2022年8月19日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(14) 〔601〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(14)


天平字元年(西暦757年)八月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八月戊寅。勅。故從五位下山田三井宿祢比賣嶋縁有阿妳之勞。襃賜宿祢之姓。恩波枉激。餘及傍親。而聽人悖語。不奏丹誠。同惡相招。故爲蔽匿。今聞此事。爲竪寒毛。凶痛已深。理宜追責。可除御母之名。奪宿祢之姓。依舊從山田史。庚辰。詔曰。今宣〈久〉。奈良麻呂〈我〉兵起〈尓〉被雇〈多利志〉秦等〈乎婆〉遠流賜〈都〉。今遺秦等者惡心無而清明心〈乎〉持而仕奉〈止〉宣。」又詔曰。此遍〈乃〉政明淨〈久〉仕奉〈礼留尓〉依而治賜人〈母〉在。又愛盛〈尓〉一二人等〈尓〉冠位上賜治賜〈久止〉宣。授正四下船王正四位上。從四位上紀朝臣飯麻呂。藤原朝臣八束並正四位下。正五位上大伴宿祢稻公從四位下。正五位下藤原朝臣千尋正五位上。從五位下佐伯宿祢美濃麻呂從五位上。无位奈紀王。正六位上巨曾倍朝臣難波麻呂。當麻眞人淨成。高橋朝臣人足。阿倍朝臣繼人。采女朝臣淨庭。小野朝臣石根。石川朝臣豊麻呂並從五位下。」以從三位石川朝臣年足爲中納言。兵部卿神祇伯如故。從三位巨勢朝臣堺麻呂。正四位下阿倍朝臣沙弥麻呂。紀朝臣飯麻呂並爲參議。」勅。中納言多治比眞人廣足。年臨將耄。力弱就列。不教諸姪。悉爲賊徒。如此之人。何居宰輔。宜辞中納言。以散位歸第焉。己丑。駿河國益頭郡人金刺舍人麻自。獻蚕産成字。甲午。勅曰。朕以寡薄。忝繼洪基。君臨八方。于茲九載。曾無善政。日夜憂思。危若臨淵。愼如履氷。於是。去三月廿日。皇天賜我以天下大平四字。表區宇之安寧。示歴數之永固。尓乃賊臣廢皇太子道祖。及安宿。黄文。橘奈良麻呂。大伴古麻呂。大伴古慈斐。多治比國人。鴨角足。多治比犢養。佐伯全成。小野東人。大伴駿河麻呂。荅本忠節等。禀性兇頑。昏心轉虐。不顧君臣之道。不畏幽顯之資。潜結逆徒。謀傾宗社。悉受天責。咸伏罪嘖。是以。二叔流言。遂輟肅墻。四凶群類。遠放邊裔。京師肅肅。已無癡民。朝堂寥廓。更有賢輔。竊恐徳非虞舜。運属時艱。武拙殷湯。任當撥乱。晝思夜想。廢寢与食。登民仁壽。致化興平。爰得駿河國益頭郡人金刺舍人麻自獻蚕兒成字。其文云。五月八日開下帝釋標知天皇命百年息。因國内。頂戴茲祥。踊躍歡喜。不知進退。悚息交懷。即下群臣議。便奏云。維天平勝寳九歳。歳次丁酉夏五月八日者。是陛下奉爲太上天皇周忌。設齋悔過之終日也。於是。帝釋感皇帝皇后之至誠。開通天門。下鑒勝業。標陛下之御宇。授百年之遠期。日月所臨。咸看聖胤繁息。乾坤所載。悉知寳祚延長。仁化滂流。宇内安息。慈風遠洽。國家全平之驗也。謹案。蚕之爲物。虎文而有時蛻。馬吻而不相爭。生長室中。衣被天下。錦繍之麗。於是出焉。朝祭之服。於是生矣。故令神虫作字用表神異。而今蕃息之間。自呈靈字。止戈之日。已奏丹墀。實是自天祐之。吉無不利。五八雙數。應寳壽之不惑。日月共明。象紫宮之永配。朕祗承嘉符。還恐寡徳。豈朕力之所致。是賢佐之成功。宜与王公共辱斯貺。但景命爰集。隆慶伊始。思俾惠澤被於天下。宜改天平勝寳九歳八月十八日。以爲天平寳字元年。其依先勅。天下諸國調庸。毎年免一郡者。宜令所遺諸郡今年倶免。其所掠取賊徒資財。宜与士庶共遍均分。」又准令。雜徭六十日者。頃年之間。國郡司等不存法意。必滿役使。平民之苦略由於此。自今已後。皆可減半。其負公私物未備償者。是由家道貧乏。實非姦欺所爲。古人有言。損有餘補不足。天之道也。宜自天平勝寳八歳已前。擧物之利。悉應除免。」又今年晩稻稍逢亢旱。宜免天下諸國田租之半。寺神之封不在此例。」其獻瑞人白丁金刺舍人麻自。宜叙從六位上。賜絁廿疋。調綿卌屯。調布八十端。正税二千束。執持參上驛使中衛舍人少初位上賀茂君繼手。應叙從八位下賜絁十疋。調綿廿屯。調布廿端。其不奏上國郡司等不在恩限。但當郡百姓賜復一年。己亥。勅曰。安上治民。莫善於礼。移風易俗。莫善於樂。礼樂所興。惟在二寮。門徒所苦。但衣与食。亦是天文。陰陽。暦算。醫針等學。國家所要。並置公廨之田。應用諸生供給。其大學寮卅町。雅樂寮十町。陰陽寮十町。内藥司八町。典藥寮十町。辛丑。勅曰。治國大綱。在文与武。廢一不可。言著前經。向來放勅爲勸文才。隨職閑要。量置公田。但至備武。未有處分。今故六衛置射騎田。毎年季冬。宜試優劣以給超群。令興武藝。其中衛府卅町。衛門府。左右衛士府。左右兵衛府各十町。

八月二日に以下のように勅されている・・・故山田三井宿祢比賣嶋(山田史女嶋)は、阿妳(乳母)としての功績があったので(天平勝寶元年七月、乳母の一人として従五位下叙位)、褒めて宿祢姓を賜った。御恩の波は大きく激しく跳ね返って余波は親族まで及んだ。ところが人の道に背く言を信じ、忠誠を尽くさず、仲間の悪人等に招かれて、殊更隠匿することに努めた。今、このことを聞いて、身の毛がよだち、心は深く傷ついた。道理として問い詰めて責めるべきである。よって御母の称を削り、宿祢姓を奪い、元の山田史にせよ・・・。

四日に以下のように詔されている(以下宣命体)・・・今申し渡すに、奈良麻呂等が挙兵する時に雇われた秦氏の人どもは、遠國に流してしまわれた。今残っている秦氏の人どもは、悪心をもたず、清く明るい心でお仕え申し上げよ、と申し渡す・・・。また詔されている(以下宣命体)・・・この度の事件処理にあたり、明るく清く仕え申したことにより、褒められる人もある。また深く賞される故に、一人二人の人等に、冠位をお上げお褒めになる、と申し渡す・・・。

船王に正四位上、紀朝臣飯麻呂藤原朝臣八束(眞楯)に正四位下、大伴宿祢稻公(稻君。宿奈麻呂に併記)に從四位下、藤原朝臣千尋に正五位上、佐伯宿祢美濃麻呂に從五位上、奈紀王(奈貴王。石津王に併記)巨曾倍朝臣難波麻呂(陽麻呂に併記)當麻眞人淨成(比礼に併記)高橋朝臣人足(國足に併記)阿倍朝臣繼人(繼麻呂の子?)・「采女朝臣淨庭」・「小野朝臣石根」・石川朝臣豊麻呂(君成に併記)に從五位下を授けている。石川朝臣年足兵部卿・神祇伯は元のままで中納言、巨勢朝臣堺麻呂阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)紀朝臣飯麻呂を參議に任じている。

また、次のように勅されている・・・中納言の多治比眞人廣足(廣成に併記)は、齢は「耄」(七十歳、もしくは八十歳。耄碌)に近く、能力が低いのに議政の場に連なり、一族の若い甥等(犢養・礼麻呂・鷹主)を教え導かず、全て賊の一味にしてしまった。このような人が、どうして宰相の職にあるべきだろうか。中納言の職を辞し、散位になって邸に帰っておれ・・・。

十三日に駿河國益頭郡(廬原郡に併記)の人、「金刺舎人麻呂」が蚕の産んだ卵が文字を作ったのを献上している。

十八日に次のように勅されている・・・朕は徳が薄いにもかかわらず、もったいなくも天皇の高い地位を継ぎ、八方の国土に君臨して今に至ること九年、今まで善い政治をしていない。これについて日も夜も憂いの思いを抱いている。危険な淵の傍に立っているように懸念し、薄い氷を踏むように慎重にして来た。そうして来たところ、去る三月二十日、天の神は我に、「天下太平」の四文字を賜って、天下の安らかなることを表し、我が朝廷の永く続くことを示した。しかるに賊臣である廃太子の道祖王安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂大伴古慈悲(祜信備)多治比國人鴨(賀茂)角足多治比犢養佐伯全成小野東人大伴駿河麻呂答本忠節等は、生まれつきの性質が悪く頑なにして道理にくらく、人に災いを及ぼし、君臣の道を顧みず、鬼神の力をも恐れず、密かに謀反の徒党を組み、皇室の本家を傾けようと図った。しかし、皆、天の下す呵責を受けて、全て罪科に服した。

かくして周公旦の二人の兄弟が放った流言が効を奏さなかったように、この事件は内部で治まって大きな騒ぎにはならず、舜の時代に四人の悪者を辺境に追放したように、反逆を企てた者を流罪に処し、都は静かになり、既に愚かな民は一掃されて見えず、朝廷は音もなく静まり、その上に賢明な宰相が控えている。朕は密かに恐れるに、徳は虞舜に劣るのに、時運の赴くところ、艱難に遭遇し、武は殷の湯王よりも劣るのに、任務として、反乱の鎮圧を担当することになった。昼も夜も思い煩い、寝食を忘れて、民に仁徳と長寿を与え、徳化をおこし及ぼそうとしている。

近頃、駿河國益頭郡の人、「金刺舎人麻呂」の献上した、蚕の卵が自然に文字を書き上げたものを得た。その文字は、”五月八日開下帝釈標知天皇命百年息”とある。このため、国内の人々は、めでたいしるしを戴いて、躍り上がって喜んだが、一方では、どうしてよいか分からず、恐れて息をひそめ、思い煩っている。そこで朕は群臣に命を下して、文字の意味を議論させたところ、[天平勝寶九歳丁酉の歳の五月八日は、陛下が太上天皇の一周忌として、法会を設けて、僧に食事を供養し、悔過することが終わる日である。ここに帝釈天は、皇帝・皇后の深い誠意に感じて、天上界の門を開け、地上界の陛下の優れた仕事をよく見て、陛下の時代が百年もの長い間続くことを表したのである。日月の照らす所、みな天子の子孫が多く栄える事をみており、天地の間に生を受けた人々は、全て陛下の御代の長く延びることを知っている。この瑞兆は仁の心による徳化の普く行き渡り、国内は安らかに憩い、慈しみが遠くの地まで潤し、国家が全く平らかである象徴である]と奏上して申した。

謹んで考えるに、蚕というものは、虎のような模様を持ちながら、ときに皮を脱ぎ、馬のような口を持ちながら、争うことをしない。部屋の中で成長し、絹を作り出して天下の人々に衣を与える。錦や縫い取りの艶やかさもこれから作られる。朝廷や祭礼での服もこれから生まれる。このため、神聖な虫に文字を作らせ、不思議な表現をさせるのである。

蚕はいま繁殖しているときに、自然に不思議な文字を作り、戈を止めた日(法会の日)に、霊字出現が朝廷に奏された。誠にこれは、天より下った幸いである。吉兆であって不利な徵ではない。五月八日の五と八の数字は、並べるなら、天子の聖寿の不惑(四十歳)に通じ、日と月は、共に明るく、天皇・皇后が宮殿の奥深く永く並びたまう様を象徴する。

朕は、謹んでこの喜ばしい印を戴き、かえりみて、徳の薄いことを恥じる。どうして朕の力だけでもたらすことができようか。賢明な補佐の人のもたらした功である。王公等共に、この天からの賜り物を、ありがたく戴こうではないか。まさに天のお言葉がここに集まり、世が盛んになる慶びがここに始まる。そこで多くの恵みを天下の人々に与えようと思う。

「天平勝寶」九歳八月十八日を改めて、「天平字」元年とする。先の勅により、天下諸國の調・庸は、毎年、一郡の分を免除してきた。免除を受けていない諸郡は、今年はいずれも免除せよ。また、没収した賊徒の財産は、官人と庶民に、普く均等に配分せよ。また、賦役令の規定によると、雜徭は六十日以内である。近頃では國・郡司は、法の意味を理解せず、必ず限度一杯に使役している。平民の苦痛は、主としてここから発生している。今より後は、全て半分に減らすことにする。

次に、人民が公や私の物の負債を負って、まだ返済できないのは、家が貧乏のせいであり、ずるくだましているわけでは決してない。古人も[余っている所から削り、足らない所を補うのは、天の道理と言うべきだ]と言っている。そこで、天平勝寶八年以前に貸付けた公出挙の利子は、全て免除する。また、今年の晩稲は、だんだんと日照りの害にあっている。そこで天下の國々の租の半分を免除する。但し、寺社の封戸は免除の範囲に入れない。

また、瑞兆を献じた白丁の「金刺舎人麻呂」には、従六位上を授け、更に絁二十匹、調の真綿四十屯・調の麻布八十端・正税稲二千束を給うことにする。瑞兆を取持って参上した、駅使の中衛府の舎人の「賀茂君継手」には、従八位下を授け、絁十匹・調の真綿二十屯・調の麻布二十端を給うことにする。瑞兆のことを奏上しなかった駿河國の國・郡司等は、恩恵の範囲に入れない。但し、当郡の人民等には租税負担を一年分免除する。

二十三日に以下のように勅されている・・・君主を安らかにし民を治めるには、礼儀によるのが最も好い方法であり、風俗を矯正するには、音楽によるのが最も良い方法である。礼儀と音楽を振興する所は、それは二寮(式部省の大学寮と治部省の雅楽寮)である。ここの学生が苦しむことは、衣と食の欠乏である。また、天文・陰陽・暦算・医針などの学問は、国家の必要とするところである。そこで、それぞれ公廨田を設けて、それぞれの学生の必要にあてるべきである。大学寮に三十町、雅楽寮に十町、陰陽寮に十町、内薬司に八町、典薬寮に十町を充てよ・・・。

二十五日に以下のように勅されている・・・国家を治める基礎は、文事と武事を興すことにある。一方を廃し、他を重んじてはならない。このことは、古典に明らかに記してある。従来から勅を発して、文才を磨くことを勧めるため、官職の繁忙に程度を考慮して、学問奨励のために公廨田を設置した。しかし武芸奨励については、まだ具体策がなかった。そこで今、六衛府に射騎田を設け、毎年冬の終わりに武芸の優劣を試験し、優秀者に賞を与えて、武芸を興隆させようと思う。そこで、中衛府に三十町、衛門府・左右衛士府・左右兵衛府に、おのおの十町の射騎田を宛よ・・・。

<采女朝臣淨庭>
● 采女朝臣淨庭

邇藝速日命の末裔である「采女朝臣」も途切れることなく、人材を輩出している。續紀では枚夫首名・若が記載されている。

幸運にも後の三名は、地形変形が殆どない場所が出自と推定することができたが、「枚夫」は、国土地理院航空写真で何とか、求めることができた。

淨庭淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様、および庭=广+廴+壬=山麓で平らに広がった様と解釈したが、これらの地形要素を含む場所を探すと、図に示したところが出自と思われる。

「枚夫」と同様に広大な宅地に変わってしまい、現在の地形図では当時を偲ぶことは叶わないようである(こちら参照、図中+が「淨庭」の居処と推定)。今更ながら1970年以降の日本列島改造が如何に凄まじかったが分かる。

<小野朝臣石根>
● 小野朝臣石根

「小野朝臣老」の子と知られているようである。遣隋使として名を馳せた「妹子」の玄孫となる、真に由緒正しき家柄、ということになろう。

前記に少し触れたが、寶龜十(779)年二月に・・・贈故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位。副使從五位上小野朝臣石根從四位下。清河贈太政大臣房前之第四子也。勝寳五年。爲大使入唐。廻日遭逆風漂著唐國南邊驩州。時遇土人。及合船被害。清河僅以身免。遂留唐國。不得歸朝。於後十餘年。薨於唐國。石根大宰大貳從四位下老之子也。寳龜八年。任副使入唐。事畢而歸。海中船斷。石根及唐送使趙寳英等六十三人。同時沒死。故並有此贈也。・・・と記載されている。(勝寳五年=753年、寳龜八年=777年)

副使(大使不在)として入唐・謁見したが、不運にも帰り着くことは叶わなかったことが伝えられている。石根=山麓の区切られた地が根のように広がり延びているところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。大役を果たし、意気揚々と乗船したのだが、無念であったろう。

<金刺舎人麻呂-八麻呂>
● 金刺舎人麻呂

駿河國益頭郡については、前記で隣接する「廬原郡」に併記した。と言っても、大きく地形が変化していて、国土地理院航空写真1961~9年を参照して求めた結果であった。

金刺に含まれる既出の金=高台が三角に尖っている様刺=朿+刀=山稜が切り分けられて朿のように突き出ている様と解釈した。おそらく、図に示した山稜の端が突き出て小高くなっている場所を表していると思われる。書紀で記載された欽明天皇の磯城嶋金刺宮で用いられた表現である。

本来の地形象形表記である舎人=谷間で山稜が延びた先で広がり残ったところと解釈したが、「朿」の麓辺りが出自と推定される。東隣の「多胡浦」では砂金が見つかったり、駿河國からの献上が続いている。この時は、駿河守の楢原造東人等が関わり、新たに氏姓を賜ったりしたのだが、蚕の文字は些か確認し辛かったのかもしれない。

後(称徳天皇紀)に金刺舎人八麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「麻呂」の西側の谷間が八=大きく広がっている様を用いた名前と思われる。「多胡浦」に並んで、その谷間の出口辺りは当時は海面下であったと推測される。

<賀茂君繼手>
● 賀茂君継手

「賀茂君」は、賀茂(鴨)朝臣の元の姓である(例えばこちら参照)。また、その近隣で賀茂役君の氏姓を賜った一族も記載されていた。

即ち、「賀茂朝臣」及び「賀茂役君」とは異なる地を示していると思われる。すると、山背國賀茂がこの人物の出自の地であったのではなかろうか。

現地名の京都郡みやこ町犀川大村、二つの三諸神社が、恰も上・下鴨神社に対応するかのように鎮座している場所である。

繼手=途切れかかったような山稜が手の形をしているところと読み解ける。山稜が一様に延びずに段差のある尾根が続く地形を表している。その地形を図に示した場所に見出すことができる。出自は、下の三諸神社の南側辺りと思われる。意味不明の文字列なのだが、目敏く見つけて、思いの外の叙爵・褒賞だったのではなかろうか。