2023年7月31日月曜日

高野天皇:称徳天皇(19) 〔643〕

高野天皇:称徳天皇(19)


神護景雲二(西暦768年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月乙巳。授正六位上土師宿祢眞月外從五位下。戊申。授正五位上藤原朝臣雄田麻呂從四位下。女孺无位文室眞人布登吉從五位下。癸丑。授正四位上吉備朝臣由利從三位。從五位下平群朝臣眞繼從五位上。无位藤原朝臣淨子從五位下。乙夘。從四位下佐伯宿祢伊多智。坂上大忌寸苅田麻呂並授從四位上。從三位藤原朝臣百能正三位。正四位下藤原朝臣家子正四位上。從四位上大野朝臣仲智正四位下。從五位下久米連若女從五位上。无位多治比眞人古奈弥從五位下。庚申。幸長谷寺。捨田八町。」授從五位下高賀茂朝臣諸雄從五位上。從五位上桑田朝臣弟虫賣正五位下。壬戌。車駕還宮。授外從五位上上連五百公〈本名五十公十月〉從五位下。癸亥。授從五位下大神朝臣東公從五位上。從六位下朝妻造綿賣從五位下。甲子。充石上神封五十戸。能登國氣多神廿戸。田二町。」賜左右大臣大宰綿各二万屯。大納言諱。弓削御淨朝臣清人各一万屯。從二位文室眞人淨三六千屯。中務卿從三位文室眞人大市。式部卿從三位石上朝臣宅嗣四千屯。正四位下伊福部女王一千屯。爲買新羅交關物也。丁夘。授從六位上昆解宮成外從五位下。庚午。賜二品井上内親王大宰綿一万屯。」大尼法戒准從三位賜封戸。大尼法均准從四位下。

十月五日に土師宿祢眞月(位に併記)に外従五位下を授けている。八日に藤原朝臣雄田麻呂に従四位下、女孺の文室眞人布登吉(長谷眞人於保に併記)に従五位下を授けている。十三日に吉備朝臣由利(眞備に併記)に従三位、平群朝臣眞繼に従五位上、「藤原朝臣淨子」に従五位下を授けている。十五日に佐伯宿祢伊多智(治)坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に従四位上、藤原朝臣百能に正三位、藤原朝臣家子(百能に併記)に正四位上、大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に正四位下、久米連若女に従五位上、多治比眞人古奈弥(小耳に併記)に従五位下を授けている。

二十日に「長谷寺」に行幸され、田八町を喜捨されている。また、高賀茂朝臣諸雄(田守に併記。下記に賜氏名の記述あり)に従五位上、桑田朝臣弟虫賣(桑内朝臣。桑内連乙虫女)に正五位下を授けている。二十二日に宮に還り、上連五百公(上村主)<分注。本名五十公>に従五位下を授けている。二十三日に大神朝臣東公(東方。伊可保に併記)に従五位上、「朝妻造綿賣」に従五位下を授けている。

二十四日に石上神に封五十戸、「能登國氣多神」に封二十戸と田二町を充てている。また、左右大臣(藤原朝臣永手吉備朝臣眞備)に各々真綿を二万屯、大納言の諱(白壁王)と弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)に各々一万屯、文室眞人淨三(智努王)に六千屯、中務卿の文室眞人大市と式部卿の石上朝臣宅嗣に四千屯、伊福部女王(元明天皇紀に卒された女王とは別人)に千屯を賜っている。新羅の貿易品を買うためである。

二十七日に昆解宮成に外従五位下を授けている。三十日に井上内親王に大宰府の真綿一万屯を賜っている。また、大尼の法戒は、従三位相当の身分と封戸(二百戸の半分)を賜っている。大尼の法均は従四位下相当(八十戸の半分)の身分としている。

<藤原朝臣淨子>
● 藤原朝臣淨子

無位から従五位下に叙爵されていて、れっきとした藤原朝臣一族の人物だったと思われる。なのだが、系譜不詳のようであり、とすると「京家」あたりが出自か?…と推測されるが・・・。

孝謙天皇紀に、淨弁(濱足に併記)が東海・東山道の問民苦使に任じられて、二ヶ月前の八月記に下総國の毛野川氾濫対策を具申したりしていたが、爵位は正六位下と記されている。

淨子の「淨」は、多分、「淨弁」の「淨」を表していると思われ、その近辺を探索すると、図に示した場所が淨子=[淨]から生え出たところとの地形であることが解る。京家の始祖、「麻呂」の近隣となり、その一族であったと推測される。

上記本文の記述からすると、この人物は女官であったと思われる。暫く音信不通となるが、延暦十(791)年に正五位下に昇進されたと記載されている。

<長谷寺>
長谷寺

現在では、超有名な寺となっているが、創建については、殆ど伝わっておらず、勿論正史に登場するのは、これが初見である。この時点から百年程度過ぎた頃から注目されるようになったようである。

西大寺のような情報もなく、「長谷」の地に建立された寺として、その場所を求めてみよう。勿論、古事記の「長谷朝倉宮」、「大長谷若建命」(雄略天皇)に含まれる「長谷」であろう(こちら参照)。

ここまでは無難な流れのように思われるが、寺の場所となると”長谷”ゆえに一に特定が困難な状況に陥ってしまった。図に谷間の川の流れを示した(青破線)が、それを参考にして推定した。續紀には二度と登場することはなく、「長谷寺」と言う寺(おそらく、”チョウコクジ”と読むのであろう)があったことのみを伝えているように思われる。

<朝妻造綿賣>
● 朝妻造綿賣

「朝妻造」に含まれる「朝妻」は、元正天皇紀に幾人かの登場人物の氏名に用いられていた(こちら参照)。古事記の男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の「淺津間」の表記に繋がる。

書紀では、天武天皇紀に朝嬬・長江杜の「朝嬬」と表現されている。類似の読みとなって、同一場所を表しているように思われるが、実は微妙に異なっている。

記紀では、”朝”の東側が中心となるが、續紀の登場人物は西側となる。絶妙な表記であるが、当時としては日常茶飯事のことだったのかもしれない。万葉の世界に踏み込めるのは、いつの日になるのか・・・。

綿賣綿=糸+帛=細長く延びている様と解釈される。”妻”の一つの山稜が途切れずに延びている様子を表現していると思われる。出自の場所は、図に示した辺りと推定される。續紀に再度登場されることはないようである。

<能登國氣多神>
能登國氣多神

「氣多神」は、記紀・續紀を通じて初見である。「氣多」の文字列は、古事記の氣多之前で用いられていたが、その後幾つかの使用例が見受けられて来た(例えばこちら参照)。

氣多=ゆらゆらと延びる山稜の端に三角の地があるところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。上記の「長谷寺」と同様に、一に特定するには情報不足なのであるが、多分、海に面した場所に鎮座していたのではなかろうか。今後、神階として從一位・勲一等を授けられたとのことである。

現在では、気多大社(石川県羽咋市)・気多本宮(同県七尾市)に、その名を残しているようだが、本宮から大社へ遷座したとも伝えられているようである。「羽咋」は、上図の「羽咋郡」に関連するが、残念ながら續紀等に「七尾」の文字列は見当たらないようである。ただ、「氣多」の地形を”七曲の尾”と見ることもできそうである。

十一月壬申。美作掾正六位上恩智神主廣人獻白鼠。癸未。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲右大辨。外從五位下石上朝臣家成爲勅旨少輔。從五位下紀朝臣門守爲大丞。從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲中務大輔。左中弁内匠頭武藏守如故。從五位下石川朝臣眞守爲少輔。從四位上藤原朝臣是公爲侍從兼内藏頭。從三位石川朝臣豊成爲宮内卿。兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲兼造法華寺長官。從四位下藤原朝臣繼繩爲外衛大將。正五位上石上朝臣息繼爲左衛士督。河内守如故。從五位下上毛野朝臣馬長爲員外佐。從四位下阿倍朝臣息道爲左兵衛督。從五位下坂上王爲左馬頭。從五位下紀朝臣廣庭爲河内介。從五位上佐伯宿祢助爲山背守。從五位上息長丹生眞人大國爲美作員外介。外從五位下飛鳥戸造小東人爲長門介。大納言衛門督正三位弓削御淨朝臣清人爲兼大宰帥。從四位上藤原朝臣田麻呂爲大貳。是日。被任官者。多不會庭。省掌代之稱唯。於是詔式部兵部省掌。始賜把笏。戊子。以從五位上日置造蓑麻呂爲丹波守。」土左國土左郡人神依田公名代等卌一人賜姓賀茂。壬辰。設新甞豊樂於西宮前殿。賜五位已上祿各有差。丙申。從五位上賀茂朝臣諸雄。從五位下賀茂朝臣田守。從五位下賀茂朝臣萱草賜姓高賀茂朝臣。戊戌。授正五位上下毛野朝臣稻麻呂從四位下。己亥。從四位下國中連公麻呂爲但馬員外介。是日。以正三位弓削御淨朝臣清人爲検校兵庫將軍。從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲副將軍。從五位下紀朝臣船守。從五位下池田朝臣眞枚並爲軍監。六位軍監二人。軍曹四人。

十一月二日に美作掾の「恩智神主廣人」が「白鼠」を献じている。十三日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を右大弁、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を勅旨少輔、紀朝臣門守を大丞、藤原朝臣雄田麻呂を左中弁・内匠頭・武藏守はそのままとして中務大輔、石川朝臣眞守を少輔、藤原朝臣是公(黒麻呂)を侍従兼内藏頭、石川朝臣豊成を宮内卿、兵部卿の藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を兼任で造法華寺(隅院近隣)長官、藤原朝臣繼縄(縄麻呂に併記)を外衛大将、石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)を河内守はそのままで左衛士督、上毛野朝臣馬長を員外佐、阿倍朝臣息道を左兵衛督、坂上王()を左馬頭、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を河内介、佐伯宿祢助を山背守、息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を美作員外介、飛鳥戸造小東人(百濟安宿公奈登麻呂。戸憶志に併記)を長門介、大納言・衛門督の弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)を兼務で大宰帥、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を大貮に任じている。この日、任官した者の多くは、朝廷に集まらず、省掌が任官者に代わって、称唯(口を覆って「オオ」と返事すること)した。そのため、式部・兵部の省掌に詔し、初めて笏を持つことを許している。

十八日に日置造蓑麻呂(眞卯に併記)を丹波守に任じている。また、「土左國土左郡」の人である「神依田公名代」等四十一人に「賀茂」の氏名を賜っている。二十二日に新嘗祭の豊楽を西宮の前殿に設けている。五位以上の官人には地位に応じて禄を賜っている。二十六日に賀茂朝臣諸雄・賀茂朝臣田守・賀茂朝臣萱草に「高賀茂朝臣」(高鴨神参照)の氏姓を賜っている。

二十八日に下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)に従四位下を授けている。二十九日に國中連公麻呂(國君麻呂)を但馬員外介に任じている。この日、弓削御淨朝臣清人を検校兵庫将軍、藤原朝臣雄田麻呂を副将軍、紀朝臣船守池田朝臣眞枚(足繼に併記)をそれぞれ軍監に任じている。この他に六位の軍監を二人、軍曹を四人を任じている。

<恩智神主廣人>
● 恩智神主廣人

「恩智」の氏名は、記紀・續紀を通じて初見である。ところが他の史書に伝わっていたようで、少し調べると、多くの百濟系渡来人が住まっていた河内國高安郡を本拠地とする一族であったことが分かった。但し、郡名は後の寶龜十一(780)年に記載されている。

恩智神主の「恩」=「囗+大+心」と分解される。地形象形的に解釈すると、「恩」=「囲まれた谷間の奥に平らな頂の山稜がある様」となる。頻出の「智」=「[鏃]と[火]の形の地が並んでいる様」と解釈した。

纏めると、恩智=囲まれた谷間の奥に平らな頂がある地に[鏃]と[火]の形の山稜が延びているところと読み解ける。「高安郡」の最北部、前出の高安造一族(毘登戸東人等)の北に接する谷間を表していることが解る。書紀の舒明天皇紀に遣隋使に随行して永らく滞在した高向漢人玄理の出自場所の谷奥に当たる。

廣人=谷間が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。神(神)主=高台が長く真っ直ぐに延びているところと解釈される。”姓”と解釈できるが、上古の地形象形した”姓”と思われる。

<美作國:白鼠>
美作國:白鼠

そんな出自の「廣人」が美作掾を任じられていた時に白鼠を捕まえて献上した、と記している。

”白い鼠”なら何処にでも棲息してそうなものなのだが、通常の解説は、瑞祥である・・・と言うようなことをかつてもしたような・・・聖武天皇紀に京識が献上していた(こちら参照)。

勿論、白鼠の地形の場所を開拓したのであるが、今回は、些か違ってそんな地形があることを述べただけのように思われる。それは兎も角として、類似の地形が美作國に見出せるか?…全く心配することはなかったようである。図に示した場所、かなり、地形変形が見られるが、鼠=穴虫の”穴”が山稜の両側に並んでいることが解る。

<土左國土左郡・神依田公名代>
土左國土左郡

少し前に土左國安藝郡に住まう人物が外従五位下を叙爵されたと記載され、それが土左國の郡割の最初の記述であった。それに引き続いて、今回土左郡が登場している。

國全体を表す土左=大地が左手のような形をしているところ、そして更にその中に同様の地形を示す場所を表しているのであろう。すると、前出の「安藝郡」の北に接する場所が、その地形であることが解る。

● 神依田公名代 既出の文字列である神依田=長く延びる山稜の端が平らに広がっているところと解釈すると、現在はゴルフ場となっているが、図に示した辺りを表していると思われる。同じく多用される名代=山稜の端の三角の地が谷間にある杙のような形をしているところと読み解ける。この周辺が「名代」等の出自の場所と推定される。

賜った賀茂公の氏姓は、賀茂=押し広げられた谷間に先が広がった山稜が延びているところであり、その地形を見出せる。一見複雑な山稜の様相であり、また地形変形もあるのだが、基本の形を読み取ることができたようである。

十二月甲辰。先是山階寺僧基眞。心性無常。好學左道。詐咒縛其童子。教説人之陰事。至乃作毘沙門天像。密置數粒珠子於其前。稱爲現佛舍利。道鏡仍欲眩耀時人。以爲己瑞。乃諷天皇。赦天下。賜人爵。基眞賜姓物部淨志朝臣。拜法參議。隨身兵八人。基眞所作怒者。雖卿大夫。不顧皇法。道路畏之。避如逃虎。至是。凌突其師主法臣圓興。擯飛騨國。癸丑。從四位上内藏頭侍從藤原朝臣是公爲兼下総守。丙辰。勅。陸奥國管内及他國百姓。樂住伊治桃生者。宜任情願。隨到安置。依法給復。壬戌。授外從七位上桑氏連鷹養外從五位上。以獻物也。甲子。尾張國山田郡人從六位下小治田連藥等八人賜姓尾張宿祢。乙丑。授美作國人外正八位上財田直常人外從五位下。以貢獻也。 

十二月四日、これより以前、山階寺(興福寺)の僧基眞は、心が落ち着かず、好んで邪な道を学び、詐術を使って彼に仕える童子を呪縛し、人の秘事を説かせたり、更には毘沙門天像を造って密かに数粒の玉をその前に置き、仏舎利の出現と称したりした。そのため道鏡は、この基眞を利用して世人の目をくらまし惑わせ、自分のめでたいしるしにしようと思い、天皇に告げて天下に恩赦を行い、官人達に位階を賜い、基眞には物部淨志朝臣(物部淨之朝臣)の氏姓を賜って法参議に任じ、身辺警護の兵八人を与えた。そのため基眞の怒りにふれた者は、たとえそれが卿大夫であろうと、天皇の定めた法を憚ることなく制裁を加えた。道行く人々は、これを恐れ、基眞を避けること、まるで虎から逃げるかのようであった。しかしここに至って基眞の師主である法臣の圓興を侮り欺こうとしたので、飛騨國に退けられた。

十三日に内藏頭・侍従の藤原朝臣是公(黒麻呂)に下総守を兼任させている。十六日に次のように勅されている・・・陸奥國の管内及び他國の人民で、伊治城桃生城に移り住むことを希望する者があれば、その願い通りに移住を許し、人民が到着次第、居住地を与えて安住させ、法に依って租税を免除せよ・・・。

二十二日に「桑氏連鷹養」に外従五位下を授けている。物を献じたことによる。二十四日に尾張國山田郡の人である「小治田連藥」等八人に「尾張宿祢」の氏姓を賜っている。二十五日に美作國の人である「財田直常人」に外従五位下を授けている。私財を献じたことによる。

<桑氏連鷹養>
● 桑氏連鷹養

「桑氏連」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。この後續紀に登場されることもないようである。物を献上して叙位されていることから、何処かの空白の地に棲息していた人物と推測される。

致し方なく他書を調べると、「但馬國氣多郡」に「桑氏連」を名乗る住人がいたようである。但馬國氣多郡は、後に續紀に記載されていることも併せて分かった。

上記の「氣多神」の氣多=山稜の端がゆらゆらと延びてるところとすると、古事記の”多遲麻”の別名とも言えるが、郡全体を見極めるのは、時期尚早と思われる。桑氏=山稜の端が細かく岐れて匙のような形をしているところと読み解ける。これも容易に見出せる地形である。

名前の既出の文字列である鷹養=山麓の谷間で二羽の鳥が並んでいるような山稜の隙間がなだらかに延びているところと読み解ける。名前の由来が、何とも壮大であるが、広々とした丘陵地を開拓したのであろう。

<小治田連藥>
● 小治田連藥

「尾張國山田郡」は、書紀の天武天皇紀に登場しているが、その地を出自とする人物は、生江臣安久多が國分寺に寄進をして外従五位下を叙爵されるまで登場せず、その後に一族が続いて記載されていた。

現地名は北九州市小倉南区長野の山稜に囲まれた地であり、大きく地形変形している場所でもある。国土地理院航空写真1961~9年を参照して、今回登場の人物の出自を求めてみよう。

見慣れた小治田=三角に尖った水辺に延びた耜のような山稜の麓で平らに広がっているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。既出の藥=艸+白+糸+糸+木=山稜に挟まれた地に小高い地があるところと解釈すると、出自の場所を推定することができる。現在は広大な公園になっているようである。

賜った尾張宿祢は、すでに多くの人物が登場していて(例えばこちら、古事記では尾張連之祖・意富阿麻比賣の場所)、彼等とは同祖の関係だったのであろう。古事記が記す尾張國造之祖・美夜受比賣の居処を「山田郡」の場所と推定した。現在の長野川流域を本貫とする一族だのであろう。

<財田直常人・秦刀良>
● 財田直常人

備前國から分離独立した美作國は、前者が拡がるに伴って領域が大きく変貌したと推測した。元明天皇紀の当初はこちらであったが、後にこちらまで拡がっていた。

即ち、初期の「備前國」の領域を占める國割りに至ったように記載されている。と言う訳で対象の地が広くなったのであるが、この人物の名前、常人=北向きに山稜が延びている麓に[人]の形の谷間があるところが貴重な情報源となったようである。

この地形は、対象の地域では唯一であり、図に示した場所と推定される。この谷間は、古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に登場した吉備海部直之女・名黑日賣の出自の場所とした地であり、その後にこの地に関わる人物は現れていなかった。

財田直の「財」は、古事記で多用される文字であるが、あらためて紐解くと、財=貝+才=谷間を遮るように山稜が延びている様と解釈した。財田=[財]の麓が平らに広がっているところとなり、図に示した地形を表していることが解る。

後に備前國出身で四十余年間内掃部司で勤務し、功労により外従五位下を叙爵された秦刀良が登場する。上図では美作國になっているが、この國が設置されたのが元明天皇紀の和銅六(713)年で、五十七年前であった(こちら参照)。十五歳前後で勤めだしたとすると、まだ備前國の名称であったように推測される。

そんな目論見で求めた彼等の出自の場所を図に示した。秦=稲穂のようなような山稜が延び出ている様であり、刀良=[刀]の形の山稜がなだらかに延びているところと解釈される。
















2023年7月21日金曜日

高野天皇:称徳天皇(18) 〔642〕

高野天皇:称徳天皇(18)


神護景雲二(西暦768年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

八月壬寅朔。日有蝕之。癸夘。出雲國嶋根郡人外從六位上神掃石公文麻呂。意宇郡人外少初位上神人公人足。同郡人神人公五百成等廿六人。賜姓大神掃石朝臣。己酉。參河國獻白烏。癸丑。賜大學直講正七位上凡直黒鯛伊豫國稻一千束。并授其母從八位下。賞勤學也。庚申。以外從五位下荒木臣忍國爲左兵庫助。」下総國言。天平寳字二年。本道問民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等具注應掘防毛野川之状申官。聽許已訖。其後已經七年。得常陸國移曰。今被官符。方欲掘川。尋其水道。當決神社。加以百姓宅所損不少。是以具状申官。宜莫掘者。此頻年洪水。損決日益。若不早掘防。恐渠川崩埋。一郡口分二千餘田。長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小塩郷小嶋村。達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈。其兩國郡堺。亦以舊川爲定。不得隨水移改。辛酉。近江國淺井郡人從七位下桑原直新麻呂。外大初位下桑原直訓志必登等賜姓桑原公。

八月一日に日蝕が起こっている。二日に「出雲國嶋根郡」の人である「神掃石公文麻呂」、意宇郡の人である「神人公人足」、同郡の人である「神人公五百成」等二十六人に「大神掃石朝臣」の氏姓を賜っている。八日に参河國が「白烏」を献じている。十二日に大学直講(大学寮で博士や助教を助けて経書の教授を担当した明経道教官)の凡直黒鯛(繼人に併記)に伊豫國の稲千束を賜い、併せてその母に従八位下を授けている。学問に勤勉なことを褒めるためである。

十九日に荒木臣忍國(父親道麻呂に併記)を佐兵庫助に任じている。また、下総國が以下のように言上している・・・天平字二(758)年に本道(東海道)の問民苦使の藤原朝臣淨弁(濱足に併記)等は、「毛野川」を掘り、洪水を防ぐ必要があることを詳しく記し、太政官に提出して許しを既に得ている。ところが、その後七年も経っているが、未だに実現していない。---≪続≫---

それについて「常陸國」から次のような文書が来ている…[今、到着した太政官符によって、これから川を掘ろうとしているが、その新しい水路の通り道を調べるてみると、ちょうどそれは「神の社を水が抉ること」になる(當決神社)。その上、人民の宅も損なうところが少なくない。このことを書面に記して太政官へ上申したところ、川を掘ってはならないとのことであった]…。---≪続≫---

その結果毎年のように洪水が起こり、損失は日毎に増えている。もし、早く川を掘り洪水を防ぐようにしなければ、多分用水の溝も壊れて埋まり、全郡の口分田二千余田も長く荒廃となるであろう・・・。

これを受けて太政官は下総・常陸の両國に命じて掘らせ、その新しい水路は「下総國結城郡小塩郷小嶋村」から「常陸國新治郡川曲郷受津村」に達するもので、長さは千丈余りに及んでいる。両國の「結城郡」と「新治郡」の郡界は、これまで通りに旧い川によって定めることにし、水路の変化に従って移し改めないようにしている。

二十日に近江國淺井郡の人である「桑原直新麻呂・桑原直訓志必登」等に「桑原公」の姓を賜っている。

<出雲國嶋根郡:神掃石公文麻呂>
<意宇郡:神人公人足-五百成>
出雲國嶋根郡

「出雲國」の郡建ては、斉明天皇紀の於友郡から始まり意宇郡大原郡出雲郡・楯縫郡までの五郡が順次記載されて来た。主には出雲郡の出雲臣一族が登場している。

今回初見の嶋根郡の名称は、今では県名(島根県)に用いられている。県庁のHPには…「島根」と名付けられたのは明治4年(1871年)11月のことでした。県庁がおかれた松江市が古くから島根郡(島根半島の東部)にあったためのようです…と記載されている。「島根」の由来は、何処も同じように、定かではないようである。

既出の文字列である嶋根=鳥のような形をした山稜の麓で根のように延びて岐れているところと解釈される。図に示した出雲の西端の場所を表している。上記の五郡が割り当てられて、唯一残った「楯縫郡」の西隣の場所である。蛇足だが、この「根」は、”球根”の形状をしている。古事記に記載された大物主大神の子孫である意富多多泥古の系譜中に登場する活”玉”依毘賣命の居処と推定した地である(こちら参照)。

● 神掃石公文麻呂 既出の文字である「神」=「示+申」=「高台が長く延びている様」、「掃」=「手+帚」=「山稜が箒のように広がり延びている様」、「石」=「厂+囗」=「山麓に小高い地がある様」とすると、神掃石=高台が長く延びて箒のように広がった先に小高い地があるところと読み解ける。文麻呂の文=綾模様のように折れ曲がっている様と解釈し、麻呂=萬呂とすると、この人物の出自を図に示した場所に見出せる。

● 神人公人足・神人公五百成 この二名は意宇郡が居処と記載されている。戸ノ上山の北西麓で山稜が長く延び出ている地と推定した。人足=谷間の先が足のような形をしているところ五百成=連なっている丸く小高い地が交差して平らな高台になっているところと読み解ける。図に示した場所が、各々の出自場所と推定される。

ここで登場の人物に大神掃石朝臣の氏姓を賜っている。少々離れた場所に住まう彼等は同祖の一族だったのであろう。古事記の「大年神」の子孫は大きく分けて三つの系列があったことが記されている(こちら参照)。神掃石公は伊怒比賣系列(出雲臣も含む)、神人公は香用比賣系列の地に該当することが解る。ところが楯縫郡の地は、大年神系列ではなかったのである。何百年も以前のことをまだまだ色濃く引き摺っていたのであろう(詳細はこちら参照)。

<參河國:白烏・長谷部文選>
參河國:白烏

「白烏」については文武天皇紀に下総國が献上記事があった(こちら参照)。また、聖武天皇紀には越中國、孝謙天皇紀では上野國安藝國に関して記載されている。
 
それなりに登場して来た”瑞祥”であるが、これだけ発見されては、有難味も薄まって来たかもしれない。勿論、”鳥”が二匹並んでいる地形を表していると解釈する。

參河國には、山稜と言える場所は唯一なのであるが、その場所に”鳥”の地形を見出せるのであろうか?・・・杞憂である。麓の「碧海郡」に坂上忌寸一族が蔓延っている山稜の地形を白烏と表現したと思われる。今回も、それなりに素っ気ない記述のように感じられる。

と思いきや、直後に献上者は參河國碧海郡の住人である長谷部文選であり、爵位と褒賞を賜っている。長谷部=長い谷間の近辺にあるところと解釈されるが、各地にあった「長谷」の一つである。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、山稜が綺麗に並んでいる谷間だったようである。文選=綾の形の山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。出自の場所を上図に示した。

<下総國結城郡・常陸國新治郡>
下総國結城郡・常陸國新治郡

毎年のように起こる両郡の間を流れる毛野川氾濫を防ぐために川を掘ることが提案されたのだが、何年たっても着工されていない。その経緯を含めて詳細が記載されている。

ところが、この本文の記述たとてつもなく違和感があるのだが、さて、如何なることになるのか、記載された地名を読み解いてみよう。

下総國結城郡は、初見である。この國の郡建てについては、元正天皇紀に香取郡が登場していた、それに続く郡名である。「結」=「糸+吉」と分解され、地形象形的には「山稜が蓋をしているような様」と解釈される。纏めると結城=山稜が蓋をするように囲まれた平らに整えられたところと読み解ける。

更に詳細に小塩郷小嶋村と記載されている。小塩(鹽)=平らな地が三角の形に囲まれているところ小嶋=羽を広げた鳥のような形をしているところと解釈する。上記の「結城」の地形と併せて、図に示した場所を表していることが解る。「香取郡」の北側に接する場所である。尚、地形の詳細は国土地理院航空写真1961~9年(こちら)を参照して推測した。

すると毛野川は、毛野=鱗のような地の麓で野原が広がっているところを流れる川と解釈される。上・下総國の地形を「毛」で表現したのである。現在の吉田川である。前記の武藏國入間郡・久良郡・橘樹郡の谷間から流れ出る大河である。

この「毛野川」の対岸にある地が常陸國新治郡を記載されている。本著では、それは紀伊國飯高郡なのである。續紀編者等にしてみると、これはあり得ない配置となろう。言い換えると紀伊國の配置は、後世の國別配置と大きく異なっているのである。いつかはこの齟齬に出くわすであろうと思いながら、漸くその場面に遭遇したようである。

續紀編者等の心情を慮って、少し弁護をしておこう。その一:上図から分かるように紀伊國の「名草郡」の山稜は、「常陸」の地形をしているのである。その二:「飯高郡」の地形は「新治」である。その三:古事記の倭建命がこの地を”邇比婆理”、その先に”都久婆”があると詠っている(こちら参照)。編者等が配置した”本来の”「常陸國新治郡」は、こちらである。

”毛野川を掘る”とは、バイパスを造ることだったと推測される。そもそも今のような一つの川筋ではなく、氾濫を繰り返して複数の川筋であったと思われるが、大きく迂回させて水量を分散させる工法であったのであろう。そこで「尋其水道。當決神社」と記載されている。敢えて登場させている神社、それが伊太祁曾神が鎮座する地を抉ることになったと伝えている。編者等の”良心”が伺えるようである。

川曲郷受津村の川曲郷は下総國の河曲驛の対岸、受津=水辺で筆のような山稜が寄り集まっている窪んだところと解釈される。図に示した辺りを表してると思われる。

<桑原直新麻呂-訓志必登>
● 桑原直新麻呂・桑原直訓志必登

「桑原直」の氏姓を持つ一族は、孝謙天皇紀に大倭國葛上郡及び近江國神前郡に蔓延っていたのであるが(こちら参照)、ここでは丁寧に「近江國淺井郡」を居処とする一族と記されている。

また今回賜った「桑原公」についても、称徳天皇紀になって、大和國葛上郡の桑原連一族が賜っている。「桑原」の地形が各地に点在していたのである。

淺井郡では、図に示した場所に桑=叒+木=山稜の端が細かく岐れている様の地形を確認することができる。新麻呂新=辛+木+斤=山稜が切り分けられている様であり、出自の場所を求めることができる。

既出の文字列の訓志必登=耕地の傍らを蛇行する川が流れている奥に高台がある谷間に挟まれた杙のような山稜が延びているところと読み解ける。出自を図に示した。残念ながら彼等はこの後に續紀に登場されることはなく、消息は不明のようである。

九月甲戌。大和守正五位上石川朝臣名足爲兼陸奥鎭守將軍。辛巳。勅。今年七月八日。得參河國碧海郡人長谷部文選所獻白烏。又同月十一日。得肥後國葦北郡人刑部廣瀬女。日向國宮埼郡人大伴人益所獻白龜赤眼。青馬白髪尾。並付所司。令勘圖諜。奏稱。顧野王符瑞圖曰。白烏者大陽之精也。孝經援神契曰。徳至鳥獸。則白烏下。史記曰。神龜者天下之寳也。与物變化。四時變色。居而自匿。伏而不食。春蒼夏赤。秋白冬黒。熊氏瑞應圖曰。王者不偏不黨。尊用耆老。不失故舊。徳澤流洽。則靈龜出。顧野王符瑞圖曰。青馬白髮尾者神馬也。孝經援神契曰。徳協道行。政至山陵。則澤出神馬。仍勘瑞式。白烏是爲中瑞。靈龜神馬並合大瑞。朕以菲薄。頻荷鴻貺。思順先典式覃惠澤。宜免肥後。日向兩國今年之庸。但瑞出郡者。特免調庸。大伴人益。刑部廣瀬女。並授從八位下。賜絁各十疋。綿廿屯。貲布卅端。正税一千束。長谷部文選授少初位上。賜正税五百束。又父子之際。因心天性。恩賞所被事須同沐。人益父村上者。恕以縁黨。宜放入京。」又先是勅。如聞。大宰府收觀世音墾田。班給百姓。事如有實。深乖道理。宜下所由研其根源。即仰大宰。搜求舊記。至是日奉勅。班給百姓見開田十二町四段捨入寺家。園地卅六町六段。依舊爲公地。壬辰。陸奥國言。兵士之設機要是待。對敵臨難。不惜生命。習戰奮勇。必爭先鋒。而比年。諸國發入鎭兵。路間逃亡。又當國舂運年粮料稻卅六万餘束。徒費官物。弥致民困。今検舊例。前守從三位百濟王敬福之時。停止他國鎭兵。點加當國兵士。望請。依此舊例點加兵士四千人。以停他國鎭兵二千五百人。又此地祁寒。積雪難消。僅入初夏。運調上道。梯山帆海。艱辛備至。季秋之月。乃還本郷。妨民之産。莫過於此。望請。所輸調庸。收置於國。十年一度。進納京庫。許之。乙未。左京人正七位上御使連清足。御使連清成。御使連田公等十八人賜姓朝臣。戊戌。正六位上田部直息麻呂。正八位上栗前連廣耳並授外從五位下。但廣耳以貢獻也。

九月四日に大和守の石川朝臣名足に陸奥國鎮守将軍を兼任させている。十一日に次のように勅されている・・・今年の七月八日、朕は參河國碧海郡の人である長谷部文選の献じた「白烏」を得た。同月十一日には、肥後國葦北郡の人である「刑部廣瀬女」と「日向國宮埼郡」の人である「大伴人益」が献じた「白龜赤眼」と「青馬白髮尾」を得た。それぞれ所司に送付して、図諜で調べさせたところ…[顧野王『符瑞図』は”白い烏は太陽の精霊”とあり、『孝経援神契』には”徳が鳥や獣にまで行き渡る時には白烏が天から降りて来る”とある。---≪続≫---

『史記』には、”神龜は天下の宝である。それは万物とともに変化し、四季に応じてその色を変える。居どころを隠し、卵を抱いている時は、物を食べない。春は蒼く、夏は赤く、秋は白く、冬は黒い”とあり、『熊氏瑞応図』には、”王が一方に偏らず不公平でなく、老人を尊んで登用し、昔からの馴染みを失わず、恵みが普く潤っている時には、霊龜が現れる”とある。---≪続≫---

顧野王『符瑞図』には、”青い馬で白く長い尾のあるのは神馬”とあり、『孝経援神契』には、”徳が天の心に叶い、正しい道が行われていて政治が山や丘などまで至る時、沢のなかから神馬が出現する”とある。そこで瑞式を調べてみると、白い烏は中瑞に、霊龜と神馬は、それぞれ大瑞にあたる]…と奏して来た。朕は德が薄いのに、しばしば大いなる賜い物を頂く。---≪続≫---

以前の仕来りに従って、ここに恵みを広く及ぼそうと思う。肥後・日向両國の今年の庸を免除する。但し瑞を出した郡は、特に調と庸を免除せよ。瑞を献じた「大伴人益」と「刑部廣瀬女」には、それぞれ従八位下を授け、絁十疋・真綿二十屯・ 布三十端・正税稲千束を賜う。長谷部文選には少初位上を授け、正税稲五百束を賜う。---≪続≫---

また、父と子の間には生まれつき親愛の情がある。恩情を及ぼすにも同じ恵みに浴するべきである。「人益」の父「村上」は縁の深い関係にあることを以って、以前の罪を許して赦免し、入京させることにせよ・・・。

また、これより先に次のように勅されている・・・大宰府は觀世音寺の墾田を収公し、それを公田として人民に班給したと聞いている。これがもし事実ならば、大変道理に背くことになる。このことを関係の役所に差し戻し、根本の理由を極めよ・・・。

太政官は直ちに大宰府に命じ、旧い記録を捜し求めさせたが、この日になって、天皇の勅を承って、人民に班給した現在開墾の済んでいる田十二町四段は寺に施入し、園地三十六町六段は今まで通り公地としている。

二十二日に陸奥國が以下のように言上している・・・兵士を準備しておくのは、緊急の事態に対応する為である。敵と相対して困難に臨んだ時生命を惜しまず、戦術を学び勇気を奮って必ず先駆を争う。ところが、このごろ諸國から徴発されて陸奥國に入る鎮兵は途中で逃亡してしまう。---≪続≫---

また当國では一年間の食料として稲三十六万束余りを米に舂いて運んでいるが、いたずらに官物を消費し、ますます人民を困らせることになっている。今、旧例を調べると、前守の百濟王敬福(①-)の時、他國の鎮兵を停止し、当國の兵士を徴発して加えた時があった。この旧例に従って、当國の兵士四千人を徴発して加え、他國の鎮兵二千五百人を停めることを請い願う。---≪続≫---

また、この地は大変寒く、積もった雪はなかなか消えない。そのため初夏になってから漸く調を運べるようになり、出発するが、山に梯子を掛けて登り、海を船で渡るような苦しみを具に経験する。また晩秋の九月に漸く本郷に還るので農繁期に遅れてしまうことになる。この調物の運京ほど人民の産業の妨げとなるものはない。人民の出した調・庸は國司のもとに収め置き、十年に一度の割合で都の倉庫に進納することを請い願う・・・。以上の言上は許されている。

二十五日に左京の人である御使連清足(三使連淨足)・御使連田公等十八人に朝臣姓を賜っている。二十八日に「田部直息麻呂・栗前連廣耳」に外従五位下を授けている。但し「廣耳」は私財を献じたことによる。

<肥後國葦北郡:白龜赤眼・刑部廣瀬女>
肥後國葦北郡:白龜赤眼

確かに瑞祥献上物語が増えている。徳の少ない天皇ではなく、真逆の様相…西海の脅威やら天災が一段落した時期なのかもしれない。例に依って、珍しいものが献上されたわけではない。

「肥後國葦北郡」は、聖武天皇紀に肥後國の被災地として「八代郡・天草郡」と共に記載されていた(こちら参照)。北に接する筑後國と併せて現在の福津市に含まれる地域と推定した。

頻出と言える白龜=龜のような形をした地がくっ付いて並んでいるところと解釈した。「龜」の地形は、既出の場合も決して明瞭ではないのだが、御多分に漏れず、この地の「龜」も水中深くに潜っているかのように見分けることが困難ではあったが、図に示した場所に確認できそうである。

更に赤眼=(龜の)眼にあたる地で平らな頂の山稜が火のように延びているところと解釈される。それぞれの「龜」の頭部で「眼」の場所の地形を表していると思われる。白龜は、図に示した広がった谷間と推測され、そこを開拓したことを告げているのであろう。

● 刑部廣瀬女 ”発見者”ではなく本来は”開拓者”になるのであるが、多分、その近隣を出自とする人物だったと思われる。頻出の刑部=四角く取り囲まれた地の近辺のところ廣瀬=瀬が広がっているところと解釈すると、出自は図に示した辺りと推定される。「葦北郡」の「北」が表す山稜に住まっていたことが解る。

<日向國宮埼郡:青馬白髮尾>
<大伴人益-村上>
日向國宮埼郡:青馬白髮尾

「日向國」の郡割は、元明天皇紀に「肝坏郡・贈於郡・大隅郡・姶羅郡」の四郡とし、別途大隅國を設置したと記載されていた(こちら参照)。

即ち、今回登場の宮埼郡は、その後に建てられた郡であり、おそらく上記四郡の一つが分割されたと推測される。陸奥國(一時石城國)の宮城郡に類似するように思われる。

名称の宮埼=奥まで段々に積み重なった谷間の傍らの山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。がしかし、日向國の地形からすると、極めてありふれた地形であり、一に特定することは難しく思われる。

ところが献上された青馬白髮尾が、実に貴重な情報を提供していることが分かった。先ずは、この文字列を読み下してみよう。青(靑)馬=四角く取り囲まれた地に馬の形をした山稜が延び広がっているところとなる。久々に魏志倭人伝の邪馬壹國を想起する羽目になったが、勝るとも劣らずの立派な「馬」が鎮座していることが解った。

既出の文字列である白髮尾=細く長い髪の毛のような山稜がくっ付いて並んでいる地が尾にあるところと読み解ける。図に示した馬の尾に当たる場所にその地形を見出せる。そして、勿論、「宮埼」の地形も確認することができる地域である。

● 大伴人益・村上 大伴=平らな頂の山稜を谷間が半分に切り分けているところであり、その谷間の峠を越えると他國に繋がる場所である。人益=谷間に挟まれて平らに広がった地の前に谷間があるところ村上=手を開いたように延びた山稜の端が盛り上がっているところと解釈される。この親子の出自の場所を図に示した。

”祥瑞”の献上物語が如何に人民にとって重要なものであったかは、想像に難くないものであろう。開拓して公地として貢進する場合ばかりではなく、地形絵図にして「発見」するだけでも、叙位・褒賞に与ることができた。書紀・續紀を通じての”瑞祥”の記述を文字通りに読み飛ばしては、実に勿体ない、であろう。

尚、求められた「宮埼郡」の配置からすると、どうやら「大隅郡」を分割して建てられた郡であったことが解る。但し、この後の續紀には登場することもなく、詳細は不明のようである。

<田部直息麻呂>
● 田部直息麻呂

「田部直」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。「田部連」は書紀の天武天皇紀に國忍が登場し、暫く空白の時が流れて、孝謙天皇紀に田部宿祢男足が登場している。明らかに異なる一族であったと思われる。

調べると、「田部」一族は各地に蔓延っていたようで、と言っても殆どの氏族がそうだと言われていて、諸説紛々の有様である。そんな中でも『正倉院文書』に伊豫國久米郡を居処とする一族の記録が残されている。

確かに「久米郡」は、長い谷間に田が連綿と作られていた地と思われる。古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、五百木之入日子命の出自の場所と推定した場所でもある。古くから開けた地ではあるが、表舞台への登場が途切れていたようである。息麻呂息=谷間の奥から山稜が延び出ている様と解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。

この後に幾度か登場され、壹伎嶋守を任じられている時に”祥瑞”を献上して、昇位・褒賞を賜ったと記載されている。上記本文で同じように外従五位下を叙爵された人物は私財貢進で、ご当人はそうではない、と断っていることが腑に落ちるわけである。

<栗前連廣耳-枝女>
● 栗前連廣耳

「栗前連」は記紀・續紀を通じて初見である。書紀中の関連する人物に、天智天皇の水主皇女の祖父が栗隈首德萬と記載されている。伊賀國の一角を占めていた人物と思われる。現地名は北九州市小倉南区長行・徳吉辺りである。

近隣は采女朝臣一族が蔓延っていて、かなり限られた地域を居処としていたように思われる。残念ながら、系譜は不詳であるが、おそらく「德萬」等の後裔に当たる人物だったのではなかろうか。

廣耳=広がり延びた耳の形のようなところと読むと、図に示した場所が見出せる。積殖山口に含まれる「殖」が表す地形を「耳」と表現していることが解る。『壬申の乱』で天武天皇が吉野脱出後に通過した場所である。確かに、ここは”空白地帯”であった。

そして、「采女」の地形から外れた場所になる。「栗隈(前)」一族は、おそらく「采女」と同様に邇藝速日命の子孫だったと思われるが、氏名は、実に地形に忠実であることが伺える。私財貢進で叙位されたのだが、この後にも登場され、内位の従五位下に昇位されている。

後(光仁天皇紀)に栗前連枝女が外従五位下を叙爵されて登場する。「枝」のように突き出た山稜の麓を居処としていたのであろう。図に示した場所が出自と推定される。





































 

2023年7月15日土曜日

高野天皇:称徳天皇(17) 〔641〕

高野天皇:称徳天皇(17)


神護景雲二(西暦768年)閏六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

閏六月乙巳。從五位上船井王爲侍從。從五位上大野朝臣石本爲左大舍人頭。從五位下田中王爲内礼正。從五位上巨勢朝臣公成爲兵部少輔。從五位下佐伯宿祢三方爲右兵庫頭。從五位下石城王爲内兵庫頭。内藥佑外從五位下雀部直兄子爲兼參河員外介。從五位下長谷眞人於保爲武藏員外介。外從五位下林連廣山爲少掾。從五位上甘南備眞人伊香爲越中守。從五位下佐味朝臣宮守爲越後守。己酉。無位笠朝臣比賣比止。多治比眞人伊止。正六位上忌部宿祢止美並授從五位下。是日。戸百五十烟捨西大寺。庚戌。外正七位下國造雄萬。外正八位下物部孫足。從八位下六人部四千代並授外從五位下。以貢獻也。乙夘。以近衛少將從五位下佐伯宿祢國益爲兼備後守。庚午。授外從五位下健部朝臣人上從五位下。

閏六月三日に船井王を侍従、大野朝臣石本(眞本に併記)を左大舎人頭、田中王()を内礼正、巨勢朝臣公成(君成)を兵部少輔、佐伯宿祢三方(御方)を右兵庫頭、石城王()を内兵庫頭、内薬佑の雀部直兄子を兼務で參河員外介、「長谷眞人於保」を武藏員外介、林連廣山(雑物に併記)を少掾、甘南備眞人伊香(伊香王)を越中守、佐味朝臣宮守を越後守に任じている。

五日に左京の人である「和安部臣男綱」等三人に「和安部朝臣」の姓を賜っている。七日に笠朝臣比賣比止(不破麻呂に併記)・「多治比眞人伊止・忌部宿祢止美」にそれぞれ従五位下を授けている。この日、百五十戸を西大寺に施入している。八日に「國造雄萬」・物部孫足(山背に併記)・「六人部四千代」にそれぞれ外従五位下を授けている。私財を献じたためである。十三日に近衛少将の佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)に備後守を兼任させている。二十八日に健部朝臣人上(建部公人上)に内位の従五位下を授けている。

<長谷眞人於保>
<文室眞人子老-布登吉>
● 長谷眞人於保

「長谷眞人」は見慣れた文字列であるが、実は記紀・續紀を通じて初見なのである。そして、寶龜三(772)年正月に「從五位下⾧谷眞人於保賜姓文室眞人」と記載されている。回りくどいことだが、要するに文室眞人大市(大市王)の子孫であった(こちら参照)。

於保は既出の文字列であり、於保=旗をなびかせたように広がり延びた谷間にある山稜の先が丸く小高くなっているところと読み解ける。「眞老」の更に先にある場所を表してることが解る。

図から分かるように大市王の子孫は、長く延びた山稜に沿って南下したわけで、「於保」の場所は、まるで”遠祖”のような配置となっている。そして彼の東側は「長谷」の地形であり、それを氏名にしたのであろう。

また、「長谷(ハセ)」と読むわけにはいかないことも解る。以前にも述べたが、「長谷」は固有の地名では、決して、ないのである。この後、幾度か登場され、地方官を任じられて、最終従五位上・備後守と記載されている。

この直後に文室眞人子老が登場する。従五位下の爵位ではあるが、叙位の時期及び系譜も不明のようである。子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。最終従五位上・安房守と伝えられている。

またその後にも女孺の文室眞人布登吉が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示したようになることが解った。既出の文字列である布登吉=蓋をするように延びた山稜の前で平らに広がった地に谷間の奥に高台があるところと読み解ける。地形変形が激しく、辛うじて判別できたようである。

<和安部臣男綱(和安部朝臣)>
● 和安部臣男綱(和安部朝臣)

「和安部臣」は、記紀・續紀を通じて初見の一族であろう。称徳天皇紀に入って、未記載の一族、即ちその居処を隈なく取り上げているようである。初見であると同時にこの後に登場されることもない。

致し方なく、関連情報を調べると、丸邇(古事記表記。書紀では和珥)一族に関係があることが分かった。しかしながら、この地には御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった多くの一族が蔓延った地でもある(春日臣・大宅臣・柿本臣・小野臣・粟田臣・壹比韋臣他:こちら参照)。

これ等の諸臣の後裔が多数登場し、また、吉田連(天押帶日子命の後裔である日子國夫玖命の子孫)も併せて、ほぼ埋め尽くされた感じのように思われるが、実は、直近で登場した大和國大神朝臣一族の居処との間に空隙があったのである。

和安部臣和=大和國を表すと解釈する。安=宀+女=山稜に挟まれて谷間が嫋やかに曲がって延びている様である。巷間では「安部=安(阿)倍」と読んで、”大和國の安倍”と解釈されているが、妄想の世界であろう。読むならば、安(ヤス)である。

古事記に倭建命が娶った「近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣」の出自の場所が近淡海之安(國)であったと記載され、時が流れて、近江國野洲郡と呼称されている。和安部=大和國の[安]の谷間付近のところと解釈される。名前の男綱=突き出た山稜が綱のように延びているところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

<多治比眞人伊止-賀智>
● 多治比眞人伊止

多くの人材が登場して来た「多治比眞人」一族であるが、系譜は不詳のようである。上記本文で「笠朝臣」と「忌部宿祢」と併せて三名は女官と思われ、それぞれ「止」の文字を含む名前である。

「多治比眞人」一族で女官らしき人物は、聖武天皇紀に乎婆賣・若日賣が従五位下を叙爵されて登場していた。変わらず系譜不詳であるが、「乎婆賣」の特徴的な地形から出自の場所を特定することができた。

そんな背景で、「伊止」も彼女等の谷間の地形を表わしているのではなかろうか。現在はゴルフ場に開発されていて、詳細を知るには、国土地理院航空写真1961~9年を参照することにする。

名称に用いられた「止」について、あらためて、その文字が表す地形を読み解いてみよう。「止」=「足(裏・跡)の形」を象形した文字とされている。「足」=「囗+止」=「足全体(膝小僧から足先)」を象形した文字であり、地形象形的には「小ぶりな谷間」を表すと解釈する。更に「止」=「両足が横から眺めて揃っている形」=「止まる」に意味展開することも理解される。

「止」の地形象形は、横から眺めるのではなく、上から見た足の形として、伊止=谷間に区切られた山稜(伊)の麓で小ぶりな細長い山稜が揃って並んでいる(止)ところを表すと解釈する。すると上図に示した場所にその地形を見出すことができる。「吉備」の東南側、「石足」の西側に当たる。

笠朝臣比賣比止については、標高差が少なく、また地形変形もあって、明瞭ではなかったが、ここで初めて「止」の地形を確認することが可能であった。と言っても現在の地図ではないが・・・。

後(桓武天皇紀)に多治比眞人賀智が従五位下を叙爵されて登場する。賀智=[鏃]と[炎]の形がある山稜が谷間を押し開くように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。その後に幾度か地方官・京官を任じられている。

<忌部宿祢止美-人上>
● 忌部宿祢止美

「忌部宿祢」一族も途切れることなく登場している。系譜不詳であり、上記と同じく「止」の文字を含む名前が表す地形から出自場所を求めることになる。

書紀の天武天皇紀以降に活躍した忌部一族について、こちらこちらを参照すると、「首」の地形の東側へと子孫が広がったことが伺える。「子人(首)・色夫知」兄弟の西側の谷間は、全くの空白地域だったわけである。

現在は自動車学校の敷地となっている谷間の国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、見事な「止」の文字が表す地形を確認することができる。止美=小ぶりな細長い山稜が揃って並んでいる(止)先で谷間が広がっている(美)ところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。

後(桓武天皇紀)に忌部宿祢人上が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である人上=谷間に盛り上がった地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度か登場するようである。

<國造雄萬>
● 國造雄萬

後の寶龜元年(770)四月に「美濃國方縣郡少領外從六位下國造雄萬獻私稻二万束於國分寺。授外從五位下」と記載されている。今回の叙爵で外従五位下を授けられている、重出のように思われるが、美濃國方縣郡の住人だったとして、出自場所を求めてみよう。

美濃國方縣郡は、元明天皇紀の行幸に供奉した住人の居処として記載されていた。また、書紀の天武天皇紀に『壬申の乱』における軍事拠点であった和蹔があった場所と推定した。現地名の京都郡苅田町若久町辺りである。

名前の雄萬=羽を広げた鳥の形の山稜の麓で「萬」の文字形ようになっているところと読み解ける。残念ながら現在は凄まじいばかりに地形変形していて、国土地理院航空写真1945~50年から出自の場所を求めると、図に示した辺りが出自と推定される。

<六人部四千代>
● 六人部四千代

「六人部」(無姓)は、孝謙天皇紀に「藥(久須利)」が登場し、右京の地に出自の場所を求めた(こちら参照)。また、六人部連は、山背國が出自と推定し、現地名の京都郡みやこ町犀川谷口辺りとした。

勿論、共に六人部=谷間(人)にある盛り上がって広がる(六)地の近隣のところが表す地形を有する場所である。幾度も述べるように、”地形”に基づく名称であり、”固有”ではないのである。

名前の四千代に含まれる既出の千代=杙のような山稜が谷間を束ねているところと読み解いた。その谷間がつあることになる。通常の地形図では変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示したように六人部の地に四つの谷間を確認することができる。

秋七月壬申朔。以從四位下多治比眞人土作爲治部卿。左京大夫讃岐守如故。從五位下伊刀王爲雅樂頭。外從五位下昆解沙弥麻呂爲助。從五位下文室眞人子老爲諸陵頭。從五位下石河朝臣人麻呂爲大藏少輔。從五位下豊野眞人篠原爲彈正弼。從四位下小野朝臣竹良爲右京大夫。外從五位下秦忌寸眞成爲造法華寺判官。正五位上大伴宿祢伯麻呂爲遠江守。右中弁造西大寺次官如故。從五位下巨勢朝臣苗麻呂爲駿河守。從五位下佐伯宿祢國守爲上総介。從五位上紀朝臣鯖麻呂爲美濃員外介。外從五位下濃宜公水通爲信濃介。外從五位下船木直馬養爲越前員外掾。從五位下豊國眞人秋篠爲石見守。從五位下池原公禾守爲播磨介。大外記右平準令造西隆寺次官如故。庚辰。壹伎嶋飢。賑給之。壬午。武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢。」授女孺无位沙宅萬福從五位下。」日向國獻白龜。乙酉。阿波國麻殖郡人外從七位下忌部連方麻呂。從五位上忌部連須美等十一人賜姓宿祢。大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連。戊子。從四位上伊勢朝臣老人爲修理長官。造西隆寺長官中衛員外中將如故。從五位下相摸宿祢伊波爲次官。右兵衛佐如故。庚寅。大宰府言。肥後國八代郡正倉院北畔。蝦蟆陳列廣可七丈。南向而去。及于日暮。不知去處。辛丑。大學助教正六位上膳臣大丘言。大丘天平勝寳四年。隨使入唐。問先聖之遺風。覽膠庠之餘烈。國子監有兩門。題曰文宣王廟。時有國子學生䄇賢告大丘曰。今主上大崇儒範。追改爲王。鳳徳之徴。于今至矣。然准舊典。猶稱前号。誠恐乖崇徳之情。失致敬之理。大丘庸闇。聞斯行諸。敢陳管見以請明斷。勅号文宣王。」授无位三嶋女王從五位下。正六位下大縣連百枚女。壬生公小廣。安都宿祢豊嶋並授外從五位下。

七月一日に、多治比眞人土作(家主に併記)を左京大夫・讃岐守はそのままで治部卿、伊刀王(道守王に併記)を雅樂頭、昆解沙弥麻呂(宮成に併記)を助、文室眞人子老(長谷眞人於保に併記)を諸陵頭、石河朝臣人麻呂(石川朝臣。谷間の出口の故に「河」を用いたのであろう)を大藏少輔、豊野眞人篠原(篠原王)を彈正弼、小野朝臣竹良(小贄に併記)を右京大夫、秦忌寸眞成(首麻呂に併記)を造法華寺(隅院近隣)判官、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を右中弁・造西大寺次官はそのままで遠江守、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を駿河守、佐伯宿祢國守(眞守に併記)を上総介、紀朝臣鯖麻呂を美濃員外介、濃宜公水通を信濃介、船木直馬養を越前員外掾、豊國眞人秋篠(秋篠王)を石見守、池原公禾守を大外記・右平準令・造西隆寺次官はそのままで播磨介に任じている。

九日に壹伎嶋に飢饉が起こり、物を与えて救っている。十一日に「武藏國入間郡」の人である勲五等の「物部直廣成」等六人に「入間宿祢」の姓を賜っている(こちら参照)。また、女孺の「沙宅萬福」に従五位下を授けている。日向國が「白龜」を献じている。十四日に「阿波國麻殖郡」の人である「忌部連方麻呂・忌部連須美等」十一人に宿祢姓、「忌部越麻呂」等十四人に連姓を賜っている。十七日に伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を造西隆寺長官・中衛員外中将はそのままで修理司長官、相摸宿祢伊波(漆部直)を右兵衛佐はそのままで次官に任じている。

十九日に大宰府が…[「肥後國八代郡」の「正倉院北畔」に、「蝦蟇」が並び連なって「七丈」に広がり、南に向って去って行った。「日暮」で行方がわからない]…と言上している。

三十日に大学助教の「膳臣大丘」が以下のように言上している・・・「大丘」は、天平勝寶四(752)年に遣唐使に随って唐に渡り、古の聖人が遺した教化の跡を尋ね、上世の学校の余光を見た。國子監には二つの門があり、その額には文宣王(孔子の諡号)廟と記されていた。この時、國子監の学生で䄇賢という者がいて、大丘に…[今の皇帝は大変儒家の教えを尊び、後から改めて文宣王とされた]…と告げた。唐では聖人の徳の影響が今にまで及んでいる。---≪続≫---

ところが日本では旧い制に従って、なお孔子という前号を使用している。これではおそらく聖人の徳を崇める心に背くことになり、聖人を尊敬する道を失うことになるであろう。大丘は凡庸で愚かな者ではあるが、聞いたことをそのまま行おうと思っている。敢えて狭い自分の意見を述べ、明らかな判断をお願いする・・・。勅により、孔子の名を文宣王と呼ぶことにされている。

この日、「三嶋女王」に従五位下を授けている。また、「大縣連百枚女・壬生公小廣・安都宿祢豊嶋」に外従五位下を授けている。

● 沙宅萬福 「沙宅」の氏名を持つ人物は、書紀の斉明天皇紀に、伊吉連博德書云の中に百濟の重臣として「千福」が記載されている。その後天智天皇紀に百濟からの亡命者の一人として「紹明」が登場し、天武天皇紀に亡くなっている・・・大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智、時稱秀才。於是、天皇驚之、降恩以贈外小紫位、重賜本國大佐平位・・・。

更に持統天皇紀に典薬博士の「萬首」が褒賞に与ったりしている。「萬福」はこの一族に関わる人物であったのであろう。百濟の名家、「沙宅」を倭風に変えなかったようである。近江國蒲生郡の地に、「沙宅」が表す地形があったのかもしれないが、後日としよう。

<日向國:白龜>
日向國:白龜

”白い亀”を献上した・・・ではなかろう。多くの「白龜」の献上物語が記載されていた。文武天皇紀に長門國(こちら参照)、元正天皇紀に左京、聖武天皇紀に河内國、孝謙天皇紀に大宰府及び尾張國の各地が開拓された物語であった。

その他にも「龜」の地形は随所に見出せて献上されたと記載されている。以前では、その発見の経緯を含めて、詳細に記述されていたが、今回に至っては、真に簡略な表現となっているようである。

それは兎も角として、白龜=龜の形をした地がくっ付いて並んでいるところの地形を求めると、図に示した場所が見出せる。当然のことなのだが、亀の甲羅を表す地形は、なだらかに広がっていて、格好の宅地開発場所であったと思われる。現在は広大な団地に変貌しているようである。

<阿波國麻殖郡>
<忌部連方麻呂-須美:忌部越麻呂>
阿波國:麻殖郡

少し前に阿波國の板野郡・名方郡・阿波郡の人々の氏姓は、「粟凡直」であることが記載されていた。勿論、粟凡直がその地の地形象形表記であることも確認された。

その時点で麻殖郡の場所を求めることが可能であったが、それを示すに止めていた。今回の記述で、他の三郡とは異なり、住人の氏姓は忌部連及び無姓の忌部であったことが明らかになっている。

既出の文字列である麻殖郡麻殖=擦り潰されたような山稜が真っ直ぐに延びた端が岐れて途切れているところと解釈される。骨の関節部を模した表記である。すると板野郡との境に延びる山稜の形を表していることが解る。他の三郡と同様に、崖のような山麓に延びる山稜の形で名付けられているのである。

● 忌部連方麻呂・須美 「忌部」は由緒ある名称であって、伊勢國の外宮の近隣の住まう一族と解釈して来た。元々は「忌部首」、後に宿祢姓を賜っている。勿論、「忌部連」は「忌部首」の一族ではなく、居処が同じような地形を示しているのである。

あらためて文字解釈を行ってみると、忌=己+心=谷間の中心に[己]の形に山稜が延びている様となる。「忌部」は、その近辺を示していることになる。「忌部首」の場所(現地名の北九州市小倉南区守恒辺り)の地形は、早くから宅地造成などで変形していて若干曖昧な様相であったが、この地で確認されることになった。

方麻呂方=耜のように山稜の端が広がった様である。既出の文字列である須美=州の先の谷間が広がっているところと解釈される。これ等の地形を満足する場所を、それぞれ図に示したように求めるできる。目出度く宿祢姓を賜っている。

● 忌部越麻呂 越=走+戉=山稜の端が鉞のような形をしている様と解釈したが、その地形を「須美」の東側に見出せる。この無姓の人物等は、別系列だったのであろう。連姓を賜ったと記載されている。古事記の品陀和氣命(応神天皇)が高木之入日賣命・中日賣命・弟日賣命を娶って多くの子が誕生したと伝えている(こちら参照)。その一人の阿倍郎女の「倍」は、「越」の地形の別表現である。

<肥後國八代郡:正倉院・蝦蟆>
肥後國八代郡:正倉院・蝦蟆

上記本文で大宰府が、唐突に言上したのであるが、蝦蟇が隊列を組んで何処かに隠れてしまった…一体、何を伝えようとしているのか、續紀に記すほどの出来事か…と訝っても、その後の進展は見出せないであろう。

「肥後國八代郡」は、聖武天皇紀に大災害が発生した記事があった。他の二郡、「葦北郡・天草郡」の名称も記載されている(こちら参照)。「八代郡」は、現在の古賀市に当たる場所と推定した。そして、今回の大宰府の文言の全てが、その地の地形を表しているのである。

正倉院の「正」=「止+一」と分解される。「止」=「足の形」の象形文字であり、それに「一」が加わわると、「正」=「両足を揃えたように山稜の端が並んでいる様」と解釈される。既出の「倉」=「四角く区切られた様」である。「院」=「阝+完」=「段差のある高台が丸く取り囲んでいる様」と解釈される。

纏めると正倉院=段差のある高台が丸く取り囲んでいる地の前で両足を揃えたように山稜の端が並んで麓が四角く区切られているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。肥後國なんかに”正倉院”がある筈がないとして、その國の”正倉”と読まれているようであるが、勿論、重ねた表記であろう。

<蝦蟆・日暮>
北畔は、正倉院の北辺のように読み取ってしまいそうだが、これも地形象形表記である。「畔」=「田+半」=「田を半分に切り分ける様」と解釈する。すると北畔=(正倉院の)北にある田を半分に切り分ける山稜が延びているところと読み解ける。

そこに蝦蟆が並んでいると述べているのである。図に示したように、細切れになった山稜、その一つ一つを「蝦蟆」の形と見做した表現である。それらが先ずは西方に、そして南に向きを変えて並び連なっていることが解る。

その「蝦蟆陳列」の向かった先に日暮がある。日が暮れて暗くて行方不明になった・・・ではなく、「暮」=「莫+日」=「[炎]のような山稜が見えなくなる様」と解釈して、日暮=[炎]の山稜が延びている地が[炎]の山稜を見えなくしているところと読み解ける。現在の尾東山とその背後の前岳の地形を表していることが解る。

上記本文の「蝦蟆陳列廣可七丈」は、まるで隊列の長さが「七丈」のように錯覚するところではあるが、全くの誤りである。「蝦蟆」が七匹並んでいる、と告げているのである。「日暮」の地は、全くの未知の地域である。それ故に「蝦蟆」を登場させたのであろう。この地の更に南は、博多大津に繋がる…それはあからさまには記述できない・・・久々に”万葉”の世界を伺わせてくれた記述だったようである。

<膳臣大丘>
● 膳臣大丘

「膳臣」は、古事記・書紀に古くから登場する一族の氏姓であって、人材輩出の地でもある。後に「高橋朝臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

そんな背景であるが、未だに「膳臣」と名乗るのは、おそらく、「膳」の地そのものではなく、近辺を出自とする氏族だったのであろう。

かなり以前になるが、書紀の孝徳天皇紀に膳部臣百依が登場していた。おそらく、「膳臣」が「高橋朝臣」へと改氏姓するのに従って「部」を省略するようになったのではなかろうか。

名前の大丘=平らな頂をした丘になっているところと読むと、図に示した場所が出自であったと推定される。「百依」の北側の山稜の地形を表している。後に幾度か登場され、大学博士・豊後介など歴任されたとのことである。

● 三嶋女王 全く関連情報が欠落している女王のようである。ただ、續紀では、この後、延暦四(785)年正月に「授從五位上川邊女王正五位下。從五位下三嶋女王從五位上」、すぐに続けて「授從五位上三嶋女王正五位下」と記載されている。川邊女王は、舎人親王一家で三嶋王の娘であり、『仲麻呂の乱』に連座して配流された後に復帰している。

<大縣連百枚女・上村主五百公-刀自女>
三嶋王自身の事績は、殆ど見られず、早い時期に亡くなったように推測される。おそらく、三嶋女王はその地を居処としていたのではなかろうか。

● 大縣連百枚女

この人物の素性も、殆ど伝わっていないようである。氏名の「大縣」は、河内國大縣郡(元正天皇紀に「河内國堅下堅上二郡。更号大縣郡」と記載されている)に含まれていて、多分その地を居処としていたのではなかろうか。

百枚女百枚=丸く小高い地が連なる山稜が岐れて延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。地形の凹凸が明瞭であって、地形象形表記としての確度は、かなり高いものと思われる。

少し後に「河内國大縣郡」の人である上村主五百公が「上連」の氏姓を賜ったと記載されている。上村主は、「村」=「木+寸」=「山稜が手を広げてのばしたような様」と解釈して、上村主=山稜に盛り上がった地がある[村]が真っ直ぐに延びているところと解釈される。五百公五百=小高い地が交差するように並んでいるところとすると、出自の場所を求めることができる。

更に少し後に河内國に行幸された際、九十九歳という高齢な女性である上村主刀自女に従五位下を授けたと記載されている。頻出の刀自女=刀の形の地が山稜の端にあるところと解釈すると、図に示した場所に住まっていたのであろう。

<壬生公小廣>
● 壬生公小廣

「壬生」の氏名には、①無姓②直姓③連姓の系統が登場し、それぞれ全く異なる地を出自とする一族であった。今回新たに「④公姓」の人物が登場したことになる。

續紀中に登場されるのは、ここのみであり、関連する情報は皆無の有様である。止む無く他の史料を調べると、古事記に「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」と記載されている「上毛野君・下毛野君」の子孫らしいことが分かった。

續紀においても、その子孫等は上毛野朝臣下毛野朝臣の氏姓を持つ人物として多数登場している。現地名は築上郡上毛町・吉富町と推定したが、その地で名前が示す場所を求めることになる。

壬生公壬生=丸く膨らんだような地が生え出ているところと解釈した。その地形を図に示した場所、山国川の西岸、現地名の築上郡上毛町垂水辺りに見出せる。小廣=三角の形に広がっているところと読むと、出自の場所を求めることができる。

「上毛野朝臣」の地ではなく、また「下毛野朝臣」の地でもない、その中間辺りの地域である。「下毛野君」の後裔として大野朝臣一族が登場していた。「下毛野」の地形象形とは、大きく異なることから「大野」という名称に変えたのであろう。「壬生公」も同じような立場だったと推測される。

<安都宿祢豊嶋-雄足>
● 安都宿祢豊嶋

「安都宿祢」の氏姓は記紀・續紀を通じて初見である。関連する名称を調べると、書紀の天武天皇紀に記載されている物部一族である「安斗連(阿刀宿祢)」の別称であることが分かった(こちら参照)。

史書に登場するのは「智德・阿加布・玄昉」の三名であるが、系譜が知られている人物等の出自の場所を求めた。

今回登場の豊嶋=鳥のような山稜の前で段々になった高台があるところについては、「阿加布」の子である「廣嶋・足嶋」と「嶋」で繋がっているように思われるが、定かではない。出自の場所は、図に示したように、二人の兄弟の間の山麓辺りと推定される。後に登場されることもなく、この後の消息は不明である。

ところで、この人物を調べていると、續紀等の史書には登場しないが、他の史書には安都宿祢雄足が頻繁に記載されているとのことである(Wikipedia参照)。雄足=羽を広げた鳥のような山稜の麓に足の形の地があるところ(上図参照。「石楯系列」か?)。

造東大寺司主典として、東大寺の越前國荘園の経営に深く関わっていた様子が記録されているそうである。天平字八(764)年、『仲麻呂の乱』以降の消息不明とのことで、この乱の一つの”戦場”であった越前國で紛争に巻き込まれたのかもしれない。