2022年8月4日木曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(12) 〔599〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(12)


天平字元年(西暦757年)五月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

五月己酉。太上天皇周忌也。請僧千五百餘人於東大寺設齋焉。辛亥。天皇移御田村宮。爲改修大宮也。乙夘。勅曰。頃者。上下諸使。惣附驛家。於理不穩。亦苦驛子。自今已後。宜爲依令。」其能登。安房。和泉等國依舊分立。」但馬。肥前加介一人。出雲。讃岐加目一人。丁夘。以大納言從二位藤原朝臣仲麻呂爲紫微内相。從三位藤原朝臣永手爲中納言。」詔曰。朕覽周礼。將相殊道。政有文武。理亦宜然。是以。新令之外。別置紫微内相一人。令掌内外諸兵事。其官位。祿賜。職分。雜物者。皆准大臣。」又勅曰。頃年。選人依格結階。人人位高不便任官。自今以後。宜依新令。去養老年中。朕外祖故太政大臣。奉勅刊脩律令。宜告所司早使施行。」授從二位藤原朝臣豊成正二位。正四位下塩燒王。從四位上池田王並正四位上。從四位上諱。從四位上船王並正四位下。從四位下山背王從四位上。從五位上久勢王正五位下。從五位下厚見王。山村王並從五位上。无位船井王。掃守王。尾張王。奈賀王並從五位下。從四位上文室眞人大市。阿倍朝臣沙弥麻呂。高麗朝臣福信並正四位下。從四位下巨勢朝臣堺麻呂從四位上。正五位上佐伯宿祢毛人。佐伯宿祢今毛人。正五位下佐味朝臣虫麻呂並從四位下。正五位下大伴宿祢稻公。大倭宿祢小東人。賀茂朝臣角足並正五位上。從五位上藤原朝臣千尋。百濟王元忠。阿倍朝臣嶋麻呂。粟田朝臣奈勢麻呂。大伴宿祢犬養。中臣朝臣清麻呂。石川朝臣名人。勤臣東人。葛木宿祢戸主並正五位下。從五位下日下部宿祢子麻呂。下毛野朝臣稻麻呂。縣犬養宿祢小山守。小野朝臣東人。多治比眞人土作。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。石上朝臣宅嗣。大倭忌寸東人。百濟朝臣足人。播美朝臣奧人並從五位上。外從五位下葛井連諸會。日置造眞夘。中臣丸連張弓。上毛野君廣濱。廣野連君足。正六位上忌部宿祢呰麻呂。三國眞人百足。多治比眞人犬養。紀朝臣僧麻呂。大宅朝臣人成。中臣朝臣麻呂。高橋朝臣子老。阿倍朝臣御縣。榎井朝臣小祖父。賀茂朝臣塩管。大原眞人今木。巨勢朝臣度守。石川朝臣君成。田口朝臣御直。賀茂朝臣淨名。藤原朝臣執弓。池田朝臣足繼。田中朝臣多太麻呂。大伴宿祢不破麻呂。石川朝臣人公。无位文室眞人波多麻呂並從五位下。正六位上食朝臣三田次。川原連凡。益田繩手。大藏忌寸家主。土師宿祢犬養。土師宿祢弟勝。河内畫師祖父麻呂。白鳥村主頭麻呂。上毛野君眞人並外從五位下。

五月二日は太上天皇の一周忌の日である。僧侶千五百余人を東大寺に招いて、供養の食事を供している。四日に天皇が田村宮(田村第の場所)に移っている。平城の大宮を改修するためであった。

八日に次のように勅されている・・・この頃、上り下りする使たち全てに駅家を利用させているのは、道理に合っていない。また、これでは駅の人夫に苦労を与えることになる。今より後は、駅利用について令の規定に従うようにせよ。また能登安房和泉(和泉監:河内國和泉・日根・大鳥郡)等の國は、元のように分立させよ・・・。この日、但馬・肥前の官人の定員に、介一人を増し、出雲・讃岐には目一人を増している。

二十日に大納言の藤原朝臣仲麻呂を紫微内相、藤原朝臣永手を中納言に任じている。天皇は以下のように詔されている・・・朕が『周礼』を読むに、将軍と宰相の道は異なり、政には文武の別があるという。道理として当然そうあるべきである。この故に、新令(養老令)の規定とは別に、紫微内相一人を設け、都の衛府と諸國の軍団の軍事権を管轄させることにする。その官位・俸禄・職分の雑物は、みな大臣に准ぜよ・・・。

また、次のように勅されている・・・この頃、官人を選考して位階を定めるのに、格に依拠して進級する階数を定めているが、その結果人々の位階が高くなり、釣り合う官職に就くことが難しくなっている。そこで今より後は、新令に依拠するようにせよ。これは去る養老年中に、朕の外祖父(母方の祖父)の贈太政大臣(藤原不比等)が勅命を受けて編集した律令である。所司に布告して早く施行せよ・・・。

藤原朝臣豊成に正二位、鹽燒王池田王に正四位上、諱(白壁王、後の光仁天皇)船王に正四位下、山背王に從四位上、久勢王(久世王)に正五位下、厚見王山村王に從五位上、「船井王」・「掃守王」・「尾張王」・「奈賀王」に從五位下、文室眞人大市(大市王)・阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)高麗朝臣福信(背奈公福信)に正四位下、巨勢朝臣堺麻呂に從四位上、佐伯宿祢毛人佐伯宿祢今毛人佐味朝臣虫麻呂に從四位下、大伴宿祢稻公(稻君。宿奈麻呂に併記)・大倭宿祢小東人賀茂朝臣角足(鴨朝臣。治田に併記)に正五位上、藤原朝臣千尋百濟王元忠(①-)・阿倍朝臣嶋麻呂粟田朝臣奈勢麻呂大伴宿祢犬養(三中に併記)中臣朝臣清麻呂(東人に併記)石川朝臣名人(枚夫に併記)勤臣東人(楢原造、伊蘇志臣)・葛木宿祢戸主(葛木連)に正五位下、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)縣犬養宿祢小山守(五百依に併記)・小野朝臣東人(馬養に併記)多治比眞人土作(家主に併記)藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)藤原朝臣魚名(鳥養に併記)石上朝臣宅嗣・「大倭忌寸東人」・百濟朝臣足人(余足人。義仁に併記)・播美朝臣奧人(食朝臣息人)に從五位上、葛井連諸會(大成に併記)・日置造眞夘中臣丸連張弓上毛野君廣濱(田邊史廣濱。史部虫麻呂に併記)・廣野連君足(山田史)・「忌部宿祢呰麻呂」・三國眞人百足(千國に併記)・多治比眞人犬養(木人に併記)・紀朝臣僧麻呂(龍麻呂に併記)・大宅朝臣人成(廣麻呂に併記)・「中臣朝臣麻呂」・高橋朝臣子老(國足に併記)・「阿倍朝臣御縣」・「榎井朝臣小祖父」・「賀茂朝臣塩管」・「大原眞人今木」・「巨勢朝臣度守」・「石川朝臣君成」・「田口朝臣御直」・「賀茂朝臣淨名」・藤原朝臣執弓(眞光、眞先の別名。眞從に併記)・「池田朝臣足繼」・「田中朝臣多太麻呂」・「大伴宿祢不破麻呂」・「石川朝臣人公」・「文室眞人波多麻呂」に從五位下、食朝臣三田次(息人に併記)・「川原連凡」・「益田繩手」・大藏忌寸家主(麻呂に併記)・土師宿祢犬養(父親の祖麻呂に併記)・土師宿祢弟勝(兄弟の牛勝に併記)・「河内畫師祖父麻呂」・「白鳥村主頭麻呂」・「上毛野君眞人」に外從五位下を授けている。

<船井王・掃守王・尾張王・奈賀王>
● 船井王・掃守王・尾張王・奈賀王

四人の王は、無位から従五位下の叙位であるから、天智・天武天皇の曽孫であったと推測される。例の如く、全く系譜は知られていないようである。

ヒントは、直近の天皇の行幸場所に難波宮があったこと、「掃守王」に含まれる「掃守」の文字列に注目すると、彼等四人は、難波長柄豐碕宮の東側の山稜の麓を出自としていたのではなかろうか。

聖武天皇が難波宮に行幸されて、その國の人、掃守連族廣山の「族」を除いたと記載されていた。掃守=山稜が箒の形に延びた前で肘を張ったように囲まれているところと解釈した。掃守王の出自場所と推定される。

その南側に船井王船井=船のような山稜の傍らに四角く囲まれた地があるところと読み解ける。「掃守王」の南側の谷間を示していると思われる。尾張王尾張は頻出であり、尾が張ったような地形を東側の山稜の端に見出すことができる。

奈賀王奈賀=高台になった山稜が谷間を押し拡げるように延びているところと読み解ける。出自の場所は、書紀の孝徳天皇紀に子代離宮があった場所と推定される。解けてみると、記載された四人の王は、難波宮の東側の四つの山稜の端に座していた、と述べていたのである。

<大倭忌寸東人>
● 大倭忌寸東人

「大倭忌寸」の氏姓には、些か変遷があり、『八色之姓』で「連」から「忌寸」姓となった大倭忌寸小東人等は、「宿祢」姓を賜っている(一時期「大養徳」の氏名となったが)。

また「連」姓のままであった大倭連深田等及び大倭國城下郡の大倭連田長等も、やはり「宿祢」姓を授かっている。未だに「忌寸」姓のままの一族は?…添下郡にいた筈である。

元明天皇紀に、その孝行な態度を褒められて終身租税免除となった人物、大倭忌寸果安である。何とも懇切丁寧な記述であって、「登美箭田二郷百姓。咸感恩義。敬愛如親」彼の名声は近隣の登美郷・箭田郷に鳴り響いていたと記載されている。古事記の「登美」が久々に登場している。

そんなわけで、頻出の東人=谷間を突き通るようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。残念ながら、この人物の逸話は残されていないようである。

<忌部宿祢呰麻呂-人成-比良夫>
● 忌部宿祢呰麻呂

「忌部宿祢」に関しては、天平七(735)年七月に虫名・烏麻呂兄弟(父親は狛麻呂、『壬申の乱』の功臣、子人の孫)が伊勢幣帛使の任を請い、認められたと記載されていた。

幾度か述べたように藤原一族の政治力には到底叶えず、冷や飯を食わされたような感じである。何らかの抗議手段に訴えないと、いつの間にやら蚊帳の外だったのであろう。

今回の呰麻呂(アサマロ)の叙爵についても、先読みになるが、次月で藤原一族専任と宣言されてしまう伏線だったのかもしれない。政治と宗教、いつの時代になっても、胡散臭い関係である。

話しが横道に逸れるので、この人物の出自の場所を求めておこう。「呰」の文字は初見と思われる。例によって文字要素に分解すると、「呰」=「此+囗」となる。「此」は既出であり、「此」=「止+ヒ」=「谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様」と解釈した(文部此人など参照)。纏めると呰=谷間を挟んで折れ曲がって延びる山稜に囲まれた様と読み解ける。出自の場所は、「烏麻呂」の東側の谷間と推定される。

後(淳仁天皇紀)に奉幣使に任じられた忌部宿祢人成が登場する。勿論中臣朝臣からも選ばれている。人成=谷間にある平らに整えられたところと解釈すると、図に示した辺りが、出自と推定される。残念ながら系譜は定かでないようである。

更に後に忌部宿祢比良夫が従五位下を叙爵されて登場する。比良夫=なだらかな山稜が交差するように並んで延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。逆賊「仲麻呂」討伐で何らかの功績を上げたようである。

中臣朝臣麻呂-毛人>
● 中臣朝臣麻呂

藤原朝臣麻呂の「麻呂」に通じる表記であろうが、「中臣朝臣」は、意美麻呂系列垂目系列が多く登場している。前者の周辺意込み具合は凄まじく、後者の周辺で探索する。

「垂目」の子、嶋麻呂から三名の後裔が登場しているが、その東側、「垂目」の北側に位置する場所が、この人物の出自と推定される。

「名代」の近隣であるが、知られている彼の多くの子孫の中には「麻呂」は含まれず、やはり異なる系列であったのではなかろうか。歴史の表舞台には現れない人々の多さにあらためて驚かされるところである。言い忘れたが、麻呂=萬呂と解釈して、差支えのない地形と思われる。續紀での登場は、この場限りのようである。

後(淳仁天皇紀)に中臣朝臣毛人が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の毛人=鱗のような地が谷間にあるところと読むと、図に示した場所が出自と思われる。「麻呂」と同じく系譜は不詳のようである。

<阿倍朝臣御縣>
● 阿倍朝臣御縣

直近では鷹養が従五位下を叙爵されて登場していた。それ以前の人物名とは、些か趣を異にする感じであり、その名称が表す地形から、現在の七ツ石峠を越えた領域に出自を求めることができた。

今回の人物名にも「縣」が含まれていて、やはり以前とは異なる雰囲気を醸しているようである。何はともあれ、「縣」の地形を求めることにする。

すると、「鷹養」の更に先の谷間が、三つの大きな縣で取り囲まれている地形を見做せることに気付かされる。それを御縣=[縣]の地を束ねるところと表現していると思われる。頻出の「縣」については、その詳細を省く。

直前の記述に越中國に併合された能登國を元に戻せと勅されているが、その國境辺りを居処していたのであろう。阿倍一族の辺境の地からの登用である。

<榎井朝臣小祖父>
● 榎井朝臣小祖父

「榎井朝臣」は、元は「物部朴井連」であり、天武天皇の吉野脱出の際に大きな役割を果たしていて、正に『壬申の乱』の功臣が誕生した地である。

直近では、大嶋が物部一族を代表する「石上朝臣」の連中に加わって大嘗祭における任を務めている。物部派生一族としては、中央の要職に任用されたものと思われる。

既出の文字列である小祖父=三角の地の傍らに積み重なった高台が交差しているところと読み解ける。図に示した「榎井」の「井」の隅を表していることが解る。

この後も續紀に幾度か登場されるが、小祖子祖の別名が多く用いられている。小祖父が幼名なのであろうが、他の名称では一に特定することできず、曖昧さが残る別名である。

<賀茂朝臣鹽管・賀茂朝臣淨名>
● 賀茂朝臣塩管・賀茂朝臣淨名

「賀茂(鴨)朝臣」は、現地名の田川郡福智町伊方・弁城の蔓延った一族と推定した。古事記の意富多多泥古が祖となった鴨君の記述で史上に登場する一族と思われる。

前記で述べた藤原朝臣宮子の生誕した母親加茂比賣の地であり、皇統にも関わる人物がいた地でもある。『壬申の乱』の功臣となった蝦夷系列が重用されて来ているが、系譜不詳の人物も輩出している。

既出の文字列である塩(鹽)管=管のような谷間の前で平らになったところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。込み入っているが、すっぽりと抜け落ちていた場所である。同様に淨名=山稜の端が水辺で手を拡げたようになっているところと解釈される。地図上では川が確認されないが、「鹽管」の西側の山稜の端を表していると思われる。

「鴨」の姿を示す地からは、些かはみ出ているが、一族の繁栄が伺える記述であろう。両名共に今後も幾度か續紀に登場されているようである。ところで、この地は、葛上郡に含まれる。葛木山で修業した役君小角の出自も、この地とされているが、大混乱の有様であろう。

<大原眞人今木(城)-繼麻呂-宿奈麻呂>
● 大原眞人今木(城)

「大原眞人」は、百濟王の子孫である高安王等が賜った氏姓であった。彼等の出自の場所を現地名の田川市夏吉にある須佐神社周辺と推定した(こちら参照)。

また、同様の系譜である「海上眞人」氏姓を賜った清水王・三狩王が存在したことが知られている。彼等の地形象形表記によって、百濟王系列の出自場所がより確からしくなったと思われる。

今回登場の今木(別名今城)は、「高安」(高安王)の子と知られている。そんな背景を頼るまでもなく今木(城)=山稜(平らな台地)が覆い被さるように広がり延びているところと読み解け、図に示した場所が出自と推定される。叔父達に囲まれた地となる。どちらかと言えば「城」の表記が適切なように思われる。

今城の名称で、この後多くの登場の機会を得たようである。政争に巻き込まれて一時は官位剥奪の憂き目に合うが、その後復帰している。万葉歌人としての事績も残っているとのことである。

後(淳仁天皇紀)に弟の大原眞人宿奈麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。宿奈=山稜の端の高台を縮めたようなところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。別名の少萬呂もその地形を表していることが解る。同時に「今城」は従五位上を叙爵されている。弟も同じく政変に連座して些か曲折を経るようである。

更に後に大原眞人繼麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。調べると「櫻井」の子とのことで、その周辺が出自と思われる。繼麻呂=麻呂が連なるところと読むと、図に示した「麻呂」の谷間が縊れた先辺りを示していると思われる。

<巨勢朝臣度守>
● 巨勢朝臣度守

多くの「巨勢朝臣」の氏姓を持つ人物が登場して来たが、一味違った名前の持主であろう。先ずその地形象形表記を求めてみよう。

既出の文字列であるから度守=肘を張ったような端にある地を跨ぐように山稜が延びているところと読み解ける。「度」は、多度山に用いられた文字である。

極めて特徴的な地形である。それを図に示した場所に見出せる。巨勢朝臣の広い谷間のほぼ中央に位置する配置である。にもかかわらず、今まで登場がなかった?・・・いや、書紀に登場していたのである。

『壬申の乱』に近江軍の将軍、壹伎史韓國の出自の場所と推定した地である。書紀の捻くれた表記であって、壱岐に関わる人物を匂わせていたのである。勿論、通説は、その匂いのままに解釈し、時空錯誤で押し通しているのが現状なのである。

いつかは、この地の人物が登場するのでは?…と思いつつ、今日に至ったわけである。續紀も深追いはせずに、この人物もここだけの登場であり、「韓國」の地が注目されることはなかったようである。

<石川朝臣君成-人公-豐麻呂-奈保>
● 石川朝臣君成・石川朝臣人公

「石川朝臣」には、君子(吉美侯)が元明天皇紀に従五位下に叙爵されて登場していた。人公の「公」=「君」と読めば、二人とも何らかの繋がりがあったように思われるが、記録は残っていないようである。

いずれにしても「君」は「侯」=「人+厂+矢」=「山麓の谷間にある矢のような様」である谷間の高台を表していると思われる。

君成=[君]の傍らで平らな台地になっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。尚、公成の別名があったことも知られている。文字通りに解釈すると人公=谷間にある小高く区切られたところとなるが、出自はその高台の上辺りと思われる。二人共、後にそれぞれ任官された、と記載されるが、それ以後の登場はなく、詳細は不確かなようである。

後に石川朝臣豊麻呂が従五位下に叙爵されて登場する。同じく系譜不詳である。「石川朝臣」一族では石川朝臣豊人石川朝臣豊成の二人が「豐」の文字を持っていた。多分、古事記の橘豐日命(用明天皇)の出自の場所に繋がっていたことを示しているのであろう。麻呂=萬呂と解釈して、出自の場所を求めることができる。

更に後(称徳天皇紀)に女孺の石川朝臣奈保が正五位下を叙爵されて登場する。奈保=山稜が延びて高台となった先で丸く小高くなった地があるところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。現在の八幡神社の近隣である。

<田口朝臣御直-牛養>
● 田口朝臣御直

「田口朝臣」の氏姓を持つ人物の初爵は従五位下であるが、外が付くか否やの場合が見られる。孝徳天皇紀に蘇我山田大臣の謀反に連座して処刑された田口臣筑紫が登場している。

定かではないが、その子の「益人」、更に「家主」と続く系列は内位の従五位下となっている(出自の地はこちら)。その後に登場した「年足」(家主に併記)、三田次は外従五位下の叙爵であった。

御直は、”外”が付かない従五位下であり、「筑紫」の系列だったのではなかろうか。初見の爵位を念頭に置いて、この人物の出自の場所を求めてみよう。

既出の文字列である御直=真っ直ぐな窪んだ地を束ねたところと読み解ける。すると、「筑紫」の近隣、と言うか、その地に含まれる場所を表していることが解る。幾星霜の後に「筑紫」の子孫が登用されたのであろう。この後田口朝臣水直の表記で登場されるようである。

後(淳仁天皇紀)に田口朝臣牛養が同じく従五位下を叙爵されて登場する。頻出の牛養の地形を「御直」の東側に見出せる。おそらく「筑紫」の係累だったのであろう。彼等は兄弟だったのかもしれない。

<池田朝臣足繼-眞枚>
● 池田朝臣足繼

「池田朝臣」の氏姓を持つ人物は、元明天皇紀に子首が従五位下を叙爵されて登場するが、書紀の天武天皇紀の『八色之姓』の「池田君」が朝臣姓を賜ったと記載されていた。

古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、豐木入日子命(書紀では豐城入彦命)を遠祖に持つ一族と知られていることから、現在の築上郡上毛町上唐原・百留が居処と推定した。

足繼については、父親が益人であったと伝えられていて、両名の出自の場所を求めてみよう。地図上に現在は広大な貯水池となっている池田池があるが、山麓の地形から類推して、益人=谷間に挟まれて平らに広がった地が谷間にあるところは図に示した辺りに居処を構えていたと推測される。足繼=足のような山稜が引き継いで延びているところと解釈すると、子首の南側の場所が出自と思われる。

後に池田朝臣眞枚が、従八位上から一気に従五位下に叙爵されて登場する。詳細はその時とするが、出自の場所を求めて置く。既出の文字列である眞枚=細かく岐れた山稜が寄せ集められているところと読むと、図に示した場所が見出せる。さて、如何なる功績があったのか?・・・。

<田中朝臣多太麻呂>
● 田中朝臣多太麻呂

「田中朝臣」は、古事記の天津日子根命が祖となった倭田中直の地を本貫とする一族と推定した。現地名は田川郡香春町五徳、五徳川の対岸には大藏忌寸一族が蔓延った場所である。

既に登場した人物の出自の場所を求めたが、纏めたのが元正天皇紀であったことから、あらためて各人の配置を図に示した。

多太麻呂に含まれる既出の文字列である多太=山稜の端の三角(州)地が大きく広がっているところと読み解ける。三上・少麻呂の西側の地形を表していると思われる。麻呂=萬呂であったことも伝えられているが、全く問題なく用いることができる表記であろう(図が込み入るので省略)。

この後も、地方・中央官を歴任し、かなり多くの登場機会があったようである。最終官位正五位下・右大弁となっている。「田中朝臣」の系譜は殆ど不詳であるが、この人物は初見で”内位”の従五位下であり、三上などは”外位”である。明確に峻別されているようである。

<大伴宿禰不破麻呂>
● 大伴宿祢不破麻呂

夥しい数の「大伴宿祢」氏姓を持つ人物が登場している。系譜が定かなのは、長德系列ぐらいで、その他は殆ど不詳のようである。

長德系列であるが、『壬申の乱』の功臣である馬來田・吹負の子孫などは、しっかりと後世に伝えられている(こちら参照)。

一方で系譜不詳の人物が多く登場している。例えば、御助・首名・麻呂・老人
美濃麻呂・名負・百世の出自場所を、現在の京都郡苅田町にある山口ダムに水没する以前の地として、国土地理院航空写真1961~9年を用いて求めることができた。

今回登場の不破麻呂の不破=[不]の形に広がった山麓の端が崖のようになっているところと読み解いた。美濃國不破郡で用いられた文字列である。その地形を図に示した場所に見出すことができる。「首名・麻呂」の間の山稜の姿を表していることが解る。この後も續紀に度々登場されるようである。

<文室眞人波多麻呂>
● 文室眞人波多麻呂

「文室眞人」は、長皇子の子等が賜った氏姓と記載されていた。「文室」の氏名は、大市王の出自の場所を地形象形した表記であった(こちら参照)。

天武天皇の曽孫となる彼等が従五位下を叙爵されて登場することになろう。その初見の人物である。多くの孫がひしめき合った地、思い切り地図を拡大して、その出自の場所を求めてみよう。尚、大市王の子と知られている長嶋王・高嶋王については、既に登場済みである。

彼等の弟である波多麻呂波多=端と解釈して来たが、その場所を難なく見出すことができる。一件落着であるが、上記で「破」=「石+皮」と分解したように、文字要素に従った解釈も試みる。

「波」=「氵+皮」=「水辺で崖のようになっている様」、「多」=「山稜の端の三角形(州)の地」と分解される。纏めると波多=水辺で崖のようになっている山稜の端の三角形の地があるところと読み解ける。より詳細な地形象形表記と思われる。かなり長寿の人物だったようである。

<川原連凡>
● 川原連凡

「川原連」は、書紀の天武天皇紀に「縣犬養連手繦爲大使・川原連加尼爲小使、遣耽羅」の記述の中で登場していた(こちら参照)。がしかし、その後は全く音沙汰もなく今回に至っている。

「加尼」出自の場所を現地名の田川郡香春町中津原、古事記の廣國押建金日命(安閑天皇)の勾之金箸宮の近隣の地と推定した。

今思えば金鍾寺(東大寺)の足元に位置する地である。「凡」は、間違いなく、今回の外従五位下の叙爵は、本寺創建に関わっていた人物だったと思われる。幾度か用いられている凡=[凡]の形に谷間が延びているところと解釈したが、図に示した谷間を表していると思われる(国土地理院航空写真1961~9参照)。

天武天皇紀に川原椋人子虫河原史の氏姓を賜ったと記載されている。河内國丹比郡の船連一族が蔓延った地の前、谷間の出口辺りを居処していたと推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保である。通説は、これと全く混同しているようである。地名ありきの解釈を放棄することであろう。

<益田繩手>
● 益田繩手

ずっと後のことになるが、天平神護元(765)年三月に「越前國足羽郡人從五位下益田繩手賜姓益田連」と記載されている。ここでは外従五位下の叙爵であるが、この後、内位の従五位下へ昇位したとも記されている。

越前國足羽郡も初見となり、「繩手」の出自場所と併せて求めてみよう。越前國を出自に持つ人物の登場は、文武天皇紀の慶雲二(705)年九月まで遡ることになり、五十余年の空白がある。その間、”瑞鳥”の献上物語が散見されるわけだから、土地の開拓はそれなりに進捗していたのであろう。

足羽郡足羽=山稜の端が羽のように広がっているところと読むと、赤烏を献上した越前國の人、宍人臣國持の谷間があった地域であることが解る。すると、益田繩手は、その背中合わせの谷間と推定されるが、名前の文字列に忠実に読み解いてみよう。

益田=谷間に挟まれた平らな台地が広がっているところと解釈される。図に示した場所、現在は採石場となって些か変形してはいるが、を見出せる。その谷間の東側の山稜に注目すると、繩手=縄のように捩り曲がって延びた山稜の端が手のようになっているところと読み解ける。東大寺造営に際して、大工(建築現場の統率指揮者)として功績があったことが伝えられている。上記の「川原連凡」と共に東大寺関連の叙位だったようである。

書紀の天武天皇紀に優婆塞」(在家信者)の益田直金鍾が登場していたが、その「金鍾」の名前から、その子孫が東大寺の造営に関わったように解説されている。「金鍾」は、地形象形表記であって、当然類似の地形の場所が存在する場合もあろう。續紀編者は、錯覚されることを想定して、無姓の「益田繩手」の出自の國・郡を記載したのではなかろうか(内位への昇位と「連」姓を賜っている)。

<河内畫師祖父麻呂(御杖連)>
<御杖連祖足>
● 河内畫師祖父麻呂

前年の二月に孝謙天皇が河内國に行幸され、「六寺礼佛」と記されていた。この記述が伏線であろう。「礼佛」=「仏像を礼拝」と訳したが、「仏画」とも読める簡略な記述でもある(こちら参照)。

要するに智識寺を始めとする六寺に立派な仏画が飾られていたのではなかろうか。それを手掛けた畫師を叙位したことになる。

そんな背景から、六寺のあった大縣郡周辺に祖父麻呂の出自の場所があったと推測される。既出の祖父=積み重なった高台が交差するように延びているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。

後(淳仁天皇紀)に河内畫師祖足等十七人が御杖連の氏姓を賜ったと記載される。「祖父」の「父」を「足」に置換えた表記であろう。御杖=長く延びた腕のような山稜を束ねたところと読むと、図に示した地形を表現していることが解る。賜った氏姓によって、彼等の出自場所がより確からしくなったように思われる。

更に後に外従五位下の御杖連祖足相摸介に任じられたと記載される。系譜は不詳だが、祖足=積み重なった高台が足のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

既に多くの例があるように、河内國には夥しい数の渡来系の人々が住まっていたことが伺える。様々な技術・技能を有する人材を賞賛し、また、登用しながら國の発展を試みたのであろう。

<白鳥村主頭麻呂>
● 白鳥村主頭麻呂

「白鳥村主」の「白鳥」は瑞鳥ではなく、ましてや白烏でもなく、古事記の倭建命が葬られた「河内國之志幾」に造られた白鳥御陵の場所を示しているのであろう。

「河内國之志幾」は、續紀では河内國志紀郡と表記される。大寶二(702)年八月に「癸夘。震倭建命墓。遣使祭之」と記載されていた。「陵」ではなく「墓」とするのは、真っ当であろう。

頭麻呂の「頭」を何と解釈するか?…図に示したように”白鳥”の胴体部が頭部の形をしていることが解る。ふっくらと盛り上がっている様子を表現しているのである。おそらく、この人物の出自の場所は、少しく窪んだ辺り、前出の井上忌寸麻呂の西側、と思われる。

<上毛野君眞人>
<上毛野公牛養-石瀧>
● 上毛野君眞人

「上毛野君」については、通説は大混乱である。或る意味で書紀編者の思惑通りの結果となっている。「上毛野」の地と上野國とを同一視した解釈となっているのである。

天武天皇紀の『八色之姓』で「上毛野君」は朝臣姓を賜っている。時が経って、田邊史難波等が「上毛野君」を授かるのであるが、全くの別系統の一族であろう。

記紀・續紀は、異なる地だが、”上毛野”という類似の地形に基づく名称であることを告げているのである。固有の地名と解釈する通説では、混乱が生じるのも当然であろう。何度も繰り返すようだが、古代の史書の解読は、本居宣長の域を一歩も、いや半歩も、踏み出ていないのである。

前置きが長くなったが、姓ではない眞人=谷間が寄せ集められている窪んだところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。續紀での登場は一度切りなのだが、別書では詳細に記録されているようである。東大寺造立に関わった人物だったと記載されている。

後(淳仁天皇紀)に外従五位下の上毛野公牛養が美濃介に任じられて登場する。この時、既に「君」の文字は禁じられて「公」と表記されている。牛養=牛の頭のように延びた山稜に挟まれた谷間が広がっているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。

その少し後に上毛野公石瀧が外従五位下を叙爵されて登場する。「瀧」を名前に用いたのは初見であろう。瀧=氵+龍=水辺で山稜が龍のような形をしている様と、素直に解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。一見、ややこしそうな感じだが、見たままの表現であった。