天宗高紹天皇:光仁天皇(16)
寶龜七年(西暦776年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
七年春正月庚寅朔。宴五位已上於前殿。授正四位上藤原朝臣濱成從三位。賜五位已上祿有差。是日。始列諸王裝馬無盖者於諸臣有盖之下。丙申。授正五位下掃守王正五位上。從五位下礒部王從五位上。正六位上楊胡王從五位下。正四位下藤原朝臣家依正四位上。正五位上石川朝臣垣守從四位下。正五位下多治比眞人長野。石川朝臣豊人。大中臣朝臣子老並正五位上。從五位上石上朝臣家成。石川朝臣眞永並正五位下。從五位下文室眞人水通。藤原朝臣宅美。巨勢朝臣苗麻呂。巨勢朝臣池長。石川朝臣清麻呂。百濟王利善。紀朝臣家守。百濟王武鏡。山上朝臣船主並從五位上。正六位上藤原朝臣長山。大中臣朝臣諸魚。多治比眞人三上。紀朝臣難波麻呂。紀朝臣大宅。石川朝臣太祢。石川朝臣宿奈麻呂。大神朝臣末足。大野朝臣石主。中臣朝臣池守。佐味朝臣繼人。阿倍朝臣土作。安曇宿祢清成。紀朝臣牛長並從五位下。正六位上刑部大山。道田連安麻呂。吉田連古麻呂。高橋連鷹主並外從五位下。四品能登内親王三品。无位秋野王。美作王。正五位上多治比眞人古奈祢。橘朝臣眞都我。久米連若女並從四位下。正五位下巨勢朝臣諸主正五位上。從五位下紀朝臣宮子正五位下。无位平群朝臣邑刀自。藤原朝臣産子。藤原朝臣乙倉。藤原朝臣教貴。從五位下飛鳥眞人御井。藤原朝臣今子。縣犬養宿祢酒女並從五位上。无位安曇宿祢刀自。外從五位下大鹿臣子虫並從五位下。事畢宴於五位已上。賜祿有差。戊申。以正五位下大伴宿祢潔足爲東海道検税使。正五位下石上朝臣家成爲東山道使。從五位下吉備朝臣眞事爲北陸道使。從五位上當麻眞人永嗣爲山陰道使。正五位下石川朝臣眞永爲山陽道使。從五位下多治比眞人三上爲南海道使。從五位下多朝臣犬養爲西海道使。毎道判官主典各一人。乙夘。授正五位上多冶比眞人若日女從四位下。
正月一日に五位以上の者と前殿で宴会を行っている。藤原朝臣濱成(濱足)に従三位、五位以上の者にそれぞれ物を賜っている。この日初めて諸王の蓋の付かない装馬を、諸臣の蓋付きの下位に並べさせている。
七日に掃守王に正五位上、礒部王に從五位上、「楊胡王」に從五位下、藤原朝臣家依に正四位上、石川朝臣垣守に從四位下、多治比眞人長野・石川朝臣豊人・大中臣朝臣子老に正五位上、石上朝臣家成(宅嗣に併記)・石川朝臣眞永に正五位下、文室眞人水通・藤原朝臣宅美(乙刀自に併記)・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)・巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)・石川朝臣清麻呂(眞守に併記)・百濟王利善(①-⓬)・紀朝臣家守・百濟王武鏡(①-⓮)・山上朝臣船主に從五位上、藤原朝臣長山(長道に併記)・大中臣朝臣諸魚(子老に併記)・多治比眞人三上(歳主に併記)・「紀朝臣難波麻呂・紀朝臣大宅・石川朝臣太祢・石川朝臣宿奈麻呂・大神朝臣末足・大野朝臣石主」・中臣朝臣池守・佐味朝臣繼人(眞宮に併記)・阿倍朝臣土作(常嶋に併記)・安曇宿祢清成(諸繼に併記)・「紀朝臣牛長」に從五位下、「刑部大山」・道田連安麻呂(三田毘登家麻呂に併記)・吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)・「高橋連鷹主」に外從五位下、能登内親王(❷)に三品、「秋野王・美作王」・多治比眞人古奈祢(古奈弥。小耳に併記)・橘朝臣眞都我(眞束。古那加智に併記)・久米連若女に從四位下、巨勢朝臣諸主(馬主の改名)に正五位上、「紀朝臣宮子」に正五位下、「平群朝臣邑刀自・藤原朝臣産子」・藤原朝臣乙倉(淨子に併記)・藤原朝臣教貴(綿手に併記)・「飛鳥眞人御井」・藤原朝臣今子(今兒)・「縣犬養宿祢酒女」に從五位上、安曇宿祢刀自(諸繼に併記)・大鹿臣子虫に從五位下を授けている。事が終わった後に五位以上の者と宴会し、それぞれに禄を賜っている。
十九日に大伴宿祢潔足(池主に併記)を東海道検税使、石上朝臣家成を東山道検税使、吉備朝臣眞事を北陸道検税使、當麻眞人永嗣(得足に併記)を山陰道検税使、石川朝臣眞永を山陽道検税使、多治比眞人三上を南海道検税使、多朝臣犬養を西海道検税使、各道ごとに判官・主典各一人を任じている。二十六日に多治比眞人若日女(若日賣)に従四位下を授けている。
● 楊胡王 系譜不詳であり、後に「陽侯王」の名称で登場する。関係する人物として陽胡女王(鹽燒王に併記)、新田部皇子の子である(後に臣籍降下して氷上眞人陽胡)。藤原朝臣仲麻呂の室となり、天平寶字八(764)年に従三位まで昇進するが、その後消息を絶っている。従来より『仲麻呂の乱』によって処刑されたと推測されている。
憶測するに今回登場の王は、新田部皇子の係累であって、「陽胡女王」の場所を居処としていたのではなかろうか。いずれにせよ、叛乱の挫折によって一族の命運が激変したようである。
● 紀朝臣難波麻呂
「紀朝臣」一族として、現地名の豊前市を出自とする人物であろうが、「難波麻呂」では一に特定するのが、極めて困難・・・と心配してみたが、何と、系譜が残っていたようである。
調べると「馬主」の子、「犬養」の弟だったとのことである(こちら参照)。現地名は豊前市山内、下河内との端境の場所である。
難波=川が大きく曲がって流れているところと解釈される。その場所を図に示した場所に見出せる。「馬主」の西側の谷間の出口辺りと推定される。續紀には、この後幾度か登場され、従五位上に昇進されている。兄の「犬養」は従四位下まで昇進したようで、兄弟共に京官・地方官として活躍したことが伺える。
後(桓武天皇紀)に紀朝臣呰麻呂・紀朝臣廣足が並んで従五位下を叙爵されて登場する。「呰麻呂」は「難波麻呂」の子と知られているようである。既出の文字である呰=此+囗=谷間を挟んで折れ曲がって延びる山稜に囲まれた様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。
廣足=山稜が[足]のように延び広がっているところと解釈されるが、極めてありふれた地形である。初見の記載され方から推し測ると、「呰麻呂」の北隣にある場所が出自だったのではなかろうか。すると、記録に残っていないが、「犬養」の子だったのかもしれない。
● 紀朝臣大宅・紀朝臣牛長
全く途切れる気配を見せない「紀朝臣」一族なのであるが、二人とも系譜不詳のようである。それぞれに含まれる「大」、「長」の文字が表す地形から、「大口」系列(例えばこちら参照)の紀朝臣と推測される。
既出の文字列である大宅=山稜に挟まれた谷間に平らに広がり延びているところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。
正に空いていた場所にすっぽりと収まった様相であろう。この後、地方官に任じられたと記載されている。
同様に見慣れた牛長=牛の頭部のような山稜が長く延びているところと読むと、図に示した場所が見出せる。「麻路」の南側に位置するところである。この後に登場されることはなく、委細不明な人物のようである。
少し後に女孺の紀朝臣世根が従五位下を叙爵されて登場する。調べると「宇美」の娘と知られていることが分かった。既出の文字列である世根=山稜が途切れずに連なった根のようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在の事代主神社辺りと思われる。上記の「牛長」同様にこの後に登場されることはないようである。
更に後に紀朝臣眞人が従五位下を叙爵されて登場する。勿論、かつて登場の「大口」の子の「眞人」(上図参照)ではなく、調べると廣名の子と知られているようである。眞人=窪んだ地に谷間が寄り集まっているところと解釈したが、図に示したように山稜が一旦途切れた場所を表していることが解る。後に従四位下まで昇進され、有能かつ人格者だったと伝えれている。
更に後に紀朝臣千世が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前の千世=[世]の前で谷間を束ねたようなところと解釈すると、図に示した「世根」の北側の場所が出自と推定される。その後幾度か登場し、昇進はないが京官・地方官を任じられている。
上記の「紀朝臣」と同様に途切れずに人材輩出の「石川朝臣」一族の二人である。また同じく系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることにする。
太祢(禰)=山稜の端が平らに長く広がった高台になっているところと解釈すると、図に示した場所辺りと推定される。「足人」の足元の場所となる。
宿奈麻呂の宿奈=山稜の端の平らな高台が縮こまって細く尖っているところと解釈すると、図に示した場所辺りと思われる。書紀に登場した蟲名の麓に当たる場所である。蘇我連子大臣の子である「虫名」は續紀では登場することがないようである。
「太祢」はこの場限りの登場なのだが、「宿奈麻呂」の方は、この後に幾度か登場されるようである。しかしながら、爵位は従五位下のままで、昇進されることもなかったと記載されている。
● 大神朝臣末足
「大神朝臣」の氏姓に関する記述は、錯綜としている。元来の「大神朝臣」は、書紀の三輪君を遠祖とする一族である(こちら参照)。
續紀の聖武天皇紀になって豊前國宇佐郡の八幡大神周辺を居処とする一族(こちら参照)に賜姓されていた。
また、更に後の称徳天皇紀に大倭國の山邊周辺を居処とする一族にも賜姓され(こちら参照)、やたらと重複することを避けていない様相なのである。いや、むしろ錯綜とすることを意図しているのであろう。勿論、大神=平らな頂から高台が延び出ているところの地形象形は、全て満足される場所である。
前書きが長くなったが、調べると今回の人物は通守の子と知られているようである。直近の登場は、淳仁天皇紀の弟の「奥守」(通守に併記)である。かなり登場頻度が少なくなっている。末足=山稜が途切れて足の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に遣唐副使を務め、正五位下に昇進されている。
少し後に大神朝臣人成・大神朝臣三友が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、各々の名前が表す地形から出自場所を図に示した。人成=[人]の形に延びた山稜の後に整えられた地があるところ、三友=二つ揃って並んで延びる山稜が三段になっているところと解釈する。「人成」は後にもう一度登場されるようである。
更に後に大神朝臣船人が従五位下を叙爵されている。船人=[人]の形した地の前にある船のようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、二度ばかり登場し、上野守に任じられている。
「大野朝臣」については、称徳天皇紀に石本が従五位下を叙爵されて以来の登場である。「東人」の孫、「横刀」の子であり、兄が「眞本」と知られている。
今回登場の人物は、「石本」の子のような名称なのであるが、定かではないようである。石主=山麓の小高い地が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。
益々上記の係累に属する人物の様子である。尚、前記で登場した外従五位下を叙爵された大野我孫麻呂の北隣に当たる場所となる。
少し後に大野朝臣姉が従五位上を叙爵されて登場する。姉=女+市=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まっているところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。この人物についても、全く情報が見当たらず、續紀での登場もこの場限りのようである。
その後、勝麻呂(女孺)・息麻呂が登場し、”忍坂”の谷間の東側を埋め尽くしたかに思われたのだが、そうではなかったようである。
名前の大山を”大きな山”と読んでは、全くの見当違いとなり、史書の伝えるところが見えなくなる。また「山」=「三つの山稜が[山]の文字形のように延び出ている様」と解釈する。大山=平らな頂の三つの山稜が[山]の文字形のように延び出ているところと読み解ける、のである。
すると、現在は国道322号線が通過して変形してるが(国土地理院航空写真1961~9年、こちら参照)、その地形を表す場所を確認することができる。多分、図に示した山の中央付近を出自としていたのであろう。この場限りの登場で、消息は不明である。
「高橋連」は、”南嶋”に派遣された牛養が初見の人物である。上記の「大山」とは、「南嶋」繋がりとなる。何かを伝えているのであろうか・・・。
それは兎も角として、筑後國山門郡、現地名は福津市手光辺り、「牛養」の周辺がこの人物の出自と推測されるが、地形変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年を用いることにする。
名前の鷹主に含まれる鷹=广+人+隹+鳥」=山麓の谷間に二羽の鳥が並んでいる様と解釈した。頻出の主=真っ直ぐに延びている様であり、図に示した場所にそれらの地形要素を満足する場所を見出すことができる。
肥後國に比べて筑後國に関わる人物の登場が極端に少ないようである。勿論、瑞祥献上の物語も見られない。希少な人物なのである。後に畫工正に任じられたとのことである。
● 秋野王・美作王
初見で従四位下であるからには、間違いなく光仁天皇ゆかりの王達と思われる。かつては舎人親王系列が大挙して登場していたが、正に再現であろう。
天皇に即することは、大変な出来事であったと述べているのであろう。とは言うものの、狭い谷間に配置できるのか、それが気掛かりとなってしまう有様である。
秋野王の秋野=山稜の端が[火]の様に岐れているところ、美作王の美作=ギザギザとした谷間の前が広がっているところと解釈される。それらの地形を図に示した場所に、それぞれ見出せることが解る。地形が明瞭に判別される場所である。諸臣からすれば、実に高位の爵位を授与されているのだが、お二人とも、續紀に二度と登場されることはないようである。
少し後に坂本王が従五位下を叙爵されて登場する。光仁天皇絡みの人物と推測して、坂本=山麓で手のように延びた稜が途切れているところと解釈して、図に示した場所が出自とした。「春日王」の近隣の地である。但し、特定するには些か曖昧な表記である以上、確からしさには若干欠けるきらいがある。上記と同様、この場限りの登場であり、消息不明である。
● 平群朝臣邑刀自
「平群朝臣」の出自の地(現地名:田川市伊田)は、現在では大きく地形変形していて、微かに山稜の端が残った地形が判別されるのみである。前記で登場した「家麻呂」については、結果的に出自場所を求めることが叶わなかった。
古事記の平群都久宿禰が祖となった佐和良臣の居処(現地名:田川市奈良)を出自とする系列に属する幾人かの人物の出自を求めることができた。
今回の人物の名前、邑刀自=渦巻くように盛り上がった麓の端に刀の形の地があるところと解釈して、地形を探索すると、図に示した場所が見出せる。現地名は田川郡川崎町池尻となっている。
この後、幾度か登場、昇進されて、最終正四位上に至ったと記載されているが、昇位の記述のみで、関連する情報は得られずである。その後の消息は不明のようである。
少し後に平群朝臣祐麻呂・平群朝臣家刀自が従五位下を叙爵されて登場する。上記の「邑刀自」の周辺を眺めると、祐(祐)=示+右=右手のような高台が延びている様が表す場所が見出せる。混み入ってはいるが、その地形を確認され、この人物の出自場所を推定することができる。
家刀自=豚の口のように延びた山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈されるが、不鮮明ながら上図の場所、「邑刀自」の東隣の谷間が出自と推定される。「祐麻呂」同様に二度と登場されることはないようである。
● 紀朝臣宮子
調べると、光仁天皇夫人であり、父親が「稻手」と知られていることが分かった。流石に天皇の夫人ともなれば系譜不詳ではなかったようである。
がしかし、「稻手」は初見であり、これも調べると古麻呂の孫であったことが分かった。どうやら、年若き夫人であったように憶測される。
宮子=谷間が奥まで積み重なって広がっている地に山稜が生え出ているところ、また、父親の稻手=手のような山稜の前に山稜が延び出た窪んだ地があるところと解釈される。
何とも標高差が少ない地であり、地形の確認が難しいのであるが、先ずは父親の居処を求めてみよう。図に示したように古麻呂関連の人物名に「佐」が用いられている(可比佐・古佐美)。これは「古麻呂」の地が「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」を表している。
即ち、稻手は「古麻呂」の近くの窪んだ地が出自と推定され、図に示した場所と思われる。よって、宮子は、その西隣の谷間が出自と推定される。最終従三位にまで昇進されたようである。
少し後に紀朝臣宮人・紀朝臣弟麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。前者は系譜不詳の人物であるが、「宮子」の「宮」の地を居処としてのではなかろうか。現在は池となっている場所と推定される。この後に幾度か登場され、最終正五位下となったようである。
後者の「弟麻呂」については、「古佐美」の子であったらしいが、確たる資料が見つからずだったが、図に示した弟=ギザギザとした様の地形を見出せる。ほぼ系譜は確定したようである。この後に幾度か任官記事が記載されている。
更に後(桓武天皇紀)に紀朝臣古刀自が従五位下を叙爵されて登場する。古刀自=丸く小高い地の麓の山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。系譜不詳であるが、「古麻呂」系列であったのではなかろうか。續紀中、その後に登場することはないようである。
● 藤原朝臣産子
光仁天皇夫人であり、一説に百川(雄田麻呂)の娘とされているようである。「雄田麻呂」は、「久米連若女」の子として、「久米」の地形に由来する名前と解釈した。
そうであるならば、「産子」も「百川」の近隣の地を出自としたと推測される。現地名田川郡福智町伊方の地に求めることになる。
産子の産(產)=「文+厂+生」と分解すると、地形象形的には産=崖のような麓から生え出ている様と解釈される。子=生え出た様であり、生え出た山稜の更に先の場所を表していることが解る。図に示した辺りが出自と推定される。最終従二位まで昇進されたようである。
「雄田麻呂」は改名して「百川」と名乗るのであるが、百川=丸く小高い地が川が流れるように連なっているところと読み解くと、図に示した崖下から生え出た山稜を表していることが解る。実に的確に表現している名称なのである。”一説”ではなく、真っ当な説であることが解き明かされたようである。
後(桓武天皇紀)に藤原朝臣旅子が従三位を叙爵されて登場する。桓武天皇夫人であり、母親は藤原朝臣諸姉(「良繼」の娘)と知られている。旅子=二つの谷間に挟まれた旗のような地から生え出たところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。
桓武天皇との間に誕生したのが大伴親王(後の淳和天皇)である。その出自の場所を図に併せて示した。頻出の大伴=平らな頂の山陵を谷間が半分に区切っているところと解釈する。二歳の時に母親の「旅子」が亡くなり、文室眞人与伎の妻に養育されたと知られている。久米連の北側が文屋(室)眞人一家の居処であった。
また、續紀には登場しないが妹の藤原朝臣帶子は安殿親王(後の平城天皇)の妃となるが平安遷都時に病没したようである。帶子=横に長く延びる山稜から生え出たところと解釈される。併せて上図に出自場所を示した。「百川」三姉妹は、実に煌びやかであったようである。
「飛鳥眞人」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。『八色之姓』にも含まれてはおらず、”御井女王”が臣籍降下した後の賜姓と思われる。
それにしても眞人姓を賜るのだから当時はちゃんとした素性の持主だったのであろうが、全く関連する情報が伝わっていないようである。
頻出の文字列である御井=四角く取り囲まれた地を束ねるようなところと解釈する。その地形を飛鳥周辺で求めると、図に示した辺りが、この人物の出自と推定される。
香春一ノ岳の南西麓、ここを出自とする人物は登場していなかった空白の地である。勿論、「飛鳥」は固有の地名ではなく、さまざまな場所に飛鳥は存在するのであるが、先ずはこの地の地形を表現したものとしておこう。「飛鳥眞人」の氏姓を持つ人物は、この後に記載されることはないようである。
● 縣犬養宿祢酒女
「縣犬養宿祢」一族の女性は、「三千代」を筆頭に幾人かが登場していた。「八重・姉女・道女・竈屋」等が女官して登用されていたようである(こちら参照)。
「三千代」の子である光明皇后が生まれた一族であり、後宮内にしっかり根付き、それに伴って新人が続いたのではなかろうか。
名前が表す地形、酒=氵+酉=水辺に酒樽のような山稜が延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。山稜の端に、南から八重・姉女・道女・竈屋、そして酒女が並んでいることになる。実に壮観な光景であろう。
初見で従五位上を叙爵されているが、續紀内では、この後に登場されることはないようである。関連する情報もなく、消息不明となっている。
少し後に縣犬養宿祢伯・縣犬養宿祢庸子・縣犬養宿祢安提女が共に従五位下を叙爵されて登場する。伯=人+白=谷間がくっ付いている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。後に伯麻呂と記される人物も登場するが、おそらく同一人物かと思われる。麻呂=萬呂とすると、図の場所を再確認することができる。おそらく、「伯」のみの名称による曖昧さを回避する為だったのであろう。
庸子の「庸」=「干+廾(両手)+用」と分解される。地形象形的には庸=両腕のような山稜で挟まれた谷間に大きく広がった山稜が延びている様と解釈される。子=生え出た様であり、その地形を「酒女」と「竈屋」の間に見出せる。いやいや、益々壮観な様相になったようである。
安提女の安提=嫋やかに曲がる谷間に匙のような山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「姉女」の谷奥に当たる場所である。その後に登場することはないようである。それにしても、凄まじいばかりの人物登場で、「縣犬養」一族の地形を余すことなく伝えている。
二月甲子。陸奥國言。取來四月上旬。發軍士二万人。當伐山海二道賊。於是。勅出羽國。發軍士四千人。道自雄勝而伐其西邊。是夜。有流星。其大如盆。丙寅。御南門。大隅薩摩隼人奏俗伎。戊辰。外從五位下大住忌寸三行。大住直倭並授外從五位上。外正六位上薩摩公豊繼外從五位下。自餘八人各有差。
二月六日に陸奥國が以下のように言上している・・・来る四月上旬を期して軍兵二万人を発動させて、「山海二道」(蠢彼蝦狄・海道蝦夷)の賊を討つべきである・・・。そこで出羽國に勅されて、軍兵四千人を動員して、雄勝方面から陸奥國の西辺地域(陸奥國遠山村周辺)の賊を討たせている。この夜、流星があった。その大きさは鉢ほどであった。
八日に南門に出御され、大隅・薩摩の隼人がその土地の演芸を奏している。十日に大住忌寸三行・大住直倭にそれぞれ外従五位上、薩摩公豊繼(久奈都に併記)には外従五位下を授けている。その他の八人にも、それぞれ差がある位を授けている。
三月辛夘。勅。前日改弓削宿祢。復弓削連。但故從五位下弓削宿祢薩摩。依舊勿改。癸巳。以從五位下粟田朝臣人成爲右少弁。從五位上石川朝臣眞守爲中務少輔。從五位下大原眞人美氣爲右大舍人助。陰陽頭從五位上山上朝臣船主爲兼天文博士。從五位下多朝臣犬養爲式部少輔。從五位下池原公禾守爲主計頭。外從五位下道田連安麻呂爲主税助。正五位下豊野眞人奄智爲兵部大輔。從五位下石川朝臣名主爲鼓吹正。從五位下紀朝臣難波麻呂爲刑部少輔。從五位下廣川王爲大判事。從五位上菅生王爲大藏大輔。從五位下佐味朝臣繼人爲宮内少輔。從五位下安曇宿祢淨成爲内膳奉膳。從五位下淨上王爲造酒正。外從五位下高市連豊足爲内染正。外從五位下長瀬連廣足爲園池正。正五位上藤原朝臣雄依爲左京大夫。外從五位下高市連屋守爲西市正。從五位下多治比眞人歳主爲攝津亮。從五位下紀朝臣本爲春宮亮。大外記外從五位下羽栗翼爲兼勅旨大丞。從五位上藤原朝臣鷲取爲造宮少輔。從四位下石上朝臣息嗣爲造東大寺長官。治部卿正四位上藤原朝臣家依爲兼衛門督。從五位下大中臣朝臣諸魚爲員外佐。從四位下藤原朝臣小黒麻呂爲右衛士督。從五位上巨勢朝臣池長爲佐。從五位下大原眞人清貞爲員外佐。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲山背守。從四位下大伴宿祢家持爲伊勢守。内匠助外從五位下松井連淨山爲兼下総大掾。造宮卿從三位高麗朝臣福信爲兼近江守。從五位下紀朝臣大宅爲飛驛守。從五位下大伴宿祢上足爲上野介。從五位上藤原朝臣宅美爲越前守。從五位上石川朝臣清麻呂爲介。從五位下牟都伎王爲越中守。從五位下小治田朝臣諸成爲介。從五位下矢集宿祢大唐爲能登守。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲越後守。從五位上紀朝臣家守爲丹波守。從五位下大原眞人宿奈麻呂爲伯耆守。正五位上多治比眞人長野爲出雲守。從五位上豊野眞人五十戸爲介。内藥正外從五位下吉田連斐太麻呂爲兼掾。正五位下大伴宿祢潔足爲播磨守。外從五位下秦忌寸石竹爲介。從五位下大神朝臣末足爲備中守。從五位下多治比眞人三上爲長門守。外從五位下三嶋宿祢宗麻呂爲淡路守。從五位上安倍朝臣東人爲豊後守。丙申。以從四位下石川朝臣垣守爲中務大輔。從五位上紀朝臣鯖麻呂爲木工頭。辛亥。以從五位下多朝臣犬養爲右少弁。從五位下粟田朝臣人成爲中務少輔。從五位上石川朝臣眞守爲式部少輔。外從五位下高市連屋守爲園池正。外從五位下長瀬連廣足爲西市正。從五位上紀朝臣家守爲春宮亮。丹波守如故。丙辰。以從五位下紀朝臣本爲尾張守。
三月四日に次のように勅されている・・・先に弓削宿祢の姓を改めて弓削連に戻した。しかし、従五位下の故弓削宿祢薩摩(❶。亡くなった年月は不詳)の姓は元通りとし、改めることのないようにせよ・・・。
六日に粟田朝臣人成(馬養に併記)を右少弁、石川朝臣眞守を中務少輔、大原眞人美氣を右大舍人助、陰陽頭の山上朝臣船主を兼務で天文博士、多朝臣犬養を式部少輔、池原公禾守を主計頭、道田連安麻呂(三田毘登家麻呂に併記)を主税助、豊野眞人奄智(奄智王)を兵部大輔、石川朝臣名主(垣守に併記)を鼓吹正、紀朝臣難波麻呂を刑部少輔、廣川王(廣河王。❸)を大判事、菅生王を大藏大輔、佐味朝臣繼人(眞宮に併記)を宮内少輔、安曇宿祢淨成(清成。諸繼に併記)を内膳奉膳、淨上王(❷)を造酒正、高市連豊足を内染正、長瀬連廣足(長背連。狛連廣足)を園池正、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を左京大夫、高市連屋守(豊足に併記)を西市正、多治比眞人歳主を攝津亮、紀朝臣本を春宮亮、大外記の羽栗翼を兼務で勅旨大丞、藤原朝臣鷲取(❷)を造宮少輔、石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)を造東大寺長官、治部卿の藤原朝臣家依を兼務で衛門督、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を員外佐、藤原朝臣小黒麻呂を右衛士督、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を佐、大原眞人清貞(都良麻呂)を員外佐、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を山背守、大伴宿祢家持を伊勢守、内匠助の松井連淨山(戸淨山)を兼務で下総大掾、造宮卿の高麗朝臣福信を兼務で近江守、紀朝臣大宅を飛驛守、大伴宿祢上足を上野介、藤原朝臣宅美(乙刀自に併記)を越前守、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を介、牟都伎王(牟都支王)を越中守、小治田朝臣諸成を介、矢集宿祢大唐を能登守、石川朝臣宿奈麻呂を越後守、紀朝臣家守を丹波守、大原眞人宿奈麻呂(今木に併記)を伯耆守、多治比眞人長野を出雲守、豊野眞人五十戸(猪名部王、別名五十戸王)を介、内藥正の吉田連斐太麻呂を兼務で掾、大伴宿祢潔足(池主に併記)を播磨守、秦忌寸石竹(伊波太[多]氣)を介、大神朝臣末足を備中守、多治比眞人三上を長門守、三嶋宿祢宗麻呂(三嶋縣主廣調に併記)を淡路守、安倍朝臣東人(廣人に併記)を豊後守に任じている。
夏四月戊午朔。日有蝕之。己巳。勅。祭祀神祇。國之大典。若不誠敬。何以致福。如聞。諸社不修。人畜損穢。春秋之祀。亦多怠慢。因茲嘉祥弗降。災異荐臻。言念於斯。情深慙惕。宜仰諸國。莫令更然。壬申。御前殿賜遣唐使節刀。詔曰。天皇〈我〉大命〈良麻等〉遣唐國使人〈尓〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。今詔。佐伯今毛人宿祢。大伴宿祢益立二人。今汝等二人〈乎〉遣唐國者今始〈弖〉遣物〈尓波〉不在。本〈与利〉自朝使其國〈尓〉遣〈之〉其國〈与利〉進渡〈祁里〉。依此〈弖〉使次〈止〉遣物〈曾〉。悟此意〈弖〉其人等〈乃〉和〈美〉安〈美〉應爲〈久〉相言〈部。〉驚〈呂〉驚〈呂之岐〉事行〈奈世曾〉。亦所遣使人判官已下死罪已下有犯者順罪〈弖〉行〈止之弖〉節刀給〈久止〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。事畢。賜大使副使御服。賜前入唐大使藤原河清書曰。汝奉使絶域。久經年序。忠誠遠著。消息有聞。故今因聘使。便命迎之。仍賜絁一百匹。細布一百端。砂金大一百兩。宜能努力。共使歸朝。相見非賖。指不多及。丙子。授正四位下飯高宿祢諸高從三位。從五位上因幡國造淨成女。壬生宿祢小家主並正五位下。正六位上雀部朝臣廣持從五位下。
四月一日に日蝕が起起こっている。十二日に次のように勅されている・・・天地の神を祭るのは國の大いなる決まりである。もしも真心をもって敬わないならば、どうして福を招くことができようか。聞くところによると、諸社は管理しないために、人間や家畜が壊したり汚したりしており、春秋の祭りも多くは怠ってやらないという、こために、目出度いしるしは現れず、災異がしきりに起こっている。そこで、このことを思って、深く恥じ恐れている。諸國に命じて二度とこのようなことがないようにせよ・・・。
十五日に前殿に出御されて、遣唐使に節刀を賜り、次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉として唐國に派遣する使人に仰せになる御言葉を承れと申し渡す。今仰せなるに、佐伯宿祢今毛人と大伴宿祢益立よ、今汝達二人を唐國に派遣するが、これは今初めてのことではない。以前から朝廷の使者をかの國に派遣し、かの國からも使者を進めて来ている。このために使者を遣わす順序として派遣するものであるぞ。この趣旨を悟って、唐國の人々が和やかに安らぐよう話し合え。驚かせるような振舞いをしてはならない。また派遣する使者のうち、判官以下の者が死罪以下の罪を犯したならば、その罪に従って執行せよ。そのために節刀を与える、と仰せになる御言葉を承れと申し渡す・・・。事が終わって、大使・副使に天皇の服を賜っている。
また、前の入唐大使の藤原河清(清河)に、次のような書を賜っている・・・汝は遠く隔たった地に使者として行ってから、長い年月が過ぎてしまった。忠誠は、はるかに明らかになっており、消息も伝わっている。それゆえ、今訪れる使者があるので、それに命じて汝を迎えさせる。そこで絁百匹・細布百端・砂金大百両を与える。なんとか努力して使者と共に帰朝するように。会うのは、はるか先のことではないであろう。この書では多くは述べない・・・。