2022年7月15日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(9) 〔596〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(9)


天平勝寶七年(西暦755年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月辛酉朔。廢朝。以諒闇故也。甲子。勅。爲有所思。宜改天平勝寳七年。爲天平勝寳七歳。」從七位上山田史廣人。從五位下比賣嶋女等七人。賜山田御井宿祢姓。甲戌。外正六位上丸子大國贈從五位下。外正六位下六人部藥授外從五位下。

正月一日、朝賀を廃している。大皇太后宮子が亡くなって諒闇(天皇が喪に服す)のためである。四日に[思うところがあるため、「天平勝寶七年」を改めて「天平勝寶七歳」とせよ]と勅されている(唐國の表記に準じたか)。この日、山田史廣人・比賣嶋女(前出。山田三井宿祢併記)等七人に「山田御井宿祢」(山田三井宿祢)の氏姓を賜っている。十四日に丸子大國に從五位下を贈り、「六人部藥」に外從五位下を授けている。

<六人部藥>
● 六人部藥

「六人部」は、六人部王に用いられた文字列ではあるが、無姓の氏族名としては初見であろう。後に「六人部連」の姓を持つ人物が登場するが、無姓の一族は、右京の地が本貫であったと伝えられている。

六人部六人=谷間(人)で盛り上がって広がる(六)地があるところであり、その部=近隣を表していると解釈される。その地形を求めると、大來皇女の山稜が延びた場所、來目皇子(古事記では久米王)、更には久米朝臣が蔓延った地域にある、図に示した場所と推定される。

頻出の藥=山稜に挟まれた谷間に丸く小高い地があるところと解釈したが、その地形も地図上で確認することができる。後に六人部久須利の別称が記載されている。久須利=[く]の字形に曲がった州が切り分けられているところと読み解けば、視点を変えた表記であることが解る。

「久須利(クスリ)」は、「藥」の訓読みである。即ち「藥」のことを意味すると解釈されるが、全ての「藥」が表す地形ではない。あくまで、この人物にのみ適用される別表記なのである。

三月庚申朔。外從五位下山田史君足賜廣野連姓。丁亥。八幡大神託宣曰。神吾不願矯託神命。請取封一千四百戸。田一百卌町。徒无所用。如捨山野。宜奉返朝廷。唯留常神田耳。依神宣行之。

三月一日に山田史君足(前出。廣野連併記)に「廣野連」姓を賜っている。二十八日に八幡大神は、次のように託宣している・・・神である吾は、偽りを言って神の託宣にかこつけることを願わない。先に請け取った封戸千四百戸・位田百四十町は、用いる所がなく役に立たない。このままでは山野に捨てて置くようなものである。故に朝廷にお返しし、尋常の神田を留めるだけにしたい・・・。神の宣に従って処理している。

夏四月丁未。從五位下丘基眞人秋篠等廿一人更賜豊國眞人姓。

四月十八日に丘基眞人秋篠(秋篠王。豐國眞人併記)等二十一人に、更に「豊國眞人」姓を賜っている。

五月丁丑。大隅國菱苅村浮浪九百卅餘人言。欲建郡家。詔許之。

五月十九日に「大隅國菱苅村」の「浮浪」九百三十余人は、[新たに郡家を建てたい(建郡)と思う]と言上している。詔して許している。

<大隅國菱苅村>
大隅國菱苅村

大隅國は、現在の遠賀郡遠賀町にあった國と推定した。薩摩國の東側であり、陽侯史一族が居処としていた地である。直近で銭千貫を貢進した眞身一家は、大隅國の北側に蔓延ったことが解った。

菱苅村の「菱」=「艸+夌」=「山稜が角張って広がった様」と解釈すると、菱苅=角張って広がった山稜で刈り取られたようなところと読み解ける。

図に示した場所にその地形を見出せる。菱形の台地で区切られて幾つかの山稜が延びていると見做した表記と思われる。国土地理院航空写真1961~9を参照すると、より明確になろう。

本文に記載された「浮浪」については、Wikipediaに解説されているが、この地では國守殺害事件が勃発したり、公地公民制による管理が難しい状況であったようである。通説のように奈良大和を中心とする解釈では、全国至る所に「浮浪」が発生していたのではなかろうか。

六月癸夘。安藝國獻白烏。壬子。大宰府管内諸國。國別貢兵衛一人。采女一人。」和氣王。細川王賜岡眞人姓。

六月十五日に安藝國が「白烏」を献上している。二十四日に大宰府管内の諸國別に兵衛一人・采女一人を貢上させている。この日に「和氣王・細川王」に岡眞人の氏姓を賜っている。

<安藝國:白烏>
安藝國:白烏

白烏は、これで四羽である・・・勿論、”白い烏”のことではなかろう。下総國獻白烏越前國獻白鳥上野國獻白烏、が記載されていた。面白いのが、越前國は「白鳥」を献じている。それでは瑞祥にはならないので、通常、「鳥」→「烏」に置換えられて解釈されている。

何故、「白」が用いられるのか?・・・白=くっ付ている様であり、開拓するのは二羽に挟まれた谷間だからである。重機のない時代に山そのものを開拓するのは至難であり、更に加えて神の住む山に手を加えることはあり得なかったのであろう。

さて、安藝國は、前記で木連理を献上した、と記載されていた。最も東側の山稜の端辺りと推定した。現在は宅地に造成され、国土地理院1961~9年航空写真を参照すると、その西側の山稜の端に白烏が鎮座していることが解った。下流域の開拓が着実に進捗している様子を物語っているようである。

<和氣王-細川王(岡眞人)・弓削女王>
● 和氣王・細川王[岡眞人]

久々に素性の知れた王達であった。父親は御原王(三原王)、舎人親王の孫となる系譜である。「和氣王」は、後に従三位・参議まで昇進するが、皇位継承に絡んで失脚したとのことである。

天武天皇直系の曽孫も臣籍降下させる時代に入ったのかもしれないが、何か特別の事情が潜んでいるようにも思われる。ともあれ、彼等の出自の場所を求めてみよう。

和氣王和氣=山稜がしなやかに曲がりくねっているところと解釈したが、御原王の山稜の北側の地形を表していると思われる。別名に別王があったと知られている。「別」=「冎+刀」=「骨の関節部のように区切られている様」と読むと、図に示した地形を示していることが解る。より的確な出自場所を求めることができたようである。

弟の細川王細川=窪んだ地を川が流れているところと読み解ける。前出の細川山で用いられた文字列である。図に示した場所が出自と推定される。續紀での登場は、この後見られないようである。二人に賜った岡眞人の氏姓については、彼等の居処が「岡」の地形であることに基づくのであろう。

後(淳仁天皇紀)に弓削女王が、叔父(大炊王)の即位に伴って従四位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である弓削=弓の形に削がれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。夫が叔父の三形王であり、皇位継承の混乱に翻弄された女王だったようである。

秋八月庚子。正六位上日下部宿祢子麻呂。食朝臣息人並授從五位下。

八月十三日に日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)・「食朝臣息人」に従五位下を授けている。

<食朝臣息人-三田次>
● 食朝臣息人

全く情報がない人物である。勿論、食(朝)臣も初見であるが、後には食朝臣三田次なる人物も登場するようである。関連するところを思い起こすと、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)に「御食津大神」(氣比大神)が記載されていた。

この大神の所在は、高志前之角鹿(都奴賀)、現地名では北九州市門司区喜多久、と推定した。沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の出自の場所があり、その他にも幾人かの人々の居処があった地である。

現在の地形図は、見る影もないくらいに変形していて、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、なだらかな山稜が広がった地域であったことが分かる。すると、息人=谷間の奥から延び出た山稜が[人]の形に岐れているところと読めば、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

後に食朝臣三田次が登場する。三田次=三段になった平らな地が岐れて谷間になっているところと解釈すると、「息人」の上流域の谷間が出自と思われる。田口朝臣三田次などに用いられた文字列である。それにしても、凄まじいばかりの”掘り起こし”、であろう。

十月丙午。勅曰。比日之間。太上天皇枕席不安。寢膳乖宜。朕竊念茲。情深惻隱。其救病之方。唯在施惠。延命之要。莫若濟苦。宜大赦天下。其犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦例。但入死罪者減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。兼給湯藥。」又始自今日。至來十二月晦日。禁斷殺生。」遣使於山科。大内東西。安古。眞弓。奈保山東西等山陵。及太政大臣墓。奉幣以祈請焉。

十月二十一日に次のように勅されている・・・ここ暫くの間、太上(聖武)天皇は、健康がすぐれず、寝食の状態がよろしくない。朕は密かにこれを思い、心中深くお気の毒に思い、悲しんでいる。病を救う方法は、ただ恵みを天下に施すだけである。延命の要は、人々の苦しみを救うに勝るものはない。天下に大赦を行うことにする。八虐を犯した者、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦で許されない者は、この赦の範囲に入れない。但し、死罪にあたる者は、罪一等を減ぜよ。また、鰥・寡・惸・獨の者、貧窮や老年や病気のために自活できない者には、その程度を量って物を恵み与え、併せて煎じ薬を支給せよ。また、今日より始めて、來たる十二月の晦日に至るまで、殺生を禁止せよ・・・。

この日、使を山科(天智天皇陵)大内の東西(天武・持統天皇陵)安古(文武天皇陵。檜隈安古山陵)・「眞弓」(草壁皇子の墓)・奈保山の東西(元明・元正天皇陵。直山陵)などの山陵、及び太政大臣(藤原不比等)の墓に遣わして、幣帛を奉って太上天皇の回復を祈らせている。

<眞弓山陵・菅生王>
眞弓山陵

草壁皇子は、持統天皇即位三(689)年四月に二十七歳で早世した。前述したように、何とも素っ気ない記述を書紀がしていた。天武天皇崩御の後の皇嗣が混乱した時期でもあり、その墓所の記述は見られない。

関連する情報もなく、通説では、奈良県高市郡高取町眞弓丘陵とされているが、確たる根拠はないようである。そんな背景で、先ずは出自の場所近辺を探索することにする。

すると、娘の吉備皇女備=人+𤰇=山稜が[箙]のような形をしている様と解釈した場所、その[箙]の中の山稜が弓なりに曲がっていることに気付かされる。初見の文字列である眞弓=弓なりになった山稜が寄せ集められた窪んだところと読み解ける。

即ち、吉=蓋+囗=蓋をするように山稜が延びている様であるが、その「蓋」からはみ出た山稜も含めて眞弓と表現しているのである。纏めると眞弓山陵=弓なりになった山稜が寄せ集められた窪んだ地の傍らにある山に造られた陵墓と解釈される。

藤原不比等の墓所も求めたくなるところだが、その(地)名称でも分かれば試みてみよう。現在も考古学的には、例に違わず、確証が得られていないようである。

後(淳仁天皇紀)に菅生王が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらず王の系譜については語られることはなく、他の情報も皆無のようである。名前を頼りに出自場所を求めると、既出の文字列である菅生=管のような山稜が生え出ているところと読むと、図に示した場所を見出すことができる。

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太安萬侶が古事記序文で、「於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改」と記載したように、「日下(部)」=「クサカ(べ)」と読む。これが何を意味しているのか、勿論、その場所も曖昧なままで今日に至っている。書紀は「草壁」と表記し、その場所を一に特定されることを避けているのである。古代史における最需要地点の一つを比定できていない有様である。奈良大和を掘り返しても、日本の古代は復元されることは、決して、ないであろう。

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十一月丁巳。遣少納言從五位下厚見王。奉幣帛于伊勢大神宮。

十一月二日に少納言の厚見王を遣わして、幣帛を伊勢大神宮に奉っている。

十二月丁未。以從五位下佐伯宿祢美濃麻呂爲越前守。

十二月二十三日に佐伯宿祢美濃麻呂を越前守に任じている。