寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(10)
天平勝寶八歳(西暦756年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
八歳春二月丙戌。左大臣正一位橘朝臣諸兄致仕。勅依請許之。戊申。行幸難波。是日。至河内國。御智識寺南行宮。己酉。天皇幸智識。山下。大里。三宅。家原。鳥坂等六寺礼佛。庚戌。遣内舍人於六寺誦經。襯施有差。壬子。大雨。」賜河内國諸社祝祢宜等一百十八人正税。各有差。是日行至難波宮。御東南新宮。
二月二日に左大臣の橘朝臣諸兄(宿祢改姓)が辞職を申し出ている。勅されて乞いにより、これを許されている。二十四日に難波へ行幸し、この日は河内國に至り、智識寺の南の行宮に到着している。二十五日に「智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂」の六寺に行幸し、仏像を礼拝している。
二十六日に内舎人を六寺に遣わして、誦経させている。また、寺の地位に応じて施し物をしている。二十八日に大雨が降っている。また、河内國の諸社の祝・禰宜等百十八人にそれぞれ正税を賜っている。この日、進んで難波宮(難波長柄豐碕宮跡)に至り、東南にある新宮に出御されている。
聖武天皇紀の天平勝寶元(749)年十月に河内國智識寺に行幸された記事があった。その時は「茨田宿祢弓束」の家を行宮としたと記載されていた(こちら参照)。
今回は、「智識寺」を含めた六寺を一日かけて廻られたと述べている。勿論、その周辺に建立されていた寺であろう。
山下寺は山下=山の麓にあるところと解釈される。山だらけの土地ではあるが、智識寺の西側の特徴的な、山稜の端が小高くなった麓辺りにあったと推定される。
大里寺の大里=平らな頂の山稜が区分けされたようになっているところと解釈すると、図に示した場所にあった寺と思われる。三宅寺の三宅=谷間に三つの山稜が延びているところと読むと、「大里寺」の北側の谷間の地形を表していることが解る。
家原寺の家原=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになって平らに広がっているところと解釈される。「大里寺」の山稜の端辺りを表していると思われる。鳥坂寺の鳥坂=麓で山稜が鳥のような形に延びているところと解釈される。些か広範囲の地形であり、寺の場所を特定し辛いが、おそらく、図に示した辺りに建立されていたのであろう。
三月甲寅朔。太上天皇幸堀江上。乙夘。詔免河内攝津二國田租。戊午。遣使攝津國諸寺誦經。襯施有差。
三月一日に太上(聖武)天皇が堀江(難波之堀江)の上に行幸されている。二日に河内・攝津の二國の田租を免除している。五日に使を攝津國の諸寺に遣わして誦経させ、それぞれに布施(襯施)を与えている。
夏四月丁酉。勅曰。頃者。太上天皇聖體不豫。漸延旬日。猶未平復。如聞。鎖災致福。莫如仁風。救病延年。實資徳政。可大赦天下。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦例。若以贓入死減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。戊戌。車駕取澁河路。還至智識寺行宮。庚子。還宮。乙巳。遣使奉幣帛于伊勢大神宮。壬子。遣醫師。禪師。官人各一人於左右京四畿内。救療疹疾之徒。」遣從五位下日下部宿祢古麻呂。奉幣帛于八幡大神宮。
四月十四日に次のように詔されている・・・この頃、太上(聖武)天皇の御体は不調となり、ようやく十日に及んだが、なお病状の回復には至っていない。[災いを鎮め福を招くには、仁徳の教化に勝るものはなく、病を救い寿命を延ばすには、まことに恵みある政治を実行することにかかっている]と聞いている。そこで天下に大赦を行う。但し、八虐を犯した者、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦では許されない者は、この赦の範囲には入れない。もし、盗品に関したことのために死罪とされた者は、罪一等を減ぜよ。また鰥・寡・惸・獨及び貧窮や老年や病気のために自活できない者には、その程度を量り、物を恵んで助けよ・・・。
十五日に「澁河路」を採って帰途につき、智識寺の行宮に至っている。十七日に平城宮に還っている。二十三日に使を遣わして伊勢大神宮に幣帛を奉っている。二十九日に医師・禅師・官人をそれぞれ一人ずつ左右京と畿内四國に遣わし、疹疾に苦しむ人々を救け治療さている。また、日下部宿祢古麻呂(子麻呂。大麻呂に併記)を遣わして幣帛を八幡大神宮に奉っている。
澁河路
難波宮からの帰途は、澁河路を通ったと記載している。「澁河」は、河内國澁川郡を流れる川を示していると思われる。書紀の持統天皇紀に罪人の所在地として登場した郡である。記紀・續紀を通じて河内國澁川(郡)は、たったの一度の出現である。
書紀では譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の幸玉宮(古事記では他田宮)があった谷間を流れる川であり、「澁川郡」は、その下流域に当たる場所と推定した。現在の京都郡みやこ町勝山矢山を流れる矢山川である。長峡川の支流でもある。
図に難波宮からの行程を示した(前半部は省略)。長峡川沿いに、矢山川合流地点からは、矢山川沿いに遡って、勝山岩熊辺りで東北に向かい丘陵を抜けると智識寺の行宮に届いたと推測される。おそらく、難波宮への往路は、「大縣」の東側の谷間を抜けたのであろう。
五月乙夘。遣左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂。并中臣忌部等。奉幣帛於伊勢大神宮。」免天下諸國今年田租。是日。太上天皇崩於寢殿。遺詔。以中務卿從四位上道祖王爲皇太子。丙辰。遣使固守三關。以從二位藤原朝臣豊成。從三位文室眞人珍努。藤原朝臣永手。正四位下安宿王。從四位上黄文王。正四位下橘朝臣奈良麻呂。從四位下多治比眞人國人。從五位下石川朝臣豊成爲御裝束司。六位已下十人。從三位多治比眞人廣足。百濟王敬福。正四位下鹽燒王。從四位下山背王。正四位下大伴宿祢古麻呂。從四位上高麗朝臣福信。正五位上佐伯宿祢今毛人。從五位下小野朝臣田守。大伴宿祢伯麻呂爲山作司。六位已下廿人。外從五位下大藏忌寸麻呂爲造方相司。六位已下二人。從五位下佐味朝臣廣麻呂。佐佐貴山君親人爲養役夫司。六位已下六人。丁巳。於七大寺誦經焉。己未。文武百官始素服。於内院南門外。朝夕擧哀。」正四位上春日女王卒。辛酉。太上天皇初七。於七大寺誦經焉。癸亥。出雲國守從四位上大伴宿祢古慈斐。内堅淡海眞人三船。坐誹謗朝廷。无人臣之礼。禁於左右衛士府。丙寅。詔並放免。戊辰。二七。於七大寺誦經焉。壬申。奉葬太上天皇於佐保山陵。御葬之儀如奉佛。供具有師子座香爐。天子座。金輪幢。大小寳幢。香幢。花縵。蓋繖之類。在路令笛人奏行道之曲。是日。勅曰。太上天皇出家歸佛。更不奉謚。所司宜知之。乙亥。三七。於左右京諸寺誦經焉。」勅曰。左衛士督從四位下坂上忌寸犬養。右兵衛率從五位上鴨朝臣虫麻呂。久侍禁掖。深承恩渥。悲情難抑。伏乞奉陵。朕嘉乃誠。仍許所請。先代寵臣。未見如此也。宜表褒賞以勸事君。犬養叙正四位上。虫麻呂從四位下。其所從授刀舍人廿人増位四等。丙子。勅。禪師法榮。立性清潔。持戒第一。甚能看病。由此。請於邊地。令侍醫藥。太上天皇得驗多數。信重過人。不用他醫。爾其閲水難留。鸞輿晏駕。禪師即誓。永絶人間。侍於山陵。轉讀大乘。奉資冥路。朕依所請。敬思報徳。厭俗歸眞。財物何富。出家慕道。冠蓋何榮。莫若名流万代。以爲後生准則。宜復禪師所生一郡。遠年勿役。丁丑。勅。奉爲先帝陛下屈請看病禪師一百廿六人者。宜免當戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母兩戸。然其限者終僧身。又和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律清淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
五月二日に左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)と中臣・忌部等を遣わして、幣帛を伊勢大神宮に奉らせている。また、天下諸國の今年の田租を免除している。この日、太上(聖武)天皇が内裏の正殿において崩じている。遺詔して中務卿の道祖王(新田部親王の次男。鹽燒王に併記)を皇太子に任命している。
三日に使を遣わして三關(鈴鹿・不破・愛發)を固守させている。またこの日、藤原朝臣豊成・文室眞人珍努(智努王)・藤原朝臣永手・安宿王・黄文王・橘朝臣奈良麻呂(橘宿祢)・多治比眞人國人(家主に併記)・石川朝臣豊成(人成に併記)を御装束司に、この他に六位以下の官人十人を任じている。多治比眞人廣足(廣成に併記)・百濟王敬福(①-❽)・鹽燒王・山背王・大伴宿祢古麻呂(三中に併記)・高麗朝臣福信(背奈公福信)・佐伯宿祢今毛人・小野朝臣田守(綱手に併記)・大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を山作司(造山司)に、この他に六位以下の官人二十人を任じている。大藏忌寸麻呂を造方相司に、この他に六位以下の官人二人を任じている。佐味朝臣廣麻呂(虫麻呂に併記)・佐佐貴山君親人を養役夫司(造陵役民の食料支給)に、この他に六位以下の官人六人を任じている。
四日に七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・藥師寺・弘福寺[川原寺]・法隆寺)において誦経させている。六日に文武の百官は、この日から初めて白無地の喪服を着て、内院南門の外において、朝と夕に挙哀(哀悼の意を表して声をあげる儀式)を行っている。この日に春日女王が亡くなっている。八日、太上天皇の初七日にあたるので、七大寺にて誦経させている。
十日に出雲國守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)と內堅(天皇の側近)の淡海眞人三船(御船王)は、朝廷を非難悪口し臣下としての礼を失したという罪に連座させられ、左衛士府に拘禁されている。十三日に詔されて二人を放免している。十五日に太上天皇の二七日にあたるので七大寺において誦経させている。
十九日に太上天皇(聖武天皇)を佐保山陵に葬り申し上げている。御葬式の次第は、仏に仕えるが如くに行われた。供えものとして、獅子座の香炉、天子の座、金輪の幢、大小の玉飾りのある幢、香幢、花縵、きぬがさの類があった。また山稜までの路においては、笛を吹く人に行進の曲を奏でさせている。この日、天皇が[太上天皇は出家して仏に帰依されたので、あらためて諡を奉らない。所司はこれを承知せよ]と勅されている。
二十二日に太上天皇の三七日にあたるので、左右京の諸寺で誦経させている。また、次のように勅されている・・・左衛士の坂上忌寸犬養と右兵衛率の鴨朝臣虫麻呂は、永らく宮中に仕え、深くあついご恩を受けていた。それゆえ、悲しむ心は抑えがたく、山稜に仕えることを切に望んでいる。朕は、汝等の真心を喜び、よって、その願いを許す。先代の寵臣の中で、このような者をまだ見たことがない。彼等を褒め称えることを発表し、君に仕える者を励まそうと思う。「犬養」には正四位上、「虫麻呂」には従四位下を授け、彼等に従う授刀舎人二十人には位階を四等増やすことにする・・・。
二十三日に次のように勅されている・・・禅師の法榮は、生まれつき潔く、戒律を守ることは誰よりも優れており、甚だよく病人を看護する。そのため、太上天皇の傍らに招き、医薬を担当して傍に居らせた。太上天皇は数多くの効き目を得て、信任の重さは他の人に勝り、他の医師を用いようとはされなかった。しかし、流れる水を留のが困難であるように、太上天皇は崩御された。禅師は直ちに次のように誓った[これから永く人との交わりを絶ち、山稜の傍に仕え、大乗経を転読して冥土の路へお出かけになるのをお助けしたい]。朕は求める所を聞き、敬んで心のこもったはたらきに報いる方法を思ったが、俗をきらい真の道に帰依する者には、財物はどうして富となろうか。出家して仏道を慕う者には、冠蓋はどうして身の栄えとなるだろうか。法榮のはたらきに報いるには、その名を万代にまで伝え、後人のよるべき手本とするに勝るものはないであろう。そこで禅師の生まれた一郡の租税負担を免除し、労役に使わないようにせよ・・・。
二十四日に次のように勅されている・・・先帝陛下の奉為に招いた看病の禅師百二十六人の戸の課役を免除せよ。但し、良弁・「慈訓」・安寛の三法師には、それぞれ父と母の所属する両戸にまで課役免除を及ぼせ。しかし、その期限は僧の死去までとする。また、和上(和尚)の鑑眞、少僧都の良弁、華厳講師の「慈訓」、大唐の僧の法進(鑑眞の弟子)、法華寺(隅院近隣)鎮の慶俊は、学業が優れゆたかな者、あるいは戒律に清く穢れなき者で、立派な世の鎮護としての任に堪えることができ、僧侶の上にたつ人々である。---≪続≫---
<慈訓> |
● 慈訓
調べると慈訓は、船史(連)の出身であったことが分かった。唐で玄奘三蔵に師事し法相宗を学んだ船史惠尺の子、道照和尚も同じく船氏一族であった。
系譜は不詳であるが、「慈訓」の名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。慈=艸+絲+心=細かく岐れた山稜の中心にある様、訓=言+川=耕地が川辺にある様と解釈すると、これらの地形要素を満たす場所を図に示した。現在の月輪寺辺りと推定される。尚、三法師残り一人の安寛については、俗姓が不明で出自を求めることが叶わなかった。後日の課題としておこう。
律師に任じられた慶俊について、調べると河内國の出身で、俗姓が「葛(藤)井連」だったようである。吉備國の葛井連(元は白猪史)と重なる氏姓であり、些か混乱気味なのであるが、後(淳仁天皇紀)に船連・津連と同祖の一族と記載され、彼等の近辺に求めた結果を図に示した(こちら参照)。
地形象形の文字解釈の詳細は省略するが、”葛”と”藤”の意味は類似するが、地形象形としては、全く異なる文字である。それが見事に当て嵌る場所であることが解る。それにしても、道昭・慈訓と共に優れた僧侶を輩出した一族だったようである。
憶測するに、「道昭」の父親である惠釋は、『乙巳の変』の際、蘇我蝦夷等が天皇紀・國紀などを焼却しようとするのを未然に防ぎ、天智天皇に献上したと書紀で記載されていた。書物に対する意識が高く、そして、学ぶことができる環境を整えていたのであろう。同祖一族の子供等が知識を得ることができる稀有な地域だったと思われる。
六月乙酉。勅遣使於七道諸國。催検所造國分丈六佛像。丙戌。五七。於大安寺設齋焉。僧沙弥合一千餘人。庚寅。詔曰。居喪之礼。臣子猶一。天下之民。誰不行孝。宜告天下諸國。自今日始迄來年五月卅日。禁斷殺生。辛夘。太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。壬辰。詔曰。頃者。分遣使工検催諸國佛像。宜來年忌日必令造了。其佛殿兼使造備。如有佛像并殿已造畢者。亦造塔令會忌日。夫佛法者。以慈爲先。不須因此辛苦百姓。國司并使工等。若有稱朕意者。特加褒賞。丙申。六七。於藥師寺設齋焉。癸夘。七七。於興福寺設齋焉。僧并沙弥一千一百餘人。甲辰。始築怡土城。令大宰大貳吉備朝臣眞備専當其事焉。」勅。明年國忌御齋。應設東大寺。其大佛殿歩廊者。宜令六道諸國營造。必會忌日。不可怠緩。
六月三日に勅されて、使を七道諸國に遣わし、諸國が造っている國分寺の丈六仏像の造作を促し、調べさせている。四日、太上天皇の五七日に大安寺において僧侶に食事を供養している。僧・沙弥合わせて千余人が参加している。
八日に次のように詔されている・・・喪に服するの礼は、臣であろうと子であろうと同じである。天下の人民の中で、どうして孝を行わない者がいるであろうか。天下諸國に命令を下し、今日より始めて五月三十日まで、殺生を禁止させるようにせよ・・・。九日に太政官が以下のように処分している・・・太上天皇の供御に用いる米・塩の類は、唐の和上鑑眞と禅師の法榮の二人に充て、これからも永く供養するようにせよ・・・。
十日に次のように詔されている・・・この頃、技術者を使者として各地に派遣し、諸國の仏像の造作をうながし、調べさせた。来年の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。また、その仏像と仏殿を既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に合わせよ。仏法は、慈しみを第一とする。このために(仏像・仏殿・塔の造営)、人民を苦しませてはならない。國司や派遣の技術者等で、もし朕の心に叶う者があれば、特に褒賞を与える・・・。
十四日、太上天皇の六七日にあたる。藥師寺において僧侶に食事を供養している。二十一日、太上天皇の七七日にあたる。興福寺において、僧侶に食事を供養している。僧・沙弥千百余人が参加している。
二十二日に初めて「怡土城」を築いている。大宰大貳の吉備朝臣眞備に築城の事を専ら当てらせている。また、以下のように勅されている・・・明年の國忌の御齋は、東大寺に設けることにする。大仏殿の歩廊は、六道諸國に命じて営造させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りや遅れがあってはならない・・・。
怡土城
「怡土」は、記紀・續紀を通じて初見である。”邪馬台国ロマン”の世界では、真に有名な文字列であり、魏志倭人伝が記載する「伊都國」があった地として、決定的な解釈となっているようである。
別稿の記述で、「伊都(イツ)」=「燚」を意味する表記であることを明らかにしたことが思い起される(こちら参照)。倭人が呉太伯の末裔と自称するなら、関連する漢語は呉音で読むべし、であろう。
ともあれ、續紀に登場したならば、立派な地形象形表記である。「怡」=「心+耜」と分解する。「治」などに共通する文字要素「耜」を含んでいる。地形象形としては、怡=耜のように山稜が延びている中心にある様と読み解ける。土=盛り上がった様として、図に示したように現在の宗像市の特異な三つの突き出た小高い山稜の地形を表し、その中心の場所を示していることが解る。
古事記では秋津と表現し、秋=禾+火=山稜が火のような形になっている様の地形を示していた(こちら参照)。その「火」の文字の頭部が地形象形しているのである。「怡」に含まれる「心」、それが見事に「怡土」の場所を示している。誰が名付けたかは知る由もないが、実に洗練された文字使いと思われる。
怡土城の所在は、この突き出た半島(当時は嶋)の最も高い山の頂に設営されたのではなかろうか。この場所は、西海・南海を見渡すのに極めて有効であり、また、通航する船からは、絶好の目印となろう。因みに、通説では筑前國怡土郡(高祖山)にあった城となっているが、續紀には「怡土郡」の表記は出現しない。
西海の情報を一早く知ることは、正に喫緊の課題であったと推測される。また、この城から平城宮までの連絡経路の確立も必要であり、國が広がって行くことによって多くの難題も生じたであろう。「怡土城」は、この後も幾度か登場するようである。さて、如何なることになるのか・・・。
秋七月己巳。勅。授刀舍人考選賜祿名籍者。悉属中衛府。其人數以四百爲限。闕即簡補。但名授刀舍人。勿爲中衛舍人。其中衛舍人。亦以四百爲限。庚午。河内國石川郡人漢人廣橋。漢人刀自賣等十三人賜山背忌寸姓。癸酉。土左國道原寺僧專住。誹謗僧綱。无所拘忌。配伊豆嶋。
七月十七日に以下のように勅されている・・・授刀舎人の考遷を禄を支給するための名簿は中衛府の所管とせよ。また、その人数は四百人を限度とせよ。もし欠員が生じた時には直ちに代わりを選んで補え。但し、授刀舎人と名乗らせ、中衛舎人としてはいけない。その中衛舎人も四百人を限度とせよ・・・。
十八日に河内國石川郡の人、「漢人広橋・漢人刀自賣」等十三人に「山背忌寸」の氏姓を賜っている。二十一日に土左國の「道原寺」の僧の「専住」は、僧綱を悪く言って謗り、忌憚るところがないので、伊豆嶋に配流している。
● 漢人廣橋・漢人刀自賣
「河内國石川郡」は、文武天皇紀に「河内國石河郡人河邊朝臣乙麻呂獻白鳩」の記述で登場し、多くの褒賞を賜ったと記載されていた(こちら参照)。
北側の志賀郡、南側の安宿郡に挟まれた郡と推定した。塔ヶ峰の東麓に広がる場所である。漢人の表記は、今までに何度も登場しているが、渡来系であると同時に漢人=谷間で川が大きく曲がって流れるところを表していると解釈した。
廣橋=山稜の端が広がって小高く曲がっているところと解釈すると、図に示した山稜の地形を表していると思われる。頻出の刀自=刀のような地が山稜の端にあるところであり、その地形を「廣橋」の西側に見出せる。共に大きく川が曲がっている傍らの場所であることが解る。
上記の「白鳩」の「鳩」に該当する山稜に関わる出自と推定される。賜った山背忌寸の氏姓は、塔ヶ峰を背にした配置をそのまま表現したものであろう。”河内國”の”山背”となって、”固有”の名称とする通説は、大混乱いや突き抜けてスルーするのであろう。狭い石川郡の人物配置を明確に物語っている貴重な記述なのである。
土左國:道原寺
何とも唐突な出現であるが、土左國には郡建ても記載されたこともなく、実に曖昧な状況にある。唐突に記載する背景を慮ると、おそらくその地の中心の地域にあったのではなかろうか。
例によって、現在の小中学校の周辺としてみる。すると、江川小学校の西側の谷間に道原=首の付け根のような地に野原が広がっているところの地形を見出せる。
● 僧專住 この寺に住まう僧、專住の名前から、その出自の場所を求めてみよう。「專」が地・人名に用いられたのは、記紀・續紀を通じて初見であろう。文字要素に分解すると、「專」=「叀+寸」となる。「叀」は、既出の「惠」=「叀(糸巻き)+心」=「山稜に囲まれた中心に小高い地がある様」に含まれる文字である。
それを用いると「專」=「專+寸」=「右手のような山稜に囲まれた小高い地がある様」と読み解ける。頻出の「住」=「人+主」=谷間に真っ直ぐに山稜が延びている様」と解釈すると、專住=右手のような山稜に囲まれた小高い地がある谷間で山稜が真っ直ぐに延びているところと読み解ける。図に示した場所がこの僧の出自と推定される。
僧綱に文句を言うくらいの人物、それなりの文字使いができたのであろう。いや、かなり有能だったのかもしれない。わざわざ、配流を記載したのは、この特異な地形を表した人物名を記録しておきたかったのではなかろうか。暫く後に再度登場されるようである。その時に僧侶の制度について述べてみようかと思う。
八月乙酉。以近江朝書法一百卷。施入崇福寺。
八月四日に近江朝の書法(書の手本)百巻を崇福寺(志賀山寺、紫郷山寺)に施入している。
冬十月辛巳朔。日有蝕之。丁亥。太政官處分。山陽南海諸國舂米。自今以後。取海路遭送。若有漂損。依天平八年五月符。以五分論。三分徴綱。二分徴運夫。但美作。紀伊二國不在此限。丙申。有白氣貫日。癸夘。大納言藤原朝臣仲麻呂獻東大寺米一千斛。雜菜一千缶。
十月一日に日蝕があったと記している。七日に太政官が以下のように処分している・・・山陽・南海道の諸國の舂米(臼でついた白米)は、今より以後、海路をとって京に漕運することにし、もし船が漂流して舂米が損失したならば、天平八年五月の符により、損失分を五等分して、三分は綱領より徴し、二分は運送の人夫より徴せ。但し、美作と紀伊の二國は、この対象とはしない・・・。
十六日に白氣(白い気体)があって、太陽を貫いている。二十三日に大納言の藤原朝臣仲麻呂は、東大寺に米千石・雑菜千缶を献上している。
十一月丁巳。勅。如聞。出納官物諸司人等。苟貪前分。巧作逗留。稍延旬日。不肯收納。由此。擔脚辛苦。竸爲逃歸。非直敗治。實亦虧化。宜令彈正臺巡検。自今以後。勿使更然。丁夘。廢新甞會。以諒闇故也。〈検神祇官記。是年於神祇官曹司行新甞會之事矣。〉
十一月七日に次のように勅されている・・・この頃、官物を出納する諸司の官人達は、少しでも前分を貪ろうとし、巧みに品物を留めて置き、次第に延びて十日経っても敢えて官物を収納しようとしないことがある。そのため、運送の人夫は、この足止めに苦しみ、競って逃げ帰ると聞く。これは直ちに政治を損なうだけでなく、実にまた人民の教化を傷付けるものである。弾正台に巡検させることにする。今より以後、二度とこのようなことをさせてはならない。
十七日に新嘗会を廃している。太上天皇の諒闇のためである。<分注。『神祇官記』を調べると、この年は神祇官の曹司(庁舎)において新嘗会の事が行われている。>
十二月庚辰朔。自去月雷六日。甲寅「申」。請僧一百於東大寺轉讀仁王經焉。乙未。先是。有恩勅。收集京中孤兒而給衣糧養之。至是。男九人。女一人成人。因賜葛木連姓。編附紫微少忠從五位上葛木連戸主之戸。以成親子之道矣。己亥。越後。丹波。丹後。但馬。因幡。伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安藝。周防。長門。紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六國。國別頒下潅頂幡一具。道塲幡卌九首。緋綱二條。以充周忌御齋莊餝。用了收置金光明寺。永爲寺物。隨事出用之。庚子。太上天皇御輿丁一人叙四階。一人二階。五十七人外二階。一百廿六人外一階。己酉。勅遣皇太子。及右大弁從四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。右大臣從二位藤原朝臣豊成。出雲國守從四位下山背王於大安寺。大納言從二位藤原朝臣仲麻呂。中衛少將正五位上佐伯宿祢毛人於外嶋坊。中納言從三位紀朝臣麻路。少納言從五位上石川朝臣名人於藥師寺。大宰帥從三位石川朝臣年足。彈正尹從四位上池田王於元興寺。讃岐守正四位下安宿王。左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂於山階寺。講梵網經。講師六十二人。其詞曰。皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。號慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網經。功徳巍巍。能資逝者。仍寫六十二部。將説六十二國。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使敬遣請屈。願衆大徳。勿辞攝受。欲使以此妙福无上威力。翼冥路之鸞輿。向華藏之寳刹。臨紙哀塞。書不多云。
十二月一日、去月より雷がなること六日に及んでいる。五日に僧百人を東大寺に招き、仁王経を転読させている。十六日、これより先に天皇の思いやりの深い勅があり、京中の孤児を取り集めて衣服と食糧を支給しこれを養わせている。ここに至り、男九人・女一人が成人している。このために彼等に葛木連の氏姓を賜い、紫微少忠の葛木連戸主の戸に編入して、親子の関係としている。
二十日に越後・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備前・備中・備後・安藝・周防・長門・紀伊・阿波・讃岐・伊豫・土左・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等の二十六國には、潅頂幡一具・道塲幡四十九首・緋綱二条を頒ち下し、各國で行う太上天皇の一周忌御齋会の立派な飾りに充てさせている。また、使用後は金光明寺(國分寺)に収め置き、永く寺物として、必要なことが起これば出し用いさせている。二十一日に太上天皇の御輿丁の一人に位四階を昇叙し、一人には位二階、五十七人には外位二階、百に十六人には外位一階をそれぞれ授けている。
三十日に勅されて、皇太子(道祖王)及び右代弁の巨勢朝臣堺麻呂を東大寺に、右大臣の原朝臣豊成と出雲國守の山背王を大安寺、大納言の藤原朝臣仲麻呂と中衛少将の佐伯宿祢毛人を外嶋坊(隅院近隣の法華寺内)、中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)と少納言の石川朝臣名人(枚夫に併記)を藥師寺、大宰帥の石川朝臣年足と弾正尹の池田王を元興寺、讃岐守の安宿王と左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を山階寺(興福寺)にそれぞれ遣わし、梵網経を講じさせている。講師は六十二人であった。
この時天皇から託された詞は次のようであった・・・皇帝は敬んで申し上げる。朕は父の喪に会ってから、深く思いやり(情深)非常に苦しんでいる(荼毒トドク)。太上天皇の棺を載せた車はようやく遠ざかり、叫んでお慕いしても追いかけることはできなくなった。あらゆる痛みが朕の心に纏わりつき、数限りない哀しみが骨を貫いている。恒に恩に報いようと思い、昼も夜も止むことがない。聞くところによれば、菩薩戒を身に保つには、梵網経に基づくのが良い。---≪続≫---
また、この経の功徳は甚だ大きく、死者の助けになることができる、と聞いている。そこで、これを六十二部書写し、六十ニ國に講説させることにした。来年の四月十五日から始めて五月二日に終わらせる。これにより、使を差し遣わし、敬んで僧を請い招かせるのである。もろもろの大德たちよ、辞退せずに承知することをお願いする。その優れて豊かなこの上ない威力によって、冥路にある太上天皇をお助けし、蓮華蔵の宝刹(寺のこと)に向かわせてあげたいと思う。紙面に向かって哀しみに胸が塞がるばかりである。書中であるので、これ以上多くは言わない・・・。
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この年五月に聖武天皇が崩御され、唐突に、道祖王が皇太子とされている。皇嗣の諍いが発生することになるが、左大臣橘朝臣諸兄の辞任があったり、その息子奈良麻呂と着実に実力を示し始めた藤原朝臣仲麻呂との確執も水面下で進行しつつあった時であろう。仲麻呂の東大寺への寄進など、今後の伏線と見做せる記述と思われる。皇嗣問題は、永遠の課題なのであろう。
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『續日本紀』巻十九巻尾