寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(11)
天平寳字元年春正月庚戌朔。廢朝。以諒闇故也。」勅度八百人出家。甲寅。勅。始自來四月十五日。至于五月二日。毎國令講梵網經。其今年安居者。宜以五月三日爲始。」又詔曰。比者。郡領軍毅。任用白丁。由此民習居家求官。未識仕君得祿。移孝之忠漸衰。勸人之道實難。自今已後。宜令所司除有位人。以外不得入簡試例。其軍毅者。省選六衛府中器量辨了。身才勇健者。擬任之。他色之徒。勿使濫訴。自餘諸事。猶如格令。乙夘。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣從四位上紀朝臣飯麻呂。從五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫。從四位下美努王之子也。戊午。從五位下石津王。賜姓藤原朝臣。爲大納言從二位仲麻呂之子。
正月一日の朝賀を廃している。天子が父の喪に服しているからである。勅命により、八百人を出家得度させている。五日、次のように勅されている・・・来る四月十五日から五月二日まで、國ごとに梵網経を講義させよ。そのため今年の安居(アンゴ:雨季の間一ヶ所に集まって修行をすること)は五月三日より始めよ・・・。
また、次のように詔されている・・・この頃、郡領・軍毅に無位の庶民を採用している。これにより人民はいながらにして官職につくことを当然と思い、君に仕えて俸禄を得ることを知らない。これでは親に仕えて孝を尽くすのと同じ気持ちで君主に忠を尽くすことは次第に衰え、人を導くことは難しい。今後所司は、有位の人以外選考の候補に入れてはならない。軍毅は兵部省が六衛府の中から、わきまえのある人物で、才智を備え勇ましく健全な者を選び、この者にまず候補として任用し、その他の者に濫りに任用の訴えをさせてはならない。それ以外の諸事については、格や令の規定に拠れ・・・。
六日、前左大臣の「橘朝臣諸兄」(葛木王)が亡くなっている。紀朝臣飯麻呂・石川朝臣豊人等を遣わし、葬儀を監督・護衛させている。用いる物品は、官から給付している。大臣は、「栗隈王」の孫、「美努王」の子であった(こちら参照)。九日に石津王に藤原朝臣の氏姓を与え、大納言の藤原朝臣仲麻呂の養子としている。
三月戊辰。天皇寢殿承塵之裏天下大平四字自生焉。庚午。勅召親王及群臣。令見瑞字。乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。丁丑。皇太子道祖王。身居諒闇。志在淫縱。雖加教勅。曾无改悔。於是。勅召群臣。以示先帝遺詔。因問廢不之事。右大臣已下同奏云。不敢乖違顧命之旨。是日。廢皇太子以王歸第。
三月二十日に天皇の寝殿の天井の塵除けの帳の裏に「天下太平」の四文字が自然に出現している。二十二日に勅により、親王と群臣を召し集め、吉瑞の文字を見せている。二十七日に以下のように勅されている・・・今より後は、「藤原部」の姓を改めて「久須波良部」とし、「君子部」の表記を「吉美侯部」(こちら参照。君子[クンシ]は恐れ多い?)に改めよ・・・。
二十九日に皇太子の道祖王(鹽燒王に併記)は、服喪中(一年間)でありながら淫欲を恣にする心があり、教え戒めたが、悔い改めることがなかった。このため、勅により群臣を召し集め、先帝の遺詔を示し、皇太子を廃そうと思うがどうかと尋ねている。右大臣以下の人々は一致して[敢えて、ご質問の趣旨に反対致しません]と申し上げている。この日、皇太子の地位を廃し、元の王に戻して帰宅させている。
<藤原部(久須波良部)> <久須原部連淨日> |
● 藤原部(久須波良部)
過去に用いられた「藤原」の地名・人名を徹底排除、なのであろう。かつて「改備前國藤原郡名。爲藤野郡」なんてことも記載されていた(こちら参照)。
理由は推して知るべしであろう。勿論、藤原宮を改名することはなかったのだが・・・さて、この藤原部は何処の地を表しているのであろうか?・・・。
実は、天武天皇紀の『八色之姓』に「藤原部造」として登場していた。この藤原は、古事記の品陀和氣命(応神天皇)の孫であった藤原之琴節郎女に出現していた地を示すと解釈した。現地名は田川郡福智町伊方と弁城の境の地域である。現在に残る池を「藤」の文字で象形したのである。
その「藤原」の近隣を藤原部と名付けていたと思われる。今回の改名では、久須波良としている。そのまま読み解けば、久須波良=[く]の字形に曲がった州の端がなだらかになっているところとなる。図に示した山稜の形を表していることが解る。そして、現地名の小字「葛原」、正に残存地名と見做せるであろう。
後(称徳天皇紀)になって具体的な人物名が記載されている。久須原部連淨日が事変の功績によって外従五位下を叙爵されている。既出の文字列である淨日=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる[炎]のようなところと解釈する。図に示した場所がこの女孺の出自と推定される。
夏四月辛巳。天皇召群臣問曰。當立誰王以爲皇嗣。右大臣藤原朝臣豊成。中務卿藤原朝臣永手等言曰。道祖王兄塩燒王可立也。攝津大夫文室眞人珍努。左大弁大伴宿祢古麻呂等言曰。池田王可立也。大納言藤原朝臣仲麻呂言曰。知臣者莫若君。知子者莫若父。唯奉天意所擇者耳。勅曰。宗室中。舍人。新田部兩親王。是尤長也。因茲。前者立道祖王。而不順勅教。遂縱淫志。然則可擇舍人親王子中。然船王者閨房不修。池田王者孝行有闕。塩燒王者太上天皇責以無礼。唯大炊王。雖未長壯。不聞過惡。欲立此王。於諸卿意如何。於是。右大臣已下奏曰。唯勅命是聽。先是。大納言仲麻呂招大炊王。居於田村第。是日。遣内舍人藤原朝臣薩雄。中衛廿人。迎大炊王。立爲皇太子。勅曰。國以君爲主。以儲爲固。是以。先帝遺詔立道祖王。昇爲皇太子。而王諒闇未終。陵草未乾。私通侍童。無恭先帝。居喪之礼。曾不合憂。機密之事。皆漏民間。雖屡教勅。猶無悔情。好用婦言。稍多很戻。忽出春宮。夜獨歸舍。云臣爲人拙愚。不堪承重。故朕竊計。廢此立大炊王。躬自乞三寳。祷神明。政之善惡。願示徴驗。於是。三月廿日戊辰。朕之住屋承塵帳裏。現天下太平之字。灼然昭著。斯乃上天所祐。神明所標。遠覽上古。歴検往事。書籍所未載。前代所未聞。方知。佛法僧寳。先記國家太平。天地諸神。預示宗社永固。戴此休符。誠嘉誠躍。其不孝之子。慈父難矜。無礼之臣。聖主猶弃。宜從天廢却還本色。亦由王公等盡忠匡弼。感此貴瑞。豈朕一人所應能致。宜与王公士庶。共奉天貺。以荅上玄。洗滌舊瑕。遍蒙新福。可大赦天下。其自天平勝寳九歳四月四日昧爽已前大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸悉赦除。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜者。不在此例。其天下百姓成童之歳。則入輕徭。既冠之年便當正役。愍其勞苦。用軫于懷。昔者。先帝亦有此趣猶未施行。自今已後。宜以十八爲中男。廿二已上成正丁。古者。治民安國必以孝理。百行之本莫先於茲。宜令天下。家藏孝經一本。精勤誦習。倍加教授。百姓間有孝行通人。郷閭欽仰者。宜令所由長官。具以名薦。其有不孝不恭不友不順者。宜配陸奧國桃生。出羽國小勝。以清風俗。亦捍邊防。別有高臥頴川。遁跡箕山者。宜爲朕代之巣許。以礼巡問放令養性。其僧綱及京内僧尼復位已上。施物有差。内供奉竪子。授刀舍人。及預周忌御齋種種作物。而奉造諸司男女等。夙夜不怠。各竭乃誠。宜加位二級并賜綿帛。仕官疎緩並減一等。自餘内外諸司主典已上。及天下高年八十已上。中衛兵衛舍人。門部主帥雜工。并衛士仕丁。歴仕卅年已上。加位一級。但正六位上以上。及不仕者不在此例。其在京文武官職事正六位上已上。及月齋社祝等。賜物有差。天下鰥寡孤獨。篤疾癈疾。不能自存者。量加振恤。其高麗。百濟。新羅人等。久慕聖化。來附我俗。志願給姓。悉聽許之。其戸籍記。无姓及族字。於理不穩。宜爲改正。又東大寺匠丁。造山陵司役夫及左右京。四畿内。伊賀。尾張。近江。丹波。丹後。但馬。播磨。美作。備前。紀伊等國兵士并防人。鎭兵。衛士。火頭。仕丁。鼓吹戸人。輸車戸頭。並免今年田租。」百官詣朝堂。上表以賀瑞字。
四月四日に群臣を召して[どの王を立てて皇嗣とすべきか]とに尋ねられている。右大臣の藤原朝臣豊成、中務卿の藤原朝臣永手等は[道祖王の兄の鹽燒王を立てるべきである]と、また、攝津大夫の文室眞人珍努(智努王)、左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)等は[池田王(舎人親王の子)を立てるべきである]と申し上げている。大納言の藤原朝臣仲麻呂は[臣下のことを最もよく知っているのは君主であり、子供の場合は父親である。天皇の選ばれる者に従うばかりである]と申し上げている。
天皇は以下のように勅されている・・・皇室の中では、舎人・新田部の両親王が諸親王の中で最も年長である。そこで先に道祖王を太子に立てたが、天皇みずからの教えに従わず、ついには淫らな心を恣にした。この上は、舎人親王の子から選ぶべきであろう。けれども船王は閨房のことが乱れており、池田王については、かつて孝行に関して欠けるところがある。鹽燒王については、かつて太上天皇がその無礼の状を責めたことがある。ひとり大炊王については、壮年に達していないが、過誤悪行のあることを聞かない。この王を太子に立てたいと思う。諸卿の意見はどうか・・・。
そこで右大臣以下の人々は[ただ勅令にのみ従う]と申し上げている。これより先、大納言の藤原朝臣仲麻呂は、大炊王を招いて田村第に居住させていた。この日、内舎人の「藤原朝臣薩雄」と中衛二十人を遣わし大炊王を迎え、皇太子に立てている。
天皇は次のように勅されている・・・国家は、君主を以って主人とし、太子を以って固めとする。このため先帝の遺詔により、道祖王を皇太子に立てた。けれども王は、服喪も終わらず、御陵の土もまだ乾かないうちに、密かに侍童と姦淫して、先帝に対する恭敬の念がなかった。王の喪中の儀礼は。憂愁の意に叶っておらず、機密のことを民間に漏らしてしまった。そこでしばしば自分が教戒を加えたが、悔いる様子もなく、婦人の言を好んで取り上げ、違って服従しないことが多かった。王は、突然春宮を出て、夜分に独り私宅に帰って来たりし、[臣は拙い愚かな人間なので、将来皇位という思い任を担うことができない]と言っている。そこで朕は、密かにこの王を廃して大炊王を立てることを計画し、自ら仏と神に乞い祈って政治の善悪について、しるしを示されることを願った。---≪続≫---
ここに去る三月二十日に、朕の住居の塵よけの帳の裏に「天下太平」の文字が歴然と明らかに出現した。このことは、天が助け、神が表されたものである。遥かに上古のことを通覧し、過去の事実を調べてみても、書物にまた記されておらず、前代未聞のことである。これは仏・法・僧の三宝が、まず国家が太平になることを示し、天地の神々が国家は永く安定することをあらかじめ示したもの、と解釈される。このめでたいしるしを戴くことができて、まことに悦び躍る気持ちである。いったい孝行でない子は、慈しみ深い父でさえ哀れまず、礼儀のない臣下は聖人の君主でも見捨てるというから、天意に従って廃し退け、元の身分に還すべきである。---≪続≫---
また諸王・諸卿が忠誠を尽くし、誤りを正して助けたからこそ、この貴くめでたいしるしを感得したのであって、どうして朕一人で招くことができようか。従って諸王・公卿・官人・庶民等と共に、この天からの賜り物を頂き、天に答え、旧罪を洗い流し、広く新たな幸を蒙らせるべきである。そこで天下に大赦する。天平勝寶九歳四月四日の夜明け以前の、死罪以下の罪の軽重を問わず、発覚した罪もまだ発覚していない罪も、既に罪の定まったものも、審理中のものも、捕らわれて現に囚人となっているものも、全て赦免する。但し八虐を犯した者、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗は、この限りではない。---≪続≫---
いったい天下の人民は、十七歳になると軽度の労役を課され、二十一歳になると成人の労役を課される。その苦労を憐れみ、心を痛めている。かつての先帝もまたこの気持ちをもっておられたが、軽減の政策は行われなかった。そこで今より以後は十八歳以上を中男とし、二十二歳以上を正丁とせよ。昔から民を治め国を安定させるには、必ず孝を以って治めた。孝はあらゆる行動の根本であって、これに優先するものはない。そこで天下の家ごとに『孝経』一巻を所蔵させ、暗誦・学習によく努めさせ、ますます教えを垂れるべきである。人民のなかに孝行が人にも聞こえ、村里の人々が敬い仰ぐような者があれば、所轄の長官にその者の名を詳しく報告させるべきである。一方、不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それらを「陸奥國桃生」・「出羽國小勝」に配属し、風俗を矯正すると共に、辺境を防衛させるべきである。---≪続≫---
また別に、頴川に住み箕山に隠れるような隠遁者があれば、朕の世の許由・巣父(中国古代の伝説上の隠者、こちら参照)として認め、礼儀正しく訪ねて行って慰問し、好むままに隠遁の志をとげさせよ。また僧綱と京内の僧尼の復位以上を持つ者に地位に応じて物を与える。天皇の側近に供奉する竪子(内竪)・授刀舎人、及び一周忌の御齋会のために種々の物品を作成するのに関係してお造り申し上げる諸司の男女たちが朝早くから夜遅くまで怠らず誠意を尽くして勤めるならば、位階を二級増し進め、更に真綿・絹布を与えるようにせよ。役所での勤務が怠り弛んでいる者には、位階を一段階減ぜよ。---≪続≫---
その他の京内・京外の諸官司の主典以上、及び国内の高齢者で八十歳以上の者、中衛府と兵衛府の舎人、衛門府の門部、衛士府の主帥、兵部省などの雑工、それに衛士と仕丁の勤務すること三十年を越える者等に、位階を一級加え進める。但し、正六位以上の者と勤務についていない者は、この限りではない。在京の文武官であって、官職をもって現に勤務している正六位以上の者、及び月齋社の祝たちには、身分に応じて物を給う。天下の鰥・寡・孤(惸)・獨、篤疾・廃疾であって自活できない者には、その程度に応じて物を恵み与える。---≪続≫---
高麗・百濟・新羅の人であって、以前に天皇の徳化に浴することを望んで来朝し、わが国の風俗に馴染み、姓(氏名)を賜ることを願う者には、悉く希望を許すことにする。戸籍の記載に、姓がないのと族の字を付けているのとは、道理に背きよろしくないので改正すべきである。また造東大寺の匠丁、造山陵司の役夫、及び左右京・四畿内・伊賀・尾張・近江・丹波・丹後・但馬・播磨・美作・備前・紀伊などの國の兵士、それに防人・鎮兵・衛士・火頭・仕丁・鼓吹戸の人、輪車の戸の戸主には、今年の田租を免除する・・・。全ての官人等が朝堂に参上し、表文を進めて、めだたい文字(天下太平)を祝賀している。
● 藤原朝臣薩雄
藤原朝臣仲麻呂の子と知られている。既に「眞從」を始め、幾人かが登場して、彼等の出自の場所を求めたが(こちら参照)、図が煩雑になるために改めてこの人物の出自を示してみよう。
調べると、前出の「刷雄」と同一人物説があり、「サツオ」の読みが同じなのも、それを支持するような説が提案されている(同音異字)。
しかしながら、呉音では刷雄(セチオ)となる。漢音・呉音を都合よく使っては、混迷をもたらすのみであろう。
薩雄の「薩」は既出の文字であり、薩麻などに用いられている。薩=艸+阝+產=二つ並んだ高台が生え出ている様と解釈した。「雄」は、「刷雄」の雄とすると、出自の場所は図(国土地理院航空写真1961~9年)に示したところと推定される。「田村第」への使い走り、意気揚々とした気分は、時代の流れに巻き込まれて行く前兆だったのかもしれない。
後に藤原朝臣朝獵が従五位下に叙爵されて、陸奥守に任じられている。既出の「朝」=「𠦝+月」=「山稜の端に挟まれて丸く区切られた様」と解釈した。朝妻などで用いられた文字である。「獵」=「犬+巤」と分解され、更に「巤」=「巛+囟+鼠の下部」と分解される。獣の頭部の毛の有様を象形した文字と知られている。
合わせると朝獵=山稜の端に挟まれて丸く小高い地で平らな山稜が寄り集まった窪んだところと読み解ける。「薩雄」の「隹」の頭部でもある。凝った名称ではあるが、なかなかに洗練された文字使いのようにも思われる。朝狩の別名があったと知られているが、「守」の地形象形を確認するには、航空写真では叶わないようである。
更に他の兄弟の出自場所を求めると、藤原朝臣小湯麻呂は、小湯=三角形の山稜の傍らで水が飛び散るように流れているところと読み解ける。朝獵の西側の谷間の出口辺りが出自と推定される。別名が小弓麻呂と知られているが、「小」の形が弓を引いたように見做したのであろう。藤原朝臣辛加知は、辛加知=突き刺して押し開いく鏃のような山稜が延びているところと読み解ける。「小湯麻呂」に北側、谷間の最奥の場所が出自と思われる。
陸奥國桃生
品行の悪い輩は、辺境の地で防衛に使役しろ、と述べておられる。実際に、それが具体化したかは知る由もないが・・・。ところで桃生は、この後もしばしば登場し、城が造られ、郡建ても行われたようである。
天皇の先見の明があったようで、言い換えれば勅によってその地の開発が促進されたのであろう。詳細は登場の時として、先ずは「桃生」の場所を求めてみよう。
「桃」=「木+兆」と分解され、「兆」=「二つに岐れている様」を表す文字と知られている。「桃」の果実の姿を表現したものであろう。地形象形的には、山稜がその姿を示していると見做したのであろう。
図に示した場所、遠田君小捄・金夜の北側に接する地を桃で表記したと思われる。桃生=[桃]のような地から生え出たところと解釈される。上図に国土地理院航空写真1974~8年を参照すると、それらしき姿が確認される。生え出た場所は、現在は貯水池となっているが、多分当時は、谷間が広がった地形であったと推測される。後に桃生郡として郡建てされている。
出羽國小勝
少し後に「小勝村」と表記され、地域の名称であることが分かるが、更に後に「小勝柵」の造営が記述されている。上記の「桃生城」と同じく辺境防衛策の一環として強化されたことが伺える。
出羽國は、現在の北九州市門司区畑にあった國と推定した。同区大里から鹿喰峠を越えた長い谷間の地形である。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が韓比賣を娶って白髪命(後の清寧天皇)、若帶比賣命の出自の地であった(こちら参照)。
既出の文字列である小勝=三角形に小高く盛り上がっているところと解釈される。それらしき地形を探すと、図に示した山稜の端が見出せ、その麓に広がった地域を表していると思われる。後に雄勝城と記載されるが、「雄」=「厷+隹」=「鳥が羽を広げた様」の地形が「小」の中に見出せる。その麓に城を造ったのであろう。
通説は、前出の越後國の出羽柵近隣の雄勝村と同一視されているようだが、全く異なる配置である。かつて、神龜四(727)年九月、渤海部王の使者が出羽國に来着した、と記載されていた。淡海に迷い込んで出雲國に上陸し、鹿喰峠を越えると出羽國に届く。防衛拠点として重要な場所であったことを示しているようである。