天宗高紹天皇:光仁天皇(20)
寶龜八年(西暦777年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
八月壬午。授外從五位下伊勢朝臣子老從五位下。丙戌。奉白馬於丹生川上神。霖雨也。己丑。從三位藤原朝臣曹司爲夫人。癸巳。授无位坂上女王從五位下。」上野國群馬郡戸五十烟。美作國勝田郡五十烟捨妙見寺。丁酉。大和守從三位大伴宿祢古慈斐薨。飛鳥朝常道頭贈大錦中小吹負之孫。平城朝越前按察使從四位下祖父麻呂之子也。少有才幹。略渉書記。起家大學大允。贈太政大臣藤原朝臣不比等。以女妻之。勝寳年中。累遷從四位上衛門督。俄遷出雲守。自見踈外。意常欝欝。紫微内相藤原仲滿。誣以誹謗。左降土佐守。促令之任。未幾。勝寳八歳之亂。便流土佐。天皇宥罪入京。以其舊老授從三位。薨時年八十三。辛丑。授正六位上紀朝臣弟麻呂從五位下。
八月四日に伊勢朝臣子老に内位の従五位下を授けている。八日、白馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。長雨のためである。十一日に藤原朝臣曹司(巨曾子)を夫人としている。十五日に「坂上女王」に従五位下を授けている。また、「上野國群馬郡」の五十戸と美作國勝田郡の五十戸を「妙見寺」に喜捨している。
十九日に大和守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)が亡くなっている。飛鳥朝(天武天皇)の常道頭で大錦中を追贈された小吹負(吹負)の孫で、平城朝(聖武天皇)の越前按察使・従四位下の祖父麻呂(牛養に併記)の子であった。年少の時から才能があり、典籍・文書におおよそ通じていた。初めて官途について大学大允になった。贈太政大臣の藤原朝臣不比等は娘を彼の妻とした。天平勝寶年中には。昇進を重ねて従四位上・衛門督になった。しかし突然出雲守に移動された。
疎外されてからは、いつも心が鬱々としていた。紫微内相の藤原仲満(仲麻呂)は、彼が時の政治を謗り貶していると偽って陥れ、土左守に左遷された。迫って任地に行かせた。ほどなくして天平勝寶八歳の乱の時、そのまま土左國に流罪とされた。その後、天皇は罪を許して京に戻らせ、故老であることによって従三位を授けた。薨じた時、八十三歳であった。
二十三日に紀朝臣弟麻呂(宮子に併記)に従五位下を授けている。
初見が天平寶字八(764)年十月で、その後、勲六等を授与されたりして幾度か登場されるが、称徳天皇紀の神護景雲二(768)年十月の任官記事以降消息不明となっている。何らかの不具合があったように思われる。そんな背景から、この女王の出自場所を「坂上王」の場所、或いはその近隣ではなかったか、と推測することにした。
くれぐれも築上郡上毛町上唐原辺りを示す上野國と混同しないように・・・續紀編者等の戯れた記述に惑っては、史書は読み下せないのである。
それは兎も角として、各郡に割り付けられたように思われるが、肝心の谷間が残されているのである。前にも述べたように三國眞人一族が東へ東へと谷間を下って行った、その谷間の出口辺りである。
廃藩置県に伴って名付けられた群馬県の由来となる名称である。とあるサイトで・・・昔は,群馬を「くるま」と読んだので、豪族の車持の君に由来するともいわれるが、はっきりしない。県庁が古くからの群馬郡におかれたことから県名となった・・・。
續紀の名称を”盗用”したならば、不詳なのは当然であろう。「平群朝臣」(谷間にある区切られた高台が平らに広がっているところ)に用いられているが、あらためて「群」=「君(尹+囗)+羊」と分解される。更に「尹」=「|+又」から成る文字である。構成要素の全文字が地形象形表記に用いられている。纏めると群馬=谷間にある区切られた高台が[馬]のように見えるところと読み解ける。
「上野」の「上」=「盛り上がった様」を異なる視点で表現したものであろう。その麓の谷間に広がる耕地を喜捨したと記載している。今昔マップを参照すると、1922年で既に溜池が造成されているが、当時は壮大な棚田が広がっていたのではなかろうか。
何とも唐突な登場であり、また、この後に續紀中でお目に掛かることもないようである。少し調べると、現在も各地にある妙見菩薩を本尊とする寺院と解説されている。
例えば大阪府南河内郡や群馬県群馬郡などにある寺が、續紀記載の寺だと主張しているようである。上記本文の流れからして、群馬郡はあり得ないようで、河内國辺りが、本貫の地と推測される。
南河内郡は当時の安宿郡に当たるとして探索すると、一目でその場所を見出すことができる。現在の五社八幡神社がある細長く山稜が延びた高台である。
勿論、「妙見」は地形象形表記であり、「菩薩」と重ねた表現をしているのである。「妙」=「女+少」=「嫋やかに曲がって延びる山稜の端が三角に尖っている様」と解釈される。即ち、妙見=長く延びる谷間で嫋やかに曲がって延びる山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。
上図に示した通り、その周辺には隙間なく多くの氏族が配置されて来た。がしかし、この山稜に関わる記述は一切存在せずであった。また、一つ空白の地が埋まったようである。言い換えると、寺の周辺に封戸を設けることが叶わなかった故に行った施策だったのかもしれない。
九月癸亥。陸奥國言。今年四月。擧國發軍。以討山海兩賊。國中怱劇。百姓艱辛。望請復當年調庸并田租。以息百姓。許之。乙丑。勅。検天平寳字四年格稱。尚侍尚藏職掌既重。宜異諸人全賜封戸者。然則官位祿賜。理合同等。宜尚侍准尚藏。典侍准典藏。」外從五位下丹比宿祢眞淨爲山背介。丙寅。内大臣從二位勳四等藤原朝臣良繼薨。平城朝參議正三位式部卿大宰帥馬養之第二子也。天平十二年。坐兄廣嗣謀反。流于伊豆。十四年。免罪補少判事。十八年授從五位。歴職内外。所在無績。太師押勝起宅於楊梅宮南。東西構樓。高臨内裏。南面之門便以爲櫓。人士側目。稍有不臣之譏。于時押勝之男三人並任參議。良繼位在子姪之下。益懷忿怨。乃与從四位下佐伯宿祢今毛人。從五位上石上朝臣宅嗣。大伴宿祢家持等。同謀欲害太師。於是。右大舍人弓削宿祢男廣知計以告太師。即皆捕其身。下吏驗之。良繼對曰。良繼獨爲謀首。他人曾不預知。於是。強劾大不敬。除姓奪位。居二歳。仲滿謀反。走於近江。即日奉詔。將兵數百。追而討之。授從四位下勳四等。尋補參議。授從三位。寳龜二年。自中納言拜内臣。賜職封一千戸。專政得志。升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈從一位。遣中納言從三位物部朝臣宅嗣。從四位下壹師濃王弔之。
九月十五日に陸奥國が以下のように言上している・・・今年四月、國を挙げて軍隊を動員して、山海二道の賊を討った。このため國中が慌ただしく、人民は悩み苦しんだ。そこで今年の調・庸と田租を免除して、それで人民を休ませるようにお願いする・・・。これを許可している。
十七日に次のように勅されている・・・天平寶字四(760)年の格を調べてみると、[尚侍と尚藏の職掌は大変重いので、諸々の女性たち(封戸からの収入が半額)と違って全額支給せよ]とある。そうであるとすると、官位と俸給とは同等であるべきであるのが理屈である。そこで尚侍は尚藏に准じ、典侍は典藏に准ずるようにせよ・・・。また、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を山背介に任じている。
十八日に内大臣・従二位・勲四等の藤原朝臣良繼が薨じている。平城朝(聖武天皇)の参議・正三位・式部卿・大宰帥であった馬養(宇合)の第二子であった。天平十二(740)年、兄の廣嗣の謀反に連座して、伊豆に流罪になったが、同十四年、罪を赦されて少判事に任じられた。同十八年には従五位を授けられた。内外の官職を歴任したが、どの職においても功績はなかった。
大師(太政大臣)押勝(仲麻呂)は、楊梅宮の南に邸宅を造り、その邸宅内に東西に高い楼を構えて内裏に相対し、南側の門は、そのまま櫓のようにした。人々は横目で見て妬み、なかには臣下にあるまじきことだと謗る者が出て来た。このころ、「押勝」の男子三人(眞先[光]・訓儒麻呂[久須麻呂]・朝獵)が揃って参議に任じられた。「良繼」は位が甥たちの下になったので、益々心中に怒りと怨みを抱いた。
二年が経って、天平寶字八(764)年に仲満(仲麻呂)は謀反を起こし、近江に逃亡した。「良繼」は、その日のうちに詔を承って、兵数百を率いて追撃して討った。この功により従四位下・勲四等を授けられ、次いで参議に任じられ、従三位を授けられた。寶龜二(771)年には、中納言から内臣となり、職封一千戸を賜った。これによって一人で政治を動かすことができるようになり、志が叶った。昇進や降格も思うままになった。寶龜八年、内大臣に任ぜられた。薨した時六十二歳で、從一位が贈られた。中納言の物部朝臣宅嗣(石上朝臣)と壹師濃王(壹志濃王❷)を派遣して弔わせている。
冬十月辛巳。授无位紀朝臣虫女從五位下。辛夘。正四位上藤原朝臣家依爲參議。正五位下高賀茂朝臣諸雄爲神祇大副。參議正四位上藤原朝臣是公爲兼左大弁。春宮大夫左衛士督侍從如故。正四位下田中朝臣多太麻呂爲右大弁。從五位上美和眞人土生爲右少弁。中納言從三位物部朝臣宅嗣爲兼中務卿。從四位下鴨王爲左大舍人頭。從五位下宗形王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣末茂爲圖書頭。從五位下百濟王仙宗爲助。從五位下賀茂朝臣大川爲内藏助。參議從三位藤原朝臣百川爲兼式部卿。右兵衛督如故。神祇伯從四位下大中臣朝臣子老爲兼大輔。從五位下藤原朝臣眞葛爲散位頭。從五位下安倍朝臣謂奈麻呂爲治部少輔。正五位上多治比眞人長野爲民部大輔。從五位下多朝臣犬養爲少輔。從五位上當麻眞人永嗣爲大判事。從四位下神王爲大藏卿。從五位下安倍朝臣草麻呂爲齋宮長官。從四位下石川朝臣名足爲造東大寺長官。從五位下紀朝臣門守爲鑄錢次官。從五位下藤原朝臣長河爲中衛少將。從五位下大中臣朝臣諸魚爲衛門佐。從五位下百濟王仁貞爲員外佐。從五位下紀朝臣弟麻呂爲左衛士員外佐。外從五位下大荒木臣押國爲遠江介。參議右衛士督從四位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼常陸守。正五位下粟田朝臣鷹守爲介。從五位上紀朝臣家守爲美濃守。從五位下安倍朝臣笠成爲越中守。從五位下廣川王爲因幡守。右大弁正四位下田中朝臣多太麻呂爲兼出雲守。從五位下藤原朝臣仲繼爲播磨介。從五位上田中王爲伊豫守。大納言近衛大將從二位藤原朝臣魚名爲兼大宰帥。從四位上石上朝臣息嗣爲大貳。從五位下笠朝臣名麻呂爲少貳。戊申。大赦天下。但八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。其入死者皆減一等。
十月三日、紀朝臣虫女(眞乙に併記)に従五位下を授けている。十三日に藤原朝臣家依を參議、高賀茂朝臣諸雄を神祇大副、參議の藤原朝臣是公(黒麻呂)を春宮大夫・左衛士督・侍從のまま兼務で左大弁、田中朝臣多太麻呂を右大弁、美和眞人土生(壬生王)を右少弁、中納言の物部朝臣宅嗣(石上朝臣)を兼務で中務卿、鴨王(❶)を左大舍人頭、宗形王を右大舍人頭、藤原朝臣末茂(❸)を圖書頭、百濟王仙宗(②-❺)を助、賀茂朝臣大川を内藏助、參議の藤原朝臣百川を右兵衛督のまま兼務で式部卿、神祇伯の大中臣朝臣子老を兼務で大輔、藤原朝臣眞葛(❺)を散位頭、安倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)を治部少輔、多治比眞人長野を民部大輔、多朝臣犬養を少輔、當麻眞人永嗣(得足に併記)を大判事、神王(❸)を大藏卿、安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を齋宮長官、石川朝臣名足を造東大寺長官、紀朝臣門守を鑄錢次官、藤原朝臣長河(❷)を中衛少將、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を衛門佐、百濟王仁貞(①-⓰)を員外佐、紀朝臣弟麻呂(宮子に併記)を左衛士員外佐、大荒木臣押國(忍國。道麻呂に併記)を遠江介、參議・右衛士督の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で常陸守、粟田朝臣鷹守を介、紀朝臣家守を美濃守、安倍朝臣笠成(土作。常嶋に併記)を越中守、廣川王(廣河王。❸)を因幡守、右大弁の田中朝臣多太麻呂を兼務で出雲守、藤原朝臣仲繼(藥子に併記)を播磨介、田中王(❹)を伊豫守、大納言・近衛大將の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を兼務で大宰帥、石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)を大貳、笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を少貳に任じている。
三十日、天下に大赦している。但し、八虐、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗、通常の赦では免されないものは、この赦の範囲に含めない。死罪に当たる者は、皆一段階減じている。
十一月己酉朔。天皇不豫。丙辰。左京人正八位下多藝連國足等二人賜姓物部多藝宿祢。美濃國多藝郡人物部坂麻呂等九人物部多藝連。丙寅。長門國獻白雉。戊辰。授无位川村王從五位下。己巳。授无位枚田女王從四位下。无位藤原朝臣眞男女從五位下。
十一月一日に天皇が病気になっている。八日、左京の人である「多藝連國足」等二人に「物部多藝宿祢」、美濃國多藝郡の人である「物部坂麻呂」等九人には「物部多藝連」の氏姓を与えている。十八日に長門國が「白雉」を献上している。二十日、「川村王」に従五位下を授けている。二十一日に「枚田女王」に従四位下、藤原朝臣眞男女(綿手に併記)に従五位下を授けている。
● 多藝連國足・物部坂麻呂
「國足」は左京人と記載されているが、その出自は美濃國多藝郡だったのであろう。「多藝郡」は、文武天皇紀では多伎郡、元正天皇紀では當耆郡と記載されていた。多藝=山稜の端が揃ってならんでいるところと解釈され、前出の別表記である。
当郡を出自とする人物として初見の二人の人物名である。國足=取り囲まれた地に足のように山稜が延びているところであり、その地形を図に示した場所に見出せる。
物部=山稜が[勿]の文字形に延びている谷間に近いところと読むと、「多藝」の谷間の様子を表現していることが解る。坂麻呂に含まれる頻出の坂=土+厂+又=山麓で山稜が手を延ばしたように延びている様であり、これらを纏めると、図に示した場所が出自と推定される。
多度山の北麓を居処とする一族だったのだが、「國足」が賜った物部多藝宿祢の氏姓あり、「坂麻呂」は物部多藝連と記載されている。異なる姓であることから、系列の異なる一族だったのであろう。
後(桓武天皇紀)に物部建麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。造長岡宮の大工として功績が認められ、その後も造宮大工として活躍されて物部多藝連の氏姓を名乗ったと知られている。建=廴+聿=山稜の端が[筆]のように延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。
長門國からの献上物語は、文武天皇紀に「白龜」、聖武天皇紀に「木連理」が記載されていた。共に現在の地形の変形が大きく、地図上で確認するのが極めて困難な状況であった。
後者の「木連理」については、辛うじて国土地理院航空写真から求めることができたが、曖昧さが残る有様であった(こちら参照)。
今回も全く状況に変わりはないが、白雉=矢のような鳥の形をした山稜がくっ付いているところと解釈して、図に示した場所を開拓したのではなかろうか。伊勢國及び石見國との端境の谷間を表している。
それにしても日本列島改造論の威力は凄まじかったことが伺える。とりわけ宅地開発は、残念ながら、元の地形を根こそぎ変形させてしまったようである。
● 川村王・枚田女王
両者共に「白壁王」に何らかの繋がりがある王・女王であったと推測される。中でも「枚田女王」は、初見で従四位下を叙爵されていて、光仁天皇紀になって多くの女王が登場しているが、その中の飽波女王等に類する系譜の持ち主と思われる。
❶川村王の「川村」の文字列は、既に登場していても不思議ではない名称なのだが、「河村」も含めて、全くの初見のようである。
既出の文字列である川村=手を広げたように延びた山稜の前が[川]の形に岐れているところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。榎井王の子孫かと思われるが、系譜は知られていないようである。後に幾度か登場され、従五位上に昇進されている。
❷枚田女王も同様に既出の文字列であり、枚田=山稜が折れ曲がっている傍らで平らに広がっているところと解釈して、図の場所が出自であったと思われる。「當麻王」の西隣となる。この後に登場されることはないようである。
少し後に❸塩屋王が従五位下を叙爵されて登場する。おそらく上記の王・女王との繋がりがある人物だと思われる。塩(鹽)屋=山稜の尾根が延び至った地が鏡ように平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後数度の任官が記載されているが、昇位はなかったようである。
引続き❹福當王が無位から従四位下を叙爵されて登場する。多分女王(福當女王)のように思われるが、定かではない。用いられている「當」は「當麻王」を示しているのであろう。福當=酒樽のような山稜の麓に[當]の地形があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。再度の登場は、見られないようである。
更に❺淺井王が従五位下を叙爵されて登場する。勿論、系譜不詳であり、上記の王・女王の係累として、淺井=戈のような山稜が二つ並んでいる地で四角く囲まれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。壹志王の谷間の奥に当たる場所である。
後(桓武天皇紀)に❻多賀王・❼葛井王が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同様であり、共に續紀中ではその場限りである。頻出の文字列である多賀=山稜の端が谷間を押し拡げるように延びているところ、葛井=山稜に四角く取り囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。前者は「榎井王」、後者は「壹志王・淺井王」の谷奥に当たる場所である。
十二月辛夘。初陸奥鎭守將軍紀朝臣廣純言。志波村賊。蟻結肆毒。出羽國軍与之相戰敗退。於是。以近江介從五位上佐伯宿祢久良麻呂爲鎭守權副將軍。令鎭出羽國。丁酉。中衛中將正四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲兼丹波守。壬寅。皇太子不悆。遣使奉幣於五畿内諸社。癸夘。出羽國蝦賊叛逆。官軍不利。損失器仗。」授外從五位上桑原公足床從五位上。乙巳。改葬井上内親王。其墳稱御墓。置守冢一烟。是冬。不雨。井水皆涸。宇治等川並可掲厲。
十二月十四日、初め陸奥鎮守将軍の紀朝臣廣純は…[志波村の賊が蟻のように集まって、好きなように害毒を撒き散らしており、出羽國の軍はこの賊と戦い、敗れて退却した]…と言上した。そこで近江介の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を鎮守副将軍に任じて、出羽國に出陣させた。二十日に中衛中将の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に丹波守を兼任させている。
二十五日に皇太子が病気になったので、使者を畿内五ヶ國の諸神社に派遣して、幣帛を捧げさせている。二十六日に出羽國の蝦夷の賊が叛逆し、官軍は不利で、武器を失っている。また、桑原公足床(桑原連足床)に内位の従五位上を授けている。
二十八日に井上内親王の遺骨を改葬し、その塚を御墓と称し、守冢(墓守)一戸を置いている。この冬、雨が降らず、井戸の水が涸れ、宇治等の川は徒歩で渡れる(掲厲)ようになった。<聖武天皇紀の天平十五(743)年六月にも「宇治河水涸竭。行人掲渉」と記載されている>
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『續日本紀』巻卅四巻尾