2024年3月14日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(17) 〔668〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(17)


寶龜七(西暦776年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

五月戊子。出羽國志波村賊叛逆。与國相戰。官軍不利。發下総下野常陸等國騎兵伐之。戊戌。以近江介從五位上佐伯宿祢久良麻呂爲兼陸奥鎭守權副將軍。己亥。散事從四位下佐味朝臣宮卒。庚子。正六位上後部石嶋等六人賜姓出水連。戊申。授无位公子乎刀自外從五位下。乙夘。大祓。以災變屡見也。丙辰。屈僧六百。讀大般若經於宮中及朝堂。

五月二日に「出羽國志波村」の賊が叛逆して出羽國と戦い、官軍に不利であった。そこで下総・下野・常陸などの國の騎兵を徴発して賊を討伐させている。十二日に近江介の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に陸奥鎮守の権副将軍を兼任させている。十三日に散事の「佐味朝臣宮」(宮守?)が亡くなっている。

十四日に「後部石嶋」等六人に「出水連」の氏姓を与えている。二十二日に公子乎刀自(吉弥侯根麻呂に併記)に外従五位下を授けている。二十九日に大祓を行っている。災害や変異がしばしば現れたためである。三十日に僧六百人を招いて朝堂で『大般若経』を読ませている。

<出羽國志波村・膽澤>
出羽國志波村

直近では、陸奥國遠山村の蝦夷討伐の記述があった。険しい山奥に棲息していて、難攻不落であったが、漸く退治することができて、天皇が大喜びされたと記載されていた。

陸奥國に隣接する出羽國も山また山の山岳地帯が大半を占める地形であり、帰順したかと思っていても、いつ何時反逆するかもしれない状況であったようである。

関連する情報もなく、「志波」の文字列が示す地形から、村の場所を突止めてみよう。頻出の文字列である志波=蛇行する川辺に覆い被さるように山稜が延び広がっているところと読み解ける。図に示した場所に、その地形を見出せる。

当初は陸奥國の属していた置賜郡の谷奥、黒川郡と呼ばれた地域にあった村であることが解る。”赤雪”の降る豪雪地帯であるとも記載されていた。隈なく統治することの難しが伺える記事と思われる。

直後に、また賊の拠点が膽澤にあったと記載されている。膽澤=大きく広がった山稜が延びている谷間の水辺に丸く小高い地が並んでいるところと解釈される。現在の戸ノ上山を「膽」で表していることが解る。前出の吉弥侯部大町の谷間の奥に当たる場所と推定される。

<後部石嶋(出水連)>
● 後部石嶋

淳仁天皇紀に高麗の後部から渡来した人々を武藏國高麗郡に入植させ、新たな氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

現在は小倉池という広大な貯水池になっているが、今昔マップ1922~6を参照しても既に池となっていて、耕地・宅地としての発展は早期に放棄されたのかもしれない。

今回の登場の人物には、「王・高」の姓らしきものが付加されておらず、前回の系列とは若干異なるものだったようである。これも貴重な情報であり、近隣ではあるが、少し離れた場所が居処だったと推測される。

頻出の文字列である石嶋=山麓の小高い地が鳥のようになっているところと解釈すると、その少し離れた居処と推定される。賜った出水連は、急流の川が流れる場所を表しているのであろう。

六月庚申。太白晝見。癸亥。播磨國戸五十烟捨招提寺。甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。己巳。參議從三位大藏卿兼攝津大夫藤原朝臣楓麻呂薨。平城朝贈太政大臣房前之第七子也。壬申。右京大夫從四位下百濟王理伯卒。癸酉。授无位坂本王從五位下。甲戌。大祓京師及畿内諸國。奉黒毛馬丹生川上神。旱也。

六月四日に太白(金星)が昼間に見えている。七日に播磨國の五十戸を招提寺に喜捨している。八日に近衛で大初位下の「粟人道足」に粟直の氏姓を与えている。十三日に参議・大藏卿兼攝津大夫の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)が亡くなっている。房前の第七子であった。

十六日に右京大夫の百濟王理伯()が亡くなっている。十七日に坂本王(秋野王に併記)に従五位下を授けている。十八日に京と畿内諸國で大祓をさせ、黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。

<粟人道足>
● 粟人道足

近衛に出仕する官人であるが、無姓の上に爵位も低く、庶民の部類に入る人物を取り上げた記述であろう。阿波國の粟凡直に関わるかと錯覚するが、調べると、和泉國に出自を持つ一族だったようである。

名前が表す地形は、粟人=粟のようにしなやかに曲がって延びる山稜の傍らで谷間が広がり延びているところと解釈される。

図に示した場所に、その地形を見出せる。道足=足のように二つに岐れた山稜の先に首の付け根のような地があるところと読み解ける。既に幾度か述べたように、この地は大きく地形が変形していて、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、出自の場所を確認した。氏名が表す地形を図に示したところに見出すことができる。

賜った粟直の氏姓で、この後に登場されることはなく、消息は不明である。續紀の記述は、谷間一つ一つに人を貼付けるかのように感じられる。挫けずお付き合い、である。

秋七月丁亥。從四位下置始女王卒。壬辰。參議正四位上陸奥按察使兼鎭守將軍勳三等大伴宿祢駿河麻呂卒。贈從三位。賻絁卅疋。布一百端。己亥。令造安房。上総。下総。常陸四國船五十隻。置陸奥國以備不虞。庚子。以從五位下石川朝臣人麻呂爲大和検税使。從五位下多治比眞人乙安爲河内和泉使。從五位下息長眞人道足爲攝津山背使。甲辰。震西大寺西塔。丙午。以從五位下上毛野朝臣馬長爲出羽守。

七月二日に置始女王が亡くなっている。七日に参議の陸奥按察使兼鎮守将軍・勲三等の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)が亡くなっている。従三位を追贈し、絁三十匹・麻布百端を贈っている。十四日に安房・上総・下総・常陸の四國に船五十隻を建造させ、陸奥國に配置させている。不慮の事態に備えるためである。

十五日に石川朝臣人麻呂を大和検税使、多治比眞人乙安を河内・和泉検税使、息長眞人道足(廣庭に併記)を攝津・山背検税使に任じている。十九日に西大寺の西塔が被雷している<四年余前の寶龜三(772)年四月にも同様の記事あり>。二十一日に上毛野朝臣馬長を出羽守に任じている。

八月丙辰朔。遣使奉幣於天下群神。其天下諸社之祝。不勤洒掃。以致蕪穢者。收其位記。与替。癸亥。山背國乙訓郡人外從五位下羽栗翼賜姓臣。戊辰。大風。庚午。天下諸國蝗。畿内者遣使巡視。餘者令國司行事。壬午。授正五位上石川朝臣豊人從四位下。

八月一日に使者を派遣して天下の群神に幣帛を奉らせている。天下の諸社の祝で、相似をしないで荒れ汚されたものは、その位記を没収して替わりのものに与え祝としている。八日に山背國乙訓郡の人である羽栗翼に臣姓を与えている。十三日に大風が吹いている。十五日、天下の諸國で蝗の害があり、畿内には使者を派遣して視察させ、その他は國司に対処させている。二十七日に石川朝臣豊人に従四位下を授けている。

閏八月庚寅。先是。遣唐使船到肥前國松浦郡合蚕田浦。積月餘日。不得信風。既入秋節。弥違水候。乃引還於博多大津。奏上曰。今既入於秋節。逆風日扇。臣等望。待來年夏月。庶得渡海。是日勅。後年發期一依來奏。其使及水手並宜在彼待期進途。甲辰。以右大舍人頭從四位下神王爲兼下総守。彈正尹從四位下藤原朝臣弟繩爲兼美作守。壬子。丹後國与謝郡人采女部宅刀自女一産三男。賜粮及乳母粮料。」壹伎嶋風。損苗子。免當年調。

閏八月六日、これより以前に、遣唐使船は「肥前松浦郡合蚕田浦」に到着した。月日を過ごして来たが、順風が吹かなかった。既に季節は秋に入り、益々航海する時期ではなくなった。そこで博多大津に引き返して、以下のように奏上している・・・今、季節は既に秋に入り、逆風が日々吹いている。私共は、来年の夏まで待ってから渡海させて頂きたく思う・・・。この日、次のように勅されている・・・来年の出発の時期は奏上の通りとせよ。使者と水手は共にそこにいて、時期を待って出発せよ・・・。

二十日に右大舎人頭の神王()を下総守、弾正尹の藤原朝臣弟繩(乙縄。縄麻呂に併記)を美作守に兼任させている。二十八日に「丹後國与謝郡」の人である「采女部宅刀自女」が、一度に三人の男子を産み、乳母も含めて食料を与えている。また、壹伎嶋で大風が吹いて苗を傷めたため今年の調を免除している。

<肥前國松浦郡:合蚕田浦・橘浦>
肥前國松浦郡:合蚕田浦

またもや遣唐使船の航路問題であろう。今回は出発時に風向きが悪く、博多大津に一旦引き返して翌年まで待機したと記載されている。

その折り返した場所が「肥前國松浦郡」であったと述べられている。当郡は、既に登場していて、現在の宗像市野坂辺りと推定した(こちら参照)。

この地は、宗形の内陸部の奥深い場所であり、遣唐使船の通常の航路からは、大きく外れている。更にそこから引き返して「博多大津」に向かうという配置ではあり得ない。

「博多大津」から西側で、いよいよ大海へ船出する場所の筈であり、その地を「肥前國松浦郡」と・・・現在の地図そのものであろう。ならば、既に国譲りされた後なのか?…いや、まだまだその時を迎えていない。では何故?・・・上図に示したように「肥前國松浦郡」が表す地形、そのものが存在するのである。

肥前=渦巻くように盛り上がった地の前にあるところであり、「肥」は現在の経ヶ嶽(岳)・多良岳を示し、東松浦半島の地形を「松」で表していることが解る。幾度か述べたように、地名は固有ではなく、地形を表すものであり、同じ名称となっても何ら差支えがない、としているのである。図から分かるように、ここでは”肥後國”は存在しないことになる(島原は”半島”ではなく”島”)。

<合蚕田浦・橘浦>

風待ちの場所を合蚕田浦と記載している。その場所を半島の先端部に見出すことができる。この名称に含まれる「蚕」の文字は、極めて希少であろう。あらためて読み解くと「蚕」=「天+虫」と分解される。いわゆる「天」=「一+大」=「一様に平らな様」と解釈する。古事記のように「天=阿麻」と読むこともできる。

頻出の「虫(蟲)」=「山稜の端が三つに岐れている様」である。纏めると合蚕田=一様に平らに(天)整えられて(田)三つに岐れた(蟲)山稜の端が出合っているところと解釈される。現在の名護屋浦である。天然の湊であろう。現地名は唐津市呼子町と鎮西町の端境である。東松浦半島は、壱岐島と同様の溶岩台地、正に「高天原」なのである。

少し後にもう一つの松浦郡における遣唐使船停泊場所として橘浦が登場する。古事記が記す橘=[橘]の木のように多くの谷間が集まっている様と解釈した(登岐士玖能迦玖能木實)。その地形を図に示した場所に見出せる。現地名は東松浦郡玄海町の仮屋湾である。正に”古事記尽くし”の記述と気付かされる。

――――✯――――✯――――✯――――

余談だが・・・名護屋浦は秀吉の朝鮮出兵の拠点であったと知られている(名護屋城博物館)。信長の死後、天下統一を果たした秀吉が、ほどなくして明を征服する野望を抱いたと言われている。そもそも、この構想は信長が抱いていたもので、それを生真面目に引き継いだのが秀吉であったとも言われている。

この遠大な着想の理由は、未だに明らかではなく、隣国征服という負の歴史故か、表立って語られることが少ないように感じられる。ただ、この地の遺跡群の広大さは、単なる野望として片付けるわけにもいかず、不明のまま今日に至っているようである。

本著が解き明かして来た日本人のルーツ、揚子江流域の倭人が中国王朝の支配を逃れ、流れ流れて行き着いたのが日本であった。信長や秀吉、天下統一の諸大名等は、己のルーツを求める戦いを行ったのではなかろうか。おそらく側近に本著のような解読を行った人物が存在していたのであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

<丹後國与謝郡:采女部宅刀自女>
丹後國与謝郡

丹後國与謝郡は、郡名としても初見の名称である。丹波國から分割して建國されたのが、元明天皇紀の和銅六(713)年であったから六十年以上も前であった。

その後、飢饉発生及び配流地として記載される以外には登場していなかった。勿論、この地を出自とする人材も登用されることがなかったわけである。

古事記での賑わいは、見る影もなく衰退して過疎化の一途を辿ったような感じである。そんな状況の中での多産褒賞の記事と伺える様相である。

与謝郡の「謝」=「言+身+寸」=「弓なりに曲がった山稜の前で耕地が広がっている様」と解釈する。「与」=「噛み合っている様」であり、纏めると与謝=二つの山稜が噛み合うように並んだ地に耕地が弓なりに広がっているところと読み解ける。図に示した場所がその地形を表していることが解る。

● 采女部宅刀自女 既出の采女=隙間のような谷間が嫋やかに曲がって延びているところであり、その地形を北側の「謝」の東に見出せる。宅刀自=谷間に山稜が延び広がった端に刀の形の地があるところと解釈すると、この人物の出自の場所を求めることができる。

尚、「与謝郡」について若干補足すると、元明天皇紀の本文は「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國」である。この與佐郡が上記の「与謝郡」に該当とするのが通説のようである。史書を読んでは、全く見当違いになるのである。「佐」と「謝」は、似ても似つかない場所を表している。丹波國を郡に分割して丹後國に属させると都合が良かった?・・・”丹後國丹波郡”が誕生するが、如何せん?・・・。

九月甲子。以宮内卿正四位下大伴宿祢伯麻呂爲兼越前守。丁夘。陸奥國俘囚三百九十五人分配大宰管内諸國。庚午。始置越前國氣比神宮司。准從八位官。甲戌。幸大藏省。賜陪從五位已上祿。並皆盡重而出。庚辰。山邊眞人何鹿。山邊眞人猪名。並復属籍。九月是月。毎夜。瓦石及塊自落内豎曹司及京中往往屋上。明而視之。其物見在。經廿餘日乃止。

九月十日に宮内卿の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に越前守を兼任させている。十三日に陸奥國の帰順した蝦夷三百九十五人を、大宰府管轄下の諸國に分配している。十六日に初めて越前國の氣比神宮司を置き、従八位の官に准じることとしている。二十日に大蔵省に行幸され、付随った者のうち五位以上に禄を与えている。それぞれ皆大そう手厚く支出している。

二十六日に山邊眞人何鹿・山邊眞人猪名()を元の皇籍に戻している。この月、每夜瓦・石や土くれが、内竪の庁舎や京中のあちこちの屋根の上に自然に落ちて来た。翌朝見てみると、物は現実に存在していた。これは二十日余り続いて止んでいる。

冬十月壬辰。美濃國菅田驛。与飛騨國大野郡伴有驛。相去七十四里。巖谷險深。行程殊遠。其中間量置一驛。名曰下留。癸巳。地震。乙未。陸奥國頻經征戰。百姓彫弊。免當年田租。乙巳。授從六位上栗前連枝女外從五位下。丁未。以參議從三位藤原朝臣田麻呂爲攝津大夫。

十月八日に「美濃國菅田驛」と「飛騨國大野郡伴有驛」とは、距離が七十四里も離れている。岩の多い谷が険しく深く、行程は特に遠い。そこで中間に適当な間隔を見計らって驛を一つ置き、「下留驛」と名付けている。九日に地震が起こっている。十一日に陸奥國では討伐の戦いがしきりにあり、人民が疲弊し、今年の田租を免除している。二十一日に栗前連枝女(廣耳に併記)に外従五位下を授けている。二十三日に参議の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に攝津大夫を兼任させている。

美濃國菅田驛・飛騨國大野郡伴有驛・下留驛

美濃國菅田驛・飛騨國大野郡伴有驛

「美濃國」と「飛騨國」にある二つ驛が遠く離れていたので、途中にもう一つ驛を設けたと述べている。現地名で記すと、「美濃國」は北九州市小倉南区貫辺り、飛騨國は同市門司区黒川西辺りと推定した。全く意味不明の記述であろう。途中に多くの國があり、驛も豊富に設置されていた。勿論、「飛騨國」の名称が地形象形表記であって、國名ではないのである。

先ずは美濃國菅田驛の場所を突止めてみよう。菅田=山稜に挟まれた管のような谷間が延びているところと解釈される。「驛」である以上、山稜の端に設けられていたとすると、図に示した場所が見出せる。以前にも述べたように、この地は海辺に面する場所である。

さて、問題の飛騨國大野郡伴有驛、郡名まで付加された、何とも御大層な表記なのであるが、返ってそれがわざとらしい表記であることを示しているようである。既出の飛騨=鳥が羽を広げたように山稜が延びている地に平らな高台があるところと解釈される。その地形は尾張國の丹羽臣尾治連の居処と推定した近傍を表していることが解る。

「騨」=「馬+単」=「高台が平らになっている様」と解釈したが、「馬が平らになっている様」と解釈することもできる。図に示したように、平らな山稜が「馬」の古文字形をしていると見做すことができるのである。續紀編者の戯れであろうが、見事に地形を表している。

大野=平らな頂の山稜の麓に野が広がっているところであり、念押しの表記、些か悪乗りの感があるが・・・伴有驛伴有=谷間に切り分けられた山稜が右手のように延びて端に三角州があるところと読み解ける。谷間の出口辺りの地形を表していることが解る。

<下留驛>
その中間の地に設けられた驛を下留驛と名付けている。勿論、立派な地形象形表記であろう。下留=[下]の文字形の地の隙間から山稜が滑り出ているところと読み解ける。

その地形を図に示した場所に見出せる。現地名は北九州市小倉南区津田辺りと推定される。直近で賢璟法師の出自場所とした近隣である。

「其中間量置一驛。名曰下留」と記載するだけにあって、巧みな表記であろう。この地も海辺に面していて、谷間が入組んだ地形であったと推測される。

「伴有驛」と「下留驛」の距離は、直線でおよそ2.3km、「下留驛」と「菅田驛」とはおよそ2.0kmと計測される。本文では、総距離74里と記載されている。一里=0.06kmとすると、それぞれ38.3里、33.3里となって総距離およそ72里と求められる。通説では、”下留”→”下呂”とされている。”飛騨”と”下呂”とはおよそ50km離れているが、一里=4kmあるいは0.5kmとしても配置上の齟齬は否めないようである。

また、本文中に「下留驛」の國名が記載されていない。”尾張國下留驛”とは、口が裂けても言えなかったであろう。”尾張國伴有驛”は、何とか”遣り繰り”できたが・・・「尾張國」と「美濃國」、巨大な入江(現在の濃尾平野)で隔離された地である。戯れたふりをせずには、真面に記述できなかったのである。

十一月丙辰。地震。己巳。遣唐大使佐伯宿祢今毛人自大宰還而進節刀。副使大伴宿祢益立。判官海上眞人三狩等。留府待期。時人善之。庚辰。發陸奥軍三千人伐膽澤賊。癸未。出羽國俘囚三百五十八人配大宰管内及讃岐國。其七十八人班賜諸司及參議已上爲賎。

十一月二日に地震が起こっている。十五日に遣唐大使の佐伯宿祢今毛人が大宰府から帰って節刀を返している。副使の大伴宿祢益立と判官の海上眞人三狩(三狩王)等は大宰府に留まって時期を待っている。世間の人々は、この副使等の態度をよしとしている。

二十六日に陸奥國の軍三千人を動員して、膽澤(志波村に併記)の賊を討伐させている。二十九日に出羽國の帰順した蝦夷三百吾十八人を大宰府管轄地域と讃岐國に移住させている。同じく七十八人は、諸官司や参議以上に分配して賜り、賤民としている。

十二月丁酉。停遣唐副使大伴宿祢益立。以左中弁兼中衛中將鑄錢長官從五位上小野朝臣石根。備中守從五位下大神朝臣末足並爲副使。」募陸奥國諸郡百姓戍奥郡者。便即占著。給復三年。乙巳。渤海國遣獻可大夫司賓少令開國男史都蒙等一百八十七人。賀我即位。并赴彼國王妃之喪。比着我岸。忽遭惡風。柁折帆落。漂沒者多。計其全存。僅有卌六人。便於越前國加賀郡安置供給。戊申。左京人從六位下秦忌寸長野等廿二人賜姓奈良忌寸。山背國葛野郡人秦忌寸箕造等九十七人朝原忌寸。庚戌。豊前國京都人正六位上楉田勝愛比賜姓大神楉田朝臣。左京人少初位上蓋田蓑長丘連。

十二月十四日に遣唐副使の大伴宿祢益立を解任し、左中弁・中衛中将・鋳銭長官の小野朝臣石根と備中守の大神朝臣末足の二人を任じている。陸奥國の各郡に人々から、奥地の郡の守りに就く者を募り、すぐさま定借させるとともに租税負担を三年間免除することとしている。

二十二日に渤海國が献可大夫・司賓少令・開國男の史都蒙等百八十七人を派遣して、天皇の即位を祝い、併せてかの國の王妃の喪を伝えて来ている。到着するところになってにわかに暴風に遭い。舵は折れ帆は吹き落とされて、溺死した者が多かった。無事生存している者の数を勘定すると、わずかに四十六人であった。そこで彼等を越前國加賀郡に丁重に収容して、衣食その他の必要物を与えている。

二十五日に左京の人である「秦忌寸長野」等二十二人に「奈良忌寸」の氏姓を、山背國葛野郡の人である「秦忌寸箕造」等九十七人には「朝原忌寸」の氏姓を与えている。二十七日に豊前國京都郡の人である「楉田勝愛比」に「大神楉田朝臣」の氏姓を、左京の人である「蓋田蓑」には「長丘連」の氏姓を与えている。

<秦忌寸長野・蓋田蓑>
● 秦忌寸長野・蓋田蓑

「秦忌寸」とくれば、山背國葛野郡の人物かと思いきや、左京人と記載されている。出自が”葛野”で現住所が”左京”とする場合も考えられるが、このまま素直に”左京”で居処を求めてみよう。

秦=艸+屯+禾=二つの稲穂のような山稜が並んで延びている様長野=野が長く延びている様、また、賜った奈良忌寸奈良=平らな高台がなだらかに延びているところの地形象形表記を併せて、図に示した場所が、これらの地形を満足していることが解る。

壹難乙麻呂(淨上連)の東隣である。後に「奈良忌寸長野」として幾度か任官記事が記載され、爵位も外従五位下を叙爵されている。

同じく左京人の蓋田蓑蓋田=蓋をするように田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。書紀の孝徳天皇紀に登場した室原首御田の谷間に蓋をしているように見える地形であろう。蓑=艸+衰=山稜の端が細く尖っている様と解釈すると、出自場所を求めることができる。賜姓の長丘連は、その山稜を表したものであろう。

尚、「長丘連」は聖武天皇紀に嬪難大足に賜った氏姓であった。居処は大倭國葛下郡(現地名:田川郡福智町弁城)と推定したが、単に重なった賜姓なのか、ひょっとすると同族だったのかもしれない。續紀中、この後に登場されることはないようである。

<秦忌寸箕造>
● 秦忌寸箕造

今度は、正真正銘の葛野の「秦忌寸」と記載されている。と言っても、直近では智麻呂・伊波太氣(石竹)等の居処を含めて葛野は些か広範囲な土地である。

名前を頼りにしようかとしたが、賜姓の朝原忌寸が重要な情報を与えてくれていたようである。「朝」の文字は、朝元・朝慶の兄弟に用いられていた。

即ち朝原=山稜の端に挟まれた丸く小高くなって地の麓の平らに広がったところと解釈される。図に示した「朝」の西側の谷間が広がった場所を表していると思われる。

名前の箕造=[箕]の形をした山稜の端に牛の頭部のような地があるところと読み解ける。ぞの地形を図に示した場所に見出せる。後に「朝原忌寸」の氏姓の人物が登場するが、その時に出自場所を求めることにする。

<楉田勝愛比>
● 楉田勝愛比

「楉田」(無姓)については、聖武天皇紀に勃発した『廣嗣の乱』に登場していた。豊前國京都郡の大領を務めていた勢麻呂が兵を率いて官軍に帰順し、その後に外従五位下を叙爵されたと記載されていた。

今回登場の人物は、多分、その一族であり、居処も近隣と思われる。無姓ではなく「勝」姓(こちら参照)が付加されている。「勝」は盛り上がった地があちこちにあることから、姓の表記に用いたのであろう。

現地名の京都郡みやこ町犀川上高屋あたりである。「大神朝臣」の北側に当たる場所となる。全くの古事記風の名前である愛比=両足を大きく広げて延び切ったような山稜(愛)が並んでいる(比)ところと解釈される。

「勢麻呂」の北隣に当たる場所が出自と推定される。ここでは大神楉田朝臣の氏姓を賜り、後に外従五位下を叙爵されいている。