2024年2月28日水曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(15) 〔666〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(15)


寶龜六(西暦775年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月壬辰朔。參議大宰帥從三位勳二等藤原朝臣藏下麻呂薨。平城朝參議正三位式部卿大宰帥馬養之第九子也。自内舍人。遷出雲介。寳字七年。授從五位下。任少納言。八年之亂。賊走近江。官軍追討。藏下麻呂將兵奄至。力戰敗之。以功授從三位勳二等。歴近衛大將兼左京大夫伊豫土左等國按察使。寳龜五年。自兵部卿遷大宰帥。薨年卌二。丙申。參河。信濃。丹後三國飢。並賑給之。壬寅。以從四位下石川朝臣名足爲大宰大貳。從五位下多治比眞人豊濱爲少貳。丁未。下野國言。都賀郡有黒鼠數百許。食草木之根數十里所。庚戌。雨雹。大者如碁子。丙辰。山背國紀伊郡人從八位上金城史山守等十四人賜姓眞城史。丁巳。授正五位下藤原朝臣諸姉正五位上。无位藤原朝臣綿手從五位下。

七月一日に参議・大宰帥・従三位・勲二等の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)の参議・正三位・式部卿・大宰帥の馬養(宇合)の第九子であった。内舎人より出雲介に遷り、天平字七(763)年に従五位下を授けられ、少納言に任じられた。翌年の乱で賊(仲麻呂等)が近江に逃走し、官軍が追討した時、「藏下麻呂」は兵を率いてたちまち追いつき、力戦して「仲麻呂」等を破った。この功で従三位・勲二等を授けられ、近衛大将兼左京太夫や、伊豫・土左等の國の按察使を歴任した。寶龜五年に兵部卿から大宰帥に遷った。薨じた年は四十二であった。

五日、參河・信濃・丹波の三國に飢饉が起こったので、それぞれに物を恵み与えている。十一日に石川朝臣名足を大宰大貮、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を少貮に任じている。十六日に下野國が以下のように言上している・・・「都賀郡」に黒鼠が数百匹ばかり現れて、数十里ほどのところの草木の根を食ってしまった・・・。十九日に雹が降っている。大きさは碁石ほどであった。

二十五日に山背國紀伊郡の人である「金城史山守」等十四人に眞城史の氏姓を賜っている。二十六日に藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正五位上、「藤原朝臣綿手」に従五位下を授けている。

<下野國都賀郡>
下野國都賀郡

下野國については、全くの遅ればせながらの郡名記述であろう。聖武天皇紀に蝦夷征討の物語の中に賀美郡が記載され、下野國の東端、上野國との境にある場所と推定した(現地名は北九州市門司区吉志)。

また下野藥師寺や光仁天皇紀になって足利驛の存在が示されていた。また、人物名としては、聖武天皇紀に古仁染思・虫名が外従五位下を叙爵されて登場していた。「足利驛」周辺地を出自としていたと推定した程度であって、関連記述の極めて少ない國であることに違いないであろう。

都賀郡に含まれる、頻出の文字列である都賀=押し開かれたような谷間が交差するように寄り集まっているところと解釈すると、図に示した地域を表していると思われる。「賀美郡」の西隣と推定される。「足利驛」は、この郡には含まれず、「下野藥師寺」は、その端境辺りではなかろうか。

<金城史山守>
● 金城史山守

称徳天皇紀に咒禁師の「末使主望足」が外従五位下を叙爵されて登場し、「山背國紀伊郡」を居処していたと推定した(こちら参照)。

「山背國紀伊郡」は記紀・續紀を通じて記載されることはなく、ここで初めて登場したことになる。「紀伊」を固有の地名とするなら、何とも怪しげな郡名となろう。

氏名に含まれる頻出の文字列でる金城=[金]の形をした山稜が平らに整えられているところと読み解ける。その特徴的な地形を図に示した場所に見出せる。綴喜郡の南に隣接する場所となるが、少々入組んだ端境となっていたようである。

名前も同様に頻出の文字列であって、山守=[山]の形に延びた山稜の端が両肘を張り出して取り囲んでいるところと解釈すると、出自の場所を推定することができる。賜った眞城史眞城=平らに整えられた地が寄せ集められて窪んだところと読み解ける。真っ当な氏姓であろう。

<藤原朝臣綿手-敎貴>
<-眞男女-今女>
● 藤原朝臣綿手

直近でも系譜不詳の「藤原朝臣」が登場していたが、この人物も四家のいずれかに属していたにも拘わらず、同様に不詳のようである。

名前に含まれる「綿」の文字を用いる例は希少であろう。「綿」=「糸+帛」と分解すると、「綿」=「細く延びた山稜に丸く小高い地がある様」と解釈される。枝の先に付いた綿の実の形状を模した表記とも思われる。

纏めると綿手=手のように延びた端に丸く小高い地があるところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。京家と式家の端境とも言える場所、多分式家に関わる人物だったと思われるが、と推定される。この後幾度か登場され、命婦・正四位下に昇られたとのことである。

直後に藤原朝臣教貴が従五位上を叙爵されて登場する。「綿手」同様に関連する情報が欠落していて、名前から出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。希少な文字である教(敎)=爻+子+攴=岐れて生え出た山稜が交差するような様貴=臾+貝=谷間が両手のような山稜に挟まれている様と解釈した。それらの地形要素を満足する場所と思われる。

後に藤原朝臣眞男女が従五位下を叙爵されて登場する。何とも複雑な名前であるが、地形象形表記の最たるものであろう。そのまま訳すと、眞男女=盛り上がって突き出た山稜が寄り集まって窪んでいるところの女となる。その地形を図に示した場所に見出せる。

更に後に藤原朝臣今女が従五位下を叙爵されて登場する。今=山稜が蓋をするように覆い被さる様と解釈すると、図に示した場所の地形を表していると思われる。一に特定し辛い名称であるが、可能な候補として採用しておこう。

八月丙寅。和泉國飢。賑給之。戊辰。有野狐。踞于閤門。從五位下昆解沙弥麻呂賜姓宿祢。辛未。授正五位下百濟王明信正五位上。癸酉。始設蓮葉之宴。丙子。授正五位上安倍朝臣子美奈從四位下。庚辰。太政官奏曰。伏奉去七月廿七日勅。如聞。京官祿薄。不免飢寒之苦。國司利厚。自有衣食之饒。因茲。庶僚咸望外任。多士曾无廉恥。朕君臨區宇。志在平分。思欲割諸國之公廨。加在京之俸祿。卿等宜詳議奏聞者。臣聞。三代弛張。百王沿革。隨時損益。事在利人。伏惟。陛下仁霑品物。化被群方。愍庶僚之飢寒。均内外之豊儉。損彼有餘。補此不足。凡在動植。莫不霑潤。臣等承奉聖旨。喜百恒情。臣等商量。毎國割取公廨四分之一。以益在京俸祿。奏可。癸未。伊勢。尾張。美濃三國言。九月日異常風雨。漂沒百姓三百餘人。馬牛千餘。及壞國分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝數。遣使修理伊勢齋宮。又分頭案検諸國被害百姓。是日。祭疫神於五畿内。庚寅。授遣唐録事正七位上羽栗翼外從五位下。爲准判官。辛夘。大祓。以伊勢美濃等國風雨之災也。

八月五日に和泉國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。七日に野狐が現れて、閤門(内裏の門)に踞っていた。この日、昆解沙弥麻呂(宮成に併記)に宿祢姓を賜っている。十日に百濟王明信()に正五位下を授けている。十二日に初めて蓮の葉を観る宴を催している。十五日に「安倍朝臣子美奈」(藤原良繼の妻)に従四位下を授けている。

十九日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで去る七月二十七日の勅、[聞くところによると、中央の官人は俸禄が薄く、飢えや寒さの苦しみを免れない。地方の國司は利益が厚く、おのずから衣食が饒かである。そのために一般の官僚はみな地方官になることを望み、多くの官人がまったく廉恥の心を失くしているという。朕は天下に君臨し、平等に分けることを心掛けている。諸國の公廨稲を割き、在京の役人の俸禄に加えようと思う。卿等は詳しく審議して、奏聞せよ]と承った。私たちは、[中国三代の政治はゆるんだり緊張したりし、多くの帝王の治世は様々に移り変わったが、時に応じて省いたり増したりするのは、目指す所は人々の利益のためである]と聞いている。---≪続≫---

伏して思うに、陛下の仁徳は万物を潤し、徳化は諸々の地方に行渡り、多くの官僚の飢えや寒さを憐れみ、中央と地方の貧富を均等にしようとされている。確かに片方の余りがるのを減じて、他方の不足を補うようにすれば、この世に在る動植物で潤いを受けないものはないでしょう。私どもは天皇のありがたい仰せを承り、喜びは常の情に百倍する。私どもが考えるに、國ごとに公廨稲の四分の一を割き取って、それで在京の役人の俸禄を益ことにしたいと思う・・・。この奏上は許可されている。

二十二日に伊勢・尾張・美濃の三國が以下のように言上している・・・異常の風雨があり、人民三百人余りと、馬と牛先頭余りが流されて水中に沈み、その上國分寺や諸寺の塔が十九基も壊れた。官や個人の家屋で壊れたものは数えることができない・・・。朝廷は使を遣わして、伊勢齋宮を修理させると共に、手分けして諸國の被害を受けた人民を取調べさせている。この日、疫神(疫病神)を畿内五ヶ國で祭っている。

二十九日に遣唐録事の羽栗翼に外従五位下を授け、准判官に任じている。三十日に大祓を行っている。伊勢・美濃などの國々で、風雨の被害があったためである。

<安倍朝臣子美奈>
● 安倍朝臣子美奈

この人物の素性については、かなり詳細に伝わっているようである。阿倍朝臣粳虫の娘であり、後に内臣の藤原朝臣良繼の室となっている。

また、後の桓武天皇の義母になっていて、流石に皇統に絡むと系譜の記録は残されていたわけである。勿論、元は「布勢朝臣」の系列である。

そんな背景から、出自の場所は「粳虫」の近隣として子美奈が表す地形を探すと、図に示した辺りと推定される。古事記風の名称である子美奈=生え出たような山稜の麓で谷間が広がった地に高台があるところと解釈する。

最終的には、従三位・尚藏兼尚侍であり、亡くなられた時には正一位を贈られたと伝わっている。「良繼」は「仲麻呂」との確執で紆余曲折の人生であったが、共に歩んで来たのであろう。

九月甲辰。以正五位下佐伯宿祢國益爲河内守。從五位上石川朝臣在麻呂爲尾張介。從五位上紀朝臣廣純爲陸奥介。鎭守副將軍如故。從五位下縣犬養宿祢眞伯爲備後介。從五位下石川朝臣諸足爲讃岐介。從五位上高向朝臣家主爲筑後守。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲豊前守。壬寅。勅。十月十三日。是朕生日。毎至此辰。感慶兼集。宜令諸寺僧尼。毎年是日轉經行道。海内諸國。並宜斷屠。内外百官。賜酺宴一日。仍名此日爲天長節。庶使廻斯功徳。虔奉先慈。以此慶情。普被天下。丙午。河内國進白龜。辛亥。遣使奉白馬及幣於丹生川上。畿内群神。霖雨也。戊午。以正四位下大伴宿祢駿河麻呂。從四位下紀朝臣廣庭。並爲參議。從五位上藤原朝臣種繼爲近衛少將。山背守如故。從五位上紀朝臣船守爲員外少將。紀伊守如故。 

九月十三日に佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)を河内守、石川朝臣在麻呂を尾張介、紀朝臣廣純を鎭守副將軍のままで陸奥介、縣犬養宿祢眞伯を備後介、石川朝臣諸足を讃岐介、高向朝臣家主を筑後守、弓削宿祢塩麻呂()を豊前守に任じている。

十一日に次のように勅されている・・・十月十三日、これは朕の生まれた日である。この時を迎えるごとに、感慨と慶びの気持ちが共に起こって来る。そのために諸寺の僧尼に毎年この日に、経の転読と行道をさせ、全國で生き物の屠殺を禁断せよ。内外の百官には宴会を一日中賜ることにせよ。そしてこの日を天長節と名付けよ。この功徳を回らせて、慎んで恵み深い亡き母に奉って供養とし、この喜びの情を天下に全ての人々に行き渡らせることを請い願っている・・・。

十五日に河内國が「白龜」を進上している。二十日に使を遣わして、白馬と幣帛を丹生川上神(芳野水分峰神)と畿内の群神に奉らせている。長雨のためである。二十七日に大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)紀朝臣廣庭(宇美に併記)を参議、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を山背守のままで近衛少将、紀朝臣船守を紀伊守のままで員外少将に任じている。

<河内國:白龜>
河内國:白龜

前記で白雉を献上した山背國と同様に、河内國も意外に瑞祥献上例は少ないようである。文武天皇紀の白鳩、聖武天皇紀の嘉禾異畝同穗白龜一頭ぐらいが思い出せるであろう。

國の領域では両國は、一、二を争うほどの広さを有するのだが、それだけに早くから開拓されて来たのであろう。勿論、渡来系の人々が主役である。

河内國では、既に多くの人々が住まい、各々に爵位なり賜姓を行ったことが記載されて来ている。要するに、そんな彼等の居処ではない、未開拓部を”瑞祥”が表していることになる。”白い亀”ではなく、白龜=龜の形の山稜がくっ付いて並んでいるところである。

図に示した場所に、その地形を見出すことができる。現在の観音山の西麓に当たる。直近で陽疑造の氏姓を持つ人物が登場していたが、山を挟んで反対側に位置する場所である。図には、これまでに登場した弓削一族等の氏族の名称を並べてみた。また、機会があれば配置図なるものを作成してみようかと思う。

冬十月辛酉朔。日有蝕之。壬戌。前右大臣正二位勳二等吉備朝臣眞備薨。右衛士少尉下道朝臣國勝之子也。靈龜二年。年廿二。從使入唐。留學受業。研覽經史。該渉衆藝。我朝學生播名唐國者。唯大臣及朝衡二人而巳。天平七年歸朝。授正六位下。拜大學助。高野天皇師之。受礼記及漢書。恩寵甚渥。賜姓吉備朝臣。累遷。七歳中。至從四位上右京大夫兼右衛士督。十一年。式部少輔從五位下藤原朝臣廣嗣。与玄昉法師有隙。出爲大宰少貳。到任即起兵反。以討玄昉及眞備爲名。雖兵敗伏誅。逆魂未息。勝寳二年左降筑前守。俄遷肥前守。勝寳四年爲入唐副使。廻日授正四位下。拜大宰大貳。建議創作筑前國怡土城。寳字七年。功夫略畢。遷造東大寺長官。八年仲滿謀反。大臣計其必走。分兵遮之。指麾部分甚有籌略。賊遂陷謀中。旬日悉平。以功授從三位勳二等。爲參議中衛大將。神護二年。任中納言。俄轉大納言。拜右大臣。授從二位。先是。大學釋奠。其儀未備。大臣依稽礼典。器物始修。礼容可觀。又大藏省雙倉被燒。大臣私更營構。于今存焉。寳龜元年。上啓致仕。優詔不許。唯罷中衛大將。二年累抗啓乞骸骨。許之。薨時年八十三。遣使弔賻之。丙寅。地震。辛未。以從五位下笠朝臣名麻呂爲齋宮頭。癸酉。出羽國言。蝦夷餘燼。猶未平殄。三年之間。請鎭兵九百九十六人。且鎭要害。且遷國府。勅差相摸。武藏。上野。下野四國兵士發遣。是日天長。大酺。群臣獻翫好酒食。宴畢賜祿有差。乙亥。以從五位下文室眞人水通爲安藝守。己夘。屈僧二百口。讀大般若經於内裏及朝堂。甲申。大祓。以風雨及地震也。乙酉。奉幣帛於伊勢太神宮。

十月一日に日蝕が起こっている。二日に前右大臣・正二位・勲二等の吉備朝臣眞備が亡くなっている。右衛士少尉の「下道朝臣國勝」(圀勝。眞備に併記)の子であった。霊龜二(716)年、二十二歳の時、遣唐使に従って入唐し、留学生として学業を受けた。経書と史書を研究し、併せて多くの学芸を広く勉強した。我が朝の学生で唐國に名を挙げたのは、「大臣」と朝衡(阿倍仲麻呂)の二人だけである。

天平七(735)年帰朝し、正六位下を授けられ、大学助に任じられた。高野天皇(孝謙天皇。当時は阿倍内親王)は「眞備」を師として、『礼記』と『漢書』の講義を受けた。恩寵がたいそう厚く、吉備朝臣の氏姓を賜った。しきりに昇進して、七年の内に従四位上に、右京大夫兼右衛士督に至った。

天平十一年、式部少輔の藤原朝臣廣嗣玄昉法師との間に対立を生じ、地方官に転じて大宰少貮に任じられた。「廣嗣」は任地に至るとすぐ、兵を起こして反乱し、「玄昉」と「眞備」を討つことを理由としたが、兵は敗れ、誅されてしまった。しかし「廣嗣」の邪な霊魂はまだおさまらず、そのため天平勝寶二(750)年、「眞備」は筑前守に左遷され、更に肥前守に転任させられた<「仲麻呂」の策略か?>。天平勝寶四年、遣唐使の副使に任じられ、帰朝後正四位下を授けられ、大宰大貮に任じられた。建議して初めて筑前國に怡土城を造った。

天平寶字七(763)年、工事がほぼ終わり、造東大寺長官に遷った。天平寶字八年、仲滿(藤原仲麻呂)が謀反を起こした時、「大臣」は彼等が必ず逃走すると考えて、兵を分けてその逃げ道を遮らせた。この指揮や部隊の区分はたいそう優れた軍略であって、賊等は遂にこの謀の中に陥って、短い期間に悉く平らげられた。この功で従三位・勲二等を授けられ、参議・中衛大将に任じられた。

天平神護二(766)年、中納言に任じられ、ほどなく大納言に転じ、更に右大臣に任じられ、従二位を授けられた。これ以前、大学の釈奠は、その儀礼がまだ整っていなかった。「大臣」は礼儀を記した古典に準拠して考え、器物を初めて整え、儀礼の様子は観るに耐えるものとなった。また大藏省の双倉が焼けた時も、「大臣」が一人で新たに設計し、今も存している。

寶龜元(770)年、書面を差し上げて辞職しようとしたが、懇ろな詔を下して許されなかった。ただ中衛大将の職だけは罷めさせた。同年、重ねて書面を奉って、辞職を乞うたので、これを許した。薨じた時、年は八十三(八十一?)であった。使を遣わして、物を贈って弔っている。

六日に地震が起こっている。十一日に笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を齋宮頭に任じている。十三日に出羽國が以下のように言上している・・・蝦夷との戦いの残り火は、まだすっかりは収まっていない。そのため三年の間、鎮兵九百九十六人を要請し、要害の地を安定させながら國府を遷したいと思う・・・。勅されて、相摸・武藏・上野・下野の四國の兵士を徴発して遣わしている。

この日は天長節であるので、天皇は大いに臣下と酒宴し、群臣は珍しいもて遊びものや酒食を献上している。宴が終わってそれぞれに禄を賜っている。

十五日に文室眞人水通を安藝守に任じている。十九日に僧二百名を招き、『大般若経』を内裏と朝堂で読ませている。二十四日に大祓を行っている。風雨や地震が起こったためである。二十五日に幣帛を伊勢太神宮に奉っている。

十一月丙申。遣使於五畿内。修造溝池。丁酉。大宰府言。日向薩摩兩國風雨。桑麻損盡。詔不問寺神之戸。並免今年調庸。乙巳。遣使於陸奥國宣詔。夷俘等忽發逆心。侵桃生城。鎭守將軍大伴宿祢駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懷柔歸服。勤勞之重。實合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十餘人。從其功勳加賜位階。授正四位下大伴宿祢駿河麻呂正四位上勳三等。從五位上紀朝臣廣純正五位下勳五等。從六位上百濟王俊哲勳六等。餘各有差。其功卑不及叙勳者。賜物有差。丁巳。以參議從三位大藏卿藤原朝臣楓麻呂爲兼攝津大夫。左少弁從五位上小野朝臣石根爲兼中衛少將。從四位下大伴宿祢家持爲衛門督。

十一月六日に畿内五ヶ國に使を遣わして、池や溝を修理・造営させている。七日に大宰府が[日向・薩摩の両國では、風雨のために桑や麻が損害を受けて全滅した]と言上している。詔して、寺院の封戸も神戸も区別せずに、今年の調・庸を全て免除している。

十五日に陸奥國に使を遣わして、次のように詔を宣示させている・・・降伏した蝦夷等は反逆の心を起こして、桃生城に侵攻したが、鎮守将軍の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)が朝廷の委任を承って、身命を顧みることなく、反乱の賊を討ち平らげ、懐柔して服従させた。その勤労の重大さは真に褒め称えるに値する。そこで「駿河麻呂」を初め千七百九十人余りに、その勲功に従って位階を加え授与する・・・。

大伴宿祢駿河麻呂に正四位上・勲三等、紀朝臣廣純に正五位下・勲五等、百濟王俊哲(理伯の子)に勲六等、その他の各々勲功に応じて位階を授けている。また功績が少なくて、叙勲に達しない者はそれぞれ物を賜っている。二十七日に参議・大藏卿の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に攝津大夫、左少弁の小野朝臣石根に中衛少将をそれぞれ兼任させている。また、大伴宿祢家持を衛門府督に任じている。

十二月甲申。從三位石上朝臣宅嗣賜姓物部朝臣。以其情願也。

十二月二十五日に石上朝臣宅嗣に物部朝臣の氏姓を賜っている。願い出たからである。

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『續日本紀』巻卅三巻尾