2024年3月21日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(18) 〔669〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(18)


寶龜八(西暦777年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

八年春正月甲寅朔。宴五位已上於前殿。賜祿有差。丙辰。以内臣從二位藤原朝臣良繼爲内大臣。遣唐副使左中弁從五位上小野朝臣石根爲兼播磨守。丁巳。授正三位藤原朝臣魚名從二位。正六位上藤原朝臣長河。紀朝臣宮人並從五位下。戊午。左京人從七位上田邊史廣本等五十四人賜姓上毛野公。庚申。授從四位下鴨王從四位上。從五位上三方王正五位下。從五位下東方王。山邊王。田中王並從五位上。正四位下藤原朝臣是公正四位上。從四位下大伴宿祢家持。石上朝臣息嗣並從四位上。正五位上藤原朝臣雄依。大中臣朝臣子老並從四位下。正五位下甘南備眞人伊香。榎井朝臣子祖並正五位上。從五位上大原眞人繼麻呂。大伴宿祢不破麻呂並正五位下。從五位下田口朝臣大戸。上毛野朝臣馬長。石川朝臣人麻呂並從五位上。外從五位下大和宿祢西麻呂。正六位上文室眞人久賀麻呂。爲奈眞人豊人。田口朝臣祖人。百濟王仁貞。紀朝臣豊庭。佐味朝臣山守。下毛野朝臣船足。波多朝臣百足。車持朝臣諸成。笠朝臣望足。縣犬養宿祢伯。當麻眞人枚人。高橋朝臣祖麻呂並從五位下。正六位上膳臣大丘外從五位下。癸亥。授從五位上藤原朝臣種繼正五位下。正六位上大伴宿祢眞綱。外正六位上中臣丸朝臣馬主並從五位下。正四位上藤原朝臣曹子從三位。從四位上伊福部女王正四位上。正五位下紀朝臣宮子。從五位上平群朝臣邑刀自。藤原朝臣産子。藤原朝臣教貴。藤原朝臣諸姉並從四位下。正五位下文室眞人布止伎。藤原朝臣人數並正五位上。從五位下和氣朝臣廣虫。大野朝臣姉並從五位上。外從五位下足羽臣黒葛。金刺舍人連若嶋。水海連淨成並從五位下。正六位上紀臣眞吉。岡上連綱。從七位上中臣葛野連廣江。正六位上忍海倉連甑。從六位下豊田造信女並外從五位下。己巳。宴次侍從巳上於前殿。其餘者於朝堂賜饗。癸酉。遣使問渤海使史都蒙等曰。去寳龜四年。烏須弗歸本蕃日。太政官處分。渤海入朝使。自今以後。宜依古例向大宰府。不得取北路來。而今違此約束。其事如何。對曰。烏須弗來歸之日。實承此旨。由是。都蒙等發自弊邑南海府吐号浦。西指對馬嶋竹室之津。而海中遭風。著此禁境。失約之罪。更無所避。甲戌。從三位飯高宿祢諸高。年登八十。勅賜絁八十疋。絲八十絇。調布八十端。庸布八十段。戊寅。以從四位下大中臣朝臣子老爲神祗伯。從五位下藤原朝臣大繼爲少納言。從五位下池田朝臣眞枚爲員外少納言。主計頭從五位下池原公禾守爲兼大外記。正五位上大伴宿祢益立爲權左中弁。從五位上菅生王爲中務大輔。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲少輔。從五位下賀茂朝臣麻呂爲員外少輔。從五位上文室眞人高嶋爲内匠頭。正五位下田口朝臣祖人爲内礼正。從五位下藤原朝臣眞葛爲大學頭。外從五位下膳臣大丘爲博士。從五位下美和眞人土生爲散位頭。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲主税頭。從五位下藤原朝臣菅繼爲兵部少輔。從五位下下毛野朝臣船足爲鼓吹正。正五位上淡海眞人三船爲大判事。正五位下大伴宿祢不破麻呂爲大藏大輔。從五位下紀朝臣犬養爲少輔。外從五位下陽侯忌寸人麻呂爲東市正。從四位下石川朝臣垣守爲右京大夫。從五位下多治比眞人歳主爲攝津亮。從五位上藤原朝臣鷲取爲造宮大輔。從五位下文室眞人子老爲少輔。從五位下大野朝臣石主爲和泉守。從五位上石川朝臣人麻呂爲伊豆守。從五位下藤原朝臣黒麻呂爲上総守。從五位下大伴宿祢眞綱爲陸奥介。從五位下文室眞人於保爲若狹守。内藥佑外從五位下吉田連斐太麻呂爲兼伯耆介。從五位下大原眞人美氣爲美作介。外從五位下堅部使主人主爲備前介。外從五位下橘戸高志麻呂爲備後介。從五位下多治比眞人黒麻呂爲周防守。從五位下大中臣朝臣宿奈麻呂爲阿波守。近衛少將從五位上紀朝臣船守爲兼土左守。從五位下藤原朝臣仲繼爲大宰少貳。己夘。從五位下紀朝臣眞乙爲左兵衛員外佐。庚辰。從五位上美和眞人土生爲員外左少弁。從五位下當麻眞人枚人爲右大舍人助。正五位上船井王爲縫殿頭。從五位下安倍朝臣常嶋爲治部少輔。正五位下石城王爲造酒正。從五位下百濟王玄鏡爲石見守。 

正月一日に五位以上の官人と前殿で宴会を行い、それぞれに禄を賜っている。三日に内臣の藤原朝臣良繼を内大臣に任じ、遣唐副使・左中弁の小野朝臣石根に播磨守を兼任させている。四日、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に従二位、藤原朝臣長河()・紀朝臣宮人(宮子に併記)に従五位下を授けている。五日に左京の人である田邊史廣本(息麻呂に併記)等五十四人に「上毛野公」の氏姓を与えている。

七日に鴨王()に從四位上、三方王(三形王)に正五位下、東方王()・山邊王()・田中王()に從五位上、藤原朝臣是公(黒麻呂)に正四位上、大伴宿祢家持石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)に從四位上、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)大中臣朝臣子老に從四位下、甘南備眞人伊香(伊香王)榎井朝臣子祖(小祖父)に正五位上、大原眞人繼麻呂(今木に併記)大伴宿祢不破麻呂に正五位下、田口朝臣大戸上毛野朝臣馬長石川朝臣人麻呂に從五位上、大和宿祢西麻呂(弟守に併記)・「文室眞人久賀麻呂」・爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)・「田口朝臣祖人」・百濟王仁貞(①-)・紀朝臣豊庭(豊賣に併記)・佐味朝臣山守(眞宮に併記)・下毛野朝臣船足(足麻呂に併記)・波多朝臣百足(八多朝臣百嶋に併記)・「車持朝臣諸成」・笠朝臣望足(始に併記)・縣犬養宿祢伯(酒女に併記)・「當麻眞人枚人・高橋朝臣祖麻呂」に從五位下、膳臣大丘に外從五位下を授けている。

十日に藤原朝臣種繼(藥子に併記)に正五位下、「大伴宿祢眞綱・中臣丸朝臣馬主」に從五位下、藤原朝臣曹子(巨曾子)に從三位、伊福部女王(元明天皇紀に卒された女王とは別人)に正四位上、紀朝臣宮子平群朝臣邑刀自藤原朝臣産子藤原朝臣教貴(綿手に併記)・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に從四位下、文室眞人布止伎(布登吉。長谷眞人於保に併記)・藤原朝臣人數に正五位上、和氣朝臣廣虫大野朝臣姉(石主に併記)に從五位上、足羽臣黒葛(眞橋に併記)・金刺舍人連若嶋水海連淨成に從五位下、紀臣眞吉(紀朝臣大純に併記)・岡上連綱(刀利甲斐麻呂に併記)・中臣葛野連廣江(飯麻呂に併記)・「忍海倉連甑」・豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

十六日に次侍従以上と前殿で宴会を行っている。それ以外の者には朝堂で酒食を賜っている。二十日に使者を派遣して渤海使の史都蒙等に以下のように質問させている・・・去る寶龜四年、烏須弗が帰るに際して、太政官は[渤海から入朝する使者は、今後は昔の例に依って、先ず大宰府に向かうようにせよ。「北路」経由で来日してはいけない]という処分を下した。ところが今回はこの約束と違っている。これはどういう事情によるのか・・・。

これに対して以下のように答えている・・・烏須弗等が帰った時、確かにその旨を承った。そこで都蒙等は我が國の南海府吐号浦から出帆して、西方に向かい對馬嶋の「竹室之津」を目指した。しかし、海上で暴風に遭い、この禁じられた地域に着いてしまった。約束を破った罪は、少しも避けようとは思わない・・・。

二十一日に飯高宿祢諸高(笠目)は、年齢が八十歳に達している。勅されて、絁八十匹・絹糸八十絇・調の麻布八十端・庸の麻布八十段を賜っている。

二十五日に大中臣朝臣子老を神祗伯、「藤原朝臣大繼」を少納言、池田朝臣眞枚(足繼に併記)を員外少納言、主計頭の池原公禾守を兼務で大外記、大伴宿祢益立を權左中弁、菅生王を中務大輔、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を少輔、賀茂朝臣麻呂(人麻呂)を員外少輔、文室眞人高嶋(高嶋王)を内匠頭、「田口朝臣祖人」を内礼正、藤原朝臣眞葛()を大學頭、膳臣大丘を博士、美和眞人土生(壬生王)を散位頭、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を主税頭、藤原朝臣菅繼を兵部少輔、「下毛野朝臣船足」を鼓吹正、淡海眞人三船を大判事、大伴宿祢不破麻呂を大藏大輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を少輔、陽侯忌寸人麻呂(陽侯史)を東市正、石川朝臣垣守を右京大夫、多治比眞人歳主を攝津亮、藤原朝臣鷲取()を造宮大輔、文室眞人子老(於保に併記)を少輔、大野朝臣石主を和泉守、石川朝臣人麻呂を伊豆守、藤原朝臣黒麻呂()を上総守、「大伴宿祢眞綱」を陸奥介、文室眞人於保(長谷眞人)を若狹守、内藥佑の吉田連斐太麻呂を兼務で伯耆介、大原眞人美氣を美作介、堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を備前介、橘戸高志麻呂(橘部越麻呂)を備後介、多治比眞人黒麻呂を周防守、大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)を阿波守、近衛少將の紀朝臣船守を兼務で土左守、藤原朝臣仲繼(藥子に併記)を大宰少貳に任じている。

二十六日に紀朝臣眞乙を左兵衛員外佐に任じている。二十七日に美和眞人土生(壬生王)を員外左少弁、「當麻眞人枚人」を右大舍人助、船井王を縫殿頭、安倍朝臣常嶋を治部少輔、石城王()を造酒正、百濟王玄鏡(①-)を石見守に任じている。 

<文室眞人久賀麻呂-八嶋>
● 文室眞人久賀麻呂

恒例の元日叙位で多くの新人が登場している。その一人に文室眞人大市(大市王、長皇子の子)の係累が含まれていた。それにしても実に多くの子に恵まれたようである。

Wikipediaによると、生母不詳の子が多く、大概が異母兄弟姉妹だったのであろう。末っ子の「八嶋」は、未だ登場されていないが、併せて出自場所を求めることにする。

久賀麻呂久賀=[く]の字形に曲がって延びる山稜が谷間を押し開いているところと解釈される。図に示した場所の地形を表していることが解る。「布登吉」と「於保」の間に収まっている。

文室眞人八嶋は、寶龜九(778)年正月に従五位下を叙爵されて登場する。兄より一年遅れである。八嶋=山稜が大きく岐れた谷間に鳥の形の地があるところと解釈される。少し南に寄った場所が出自と思われる。「八嶋」は、古事記の八嶋士奴美神に用いられた文字列である。

<田口朝臣祖人-大立-清麻呂>
● 田口朝臣祖人

「田口朝臣」一族も途切れることなく、新人を登用されている。紛れもなく蘇我臣を祖とする系列である。上記で従五位上に叙爵されている大戸は、その奔流に属する人物だったように思われる。

今回登場の祖人に含まれる祖(祖)=示+且=高台が積み重ねられている様であり、紛うことなく上流域、即ち山側の地域を出自としていたものと思われる。

その地形を図に示した場所に見出せる。既出の三田次の北側に位置する場所である。「三田次」は初見で外従五位下であったが、聖武天皇紀における叱咤激励の外位であったと推測される。後に二度ばかり任官の記述があって登場されるが、その後の消息は不明である。

後(桓武天皇紀)に田口朝臣大立田口朝臣清麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。大立=平らな頂の山稜が並んで延びているところ淸=水辺で四角く取り囲まれた様と解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。「大立」はその場限り、「清麻呂」はその後京官に任官されたと記載されているが、以後の消息は不明である。

<車持朝臣諸成>
● 車持朝臣諸成

「車持朝臣」一族は、「上毛野朝臣」と同じく、古事記の豐木入日子命が祖となった「上毛野君」が遠祖であることが知られている(例えばこちら参照)。

いつの時か不明であるが、「車持」の一派が、その出自の地形に、より忠実な名称を名乗るようになったのであろう(右図参照)。

それぞれの系列が”上毛野”の地を分け合って居処していたと思われる。直近では淳仁天皇に塩清が登場していたが、決して頻繁な登用はなかったようである。

名前に含まれる頻出の諸成=耕地が交差するように広がっている地で平らに整えられたところと解釈すると、図に示した辺りが、この人物の出自と推定される。この後、續紀に登場されることはないようである。

<當麻眞人枚人-弟麻呂-千嶋>
● 當麻眞人枚人

「當麻眞人」一族も連綿と人材輩出である。直近では得足・永嗣等が昇位や任官の記述が見受けられる。彼等は當麻の地の東端に位置する場所を出自としていたと推定した。

おそらく今回の人物も、その地域を居処としていたのではなかろうか。現地名は田川郡福智町上野辺りである。

名前の枚人は頻出の文字列であり、枚人=山稜が岐れて延びた端に[人]の形の地があるところと解釈すると、図に示した場所、「得足」の西側に、その地形を見出せる。この後に一度登場されるが、その後の消息は不明である。

少し後に當麻眞人弟麻呂當麻眞人千嶋が従五位下を叙爵されて登場する。弟=ギザギザとしている様であり、「枚人」の北側にその地形を見出せる。その後にこの人物に関する記述はなく、同じく消息不明である。

千嶋=山稜が[鳥]の形をしている前で谷間が束ねられているところと解釈すると、図に示した場所、「枚人」の西側が出自場所と推定される。同様にその後に登場されることはないようである。

<高橋朝臣祖麻呂-船麻呂-三坂>
● 高橋朝臣祖麻呂

古豪の「高橋朝臣」(元は膳臣)も途切れることなくであるが、廣人が淳仁天皇紀に従五位下を叙爵されて登場して以来となる。

一時のような多くの人材が登用されている様子ではなくなって来ている。右図に過去登場人物の出自場所(一部を除く)を示したが、既に”膳”の谷間を埋め尽くした感がある。

今回の祖麻呂に含まれる祖(祖)=示+且=高台が積み重なっている様であり、山稜が段々になっている地形を表していると思われる。既出の三綱の出自場所は三段になった地形であり、その周辺を探すと、図に示した場所が見出せる。

内膳奉膳職に任官されたりしているが、後に伊豫國介の時に白雀献上の功績で従五位上を授けられている。最終正五位下・大膳大夫だったようである。

後(桓武天皇紀)に高橋朝臣船麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「船」の形の山陵の麓が出自と思われるが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、その地形を図に示した場所に確認できる。その後の消息は不詳のようである。

続いて、高橋朝臣三坂が従五位下を叙爵されて登場する。三坂=山麓に山稜が三つ並んでいるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。その後に別名御坂で登場する。頻出の御=束ねる様であって、三つの山稜が寄り集まっている地形を表している。

<大伴宿祢眞綱-蓑麻呂>
● 大伴宿祢眞綱

流石に「大伴宿祢」一族の新人登用を外すわけには行かず、引き続いて多くの人物名が記載されている。光仁天皇紀に入っても村上が従五位下を叙爵されて登場している。

直近では、”大伴”の谷間から出て、東へとその領域が広がっている様子が伺える。現在は山口ダムとなっている地域であり、国土地理院航空写真を参照して、出自場所を特定して来た。

今回の人物名が眞綱であり、間違いなく山稜の形がすっきりとしている場所と推測される。眞綱=筋張った山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

この後、叙位の記述は見られないが、陸奥鎮守副将軍に任じられているようである。流石に「大伴一族」の面目躍如と言ったところであろうか。しかしながら、大変な苦戦を強いられたようである。

後(桓武天皇紀)に大伴宿祢蓑麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。蓑=[蓑]のような形をした山稜の麓にある様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度かの任官が記載されている。

<中臣丸朝臣馬主>
<中臣丸連淨兄>
● 中臣丸朝臣馬主

「中臣丸朝臣」は、称徳天皇紀に中臣丸連張弓等が賜った氏姓であった。この時、彼等は左京人と記載されていて、既に本貫の地を離れていたようである。

今回登場の人物である「馬主」も彼等の一員であったと思われ、本貫の”中臣”の地に基づく名称だったのであろう。系譜不詳のようであり、親族ではあるが、「張弓」の子ではなかったと推測される。

馬主=[馬]の形の山稜の先が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、「張弓」の南隣が出自と推定される。図に示したように縣造一族…その一派は飯高君(後に宿祢)を賜姓されている…が蔓延っていた地域では、「中臣丸宿祢」の居場所を見出すことが叶わなかったのであろう。左京への転出は、至極当然の結果だったように思われる。

後(桓武天皇紀)に中臣丸連淨兄が罪を犯して発覚し、自死をしたと記載されている。そんなことで歴史に名を残したようである。淨兄=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる谷間の奥が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<忍海倉連甑・道田連桑田>
● 忍海倉連甑

「忍海倉連」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。「忍海」は、大和國忍海郡の地と推測される。かつては忍海造の一族が蔓延っていた地であり、直近では道田連の居処として推定したところである。

「忍海倉連」の倉=四角く取り囲まれている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。谷間の様相を表現したものであろう。

名前の「甑」=「曾+瓦」と分解される。それをそのまま地形象形表記として用いているものと思われる。甑=[瓦]のような形の地が積み重なっている様と読み解ける。その地形を「倉」の上に確認することができる。

現在は些か地形変形が見られるが、基本の地形を伺うことが可能と思われる。忍海近辺の住人であり、また、興味ある名称なのであるが、續紀にこの後登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に道田連桑田が外従五位下を叙爵されて登場する。桑田=山稜の端が三つに岐れた麓に田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「甑」の谷間の出口辺りの場所である。この人物もその場限りで、後に記載されることはないようである。

<對馬嶋竹室之津>
對馬嶋竹室之津

渤海國の使者が自國の「南海府吐号浦」(現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道鏡城郡にあったとされている)から朝鮮半島の東岸を南下して向かった場所と述べている。

上記本文は、極めて曖昧な表現を行っているが、太政官の指摘に従って、初めてこの行程を採用したのではなく、定型だったと思われる。

日本に着岸する場所は、通説では現在の秋田県能代辺りに向かうのだから、朝鮮半島の南下、ましてや対馬経由の行程は、あり得ないことになる。

即ち、朝鮮半島と対馬との往来は、「津嶋」の由来と思われる現在の浅茅湾と理解して来たが、「竹室之津」も重要な拠点の一つだったと推測される。書紀の天智天皇紀に設置された金田城は、浅茅湾に侵入する船を見張るためであり、言い換えると”倭國”の支配する領域だったことになる。

その地を避けた行程上に「竹室之津」が存在していたのであろう。「竹室」は、勿論地形象形表記として、その場所を求めてみよう。竹室=谷間の奥に至るまで竹のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。その谷間の出口辺りにあった津を表していると思われる。

現地名は対馬市厳原町豆酘瀬・佐須瀬となっている。もう少し南側が同町豆酘で、対馬の南西端に位置している。古代より交通の要所だったようである(例えばこちら参照)。ところで「豆酘(ツツ)」と読むとか、由来は様々であるが、”筒”とすると「竹室」の地形であろう。

上記本文で大宰府ではなく、直接出羽國に向かう航路を北路と表現している。確かに北側を走行することになって、そのまま読み飛ばしてしまいそうだが、「七道」に含まれる”東西南北”は、方位であると同時に各道を差別化する地点の地形を表しているのである。

「北陸道」とは?…「最も北方に至る」と同時に「陸奥に背を向けて通る路」のことである。即ち、北路=背を向けて通過する路と解読される。九州島の遥か北側、日本海の真ん中を通る路ではなく、大宰府(勿論、現在の北九州市小倉北区足原)に背を向けて、関門海峡を通る路のことを述べているのである。

<藤原朝臣大繼-繼彦-法壹>
● 藤原朝臣大繼

京家濱成(濱足)の子と知られているが、従五位下の叙爵の記事はなく、いきなりの少納言に任命である。如何にも別格の扱いのようなのだが、単に叙位の記録が欠落していたのかもしれない。

大繼=平らな頂の山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この後、續紀中に幾度か任官の記事があるが、昇位はされなかったようである。

少し後に兄の藤原朝臣繼彦が従五位下を叙爵されて登場する。繼彦=山麓が交差するようになった地に連なるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。地形が平坦で名付けに苦労されたのではなかろうか。「麻呂」の真ん前に当たる場所である。なかなかに優秀な人物だったようで、最終従三位・刑部卿を務められたとのことである。

「濱成」の多くの子等が伝えられているが、上記の二人以外では藤原朝臣法壹が登場する。氷上眞人川繼(河繼)の室となり、事件に連坐して遠流されている。法壹=水辺で四角く窪んだ谷間を蓋をするように山稜が延びているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

二月戊子。遣唐使拜天神地祇於春日山下。去年風波不調。不得渡海。使人亦復頻以相替。至是副使小野朝臣石根重脩祭祀也。庚寅。授正六位上縣犬養宿祢庸子從五位下。丙申。從五位上田中王爲右大舍人頭。從五位上伊刀王爲諸陵頭。庚子。授正六位上百濟王仙宗從五位下。壬寅。召渤海使史都蒙等卅人入朝。時都蒙言曰。都蒙等一百六十餘人。遠賀皇祚。航海來朝。忽被風漂。致死一百廿。幸得存活。纔卌六人。既是險浪之下。万死一生。自非聖朝至徳。何以獨得存生。况復殊蒙進入。將拜天闕。天下幸民。何處亦有。然死餘都蒙等卌餘人心同骨完。期共苦樂。今承。十六人別被處置。分留海岸。譬猶割一身而分背。失四體而匍匐。仰望。宸輝曲照。聽同入朝。許之。癸夘。讃岐國飢。賑給之。甲辰。授无位大野朝臣乎婆婆從五位下。庚戌。遣使祭疫神於五畿内。壬子晦。日有蝕之。

二月六日に遣唐使が「春日山」(春日烽が設けられた山)の麓で天地の神を礼拝している。去年は風波が思わしくなく、渡海することができなかったし、使者の顔ぶれも、また頻りに変更になった。ここに至って、副使の小野朝臣石根が重ねて祭祀の執行をしたのである。八日に縣犬養宿祢庸子(酒女に併記)に従五位下を授けている。十四日に田中王()を右大舎人頭、伊刀王(道守王に併記)を諸陵頭に任じている。十八日に百濟王仙宗(②-)に従五位下を授けている。

二十日に渤海使の史都蒙等三十人を召して朝廷に参内させている。この時、「都蒙」は以下のように言上している・・・「都蒙」等百六十余人は、ご即位をお祝いする為に遠方より航海して来朝した。ところが俄かの暴風のために漂流し、死亡した者百二十人、幸いにして命を保ちえた者は、僅かに四十六人である。檄浪の下で万死に一生を得たようである。聖なる朝廷の限りない德がなければ、私どもだけでどうして生きながらえることができたであろうか。そればかりではなく、特別に都へ進み入ることを許され、宮廷を拝そうとしている。このような幸せ者が天下のどのような場所にいるであろうか。---≪続≫---

しかしながら、生き残った「都蒙」等四十人余りは、一心同体で苦楽をともにしようと期しているのに、今承るところによると十六人だけを分けて別の処置を受け、「海岸」<難破した出雲國の海岸、例えばこちら。現地名:関門海峡に面する北九州市門司区大里>に留まるようにということである。これは例えるならば、一つの身体を割いて背中を分断され、手足を失って這い進むようなものである。天子の輝きが隈なく照らし、共に揃って朝廷に参内することを許されるよう、仰ぎ見て希望する・・・。これを許可している。

二十一日に讃岐國に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。二十二日に「大野朝臣乎婆婆」に従五位下を授けている。二十八日に使者を派遣して、畿内五ヶ國で疫神(疫病神)を祭らせている。三十日に日蝕が起こっている。

<大野朝臣乎婆婆・大網公廣道>
● 大野朝臣乎婆婆

上記で(石本に併記)が従五位上を叙爵されたと記載されていた。系譜が知られている「石本」の近隣が出自と推定した。

今回登場の人物も、「姉」と同様に女官として登用されたのではなかろうか。女性に古事記風の名前が多く見られるが、地形象形表記として出自場所を求めるには、真に都良し、である。

既出の文字である「乎」=「口を開いて息を吹き出す様」、及び「婆」=「氵+波+女」=「嫋やかに曲がる山稜の端が水辺で覆い被さるように延び出ている様」と解釈した。二つの「婆」は、並んでいる様を表現していると思われる。

纏めると乎婆婆=口を開いて息を吹き出すような地に[婆]が二つ並んでいるところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。「乎婆」とする写本もあるそうなのだが、二つの「婆」は意味ある表記なのである。後に登場されることはないようである。

少し後に大網公廣道送高麗客使に任じられている。「大網公」は初見の氏姓であり、少し調べると上毛野朝臣と同族、即ち古事記の豐木入日子命を遠祖とする一族であったと分かった。大網=平らな頂の山稜が覆われて見えなくなっているところと解釈される。図に示したように山稜の端が大河に挟まれている場所と推定される。廣道=首の付け根のような窪んだ地が広がっているところとして、出自の場所を求めることができる。

三月癸丑朔。置酒田村舊宮。賜祿有差。授外從五位下内藏忌寸全成從五位下。乙夘。宴次侍從已上於内嶋院。令文人賦曲水。賜祿有差。壬戌。紀伊國名草郡人直乙麻呂等廿八人賜姓紀神直。直諸弟等廿三人紀名草直。直秋人等百九人紀忌垣直。戊辰。幸大納言藤原朝臣魚名曹司。賜從官物有差。授其男從六位上藤原朝臣末茂從五位下。百濟箜篌師正六位上難金信外從五位下。辛未。大祓。爲宮中頻有妖恠也。癸酉。屈僧六百口。沙弥一百口。轉讀大般若經於宮中。乙亥。外從五位下志我閇造東人賜姓連。辛巳。從四位下藤原朝臣小黒麻呂爲出雲守。是月。陸奥夷俘來降者。相望於道。

三月一日に田村旧宮(元は田村第)で酒盛りをし、それぞれに禄を賜っている。内藏忌寸全成(黒人に併記)に内位の従五位下を授けている。三日、次侍従以上と内嶋院(内裏にある庭園を備えた建屋)で宴会を行い、文人たちに曲水の詩を作らせている。それぞれに禄を賜っている。十日に紀伊國名草郡の人である「直乙麻呂」等二十八人に「紀神直」、「直諸弟」等二十三人には「紀名草直」、「直秋人」等百九人には「紀忌垣直」の氏姓を与えている。

十六日に大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)の曹司に行幸され、これに従った官人それぞれに物を賜っている。子息の藤原朝臣末茂()に従五位下、百濟の箜篌師<琴や竪琴のような弦楽器奏者・指導者。「箜」は原文では[竹+軍]であるが、フォントが存在しないので代用>難金信(許平等に併記)に外従五位下を授けている。十九日に大祓を行っている。宮中で頻りに怪しいことが起きるためである。二十一日に僧六百人・沙弥百人を招いて、宮中で『大般若経』を転読させている。二十三日に「志我閇造東人」に連姓を与えている。二十九日に藤原朝臣小黒麻呂を出雲守に任じている。この月、陸奥の蝦夷が次から次と投降して来ている。

<直乙麻呂-諸弟-秋人>
● 直乙麻呂・直諸弟・直秋人

紀伊國名草郡の住人に賜姓したと記載されている。この地については、「紀直」一族が蔓延っていて、摩祖豊嶋が國造に任じられていた。

また、他の登場人物としては大伴櫟津連子人紀直國栖・榎木連千嶋が登場し、狭隘な土地にしては、頻繁に多くの人々が記載されて来ている。

一方で、激しく地形変形している地でもあり、国土地理院航空写真1961~9年を参照せざるを得ない有様でもある(今昔マップの地形図も併せて参照)。

頻出の乙麻呂の乙=[乙]の字形に曲がっている様から、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。かつてはもう少し谷間が広がっていたと推測される。同様に諸弟=耕地が交差するような地がギザギザとしているところと解釈すると、「乙麻呂」の南西側の谷間を表していると思われる。

最後の人物も同様に秋人=谷間に山稜が[火]の形に延びているところと解釈すると図に示した場所が出自と思われる。「豊嶋」の北側に当たる場所となる。求められた三名の居処は、「紀直」一族の北側の谷奥であったと推定される。

賜姓については、「乙麻呂」の背後の山稜を「神(神)」と見做して紀神直、「諸弟」は郡名の「名草」の由来に基づいて紀名草直、「秋人」の谷間を取り囲む山稜「垣」が「忌」=「己+心」=「谷間の奥深く[己]字形に曲がっている様」から紀忌垣直と名付けられたと思われる。

ところで、本紀になって「直」の氏姓を持つ人物に壹岐嶋壹岐郡人の直玉主女が登場していた。「壹岐郡」も含めて記紀・續紀を通じて初見であり、「直」が表す地は、古事記の神世二世代:二柱神の豐雲野神及び三貴神の月讀神に挟まれた場所と推定した。

<志我閇造東人>
ここで登場の人々の”本貫”の場所が、壹岐嶋の「直」であることを暗示しているのではなかろうか。日前國縣神に関する記述も、そんな背景を伺わせているように思われる。

● 志我閇造東人

賜姓された「志我閇連」の氏姓の人物は、元正天皇紀に陰陽の大家として阿弥陀が登場していた。出自の場所を「春日」、現地名の田川郡赤村内田山の内と推定した。

山田御井宿祢と同祖で周の霊王の子孫と伝えられているようである。中国本土から、勿論百濟経由で、渡来した一族だったのであろう。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した「閇」の谷間近隣を出自としていたと推定される。この後に登場されることはないようである。