2022年8月10日水曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(13) 〔600〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(13)


天平字元年(西暦757年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六月乙酉。制勅五條。諸氏長等或不預公事。恣集己族。自今以後。不得更然。〈其一〉王臣馬數。依格有限。過此以外。不得蓄馬。〈其二〉依令。隨身之兵。各有儲法。過此以外。亦不得蓄。〈其三〉除武官以外。不得京裏持兵。前已禁斷。然猶不止。宜告所司固加禁斷。〈其四〉京裏廿騎已上不得集行。〈其五〉宜告所司嚴加禁斷。若有犯者。科違勅罪。壬辰。以從三位石川朝臣年足爲神祇伯。正四位下橘朝臣奈良麻呂爲右大弁。正五位下粟田朝臣奈勢麻呂爲兼左中弁。越前守如故。正五位上大倭宿祢小東人爲紫微大忠。從五位下田口朝臣御直爲大監物。從三位文室眞人智努爲治部卿。從五位下大原眞人今城爲少輔。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲民部少輔。從五位下石川朝臣君成爲主税頭。從三位石川朝臣年足爲兵部卿。神祇伯如故。從五位上大伴宿祢家持爲大輔。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲少輔。正四位上池田王爲刑部卿。從五位下大伴宿祢御笠爲大判事。正四位上塩燒王爲大藏卿。從五位下藤原朝臣濱足爲少輔。從五位下巨勢朝臣淨成爲宮内少輔。從五位下多治比眞人犬養爲大膳亮。正四位下文室眞人大市爲彈正尹。從四位上紀朝臣飯麻呂爲右京大夫。從五位下田中朝臣多太麻呂爲中衛員外少將。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲衛門佐。從五位下池田朝臣足繼爲左衛士佐。從五位上日下部宿祢子麻呂爲左兵衛督。從五位下石川朝臣人公爲右兵衛督。從五位下下毛野朝臣多具比爲右馬頭。從五位下大宅朝臣人成爲左兵庫頭。左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂爲兼陸奧鎭守將軍。陸奧守從五位上佐伯宿祢全成爲兼副將軍。從四位下多治比眞人國人爲攝津大夫。外從五位上文忌寸馬養爲鑄錢長官。從五位下大伴宿祢御依爲參河守。正五位上賀茂朝臣角足爲遠江守。從五位上石上朝臣宅嗣爲相摸守。紫微少弼從四位上巨勢朝臣堺麻呂爲兼下総守。正四位下大伴宿祢古麻呂爲陸奧按察使。從四位上山背王爲但馬守。從五位下藤原朝臣武良志爲伯耆守。從三位百濟王敬福爲出雲守。從三位藤原朝臣乙麻呂爲美作守。從五位下調連馬養爲備前守。從五位下柿本朝臣市守爲安藝守。正五位下阿倍朝臣嶋麻呂爲伊豫守。從五位下榎井朝臣子祖父爲豊後守。癸巳。以兵部少輔從五位下藤原朝臣繩麻呂爲兼侍從。乙未。始制。伊勢太神宮幣帛使。自今以後。差中臣朝臣。不得用他姓人。甲辰。先是。去勝寳七歳冬十一月。太上天皇不豫。時左大臣橘朝臣諸兄祗承人佐味宮守告云。大臣飮酒之庭。言辞无礼。稍有反状云云。太上天皇優容不咎。大臣知之。後歳致仕。既而勅召越前守從五位下佐伯宿祢美濃麻呂。問識此語耶。美濃麻呂言曰。臣未曾聞。但慮。佐伯全成應知。於是將勘問全成。大后慇懃固請。由是事遂寢焉。語具田村記。至是從四位上山背王復告。橘奈良麻呂備兵器。謀圍田村宮。正四位下大伴宿祢古麻呂亦知其情。

六月九日に五条を制定し、申し渡している・・・諸氏族の氏上等は公用を捨てて置いて勝手に自分の氏族の人を集め会合している。今より後は、このような事があってはならない<その一>。王族や臣下等の馬の数は、格によって制限がある。この制限以上に馬を飼ってはならない<その二>。令の定めに拠れば、人が所持する武器について、所有の法規がある。この法規以上に蓄えてはならない<その三>。武官を除いては、京中で武器を持ってはならないことは以前から禁断している。けれども、なおその風潮が止まない。所司に布告して厳重に禁断せよ<その四>。京中を二十騎以上の集団で行動してはならない<その五>。以上のことを所司に布告して、厳重に禁断せよ。もし違反者があれば、違勅の罪に科せ・・・。

十六日に石川朝臣年足を神祇伯、橘朝臣奈良麻呂を右大弁、越前守の粟田朝臣奈勢麻呂を兼務の左中弁、大倭宿祢小東人を紫微大忠、田口朝臣御直を大監物、文室眞人智努(智努王。珍努)を治部卿、大原眞人今城(今木)を少輔、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を民部少輔、石川朝臣君成を主税頭、神祇伯の石川朝臣年足を兼務の兵部卿、大伴宿祢家持を大輔、藤原朝臣繩麻呂を少輔、池田王を刑部卿、大伴宿祢御笠(御助。兄麻呂に併記)を大判事、塩燒王を大藏卿、藤原朝臣濱足を少輔、巨勢朝臣淨成を宮内少輔、多治比眞人犬養(木人に併記)を大膳亮、文室眞人大市(大市王)を彈正尹、紀朝臣飯麻呂を右京大夫、田中朝臣多太麻呂を中衛員外少將、大伴宿祢不破麻呂を衛門佐、池田朝臣足繼を左衛士佐、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を左兵衛督、石川朝臣人公を右兵衛督、下毛野朝臣多具比を右馬頭、大宅朝臣人成(廣麻呂に併記)を左兵庫頭、左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を兼務の陸奧鎭守將軍、陸奧守の佐伯宿祢全成を兼務の副將軍、多治比眞人國人(家主に併記)を攝津大夫、文忌寸馬養を鑄錢長官、大伴宿祢御依(三中に併記)を參河守、賀茂朝臣角足(鴨朝臣。治田に併記)を遠江守、石上朝臣宅嗣を相摸守、紫微少弼の巨勢朝臣堺麻呂を兼務の下総守、大伴宿祢古麻呂を陸奧按察使、山背王を但馬守、藤原朝臣武良志(武良自)を伯耆守、百濟王敬福()を出雲守、藤原朝臣乙麻呂を美作守、調連馬養を備前守、柿本朝臣市守を安藝守、阿倍朝臣嶋麻呂を伊豫守、榎井朝臣子祖父(小祖父)を豊後守に任じている。

十七日に兵部少輔の藤原朝臣繩麻呂を兼務の侍從に任じている。十九日に初めて次のように制定している・・・伊勢太神宮へ使する幣帛使は、今より後は、中臣朝臣のみをあてることにし、他姓の人をあててはならない・・・。

二十八日、これより前に、去る天平勝寶七歳(755)十一月に、太上天皇(聖武)が病臥した時、左大臣の橘朝臣諸兄(葛木王)の側近に仕える「佐味宮守」が通報して、[大臣が酒を飲んだ席で太上天皇に対し無礼な言葉を申した。大臣には謀反の気配があると思われる]と告げている。太上天皇は優しく心が広く、「諸兄」を咎めなかった。大臣は、このことを知り、次の年に辞職引退している。

さて、天皇は先に勅して、越前守の佐伯宿祢美濃麻呂を召し出し、この言葉を知っているかと尋ね、[臣はかつて聞いたことがない。ただ考えるに佐伯全成は聞いている筈である]と答えている。そこで全成を尋問しようとしたところ、皇太后(光明子)が丁寧に思いとどまるように強く請うたので、召喚尋問は取り止めとなった。このことは『田村記』(藤原仲麻呂の一代記?)に詳しく載っている。この二十八日になって、山背王がまた次のように知らせて来た・・・橘奈良麻呂が兵器を用意し、田村宮(田村第の場所)を包囲する陰謀を企てている。大伴宿祢古麻呂も、その内情をよく知って加担している・・・。

<佐味宮守>
● 佐味宮守

「佐味朝臣」一族と思われるが、次月の叙爵で從八位上から一気に従五位下となっている。聖武天皇紀に多く人物の登場があり、「虫麻呂」を代表として取り纏めて、各人の配置を示した(こちら参照)。

現地名の築上郡上毛町東下と推定したが、メガソーラ設置やらで地形の変形が大きく国土地理院航空写真1961~9年を参照して求めた結果であった。

今回登場の宮守=谷間の奥が広がって両肘を張ったようになっているところと解釈すると、最も南側にある谷間を表していることが解る。登用されて安房守、越後守の地方官を務めたと續紀が伝えている。

物語は、橘宿祢奈良麻呂の謀反劇へと進み、藤原朝臣仲麻呂との確執が次第にあからさまになって行くようである。いずれにしても皇嗣の候補者が明確ではないことが、様々な対立を発生させたのであろう。

長い七月記となるので前後半に分けて述べることにする。

〔七月前半〕

秋七月戊申。詔曰。今宣〈久〉頃者王等臣等〈乃〉中〈尓〉無礼〈久〉逆在〈流〉人〈止母〉在而計〈家良久。〉大宮〈乎〉將圍〈止〉云而私兵備〈布止〉聞看而加遍〈須〉加遍〈須〉所念〈止母〉。誰奴〈加〉朕朝〈乎〉背而然爲〈流〉人〈乃〉一人〈母〉將在〈止〉所念〈波〉。隨法不治賜。雖然一事〈乎〉數人重奏賜〈倍波〉可問賜物〈尓夜波〉將在〈止〉所念〈止母〉。慈政者行〈布尓〉安爲〈氐〉此事者天下難事〈尓〉在者狂迷〈遍流〉頑〈奈留〉奴心〈乎波〉慈悟〈志〉正賜〈倍伎〉物在〈止〉所念看〈波奈母〉如此宣〈布〉。此状悟而人〈乃〉見可咎事和射〈奈世曾〉。如此宣大命〈尓〉不從將在人〈波〉朕一人極而慈賜〈止母〉國法不得已成〈奈牟〉。己家家己門門祖名不失勤仕奉〈礼止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。」詔畢更召入右大臣以下群臣。皇大后詔曰。汝〈多知〉諸者吾近姪〈奈利〉。又竪子卿等者天皇大命以汝〈多知乎〉召而屡詔〈志久〉。朕後〈尓〉太后〈尓〉能仕奉〈利〉助奉〈礼止〉詔〈伎〉。又大伴佐伯宿祢等〈波〉自遠天皇御世内〈乃〉兵〈止〉爲而仕奉來。又大伴宿祢等〈波〉吾族〈尓母〉在。諸同心〈尓〉爲而皇朝〈乎〉助仕奉〈牟〉時〈尓〉如是醜事者聞〈曳自〉。汝〈多知乃〉不能〈尓〉依〈氐志〉如是在〈良志〉。諸以明清心皇朝〈乎〉助仕奉〈礼止〉宣。是日夕。中衛舍人從八位上上道臣斐太都告内相云。今日未時。備前國前守小野東人喚斐太都。謂云。有王臣謀殺皇子及内相。汝能從乎。斐太都問云。王臣者爲誰等耶。東人荅云。黄文王。安宿王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂等。徒衆甚多。斐太都又問云。衆所謀者將若爲耶。東人荅云。所謀有二。一者。駈率精兵四百。將圍田村宮。二者。陸奧將軍大伴古麻呂今向任所。行至美濃關。詐稱病請欲相見一二親情。蒙官聽許。仍即塞關。斐太都良久荅云。不敢違命。先是。去六月。右大弁巨勢朝臣堺麻呂密奏。爲問藥方。詣荅本忠節宅。忠節因語云。大伴古麻呂告小野東人云。有人欲刧内相。汝從乎。東人荅云。從命。忠節聞斯語。以告右大臣。大臣荅云。大納言年少也。吾加教誨宜莫殺之。是日。内相藤原朝臣仲麻呂具奏其状。警衛内外諸門。乃遣高麗朝臣福信等。率兵追捕小野東人。荅本忠節等。並皆捉獲。禁著左衛士府。又遣兵圍道祖王於右京宅。己酉。勅右大臣藤原朝臣豊成。中納言藤原朝臣永手等八人。就左衛士府。勘問東人等。東人確噵無之。即日夕。内相仲麻呂侍御在所。召鹽燒王。安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂五人。傳太后詔宣曰。鹽燒等五人〈乎〉人告謀反汝等爲吾近人一〈毛〉吾〈乎〉可怨事者不所念。汝等〈乎〉皇朝者己己太久高治賜〈乎〉何〈乎〉怨〈志岐〉所〈止志氐加〉然將爲不有〈加止奈母〉所念。是以汝等罪者免賜。今徃前然莫爲〈止〉宣。詔訖五人退出南門外。稽首謝恩。庚戌。詔。更遣中納言藤原朝臣永手等。窮問東人等。款云。毎事實也。無異斐太都語。去六月中。期會謀事三度。始於奈良麻呂家。次於圖書藏邊庭。後於太政官院庭。其衆者安宿王。黄文王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。多治比犢養。多治比礼麻呂。大伴池主。多治比鷹主。大伴兄人。自餘衆者闇裏不見其面。庭中礼拜天地四方。共歃鹽汁。誓曰。將以七月二日闇頭。發兵圍内相宅。殺刧即圍大殿。退皇太子。次傾皇太后宮而取鈴璽。即召右大臣將使号令。然後廢帝。簡四王中立以爲君。於是追被告人等。隨來悉禁著。各置別處一一勘問。始問安宿。款云。去六月廿九日黄昏。黄文來云。奈良麻呂欲得語言云尓。安宿即從往。至太政官院内。先有廿許人。一人迎來礼揖。近著看顏。是奈良麻呂也。又有素服者一人。熟看此小野東人也。登時衆人共云。時既應過。宜須立拜。安宿問云。未知何拜耶。荅云。拜天地而已云尓。安宿雖不知情。隨人立拜。被欺徃耳。又問黄文。奈良麻呂。古麻呂。多治比犢養等。辞雖頗異。略皆大同。勅使又問奈良麻呂云。逆謀縁何而起。款云。内相行政甚多無道。故先發兵。請得其人。後將陳状。又問。政稱無道謂何等事。款云。造東大寺。人民苦辛。氏氏人等。亦是爲憂。又置剗奈羅爲已大憂。問。所稱氏氏指何等氏。又造寺元起自汝父時。今噵人憂。其言不似。於是奈良麻呂辞屈而服。又問佐伯古比奈。款云。賀茂角足請高麗福信。奈貴王。坂上苅田麻呂。巨勢苗麻呂。牡鹿嶋足。於額田部宅飮酒。其意者爲令此等人莫會發逆之期也。又角足与逆賊謀。造田村宮圖。指授入道。於是。一皆下獄。又分遣諸衛。掩捕逆黨。更遣出雲守從三位百濟王敬福。大宰帥正四位下船王等五人。率諸衛人等。防衛獄囚。拷掠窮問。黄文。〈改名多夫礼〉道祖〈改名麻度比〉大伴古麻呂。多治比犢養。小野東人。賀茂角足〈改名乃呂志〉等。並杖下死。安宿王及妻子配流佐度。信濃國守佐伯大成。土左國守大伴古慈斐二人。並便流任國。其与黨人等。或死獄中。自外悉依法配流。又遣使追召遠江守多治比國人勘問。所款亦同。配流於伊豆國。又勅陸奧國。令勘問守佐伯全成。款云。去天平十七年。先帝陛下行幸難波。寢膳乖宜。于時奈良麻呂謂全成曰。陛下枕席不安。殆至大漸。然猶無立皇嗣。恐有變乎。願率多治比國人。多治比犢養。小野東人。立黄文而爲君。以荅百姓之望。大伴佐伯之族隨於此擧前將無敵。方今天下憂苦。居宅無定。乘路哭叫。怨歎實多。縁是議謀。事可必成。相隨以否。全成荅曰。全成先祖。清明佐時。全成雖愚。何失先迹。實雖事成。不欲相從。奈良麻呂云。見天下愁。而述所思耳。莫噵他人。言畢辞去。厥後。大甞之歳。奈良麻呂云。前歳所語之事。今時欲發。如何。全成荅曰。朝廷賜全成高爵重祿。何敢違天發惡逆事。是言前歳已忘。何更發耶。奈良麻呂云。汝与吾同心之友也。由此談説。願莫噵他。又去年四月全成齎金入京。于時奈良麻呂語全成曰。相見大伴古麻呂以否。全成荅云。未得相見。是時奈良麻呂云。願与汝欲相見古麻呂。共至辨官曹司。相見語話。良久。奈良麻呂云。聖體乖宜。多經歳序。闚看消息。不過一日。今天下乱。人心無定。若有他氏立王者。吾族徒將滅亡。願率大伴佐伯宿祢。立黄文而爲君。以先他氏。爲万世基。古麻呂曰。右大臣大納言是兩箇人。乘勢握權。汝雖立君。人豈合從。願勿言之。全成曰。此事無道。實雖事成。豈得明名。言畢歸去。奈良麻呂古麻呂便留彼曹。不聞後語。勘問畢而自經。

七月二日に以下のように詔されている(以下宣命体)・・・今申し渡すが、近頃諸王・諸臣等のうちに無礼なうえに逆心を持つ人々がいて相談し、大宮(田村宮)を包囲しようと言い、密かに兵器を用意しているとお聞きになり、繰り返し考えるに、どんなやつめが朕の朝廷に背くのであるか、そのように背く人は一人もあるまいと思って、法律の通りに処分なさらなかった。けれども同じことを、多くの人が重ねて奏上して来るので、これは問い明らめるべきであろうと思うが、一方では慈悲のある政治は行うにたやすいが、このことは国家の一大事であるので、狂って迷っている頑なな者どもの心を慈しみ、さとして、矯正なさるべきであるとお思いになるので、このように申し渡すのである。---≪続≫---

身に覚えのある人は、このような状態にあることを悟り、人に咎められるようなことをしてはならない。このように、申し渡すお言葉に服従しない人々は、朕一人が特別に慈悲を与えても、国法による懲罰を止めることはできないであろう。汝等は己の家や一族の祖先の名を辱めないように勤務申し上げよ、と仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。

詔が終わり、更に右大臣以下の群臣を召し入れ、皇太后が次のように詔されている(以下宣命体)・・・お前たち一同は、我が甥同然の近親の者である。御前に竪子()として仕え奉る卿等は、天皇のお言葉によって召し出し、しばしば詔されたことには、[朕の亡き後は、皇太后によく仕えて、お助け申し上げよ]と仰せられた。また大伴宿祢と佐伯宿祢は、昔の天皇の御世から側近の軍兵として仕えて来た。更に大伴宿祢等は、我が同族でもある。皆々心を同じくして、朝廷を助けお仕え申し上げる時に、このような醜いことは聞こえて来ないだろう。これは結局お前たちが良くないからこそ、かようなことになるものと思われる。皆は明き清き心をもって、朝廷を助けてお仕え申し上げよ、と仰せられる。

この日の夕方、中衛舎人の「上道臣斐太都」が、内相(藤原朝臣仲麻呂)に報告して言った・・・今日の未時(午後二時頃)、備前國の前守である小野東人(小野朝臣東人)が、「斐太都」を呼んで、[諸王・諸臣等のうちに、皇子(大炊王)と内相を殺そうと企てる者がいる。お前はこの企てに加担することができるか]と言った。「斐太都」が[諸王・諸臣とは誰であるのか]と尋ねると、東人が[黄文王安宿王橘奈良麻呂(橘宿祢奈良麻呂)・大伴古麻呂(大伴宿祢古麻呂)等であり、同調者は沢山いる」と答えた。「斐太都」が再び[皆の計画とは、何をどうしようというのか]と尋ねると、東人が[計画は二つある。その一は、よりすぐりの兵士四百人を引率して、田村宮に駆けつけ、これを包囲すること。その二は、陸奥鎮守府将軍の大伴古麻呂は、今任地に向かっているが、美濃關(不破關)に到着したら、その地で病気と偽って一人二人の親しい者に会いたいと請い願い、官の許可を得て滞在して関所を塞ぐことである]と言い、「斐太都」は、しばらくしてから[あえて御命令に背かない]と答えた・・・。

この事件より前、去る六月に右代弁の巨勢朝臣堺麻呂が次以下ように密かに申し上げている・・・薬の処方を尋ねるために、答本忠節の家に行ったところ、「忠節」が[大伴古麻呂小野東人に、内相に力ずくでおどしをかけようとしている者がある。お前は加担するかどうか、と語り、東人は、御命令に従いますと答えた、という話をを聞いて、右大臣(藤原朝臣豊成)に報告したところ、右大臣が大納言(藤原朝臣仲麻呂)はまだ年が若いので、私が陰謀者等に教戒を加えて、「仲麻呂」等を殺さないように言い含めよう]と言った・・・。

この日、内相の藤原朝臣仲麻呂は、くわしく事情を申し上げて、大宮内外の諸門を警固している。そして高麗朝臣福信等を遣わし、兵士を引率して、小野東人答本忠節等を追い求めて、皆を逮捕させ、左衛士府に禁錮している。また、兵士を遣わし、道祖王を右京の私宅に包囲させている。

三日に右大臣の藤原朝臣豊成・中納言の藤原朝臣永手等八人に勅して、左衛士府に行って東人等を尋問させている。東人等は、言を左右にして、正確なことは言わなかった。この日の夕方、内相(仲麻呂)は御在所に侍し、「鹽燒王安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂」の五人を召喚し、皇太后の詔を述べている(以下宣命体)・・・「鹽燒王」等五人が、謀反を企てていると、ある人が報じて来た。汝等は、吾が一族に近い人であるから、吾を恨むようなことがあるとは少しも思い及ばない。汝等を朝廷ははなはだ高い官職位階につけておられるのに、何を恨めしいことと思ってこのようなことを企んだのか。このような陰謀はある筈がないと思う。その故に汝等の罪は許してやる。これから先、このようなことをしてはならぬぞ・・・。詔が終わって、五人は宮の南門外に出て、深々と叩頭して御恩に感謝している。

四日、更に中納言の永手等を遣わし、東人等を尋問究明させたところ、以下のように白状している・・・言われる事はいずれも事実である。「斐太都」の言葉に間違いはない。去る六月中に、時間を約束して会合し事を企てたことが三度ある。初めは、奈良麻呂の家に集まり、二度目は図書寮の蔵の近くの庭で、三度目は太政官院の庭である。集まった人々は、安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂多治比犢養・「多治比礼麻呂」・「大伴池主」・「多治比鷹主」・「大伴兄人」である。他の人々は、闇夜で顔が見えなかった。一同は庭中で、天地と四方を礼拝し、共に塩汁をすすり合って誓い[来たる七月二日の夕方、兵士を動員して内相の宅を囲んでこれを殺害し、すぐさま大殿を囲んで皇太子をその地位から退け、更に皇太后の宮を占拠して、駅鈴と天皇御璽を取ろう。そこで先ず、右大臣を召し出して指揮を執らせ、その後、帝を廃位して、四王の中から皇太子を選び、即位させて天皇にしよう]と申し合わせた・・・。

そこで自白にある人々を召喚し、来たる順にすぐさま全て禁錮し、それぞれ別の所に留置し、一人一人尋問を行っている。最初に安宿王を尋問すると、次のように自白している・・・去る六月二十九日の夕刻、黄文王が来て[奈良麻呂安宿王に相談したいことがある]と言った。従って行くと、太政官の院内に着いた。既に二十人ばかりの人がいて、一人の人が迎えに来て、丁寧に挨拶をした。近付いて顔を見ると、これが奈良麻呂であった。また白い服の人が一人いた。よくよく見ると、小野東人であった。そのとき、人々は皆[時刻も既に過ぎようとしている。皆起立して礼拝しよう]と言った。私は[私にはわからない。何を礼拝しようというのか]と尋ねたら、誰かが[天地を拝するだけだ]と答えた。事情は分からなかったが、他の人々に従い立って礼拝した。欺かれて行っただけである・・・。

また、黄文王奈良麻呂古麻呂多治比犢養等を尋問すると、言葉はたいへん異なっているが、内容は皆おおよそ同じであった。勅使は、また、奈良麻呂に[謀反の計画をなぜ起こしたのか]と尋問している。[内相の政治は、はなはだ非道のことが多いからだ。そこで先ず、兵士を動員し、天皇の許しを請い彼等を捕らえ、それから事情を申し上げようとしたのだ]と答えている。勅使は[政治に非道が多いとは、どういう事をさすのか]と尋ねると[東大寺の造営したことである。このために人民は苦労し、また、朝廷に仕える氏々の人等もこれを困ったこととしている。また奈良に を置いたことも、既に大きな苦労のたねになっている]と答えている。[氏々というのは、どの氏のことか。また東大寺を造ることは、お前の父(橘宿祢諸兄)の時から始まっている。今、人民が苦労をしていると言うが、子であるお前の言葉として不適当ではないか]と勅使が尋ねると、奈良麻呂は言葉に窮し、屈服している。

また、「佐伯古比奈」を尋問すると、[賀茂角足(賀茂朝臣角足)は、高麗福信(高麗朝臣福信)・奈貴王(石津王に併記)・坂上苅田麻呂(坂上忌寸苅田麻呂)・巨勢苗麻呂(巨勢朝臣苗麻呂。堺麻呂の子、併記)・牡鹿嶋足(牡鹿連嶋足。丸子牛麻呂に併記)を招き、「額田部宅」(屋敷)で、酒を飲んだ。その意図は、反乱を起こした時にこれらの人を仲麻呂側について活動させないためであった。また角足と反乱の者とは、相談して田村宮の絵図を作り、これを指し示して自分を一味に引き入れた]と答えている。

尋問を終えて、皆を獄に閉じ込めている。また衛府の官人を区分して派遣し、逆賊の一味を逮捕させている。更に出雲守の百濟王敬福()・大宰帥の船王等五人を遣わし、衛府の人々を率いて、獄舎の囚人を奪われぬよう警固し、拷問してきびしく問いただせている。その結果、黄文王<分注。多夫礼(誑かす者)と改名>・大伴古麻呂多治比犢養小野東人賀茂角足<分注。乃呂志(愚鈍)と改名>等は、それぞれ杖に打たれて死んでいる。

安宿王とその妻子は、佐渡に流されている。信濃國守の佐伯大成(佐伯宿祢大成)と土左國守の大伴古慈斐(大伴宿祢祜信備)の二人は、それぞれそのまま任國に流されている。反逆に加わった仲間の人等は、ある人々は獄中で死に、その他の人々は全て法律によって流罪にされている。また使者を遣わし、遠江守の多治比國人を召喚して尋問すると、答えは同じであったので伊豆國に流している。

また陸奥國に勅命を下し、國守の佐伯全成を尋問すると・・・去る天平十七(745)年、先帝陛下が難波に行幸した際、身体が不調になった。この時、奈良麻呂全成に[陛下の体調がよくなく、ほとんど危篤の状態となった。けれども、まだ皇嗣を立てていない。もし帝が逝去したら事変が起こるであろう。多治比國人(多治比眞人國人)・多治比犢養小野東人を率いて、黄文王を立てて天皇とし、人民の望みにこたえたい。大伴と佐伯の一族が、この挙に同調すれば、まさに無敵であろう。近頃、天下の人々が憂い苦しんでいる。都が転々とするため、人民の住居が一定せず、道路には生活に苦しむ者の泣き叫ぶ声が絶えず、恨み嘆く声はまことに多い。こうした事情だから、よく相談して謀れば、事は成就するであろう。同調するかどうか]と語った。---≪続≫---

全成は[我が先祖は、清く明るい心をもって時の天皇を助けて来た。全成は暗愚であるが、先祖の行跡と違う道を取りたくない。たとえ企てが成就するにせよ、同調しようとは思わない]と答えると、奈良麻呂が[天下の嘆かわしいさまを見て、思うところを述べただけである。他人にもらすなよ]と述べ、話が終わって、別れて帰った。その後、大嘗祭のあった年(天平勝寶元年)、再び奈良麻呂が[前の年に語ったことを、今実行しよと思う。如何であるか]と言い、全成は[朝廷は、全成に高い位と手厚い俸禄をくだされた。どうして天に背いて悪逆のことを実行できようか。このことは前年に聞いたが、今では忘れたことになっている。どうしてまた事を起こすことができようか]と答えると、奈良麻呂が[あなたと私とは、同じ心の友人ではないか。それ故に語り説いたのである。他人にもらしてくれるなよ]と言った。---≪続≫---

また去る年の四月、全成が金を持って入京した時、奈良麻呂が[大伴古麻呂と会見したことがあるかどうか]と言い、全成は[まだ会ったことはない]と答えた。この時、奈良麻呂が[あなたと共に行き、古麻呂と会見したい]と言った。一緒に弁官の庁舎に行き、会見し語り合った。しばらくして、奈良麻呂が[天皇の健康は、悪化したまま長く歳月を経ている。様子を伺いみるに、余命幾ばくも無い。今天下の政治は乱れて、人心も落ち着くことがない。もし他の氏族が新しい天皇を立てたなら、吾が一族はなすこともなく滅亡するであろう。私の願いは、大伴・佐伯の両宿祢の人々を率いて、黄文王を立てて次の天皇にすることだ。そうして他の氏の先手を取って行動すれば、万世の支配する基を開くことになるだろう]と言った。---≪続≫---

古麻呂は、[右大臣と大納言は、ただの二人の人間であるが、勢いに乗じて権力を握っている。あなたが新しい天皇を立てても、人々はどうして従うだろうか。どうかそのようなことを二度と言わないでくれ]と言い、全成は、[このことは、道に背いたことだ。実際に事が成就したとしても、どうして道理に叶ったことという評価が得られようか]と述べた。言い終わって、別れて帰った。奈良麻呂古麻呂は、なおもその庁舎に留まり、その後の話しは聞いていない・・・。尋問が終わった後、全成は首を吊って自殺している。

<備前国上道郡:上道臣斐太都-廣羽女>
備前國上道郡

これは、てっきり古事記に登場した大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、大吉備津日子命が祖となった「吉備上道臣」の場所を示していると錯覚してしまう記述である(こちら参照)。

「吉備上・下道臣」に関わる地は、「備中國」に該当する。下道朝臣眞備(後に吉備朝臣を賜っている)は、天武天皇紀に『八色之姓』において”下道(朝)臣”と記載されるが、”上道(朝)臣”は出現しないのである。

續紀編者は下記で、備前國上道郡の人、上道臣斐太都と丁寧に出自の場所を記載している。郡名に基づく氏名は、小田郡の小田臣遠田郡の遠田君でお馴染みとなっている。即ち、備中國ではなく、備前國に上道郡があったことを告げている。何かの間違い、では決してない。小野朝臣東人について、わざわざ「備前國前守」を付け加えたのも、「東人」と「斐太都」の関係性を示唆していると思われる。

既出の文字列である上道=高く盛り上がった地の麓にある首の付け根のように窪んだところと解釈した。穂積皇子の子、上道王の例があった。すると、極めて類似した地形を見出すことができる。備前國の久米郡・藤野郡(当初は藤原郡)に挟まれた谷間を示している。

● 上道臣斐太都 これも既出の文字列であり、斐太都=折れ曲がって延びる狭い谷間の先に大きく広がった山稜が寄り集まっているところと読み解ける。余すことなく、地形を表現していることが解る。ずっと後の天平神護二(766)年五月に「割邑久郡香登郷。赤坂郡珂磨。佐伯二郷。上道郡物理。肩背。沙石三郷隷藤野郡」と記されている。詳細は略すが、上道郡と藤野郡とは隣接しているのである。

いきなり、従四位下、朝臣姓を賜ったと下記されている。正に謀反に関わると立身出世の機会だったのであろう。ご本人もなかなかの野心家だったようで、仲麻呂政権下で異例の抜擢を得たことが伝えられている。だが、更なる昇進は果たせなかったようでもある。尚、「朝臣」の氏姓を賜り、名も上道朝臣正道と改めたようである。

後(淳仁天皇紀)に上道臣廣羽女が外従五位下を叙爵されて登場する。「斐太都」の近親者のようにも思われるが、定かではない。廣羽=広がった羽のようなところと読むと、谷間の先の地形を表していると推定される。

<多治比眞人禮麻呂-鷹主>
● 多治比礼麻呂・多治比鷹主

左大臣嶋の子、池守(書紀:丹比眞人)の四男、五男であったことが知られている。首謀者の一人であり、杖打ちで死刑となった多治比犢養の弟達である。彼等の消息は、この後續紀に記載されることはなく、何らかの処罰を受けたのであろう。

そんな背景で、「池守」の周辺の地が出自と推定してみよう。礼麻呂に含まれる頻出の礼(禮)=高台が揃って並んでいる様と解釈したが、山稜の端(”主”の先端部)で小高いところが並んでいるところを示していると思われる。「屋主」の南側である。

鷹主鷹=广+人+隹+鳥=山麓の谷間で二羽の鳥がくっ付いて並んでいる様と解釈した。阿倍朝臣鷹養などで用いられた文字である。二羽の鳥は、左大臣嶋の”鳥”と山稜の端が三角に広がった地形を”鳥”に見立てた表記と思われる。

<大伴池主-兄人・大伴宿祢潔足>
● 大伴池主・大伴兄人

二人の人物は、上記の「多治比眞人」の密会参加者の血族絡みからすると古麻呂(「御行」の子と推定)の近親者であると思われる。ならば、「御行」の周辺が出自と推測されるであろう。

何度も述べたように、大伴の谷間を出自とする人物の数が凄まじく、限界を遥かに越えた有様なのであるが、小さな谷間を一つ一つ探索することであろう。

池主の「池」=「氵+也」=「水辺で曲がりくねっている様」と解釈したが、纏めると池主=水辺で曲がりくねっている地に真っ直ぐに延びた山稜があるところと読み解ける。すると、御依の西側の谷間が、その地形を示していることが解る。佐伯連大目がその西側を出自としていと推定した。この配置からすると、「池主」は「御依」の子であったと推測され(知られている系図の通り)、「古麻呂」の甥となる。

幾度か登場の兄人=奥が広がった谷間が足のように延びたところと読むと、古麻呂の西側の谷間を表していると思われる。系譜は不詳であるが、血族関係であることには変わりはないであろう。この二人も、この後續紀に登場されることはなく、何らかの処罰を受けたのであろう。

少し後に、兄麻呂の子と知られている大伴宿祢潔足が各地での民の実情を調べる使者に任じられたと記載されている。「古麻呂」の一派に与することがなかったのであろう。「潔」は初見の文字であり、「清らかな」意味を示すのであるが、「潔」=「氵+絜」と分解すると、地形象形表記として「潔」=「水辺で山稜に切れ目が入っている様」と解釈される。

<佐伯古比奈>
「兄麻呂」の西側、潔足=
段差がある[足]のようなところを表しているのであろう。

● 佐伯古比奈

上記の「多治比眞人」及び「大伴宿祢」の謀反連座の記述からして、佐伯宿祢全成に関わる人物であり、出自の場所は、その近隣と推測される。

賀茂朝臣角足に誘われた高麗朝臣福信等はあらぬ嫌疑を掛けられるところを、この人物の証言で、免れたわけである。

迂闊に酒宴に参加しては身を滅ぼすことになる。既出の文字列である古比奈=丸く小高い地が並んでいる高台になっているところと解釈すると、全成の北側の山稜を表していると思われる。

<賀茂角足:額田部宅>
大伴宿祢、佐伯宿祢それに多治比眞人という天皇家を支えて来た中心の氏族が関与した謀反、皇太后ならずとも驚愕の出来事だったと推測される。

● 賀茂角足:額田部宅

「古比奈」の供述の中に登場した「角足」の謀略が行われた場所である。例によって通説は、額田部旧知の固有の名称と解釈されているが、密会を催すには全く不向きであろう。

賀茂角足の私邸とすれば、出自場所の近隣に額田部の地があったと思われる。額田=額のように山腹に突き出た平らに整えられたところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

〔七月後半〕

辛亥。授從四位上山背王。巨勢朝臣堺麻呂並從三位。從八位上上道臣斐太都從四位下。正七位下縣犬養宿祢佐美麻呂。從八位上佐味朝臣宮守並從五位下。並是告密人也。又上道臣斐太都賜姓朝臣。甲寅。授正六位上藤原朝臣朝獵從五位下。以從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲信濃守。從五位下藤原朝臣朝獵爲陸奧守。」勅曰。比者頑奴潜圖反逆。皇天不遠。羅令伏誅。民間或有假託亡魂。浮言紛紜。擾乱郷邑者。不論輕重。皆与同罪。普告遐迩宜絶妖源。」又勅曰。百姓之間。若有逆人之輩。京畿十日内。遠處卅日内首訖。若限内能首。並寛其罪。限内不首被人告言。必科本罪。其首人等並首本部官司。官司知訖。抄其姓名奏上。乙夘。遣中納言藤原朝臣永手。左衛士督坂上忌寸犬養等。就右大臣藤原朝臣豊成第。宣勅曰。汝男乙繩關兇逆之事。宜禁進者。即加肱禁。寄勅使進。」以紫微少弼從三位巨勢朝臣堺麻呂爲兼左大弁。從四位上紀朝臣飯麻呂爲右大弁。春宮大夫從四位下佐伯宿祢毛人爲兼右京大夫。從四位下上道朝臣斐太都爲中衛少將。戊午。以從五位下小野朝臣田守。爲刑部少輔。正六位上藤原朝臣乙繩爲日向員外掾。從五位下奈賀王爲讃岐守。」勅曰。右大臣豊成者。事君不忠。爲臣不義。私附賊黨。潜忌内相。知搆大乱。無敢奏上。及事發覺。亦不肯究。若怠延日。殆滅天宗。鳴乎宰輔之任。豈合如此。宜停右大臣任。左降大宰員外帥。是日御南院。追集諸司并京畿内百姓村長以上。而詔曰。明神大八洲所知倭根子天皇大命〈良麻止〉宣大命〈乎〉親王王臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原神積坐〈須〉皇親神魯岐神魯弥命〈乃〉定賜來〈流〉天日嗣高御座次〈乎〉加蘇〈毘〉奪將盜〈止〉爲而惡逆在奴久奈多夫礼。麻度比。奈良麻呂。古麻呂等〈伊〉逆黨〈乎〉伊射奈〈比〉率而先内相家〈乎〉圍而其〈乎〉殺而即大殿〈乎〉圍而皇太子〈乎〉退而次者皇太后朝〈乎〉傾鈴印契〈乎〉取而召右大臣而天下〈尓〉号令使爲〈牟〉。然後廢帝四王中〈尓〉簡而爲君〈牟止〉謀而六月廿九日〈乃〉夜入太政官坊而歃鹽汁而誓礼天地四方而七月二日發兵〈牟止〉謀定而二日未時小野東人喚中衛舍人備前國上道郡人上道朝臣斐太都而誂云〈久〉。此事倶佐左西〈止〉伊射奈〈布尓〉依而倶佐西〈牟止〉事者許而其日亥時具奏賜〈都〉。由此勘問賜〈尓〉毎事實〈止〉申而皆罪〈尓〉伏〈奴〉。是以勘法〈尓〉皆當死罪。在如此雖在慈賜〈止〉爲而一等輕賜而姓名易而遠流罪〈尓〉治賜〈都〉。此誠天地神〈乃〉慈賜〈比〉護賜〈比〉挂畏開闢已來御宇天皇大御靈〈多知乃〉穢奴等〈乎〉伎良〈比〉賜弃賜〈布尓〉依〈氐〉。又盧舍那如來觀世音菩薩護法梵王帝釋四大天王〈乃〉不可思議威神之力〈尓〉依〈氐志〉。此逆在惡奴者顯出而悉罪〈尓〉伏〈奴良志止奈母〉神〈奈賀良母〉所念行〈須止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食宣。事別宣〈久〉。久奈多夫礼〈良尓〉所詿誤百姓〈波〉京土履〈牟〉事穢〈弥〉出羽國小勝村〈乃〉柵戸〈尓〉移賜〈久止〉宣天皇大命〈乎〉衆聞食宣。壬戌。勅曰。凶逆之徒。潜謀不軌。其言發覺。流配邊軍。但所支兵仗。藏隱民間。未首官司。原情可責。職宜知悉勅出之後。限十日内。悉令首盡。若限滿不首。被人言告。一与逆人同科。庚午。於宮中設齋。講仁王經焉。癸酉。詔曰。鹽燒王者唯預四王之列。然不會謀庭。亦不被告。而縁道祖王者應配遠流罪。然其父新田部親王以清明心仕奉親王也。可絶其家門〈夜止〉爲〈奈母〉此般罪免給。自今往前者以明直心仕奉朝廷〈止〉詔。

七月五日に山背王巨勢朝臣堺麻呂に從三位、上道臣斐太都に從四位下、「縣犬養宿祢佐美麻呂」・佐味朝臣宮守に從五位下を授けている。陰謀を密かに告発した人々である。また、上道臣斐太都に朝臣姓を賜っている。

八日に藤原朝臣朝獵(薩雄に併記)に従五位下を授け、陸奥守に任じている。忌部宿祢鳥麻呂を信濃守に任じている。この日、次のように勅されている・・・近頃、頑なな者どもが密かに叛逆を企てた。しかし、天を支配する神は見逃さず、網をかぶせ死罪に処した。また、民間で死者の魂のいうことであると偽り、様々な流言をなし、村里の人心を騒ぎ乱す者があれば、重い軽いを問わず、みないずれも同罪とする。遠近を問わず広く布告し、わざわいの原因を根絶せよ・・・。

また、次のように勅されている・・・もし人民のうちに、反逆の者どもが隠れていたならば、京畿内の場合は十日以内、それより遠い所の場合は三十日以内に、自首して出でよ。もし期限内に進んで自首した場合は、それぞれその罪を許すであろう。期限内に自首せず、他人に告発された場合は、必ずもとの罪に相応する罰を科すであろう。自首する人は、自分の所属する官司に出頭せよ。官司は事情がわかったならば、その者の姓名をしるして申し上げよ・・・。

九日に中納言の藤原朝臣永手、左衛士督の坂上忌寸犬養等を右大臣の藤原朝臣豊成に屋敷に遣わし、[汝の息子の乙縄(藤原朝臣乙繩)は、反逆の事に関与している。身体を拘束して官に差し出すべき人物である。汝が乙縄の腕を縛し、勅使のもとに引き渡せ]の勅を述べさせている。

この日、紫微少弼の巨勢朝臣堺麻呂を左大弁兼任とし、紀朝臣飯麻呂を右代弁に任じ、春宮大夫の佐伯宿祢毛人を右京大夫兼任としている。上道朝臣斐太都を中衛少将に任じている。

小野朝臣田守(綱手に併記)を刑部少輔、藤原朝臣乙縄を日向國の員外掾、奈賀王を讃岐守に任じている。また、以下のように勅されている・・・右大臣の豊成は、君に仕えて不忠であり、臣下として不義というべき者である。密かに賊の仲間に加わり、内々で内相を憎んでいた。奈良麻呂が大乱を計画しているのを知りながら、わざと申し上げず、また、事件が発覚しても、究明に務めようとしない。もし何もしないで日数を経たならば、皇統は滅びかねない状態となったであろう。ああ、宰相の任務が、このようであってよいものか。そこで右大臣の職をとどめて地位を下し、大宰員外の帥に任じる・・・。

この日、南院に出御され、諸司の官人と京・畿内の人民のうち村長以上の者を召し、次のように詔されている(以下宣命体)・・・明つ御神として、大八州を支配する倭根子天皇のお言葉として、仰せなるお言葉を、親王・諸王・諸臣、百官の人達、天下の公民は、皆承れと申し渡す。高天原に神としておいでになる天皇の遠祖の男神・女神のお定めになった、天日嗣の高御座の順序を、掠め奪い盗もうと企てて、悪逆な奴の久奈多夫礼(黄文王)・麻度比(道祖王)・奈良麻呂古麻呂等は逆党どもを誘い率いて、先ず、内相の家を囲み、それを殺して、すぐに大殿を囲んで皇太子(大炊王)を廃し、次に皇太后の朝(紫微中台)を占拠して、駅鈴と天皇の御璽と関契を奪い取り、右大臣を召して、天下に号令させよう、そしてその後、帝を廃して、四人の王(黄文王道祖王鹽燒王安宿王)の中から、一人を選んで、天皇に立てようと図った。---≪続≫---

そして六月二十九日の夜、太政官の区画に入り、塩汁をすすって誓約し、天地四方を礼拝し、来たる七月二日に兵士を動員しようと謀り定めて、二日の未時に小野東人が中衛府の舎人である「備前国上道郡」出身の上道朝臣斐太都を呼んで、頼んで[さあ、このことを始めよう]誘うので、「斐太都」は、[それではやろう]と表面上は承諾し、その日の亥の時に謀反の計画を詳細に申し上げ、これにより陰謀に加わった人々を尋問すると[すべて事実である]と申して、皆罪に服した。この次第で、彼等を国法にあてはめると、皆死罪に該当している。事情はこのようであるけれども、朕は慈悲を与えて、刑を一段軽くして、姓名を変えて遠流に処することにした。---≪続≫---

この事件が治まったのは、天地の神々がお恵み下さり。お護り下さり、口に出すのも恐れ多いことに、天地のはじめよりこのかた天下を次々にお治めなされた代々の天皇たちの大御霊たちが、汚い奴どもをお嫌いになりお捨てになることによって、また、廬舎那如来・観世音菩薩、仏法をまもる梵天・帝釈天・四大天王たちの不思議な権威ある神の力により、この悪逆な奴どもが表に顕われ出て、悉く服罪してしまったのであるらしいと、神としてお考えになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す。また、言葉を改めて申し渡すに、久奈多夫礼(黄文王)等に欺かれて陰謀に参加した人民等が、都の土を踏むことは汚らわしいので、出羽國小勝村の柵戸として移住させると、仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

十六日に以下のように勅されている・・・凶悪な反逆の徒が、密かに道ならぬことを企てた。しかし、その陰謀は発覚して、辺地の軍隊のもとに流された。但し、反乱のために用意された武器は、民間に隠匿されて未だ官司に申し出されていない。事情を尋ねて取り調べるべきである。左右京職は、このことをよく認識して、勅が出てから十日以内に一切全て申し出させよ。もし期限までに申し出ず、他人から通告された場合は、反逆者と同じ罰を科すであろう・・・。

二十四日に宮中において法会を催して僧に食事を供し、仁王経を講説させている。二十七日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・鹽燒王は、四人の王の仲間に入っているが、謀議の場に連ならず、また、知らされていなかった。けれども、道祖王と深い血縁関係があり、連座して遠流の罪に処せられる筈である。けれども、その父新田部親王は、清く明るい心で仕えて来た人である。ここで断絶することは、如何かと考え、今度の罪は、お許しになる。今後は、明るい真直ぐな心で朝廷に仕えよ・・・。

<縣犬養宿祢佐美麻呂>
● 縣犬養宿祢佐美麻呂

「縣犬養」一族であるが、系譜は全く知られていない。また彼の密告の内容も本文では記載されていないが、正七位下から従五位下へと大幅な昇進叙爵されたようである。

佐美麻呂に含まれる佐美=左手のような山稜の傍らで谷間が広がっているところと読み解ける。その地形を求めると、廣刀自の山稜を「佐」と見做していることが解る。

別名に沙弥麻呂があったようで、續紀では、この表記で幾度か後に登場している。美作國介に任じられたのだが、勝手に公文書を取り扱ったりして、自由気儘な勤務状態で失職している。後にまた復職しているが、やや官司の資質に欠けていたようである。

沙弥=水辺で山稜の端が削られたようになって弓なりに広がっているところと読み解ける。こちらの方を好んで用いていたように思われる。皇太后の出自場所に隣接する。憚ることなく、接触したのかもしれない。

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些か蛇足かもしれないが・・・罪人である黄文王久奈多夫礼」、道祖王は「麻度比」と改名されている。通常の解釈は、「久奈多夫礼(クナタフレ)」=「愚か者」、「麻度比(マドヒ)」=「惑い者」とされている。

これらの文字列を地形象形表記として解釈すると、久奈多夫禮=[く]の字に曲がって延びる平らな山稜が寄り集まっている高台のところ麻度比=擦り潰されたような山稜が跨ぐように延びてくっ付いているところと読み解ける。見事に出自場所の地形を表すと同時に、和語が表す意味を重ねているのである。万葉の世界では、これくらいのことは朝飯前だったのであろう。

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