから、伎人=谷間の中で更に谷間が岐れているところと解釈する。どうやら、茨田堤の西側の谷間、河内惠賀之長江の様相を表現していると思われる。

堤は、山稜の地形を利用して盛土(積み石)をし、防波堤のように谷間に突き出したのではなかろうか。茨田堤も同様に川の増水によって押し流された決壊したのであろう。現在は、低地の広々とした水田が当たり前のように見られるが、古事記でも幾度か述べたように、川の下流域の開拓は、この時代になっても困難を極めていたと思われる。

秋七月甲辰。攝津國瓺玉大魚賣。參河國海直玉依賣一産三男。並給正税三百束。乳母一人。

七月十八日に攝津國の「瓺玉大魚賣」と參河國の「海直玉依賣」が一度に男子の三つ子を産んでいる。それぞれに正税三百束と乳母一人を給わっている。

<瓺玉大魚賣・神奴意支奈・祝⾧月>
● 瓺玉大魚賣

「瓺玉」とは、一体何を象形しているのか、些か戸惑うところなのだが、こういう場合は、むしろ地形要素をそのまま並べた表記えあることが多い。

「瓺(長+瓦)」の文字は、原文では左右逆の並びとなっているが、フォントが見出せず、異字体を用いた。「瓺」=「口が小さく胴が大きく膨らんだ瓶のような様」と解釈する。

纏めると瓺玉=口が小さく胴が大きく膨らんだ瓶のような地に玉があるところと読み解ける。現在の行橋市の八景山を玉と見做した表記と思われる。既出の大魚=平らな頂の山稜の端が魚の尾鰭のように岐れているところと解釈した。三つ子の生誕の地は、図に示した場所、裏ノ谷池に面するところと推定される。

この裏ノ谷池近隣は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、建豐波豆羅和氣王が祖となった依網之阿毘古と推定され、また、次の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の事績に多くの依網池を造ったことが述べられている。

依網=谷間にある山稜の端の三角州が見えなくなったところである。おそらく、今のような大きな池ではないにしても、当時もこの地は山稜に挟まれた池となっていたように推測される。水が豊かにある地だったのであろう。尚、この地は元明天皇紀に登場した能勢郡に近接する地と思われるが、未だ定かではない。また、西側の山稜の西麓に関しては、下記に述べる。

<海直玉依賣>
● 海直玉依賣

「參河國」の「玉依賣」・・・本著が読み解いて来た最も重要な地点の一つを示す表記であろう。古事記の豐玉毘賣命・玉依毘賣命が坐した場所は、現在の北九州市小倉南区湯川にあったと推定した。

そして後に登場する三川之衣・穗がその地を表していると読み解いた。「穗」=「勾玉」と見做した表現だったのである。

その玉依毘賣命から神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が誕生し、幾多の困難を乗り越えて天皇家の隆盛が始まったのである。この人物の登場によって、全てが繋がった、と思われる。海直=真っ直ぐに延びた山稜の前に母が両腕で抱えるような地があるところと読み解ける。「直」を姓と解釈することもできる。図に示した場所を表している。

八月庚申。正六位上大伴宿祢伯麻呂。外從五位下葛木連戸主並授從五位下。正四位下日置女王。從四位上丹生女王。從四位下春日女王並正四位上。從四位下難波女王從四位上。无位山代女王從五位下。從五位下藤原朝臣家子正五位上。无位當麻眞人比礼從五位下。辛未。攝津國住吉郡人外從五位下依羅我孫忍麻呂等五人。賜依羅宿祢姓。神奴意支奈。祝⾧月等五十三人依羅物忌姓。

八月五日に大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)・葛木連戸主に從五位下、日置女王丹生女王春日女王に正四位上、難波女王(海上女王に併記)に從四位上、山代女王(出雲王に併記)に從五位下、藤原朝臣家子(百能に併記)に正五位上、「當麻眞人比礼」に從五位下を授けている。

十六日に攝津國住吉郡の人、依羅我孫忍麻呂等五人に「依羅宿祢」姓を、また「神奴意支奈・祝⾧月」等五十三人に「依羅物忌」姓を賜っている。

<當麻眞人比禮-淨成>
● 當麻眞人比礼

初見で内位の従五位下を授かっていることから、前記で登場した當麻眞人子老と同じく「當麻一族」の奔流の地に関わる人物と推測される。

そんな背景で、書紀の天武天皇紀に登場した當摩公廣嶋等の近辺、即ち、葛城の山麓に近付いた場所を探索することにした。

比礼(禮)の「禮」=「示+豊」=「高台が揃って並んでいる様」を表すと解釈した。古事記の伊波禮で用いられた文字である。現在の常用漢字である「礼」とは大きく異なる文字形であるが、「礼」=「示+乚」=「押さえて整える」の意味を表すことから、簡略の文字として使用されるようになったとのことである。

その地形を図に示した場所に求めることができる。延びた山稜が揃っていると見做せるように思われる。比礼(禮)=高台が揃って並んでいるところと読み解ける。あらためて地図を見ると、「伊波禮」も同じく、山稜の端が揃っていることが伺える。意外なところで「禮」の解釈がすっきりと整えられたようである。

後に當麻眞人淨成が、同じく内位の従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列の淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲む平らになったところと読み解ける。「比礼」の麓の谷間を表していると思われる。

● 神奴意支奈・祝⾧月 彼等には攝津國の郡名、「住吉郡」が付加されている。前出の依羅我孫忍麻呂が登場した時に読み解いたが、現在の矢留山塊の西側、犀川(今川)との間の地域と推測した。かなり限定された場所であり、果たして二名の人物を収めることができるか?…”古事記風”の名称である<上図参照>。

「神」=「示+申」=「山稜が延びて高台になっている様」、「奴」=「女+又」=「山稜が嫋やかに曲がって延びている様」、「意」=「音+心」=「取り囲まれている様」、「支」=「岐れている様」、「奈」=「木+示」=「山稜が高台になっている様」と解釈した。

神奴=長く延びている高台と嫋やかに曲がっている山稜が並んでいるところ意支奈=岐れた高台に囲まれているところと読み解ける。依羅宿祢姓を賜った地の南隣の谷間を表していることが解る。「意支奈」は上図では判別し辛いが、拡大すると谷間の中が更に岐れていることが認められる。ありったけの地形象形表記であろう。

初見の「祝」=「示+兄」=「谷間の奥が広がって高台になっている様」と解釈し、「長月」=「山稜が長く延びた三日月の形をしている様」とすると、祝長月=谷間の奥が広がって高台になっている地の傍らに長く延びた三日月の形をした山稜があるところと読み解ける。更に南側の谷間を表していると思われる。前出の槻本連の奥に当たる場所である。

賜った依羅物忌姓は、少々変わった姓であるが、物=牛+勿=牛の角のような谷間に幾つかの山稜が延び出ている様([勿]の文字形の様)忌=己+心=山稜が[己]の形に曲がって延びている様と解釈した。図に示したように、二人の人物の地形を合わせた表記と思われる。「依羅宿祢」とせずに区別したのには、何かの理由があったのかもしれない。

九月丙戌朔。中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨。左大臣贈從一位麻呂之子也。」正六位上赤染造廣足。赤染高麻呂等廿四人賜常世連姓。己酉。任遣唐使。以從四位下藤原朝臣清河爲大使。從五位下大伴宿祢古麻呂爲副使。判官主典各四人。

九月一日に中納言兼中務卿の「石上朝臣乙麻呂」が亡くなっている。左大臣の「麻呂」の子であった(こちら参照)。また赤染造廣足・赤染高麻呂等二十四人に「常世連」姓を賜っている(天平十九[747]年八月では”九人”に授けている)。二十四日に遣唐使として、藤原朝臣清河を大使、大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を副使、判官・主典に各四人を任じている。

冬十月丙辰朔。詔授正五位上藤原朝臣乙麻呂從三位。任大宰帥。以八幡大神教也。癸酉。太上天皇改葬於奈保山陵。天下素服擧哀。

十月一日に藤原朝臣乙麻呂に從三位を授け、大宰帥に任じている。これは八幡大神の教示に依ったものである(正五位上になったばかりで異例の昇進。後日談がありそうである)。十八日に(元正)太上天皇を奈保山陵(那富山)に改葬している。国中白無地に喪服を着て擧哀(泣き叫ぶ儀礼)している。

十一月己丑。左衛士督正四位下佐伯宿祢淨麻呂卒。

十一月四日に佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)が亡くなっている。

十二月癸亥。授駿河國守從五位下勤臣東人從五位上。獲金人无位三使連淨足從六位下。賜絁卌疋。綿卌屯。正税二千束。」出金郡免今年田租。郡司主帳已上進位有差。」又遣大納言藤原朝臣仲麻呂。就東大寺。授從五位上市原王正五位下。從五位下佐伯宿祢今毛人正五位上。從五位下高市連大國正五位下。外從五位下柿本小玉。高市連眞麻呂並外從五位上。

十二月九日に駿河國守の勤臣東人(楢原造、伊蘇志臣)に從五位上、獲金人の三使連淨足(人麻呂に併記)に從六位下を授け、絁・真綿などを賜っている。出金の郡の今年の田租を免じている。郡司の主帳以上は各々進位している。また、大納言の藤原朝臣仲麻呂東大寺に遣わして、市原王(阿紀王に併記)に正五位下、佐伯宿祢今毛人に正五位上、高市連大國に正五位下、柿本小玉(市守に併記)・高市連眞麻呂(大國に併記)に外從五位上を授けている。

東大寺に於いて行われた叙位について、造東大寺司での功績を示しているようだが、筆頭の「市原王」は従五位上から一階、一方従五位下であった「佐伯宿祢今毛人」が一気に正五位上に昇進している。「高市連大國」は二階の昇進であり、功績の評価は厳密であったようである。

「市原王」の最終官位は正五位下で、志貴皇子(施基皇子)の後裔であり、叔父が後に天皇になるのだが、その即位以前に亡くなったのでは?…と推測されている。この後の活躍もあまり評価されていなかった、と伝えられている。