寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(8)
天平勝寶六年(西暦754年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
秋七月丙午。詔曰。頃者大皇大后枕席不安。稍延旬月。百方救療。猶未平復。感愴之懷。良深罔極。朕聞。皇天輔徳。徳勝不祥。庶施慈令。奉資寳體。欲使寢膳如常。起居穩便。可大赦天下。但八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦限。」此日度僧一百人。尼七人。」授入唐判官正六位上布勢朝臣人主從五位下。以從五位上中臣朝臣清麻呂爲左中弁。從五位下阿倍朝臣小嶋爲式部少輔。外從五位下壬生使主宇陀麻呂爲玄蕃頭。從五位下大伴宿祢御依爲主税頭。從五位下紀朝臣伊保爲大炊頭。從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲典藥頭。從五位下布勢朝臣人主爲駿河守。從五位下阿倍朝臣綱麻呂爲出雲守。從五位下小野朝臣東人爲備前守。從五位上波多朝臣足人爲備後守。壬子。大皇大后崩於中宮。癸丑。以正一位橘朝臣諸兄。從三位文室眞人珍努。紀朝臣麻路。正四位下安宿王。從五位下厚見王。從四位下多治比眞人國人。從五位下多治比眞人木人。紀朝臣男楫。阿倍朝臣毛人。石川朝臣豊成。外從五位下文忌寸上麻呂。爲御装束司。六位已下十二人。從二位藤原朝臣豊成。從三位多治比眞人廣足。藤原朝臣永手。從四位上池田王。正四位下大伴宿祢古麻呂。從四位上文室眞人大市。正五位上佐伯宿祢今毛人。從五位上縣犬養宿祢古麻呂。從五位下紀朝臣廣名。粟田朝臣人成爲造山司。六位已下廿一人。
七月十三日に以下のように詔されている・・・この頃、大皇太后(宮子)は、健康がすぐれず、その状態がほぼ十ヶ月も続いている。百方手を尽くして治療をしているが、なお回復には至らない。心を痛めることは深く極まりない。朕は[大いなる天は、德を行う人を輔け、德を行う人には災難に打ち勝つと聞いている。そこで慈しみのある政令を施して大皇太后のお体をお助けし、寝食を常のように、そして立ち居など日常の生活に不便がないようにさせてあげたいと思う。天下に大赦を行おうと思う。但し、八虐、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦に含まれない者は、この赦の範囲に入れない・・・。
この日、僧百人、尼七人を得度している。また、布勢朝臣人主(首名に併記)に従五位下を授けている。中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を左中弁、阿倍朝臣小嶋(子嶋。駿河に併記)を式部少輔、壬生使主宇陀麻呂(宇太麻呂。壬生直國依に併記)を玄蕃頭、大伴宿祢御依(三中に併記)を主税頭、紀朝臣伊保を大炊頭、忌部宿祢鳥麻呂(烏麻呂)を典藥頭、布勢朝臣人主を駿河守、阿倍朝臣綱麻呂を出雲守、小野朝臣東人(馬養に併記)を備前守、波多朝臣足人(孫足)を備後守に任じている。
八月丁夘。正四位下安宿王率誄人奉誄。謚曰千尋葛藤高知天宮姫之尊。是日。火葬於佐保山陵。
● 千尋葛藤高知天宮姫之尊
藤原朝臣不比等と賀茂比賣との間に誕生した藤原朝臣宮子は、初めて生前中に正一位を授与され、また女性初であった。述べるまでもないが、聖武天皇の母、孝謙天皇の祖母である。
歴代天皇の和風諡号についても、真面に読み解けていないのが現状であるが、「宮子」に送られた「謚」も何を意味するのか皆目見当がつかないようである。せいぜい「藤」が入っているのは「藤原」に関わる人物、のような程度ある。勿論、Wikipediaでは、全く触れられていない。
文字列千尋葛藤高知天宮は、そこに含まれる文字は、全て地形象形表記に用いられて来た文字である。即座に「宮子」の出自の地形を表していると推測される。一文字一文字を並べてみよう。
「千」=「人+一」=「谷間を束ねる様」、「尋」=「[⺕・工](左)+[又・囗](右)」=「左右の手のような山稜が合わさっている様」、纏めると千尋=谷間を左右の手のような山稜で束ねたところと解釈される。藤原朝臣千尋で用いられている。「宮子」の谷間を山稜が大きく包む地形を表している。
その「宮子」の谷間を葛=艸+曰+兦+勹=遮られて閉じ込められたような様、藤=艸+朕+水=谷間に池が段々に並んでいる様と表現している。現在の地図では「池」を確認することは叶わないようである。この二文字は、”葛城”と”藤原”とを重ねた表記と思われる。
高=皺が寄ったような様、知=矢+口=鏃の様、天=一+大=阿麻=擦り潰されたような平らな様と解釈した。「宮子」の北側の山稜の地形を表していると思われる。最後の宮=宀+呂=山稜に挟まれた谷間の奥が広がっている様であり、「宮子」を示している。
「宮子」の出自場所の地形を余すことなく並べ立てた表記であることが解る。通常、生前の事績に基づくようだが、それとは異なり、生誕の地を意味している。人は、またその地に輪廻することを表しているのではなかろうか。生を受けることが如何に神聖な出来事であるかを示唆しているように感じられる。いずれにしても、別格の扱いであろう。
九月丙申。以正四位下安宿王。爲兼内匠頭。從四位上文室眞人大市爲大藏卿。從四位上紀朝臣飯麻呂爲右京大夫。從四位上石川朝臣麻呂爲武藏守。從五位下佐伯宿祢大成爲丹後守。外從五位下中臣丸連張弓爲因幡守。丁未。勅。如聞。諸國司等。貪求利潤。輸租不實。擧税多欺。由是。百姓漸勞。正倉頗空。宜令京及諸國田租。不論得不。悉皆全輸。正税之利擧十取三。但田不熟。至免調庸限者。准令處分。又覽去天平八年格。國司等所部交關。運物無限者。禁斷既訖。然猶不肯承行。貪濁成俗。朕之股肱。豈合如此。自今以後。更有違犯。依法科罪。不須矜宥。
十五日に次のように詔されている・・・諸國の國司等は、利潤を貪り求めるので、田租の輸納は正しく行われず、出挙した正税の取り立てにも偽りが多い。そのため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっていると聞く。そこで京及び諸國の田租は、収穫の有無に係わりなく、全て正倉に輸納させることにし、正税の利潤も三割とせよ。但し、田が熟さず、調・庸を免除する範囲に入った場合は、令に準拠して処分せよ。---≪続≫---
また、去る天平八(736)年の格を見ると、國司等が國内において交易し無制限に物を運ぶことは、既に禁止されている。ところが、なお敢えて承って順行するという考えがなく、貪って心を穢すことが一般化している。朕の手となり足となる者が、どうしてこのままでよかろうか。今より以後は、更に違反する者があれば、法に従って刑罰に処すことにせよ。哀れみをかけて許してはならない・・・。
冬十月乙亥。勅。官人百姓。不畏憲法。私聚徒衆。任意雙六。至於淫迷。子無順父。終亡家業。亦虧孝道。因斯。遍仰京畿七道諸國。固令禁斷。其六位已下。無論男女。决杖一百。不須蔭贖。但五位者。即解見任。及奪位祿位田。四位已上。停給封戸。職田。國郡司阿容不禁。亦皆解任。若有糺告廿人已上者。无位叙位三階。有位賜物絁十疋。布十端。己夘。仰畿内七道諸國令置射田。
十月十四日に以下のように勅されている・・・官人や人民は、憲法を畏れず、密かに仲間を集め、意のままに双六を行い、悪の道に迷い込み、そのため子は父に従わなくなっている。これではついには家の業を失い、また孝の道を損ずるであろう。これにより広く京及び畿内と七道の諸國に命令を下し、固く双六を禁止させる。これを犯した場合、六位以下の官人は男女を問わず杖百の刑に処し、蔭や贖などを適用してはならない。但し、五位の官人は直ちに現職を解任して位禄と位田を奪い、四位以上の官人は封戸の支給を停止せよ。識の官人及び諸國の國司や郡司が黙認して双六を禁止しなければ、また全て解任せよ。もし双六を行う者二十人以上を告発する者があれば、無位の者には位を三階授け、有位の者には、絁十疋・麻布十端を賜うことにする・・・。
十八日に畿内と七道の諸國に命令を下し、射田(軍団兵士のための田)を設置させている。
閏十月庚戌。從五位下秋篠王。男繼成王。姪濱名王。船城王。愛智王五人賜丘基眞人姓。」外從五位上額田部湯坐連息長授從五位下。辛亥。令大宰府鎭祭管内諸國山岡崩壤之處。
閏十月十九日に秋篠王、その男子の「繼成王」、姪(甥)の「濱名王・船城王・愛智王」の五人に「丘基眞人」の氏姓を賜っている。また「額田部湯坐連息長」に従五位下を授けている。二十日に太宰府に命じて、管内諸國の山や岡の崩壊現場で地鎮祭をさせている。
● 秋篠王・繼成王・濱名王・船城王・愛智王:丘基眞人
秋篠王は、既に登場し、百濟王・竹田王の後裔として、出自の場所を求めた。その時に先走って、後に豐國眞人として臣籍降下するとしたが、その前があって、一時期、丘基眞人の氏姓を賜っていたようである。
些か意味不明な”丘基”より”豐國”の方が好まれたのであろう。先ずは、息子や甥(当時は「姪」が「甥」を意味する)の出自の場所を当て嵌めてみよう。
息子の繼成王の繼成=平らに盛り上げられた地を引き継ぐところと解釈される。「秋篠王」の西側、一旦山稜が途切れて再度小高くなった場所を示していると思われる。実のところ息子の登場で、「秋篠王」の居処が鮮明になった、と言う訳である。
濱名王の濱名=山稜の端の三日月の形の地が水辺の近くにあるところと解釈すると、図に示した「秋篠王」の南側に当たる場所が出自と推定される。船城王の船城=船の形をした平らに盛り上げられたところと読むと、「秋篠王」の北側の小高いところの麓辺りが出自であろう。
愛智王の「愛」=「旡+心+夂」=「足を広げて延ばしたような山稜の端が尽きる(途切れている)様」、頻出の「智」=「矢+口+日」=「山稜が[鏃]のような形した傍に[炎]のような形がある様」と解釈した。
纏めると愛智=山稜が足を広げて延ばしたような山稜の端が途切れている地で[鏃]のような形した傍に[炎]のような形があるところと読み解ける。図に示した最も北側の場所が出自と思われる。[炎]を外せば、地形象形表記の「愛知」が示す地形である。
丘基眞人の「基」=「其+土」=「[箕]の形をしている様」と読み解いた。施基皇子に用いられていた文字である。すると丘基=丘が[箕]の形して並んでいるところと読み解ける。「秋篠」の地形の別表記とも言える。ただ、豐國=段々になった高台がある囲まれたところが分り易く、的確な表記であろう。天平勝寶七(755)年四月記の「從五位下丘基眞人秋篠等廿一人更賜豊國眞人姓」参照。
<額田部湯坐連息長> |
● 額田部湯坐連息長
この地は、額田→額田部→額田部湯坐と繋がり、現在の大坂山・愛宕山の西麓に延びる谷間の地形を表す名称なのである(こちら参照)。
何度か述べたように、湯=氵+昜=水が飛び散る様であり、急流の川の様子を表す文字と解釈した。これを熱湯のように読んでは、全く意味不明な解釈に陥ってしまうのである。”伊余湯”は、温泉ではなく、水が飛び散るように流れる山奥の僻地を表す表記である。
前置きが長くなったが、息長=山稜の端が長く延びているところと解釈した。その地形が額田部湯坐連の地に見出せる。標高差が微小であるが、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、もう少し、その実態が確認されるようである。内位の従五位下を叙爵されている。續紀は、忘却の彼方の地を掘り起こしているのであろう。
十一月辛酉朔。任巡察使。以從四位上池田王爲畿内使。從五位下紀朝臣小楫爲東海道使。從五位下石川朝臣豊成爲東山道使。從五位下藤原朝臣武良志爲北陸道使。從五位上大伴宿祢家持爲山陰道使。從五位下阿倍朝臣毛人爲山陽道使。從五位下多治比眞人木人爲南海道使。從四位上紀朝臣飯麻呂爲西海道使。道別録事一人。戊辰。勅。朕以至款奉爲二尊御體平安。寶壽増長。一七之間。屈卌九僧。歸依藥師琉璃光佛。恭敬供養。其經云。懸續命幡。燃卌九燈。應放雜類衆生。竊以。放生之中。莫若救人。宜依茲教。可大赦天下。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。及常赦所不免者。不在赦限。若入死罪。並減一等。辛未。大唐學問生无位船連夫子授外從五位下。辞而不受。以出家故也。甲申。藥師寺僧行信。与八幡神宮主神大神朝臣多麻呂等。同意厭魅。下所司推勘。罪合遠流。於是。遣中納言多治比眞人廣足。就藥師寺宣詔。以行信配下野藥師寺。丁亥。從四位下大神朝臣杜女。外從五位下大神朝臣多麻呂並除名從本姓。杜女配於日向國。多麻呂於多褹嶋。因更擇他人。補神宮祢宜祝。其封戸位田。并雜物一事已上。令大宰検知焉。
十一月一日に巡察使を任命している。池田王を畿内使、紀朝臣小楫(男楫)を東海道使、石川朝臣豊成(人成に併記)を東山道使、藤原朝臣武良志(武良自)を北陸道使、大伴宿祢家持を山陰道使、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を山陽道使、多治比眞人木人を南海道使、紀朝臣飯麻呂を西海道使に、またそれぞれに録事一人を任じている。
八日に以下のように勅されている・・・朕は真心を以って聖武太上天皇と光明皇太后のお二人の御体の平安と寿命の増長のため、七日間、四十九人の僧を招き、薬師琉璃光仏に帰依して、つつしみ敬って供養を行い奉ることにする。その経には[続命の幡を懸け、四十九の燈火を灯し、さまざまな種類の多くの生き物を放て]とある。心中密かに思うに、この放生の中でも、人を救う以上の供養はない。この教えに従って、天下に大赦を行う。但し、八虐を犯した者、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗、及び尋常の罪では許されない者は、この赦の範囲に入れない。もし、死罪にあたる者があれば、それぞれ罪一等を減ぜよ・・・。
十一日に大唐学問生の船連夫子(吉麻呂に併記)に外従五位下を授けたが、辞退して受けなかった。出家するからであった。
二十四日に藥師寺の僧の「行信」(天平十[738]年閏七月に律師)と八幡神宮の主神・大神朝臣多麻呂(田麻呂)等は、心を合わせて人を呪い殺そうとする呪法を行った。両人を捕らえて所司に下して取り調べたところ、罪は遠流に相当するという。そのため、中納言の多治比眞人廣足(廣成に併記)を遣わし、藥師寺において詔を宣べさせ、「行信」を下野藥師寺に配流している。
二十七日に大神朝臣杜女・大神朝臣多麻呂を、それぞれ除名し、朝臣姓を返上させて本姓大神に戻させている。そして「杜女」は日向國、「多麻呂」は多褹嶋(多禰。こちらも参照)に配流している。これによりあらためて他の人を択び、八幡神宮の禰宜・祝に補任している。彼等の封戸・位田とそのほかの雑物は一件以上全て大宰府に検べて管理させている。
十二月乙夘。左大舍人无位多米王賜高額眞人姓。
是年八月。風水。畿内及諸國一十。百姓産業損傷。並加賑恤。
十二月二十五日に左大舎人の「多米王」に高額眞人の氏姓を賜っている。
この年の八月に風水害があり、畿内及び諸道の國々十ヶ國の人民の産業が損傷した。それぞれに物を恵み与えた、と記載している。
<多米王> |
● 多米王
全く出自不詳の王のようである。多米王の名称は、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子にあったが、出自の場所は、”蘇賀”と推定された(こちら参照)。
勿論、類似の地形を示すのであるが、賜った高額眞人の地形を併せ持たなければならない。すると、正にそれらしきところが見出せる。
上宮之厩戸豐聰耳命(厩戸皇子)の子に泊瀬仲王がいたことが知られている。その「仲」=「人+中」=「谷間の真ん中を突き通すような様」の山稜の端(多)を米として表現したのが多米と解釈される。
そして、意祁命(仁賢天皇)の石上廣高宮(上宮)があった山稜を高額と見做した氏姓高額眞人を賜ったと読み解ける。泊瀬仲王は、推古天皇崩御後の皇嗣争いの中で、兄の山背大兄王を推す側に立ったが、結局は破れ、間もなく亡くなったと書紀が記載している。百二十年以上も前の出来事であった。その後この地に関わる人物は登場していない。これも埋没地の掘り起こし、かもしれない。