2024年2月28日水曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(15) 〔666〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(15)


寶龜六(西暦775年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月壬辰朔。參議大宰帥從三位勳二等藤原朝臣藏下麻呂薨。平城朝參議正三位式部卿大宰帥馬養之第九子也。自内舍人。遷出雲介。寳字七年。授從五位下。任少納言。八年之亂。賊走近江。官軍追討。藏下麻呂將兵奄至。力戰敗之。以功授從三位勳二等。歴近衛大將兼左京大夫伊豫土左等國按察使。寳龜五年。自兵部卿遷大宰帥。薨年卌二。丙申。參河。信濃。丹後三國飢。並賑給之。壬寅。以從四位下石川朝臣名足爲大宰大貳。從五位下多治比眞人豊濱爲少貳。丁未。下野國言。都賀郡有黒鼠數百許。食草木之根數十里所。庚戌。雨雹。大者如碁子。丙辰。山背國紀伊郡人從八位上金城史山守等十四人賜姓眞城史。丁巳。授正五位下藤原朝臣諸姉正五位上。无位藤原朝臣綿手從五位下。

七月一日に参議・大宰帥・従三位・勲二等の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)の参議・正三位・式部卿・大宰帥の馬養(宇合)の第九子であった。内舎人より出雲介に遷り、天平字七(763)年に従五位下を授けられ、少納言に任じられた。翌年の乱で賊(仲麻呂等)が近江に逃走し、官軍が追討した時、「藏下麻呂」は兵を率いてたちまち追いつき、力戦して「仲麻呂」等を破った。この功で従三位・勲二等を授けられ、近衛大将兼左京太夫や、伊豫・土左等の國の按察使を歴任した。寶龜五年に兵部卿から大宰帥に遷った。薨じた年は四十二であった。

五日、參河・信濃・丹波の三國に飢饉が起こったので、それぞれに物を恵み与えている。十一日に石川朝臣名足を大宰大貮、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を少貮に任じている。十六日に下野國が以下のように言上している・・・「都賀郡」に黒鼠が数百匹ばかり現れて、数十里ほどのところの草木の根を食ってしまった・・・。十九日に雹が降っている。大きさは碁石ほどであった。

二十五日に山背國紀伊郡の人である「金城史山守」等十四人に眞城史の氏姓を賜っている。二十六日に藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正五位上、「藤原朝臣綿手」に従五位下を授けている。

<下野國都賀郡>
下野國都賀郡

下野國については、全くの遅ればせながらの郡名記述であろう。聖武天皇紀に蝦夷征討の物語の中に賀美郡が記載され、下野國の東端、上野國との境にある場所と推定した(現地名は北九州市門司区吉志)。

また下野藥師寺や光仁天皇紀になって足利驛の存在が示されていた。また、人物名としては、聖武天皇紀に古仁染思・虫名が外従五位下を叙爵されて登場していた。「足利驛」周辺地を出自としていたと推定した程度であって、関連記述の極めて少ない國であることに違いないであろう。

都賀郡に含まれる、頻出の文字列である都賀=押し開かれたような谷間が交差するように寄り集まっているところと解釈すると、図に示した地域を表していると思われる。「賀美郡」の西隣と推定される。「足利驛」は、この郡には含まれず、「下野藥師寺」は、その端境辺りではなかろうか。

<金城史山守・秦造子嶋>
● 金城史山守

称徳天皇紀に咒禁師の「末使主望足」が外従五位下を叙爵されて登場し、「山背國紀伊郡」を居処としていた、と推定した(こちら参照)。

「山背國紀伊郡」は記紀・續紀を通じて記載されることはなく、ここで初めて登場したことになる。「紀伊」を固有の地名とするなら、何とも怪しげな郡名となろう。

氏名に含まれる頻出の文字列でる金城=[金]の形をした山稜が平らに整えられているところと読み解ける。その特徴的な地形を図に示した場所に見出せる。綴喜郡の南に隣接する場所となるが、少々入組んだ端境となっていたようである。

名前も同様に頻出の文字列であって、山守=[山]の形に延びた山稜の端が両肘を張り出して取り囲んでいるところと解釈すると、出自の場所を推定することができる。賜った眞城史眞城=平らに整えられた地が寄せ集められて窪んだところと読み解ける。真っ当な氏姓であろう。

後(桓武天皇紀)に外従五位下の秦造子嶋が右衛士大尉に任官されたと記載される。これがこの人物の初見である。「葛野秦造」一族は、既に忌寸姓を賜っていることからすると、書紀の秦大津父のかつての居処を出自としていたのではなかろうか。子嶋=生え出た山稜が鳥のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

尚、その後の延暦九(790)年三月に、正六位上から外従五位下の叙位が記載されていて、些か混乱しているように思われるが、詳細は不明である。それ以外の登場は見られない。

また、山代忌寸越足が外従五位下を叙爵されて登場する。越足=[鉞]のような地の傍らで[足]のように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に登場されることはないようである。

<藤原朝臣綿手-敎貴-眞男女>
● 藤原朝臣綿手

直近でも系譜不詳の「藤原朝臣」が登場していたが、この人物も四家のいずれかに属していたにも拘わらず、同様に不詳のようである。

名前に含まれる「綿」の文字を用いる例は希少であろう。「綿」=「糸+帛」と分解すると、「綿」=「細く延びた山稜に丸く小高い地がある様」と解釈される。枝の先に付いた綿の実の形状を模した表記とも思われる。

纏めると綿手=手のように延びた端に丸く小高い地があるところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。京家と式家の端境とも言える場所、多分式家に関わる人物だったと思われるが、と推定される。この後幾度か登場され、命婦・正四位下に昇られたとのことである。

直後に藤原朝臣教貴が従五位上を叙爵されて登場する。「綿手」同様に関連する情報が欠落していて、名前から出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。希少な文字である教(敎)=爻+子+攴=岐れて生え出た山稜が交差するような様貴=臾+貝=谷間が両手のような山稜に挟まれている様と解釈した。それらの地形要素を満足する場所と思われる。

後に藤原朝臣眞男女が従五位下を叙爵されて登場する。何とも複雑な名前であるが、地形象形表記の最たるものであろう。そのまま訳すと、眞男女=盛り上がって突き出た山稜が寄り集まって窪んでいるところの女となる。その地形を図に示した場所に見出せる。

八月丙寅。和泉國飢。賑給之。戊辰。有野狐。踞于閤門。從五位下昆解沙弥麻呂賜姓宿祢。辛未。授正五位下百濟王明信正五位上。癸酉。始設蓮葉之宴。丙子。授正五位上安倍朝臣子美奈從四位下。庚辰。太政官奏曰。伏奉去七月廿七日勅。如聞。京官祿薄。不免飢寒之苦。國司利厚。自有衣食之饒。因茲。庶僚咸望外任。多士曾无廉恥。朕君臨區宇。志在平分。思欲割諸國之公廨。加在京之俸祿。卿等宜詳議奏聞者。臣聞。三代弛張。百王沿革。隨時損益。事在利人。伏惟。陛下仁霑品物。化被群方。愍庶僚之飢寒。均内外之豊儉。損彼有餘。補此不足。凡在動植。莫不霑潤。臣等承奉聖旨。喜百恒情。臣等商量。毎國割取公廨四分之一。以益在京俸祿。奏可。癸未。伊勢。尾張。美濃三國言。九月日異常風雨。漂沒百姓三百餘人。馬牛千餘。及壞國分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝數。遣使修理伊勢齋宮。又分頭案検諸國被害百姓。是日。祭疫神於五畿内。庚寅。授遣唐録事正七位上羽栗翼外從五位下。爲准判官。辛夘。大祓。以伊勢美濃等國風雨之災也。

八月五日に和泉國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。七日に野狐が現れて、閤門(内裏の門)に踞っていた。この日、昆解沙弥麻呂(宮成に併記)に宿祢姓を賜っている。十日に百濟王明信(①-)に正五位下を授けている。十二日に初めて蓮の葉を観る宴を催している。十五日に「安倍朝臣子美奈」(藤原良繼の妻)に従四位下を授けている。

十九日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで去る七月二十七日の勅、[聞くところによると、中央の官人は俸禄が薄く、飢えや寒さの苦しみを免れない。地方の國司は利益が厚く、おのずから衣食が饒かである。そのために一般の官僚はみな地方官になることを望み、多くの官人がまったく廉恥の心を失くしているという。朕は天下に君臨し、平等に分けることを心掛けている。諸國の公廨稲を割き、在京の役人の俸禄に加えようと思う。卿等は詳しく審議して、奏聞せよ]と承った。私たちは、[中国三代の政治はゆるんだり緊張したりし、多くの帝王の治世は様々に移り変わったが、時に応じて省いたり増したりするのは、目指す所は人々の利益のためである]と聞いている。---≪続≫---

伏して思うに、陛下の仁徳は万物を潤し、徳化は諸々の地方に行渡り、多くの官僚の飢えや寒さを憐れみ、中央と地方の貧富を均等にしようとされている。確かに片方の余りがるのを減じて、他方の不足を補うようにすれば、この世に在る動植物で潤いを受けないものはないでしょう。私どもは天皇のありがたい仰せを承り、喜びは常の情に百倍する。私どもが考えるに、國ごとに公廨稲の四分の一を割き取って、それで在京の役人の俸禄を益ことにしたいと思う・・・。この奏上は許可されている。

二十二日に伊勢・尾張・美濃の三國が以下のように言上している・・・異常の風雨があり、人民三百人余りと、馬と牛先頭余りが流されて水中に沈み、その上國分寺や諸寺の塔が十九基も壊れた。官や個人の家屋で壊れたものは数えることができない・・・。朝廷は使を遣わして、伊勢齋宮を修理させると共に、手分けして諸國の被害を受けた人民を取調べさせている。この日、疫神(疫病神)を畿内五ヶ國で祭っている。

二十九日に遣唐録事の羽栗翼に外従五位下を授け、准判官に任じている。三十日に大祓を行っている。伊勢・美濃などの國々で、風雨の被害があったためである。

<安倍朝臣子美奈・藤原朝臣乙牟漏>
● 安倍朝臣子美奈

この人物の素性については、かなり詳細に伝わっているようである。阿倍朝臣粳虫の娘であり、後に内臣の藤原朝臣良繼の室となっている。

また、後の桓武天皇の義母になっていて、流石に皇統に絡むと系譜の記録は残されていたわけである。勿論、元は「布勢朝臣」の系列である。

そんな背景から、出自の場所は「粳虫」の近隣として子美奈が表す地形を探すと、図に示した辺りと推定される。古事記風の名称である子美奈=生え出たような山稜の麓で谷間が広がった地に高台があるところと解釈する。

最終的には、従三位・尚藏兼尚侍であり、亡くなられた時には正一位を贈られたと伝わっている。「良繼」は「仲麻呂」との確執で紆余曲折の人生であったが、共に歩んで来たのであろう。

後(桓武天皇紀)に娘の藤原朝臣乙牟漏が正三位・夫人となって登場する。後に皇后となった人物である。本来は式家の地を出自とするのだが、どうやら母方で生育されたのではなかろうか。藤原朝臣雄田麻呂(百川)に類する。乙牟漏=小高い地が点々と連なって[牟]の古文字形ようになった山稜が水辺で[乙]の形に延びているところと解釈される。「牟漏」は幾度も用いられた文字列である。

九月甲辰。以正五位下佐伯宿祢國益爲河内守。從五位上石川朝臣在麻呂爲尾張介。從五位上紀朝臣廣純爲陸奥介。鎭守副將軍如故。從五位下縣犬養宿祢眞伯爲備後介。從五位下石川朝臣諸足爲讃岐介。從五位上高向朝臣家主爲筑後守。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲豊前守。壬寅。勅。十月十三日。是朕生日。毎至此辰。感慶兼集。宜令諸寺僧尼。毎年是日轉經行道。海内諸國。並宜斷屠。内外百官。賜酺宴一日。仍名此日爲天長節。庶使廻斯功徳。虔奉先慈。以此慶情。普被天下。丙午。河内國進白龜。辛亥。遣使奉白馬及幣於丹生川上。畿内群神。霖雨也。戊午。以正四位下大伴宿祢駿河麻呂。從四位下紀朝臣廣庭。並爲參議。從五位上藤原朝臣種繼爲近衛少將。山背守如故。從五位上紀朝臣船守爲員外少將。紀伊守如故。 

九月十三日に佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)を河内守、石川朝臣在麻呂を尾張介、紀朝臣廣純を鎭守副將軍のままで陸奥介、縣犬養宿祢眞伯を備後介、石川朝臣諸足を讃岐介、高向朝臣家主を筑後守、弓削宿祢塩麻呂()を豊前守に任じている。

十一日に次のように勅されている・・・十月十三日、これは朕の生まれた日である。この時を迎えるごとに、感慨と慶びの気持ちが共に起こって来る。そのために諸寺の僧尼に毎年この日に、経の転読と行道をさせ、全國で生き物の屠殺を禁断せよ。内外の百官には宴会を一日中賜ることにせよ。そしてこの日を天長節と名付けよ。この功徳を回らせて、慎んで恵み深い亡き母に奉って供養とし、この喜びの情を天下に全ての人々に行き渡らせることを請い願っている・・・。

十五日に河内國が「白龜」を進上している。二十日に使を遣わして、白馬と幣帛を丹生川上神(芳野水分峰神)と畿内の群神に奉らせている。長雨のためである。二十七日に大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)紀朝臣廣庭(宇美に併記)を参議、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を山背守のままで近衛少将、紀朝臣船守を紀伊守のままで員外少将に任じている。

<河内國:白龜>
河内國:白龜

前記で白雉を献上した山背國と同様に、河内國も意外に瑞祥献上例は少ないようである。文武天皇紀の白鳩、聖武天皇紀の嘉禾異畝同穗白龜一頭ぐらいが思い出せるであろう。

國の領域では両國は、一、二を争うほどの広さを有するのだが、それだけに早くから開拓されて来たのであろう。勿論、渡来系の人々が主役である。

河内國では、既に多くの人々が住まい、各々に爵位なり賜姓を行ったことが記載されて来ている。要するに、そんな彼等の居処ではない、未開拓部を”瑞祥”が表していることになる。”白い亀”ではなく、白龜=龜の形の山稜がくっ付いて並んでいるところである。

図に示した場所に、その地形を見出すことができる。現在の観音山の西麓に当たる。直近で陽疑造の氏姓を持つ人物が登場していたが、山を挟んで反対側に位置する場所である。図には、これまでに登場した弓削一族等の氏族の名称を並べてみた。また、機会があれば配置図なるものを作成してみようかと思う。

冬十月辛酉朔。日有蝕之。壬戌。前右大臣正二位勳二等吉備朝臣眞備薨。右衛士少尉下道朝臣國勝之子也。靈龜二年。年廿二。從使入唐。留學受業。研覽經史。該渉衆藝。我朝學生播名唐國者。唯大臣及朝衡二人而巳。天平七年歸朝。授正六位下。拜大學助。高野天皇師之。受礼記及漢書。恩寵甚渥。賜姓吉備朝臣。累遷。七歳中。至從四位上右京大夫兼右衛士督。十一年。式部少輔從五位下藤原朝臣廣嗣。与玄昉法師有隙。出爲大宰少貳。到任即起兵反。以討玄昉及眞備爲名。雖兵敗伏誅。逆魂未息。勝寳二年左降筑前守。俄遷肥前守。勝寳四年爲入唐副使。廻日授正四位下。拜大宰大貳。建議創作筑前國怡土城。寳字七年。功夫略畢。遷造東大寺長官。八年仲滿謀反。大臣計其必走。分兵遮之。指麾部分甚有籌略。賊遂陷謀中。旬日悉平。以功授從三位勳二等。爲參議中衛大將。神護二年。任中納言。俄轉大納言。拜右大臣。授從二位。先是。大學釋奠。其儀未備。大臣依稽礼典。器物始修。礼容可觀。又大藏省雙倉被燒。大臣私更營構。于今存焉。寳龜元年。上啓致仕。優詔不許。唯罷中衛大將。二年累抗啓乞骸骨。許之。薨時年八十三。遣使弔賻之。丙寅。地震。辛未。以從五位下笠朝臣名麻呂爲齋宮頭。癸酉。出羽國言。蝦夷餘燼。猶未平殄。三年之間。請鎭兵九百九十六人。且鎭要害。且遷國府。勅差相摸。武藏。上野。下野四國兵士發遣。是日天長。大酺。群臣獻翫好酒食。宴畢賜祿有差。乙亥。以從五位下文室眞人水通爲安藝守。己夘。屈僧二百口。讀大般若經於内裏及朝堂。甲申。大祓。以風雨及地震也。乙酉。奉幣帛於伊勢太神宮。

十月一日に日蝕が起こっている。二日に前右大臣・正二位・勲二等の吉備朝臣眞備が亡くなっている。右衛士少尉の「下道朝臣國勝」(圀勝。眞備に併記)の子であった。霊龜二(716)年、二十二歳の時、遣唐使に従って入唐し、留学生として学業を受けた。経書と史書を研究し、併せて多くの学芸を広く勉強した。我が朝の学生で唐國に名を挙げたのは、「大臣」と朝衡(阿倍仲麻呂)の二人だけである。

天平七(735)年帰朝し、正六位下を授けられ、大学助に任じられた。高野天皇(孝謙天皇。当時は阿倍内親王)は「眞備」を師として、『礼記』と『漢書』の講義を受けた。恩寵がたいそう厚く、吉備朝臣の氏姓を賜った。しきりに昇進して、七年の内に従四位上に、右京大夫兼右衛士督に至った。

天平十一年、式部少輔の藤原朝臣廣嗣玄昉法師との間に対立を生じ、地方官に転じて大宰少貮に任じられた。「廣嗣」は任地に至るとすぐ、兵を起こして反乱し、「玄昉」と「眞備」を討つことを理由としたが、兵は敗れ、誅されてしまった。しかし「廣嗣」の邪な霊魂はまだおさまらず、そのため天平勝寶二(750)年、「眞備」は筑前守に左遷され、更に肥前守に転任させられた<「仲麻呂」の策略か?>。天平勝寶四年、遣唐使の副使に任じられ、帰朝後正四位下を授けられ、大宰大貮に任じられた。建議して初めて筑前國に怡土城を造った。

天平寶字七(763)年、工事がほぼ終わり、造東大寺長官に遷った。天平寶字八年、仲滿(藤原仲麻呂)が謀反を起こした時、「大臣」は彼等が必ず逃走すると考えて、兵を分けてその逃げ道を遮らせた。この指揮や部隊の区分はたいそう優れた軍略であって、賊等は遂にこの謀の中に陥って、短い期間に悉く平らげられた。この功で従三位・勲二等を授けられ、参議・中衛大将に任じられた。

天平神護二(766)年、中納言に任じられ、ほどなく大納言に転じ、更に右大臣に任じられ、従二位を授けられた。これ以前、大学の釈奠は、その儀礼がまだ整っていなかった。「大臣」は礼儀を記した古典に準拠して考え、器物を初めて整え、儀礼の様子は観るに耐えるものとなった。また大藏省の双倉が焼けた時も、「大臣」が一人で新たに設計し、今も存している。

寶龜元(770)年、書面を差し上げて辞職しようとしたが、懇ろな詔を下して許されなかった。ただ中衛大将の職だけは罷めさせた。同年、重ねて書面を奉って、辞職を乞うたので、これを許した。薨じた時、年は八十三(八十一?)であった。使を遣わして、物を贈って弔っている。

六日に地震が起こっている。十一日に笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を齋宮頭に任じている。十三日に出羽國が以下のように言上している・・・蝦夷との戦いの残り火は、まだすっかりは収まっていない。そのため三年の間、鎮兵九百九十六人を要請し、要害の地を安定させながら國府を遷したいと思う・・・。勅されて、相摸・武藏・上野・下野の四國の兵士を徴発して遣わしている。

この日は天長節であるので、天皇は大いに臣下と酒宴し、群臣は珍しいもて遊びものや酒食を献上している。宴が終わってそれぞれに禄を賜っている。

十五日に文室眞人水通を安藝守に任じている。十九日に僧二百名を招き、『大般若経』を内裏と朝堂で読ませている。二十四日に大祓を行っている。風雨や地震が起こったためである。二十五日に幣帛を伊勢太神宮に奉っている。

十一月丙申。遣使於五畿内。修造溝池。丁酉。大宰府言。日向薩摩兩國風雨。桑麻損盡。詔不問寺神之戸。並免今年調庸。乙巳。遣使於陸奥國宣詔。夷俘等忽發逆心。侵桃生城。鎭守將軍大伴宿祢駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懷柔歸服。勤勞之重。實合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十餘人。從其功勳加賜位階。授正四位下大伴宿祢駿河麻呂正四位上勳三等。從五位上紀朝臣廣純正五位下勳五等。從六位上百濟王俊哲勳六等。餘各有差。其功卑不及叙勳者。賜物有差。丁巳。以參議從三位大藏卿藤原朝臣楓麻呂爲兼攝津大夫。左少弁從五位上小野朝臣石根爲兼中衛少將。從四位下大伴宿祢家持爲衛門督。

十一月六日に畿内五ヶ國に使を遣わして、池や溝を修理・造営させている。七日に大宰府が[日向・薩摩の両國では、風雨のために桑や麻が損害を受けて全滅した]と言上している。詔して、寺院の封戸も神戸も区別せずに、今年の調・庸を全て免除している。

十五日に陸奥國に使を遣わして、次のように詔を宣示させている・・・降伏した蝦夷等は反逆の心を起こして、桃生城に侵攻したが、鎮守将軍の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)が朝廷の委任を承って、身命を顧みることなく、反乱の賊を討ち平らげ、懐柔して服従させた。その勤労の重大さは真に褒め称えるに値する。そこで「駿河麻呂」を初め千七百九十人余りに、その勲功に従って位階を加え授与する・・・。

大伴宿祢駿河麻呂に正四位上・勲三等、紀朝臣廣純に正五位下・勲五等、百濟王俊哲(②-理伯①-の子)に勲六等、その他の各々勲功に応じて位階を授けている。また功績が少なくて、叙勲に達しない者はそれぞれ物を賜っている。二十七日に参議・大藏卿の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に攝津大夫、左少弁の小野朝臣石根に中衛少将をそれぞれ兼任させている。また、大伴宿祢家持を衛門府督に任じている。

十二月甲申。從三位石上朝臣宅嗣賜姓物部朝臣。以其情願也。

十二月二十五日に石上朝臣宅嗣に物部朝臣の氏姓を賜っている。願い出たからである。

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『續日本紀』巻卅三巻尾









2024年2月20日火曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(14) 〔665〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(14)


寶龜六(西暦775年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月乙未朔。宴五位巳上於内裏。賜祿有差。丁酉。勅。三春初啓。萬物惟新。天地行仁。動植霑惠。古之明主。應此良辰。必布恩徳。廣施慈命。朕雖虚薄。何不思齊。宜可大赦天下。自寳龜六年正月三日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸赦除之。其八虐。故殺人。強盜竊盜。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。但入死者皆減一等。普告遐邇。知朕意焉。戊戌。授无位粟田朝臣廣刀自從五位下。辛丑。宴五位已上賜衾。己酉。授正四位下大伴宿祢古慈斐從三位。庚戌。從五位下參河王。伊刀王。田上王並授從五位上。從四位上藤原朝臣家依。大伴宿祢伯麻呂並正四位下。正五位下多治比眞人木人正五位上。從五位下高向朝臣家主。藤原朝臣鷲取。中臣習宜朝臣山守。佐伯宿祢國守並從五位上。外從五位上坂上忌寸老人。外從五位下淨岡連廣嶋。正六位上百濟王玄鏡。坂本朝臣繩麻呂。小治田朝臣諸成。田中朝臣難波麻呂。大伴宿祢上足並從五位下。正六位上高市連屋守。越智直入立並外從五位下。」事畢宴於五位已上。賜祿有差。庚寅。復无位津嶋朝臣小松本位從五位下。授正六位上伊蘇志臣総麻呂外從五位下。
辛酉。授正六位上陽疑造豊成女外從五位下。

正月一日に五位以上の者と内裏で宴会し、それぞれに禄を賜っている。三日に次のように勅されている・・・春の三ヶ月が初めて啓け、万物は一新した。天地は仁を行ない、動植物もその恵みを受けている。古の立派な君主は、このよい時に応じて、必ず恩や德を世に敷き、広く恵み深い命令を世に施して来た。朕は徳も薄いものであるが、どうして同じように思わないでおられようか。天下に大赦を行うべきであると思う。寶龜六年正月三日の夜明け以前の罪は死罪以下、罪の軽重を問うことなく、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、捕らわれて現に囚人となっているもの、全て赦免せよ。しかし、八虐、故意の殺人、強盗・窃盗、贋金造りや通常の赦では免されないものは、赦免の範囲には入れない。但し、死罪になる者は、みな罪一等を減らせ。このことを遠近にもれなく告げて、朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

四日に粟田朝臣廣刀自(鷹守に併記)に従五位下を授けている。七日に五位以上の者と宴を催し、夜具を賜っている。十五日に大伴宿祢古慈斐(祜信備)に従三位を授けている。十六日、參河王(三川王・三河王)伊刀王(道守王に併記)田上王に從五位上、藤原朝臣家依大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に正四位下、多治比眞人木人に正五位上、高向朝臣家主藤原朝臣鷲取()・中臣習宜朝臣山守佐伯宿祢國守(眞守に併記)に從五位上、坂上忌寸老人(犬養に併記)淨岡連廣嶋百濟王玄鏡(①-:敬福の子)・「坂本朝臣繩麻呂・小治田朝臣諸成」・田中朝臣難波麻呂(廣根に併記)・大伴宿祢上足に從五位下、高市連屋守(豊足に併記)・「越智直入立」に外從五位下を授けている。また、授位が終わって、五位以上の者と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。

二十六日(庚申)に津嶋朝臣小松を本位の従五位下に復している。「伊蘇志臣総麻呂」に外従五位下を授けている。二十七日に「陽疑造豊成女」に外従五位下を授けている。

<坂本朝臣繩麻呂-大足>
● 坂本朝臣繩麻呂

「坂本朝臣」一族は、古事記の木角宿祢が祖となった坂本臣の後裔と知られている。書紀の『壬申の乱』の功臣である坂本臣財が具体的な人物名である。

續紀に入って文武天皇紀にその子の「坂本朝臣鹿田」、更に子の「阿曾麻呂・宇豆麻佐」が登場していた(こちら参照)。

その後、淳仁天皇紀になって、男足が従五位下を叙爵されて登場し、後に隠岐守に任じられている。勿論、「財」一家の近隣が出自場所であるが、系譜は定かではないようである。

繩麻呂の「繩」の地形を、容易に見出せる。「宇豆麻佐」の南側の山稜の端が出自と推定されるが、この人物も系譜不詳のようである。また、この後續紀に登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に坂本朝臣大足が従五位下を叙爵されて登場する。大足=平らな頂の山稜の麓が[足]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、官奴正に任じられているが、以後の消息は不明である。

<小治田朝臣諸成>
● 小治田朝臣諸成

「小治田朝臣」一族は、古事記の蘇賀石河宿祢が祖となった小治田臣の後裔と知られてる。既に多くの人物名が記載されて来ている。

續紀では文武天皇紀に「當麻」が登場し、その後引き続いて「小治田」(書紀では小墾田)の地を出自とする一族の叙位の記述が見られる(こちら参照)。

直近では淳仁天皇紀に水内の任官記事があった。引き続いていてはいるが、高位の官職に就く人物は登場せずの状態のようである。主役は、「石川朝臣」に移ったように伺える。

名前の既出の文字列である諸成=耕地が交差するような地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に越中介に任じられているが、その後の消息は不明である。

<越智直入立-靜養女>
● 越智直入立

「越智直」一族は、伊豫國越智郡を本拠し、既に幾人かの人物が叙爵されて登場している(こちら参照)。明經博士として褒賞されたり、私稲を献上したりとその地の民意の高さを伺わせる記述がなされている。

名前の入立は既出の文字列であるが、やや解釈するとなると、言葉足らずの感がするようである。読み下してい見ると、入立=隙間に入るような谷間が並んでいるところとなろう。

尚、「入」を「人」とする写本もあるようで、人立=谷間が並んでいるところと解釈され、地形象形表記として問題のないものであろう。但し、これでは一に特定が叶わないことから「入」を用いて、谷間の入口が狭まっている様子を表したのではなかろうか。

この人物も、この後續紀に登場されることはないようである。因みに、古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、根鳥命の場所を示している。実に久方ぶりの再会であった。

後に越智直靜養女が窮民を救ったことで位二階を賜ったと記載されている。名前に用いられた「靜」は初見と思われる。「靜」=「靑+爪+ノ+又」と分解される。頻出の「淨」の「氵」を「靑」で置き換えた組合せになり、地形象形的には「靜」=「両腕のような山稜が四角い地を取り囲んでいる様」と解釈される。

纏めると靜養=両腕のような山稜が取り囲んでいる四角い地がなだらかに広がっているところと読み解ける。図に示したように現在の二島小学校辺りが出自と推定される。稔り豊かな土地に開拓していたのであろう。

<伊蘇志臣総麻呂>
● 伊蘇志臣総麻呂

「伊蘇志臣」の氏姓は、孝謙天皇紀に楢原造東人が賜ったと記載され、その後東人以外の人物の登場は見られなかった。「伊蘇志」は「勤」の訓読み表記でもある。

駿河守の任期中に黄金を採取して、一躍にして昇位と大学頭に任じられていた。ゴールドラッシュに沸いたような様相でもなく、その後の仔細は不詳である。

今回登場の総麻呂は、勿論「東人」一族の子孫であったと思われるが、系譜は定かではないようである。いずれにしても、現地名の北九州市小倉南区葛原高松辺り、急勾配の山麓の地を出自とする人物と思われる。

総(總)=糸+悤=山稜が束ねられて延びている様と解釈される。上/下総國に用いられている。その地形を図に示した場所に見出せる。残念ながら国土地理院航空写真を参照しても「麻呂」の地形を確認することができず、出自場所は些か曖昧となっている。

後(桓武天皇紀)に伊蘇志臣眞成が外従五位下を叙爵されて登場する。眞成=平らに整えられた地が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に一度だけ登場するが、主船生の任官が記載されている。

<陽疑造豊成女>
● 陽疑造豊成女

「陽疑造」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。調べると「八木」とも表記され、一説によると和泉國を出自とする一族だったようである。

「陽疑造」に含まれる「陽」の文字が表す地形から、その場所を極めて容易に求められることが分かった。既出の文字である陽=山稜が太陽のような形をしている様と解釈した。

その地形を、現在の行橋市入覚にある観音山の山容に見出すことができる。既出の文字である疑=𠤕+子+止=両足を広げて立ち止まったような様であり、その地形を観音山の東麓に確認できる。

名前の豊成女の豊成=段差のある高台の麓で平らに整えられているところと解釈される。地形変形が大きく詳細を見定めることは難しいようであるが、おそらく図に示した辺りが出自と思われる。「八木」の文字列も含めて、續紀に登場されるのはこの後に見られないようである。

二月辛未。地震。」先是。天平寳字八年。以弓削宿祢爲御清朝臣。連爲宿祢。至是皆復本姓。甲戌。讃岐國飢。賑給之。丙子。遣使於伊勢。繕修渡會郡堰溝。且令行視多氣渡會二郡宜耕種地。乙酉。授无位薭田親王四品。 

二月八日に地震が起こっている。また、これより先、天平字八(764)年に、弓削宿祢を弓削御清朝臣とし、弓削連を弓削宿祢としたが、ここに至って、みな本の姓に復している。十一日に讃岐國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十三日に使を伊勢に遣わして、渡會郡の堰と溝を修繕し、また多氣渡會二郡の農耕によい地を視察させている。二十二日に薭田親王(光仁天皇第三皇子)に四品を授けている。

三月乙未。始置伊勢少目二員。參河大少目員。遠江少目二員。駿河大少目員。武藏下総少目二員。常陸少掾二員。少目二員。美濃少目二員。下野大少目員。陸奥越前少目二員。越中。但馬。因幡。伯耆大少目員。播磨少目二員。美作。備中。阿波。伊豫。土左大少目員。肥後少目二員。豊前大少目員。」以外從五位下上総宿祢建麻呂爲隼人正。從五位下佐伯宿祢藤麻呂爲左衛士員外佐。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲右衛士員外佐。辛亥。授正四位下藤原朝臣濱成正四位上。丙辰。陸奥蝦賊騷動。自夏渉秋。民皆保塞。田疇荒廢。詔復當年課役田租。己未。置酒田村舊宮。群臣奉觴上壽。極日盡歡。賜祿有差。

三月二日に初めて伊勢に少目二名、參河に大・少目各一人、遠江に少目二名、駿河に大・少目各一名、武藏・下総に少目二名、常陸に少掾二名と少目二名、美濃に少目二名、下野に大・少目各一名、陸奥・越前に少目二名、越中・但馬・因幡・伯耆に大・少目各一名、播磨に少目二名、美作・備中・阿波・伊豫・土左に大・少目各一名、肥後に少目二名、豊前に大・少目各一名を置いている。

また、上総宿祢建麻呂(桧前舍人直。丈部大麻呂に併記)を隼人正、佐伯宿祢藤麻呂(伊多治に併記)を左衛士員外佐、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を右衛士員外佐に任じている。

十八日に藤原朝臣濱成(濱足)に正四位上を授けている。二十三日に陸奥の蝦夷の賊が騒動し、夏より秋にわたり、人民は皆塞に立て籠っていたので、田畑が荒廃してしまった、詔されて、この年の課役と田租を免除している。二十六日に田村旧宮(田村第)で酒宴を行っている。群臣は盃を奉って天皇の長寿を祝い、日が暮れるまで歓を尽くしている。それぞれに禄を賜っている。

夏四月戊辰。正七位上飯高公若舍人等十一人賜姓宿祢。己巳。河内。攝津兩國有鼠食五穀及草木。」遣使奉幣於諸國群神。庚午。外從五位下大隅忌寸三行爲隼人正。辛未。授正五位下佐伯宿祢助從四位下。壬申。授川部酒麻呂外從五位下。酒麻呂肥前國松浦郡人也。勝寳四年。爲入唐使第四船柁師。歸日海中順風盛扇。忽於船尾失火。其炎覆艫而飛。人皆惶遽不知爲計。時酒麻呂廻柁。火乃傍出。手雖燒爛。把柁不動。因遂撲滅。以存人物。以功授十階。補當郡員外主帳。至是授五位。乙亥。近江國獻白龜赤眼。丁丑。山背國獻白雉。丁亥。以從五位下藤原朝臣長繼爲内兵庫正。己丑。井上内親王。他戸王並卒。

四月六日に飯高公若舍人(家繼に併記)等十一人に宿祢姓を賜っている。七日に河内・攝津の両國に鼠が増えて、五穀や草木を食べている。使を遣わして諸國の群神に奉幣させている。八日に大隅忌寸三行(大住忌寸)を隼人正に任じている。九日に佐伯宿祢助に従四位下を授けている。

十日に「川部酒麻呂」に外従五位下を授けている。「酒麻呂」は肥前國松浦郡の人である。天平勝寶四(752)年に遣唐使の第四船の舵取りとなった。帰途、海上は順風が盛んに吹いていたが、突然、船尾で失火した。その炎は艫を覆って飛び、燃え広がろうとした。人は皆恐れ慌てて、どうしてよいか分からなかった。その時、「酒麻呂」は舵を回し、船首を風上に向けた。火がすぐそばから出ており、手は焼け爛れたけれども、舵を取り持って動かなかった。そのためとうとう打ち消されて、人や物は焼けずに済んだ。この功績で、位を十階上げ、当郡の員外主帳に任ぜられた。ここに至って五位を授けている。

十三日に近江國が「白龜赤眼」を献じている。十五日に山背國が「白雉」を献じている。二十五日に藤原朝臣長繼(長道に併記)を兵庫正に任じている。二十七日に井上内親王他戸王()が共に亡くなっている。

<川部酒麻呂>
● 川部酒麻呂

孝謙天皇紀に詳細が記載された遣唐使の船団のうち、真面に帰朝したのは第二船のみで、その他は悪戦苦闘、第一船は遂に帰って来なかったと述べている(こちら参照)。

その時点においても第四戦については、漂流してルートを大きく外れて薩摩國石籬浦に停泊し、その後帰朝した経緯であった。

通説が、現在の済州島近海を通過するルート以外があったと主張する根拠の記述である(Wikipedia)。遣唐使船の悪戦苦闘の場所は、現在の博多湾なのである。決して、五島列島やら東シナ海東端に並ぶ群島の近海ではない。

さて、川部酒麻呂の出自場所を求めてみよう。酒=氵+酉=水辺で山稜が酒樽のような形をしている様であり、肥前國松浦郡(現地名宗像市朝町辺り)でその地形を見出すことができる。川部は三つの川が合流する近隣の場所を表しているのであろう。

前記した時には、事件後およそ二十年後に褒賞か?…と述べたが、詳細に読むと、ちゃんと十階の昇進と員外主帳を任じられていたようである。晴れて外従五位下という高位を授けられている。余談だが、「松浦郡」は、魏志倭人伝の「末慮國」に関わる場所ではない。

<近江國:白龜赤眼>
近江國:白龜赤眼

近江國の瑞祥献上物語は、文武天皇紀に三件、白鼈白樊石嘉禾が記載され、元明天皇紀には木連理十二株が登場している。その後は暫く途絶えている様子であった。

勿論、近江國がこれらの天皇紀に盛んに開拓されたことを示しているのである。古事記の近淡海國に由来する地であり、その名の通り、淡海に面する険しい土地が徐々に開発されて来たと推測される。

今回は白龜赤眼と記載されている。同じ名称が称徳天皇紀に肥後國葦北郡が献上した記事に見られる(こちら参照)。赤眼=(龜の)眼にあたる地で平らな頂の山稜が火のように延びているところと解釈したが、同様の地形を近江國で探すと、図に示した場所が見出せる。

現在の行橋市にある二先山の東西麓に、二匹の亀の頭部、そして白龜は南麓に当たる場所と推定される。おそらく百濟系帰化人達が開拓した地なのであろう。開拓された土地は急峻な地形ではあるが、肥後國と比べて標高差があり、地形の確認が容易であった。

<山背國:白雉>
山背國:白雉

「山背國」からの献上は、聖武天皇紀に白燕、光仁天皇紀に木連理(但し、言上と記載されて献上されたか否かは不明)の二件のみであった。

古から繁栄した地域、多くの渡来系の人々が住まっていた故に、既に開拓が進捗していたことを示唆しているのであろう。

「白雉」の地形を山背國における未開拓地で探索するのであるが、少々難儀させられてしまったようである。結果的には、図に示した、馬ヶ岳南麓の地にそれらしき場所を確認することができたが、現在の地図上からは決定的なものではないかもしれない。

山背國宇治郡の山奥に当たるが、周辺では称徳天皇紀に登場した笠臣(朝臣賜姓)一族の他は、書紀に記載された人々に囲まれた場所になる。空白の場所であることには違いないであろう。

五月癸巳朔。伊勢國多氣郡人外正五位下敢礒部忍國等五人賜姓敢臣。丙申。地震。癸夘。備前國飢。賑給之。乙巳。有野狐。居于大納言藤原朝臣魚名朝座。丙午。白虹竟天。己酉。從四位上陰陽頭兼安藝守大津連大浦卒。大浦者世習陰陽。仲満甚信之。問以事之吉凶。大浦知其指意渉於逆謀。恐禍及己。密告其事。居未幾。仲満果反。其年授從四位上。賜姓宿祢。拜兵部大輔兼美作守。神護元年。以黨和氣王。除宿祢姓。左遷日向守。尋解見任。即留彼國。寳龜初。原罪入京。任陰陽頭。俄兼安藝守。卒於官。己未。以京庫綿一万屯。甲斐。相摸兩國綿五千屯。造襖於陸奥國。

五月一日に伊勢國多氣郡の人である敢礒部忍國等五人に敢臣の氏姓を賜っている。四日に地震が起こっている。十一日に備前國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十三日に野狐が出て来て、大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)の朝堂院内の座席に居座っている。十四日に「白虹」(霧やぬか雨などのとき見られる”白色の虹”。もしくは”二つ並んだ虹”?)が天に架かっている。

十七日に陰陽頭兼安藝守の大津連大浦が亡くなっている。「大浦」は代々陰陽を習得した家の出である。「仲満(仲麻呂)」は甚だ信用して、事の吉凶を問うていた。その意向が反逆の謀計に関わっているのを知り、災いが自分に及ぶことを恐れて、その事を密告した。ほどなくして果たして「仲満(仲麻呂)」は反乱を起こした。その年(天平字八[764]年)に、従四位上の位を授けられ、宿祢姓を賜り、兵部大輔兼美作守に任じられた。天平神護元(765)年、和氣王の仲間であるとして、宿祢姓を除かれて、日向守に左遷された。ついで官職を解かれ、そのまま日向國に留められた。寶龜の初め、罪を赦されて入京し、陰陽頭に任じられ、俄かに安藝守を兼ね、在職のまま亡くなっている。

二十七日に京庫の真綿一万屯と甲斐・相模両國の真綿五千屯で、陸奥國に襖(鎧の下に着る綿入れ)を造らせている。

六月癸亥朔。解却畿内員外史生已上。丙子。授无位藤原朝臣勤子從五位下。辛巳。以正四位下佐伯宿祢今毛人爲遣唐大使。正五位上大伴宿祢益立。從五位下藤原朝臣鷹取爲副。判官録事各四人。造使船四隻於安藝國。甲申。遣使祭疫神於畿内諸國。丁亥。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。其畿内諸國界。有神社能興雲雨者。亦遣使奉幣。庚寅。授正六位下大原眞人美氣從五位下。

六月一日に畿内の定員外の史生以上を解任して退去させている。十四日に「藤原朝臣勤子」に従五位下を授けている。十九日に佐伯宿祢今毛人を遣唐大使、大伴宿祢益立藤原朝臣鷹取()を副使、判官・録事をそれぞれ四人任じている。使の乗る船四隻は安藝國で造らせている。

二十二日に使を遣わして、畿内の五ヶ國で「疫神」(疫病神)を祭らせている。二十五日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。畿内諸國のうちで、よく雲や雨を起こす神社があれば、それらにも使を遣わして奉幣させるようにしている。二十八日に「大原眞人美氣」に従五位下を授けている。

<藤原朝臣勤子-祖子-園人-家刀自>
● 藤原朝臣勤子

系譜不詳の藤原朝臣氏姓であるが、不比等の後裔には違いない。但し、四家系列から外れていたのであろう。同じような人物には乙刀自がいたが、その近辺を中心に出自場所を求めてみよう。

名前の勤子に含まれる「勤」は、既出の文字列である。聖武天皇紀に登場した楢原造東人が賜った「勤臣」に用いられていた。これには別表記があって「伊蘇志臣」と記載されていた。訓読みを示したものであろう。

ここであらためて「勤」=「革+火+土+力」と分解して、地形象形表記として読み解いてみよう。すると、勤=山稜の端が牛の頭部のように二つに岐れて火のように長く延びている様と解釈される。子=生え出ている様であり、出自の場所を「乙刀自」の西隣に見出せる。この後に幾度か女官として登場され、尚膳・従三位で亡くなられたとのことである。

少し後に藤原朝臣祖子が従五位下を叙爵されて登場する。祖(祖)子=段々に積み重なった高台から生え出たところと解釈すると、図に示した、「勤子」の西側に当たる場所が出自と推定される。その後に従五位上を賜ったと記載されている。

更に後に藤原朝臣園人が従五位下を叙爵されて登場する。調べると楓麻呂の子と知られているようである。園人=谷間で丸く取り囲まれたところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。少々地形の確認が難しいが辛うじて認知できそうである。なかなかに優秀な人物であり、後に従二位・右大臣となったようである。

後の桓武天皇紀に藤原朝臣家刀自が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらずの系譜不詳であり、家刀自=豚の口のような山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明のようである。

<大原眞人美氣-黒麻呂>
● 大原眞人美氣

臣籍降下後の「大原眞人」の氏姓の人物も、紆余曲折しながらも連綿と登場している。調べると今回登場の人物は「今木(城)」の子、「高安」の孫と知られているようである(こちら参照)。

と言うことで、「今木」の周辺で出自場所を求めることになる。既出の文字列である美氣=ゆらゆらと延びる山稜の前で谷間が大きく広がっているところと解釈される。

図に示した辺りが、その地形を表していると思われる。標高差が、やや少なくなった地であり、特定するには不向きであるが、出自の場所を求められたと思われる。「櫻井」の北側に位置する場所となる。後に地方官などを任じられ、最終従四位下・大膳大夫であったようである。

少し後に大原眞人黒麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。この人物の系譜は伝わっていないようである。名前に含まれる頻出の黒=谷間に[炎]ような山稜が延び出ている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息も不明のようである。


















2024年2月13日火曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(13) 〔664〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(13)


寶龜五(西暦774年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月己夘。勅曰。如聞。天下諸國疾疫者衆。雖加醫療。猶未平復。朕君臨宇宙。子育黎元。興言念此。寤寐爲勞。其摩訶般若波羅蜜者。諸佛之母也。天子念之。則兵革災害不入國中。庶人念之。則疾疫癘鬼不入家内。思欲憑此慈悲。救彼短折。宜告天下諸國。不論男女老少。起坐行歩。咸令念誦摩訶般若波羅蜜。其文武百官向朝赴曹。道次之上。及公務之餘。常必念誦。庶使陰陽叶序。寒温調氣。國無疾疫之災。人遂天年之壽。普告遐邇。知朕意焉。癸未。授无位藤原朝臣仲繼從五位下。己丑。美濃國飢。賑給之。庚寅。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。壬辰。以從五位下相摸宿祢伊波爲尾張守。從五位下石川朝臣豊麻呂爲美濃介。外從五位下下毛野朝臣根麻呂爲下野介。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲若狹守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲大宰帥。甲午。近江國飢。賑給之。

四月十一日に次のように勅されている・・・聞くところによれば、天下の諸國に流行病の者が多い。医者が治療してもそれでもまだ回復しない。朕は宇宙に君臨し、人民を子として育んでいる。ここにこのことを考え、寝ても覚めても心を労している。ところで『摩訶般若波羅蜜』は、諸仏の母である。天子がこれを念ずれば、戦乱や災害は國内に入らず、一般の人がこれを念ずれば、流行病や流行病を起こす神は家中に入らない。---≪続≫---

この慈悲に頼って、救おうと思っているので、天下の諸國に布告して、男女や老少を問わず、起っていても坐っていても歩いていても、みな念じ誦するようにせよ。文武の百官達も、朝廷に向かい、役所に赴く道の途中や、公務の余暇には、必ず念じ誦しなさい。願うのは、陰陽が順序に従い、寒温も順和がとれ、國に流行病の災いがなく、人が天寿を全うすることである。このことを普く遠近に告げて朕の意を知らせるようにせよ・・・。

十五日に藤原朝臣仲繼(藥子に併記)に従五位下を授けている。二十一日に美濃國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十二日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りが続いたためである。

二十四日に相摸宿祢伊波を尾張守、石川朝臣豊麻呂(君成に併記)を美濃介、下毛野朝臣根麻呂(吉弥侯根麻呂。君子部眞鹽女に併記)を下野介、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を若狹守、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を大宰帥に任じている。二十六日に近江國に飢饉が起こったので、物を恵み与えている。

五月庚子。復當麻眞人高庭本位從五位下。壬寅。河内國飢。賑給之。癸夘。正四位上藤原朝臣百川。藤原朝臣楓麻呂並授從三位」。以從三位藤原朝臣藏下麻呂。正四位下藤原朝臣是公並爲參議。」復无位大原眞人宿奈麻呂本位從五位下。乙夘。勅大宰府曰。比年新羅蕃人。頻有來著。尋其縁由。多非投化。忽被風漂。無由引還留爲我民。謂本主何。自今以後。如此之色。宜皆放還以示弘恕。如有船破及絶粮者。所司量事。令得歸計。癸亥。散位從四位下大伴宿祢御依卒。丁夘。以從五位下坂上忌寸石楯爲中衛將監。 

五月二日に當麻眞人高庭(子老に併記)を本位の従五位下に復している。四日、河内國に飢饉が凝ったので物を恵み与えている。五日に藤原朝臣百川(雄田麻呂)・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に従三位を授けている。藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)・藤原朝臣是公(黒麻呂)を参議に任じている。また、大原眞人宿奈麻呂(今木に併記)を本位の従五位下に復している。<復位の人物は、『仲麻呂の乱』に連座していたのかもしれない>

十七日に大宰府に次のように勅されている・・・近年、新羅國の人々がしばしば来着する。その理由を尋ねると、多くは日本の王に德を慕って移住するのではなく、俄かに風に流されて漂着し、還る方法がなく、そのまま留まって民をなったものである。本國の主は、どのように思うのであろうか。今後このような場合は、みな送り還して、天皇の広い思いやりの心を示すようにせよ。もし船が壊れていたり、食粮が絶えている者には、担当の役所が事態を判断して、還ることができるように取り計らうようにせよ・・・。

二十五日に大伴宿祢御依(三中に併記)が亡くなっている。二十九日に坂上忌寸石楯(石村村主)を中衛将監に任じている。

六月庚午。始令太政官左右官掌把笏。壬申。奉幣於山背國乙訓郡乙訓社。以犲狼之恠也。」奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。辛巳。志摩國飢。賑給之。乙酉。伊豫國飢。賑給之。丁亥。飛騨國飢。賑給之。庚寅。以從五位下紀朝臣犬養爲伊豆守。外從五位下六人部連廣道爲越後介。外從五位下村國連子老爲出雲介。從五位下石川朝臣諸足爲備後介。

六月三日に初めて太政官の左右官掌に笏を持たせている。五日に山背國乙訓郡の乙訓社に幣帛を奉っている。犲(山犬)や狼が奇怪なことをするためである。また、黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。十四日に志摩國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。

十八日に伊豫國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十日、飛騨國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十三日に紀朝臣犬養(馬主に併記)を伊豆守、六人部連廣道(鯖麻呂に併記)を越後介、村國連子老(子虫に併記)を出雲介、石川朝臣諸足を備後介に任じている。

秋七月己亥。復女孺无位足羽臣黒葛本位外從五位上。辛丑。若狹。土左二國飢。賑給之。丁未。上総國獻白烏。戊申。大納言從二位文室眞人大市重乞致仕。詔。卿年及懸車。告老言退。古人所謂。知足不辱。知止不殆。此之謂也。思欲留連。恐非優老之道。體力如健。隨時節朝參。因賜御杖。庚戌。授命婦從五位下紀朝臣方名從四位下。丁巳。陸奥國行方郡災。燒穀穎二万五千四百餘斛。戊午。尾張國飢。賑給之。」以從五位下紀朝臣本爲左少弁。從五位上佐伯宿祢久良麻呂爲近江介。是日。尚膳從三位藤原朝臣家子薨。遣使弔賻之贈正三位。庚申。以河内守從五位上紀朝臣廣純爲兼鎭守副將軍。勅陸奥國按察使兼守鎭守將軍正四位下大伴宿祢駿河麻呂等曰。將軍等。前日奏征夷便宜。以爲。一者不可伐。一者必當伐。朕爲其勞民。且事含弘。今得將軍等奏。蠢彼蝦狄。不悛野心。屡侵邊境。敢拒王命。事不獲已。一依來奏。宜早發軍應時討滅。壬戌。陸奥國言。海道蝦夷。忽發徒衆。焚橋塞道。既絶往來。侵桃生城。敗其西郭。鎭守之兵。勢不能支。國司量事。興軍討之。但未知其相戰而所殺傷。

七月二日に女孺の足羽臣黒葛(眞橋に併記)を本位の外従五位上に復している。四日に若狹と土左の二國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。十日に上総國が「白烏」を献じている。

十一日に大納言の文室眞人大市が重ねて辞任を願い、次のように詔されている・・・あなたは年が七十歳になったので、老年になったことを申告して、退職したいと言上して来た。古人が[足ることを知れば、辱められることはなく、止まることを知れば、危うい目に遭うことはない]とはこのような場合のことである。思うに、そのまま止めておこうと望むことは、老人を優遇する道ではない。もし体力が壮健ならば、時節に随って朝廷に参上するようにせよ・・・。これによって御杖を賜っている。

十三日に命婦の紀朝臣方名(豊賣)に従四位下を授けている。二十日に陸奥國行方郡の役所に火災があり、籾米と頴合わせて二万五千四百石余りを焼失している。二十一日に尾張國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。また、紀朝臣本を左少弁、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を近江介に任じている。この日、尚膳の藤原朝臣家子(百能に併記)が亡くなっている。使を遣わし、物を贈って弔い、正三位を追贈している。

二十三日に河内守の紀朝臣廣純に鎮守副将軍を兼任させている。陸奥國按察使で陸奥守・鎮守将軍を兼任する大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)に、次のように勅されている・・・将軍等は先日蝦夷征討についてとるべき適当な処置を奏上し、一人は伐つべきではないとし、もう一人は必ず伐つべきであると言った。朕は征討が民を疲労させるために、しばらく、万物を包み込む広い德を重んじて控えていた。しかし、今将軍達の奏上を得たところ、「蠢彼蝦狄」は人を害する心を悔い改めようとせず、しばしば辺境を侵略し、天皇の命令を拒み続けていると言う。事はもはや止むを得ない。全ては送って来た奏状に依り、早く軍を発して時機に応じて討ち滅ぼすようにせよ・・・。

二十五日に陸奥國が以下のように言上している・・・「海道蝦夷」が突然に多くの民衆を集めて、橋を焚き、道を塞いで、交通を遮断してしまった。桃生城を侵攻し、西の郭を破り、城を守る兵も成り行き上これを防ぐことができなかった。國司は事態を判断して、軍を興してこれを討った。但し、その合戦で殺傷された人数はまだ分かっていない・・・。

上総國:白烏 地形変形が凄まじい地域であり、国土地理院航空写真1961~9年を参照しても詳細を確認することは叶わないようである。多分こちら辺りと思われるが、定かではない。上総國は天羽郡の人物が虚偽の献馬をし、発覚して罪に問われたと記載されていたが(こちら参照)、今回は如何なる経緯となったのであろうか。

<蠢彼蝦狄>
蠢彼蝦狄

本文中で蝦狄(蝦夷)について、二種類の表記を行っている。勿論これは彼等が住まう地を区別しているのであろう。既に述べたように彼等の居処は肅愼國である。

現地名の北九州市門司区清見及び白野江を中心とした地域と推定される。佐渡國の北側に接し、最近接の場所は渡嶋蝦夷と表記されたが、後に帰順した人々が住まう地である。

蠢彼蝦狄の「蠢彼」が表す地形をこの周辺で探索してみよう。「蠢」=「春+虫+虫」と分解される。全て地形象形表記に用いられて来た文字要素である。即ち「蠢」=「細かく岐れた山稜が二つ並んで延び出ている前で[炎]のような山稜が延びている様」と読み解ける。

「彼」=「彳+皮」=「山稜の端が覆い被さるように広がり延びている様」と解釈した。纏めると、蠢彼=細かく岐れた山稜が二つ並んで延び出ている前で[炎]のような山稜がある地が覆い被さるように広がり延びているところと読み解ける。図に示した場所、佐度國に接する肅愼國側の地を表していることが解る。「蠢」=「愚かな」を意味するようである。重ねた表記となっているのであろう。

<海道蝦夷>
海道蝦夷

東海道等を連想させて、”海の道”をやって来る蝦夷のように読ませているが、上記と同様にこの蝦夷の居処を表していると思われる。「海」も「道」も立派地形象形表記なのである。

海道=水辺で母が子を抱くように延びた山稜に囲まれた地にある首の付け根のようなところと解釈される。それを肅愼國で探すと、図に示した場所が見出せる。

書紀の斉明天皇紀に津輕郡と名付けられた場所、現地名の北九州市門司区白野江辺りである。勿論、彼等が桃生城に侵攻するには”海の道”を使ったであろう。これも重ねた表現と言えるかもしれない。

参考にしている資料では、「蠢彼蝦狄」を”日本海側”の蝦夷、「海道蝦夷」を”太平洋側”の蝦夷と解釈されている。確かに企救半島を日本列島本州に見立てれば、位置関係は満足されているが、創作していることになろう。

以前にも述べたが、新羅(人)が騒げば、蝦夷が連動する。書紀の捻くれた記述から何度もその様子が伺え、續紀でも同様の記述となっている。通説に従うと、朝鮮半島南部と日本の東北地方が結び付いていたとは、到底考えられない空間配置であろう。それに疑問が生じないことが不思議である。

八月己巳。勅坂東八國曰。陸奥國如有告急。隨國大小。差發援兵二千已下五百已上。且行且奏。務赴機要。庚午。遣使秡淨天下諸國。以齋内親王將向伊勢也。壬午。以從五位下廣上王爲齋宮長官。甲申。勅。外國五位已上。身亡本居者。自今以後。宜割當國正税給其賻物。乙酉。上総守從四位下桑原王卒。己丑。幸新城宮。授別當從五位上藤原朝臣諸姉正五位下。外從五位下刑部直虫名正五位下。辛夘。先是。天皇依鎭守將軍等所請。令征蝦賊。至是更言。臣等計。賊所爲。既是狗盜鼠竊。雖時有侵掠。而不致大害。今属茂草攻之。臣恐後悔無及。天皇以其輕論軍興首尾異計。下勅深譴責之。

八月二日に次のように坂東八國(九國。常陸國を除く)へ勅されている・・・陸奥國がもし急を告げて来たら、國の大小に随って援兵二千以下、五百以上を徴発して、行軍しながら奏上して重要な機会に遅れないように努めよ・・・。三日に使を遣わして、天下の諸國を祓い浄めさせている。齋宮となる内親王(酒人内親王)が伊勢に向かおうとするからである。

十五日に「廣上王」を齋宮長官に任じている。十七日に次のように勅されている・・・畿内以外の國々にいる五位以上で、任地で死去した者には、今後はその國の正税を割いて弔いの物として給せよ・・・。十八日に上総守の桑原王が亡くなっている。二十二日に「新城宮」に行幸し、別当の藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正五位下、「刑部直外虫名」に外正五位下を授けている。

二十四日、これ以前に天皇は鎮守将軍等の要請によって蝦夷の賊を征討させた。この時に至って更に将軍等は以下のように言上している・・・臣等の推測するところでは、賊のなす行為は、犬や鼠が人に隠れてこそこそ物を盗むのに似ている。時々侵攻や略奪をするが、大きな害を及ぼすものではない。しかも今は草が繁っていて適さず、蝦夷を攻めるのは、きっと後悔しても及ばない結果となるであろう・・・。天皇は、将軍等が先に軽々しく軍を興すように論じるなど、計画が一貫しないので、勅して深く責め咎めている。

<廣上王>
● 廣上王

系譜も含めて情報が殆ど欠落している王のようである。その中でWikipediaによると、左京に土地を所有していたと言う記録が残っているとのことである。

土地の所有していることとは、必ずしも出自場所に限られたことではないが、左京で王の場所に相応しい地を探すと、首皇子(後の聖武天皇)の後裔の居処となっていた場所が思い浮かぶ(こちら参照)。

書紀で登場した新益京、後の聖武天皇紀に天王貴平知百年の文字を背負った龜が棲息していた場所である。この文字列から元号、「天平」が誕生することになったと記載されていた。

廣上王廣上=盛り上がった地が広がっているところと解釈すると、この龜の中央部の地形を表していることが解る。背中の”天王”に該当している。ひょっとすると、系譜が抹消された人物だったのかもしれない。この後、幾度か登場されている。

<新城・層富縣>
新城宮

書紀の天武天皇紀に登場した「新城」の地に造られていた宮と思われる(左図を再掲)。遷都の計画は頓挫したが、その後に宮が建てられたのではなかろうか。

聖武天皇紀に新城連の氏姓を賜った一族が周辺に居を構えていたようである。称徳天皇紀の神護景雲三(769)年十月の宣命体での文言に「新城乃大宮」と記載されていた。

文脈からして、明らかに元正天皇が坐した平城宮を示している。新城乃大宮=山稜を切り分けて平らに整えられた地にある宮であり、「平城宮」の場所を「新城」と表現しているのである。「新」を”新しい”と解釈しては、混迷に嵌るばかりである。

大和奈良にある”平城宮”を「新城」と見做すのは、些か無理があろう。”新しい城”では、元明天皇に失敬な振る舞いとなろう。結局のところ、通説では「新城宮」の場所は不詳のままとなっているようである。

<刑部直虫名>
● 刑部直虫名

行幸先での叙位も恒例となっているが、その一人の「刑部直」の氏姓は初見である。無姓の「刑部」は既に幾人かが登場し、ましてや「忍壁」の地に関わるとも考え辛いように思われる。

既に外従五位下を叙爵されているのだが、詳細は述べられていない。そんな背景ならば、この人物の出自は「新城」の近隣だったのではなかろうか。

既出のように刑部=四角く切り取られたような地の近隣のところと解釈される。名前に含まれる頻出の虫(蟲)名=山稜の端が細かく岐れているところと解釈すると、
「刑部」も併せて、ぞの地形を満足する場所を図に示したところに確認できる。

地図上の地形が明瞭であり、かつ、特異な山稜の形であることから確度高く推定することができたようである。また一人、辺境の地の人物を登場させているのであろう。後に命婦として内位の従五位下を叙爵されたとのことである。

九月己亥。齋内親王向于伊勢。庚子。授正六位上尾張連豊人外從五位下。以從五位下安倍朝臣弟當爲少納言。大納言正三位藤原朝臣魚名爲兼中務卿。從五位下石川朝臣淨麻呂爲少輔。從五位下高麗朝臣石麻呂爲員外少輔。從五位下藤原朝臣長道爲主税頭。從三位藤原朝臣繼繩爲兵部卿。左兵衛督如故。外從五位下日置首若虫爲漆部正。從四位上大伴宿祢伯麻呂爲宮内卿。從四位下大伴宿祢家持爲左京大夫。從五位下藤原朝臣鷹取爲亮。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲右京亮。外從五位下伊勢朝臣子老爲造宮少輔。外從五位下丹比宿祢眞繼爲鑄錢次官。外從五位下英保首代作爲修理次官。周防掾如故。從五位下藤原朝臣菅繼爲常陸介。左京大夫從四位下大伴宿祢家持爲兼上総守。從五位下巨勢朝臣馬主爲能登守。大外記外從五位下内藏忌寸全成爲兼越後介。從五位上石川朝臣眞永爲大宰少貳。辛丑。内匠頭正五位下葛井連道依爲兼右兵衛佐。丹波介從五位下廣川王爲兼内兵庫正。壬寅。令天下諸國修造溝池。癸夘。遣使覆検於天下諸國。戊午。復縣犬養宿祢内麻呂本位從五位下。辛酉。以春宮員外大進外從五位下河内連三立麻呂爲兼河内權介。外從五位下尾張連豊人爲山背權介。大監物從五位下礒部王爲兼參河守。從五位下笠朝臣名麻呂爲權介。」遣使於五畿内。修造陂池。並差三位已上。以爲検校。國一人。甲子。從五位下和氣宿祢清麻呂廣虫。賜姓朝臣。

九月三日に齋宮の(酒人)内親王が伊勢に向かっている。四日、「尾張連豊人」に外従五位下を授けている。また、安倍朝臣弟當(詳細こちら参照)を少納言、大納言の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を兼務で中務卿、石川朝臣淨麻呂(清麻呂。眞守に併記)を少輔、高麗朝臣石麻呂を員外少輔、藤原朝臣長道を主税頭、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を左兵衛督はそのままで兵部卿、日置首若虫(日置毘登乙虫)を漆部正、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を宮内卿、大伴宿祢家持を左京大夫、藤原朝臣鷹取()を亮、弓削宿祢塩麻呂()を右京亮、伊勢朝臣子老を造宮少輔、丹比宿祢眞繼(嗣)を鑄錢次官、英保首代作を周防掾はそのままで修理次官、藤原朝臣菅繼を常陸介、左京大夫の大伴宿祢家持を兼務で上総守、巨勢朝臣馬主を能登守、大外記外の内藏忌寸全成(黒人に併記)を兼務で越後介、石川朝臣眞永を大宰少貳に任じている。

五日に内匠頭の葛井連道依(立足に併記)を兼務で右兵衛佐、丹波介の廣川王(廣河王。)を兼務で内兵庫正に任じている。六日に天下の諸國に命じて、池や溝を修理・築造させている。七日に使を遣わして、天下の諸國を繰り返し調べさせている。二十二日に縣犬養宿祢内麻呂(八重に併記)を本位の従五位下に復している。

二十五日に春宮員外大進の河内連三立麻呂を兼務で河内権介、「尾張連豊人」を山背權介、大監物の礒部王を兼務で參河守、笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を權介に任じている。この日、使を畿内五ヶ國に遣わして、堤や池を修理・築造させている。同時に國ごとに三位以上の官人を一人ずつ派遣して監督させている。二十八日に和氣宿祢清麻呂・廣虫に朝臣姓を賜っている。

<尾張連豊人>
● 尾張連豊人

「尾張連」は、書紀の天武天皇紀に定められた『八色之姓』で宿祢姓を賜っていて、その奔流以外の一族が未だに連姓のままとなっていたのであろう。

孝謙天皇紀に『壬申の乱』において、功があったにも拘らず、宿祢姓を賜る以前に亡くなっていた尾張連馬身及び子孫に宿祢姓を賜ったと記載されていた。

おそらく今回登場の人物は、「馬身」の周辺地域に住まっていたのではなかろうか。現地名の北九州市小倉南区長野(東町)辺りで名前が表す地形を求めてみよう。

既出の文字列である豊(豐)人=段々になった地の傍らに谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。直後に山背権介に任じられているが、この後に幾度か登場されて、内位の従五位下を授けられている。

冬十月己巳。散位從四位下國中連公麻呂卒。本是百濟國人也。其祖父徳率國骨富。近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。庚午。陸奥國遠山村者。地之險阻。夷俘所憑。歴代諸將。未甞進討。而按察使大伴宿祢駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。

十月三日に散位の國中連公麻呂(國君麻呂)が亡くなっている。元は百濟國の人であった。彼の祖父は徳率(百濟官位第四位)の國骨富である。近江朝(天智天皇)の癸亥(663)年に本國が滅びる戦乱にあって、帰化した。天平年間に聖武皇帝が広大な願いを起こして廬舎那仏の銅像を造ろうとした。その像の高さは五丈で、当時の鋳造の技術者には敢えてそれに挑む者はいなかったが、「公麻呂」は大変な技巧と思慮があり、ついにその仕事をやり遂げた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介に至った。天平字二(758)年、大和國葛下郡國中村に居住していたので、その地に因んで氏の名前とした。

四日に「陸奥國遠山村」は土地が険阻で、蝦夷が頼みとするところであった。そのため歴代の征夷の諸将も今まで進んで討とうとしなかった。しかしながら、按察使の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)等は、直接この地に進入して攻撃し、彼等の潜んでいる住居を顚覆し、ついには彼等を追い詰めて逃げらせ、降伏する者が相次いだ。そこで使を遣わして、勅を宣して慰労し、天皇の服や色とりどりの絹を賜っている。

<陸奥國遠山村>
陸奥國遠山村

陸奥鎮守将軍等の一貫性のない言上に業を煮やした天皇が檄を飛ばしたら、賊を退治したと記載されている。難攻不落かと思いきや、そうでもなかったようである。

その要塞のような山岳地帯の賊の地があったのが陸奥國の「遠山村」だと述べている。まだまだ陸奥國全てが平定されたわけではなく、帰順していない蝦夷がいたのである。

と言う訳で、「地之險阻」な地形の場所を求めることにする。遠山村に含まれている頻出の文字列の遠山=ゆったりと長く延びた山稜の先が[山]の文字形に岐れているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

現在は高速道路が通って大きく地形が変わっているが、この場所は山稜が谷間で区切られていたことが過去の地形図から確認できる(今昔マップ1922~6参照)。新田柵が造られていた新田郡と郡建てしたが、その谷奧に当たる山岳地帯となる。また、聖武天皇紀に設置されていた大室驛から谷奥へと進んだ場所である。

通説は、”登米郡”(廃藩置県で発足。續紀は未記載)と訓が類似する。”蝦夷”の言葉を漢語で表記したものと推測されているが、”蝦夷”を日本古来の人々とする解釈は、全くの誤りであろう。また、”遠い山の村”などと解釈されているようである。繰り返すようだが、記紀・續紀の「遠・近」を読み解くことが叶わず、学界も含めて、古代を浪漫化してしまっているのである。

十一月甲辰。幸坂合部内親王第。授從二位文室眞人大市正二位。四品坂合部内親王三品。乙巳。授大市妾无位錦部連針魚女外從五位下。陸奥國言。大宰。陸奥。同警不虞。飛驛之奏。當記時尅。而大宰既有漏尅。此國獨無其器者。遣使置之。

十一月九日に坂合部内親王の邸宅に行幸され、文室眞人大市(内親王の夫?)に正二位、「内親王」に三品を授けている。十日に「大市」の妾である「錦部連針魚女」に外従五位下を授けている。

この日、陸奥國が以下のように言上している・・・大宰府と陸奥國とは同じように思いがけない危機を警戒している。早馬の使の奏上文には、時刻を記すべきである。しかしながら大宰府には既に水時計があるのに、この國にはその道具がない・・・使を遣わして水時計を設置させている。

<錦部連針魚女-家守>
● 錦部連針魚女

無位から外従五位下に叙爵されて、目出度しであるが、「錦部連」の居処は、現在の行橋市にある幸ノ山の麓と推定した(こちら参照)。

ただ、その北麓と南麓に分かれていて、「針魚女」の出自場所がどちらにあたのか、名前が示す地形から求めることにする。

その名前に含まれる「針」の文字は、古事記では「針間(國)」で用いられいて、針間=針のような細長い谷間を表すと読み解いて来た。しかしながら、續紀で、この文字を名称に用いた例はなく、「針間國」は「播磨國」の文字に置換えられている(こちら参照)。

あらためて「針」の文字解釈を行うと、「針」=「金+十」と分解される。「十」=「寄せ集める・合わせる」のような意味を持つ要素であって、通常に用いられる「針」は布を合わせる動作を表している。地形象形的には「針」=「[金]を寄せ合わせる様」と読み解ける。纏めると針魚=[金]を寄せ合わせる[魚]のような形のところと解釈される。

「金」は「錦部」に含まれる「金」であり、「錦」の形の山が南北並んでいる地形から、図に示したような配置となり、出自の場所は、魚の尾鰭の辺りと推定される。「大市」には多くの子がいたと伝えられているが、その母親は不詳、「針魚女」の子に関する情報もないようである。ご本人も、この後續紀に登場されることもない。

後(桓武天皇紀)に外従五位下の錦部連家守が織部正を任じられている。叙位の記述は省略されているようである。家守=豚の口のような山稜の麓に肘を張ったような山稜に囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様にこの場限りの登場である。

十二月戊辰。復從五位下山邊眞人笠属籍。乙酉。右大臣正二位勳四等大中臣朝臣清麻呂上表重乞骸骨。優詔不許。丁亥。正三位圓方女王薨。平城朝左大臣從一位長屋王之女也。

十二月四日に山邊眞人笠(笠王)の(諸王としての)戸籍を復活させている。二十一日に右大臣・勲四等の大中臣朝臣清麻呂が上奏して、重ねて辞職を願っている。手厚い詔が下されて、許可されなかった。二十三日に圓方女王が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)の左大臣の長屋王の娘であった。