天宗高紹天皇:光仁天皇(21)
寶龜九年(西暦778年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
九年春正月戊申朔。廢朝。以皇太子枕席不安也。是日。宴次侍從已上於内裏。賜祿有差。自餘五位已上者。於朝堂賜饗焉。甲寅。宴侍從五位已上於内裏。賜被。丙辰。以宮内卿正四位下兼越前守大伴宿祢伯麻呂爲參議。戊午。右大弁正四位下田中朝臣多太麻呂卒。癸亥。宴五位已上。其儀如常。是日。從五位上矢口王。菅生王。三關王並授正五位下。從四位上大伴宿祢家持正四位下。從四位下藤原朝臣小黒麻呂。藤原朝臣乙繩並從四位上。正五位上多治比眞人長野從四位下。從五位下藤原朝臣鷹取。大中臣朝臣宿奈麻呂。紀朝臣犬養。藤原朝臣刷雄。石川朝臣豊麻呂。藤原朝臣黒麻呂並從五位上。正六位上多治比眞人人足。文室眞人八嶋。息長眞人長人。紀朝臣眞子。三嶋眞人大湯坐。路眞人石成。阿倍朝臣石行。大神朝臣人成。紀朝臣作良。大伴宿祢人足。阿倍朝臣船道。當麻眞人弟麻呂。大宅朝臣吉成。佐伯宿祢牛養。河邊朝臣嶋守。從六位上紀朝臣家繼並從五位下。外從五位下堅部使主人主外從五位上。正六位上阿倍志斐連東人。槻本公老並外從五位下。甲子。以大法師圓興爲少僧都。授正六位上平群朝臣祐麻呂從五位下。无位石川朝臣奴女。藤原朝臣祖子並從五位下。丁夘。遣從四位下壹志濃王。石川朝臣垣守等。改葬故二品井上内親王。」授无位縣犬養宿祢安提女從五位下。壬申。授女孺无位物部得麻呂外從五位下。丙子。授從四位下高野朝臣從三位。
正月一日、朝賀を廃している。皇太子の健康が思わしくないからである。この日、次侍従以上を内裏に招いて宴会し、それぞれに禄を賜っている。その他の五位以上は朝堂で饗応している。七日に侍従と五位以上を内裏に招いて宴会し、夜具を賜っている。九日に宮内卿で越前守を兼任する大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を参議に任じている。十一日に右代弁の田中朝臣多太麻呂が亡くなっている。
十六日に五位以上を招いて宴会したが、その儀式は常例通りにしている。この日、矢口王(❷)・菅生王・三關王(❸)に正五位下、大伴宿祢家持に正四位下、藤原朝臣小黒麻呂・藤原朝臣乙繩(繩麻呂に併記)に從四位上、多治比眞人長野に從四位下、藤原朝臣鷹取(❶)・大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)・紀朝臣犬養(馬主に併記)・藤原朝臣刷雄(眞從に併記)・石川朝臣豊麻呂(君成に併記)・藤原朝臣黒麻呂(❶)に從五位上、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)・文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)・息長眞人長人(廣庭に併記)・「紀朝臣眞子」・三嶋眞人大湯坐(大湯坐王⑮)・路眞人石成(鷹養に併記)・「阿倍朝臣石行」・大神朝臣人成(末足に併記)・「紀朝臣作良」・大伴宿祢人足(人成に併記)・阿倍朝臣船道(小東人に併記)・當麻眞人弟麻呂(枚人に併記)・「大宅朝臣吉成」・佐伯宿祢牛養(伊多治に併記)・河邊朝臣嶋守(川邊朝臣東人に併記)・紀朝臣家繼(家守に併記)に從五位下、堅部使主人主(田邊公吉女に併記)に外從五位上、「阿倍志斐連東人・槻本公老」に外從五位下を授けている。
十七日に大法師の圓興を少僧都に任じている。平群朝臣祐麻呂(邑刀自に併記)に従五位下、石川朝臣奴女(諸足に併記)・藤原朝臣祖子(勤子に併記)にそれぞれ従五位下を授けている。二十日、壹志濃王(❷)と石川朝臣垣守等を遣わして、故井上内親王を改葬させている。また、縣犬養宿祢安提女(酒女に併記)に従五位下を授けている。
二十五日に女孺の「物部得麻呂」に外従五位下を授けている。二十九日に「高野朝臣」(高野新笠。山部王等の母親)に従三位を授けている。
● 紀朝臣眞子・紀朝臣作良
「紀朝臣」一族から連綿と新人が登用されているのだが、その殆どが系譜不詳のようである。下流域の大口・大人系列以外については、記録が残されていないのであろう。
そんな背景で、今回叙位された「眞子・作良」二名も上流域の山側に出自場所を求めてみよう。眞子=生え出た山稜が寄り集まっている窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
現地名は豊前市川内である。『壬申の乱』の功臣である阿閉麻呂の谷間の奥に当たる場所と思われる。勿論、この人物は男性であり、後に備後守、土左守などを歴任し、従五位上に昇進されている。
作良=ギザギザとしている谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、その地形を図に示した場所に見出せる。図では省略されているが、長い谷間の最奥の地となる。この後に多く登場して多彩な任務に就き、續紀中では最終正五位下に昇ったようである。
少し後に紀朝臣常が従五位下を叙爵されて登場する。常=向+八+巾=北に向かって山稜が延びている様と解釈すると、図に示した、「作良」の東側の場所が出自と推定される。後に登場されることはないようである。
後の桓武天皇紀に紀朝臣兄原が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前が表す地形、兄原=谷間の奥が広がっている麓で平らに広がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。續紀中に数度、その後最終官位従四位下まで昇進されたようである。
● 阿倍朝臣石行
「阿(安)倍朝臣」も上記と同様に途切れることなく新人が登用されている。今回も複数であり、船道(元は引田朝臣。東人に併記)も同じく従五位下に叙爵されている。
「藤原朝臣」一族の後塵を拝して、なかなか高位を授けられることから遠ざかっている様相のようである。
孝謙天皇の乳母の一人として阿倍朝臣石井が叙位され、昇進して淳仁天皇紀には正五位下を叙爵されたと記載されていた。阿倍内親王の「阿倍」は、この「石井」の氏名に由来するとされているが、あり得ない話であろう。
それは兎も角として、この”石”に着目することになる。その「石井」の背後が、真っ直ぐに延びる山稜に区切られている地形を「行」で表した名前であることが解る。石行=山麓の小高い地の傍らで交差するように山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈される。この後、爵位は変わらずだが、幾度か登場しているようである。
少し後に阿倍朝臣祖足が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳で名前が示す地形を頼りとして、祖足=積み重なった高台の麓で[足]のように山稜が岐れて延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「石行」と同じように昇進はされないが、幾度かの任官が記載されている。
● 大宅朝臣吉成
古事記が記す天押帶日子命が祖となった大宅臣を遠祖とする一族であるが、上記の「紀朝臣・阿倍朝臣」と比べてぐっと登場人物は少ない。
とは言うものの直近では、称徳天皇紀に廣人が従五位下を叙爵されていた。かつては系譜も伝えられていたが、不詳のようである。
今回の人物も同様に系譜不詳であり、名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。頻出の文字列である吉成=蓋をするように延びた山稜が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
現在は地形が大きく変形している地域であるが、山稜の端の地形が辛うじて残されており、明瞭に判別できる数少ない例となったように思われる。もう一度登場されるが、その後の消息は不明である。
後(桓武天皇紀)に大宅朝臣廣江が従五位下を叙爵されて登場する。廣江=水辺で窪んだところが広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に数度京官・地方官に任じられたと記載されている。
「阿倍志斐連」の「志斐」の文字列は、中臣志斐連に含まれていた。その一族は筑前國を居処としていたと推定した。現地名では宗像市池浦である。
また續紀本文では元正天皇紀に悉斐連と記載されていたが、別称は「志斐連」であった。上記と区別する為に阿倍=台地の麓の谷間で山稜が岐れて広がっているところを付加したのであろう。
極めて多用される名称である東人=谷間を突き通すような様の地形を図に示した場所に見出せる。元正天皇紀以来の登場人物であった。この後二度ばかり人事の記述がみられる。
天兒屋命を遠祖とする、中臣(藤原)朝臣と同様に、一族であるが、周囲は渡来系の人々に囲まれたいたように思われる。いずれにしても渡来系の優秀な人材の陰に埋もれていたのかもしれない。
● 槻本公老
「槻本」の氏名を持つ一族には「槻本連」があり、書紀の天武天皇紀に槻本村主勝麻呂が連姓を賜ったと記載されていた。「村主・連」姓の系列とは異なり、今回の人物は「君・公」姓と推察される。
即ち、「槻本連」とは全く異なる場所を居処とする一族であったと思われる。勿論、槻本=小高い山稜が丸く区切られた地の麓のところの地形を示す場所でなければならないが・・・。
その地形を示す場所は、書紀の孝徳天皇紀に登場した今來大槻が思い起こされる。現地名は京都郡苅田町山口である。但し、現在はその麓は広大なダムになって、詳細な地形を伺うことは困難であり、国土地理院航空写真1961~9年を参照して当時の地形を推測してみよう。
調べてみると、意外にも系譜が伝えられていて、近江國の住人である転(轉)戸の娘の子が石村、その子が今回登場の老とのことである。彼等の名前が表す地形を述べると、轉戸=車輪のように丸く区切られた山稜が戸になっているところ、石村=山麓の小高い地が山稜が手を開いて延ばしたようなところ、老=山稜が海老のように曲がっているところと読み解ける。
これ等の地形が図に示したように東から西に並んでいる様子が確認される。大伴宿祢一族が西側から浸食して来ているが、果たしてこの後如何なることになるのか・・・既にその端境の隙間は埋まっているのだが・・・「老」は、續紀にもう一度登場している。
「物部(無姓)」の氏名を持つ人々については、幾つかの系統があった。その中でも全く居処の情報が欠落している山背・孫足については、所謂、”本家物部”の地、その谷間の最奥に蔓延っていたと推測した。
「伊莒弗」からの系列は、下流域へと展開し、そこから多くの高位の官人を輩出したのである(こちら参照)。
そんな背景から今回の人物の居処を、得麻呂の得=彳+貝+寸=手のような山稜の傍らで谷間が真っ直ぐに延びている様と解釈して「山背・孫足」の麓にこの人物の出自場所を求めることができる。
女孺であるが、外従五位下を授与されている。「物部大連・石上朝臣」等と同族であり、賜姓されても不思議はないのだが、要求しなかったのかもしれない。邇藝速日命の子孫と言う矜持なのか、これ等に関する関連情報見出せない。何らかの働きがあっての叙位であろうが、この後に登場されることはないようである。
聖武天皇紀に登場した倭武助の後裔に当たる人物と推測されている。ただ、決して確固たる資料が残っているわけでなく、推論を重ねた結果として語り継がれているようである。
「倭(ヤマト)」と訓されていることからも、彼等の出自場所については、全く混迷の有様であろう。どうやら「和乙繼」と「高野新笠」との親子関係だけが信頼できる情報のようである。
早速、古事記の高志國之沼河比賣の谷間周辺(越前國加賀郡、現地名:北九州市門司区伊川)に彼等の居処が存在するかを確かめてみよう。乙繼=[乙]の字形に曲がっている地が連なっているところと解釈すると、「武助」の南側に、その地形を見出せる。別名弟嗣も真っ当な表記と思われる。この親子関係を否定する配置ではない。
既に用いられた表記である高野=皺が寄ったような山稜の麓に野が広がっているところと読むと、「倭(和)」の山稜に波打つような凹凸があり、山稜全体が皺が寄った形をしていることが解る。この山稜の端が、一段と高くなっている。それを比羅保許山と推定した。
名前の新笠=切り分けられた山稜の端が笠のような形をしているところと読み解ける。その麓が高野朝臣の出自場所と推定される。「白壁王」との位置関係は、図に示した通り、在野の才媛を求めることに関して格好の距離であったのではなかろうか。
尚、もう一つ確からしい情報として、「高野新笠」の母親、即ち「乙繼」が娶った女性が土師宿祢眞妹(父親が富杼)と知られている。こちらにその人物の出自場所を示した。都を遠く離れた地で人々が生き生きと交流し、子孫を育んでいた様子が伺えるようである。越前國と出雲國の配置、決して日本海を船を漕いで行き来していたのではない。
二月辛巳。以正四位上左大弁春宮大夫左衛士督藤原朝臣是公爲兼大和守。從五位下廣田王爲伊賀守。内薬正外從五位下吉田連斐太麻呂爲兼伊勢介。從五位上美和眞人土生爲駿河守。左衛士員外佐從五位下紀朝臣乙麻呂爲兼相摸介。從五位下高麗朝臣石麻呂爲武藏介。近衛中將正四位上道嶋宿祢嶋足爲兼下総守。從五位上中臣朝臣常爲近江介。從五位下大原眞人淨貞爲信濃守。從五位下大伴宿祢人足爲下野介。外從五位下黄文連牟祢爲佐渡守。從五位下佐伯宿祢牛養爲丹後守。從五位上田中王爲但馬守。從五位上當麻眞人永繼爲出雲守。衛門佐從五位下大中臣朝臣諸魚爲兼備前介。從四位下藤原朝臣雄依爲讃岐守。外從五位上堅部使主人主爲介。從四位下石川朝臣垣守爲伊豫守。從五位下當麻眞人乙麻呂爲筑後守。從五位下三嶋眞人安曇爲肥前守。内藥佑外從五位下吉田連古麻呂爲兼豊前介。乙酉。侍從從四位下奈貴王卒。丙戌。以從五位下藤原朝臣末茂爲美濃介。癸巳。右衛士府生少初位上飯高公大人。左兵衛大初位下飯高公諸丸二人。賜姓宿祢。乙未。從四位下藤原朝臣雄依爲侍從。讃岐守如故。庚子。以從四位下石川朝臣名足爲右大弁。正五位下豊野眞人奄智爲右中弁。從五位下紀朝臣古佐美爲右少弁。從五位上藤原朝臣鷲取爲中務大輔。從五位下大宅朝臣吉成爲左大舍人助。從五位下藤原朝臣長山爲圖書頭。從五位下笠王爲内藏頭。武藏守如故。外從五位下高橋連鷹主爲畫工正。正五位上淡海眞人三船爲大學頭。文章博士如故。從五位上袁晋卿爲玄蕃頭。外從五位下阿倍志斐連東人爲主計頭。正五位下高賀茂朝臣諸魚爲兵部大輔。從五位下紀朝臣眞子爲大藏少輔。正五位下石上朝臣家成爲宮内大輔。正五位下菅生王爲大膳大夫。從五位下乙訓王爲亮。從五位下清原王爲大炊頭。正五位下藤原朝臣種繼爲左京大夫。從五位下紀朝臣難波麻呂爲亮。從五位上佐伯宿祢久良麻呂爲春宮亮。從五位上紀朝臣犬養爲造宮大輔。從五位上石川朝臣豊麻呂爲少輔。從四位下吉備朝臣泉爲造東大寺長官。從五位下文室眞人眞老爲造西大寺次官。從五位上紀朝臣船守爲近衛少將。内厩助土左守如故。從五位下紀朝臣豊庭爲員外少將。從三位藤原朝臣百川爲中衛大將。式部卿如故。從五位下紀朝臣家繼爲右衛士員外佐。正五位上大伴宿祢益立爲右兵衛督。從五位下笠朝臣望足爲右馬頭。從四位下石川朝臣豊人爲大和守。從五位下紀朝臣宮人爲越中介。外從五位下日置首若虫爲筑後介。
二月四日に左大弁・春宮大夫・左衛士督の藤原朝臣是公(黒麻呂)を兼務で大和守、廣田王(❽)を伊賀守、内薬正の吉田連斐太麻呂を兼務で伊勢介、美和眞人土生(壬生王)を駿河守、左衛士員外佐の紀朝臣乙麻呂(弟麻呂。宮子に併記)を兼務で相摸介、高麗朝臣石麻呂を武藏介、近衛中將の道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)を兼務で下総守、中臣朝臣常(宅守に併記)を近江介、大原眞人淨貞(都良麻呂)を信濃守、大伴宿祢人足(人成に併記)を下野介、黄文連牟祢を佐渡守、佐伯宿祢牛養(伊多治に併記)を丹後守、田中王(❹)を但馬守、當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)を出雲守、衛門佐の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で備前介、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を讃岐守、堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を介、石川朝臣垣守を伊豫守、當麻眞人乙麻呂(弟麻呂。枚人に併記)を筑後守、三嶋眞人安曇(安曇王。⑦)を肥前守、内藥佑の吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)を兼務で豊前介に任じている。
八日、侍従の奈貴王(石津王に併記)が亡くなっている。九日に藤原朝臣末茂(❸)を美濃介に任じている。十六日に右衛士府生の「飯高公大人」、左衛士府生の「飯高公諸丸」の二人に宿祢姓を賜っている。十八日に藤原朝臣雄依を讃岐守のままで侍従に任じている。
二十三日に石川朝臣名足を右大弁、豊野眞人奄智(奄智王)を右中弁、紀朝臣古佐美を右少弁、藤原朝臣鷲取(❷)を中務大輔、大宅朝臣吉成を左大舍人助、藤原朝臣長山(長道に併記)を圖書頭、笠王を武藏守のままで内藏頭、高橋連鷹主を畫工正、淡海眞人三船を文章博士のままで大學頭、袁晋卿(李元環の近隣)を玄蕃頭、阿倍志斐連東人を主計頭、高賀茂朝臣諸魚(諸雄。田守に併記)を兵部大輔、紀朝臣眞子を大藏少輔、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を宮内大輔、菅生王を大膳大夫、乙訓王を亮、清原王(長嶋王に併記)を大炊頭、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を左京大夫、紀朝臣難波麻呂を亮、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を春宮亮、紀朝臣犬養(馬主に併記)を造宮大輔、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を少輔、吉備朝臣泉(眞備に併記)を造東大寺長官、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を造西大寺次官、紀朝臣船守を内厩助・土左守のままで近衛少將、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を員外少將、藤原朝臣百川を式部卿のままで中衛大將、紀朝臣家繼(家守に併記)を右衛士員外佐、大伴宿祢益立を右兵衛督、笠朝臣望足(始に併記)を右馬頭、石川朝臣豊人を大和守、紀朝臣宮人(宮子に併記)を越中介、日置首若虫(日置毘登乙虫)を筑後介に任じている。
「飯高公」一族については、称徳天皇紀に「家繼」が、本紀に入って「若舎人」が宿祢姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。
今回登場の二人の人物も「公(君)」姓であり、諸高(笠目)の「親族縣造」(飯高君を賜姓されている)に属していたのであろう。
大人=平らな頂の山稜が[人]の形をして延びているところ、諸丸=耕地が交差するように延びている地に丸く小高い山稜があるところと解釈される。「笠目」の谷奥に当たる場所にそれぞれの地形を見出せる。
「親族縣造」の場所と推定した地を出自とする人々であった。実に首尾一貫の記述を行っているようである。正史に相応しい史書であることが伺える。それにしても、「諸高」の評価は極めて高いものであったのだろう。勿論、それに見合う有能かつ清廉潔白な資質を持ち合わせた人物と伝えている。
三月己酉。宴五位已上於内裏。令文人賦曲水。賜祿有差。是日。以大納言從二位藤原朝臣魚名爲内臣。近衛大將大宰帥如故。土佐國言。去年七月。風雨大切。四郡百姓。産業損傷。加以。人畜流亡。廬舍破壞。詔加賑給焉。丙辰。從五位上藤原朝臣刷雄爲刑部大判事。從四位上伊勢朝臣老人爲中衛中將。修理長官遠江守如故。正五位下葛井連道依爲少將。勅旨少輔甲斐守如故。外從五位下槻本公老爲右兵衛佐。甲子。授正七位下伊福部妹女從五位下。丙寅。誦經於東大西大西隆三寺。以皇太子寢膳乖和也。己巳。勅。淡路親王墓宜稱山陵。其先妣當麻氏墓稱御墓。充隨近百姓一戸守之。庚午。勅曰。頃者。皇太子沈病不安。稍經數月。雖加醫療。猶未平復。如聞。救病之方。實由徳政。延命之術。莫如慈令。宜可大赦天下。自寳龜九年三月廿四日昧爽以前大辟已下。罪無輕重。未發覺。已發覺。未結正。已結正。繋囚見徒。咸赦除之。但八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。若入死者降一等。敢以赦前事告言者。以其罪罪之。」又爲皇太子。令度卅人出家。癸酉。大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。」又於畿内諸界祭疫神。丙子。内臣從二位藤原朝臣魚名改爲忠臣。
三月三日に五位以上を内裏に招いて宴会し、文人に曲水の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。この日、大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を内臣に任じ、近衛大将と大宰帥は元のままとしている。また、土左國が以下のように言上している・・・去年の七月、風雨が激しく、四郡の人民の生業に被害があった。それだけではなく、人や家畜が流されて死に、住居が破壊された・・・。詔されて、物を恵み与えている。
十日に藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を刑部大判事、伊勢朝臣老人を修理長官・遠江守のままで中衛中將、葛井連道依(立足に併記)を勅旨少輔・甲斐守のままで少將、槻本公老を右兵衛佐に任じている。十八日に伊福部妹女(伊福部宿祢紫女に併記)に從五位下を授けている。
二十日に東大・西大・西隆三寺で誦経をさせている。皇太子の身体の具合が思わしくなかったからである。二十三日に次のように勅されている・・・淡路親王(淳仁天皇)の墓を山陵と称し、その亡き母の當麻氏(當麻眞人山背)の墓を御墓と称するようにせよ。近くの人民一戸を宛てて守らせよ・・・。
二十四日に次のように勅されている・・・このごろ皇太子は病に臥し、思わしくない状態が数ヶ月に及んでいる。医療を加えたけれども、未だ回復するに至っていない。聞くところでは、病を救う方法は、まことに德のある政治によるのであり、命を延ばす術は、慈しみ深い政令に優るものはない、ということである。---≪続≫---
そこで天下に大赦をしようと思う。寶龜九年三月二十四日の夜明け以前の死刑以下、罪の軽重を問うことなく、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、捕らわれて現に囚人となっているものは、皆全て赦免せよ。ただし、八虐、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗、普通の罪では赦されないものは、この赦の範囲に入れない。---≪続≫---
もし、死罪になる者がいたならば、罪一等を減じよ。あえて赦より前の事を告げ口する者がいたならば、その犯罪に該当する罪によって罰するようにせよ・・・。また、皇太子のために三十人を得度して出家させている。
二十七日に大赦を行っている。使を遣わして、幣帛を伊勢大神宮と天下の諸神に奉っている。皇太子が回復しないからである。また、畿内の各境界で疫神(疫病神)を祭らせている。三十日に内臣の藤原朝臣魚名を改めて忠臣としている。
夏四月甲申。勅。自今以後。五位已上位田。薨卒之後。一年莫收。」攝津國獻白鼠。庚寅。授筑前國宗形郡大領外從八位上宗形朝臣大徳外從五位下。辛夘。授女孺无位國見眞人川田從五位下。甲午。幸右大臣第。授第六息正六位上今麻呂從五位下。其室從四位下多治比眞人古奈祢從四位上。戊戌。授從五位下石川朝臣毛比正五位下。庚子。授正六位上紀朝臣伯麻呂從五位下。丙午。先是。寳龜七年。高麗使輩卅人。溺死漂着越前國江沼加賀二郡。至是。仰當國令加葬埋焉。
四月八日に次のように勅されている・・・今後、五位以上に与えられている位田は、死亡の後、一年間収公してはならない・・・。また、攝津國が「白鼠」を献上している。十四日に筑前國宗形郡大領の「宗形朝臣大德」に外従五位下を授けている。十五日、女孺の「國見眞人川田」に従五位下を授けている。
十八日に「右大臣」(大中臣朝臣清麻呂)の邸宅に行幸されている。第六子の「今麻呂」に従五位下、その妻の多治比眞人古奈祢(古奈弥。小耳に併記)に従四位上を授けている。二十二日に石川朝臣毛比に正五位下を授けている。二十四日に「紀朝臣伯麻呂」に従五位下を授けている。三十日、これより前、寶龜七年に高麗(渤海)使の人々三十人が溺死して越前國江沼・加賀二郡に漂着した。ここに至って当國に命令して埋葬させている。
攝津國:白鼠
「白鼠」は、聖武天皇紀に京識が献上していた(こちら参照)。勿論、これは瑞祥ではなく、白鼠=谷間の両側に鼠の巣穴のような地形が並んでいるところを表していると解釈した。
この時代になっても”正統”な瑞祥に該当しないものを語るとは、不可思議である、と疑わないのが古代史学である。いや、疑念はあるが、如何ともし難い、のであろう。
その地形を攝津國で探すと、なかなか辿り着くことができなかった。漸く見出せたのが、山背國との境である大津連(宿祢)の居処の背後であった。現地名は行橋市天生田・京都郡みやこ町犀川花熊となる。前出の水雄岡の北麓に当たる。
後(桓武天皇紀)に大津連廣刀自が外従五位下を叙爵されて登場する。廣刀自=山稜の端が広がった[刀]の形しているところと解釈すると、図に示した「白鼠」の谷間の出口辺りが出自と推定される。
「宗形朝臣」への叙位は、時を隔てて行われていたことが記載されている。登場順に並べると、等杼(大領。外従五位上)、鳥麻呂(大領。外従五位下、少し後に上)、赤麻呂(胸形朝臣。外従五位下、後に外正五位上)、与呂志(大領。外従五位下)、深津(大領。外従五位下)であった。
「赤麻呂」は、宗形朝臣と表記されるが、本来は「胸形」であり、異なる系列、高市皇子が娶った胸形君德善女尼子娘の近隣の地を出自とする一族だったと推定した。
他の人物は全て宗形郡大領の肩書を持っていて、今回登場の大德と同じ位置付けとなる。以上の背景を踏まえて、既出の文字列である大德=平らな頂の麓で谷間が四角く区切られているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。”宗形”の谷間の出口にずらりと並んだ配置となる。
「國見眞人」に関する情報は皆無であり、聖武天皇紀に「眞城(木)」が登場した時に元は「當麻眞人」一族と推測した(こちら参照)。
どうやら「當麻」が表す地形から随分と異なるものになっている地であり、おそらくより適切な名称に変更したのであろう。「眞城」は更に「大宅眞人」を名乗ったと記載され、更に身近な地形を表すようになっている。
今回登場の名前の「川田」は、些か曖昧さが残る名称であり、川田=田が真っ直ぐに延びているところと解釈することにする。勿論、「川が流れる傍らに田が広がっているところ」と読むこともできるであろう。
しかしながら、それでは、全く曖昧な地形象形表記となろう。勿論、國見の地形の場所である。續紀中に二度と登場されることはないようである。
● 大中臣朝臣今麻呂
本文に記載されている通りに清麻呂周辺の地にその出自場所を求めることになる。この一家は子老が登場した時に纏めたが、些か混み入って来たので改めて図に示すことにした。
狭隘な場所であるが、何とか息子達の名前が表す地形を確認することができる。それにしても不比等(藤原朝臣)の後裔達とのせめぎ合いの様相である。
名前の今麻呂の今=亼+一=蓋をするように覆い被さる様と解釈する。「子老」の山稜の端が広がりながら延びているところを表していることが解る。「諸魚」と淨辨との間の場所と推定される。
「大中臣朝臣」の中では「子老」が最も高位の正四位下・参議に任じられ(延暦八[789]年卒去)、「今麻呂」は續紀中、昇進はなく、僅か四年後の天応二(782)年に大判事を任じられたと記載された以降消息を絶っている。不測の出来事があったのではなかろうか。
少し後に大中臣朝臣安遊麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「子老」の子と知られているようであり、安遊麻呂=嫋やかに曲がる谷間に旗をなびかせたような地が生え出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「遊」=「辶+㫃+子」=「旗をなびかせたような地が生え出ている様」とした既出の文字である。その後に幾度か登場されるようである。
更に後(桓武天皇紀)に大中臣朝臣弟成が従五位下を叙爵されて登場する。「宿奈麻呂」の長男と知られている。弟成=ギザギザとした縁の地が平らに整えられているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。
初見で従五位下を叙爵されるという歴とした「紀朝臣」一族であろう。調べると、「宿奈麻呂」の子と知られていることが分かった。
ところが、續紀中に「宿奈麻呂」は登場せず、更に調べると「麻呂」の長男であったとのことである。跡継ぎを誕生させたのだが、早世したのかもしれない。
頻出の文字列である宿奈=山稜の端が縮こまったように細く延びる平らな高台になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
同様に頻出の伯麻呂の伯=二つの谷間がくっ付いている様と解釈すると、父親の北側の地が出自場所であることが解る。この後に従五位上に昇進、大宰少貮を任じられている。
五月乙夘。授无位伊勢朝臣清刀自從五位下。丁夘。寅時地震。辛未。又震。」從五位下昆解宿祢佐美麻呂爲駿河介。癸酉。三品坂合部内親王薨。遣從四位下壹志濃王等。監護喪事。所須並官給之。天皇爲之廢朝三日。内親王天宗高紹天皇異母姉也。
五月九日に伊勢朝臣清刀自(諸人に併記)に従五位下を授けている。二十一日、寅の時(午前四時)に地震が起こっている。二十五日に、また地震が起こっている。昆解宿祢佐美麻呂(沙弥麻呂。宮成に併記)を駿河介に任じている。
六月庚子。賜陸奥出羽國司已下。征戰有功者二千二百六十七人爵。授按察使正五位下勳五等紀朝臣廣純從四位下勳四等。鎭守權副將軍從五位上勳七等佐伯宿祢久良麻呂正五位下勳五等。外正六位上吉弥侯伊佐西古。第二等伊治公呰麻呂並外從五位下。勳六等百濟王俊哲勳五等。自餘各有差。其不預賜爵者祿亦有差。戰死父子亦依例叙焉。辛丑。特詔。遣參議正四位上左大弁藤原朝臣是公。肥後守從五位下藤原朝臣是人。奉幣帛於廣瀬瀧田二社。爲風雨調和。秋稼豊稔也。
六月二十五日に陸奥・出羽の國司以下、蝦夷征討の戦いに功績のあった者二千二百六十七人に位を与えている。按察使・勲五等の紀朝臣廣純に従四位下・勲四等、鎮守権副将軍・勲七等の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に正五位下・勲五等、「吉弥侯伊佐西古」と第二等の「伊治公呰麻呂」に外従五位下、勲六等の百濟王俊哲(②-❶)に勲五等を授けている。その他の者にはそれぞれ位を授けている。位を賜らなかった人は、それぞれ禄を賜っている。戦死した父の子も、例に依って叙位されている。
二十六日に特に詔されて、参議・左大弁の藤原朝臣是公(黒麻呂)と肥後守の藤原朝臣是人を遣わして、幣帛を廣瀬(廣瀬河曲大忌神)・瀧田(龍田立野風神)二社に奉っている。風雨が調和し、秋の稔りが豊かになることを祈願するためである。
● 吉弥侯伊佐西古・伊治公呰麻呂
蝦夷との戦いに於いて、現地で参戦し、功績を上げた人物名が記載されている。一働きで外従五位下を叙位されるとは、有難いことであったろう。
陸奥國では、称徳天皇紀に多くの帰順した蝦夷に叙爵・賜姓の記述があった。その中に幾人かの「吉弥侯部」の氏名を持つ人物も記載されていた(例えばこちら参照)。
今回は「部」のない、正に「吉弥侯」の地を居処とする人物と思われる。名前の伊佐西古をそのまま読み下すと伊佐西古=谷間に区切られ笊のような窪んだ地がある左手のように延びた山稜が丸く小高くなっているところとなる。いずれにせよ、四つの地形要素からなる場所を表していることが解る。
部=近辺が付かないのは、伊佐西古が「吉弥侯」そのものの山稜を表しているからであり、極めて真っ当な表記と思われる。最も特徴的な地形である「西」は、西大寺の「西」=「笊の形」である。
伊治公呰麻呂の「伊治」は伊治城に因む名称であろう。少し後に陸奥國上治郡の大領であったと記載されている。「上治郡」の上治=盛り上がった地と水辺で耜のような形をした地が並んでいるところと読み解くと、図に示した場所を表していると思われる。当時の「上治郡」の山稜は、海に突き出た半島の地形であったと推測される。
「呰麻呂」に含まれる既出の呰=此+囗=谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。後に『寶龜の乱』と呼ばれる事件を起こすことになる。通説では「上治郡」の場所は定かではないようであり、栗原郡との位置関係は不詳である。