2024年3月30日土曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(19) 〔670〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(19)


寶龜八(西暦777年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月甲申。從五位上日置造蓑麻呂等八人賜姓榮井宿祢。從六位上日置造雄三成等四人鳥井宿祢。正八位下日置造飯麻呂等二人吉井宿祢。丙戌。雨雹。庚寅。渤海使史都蒙等入京。辛夘。太政官遣使慰問史都蒙等。甲午。雨氷。震太政官内裏之廳。乙未。右京人從六位上赤染國持等四人。河内國大縣郡人正六位上赤染人足等十三人。遠江國蓁原郡人外從八位下赤染長濱。因幡國八上郡人外從六位下赤染帶繩等十九人賜姓常世連。戊戌。遣唐大使佐伯宿祢今毛人等辞見。但大使今毛人到羅城門。稱病而留。癸夘。渤海使史都蒙等貢方物。奏曰。渤海國王。始自遠世供奉不絶。又國使壹萬福歸來。承聞。聖皇新臨天下。不勝歡慶。登時遣獻可大夫司賓少令開國男史都蒙入朝。并戴荷國信。拜奉天闕。詔曰。現神〈止〉大八洲國所知〈須〉天皇大命〈良麻止〉詔大命〈乎〉聞食〈止〉宣。遠天皇御世御世年緒不落間〈牟〉事無〈久〉仕奉來〈流〉業〈止奈毛〉所念行〈須〉。又天津日嗣受賜〈礼流〉事〈乎左閇〉歡奉出〈礼波〉。辱〈奈美〉歡〈之美奈毛〉所聞行〈須〉。故是以今〈毛〉今〈毛〉遠長〈久〉平〈久〉惠賜〈比〉安賜〈牟止〉。彼國〈乃〉王〈尓波〉語〈部止〉詔天皇大命〈乎〉聞食〈止〉宣。是日。遣唐大使佐伯宿祢今毛人輿病進途。到攝津職。積日不損。勅副使石根。持節先發。行大使事。即得順風。不可相待。遣右中弁從四位下石川朝臣豊人。宣詔使下曰。判官已下犯死罪者。聽持節使頭專恣科决。丁未。散位從四位下豊野眞人出雲卒。戊申。天皇臨軒。授渤海大使獻可大夫司賓少令開國男史都蒙正三位。大判官高祿思。少判官高鬱琳並正五位上。大録事史遒仙正五位下。少録事高珪宣從五位下。餘皆有差。賜國王祿。具載勅書。史都蒙已下亦各有差。 

四月三日に「日置造蓑麻呂」等八人に「榮井宿祢」(こちら参照)、「日置造雄三成」等四人に「鳥井宿祢」、「日置造飯麻呂」等二人に「吉井宿祢」の氏姓を賜っている。五日に雹が降っている。九日に渤海使の史都蒙等が入京している。十日に太政官は使を遣わして史都蒙等を慰問させている。十三日に氷が降っている。太政官・内裏の建物に落雷している。

十四日に右京の人である赤染國持(廣足に併記)等四人、河内國大縣郡の人である「赤染人足」等十三人、遠江國蓁原郡の人である赤染長濱、「因幡國八上郡」の人である「赤染帶繩」(國造寶頭に併記)等十九人に「常世連」の氏姓を与えている。十七日に遣唐大使の佐伯宿祢今毛人等が暇乞いのために謁見して出発したが、大使の「今毛人」は羅城門まで来た時病気と称して留まっている。

二十二日に渤海使の史都蒙等が産物を貢し、以下のように奏上している・・・渤海國王は遠い時代から絶えることなくお仕えして来た。また、國使の壹萬福が帰り、聖の天皇が新しく即位されたことを承り、喜びに堪えない。そこですぐさま献可大夫・司賓少令で開國男の史都蒙を派遣して入朝させることにした。それに併せて進物を携え持たせて朝廷に奉らせる・・・。

これに対して次のように詔されている(以下宣命体)・・・現神として大八洲國をお治めになる天皇の御言葉として仰せになる御言葉を承れと申し渡す。遠い昔の天皇の御世から、長い年月の間絶えることなく間を置くことなく、奉仕して来た行いであると思わっている。また、天つ日嗣を受け継いだことに対してまで、歓び申し上げてのことなので、忝く喜ばしいことであると思っている。それゆえ今また遠く長く変わりなく、恵みを与え安心させてやるとかの國の王に語れ、と仰せになる天皇の御言葉を承れと申し渡す・・・。

この日、遣唐大使の佐伯宿祢今毛人は病の身を輿に載せて出発している。攝津職まで到着したが、日を過ごしても回復しなかった。そこで、副使の小野朝臣石根に[節のしるしを持って先発し、大使の職務を代行せよ。順風が吹いたなら、大使を待ってはいけない]と勅されている。また右中弁の石川朝臣豊人を派遣して、遣唐使の一行に[判官以下で死罪を犯した者は、節を持つ首席の使者が独断で判決を下すことを許す]と詔されている。

二十六日に散位の豊野眞人出雲(出雲王)が亡くなっている。二十七日に宮殿の端近くに出御されて、渤海大使の献可大夫・司賓少令・開國男の史都蒙に正三位、大判官の高禄思と少判官の高鬱琳にそれぞれ正五位上、大録事の史遒仙に正五位下、少録事の高珪宣に従五位下を授けている。それ以下の者にもそれぞれ位階を授けている。渤海國王に禄を賜うことについては、詳しく勅書に記されている。史都蒙以下にも、それぞれ物を賜っている。

<日置造雄三成-飯麻呂>
● 日置造雄三成・日置造飯麻呂

称徳天皇紀に通(道)形が外従五位下を叙爵された時に、既に登場していた蓑麻呂も含めて、彼等が後に「榮井宿祢」を賜わることになると述べた。谷間の最奥、現在の金辺峠直下付近であるが、その地形を「榮」の文字が表していることが解った。

今回は、その一族にあらたな人物が加わったようである。既に最奥部は埋まってしまったようなので、谷を下るしかないのだが、果たして如何なることになるのであろうか・・・。

雄三成の文字列も、既出の組合せであり、読み下してみよう。雄三成=羽を広げた鳥のような山稜の麓に整えられた小高い地が三つ並んでいるところと解釈される。また、飯麻呂飯=手を延ばしたような山稜の麓がなだらかに広がっているところと解釈される。それぞれの出自の場所を図に示した場所と推定される。

賜った鳥井宿祢は、「雄」の麓で四角く取り囲まれた地を表現し、吉井宿祢は「飯」の山稜が蓋をするように延びている様と見做したものであろう。同族なら「榮井」とするのではなく、大きく地形が変わっている場所に蔓延った一族であったことを示唆する賜姓だったようである。

<赤染人足>
● 赤染人足

「赤染(造)」の氏姓は、書紀の天武天皇紀に登場していた。續紀では聖武天皇紀に「廣足」等が「常世連」の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

現在の香春三ノ岳の北麓に蔓延った一族と推定され、上記の「國持」の出自は、その地として求めることができた。ここで登場の人物は、河内國大縣郡の住人と記載されている。

赤染=平らな頂の麓で山稜が交差するように延びている地に山稜が水辺で[く]の字形に曲がっているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。智識寺の北側に当たる場所である。名前の人足=谷間ある山稜が足のように延びているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。

図に示したように「赤染」の山稜が、既出の常世=北向きに延びる山稜が途切れずに連なっているところと解釈すると賜った常世連に繋がっていることが解る。多くの「常世連」が誕生したのであるが、この後に登場されることはないようである。

<赤染帶繩>
● 赤染帶繩

ここに来て「八上郡」の名称が記載され、その地を出自とする人物が登場している(こちら参照)。称徳天皇紀の春日戸村主人足・大田も当郡の親子だったようである。

上記の「河内國大縣郡」の「赤染」一族と同様に今回登場の人物も記載された「八上郡」にある「赤染」の地を出自としていたものと思われる。

すると「赤染」の地形を図に示した場所に見出せる。今回も見事に「赤」と「染」の地形が寄り集まっていることが解る。名前の帶繩=縄のような地に帯のような山稜が延びているところと解釈される。

賜った常世連の「常世」の地形を確認することができる。ここで登場した人物達が同祖であろうとなかろうとも、彼等の居処の地形をそのまま表現していることになる。續紀も、地形象形表記に徹してると、言えるであろう。

五月癸丑。授正五位下巨勢朝臣巨勢野從四位下。丁巳。天皇御重閣門。觀射騎。召渤海使史都蒙等。亦會射場。令五位已上進裝馬及走馬。作田舞於舞臺。蕃客亦奏本國之樂。事畢賜大使都蒙已下綵帛各有差。庚申。先是渤海判官高淑源及少録事一人。比着我岸。船漂溺死。至是贈淑源正五位上。少録事從五位下。並賻物如令。癸亥。勅旨少録正六位上丹比新家連稻長。大膳膳部大初位下東麻呂賜姓丹比宿祢。」奉白馬於丹生川上神。霖雨也。乙丑。授无位春日朝臣方名從五位下。己巳。自寳字八年乱以來。太政官印收於内裏。毎日請進。至是復置太政官。癸酉。渤海使史都蒙等歸蕃。以大學少允正六位上高麗朝臣殿繼爲送使。賜渤海王書曰。天皇敬問渤海國王。使史都蒙等。遠渡滄溟。來賀踐祚。顧慙寡徳叨嗣洪基。若渉大川。罔知攸濟。王修朝聘於典故。慶寳暦於惟新。懃懇之誠。實有嘉尚。但都蒙等比及此岸。忽遇悪風。有損人物。無船駕去。想彼聞此。復以傷懷。言念越郷。倍加軫悼。故造舟差使。送至本郷。并附絹五十疋。絁五十疋。絲二百絇。綿三百屯。又縁都蒙請。加附黄金小一百兩。水銀大一百兩。金漆一缶。漆一缶。海石榴油一缶。水精念珠四貫。檳榔扇十枝。至宜領之。夏景炎熱。想平安和。又弔彼國王后喪曰。禍故無常。賢室殞逝。聞以惻怛。不淑如何。雖松檟未茂。而居諸稍改。吉凶有制。存之而已。今因還使。贈絹二十疋。絁二十疋。綿二百屯。宜領之。乙亥。仰相摸。武藏。下総。下野。越後國。送甲二百領于出羽國鎭戍。丁亥。陸奥守正五位下紀朝臣廣純爲兼按察使。戊寅。典侍從三位飯高宿祢諸高薨。伊勢國飯高郡人也。性甚廉謹。志慕貞潔。葬奈保山天皇御世。直内教坊。遂補本郡采女。飯高氏貢采女者。自此始矣。歴仕四代。終始無失。薨時年八十。

五月三日に巨勢朝臣巨勢野に従四位下を授けている。七日に重閣門に出御されて馬上からの弓射を観覧されている。渤海使の史都蒙等を召して、彼等もまた射場に参会させている。五位以上に装飾を付けた馬と競走の馬を奉らせ、舞台で田舞を舞わせている。蕃客もまた本國の音楽を演奏している。それらが終わってから、大使の「都蒙」以下にそれぞれ色染めの絹を賜っている。

十日、これ以前、渤海使の判官である高淑源と少録事一人は、岸に到着する頃になって、船が漂流して溺死した。ここに至って「淑源」に正五位上、少録事に従五位下を追贈し、それぞれ令の規定に従って物を贈り弔っている。十三日に勅旨少録の「丹比新家連稻長」と大膳職膳部の「東麻呂」に「丹比宿祢」の氏姓を与えている。この日、白馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。長雨のためである。

十五日に春日朝臣方名(常麻呂に併記)に従五位下を授けている。十九日に天平字八年の乱『仲麻呂の乱』以来、太政官の印は内裏に収納し、毎日太政官の請いを受けて運んでいた。この時になって太政官に戻している。

二十三日に渤海使の史都蒙等が帰っている。大学少允の「高麗朝臣殿繼」を送使に任じている。渤海王に次のような書を賜っている・・・天皇は敬んで渤海國王に尋ねる。使者の史都蒙等は、遠方から大海を渡って来て、践祚(皇位継承)を祝ってくれた。顧みて徳が少ないのに、みだりに大いなる皇位を嗣いだことを恥じている。まるで大河を渡るのに渡る場所が分からないように、どのように政治を執ったら良いのか分からない。王は故実に従って我が朝廷に平安を問う使者を進め、新たに即位したことを慶賀してくれた。懇ろな誠意は、真に褒め称えるべきものがある。

但し、「都蒙」等は我が海岸に到着する頃になって、急に暴風に遭い、人や物を失ってしまい、乗って帰えるべき船がない。これらのことを聞いたり思ったりすると、また心が傷むが、彼等が故郷を遠く離れていることを思うと、益々悼む気持ちが増して来る。そこで船を造り、使者を任じて送らせることにし、併せて絹五十匹・絁五十匹・絹糸二百絇・真綿三百屯を託する。また「都蒙」の申し出によって、黄金小百両・水銀大百両・金漆一缶・水精(水晶)念珠四連・檳榔扇十本を加えた。着いたら受け取るように。今は夏の日ざしが燃えるように暑いが、王は平安に和やかであろう・・・。

また、渤海國王の后の喪を弔って次のように述べている・・・災いや事故は定めがなく、賢夫人が亡くなったと聞いて悼み悲しんでいる。この不幸は如何ともし難い。松や檟など(墓上の木)はまだ茂らないが、月日はだんだんと過ぎてゆく。吉事凶事については古来の礼制があるので、それに従うだけである。今帰る使者に託して、絹二十疋・絁二十疋・真綿二百屯を贈る。宜敷く受け取るように・・・。

二十五日に相摸・武藏・下総・下野・越後の國に命じて、甲二百領を出羽國の砦や兵営に送らせている。二十七日に陸奥守の紀朝臣廣純に按察使を兼任させている。二十八日に典侍の飯高宿祢諸高(笠目)が亡くなっている。伊勢國飯高郡の出身である。たいへん欲が少なく慎み深い性質で、正しく潔いように心掛けていた。奈保山に埋葬された天皇(元正天皇)の御世に、内教坊に勤務し始め、ついに本郡の采女に任じられた。飯高氏が采女を貢上することは、ここから始まった。四代の天皇に相次いで仕えたが、その間失敗ということがなかった。薨じた時八十歳であった。

<丹比新家連稻長-東麻呂>
● 丹比新家連稻長・東麻呂

「丹比連(宿祢)」は河内國丹比郡に蔓延った一族であって、既に多くの人物が登場している(直近ではこちら参照)。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保、御所ヶ岳北麓と推定した。

高位の官人を輩出した「多治比眞人」一族の南側に当たる場所である。称徳天皇紀に、『八色之姓』による賜姓に外れたのであろうか、丹比連大倉が私財を献上して外従五位下を叙爵されいた。

「丹比宿祢」とは、些か異なる地が出自と推測されるが、宿祢姓の一派とは、少々掛け離れた場所と推定した。現地名では勝山大久保の東側となる行橋市津積と推定した。

今回登場の丹比新家連新家=切り分けられた山稜の端が豚の口のようになっているところと解釈すると、図に示した場所がその地形を表していると思われる。名前の稻長=長く延びた山稜の前が稲穂のようになっているところと解釈すると、この人物の出自場所を求めることができる。もう一人の東麻呂東=突き通すような様として、図に示した場所が出自と推定される。

上図から伺えるように、賜姓された丹比宿祢一族の東の端となる。さて、今後に更なる一族が登場するのであろうか?…図上では、既に満杯の状況なのであるが・・・。

<高麗朝臣殿繼>
● 高麗朝臣殿繼

「高麗朝臣」は、武藏國高麗郡を出自とする一族であり、高麗出身の人々を当郡に移住させたという経緯が記載されていた。現地名は北九州市小倉南区沼本町辺りと推定した(こちら参照)。

渤海國への送使に任じられ、正に先祖の地に向かうことになったようである。と言うことで、名前の殿繼が示す地形を読み解いてみよう。

既出の文字列である殿繼=丸く突き出た山稜の端が連なっているところとすると、図に示した場所が、その地形を表していることが解る。駿河國との境に位置する場所である。前出の乘潴驛が設置されていた近隣と思われる。

渤海國への道中、遭難するが何とか切り抜けて送使の任務を果たして帰朝したようである。續紀中では、後に高倉朝臣に改名され、もう一度登場している。その後最終従五位上に昇進されたそうである。

六月辛巳朔。勅遣唐副使從五位上小野朝臣石根。從五位下大神朝臣末足等。大使今毛人。身病弥重。不堪進途。宜知此状到唐下牒之日。如借問無大使者。量事分疏。其石根者著紫。猶稱副使。其持節行事一如前勅。乙酉。武藏國入間郡人大伴部直赤男。以神護景雲三年。獻西大寺商布一千五百段。稻七万四千束。墾田卌町。林六十町。至是其身已亡。追贈外從五位下。壬辰。參議從四位下美濃守紀朝臣廣庭卒。戊戌。楊梅宮南池生蓮。一莖二花。癸夘。隱伎國飢。賑給之。丙午。授外從五位下栗原宿祢弟妹從五位下。

六月一日に遣唐副使の小野朝臣石根大神朝臣末足等に次のように勅されている・・・大使の佐伯宿祢今毛人は、病気がいよいよ重く、出発することができない。そこでこの状態を承知し、唐に到着して牒を唐の役人に渡す時、もし大使がいないことを問われたならば、状況を判断して申し開きせよ。「石根」には紫の衣服を着けることを許すが、なお副使と称せよ。節を持って行動することは、前の勅のようにせよ・・・。

五日、武藏國入間郡の人である「大伴部直赤男」は、神護景雲三(769)年に西大寺に商布一千五百段・稲七万四千束・墾田四十町・林六十町を献上した。現在、既に死亡しているので外従五位下を追贈している。十二日に参議・美濃守の紀朝臣廣庭(宇美に併記)が亡くなっている。十八日に楊梅宮の南池に蓮が生え、一本の茎に花が二つ咲いている。二十三日に隠岐國が飢饉になったので物を恵み与えている。二十六日に栗原宿祢弟妹(柴原勝乙妹)に内位の従五位下を授けている。

<大伴部直赤尾>
● 大伴部直赤男

全くの遅ればせながらの褒賞であるが、素性を調べるのに時間を要したのであろうか。入間郡の奥地に住まっていた人物と推測される。直近では同郡の人である矢田部黒麻呂の孝行を顕彰したと記載されていた。

以前にも述べたように、武藏國の南部は高麗からの渡来人達の入植地としたが、北部の谷間は元来の人々が住まっていた國なのである(上記の「高麗朝臣」等)。

大伴部直に含まれる頻出の大伴=平らな頂の山稜が谷間で二つに岐れているところであり、図に示した場所にその地形を見出せる。部=近辺であることを表している。

名前の赤男の赤は上記赤染と同様に解釈すると、大伴の麓の谷間を示していることが解る。赤男=平らな頂から山稜が交差するように延びている麓に突き出た地があるところと解釈される。紀伊國名草郡にも大伴部直の氏姓を持つ人物名が記載されていたが、類似の地形であろう(こちら参照)。

秋七月辛亥。左京人正六位上小塞連弓張等五人賜姓宿祢。甲寅。伯耆國飢。賑給之。癸亥。震但馬國國分寺塔。甲子。左京人從六位下楢日佐河内等三人賜姓長岡忌寸。正六位上山村許智大足等四人山村忌寸。乙丑。内大臣從二位藤原朝臣良繼病。叙其氏神鹿嶋社正三位。香取神正四位上。

七月二日に左京の人である「小塞連弓張」等五人に宿祢姓を与えている。五日、伯耆國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十四日に但馬國の國分寺の塔が被雷している。十五日に左京の人である「楢曰佐河内」等三人に「長岡忌寸」の氏姓を、「山村許智大足」等四人に「山村忌寸」の氏姓を与えている。

十六日に内大臣の藤原朝臣良繼が病気になったので、その氏神である「鹿嶋社」(常陸國鹿嶋郡)を正三位、「香取神」(下総國香取郡)を正四位上としている。

<小塞連弓張[小塞宿祢]>
● 小塞連弓張

左京人の「小塞連(宿祢)」に関する情報を求めて、續紀の記述を調べると、延暦元(782)年十二月二日に「内掃部正外從五位下小塞宿祢弓張言。弓張等二世祖近之里。庚寅歳以降。因居地名。從小塞姓。望請。依庚午年籍。改換小塞。蒙賜尾張姓」と記載されている。

この後に宿祢を賜姓され、更に後に「尾張宿祢」の氏姓を賜っていることが分かった。尾張國の地で、更に詳細を調べると中嶋郡が本来の出自場所だったようである。

この「中嶋郡」については、直近で裳咋臣足嶋に関する記述があった。この一族は元は「伊賀國敢朝臣」同祖(詳細は後日)であり、「敢臣」の氏姓が賜れている。人々の移動が活発に行われていたことが伺える。

小塞連塞=宀+㠭(工+工+工+工)+廾=山稜の端で小高い地が寄り集まって広がっている様と解釈される。小=三角に尖っている様と併せて図に示した場所の地形を表していることが解る。更に弓張=弓を張っているようなところと読むと、出自の場所を求めることができる。

上記されているように、近之里の子孫と述べている。近=[斤]の文字形の様とすると、図に示した場所にそれらしき山稜の起伏が確認される。海辺の極限られた地域であり、左京に移り住んでいたのであろう。目出度く「尾張宿祢」の氏姓を賜れたようである。

<楢曰佐河内・山村許智大足>
● 楢曰佐河内・山村許智大足

「山村許智」については、称徳天皇紀に人足が外従五位下を叙爵されて登場していたが、「楢曰佐」も同族であることが知られているようである。現地名の田川郡添田町落合辺りで、その名称が表す地形を捜すことにする。

楢=木+八+酉=山稜が二つに岐れた麓に酒樽のような地がある様と解釈される。楢原造東人(伊蘇志臣)で用いられていた文字である。既出の文字列である曰佐=谷間の奥から延び出ている山稜が左手のような形をしているところと読み解いた。

纏めると楢曰佐=[楢]の山稜の後で[曰佐]の地形をしているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。名前の河内=谷間の出口を入ったところと読み下すことができる。現在の落合小学校辺りが出自と推定される。

山村許智大足は、大足=平らな頂の山稜が足のように延びているところとすると、類似の地形が多く見られるが、恐らく図に示した場所が出自だったと思われる。「人足」との関係は定かではないようである。

「河内」は長岡忌寸を賜っている。背後の山稜を表しているのであろう。別名に「奈良(羅)譯語」があったとのことである。「大足」は、山村忌寸を賜姓されている。百濟からの渡来系一族であったと伝えられている。