2022年4月26日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(47) 〔584〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(47)


天平二十年(西暦748年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

三月戊寅。宣勅。朕以薄徳君臨四海。夙興夜寢。憂勞兆民。然猶風化未洽。犯禁者多。是訓導之不明。非黎首之愆咎。万方有罪。在予一人。咸洗瑕穢。更令自新。宜大赦天下。自天平廿年三月八日昧爽已前。大辟已下咸悉赦除。己夘。正六位上葛城忌寸豊人授外從五位下。壬午。以從五位下巨勢朝臣君成爲下野守。壬辰。從三位藤原朝臣豊成授從二位。拜大納言。從三位藤原朝臣仲麻呂正三位。正四位下大野。廣瀬。粟田女王並正四位上。從四位上河内女王正四位下。

三月八日、以下ように勅されている・・・朕は德の薄い身であるが、君として四海を統治し、朝早く起き、夜遅く寝て多くの人民のことを心配している。しかしまだ教化が行き渡っていないので、禁を犯す者が多い。これは訓え導くことが明らかになっていないからであり、諸々の人民の過ちや罪ではない。多くの国々の中で罪があるとすれば、私一人の責任である。全ての傷や穢れを取り去って、更に自らを新しくさせて出直そう。天下に大赦を行うこととする。天平二十年三月八日の夜明け以前の死罪以下全てを赦せ・・・。

九日に「葛城忌寸豊人」に外従五位下を授けている。十二日に巨勢朝臣君成を下野守に任じている。二十二日に藤原朝臣豊成に従二位を授け、大納言に任じている。藤原朝臣仲麻呂に正三位、「大野女王」・廣瀬女王(長皇子の子。廣背女王)・粟田女王に正四位上、河内女王に正四位下を授けている。

<葛城忌寸豐人>
● 葛城忌寸豊人

「葛城忌寸」の氏姓は、書紀の天武天皇紀の『八色之姓』制定時に記載され、元は「葛城直」であり、「連」姓に変更された後に「忌寸」姓とされていた。

具体的な登場人物は記載されず、ここに至ったようである(書紀の崇峻天皇紀以前には幾人かの記載あり)。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)が娶った葛城之野伊呂賣の出自の場所、現在の弁城川の谷間と推定した。既出の文字列である豐人=谷間に段差のある高台があるところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と思われる。

「葛城」と言えば、建内宿禰の子、葛城長江曾都毘古の子孫が玉手の台地に隈なく広がったと伝えられるが、台地の東端は、「葛城直」一族の居処となっていたのであろう。一時は天皇家の外戚として権勢を振るったのであるが、玉手臣等の活躍は殆ど表舞台に登場することがなかったようである。

● 大野女王 初見で正四位上であり、廣背女王と同じく皇孫に違いなかろう。「大野王」(忍壁皇子の子。出自は皇子の近隣)と同じ場所を出自とした女王だったのではなかろうか。この後續紀に登場されることもないようである。

夏四月庚申。太上天皇崩於寢殿。春秋六十有九。辛酉。以從三位智努王。石上朝臣乙麻呂。從四位上黄文王。從四位下大市王。正四位上紀朝臣麻呂。從四位下藤原朝臣八束。爲御裝束司。六位已下八人。從三位三原王。從四位上石川王。道祖王。從四位下紀朝臣飯麻呂。吉備朝臣眞備爲山作司。六位已下八人。從五位上阿倍朝臣嶋麻呂。外從五位下丹比間人宿祢若麻呂。爲養役夫司。六位已下十人。勅令左右京。四畿内及七道諸國擧哀三日。壬戌。於大安寺誦經。甲子。於山科寺誦經。丙寅。當初七。於飛鳥寺誦經。自是之後。毎至七日。於京下寺誦經焉。丁夘。勅天下悉素服。是日火葬太上天皇於佐保山陵。

四月二十一日に太上天皇(元正天皇)が寝殿で亡くなっている。享年六十九歳。二十二日に智努王(文室淨三)・石上朝臣乙麻呂黄文王大市王紀朝臣麻呂(麻路)・藤原朝臣八束(眞楯)を御装束司、他に六位以下の官人八人を任じている。三原王(御原王)石川王道祖王(鹽燒王に併記)・紀朝臣飯麻呂吉備朝臣眞備(下道朝臣眞備)を山作司(御陵を造る司)、他に六位以下の官人八人を任じている。阿倍朝臣嶋麻呂丹比間人宿祢若麻呂(和珥麻呂)を養役夫司(食糧補給の臨時の司)、他に六位以下の官人十人を任じている。天皇は勅して、左右京・四畿内及び七道の諸國に命じて挙哀(哀悼の声を発する儀礼)を三日間行わせている。

二十三日に大安寺で経文を読ませている。二十五日に山科寺(山階寺。興福寺)で経文を読ませている。二十七日は初七日に当たり、飛鳥寺(元興寺。元の法興寺)で経文を読ませている。これより以後は、七日ごとに京内の寺で経を読ませることにしている。二十八日に勅されて、天下の全ての人々に白の喪服を着させている。この日、太上天皇(元正天皇)の遺骸を「佐保山陵」に於いて火葬している。

<佐保山陵>
佐保山陵

先帝の元明天皇は、遺言に依って大和國添上郡藏寳山雍良岑(実葬されたのは椎山)に埋葬されたと記載されていた。預かった首皇子(後の聖武天皇)への譲位が実現せず、元正天皇に委ねることになった。

その思いが、平城宮を望拝できる地を自ら選ばれた心情を窺い知ることができる記述と思われた。その思いを成し遂げた元正天皇も、時の流れに歯向かうことはできず、遂にこの世を去られたのであろう。聖武天皇の彷徨も収まり、少しは落ち着かれた気分の中での崩御かもしれない。

頻出の文字列である佐保=谷間にある左手のような山稜の先に丸く小高い地があるところと読み解ける。その地形を那富山(聖武天皇の夭折した皇太子を埋葬)の山稜の端に見出すことができる。後の天平勝寶二(750)年十月に「太上天皇改葬於奈保山陵」と記載されている。那富(奈保)山に本葬されたのであろう。

五月丁丑。勅令天下諸國奉爲太上天皇。毎至七日。國司自親潔齋。皆請諸寺僧尼。聚集於一寺。敬礼讀經。己丑。右大史正六位上秦老等一千二百餘烟。賜伊美吉姓。

五月八日に勅されて、天下の諸國に対して太上天皇のために七日ごとに國司が自ら心身を浄めて、諸寺の僧尼を招いて一つの寺に集め、敬礼し読経させるようにしている。二十日に右大史の「秦老」等千二百余戸に「伊美吉」姓を賜っている。

<秦(伊美吉)老・秦忌寸弟麻呂>
● 秦老

「秦」一族は、書紀の皇極天皇紀に「葛野秦造河勝」の系列、直近では「秦忌寸石勝」の子、「大魚」が登場している(こちら参照)。また「秦忌寸牛麻呂」の系列では、「辨正」、「嶋麻呂」、「朝元」等に関する記述も度々記載されている(こちら参照)。

今回の「伊美吉」姓を賜った人々は、これらの系列とは異なる場所…と言っても葛野の地であろうが…を出自としていたと推測される。

そんな背景であらためて葛野の未出の場所を探すと、図に示した地域が浮かんで来る。頻出の老=山稜が海老のように曲がって延びている様と解釈したが、図に示した場所が秦老の出自と推定される。

賜った伊美吉姓は、「忌寸」と置き換えられるが、伊美吉=広がった谷間にある区切られた山稜が蓋をするように延びているところと読み解ける。元来、臣・連・宿禰等の姓の名称も地形象形表記から派生した表記であったが、久々に元の姿を表した名称となっている。何とも、”遊び心”に溢れた記述ではなかろうか。「秦忌寸」氏姓を改称したのではない。續紀に「秦伊美吉」と記載される人物は登場しない。

後(称徳天皇紀)に秦忌寸弟麻呂が私財を献じて外従五位下を叙爵されている。系譜は、勿論、不詳なのであるが、外位であることから、上記の一族だったのではなかろうか。弟=ギザギザとしている様と解釈して図に示した場所が出自と推定される。その後に登場されることはないようである。

六月壬寅。正三位藤原夫人薨。贈太政大臣武智麻呂之女也。癸夘。令百官及諸國釋服。

六月四日に藤原夫人が亡くなっている。贈太政大臣の藤原朝臣武智麻呂の娘であった。天平九(737)年二月に「夫人无位藤原朝臣二人<闕名>並正三位」と記載された内の一人であろう。五日に百官及び諸國に命じて喪服を脱がせている。

秋七月戊寅。正六位下中臣部干稻麻呂賜中臣葛野連姓。正八位下山代直大山等三人並賜忌寸姓。丙戌。從五位下大倭御手代連麻呂女賜宿祢姓。奉爲太上天皇奉寫法華經一千部。戊戌。河内出雲二國飢。賑恤之。

七月十日に「中臣部干稻麻呂」に「中臣葛野」連の氏姓を、また「山代直大山」等三人にそれぞれ「忌寸」姓を賜っている。十八日に「大倭御手代連麻呂女」に「宿祢」姓を賜っている。また太上天皇のために法華経一千部を書写し奉っている。三十日に河内・出雲の二國に飢饉が起こり、物を恵み与えている。

<中臣部(葛野連)干稻麻呂>
● 中臣部干稻麻呂(中臣葛野連)

元明天皇紀の和銅二(709)年六月に筑前國嶋郡の少領の「中臣部加比」に「中臣志斐連」姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。おそらく地元採用の官吏と推定して、その出自の場所を求めた。

今回もその地の人物として、名前が示す場所を探索する。少々変わった名前であり、それ故に地形を端的に表記しているのではなかろうか。

既出の「干」=「山稜の端が二股に岐れている様」と解釈した。「干」の古文字が示す形である(図中に記載)。「稻」=「禾+舀」=「三つの山稜が窪んだところに延びている様」と解釈した。合わせると干稻=端が二股に岐れた山稜がある三つの山稜が窪んだ地に延びているところと読み解ける。

「加比」の北側の谷間の様相を表していることが解る。賜った葛野=山稜に遮られて野が閉じ込められているところと解釈した。罷り間違っても”一面に葛「くず」の驚る野原が広がっていた”からではない。同じ地域に複数の登場人物、彼等の名前が示す地形により、その確からしさが増したように思われる。

<山代直(忌寸)大山>
● 山代直大山

「山代直」に関しては、書紀の天武天皇紀に「山背直」小林百足が登場していた。ここでも續紀は、「背」を古事記の表記である「代」に戻しているのである。少し補足すれば、”山が背”ではあるが、この地域は代=人+弋=谷間に杙のような山稜が延びている様なのである。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。

名前の大山は、何とも地形象形表現としては解釈し辛いように思われる。勿論、”大きい山”として、それは御所ヶ岳、では、あり得ない。出自の場所を示すには、余りにも曖昧であろう。

頻出の「大」=「山稜の頂が平らになっている様」として、「山」を何と読み解くか?…前出の山村王の場合に類似すると思われる。「山稜が平面的に[山]の文字形に並んでいる様」を表しているのではなかろうか。

纏めると、大山=平らな頂の麓で[山]の形に山稜が並んでいるところと読み解ける。取り残されたような存在であったのが、漸く「忌寸」姓を賜って表舞台に登場したのであろう。言い換えれば、聖武天皇紀に至って、氏姓制度が隅々にまで行き渡るようになったことを告げていると思われる。

<大倭御手代連(宿禰)麻呂女>
● 大倭御手代連麻呂女

初見ながら内位の従五位下を叙爵されているが、関連情報は皆無のようである。「大倭」と冠されていることから大倭國の地を出自としていたのであろう。

また「御手代」の文字列も、記紀・續紀を通じて初見であり、ほぼお手上げ状態に陥ったように感じられる。挫けずにこの文字列が表す地形、及び現在までに登場していない場所を探索する。

既出の文字列であり、御手代=手のような地と谷間にある杙のような地を束ねるところと読み解ける。大倭の地で、これに合致する場所が図に示したところに見出せる。文武天皇紀に、家に”嘉稻”が生えたと告げた人物、大神大網造百足の麓に当たる場所である。

現在の御祓川を挟んで古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮があった場所となる。早期に拓かれた地であり、然るべき人物が住まう場所だったのであろう。埋もれた人材であり、上記と同様に「氏姓」の確立だったように思われる。

八月辛丑。近江播磨飢。賑給之。」賜外從五位下高市大國連姓。癸夘。改定釋奠服器及儀式。乙夘。八幡大神祝部從八位上大神宅女。從八位上大神杜女並授外從五位下。己未。車駕幸散位從五位上葛井連廣成之宅。延群臣宴飮。日暮留宿。明日。授廣成及其室從五位下縣犬養宿祢八重並正五位上。是日還宮。

八月三日に近江・播磨國に飢饉が起こり、物を与えて救っている。また高市大國に「連」姓を賜っている。五日に釈奠(孔子を祭る儀式)での服装や器物及び儀式を改定している。十七日に「八幡大神」祝部の「大神宅女・大神杜女」に外従五位下を授けている。

二十一日に天皇は散位の葛井連廣成(白猪史廣成)の宅に行幸している。群臣を招いて酒宴を催し、日が暮れたので宿泊している。あくる日に「廣成」とその妻の縣犬養宿祢八重共に正五位上を授けている。この日に宮に還っている。

<八幡大神:豊前國宇佐郡廣幡・比咩神>
<大神宅女-杜女-田麻呂-東女>
八幡大神

天平九(737)年四月に「遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣以告新羅无禮之状」と記載された筑紫八幡社と錯覚しそうであるが、後に「豊前國宇佐郡」にあったと記載される。

元正天皇紀に沙門法蓮が宇佐君の氏姓を賜ったと記載されていた。即ち「豊前國宇佐郡」として郡建てされたことが伺える。現在の京都郡みやこ町上高屋にある蔵持山の北麓に広がる谷間を表している。

更に、豊前國宇佐郡廣幡と記載されることから、八幡大神は、図に示した場所…現在の地図では神社(名称不詳)が鎮座している…にあったと推定される。通説では、上記の「筑紫八幡社」との区別もなく、併せて現在の八幡総本宮宇佐神宮と解釈されている。”筑紫”は、”筑前”でもなく、勿論”豊前”でもない。

少し後に比咩神も鎮座していたと伝えている。大神に一品、比咩神に二品を授けたと記載している。「咩」=「口+羊」=「山稜に挟まれた谷間の出口が開いている様」と解釈すると、比咩=山稜に挟まれた谷間の出口がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。図に示した場所を表していることが解る。

● 大神宅女・杜女 それは兎も角、少々紛らわしいのが、「大神」の表記である。大神=平らな頂から延びた山稜の端が高台になっているところとして、既出の大神朝臣の出自を読み解いた。現在の北九州市小倉北区にある砲台山西麓を示すと推定した。そして、その地形に類似する場所が蔵持山北麓にあることが解る。

「大神」が見出せれば、宅女=谷間に長く山稜が延びている地の女(巫女)杜女=山稜が盛り上がった地の女(巫女)と解釈すれば、図に示した場所に、各々出自を見出せる。「杜女」は、この後に活躍されたようで、禰宜となり、朝臣姓を賜ったりして最終従四位下まで昇進されたと知られるが、とある事件に連座して配流されている。

少し後に主神司の大神田麻呂が登場する。「杜女」と共に「大神朝臣」姓と賜ったと記載されている。「田麻呂」の表記では、些か特定し辛いが、麻=萬として、神社近隣の場所を図に示した。

余談になるが、「大神(オオミワ)」と訓されるようである。何故「オオミワ」なのか?…「大神朝臣」は「三輪君」の系列故に、そう訓しても許せるが、この地は全く無関係である。記紀・續紀を”読ん”では、あらぬ方向に向かってしまうのでる。

更に後(淳仁天皇紀)に大神東女等が高齢者優遇で播磨國の稲を賜ったと記載されている。豊かな隣國から支援させた、のであろうか。東女=谷間を突き通すようなところの女と解釈され、図に示した場所が居処であったと思われる。

冬十月乙丑。詔免京畿内七道諸國田租。丁亥。正七位下廣幡牛養賜秦姓。
十一月己丑。下道朝臣乙吉備。眞事。廣三人。並賜吉備朝臣姓。
十二月甲寅。遣使鎭祭佐保山陵。度僧尼各一千。

十月二十八日に、詔されて、京・畿内・七道の諸國の田租を免除している。丁亥(?)、「廣幡牛養」に「秦」氏を賜っている。

十一月二十三日に「下道朝臣乙吉備・眞事・廣」の三人に「吉備朝臣」氏姓を賜っている。

十二月十八日に使者を遣わして佐保山陵を鎮め祭らせている。僧と尼それぞれ千人得度させている。

<廣幡(秦)牛養>
● 廣幡牛養

「秦姓」を賜ったと記載されていることから、書紀の皇極天皇紀に登場した葛野秦造河勝一族の近辺と思われる。現地名は田川郡赤村赤である。

また、孝徳天皇紀に古市皇子の謀反に加担した朴市秦造田來津が登場し、「河勝」一家の東側の山稜奥深くにも蔓延っていたことが伺える。但し、謀反連座では、この地域での秦一族の人物の登場は見られなかったのであろう。

「田來津」の東側に大きく広がり延びた山稜が見られる。それを廣幡と表記したのであろう。少々入組んでいるが、複雑に枝分かれした山稜の一部が牛の頭部の形をし、その先は、養=羊+良=谷間がなだらかに延びている様、現在の犀川(今川)の川辺、となっていることが解る。上記の秦老など、正に氏姓制度の巷間への浸透を目論んだ結果のように思われる。

<下道(吉備)朝臣乙吉備・眞事・廣>
● 下道朝臣乙吉備・眞事・廣

「下道朝臣」については、入唐学生であった「眞備」が登場した際に系譜も含めて詳しく述べた(こちら参照)。権勢を振るうようになって、「吉備朝臣」という吉備國を代表するような氏姓を賜ったのであろう。

多くの兄弟がいたことも分かっていたが、ここに来て彼等も「吉備朝臣」と名乗るようになったと記載している。「乙吉備」の名前に見られるように、この地も「吉備」の地形なのである。道理に叶っていたから改称が認められたのではなかろうか。

さて、眞事=取り囲まれて窪んだ地に真っ直ぐ延びる山稜が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所、「眞備」の東側辺りがこの人物の出自と推定される。更に、その東が「廣」、一字なので廣=广+黃=山麓で広がり延びている様と解釈すると、出自の場所と思われる。

この後、「眞事」は幾度か登場するが、他の兄弟に関する記述は見当たらないようである。最終官位正二位・右大臣・勲二等の「眞備」が傑出していたのであろう。

















2022年4月20日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(46) 〔583〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(46)


天平二十年(西暦748年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

廿年春正月壬申朔。廢朝。宴五位已上於内裏。賜祿有差。其餘於朝堂賜饗焉。甲戌。大倭連深田。魚名並賜宿祢姓。戊寅。天皇御南殿宴五位以上。授正五位上坂上忌寸犬養從四位下。正六位上角朝臣道守從五位下。正六位上津史秋主外從五位下。宴訖賜祿有差。

正月一日、朝賀を中止している。五位以上の官人を内裏に集めて宴を催し、それぞれに禄を授けている。その余の官人は朝堂で饗宴を賜っている。三日に「大倭連深田・魚名」に宿祢姓を賜っている。七日に南殿に出御し、五位以上の官人に宴を催している。坂上忌寸犬養に従四位下、「角朝臣道守」に従五位下、津史秋主(馬人に併記)に外従五位下を授けている。宴が終わってそれぞれに禄を賜っている。

<大倭連深田-魚名>
● 大倭連深田・魚名

「大倭連」は、書紀の天武天皇紀に『八色之姓』の中で「大倭忌寸」の氏姓を賜ったと記載されている。續紀では大倭忌寸五百足等が伊波禮(現地名田川郡香春町高野)の地に住まっていたと推定した。

また元明天皇紀には大倭國添下郡人大倭忌寸果安なる人物も登場していた。現地名は田川郡添田町添田である。これらの地の「大倭連」ならば忌寸姓を賜っていた筈であろう。

当時は未だ連姓ではなかったか、であっても「大倭」内の異なる場所に住まう一族であって神祇に関わらない一族のように推測される。いずれにせよ、「大倭宿祢」氏姓を賜った故に未だかつて登場していない地域であろう。

ならば、深田魚名が唯一の手掛かりであり、それらが示す地形を探索することになる。既出の文字列である深田=穴のような谷間で水辺に[火]の形の山稜が延びている地に平らに整えられたところ、同じく既出の魚名=魚の尻尾のような地が山稜の端にあるところと読み解ける。これらの地形が近隣にある場所を図に示した。

少し下流域では、元正天皇紀に「大和國人腹太得麻呂姓改爲葛」と記載された人物が登場していたが、記紀・續紀を通じて初見の土地と思われる。現地名は、腹太得麻呂と同じく田川郡大任町今任原である。

<角朝臣道守-筑紫麻呂-廣江>
● 角朝臣道守

「角朝臣」は、元正天皇紀に角朝臣家主が登場していた。「角」は、古事記で記載された建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった都奴臣の後裔と推定した。現地名の豊前市中村辺りであり、”角田”の名称が今も残る地と推定された。

既出の名前である道守=首の付け根のように窪んだ地で山稜が両腕で抱えられるようなところと解釈した。「家主」の角田川を挟んだ対岸の場所に、その地形を見出すことができる。續紀では、この後に登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に角朝臣筑紫麻呂角朝臣廣江が従五位下を叙爵されて登場する。筑紫=折れ曲がって延びる二つの山稜に挟まれた谷間が[凡]の形をしているところ廣江=水辺の窪んだところが広がっているところと解釈する。各々の出自の場所を図に示した。

既に幾人かの名前に用いられた文字列である”筑紫=九州”のような解釈をしていては、何も伝わって来ないのである。その地形を「道守」の西隣に見出せる。その後に京官としての任官が記載されている。女官の「廣江」に関する記載は見られないようである。

二月己未。授從三位巨勢朝臣奈弖麻呂正三位。正四位上三原王。正四位下石上朝臣乙麻呂並從三位。從四位上紀朝臣麻路正四位上。從四位上多治比眞人廣足。從四位下大伴宿祢兄麻呂並正四位下。從四位下佐伯宿祢淨麻呂。佐伯宿祢常人並從四位上。正五位上石川朝臣麻呂。百濟王孝忠。紀朝臣宇美並從四位下。正五位下巨勢朝臣堺麻呂。背奈王福信並正五位上。從五位上多治比眞人屋主。藤原朝臣巨勢麻呂並正五位下。從五位下石川朝臣名人。鴨朝臣角足。民忌寸眞楫並從五位上。外從五位下若犬養宿祢東人。國君麻呂。正六位上百濟王元忠。藤原朝臣魚名。多治比眞人石足。佐伯宿祢乙首名。久米朝臣湯守。柿本朝臣市守。粟田朝臣奈勢麻呂。石川朝臣豊人。平群朝臣人足。田中朝臣少麻呂。大伴宿祢御依。阿倍朝臣鷹養。津嶋朝臣家虫。佐味朝臣廣麻呂。建部公豊足。日下部宿祢大麻呂並從五位下。外從五位下陽侯史眞身外從五位上。正六位上高市連大國外從五位下。辛酉。從五位上佐伯宿祢稻麻呂贈從四位上。壬戌。進知識物人等。外大初位下物部連族子嶋。外從六位下田可臣眞束。外少初位上大友國麻呂。從七位上漆部伊波並授外從五位下。乙丑。授從五位上佐味朝臣虫麻呂正五位下。從五位下葛井連廣成從五位上。外從五位上陽侯史眞身從五位下。

二月十九日に、以下の叙位を行っている。巨勢朝臣奈弖麻呂に正三位、三原王(御原王)石上朝臣乙麻呂に從三位、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に正四位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)大伴宿祢兄麻呂に正四位下、佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)佐伯宿祢常人(豐人に併記)に從四位上、石川朝臣麻呂(君子に併記)百濟王孝忠(①-)紀朝臣宇美に從四位下、巨勢朝臣堺麻呂背奈王福信に正五位上、多治比眞人屋主(家主に併記)藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に正五位下、石川朝臣名人(枚夫に併記)鴨朝臣角足(治田に併記)民忌寸眞楫に從五位上、若犬養宿祢東人(檳榔に併記)國君麻呂百濟王元忠(①-:孝忠の子)・藤原朝臣魚名(鳥養に併記)・多治比眞人石足(木人に併記)・佐伯宿祢乙首名(全成に併記)・「久米朝臣湯守・柿本朝臣市守・粟田朝臣奈勢麻呂・石川朝臣豊人・平群朝臣人足」・田中朝臣少麻呂(稻敷に併記)・大伴宿祢御依(三中に併記)・「阿倍朝臣鷹養」・津嶋朝臣家虫(家道に併記)・佐味朝臣廣麻呂(虫麻呂に併記)・「建部公豊足」・日下部宿祢大麻呂に從五位下、陽侯史眞身(陽胡史)に外從五位上、「高市連大國」に外從五位下を授けている。

二十一日に死亡した佐伯宿祢稻麻呂(人足)に從四位上を贈っている。二十に日に寄進の物を進上した人々である「物部連族子嶋・甲可臣眞束・大友國麻呂・漆部伊波」に外従五位下を授けている。二十五日に佐味朝臣虫麻呂に正五位下、葛井連廣成(白猪史廣成)に従五位上、陽侯史眞身(陽胡史)に内位の従五位下を授けている。

<久米朝臣湯守-比良女-子虫>
● 久米朝臣湯守

「久米朝臣」の登場は、それほど多くはなく、元明天皇紀の尾張麻呂の出自場所に纏めて示した。古事記の久米王(書紀では來目皇子)の近隣の地と推定した。

ここで登場の湯守の「湯」は、久々に記載された文字で、湯=水が沸騰するように跳ね散る急流の様と解釈した。「伊余湯」を現在の”伊予温泉”に比定すると言う、頓珍漢な解釈が改められることもなく現在に至っているのである。

それはさて置き、頻出の守=宀+寸=両腕で抱え込むような様であり、これらの地形要素を満足する場所と探すと、図に示したところが見出せる。折角、従五位下で叙位されながら、この後に登場されることはないようである。

少し後に久米朝臣比良女が同じく従五位下に叙爵されている。「比良」の文字列は古事記(黄泉比良坂)で登場、様々な解釈を試みた経緯があるが、一文字一文字が表す地形で読んでみよう。「比」=「くっ付いている様」、「良」=「なだらかな様」から、比良=くっ付いている地がなだらかなところと解釈される。図に示した谷間を表していることが解る。

更に後(淳仁天皇紀)に久米朝臣子虫が従五位下に叙爵されている。子蟲=生え出た山稜の端が細かく岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

<柿本朝臣市守・柿本小玉>
● 柿本朝臣市守

「柿本朝臣」の系譜は、記録に残っていたようで、直近では、佐留(猨)は、「大庭」の子であり、「人麻呂」の兄と知られている。また、子に「建石」、その子が市守と繋がっていたと伝えられている。

元を質せば古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった柿本臣の後裔に当たる一族と思われる。

前記した配置図上に記載することも可能であるが、些か登場人物が多くなって、煩雑になり、あらためて作図したものを掲載する。父親の「建石」の山稜を挟むように守=宀+寸=両腕で抱えるように山稜が延びてる様が見出せる。二つの「守」が寄り集まった()ところが出自の場所と推定される。

少し後に柿本小玉が外従五位下を叙爵されて登場する。廬舎那仏造立に関わっていたと推測されるが、朝臣姓は付かず、また”外”でもある。小玉=三角に尖った玉のようなところと読み解ける。「人丸」の南側の山稜の形を表しているように思われる。「子玉」の別名があると、確定的なのだが・・・。

<粟田朝臣奈勢麻呂>
● 粟田朝臣奈勢麻呂

「粟田朝臣」一族は、少し前では「眞人」系列の「必登(人)・人上」兄弟の活躍が記載されていた。直近では、系列不詳の「堅石」が従五位下を叙爵されていた(出自の場所はこちら参照)。

今回登場の人物も系譜は定かではないようである。名前が示す地形を探索することになる。奈=木+示=山稜が高台になっている様=埶+力=押し上げられて丸く小高い様と解釈した。

その地形を図に示した「粟田朝臣」の谷間の奥に見出すことができる。おそらく、その高台の西麓の谷間辺りが出自の場所と推定される。上記の「柿本朝臣」と同様に天押帶日子命が祖となった粟田臣の後裔となる一族も途絶えることなく人材輩出の地であったようである。

<石川朝臣豊人>
● 石川朝臣豊人

「豊人」の父親は、蘇賀連子大臣の子、難波麻呂と知られている。既に、この系列は同じく大臣の子である安麻侶の後裔が多く登場し、叙爵されて来ている。

また、彼等の出自の場所近隣にも多くの人物がいたと推定され、谷間の出口の狭い地に、正にひしめくような有様であったと推測される(こちら参照)。

「難波麻呂」の系列は初見であり、父親の近辺で豐人の地形を探すと、図に示した谷間()の場所を見出すことができる。豐=高台に段差がある様であり、伯父の「蟲名」の近隣となる場所と推定される。

後に地方官に任じられたりして、最終従四位上・大藏卿であったと伝えられている。亡くなられたのが西暦790年とのことで、長く官職を勤められたようである。

<平群朝臣人足-蟲麻呂>
● 平群朝臣人足

「平群朝臣」一族は、直近では遣唐使としての廣成所業が多く記載されている。何と言っても、崑崙まで漂流した後、無事に帰国というドラマの持ち主であった。

「子首」、「豊麻呂」そして「廣成」の系列はしっかりと記録されていたのだが、今回登場の人足は、全く不詳のようである。

思い起こすと、「平群朝臣」は古事記の「平群都久宿禰」の後裔であり、彼が祖となったのが、「平群臣・佐和良臣・馬御樴連」と記載されていた(こちら参照)。即ち、「廣成」は「平群臣」系列であり、「人足」はそれ以外であったと思われる。

図に示したように「佐和良臣」の山稜の端に人足=谷間にある足のようなところの地形を見出せる。この地が出自と推定される。後に越後守に任じられたと、續紀に記載されている。文武天皇紀に登場した平羣朝臣安麻呂の出自が、その谷間の奥と推定した。同じ系列だったと思われる。

後(淳仁天皇紀)に平群虫麻呂が渤海使が帰る時の送使(判官)として登場する。頻出の虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れて延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

<阿倍朝臣鷹養>
● 阿倍朝臣鷹養

途切れることがない「阿倍朝臣」一族である。但し「鷹養」の系譜は全く不詳のようで、書續紀での登場も、この後に主計頭に任じられたと伝えるのみである。

名前に用いられた「鷹」の文字は、初見であり、文字構成に戻って読み解いてみよう。「鷹」=「广+人+隹+鳥」と分解される。鷹狩の様子を文字で表現したもの、と解説されている。

地形象形的には、それぞれの要素は既出であり、それに従って解釈すると、鷹=山麓(广)の谷間(人)で二羽の鳥(隹・鳥)がくっ付いている様となろう。その地形を求めると、現在の七ツ石峠を越えたところと思われる。

養=羊+良=谷間がなだらかに延びている様であり、鷹養の出自の場所は図に示した辺りと推定される。現在の行政区分では北九州市門司区大里から同区猿喰に少し入り込んだ地となる。

<建部公豊足・建部大垣>
● 建部公豊足

「建部」は、古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった建部君、あるいは書紀の孝徳天皇紀に登城した犬上建部君の後裔かと錯覚しそうになるが、後に「信濃國更級郡建部大垣」が登場し、新たな「建部」の場所が記載されている。

更=丙+攴=二股に広がる様級=糸+及=山稜が繋がり延びる様であり、図に示した信濃國の谷間の出口にある山稜の形を表現していることが解る。

即ち、「更級郡」は、一時期、諏方國として分割されていた場所に該当することが解る。「建部」の人々が住まう地を分けてみたが、やはり元に戻したのであろう。

これで一気に登場人物の出自を読み解くと、豐足=段々になった山稜の端が二股に岐れているところとなる。また大垣=平らな頂の山稜に取り囲まれたところと解釈される。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所が、それぞれの出自の場所と推定される。

<高市連大國(眞國)-眞麻呂>
● 高市連大國

「高市連」は、書紀に記載された『八色之姓』で、「高市縣主」に賜った氏姓であろう。高市縣主許梅が登場しており、その出自の場所を求めた。

高市皇子が多くの子孫を残し、中でもその一人であり長屋王の後裔が隈なく蔓延った地、現在の田川郡香春町鏡山、の一角にある場所と推定した。

頻出の文字列である大國=平らな頂の山稜に囲まれたところと読めば、「許梅」の南側の谷間が出自と思われる。眞國=山稜に取り囲まれて窪んだところと解釈すると素直に受け取れる別名であろう。

あらためて地図を眺めると、実に上手い塩梅に収まっているようであり、まるでこの地を避けるように高市皇子の系列が広がったことが解る。書紀・續紀が記す「高市縣」は、間違いなく香春町鏡山と言える。

後に高市連眞麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。その時には「大國」は内位の従五位下を叙爵されており、急激に昇進しているようである。調べると、彼等は、廬舎那仏鋳造作業の中心的役割を果たし、その節目ごとに昇位された、と伝えられている。麻呂=萬呂として、[萬]が寄り集まっている窪んだところが出自と思われる。「大國」の西隣辺りと推定される。

<物部連族子嶋>
● 物部連族子嶋

物部一族については、元正天皇紀に「伊莒弗」から始まる系列を纏めた。「守屋」に至る物部大連系列と、途中系譜の記録が途切れるが、「麻呂」(石上朝臣)の系列に多くの人物が登場している(こちら参照)。

派生した一族も含めると、古代における物部一族の繁栄ぶりがしっかりと伝わってくる様相である。現地名の小倉南区井手浦を中心とした広範囲に跨る地域である。

この人物には「族」が付加され、そんな背景の中で、一族なのだが、系譜が定かではなかったのであろう。「子嶋」を頼りに出自の場所を求めることになる。子嶋=生え出た山稜が鳥の形をしているところと読むと、図に示した場所と推定される。「守屋」の西側で突き出た山稜を表している。

廬舎那仏への寄進ができるほどに豊かになっていたのであろう。澁河(現井手浦川)の強烈な蛇行(氾濫)を抑えて水田を拡張することが叶ったようである。

<甲可臣眞束>
● 甲可臣眞束

廬舎那仏への寄進者であり、「甲」の文字を持つ名前から、近江國甲賀郡に関わる人物として出自を求めてみよう。更に可=谷間の出口を表す文字であり、「賀」=「押し開かれた谷間」の出口辺りを示す表記と推測される。

「束」は「木を束ねた様」を象形した文字である。地形象形的には「束」=「山稜を束ねたような様」と解釈される。纏めると眞束=束ねられた山稜が寄せ集められたところと読み解ける。

図に示した通りに亀の甲羅のような山稜の麓辺りがこの人物の出自と推定される。大伴・佐伯の谷間と同様に、当時は急斜面に多くの棚田(茨田)が形成されていたのではなかろうか。

この地は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した「國神、名謂贄持之子」(阿陀之鵜飼の祖)の父親、「贄持」の居処であったことが解る。甲賀の谷間を登れば吉野、これはあからさまにはできない位置関係であろう。がしかし、地形象形文字は、素直にそれを示しているのである。

<大友國麻呂>
● 大友國麻呂

「大友」(無姓)について調べると、近江國滋賀郡に関わる一族だったようである。勿論志賀郡ではなく、續紀では元正天皇紀に近江國志我郡と記載され、現地名では京都郡苅田町集と推定した。

通説では”志賀”も”志我”も、同じ訓となって、”滋賀”と置き換えられる。何度も述べるように”訓”で読み替えては、全くの誤りとなるのである。

その地に大友=平らな頂の山稜が並んで延びているところを探すと、図に示した場所が見出せる。急傾斜の山稜であるが、それが延びた先で平らになっている場所を表している。残念ながら「國」の地形があったと思われる場所の変形が大きく、明確にはできないが、おそらく現在の貯水池辺りが、その地形であったのではなかろうか。

尚、「大友國麻呂」は「夜國麿」と記されて、間違いとされているが、夜=亦+夕=谷間に山稜の端の三角州がある様と解釈すると、別名表記であろう。記紀・續紀を通じて「夜」の文字が表す意味が全く読み解けていないのである。

<漆部伊波・良弁>
● 漆部伊波

「漆部」の氏名については、書紀・續紀中に物部一族で幾人かの登場があり(こちら参照)、また左京人として漆部造君足等が記載されていた。

漆=漆を採取するように谷間が寄り集まっている様と解釈したが、類似の地形の場所と出自とする人物の氏名であることが伺える。

調べると相摸國を出自とする人物であることが分かった。勿論、「相摸」の谷間は、立派なの地形を示していることが解る。部=近隣とすると、谷間を出た辺りが出自と思われるが、現在では大きく地形が変化している。

国土地理院航空写真1961~9年を参照して、詳細を求めてみよう。頻出の文字列である伊波=谷間に区切られた山稜の端のところと読み解ける。図に示した辺りがと推定することができる。尚、父親の名前が足人=谷間にある足のように山稜の端が岐れたところとすると、「伊波」の少し北側の場所を表している。

彼等は「漆部直」であり、後に宿祢姓を賜ったとのことである。廬舎那仏への寄進によって歴史の表舞台に登場した、のであろう。最終官位は内位の従五位下・尾張守と知られている。

上記四人の寄進物が『続日本紀2(直木考次郎他著)』の注記に記載されている。物部連族子嶋:銭千貫・車十二両・牛六頭、甲可臣眞束:銭千貫、大友國麻呂:稲十万束・屋十間・倉五十間・栗林二丁・家地三町、漆部伊波:商布二万端。出典は『造寺材木知識記』。

孝謙天皇紀に「良弁法師爲少僧都」として登場する良弁は、後に大僧都となり、様々な提言を行ったと記述されている。彼は、「漆部足人」の子、「伊波」の兄弟であったと言われている。良弁=なだらかに延びる山稜が花弁のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

また、鎌倉生まれと伝えられているが、「弁」を「鎌」に見立てて鎌倉=鎌のような山稜の麓に谷間があるところと読むことができる。相摸・御浦・鎌倉、そっくりそのまま”国譲り”が行われたようである。「鎌倉」の解釈は、こちら参照。


















2022年4月13日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(45) 〔582〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(45)


天平十九年(西暦747年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月辛巳。詔曰。自去六月。京師亢旱。由是。奉幣帛名山祈雨諸社。至誠無驗。苗稼燋凋。此蓋朕之政教不徳於民乎。宜免左右京今年田租。
八月丙寅。賜正六位上赤染造廣足。赤染高麻呂等九人。常世連姓。

七月七日に次のように詔されている・・・去る六月より京師は日照りにみまわれている。そこで幣帛を名山に奉って雨が降るように諸社に祈ったが、真心を尽くしているのに効き目がなく、稲の苗が枯れ萎んでしまった。これは、おそらく朕の政治と教育が人民に德をもたらしていないからであろう。左右京の今年の田租を免除しようと思う・・・。

八月二十三日に「赤染造廣足・赤染高麻呂」等九人に「常世連」姓を賜っている。

<赤染造廣足・赤染高麻呂>
<赤染國持>
● 赤染造廣足・赤染高麻呂

「赤染造」は、書紀の天武天皇紀に登場した「赤染造德足」の出自の場所に関わる氏姓と思われる。しかしながら、当時は、全く情報もなくその地を求めることは叶わなかった。

ここでは、彼等に「常世連」の氏姓を賜ったと記載され、これで一気に場所の特定が可能となったようである。常世=北向きに山稜が延びる地が途切れずに繋がっているところと解釈した。

右図に示した香春三ノ岳の北側に山稜がその地形をしていることが解る。現在は地形の変形が進み(国土地理院航空写真1961~9年でも進行してるが)、辛うじて山容が確認される状態である。

赤=大+火=平らな頂の麓で山稜が交差するように延びている様染=氵+九+木=山稜の前の水辺で[く]の字形に曲がっている様と解釈する。廣足=山稜が広がって延びたところとすると、図に示した場所がこの人物の出自と思われる。

高麻(萬)呂=山稜が皺が寄ったように延びて寄り集まったところと読むと、「廣足」の北側、山腹の谷間辺りが出自と推定される。德足は、天武天皇紀の吉野脱出に合せて、高市皇子が近江大津宮を抜け出し、後に天武一行と合流した時に随行した人物として挙げられていた。「廣足」の東側の山稜の端辺りが出自と求められる。

「德足」の父親が赤染造日向と知られている(日本氏族大鑑:常世・赤染系図)。図中に示したが、「常」=「+八+巾」の要素から成る文字である。即ち、「日」と「常」は、極めて類似した地形を象形する文字なのである。この一族も、地形に忠実に名付けられていたことが解る。”染色”を生業とした一族では、決してあり得ない。

後(光仁天皇紀)になるが、各地の「赤染」の氏名を持つ一族に「常世連」を賜姓したと記載される。その内の一人に右京人赤染國持が登場する。多分、現住所が右京であって、出自は上記の一族と同じく、現在の香春三ノ岳北麓であったと推測される。國持=手を曲げたような山稜に囲まれたところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。

余談だが、Wikipediaには・・・折口信夫の論文『妣が国へ・常世へ』(1920年に発表)以降、特に「常世」と言った場合、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる『異郷』であると定義されている。古神道などでは、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)などの「場の様相」の変わる山海や森林や河川や大木・巨岩の先にある現実世界と異なる世界や神域をいう・・・と記載されている。

「常世連」は、”非現実的な神域”に住まう人々なのであろうか?・・・あらためて、常世國の地形をじっくりと眺める機会を与えてくれたようである。

九月乙亥。河内國人大初位下河俣連人麻呂錢一千貫。越中國人无位砺波臣志留志米三千碩。奉盧舍那佛知識。並授外從五位下。丙申。以從五位下縣犬養宿祢古麻呂爲少納言。從五位下路眞人野上爲大監物。從五位上佐味朝臣虫麻呂爲治部大輔。從五位下小野朝臣東人爲少輔。

九月二日に河内國人の河俣連人麻呂(大鳥連大麻呂に併記)が銭一千貫を、また越中國人の「砺波臣志留志」が米三千石を廬舎那仏への寄進として献上し、各々外従五位下を授けている。

二十三日に以下の人事を行っている。縣犬養宿祢古麻呂を少納言、路眞人野上を大監物、佐味朝臣虫麻呂を治部大輔、小野朝臣東人(馬養に併記)を少輔に任じている。

<礪波臣志留志>
● 砺波臣志留志

養老二(718)年五月に「割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」と記載され、四郡から成る能登國を設置し(こちら参照)、更に、天平十三(741)年十二月に「能登國并越中國」として、國名からは「能登」の名称は消滅することになった。

いずれにしても越前・越中・越後國の國別配置は、決して明瞭ではなく、配置換えなどの変遷を経ていることが分かる。さて、ここで登場の人物の氏姓が砺(本字:礪)波臣であり、その文字列が示す地形を求めてみよう。

「礪」は既出の文字であり、「礪」=「石(厂+囗)+萬」と分解し、「礪」=「山麓に蠍の頭部のような様」と読み解いた。例えば、書紀の天武天皇紀に美濃國礪杵郡などで用いられていた。頻出の「波」=「山稜の端」を表すとして、礪波=山麓に蠍の頭部のような地が山稜の端にあるところと読み解ける。その地形を「羽咋郡」に見出すことができる。

名前の志留志は既出の文字列であり、志留志=二つの蛇行する川に挟まれて山稜が延び出ているところと読み解ける。幾つかの谷間が寄り集まった地形を、一風変わった名称で表現しているが、言い得て妙である。残念ながら現在の地図では川の存在を確認することは叶わないのであるが・・・。蛇足だが、現在の富山県砺波市の”本貫”の場所である。

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礪波臣の別名に利波臣があったと知られている。古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、日子刺肩別命が祖となった高志之利波臣に含まれているが、混同してはならないであろう。現地名で述べれば「礪波」は、北九州市門司区猿喰、「利波」は、同区柄杓田となる。「礪」の地形を「利」と解釈して用いることは許されそうだが、地形象形表記としては、極めて不十分である。

「日子刺肩別命」は古事記のみで、「書紀」には登場しない。と言うか、抹消されている。この命は角鹿海直の祖でもあり、極めて重要な人物であるが、能登臣の祖となった大入杵命が抹消されたことと類似する。”淡海”に関わる人物を歴史の闇に葬った「書紀」をいつまで正史とするのであろうか?・・・。

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冬十月癸夘朔。日有蝕之。乙巳。勅曰。春宮少属從八位上御方大野所願之姓思欲許賜。然大野之父於淨御原朝庭在皇子之列。而縁微過遂被廢退。朕甚哀憐。所以不賜其姓也。辛亥。正六位上市往泉麻呂賜岡連姓。乙夘。外從五位下氣太十千代等八人賜氣太君姓。丙辰。伊勢國人從六位上伊勢直大津等七人。賜中臣伊勢連姓。

十月一日に日蝕があった、と記している。三日に次のように勅されている・・・春宮少属の「御方大野」の願い出ている姓を許して授けたいと思う。しかし大野の父は淨御原朝廷(天武天皇)に皇子として名を列ねていたが、僅かな過ちによって廃されている。朕は大変哀しみ憐れんでいるが、そのことのために姓を賜らないのである・・・。

九日に市往泉麻呂(君子に併記)に岡連の氏姓を賜っている(岡連は俗姓「市往」の義淵法師に賜った氏姓。神龜四[727]年12月)。十三日に氣太十千代等八人に氣太君の氏姓を賜っている。十四日に伊勢直大津(伊勢直族大江に併記)等七人に中臣伊勢連の氏姓を賜っている(飯高君ではなく、中臣勢力下に組み込まれたか?…こちら参照)。

<御方大野-廣名>
● 御方大野

天武天皇の孫、正に皇孫なのだが、父親の皇子に不逞があったと記載されている。この名前が伏された皇子は、間違いなく弓削皇子であろう。

皇孫として多くの王・女王の出自の場所を求めて来たが、「弓削皇子」には全く子孫がなかったような記述であった。また、現在までに知られている子孫も伝えられていない。

では、御方大野の出自の場所を「弓削皇子」の近隣に求めることができるか?…図に示した通り、御方=岐れて延びる山稜を束ねるようなところと表記しているのである。広がった台地大野=平らな頂の野とすれば、出自の場所を表している。

子に御方廣名が居たと知られる。後(淳仁天皇紀)に御方宿祢の氏姓を賜っている。廣名=山稜の端の三角州がひろがっているところと読めば、図に示した父親の北側の場所と推定される。「弓削皇子」の近隣に配置されていることが解る。勿論、この地を出自とする人物は、登場することはなかったのである。

一説に磯城皇子の系列と言われているようだが、皇孫である酒部王はしっかりと従四位下を賜っていて、確かに影の薄い皇子ではあったが、不逞の気配は感じられない。また他の兄弟(倭王・廣瀬王)も伝えられている。尚、前出の粟田女王・河内女王も弓削皇子に関わる出自ではないかと推測したが、いずれにしても未記録の王・女王が多くいたようである。

更なる異説では、梅原猛氏が「弓削皇子」と紀皇女(天武天皇の皇女、文武天皇の妃。本著では、續紀が記す紀朝臣竃門娘と推定)との密通、それを持統天皇が処断したと推察されているが、的を得た推論のように思われる(詳細はこちら参照)。聖武天皇と雖も、如何ともし難い過ぎ去りし日の皇后の不倫と言う大スキャンダルであり、異母兄妹の悲恋が垣間見えたような気分である。

十一月丙子。以外從五位下中臣丸連張弓爲皇后宮亮。從四位上多治比眞人廣足爲兵部卿。從四位下多治比眞人占部爲刑部卿。春宮大夫兼學士從四位下吉備朝臣眞備爲右京大夫。從五位下坂合部宿祢金綱爲信濃守。從五位上茨田王爲越前守。正五位下大井王爲丹波守。從五位上粟田朝臣馬養爲備中守。己夘。詔曰。朕以去天平十三年二月十四日。至心發願。欲使國家永固。聖法恒修。遍詔天下諸國。國別令造金光明寺。法華寺。其金光明寺各造七重塔一區。并寫金字金光明經一部。安置塔裏。而諸國司等怠緩不行。或處寺不便。或猶未開基。以爲。天地災異一二顯來盖由茲乎。朕之股肱豈合如此。是以差從四位下石川朝臣年足。從五位下阿倍朝臣小嶋。布勢朝臣宅主等。分道發遣。検定寺地。并察作状。國司宜与使及國師。簡定勝地勤加營繕。又任郡司勇幹堪濟諸事。専令主當。限來三年以前。造塔金堂僧坊悉皆令了。若能契勅。如理修造之。子孫無絶任郡領司。其僧寺尼寺水田者除前入數已外。更加田地。僧寺九十町。尼寺卌町。便仰所司墾開應施。普告國郡知朕意焉。己亥。賜无位高橋王佐保眞人姓。

十一月四日に以下の人事を行っている。中臣丸連張弓を皇后宮亮、多治比眞人廣足(廣成に併記)を兵部卿、多治比眞人占部を刑部卿、春宮大夫兼學士の吉備朝臣眞備(下道朝臣眞備)を右京大夫、坂合部宿祢金綱を信濃守、茨田王(茨田女王)を越前守、大井王を丹波守、粟田朝臣馬養を備中守に任じている。

七日に次のように詔されている・・・朕は去る天平十三年二月十四日に、真心から発願して国家を永く固め、聖なる仏の教えを常に修行させようと思い、広く天下の諸國に詔して、國別に金光明寺と法華寺を造立させようとした。その金光明寺には各々七重塔一基を造立し、併せて金字の金光明経一部を写して、塔の中に安置させることにした。<続>

ところが諸國の國司等は怠けて実行せず、或る場合は寺の場所が便利なところではなく、或る場合は未だに基礎も置いていない。思うに、天地の災異が一、二現れているのは、おそらくこのせいであろう。朕の最も頼りとする臣が、このようなことであっていいのであろうか。そこで、石川朝臣年足阿倍朝臣小嶋(子嶋。兄の駿河に併記)・布勢朝臣宅主(多祢に併記)等を各道に分けて派遣し、寺地を検べて決定するとともに、造作の状況を視察させよう。國司は使及び國師とともに地勢の優れた土地を選び定め、努めて造営修繕を加えよ。<続>

また郡司の中で決断力があって才能に優れ仕事の処理ができる者を選んで、専らことを担当させ、これから三年以内を限度として塔・金堂・僧坊を全て造り終えさせよ。もし、よく勅を守ることができ、その通りに修造したならば、その子孫を絶えることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数を除いて、さらに田地を加え、僧寺は九十町、尼寺は四十町とし、所司に命じて開墾させて施入するであろう。広く國郡に告げて朕の意のあるところを理解させよ・・・。

十七日に「高橋王」に「佐保眞人」姓を賜っている。

<高橋王(佐保眞人)>
● 高橋王

全く出自が不詳の王であり、無位の初見で、いきなり臣籍降下後の氏姓佐保眞人が記載されている。

古代の皇籍離脱を纏められた文献が入手できるが、その中でも「佐保眞人」については、この續紀の記述のみとのことである(例えばこちら参照)。

前記に高橋女王が従四位下を叙爵されて登場した。皇孫と推測され、磯城皇子に関わる女王だったのではないか、と推測して出自の場所を求めた。

高橋=皺が寄ったような山稜が小高くしなやかに曲がって延びているところと解釈し、皇子等の近隣とすることで、推定した結果であった。「高橋」の地形は、決して平凡ではなく、かなり限られた場所であることも解った。

ここでは臣籍降下時の氏名で「佐保」が決め手であろう。既出の文字列である佐保=谷間で左手のように延びた山稜の端が丸く小高くなっているところと読み解ける。すると高橋女王の東側、廣瀬王との間の場所を表しているのではなかろうか。磯城皇子に関わる系譜ではなく、この隙間を出自とした人物だったのであろう。いやはや、何とも難解な出自であった。

十二月乙巳。以從五位下大伴宿祢犬養爲少納言。從五位上當麻眞人鏡麻呂爲民部大輔。乙夘。勅。頃者。太上天皇。枕席不安。稍經弦朔。醫藥療治。未見効驗。宜大赦天下。自天平十九年十二月十四日眛爽以前大辟罪以下咸赦除之。但八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者不在赦限。」勅。天下諸國。或有百姓情願造塔者。悉聽之。其造地者必立伽藍院内。不得濫作山野路邊。若備儲畢。先申其状。

十二月四日に大伴宿祢犬養(三中に併記)を少納言、當麻眞人鏡麻呂を民部大輔に任じている。

十四日に次のように勅されている・・・この頃太上天皇は、夜安眠ができないことが十数日続いた。医薬を用いて治療したが、まだその効きめがあらわれない。そこで天下に大赦を行おうと思う。天平十九年十二月十四日の夜明け以前の死罪以下、全てを赦す。但し八虐を犯した者、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗、及び通常の赦では許されないもの、いずれも赦免の限りではない・・・。

また、次のように勅されている・・・人民の中で真心から塔を造立することを願う者があれば全て許せ。その造る場所は、必ず伽藍の院の中として、濫りに山野や路辺に造ってはならない。貯えが整ったならば、その状を申上げせよ・・・。