2022年4月13日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(45) 〔582〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(45)


天平十九年(西暦747年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月辛巳。詔曰。自去六月。京師亢旱。由是。奉幣帛名山祈雨諸社。至誠無驗。苗稼燋凋。此蓋朕之政教不徳於民乎。宜免左右京今年田租。
八月丙寅。賜正六位上赤染造廣足。赤染高麻呂等九人。常世連姓。

七月七日に次のように詔されている・・・去る六月より京師は日照りにみまわれている。そこで幣帛を名山に奉って雨が降るように諸社に祈ったが、真心を尽くしているのに効き目がなく、稲の苗が枯れ萎んでしまった。これは、おそらく朕の政治と教育が人民に德をもたらしていないからであろう。左右京の今年の田租を免除しようと思う・・・。

八月二十三日に「赤染造廣足・赤染高麻呂」等九人に「常世連」姓を賜っている。

<赤染造廣足・赤染高麻呂>
<赤染國持>
● 赤染造廣足・赤染高麻呂

「赤染造」は、書紀の天武天皇紀に登場した「赤染造德足」の出自の場所に関わる氏姓と思われる。しかしながら、当時は、全く情報もなくその地を求めることは叶わなかった。

ここでは、彼等に「常世連」の氏姓を賜ったと記載され、これで一気に場所の特定が可能となったようである。常世=北向きに山稜が延びる地が途切れずに繋がっているところと解釈した。

右図に示した香春三ノ岳の北側に山稜がその地形をしていることが解る。現在は地形の変形が進み(国土地理院航空写真1961~9年でも進行してるが)、辛うじて山容が確認される状態である。

赤=大+火=平らな頂の麓で山稜が交差するように延びている様染=氵+九+木=山稜の前の水辺で[く]の字形に曲がっている様と解釈する。廣足=山稜が広がって延びたところとすると、図に示した場所がこの人物の出自と思われる。

高麻(萬)呂=山稜が皺が寄ったように延びて寄り集まったところと読むと、「廣足」の北側、山腹の谷間辺りが出自と推定される。德足は、天武天皇紀の吉野脱出に合せて、高市皇子が近江大津宮を抜け出し、後に天武一行と合流した時に随行した人物として挙げられていた。「廣足」の東側の山稜の端辺りが出自と求められる。

「德足」の父親が赤染造日向と知られている(日本氏族大鑑:常世・赤染系図)。図中に示したが、「常」=「+八+巾」の要素から成る文字である。即ち、「日」と「常」は、極めて類似した地形を象形する文字なのである。この一族も、地形に忠実に名付けられていたことが解る。”染色”を生業とした一族では、決してあり得ない。

後(光仁天皇紀)になるが、各地の「赤染」の氏名を持つ一族に「常世連」を賜姓したと記載される。その内の一人に右京人赤染國持が登場する。多分、現住所が右京であって、出自は上記の一族と同じく、現在の香春三ノ岳北麓であったと推測される。國持=手を曲げたような山稜に囲まれたところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。

余談だが、Wikipediaには・・・折口信夫の論文『妣が国へ・常世へ』(1920年に発表)以降、特に「常世」と言った場合、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる『異郷』であると定義されている。古神道などでは、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)などの「場の様相」の変わる山海や森林や河川や大木・巨岩の先にある現実世界と異なる世界や神域をいう・・・と記載されている。

「常世連」は、”非現実的な神域”に住まう人々なのであろうか?・・・あらためて、常世國の地形をじっくりと眺める機会を与えてくれたようである。

九月乙亥。河内國人大初位下河俣連人麻呂錢一千貫。越中國人无位砺波臣志留志米三千碩。奉盧舍那佛知識。並授外從五位下。丙申。以從五位下縣犬養宿祢古麻呂爲少納言。從五位下路眞人野上爲大監物。從五位上佐味朝臣虫麻呂爲治部大輔。從五位下小野朝臣東人爲少輔。

九月二日に河内國人の河俣連人麻呂(大鳥連大麻呂に併記)が銭一千貫を、また越中國人の「砺波臣志留志」が米三千石を廬舎那仏への寄進として献上し、各々外従五位下を授けている。

二十三日に以下の人事を行っている。縣犬養宿祢古麻呂を少納言、路眞人野上を大監物、佐味朝臣虫麻呂を治部大輔、小野朝臣東人(馬養に併記)を少輔に任じている。

<礪波臣志留志>
● 砺波臣志留志

養老二(718)年五月に「割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」と記載され、四郡から成る能登國を設置し(こちら参照)、更に、天平十三(741)年十二月に「能登國并越中國」として、國名からは「能登」の名称は消滅することになった。

いずれにしても越前・越中・越後國の國別配置は、決して明瞭ではなく、配置換えなどの変遷を経ていることが分かる。さて、ここで登場の人物の氏姓が砺(本字:礪)波臣であり、その文字列が示す地形を求めてみよう。

「礪」は既出の文字であり、「礪」=「石(厂+囗)+萬」と分解し、「礪」=「山麓に蠍の頭部のような様」と読み解いた。例えば、書紀の天武天皇紀に美濃國礪杵郡などで用いられていた。頻出の「波」=「山稜の端」を表すとして、礪波=山麓に蠍の頭部のような地が山稜の端にあるところと読み解ける。その地形を「羽咋郡」に見出すことができる。

名前の志留志は既出の文字列であり、志留志=二つの蛇行する川に挟まれて山稜が延び出ているところと読み解ける。幾つかの谷間が寄り集まった地形を、一風変わった名称で表現しているが、言い得て妙である。残念ながら現在の地図では川の存在を確認することは叶わないのであるが・・・。蛇足だが、現在の富山県砺波市の”本貫”の場所である。

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礪波臣の別名に利波臣があったと知られている。古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、日子刺肩別命が祖となった高志之利波臣に含まれているが、混同してはならないであろう。現地名で述べれば「礪波」は、北九州市門司区猿喰、「利波」は、同区柄杓田となる。「礪」の地形を「利」と解釈して用いることは許されそうだが、地形象形表記としては、極めて不十分である。

「日子刺肩別命」は古事記のみで、「書紀」には登場しない。と言うか、抹消されている。この命は角鹿海直の祖でもあり、極めて重要な人物であるが、能登臣の祖となった大入杵命が抹消されたことと類似する。”淡海”に関わる人物を歴史の闇に葬った「書紀」をいつまで正史とするのであろうか?・・・。

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冬十月癸夘朔。日有蝕之。乙巳。勅曰。春宮少属從八位上御方大野所願之姓思欲許賜。然大野之父於淨御原朝庭在皇子之列。而縁微過遂被廢退。朕甚哀憐。所以不賜其姓也。辛亥。正六位上市往泉麻呂賜岡連姓。乙夘。外從五位下氣太十千代等八人賜氣太君姓。丙辰。伊勢國人從六位上伊勢直大津等七人。賜中臣伊勢連姓。

十月一日に日蝕があった、と記している。三日に次のように勅されている・・・春宮少属の「御方大野」の願い出ている姓を許して授けたいと思う。しかし大野の父は淨御原朝廷(天武天皇)に皇子として名を列ねていたが、僅かな過ちによって廃されている。朕は大変哀しみ憐れんでいるが、そのことのために姓を賜らないのである・・・。

九日に市往泉麻呂(君子に併記)に岡連の氏姓を賜っている(岡連は俗姓「市往」の義淵法師に賜った氏姓。神龜四[727]年12月)。十三日に氣太十千代等八人に氣太君の氏姓を賜っている。十四日に伊勢直大津(伊勢直族大江に併記)等七人に中臣伊勢連の氏姓を賜っている(飯高君ではなく、中臣勢力下に組み込まれたか?…こちら参照)。

<御方大野-廣名>
● 御方大野

天武天皇の孫、正に皇孫なのだが、父親の皇子に不逞があったと記載されている。この名前が伏された皇子は、間違いなく弓削皇子であろう。

皇孫として多くの王・女王の出自の場所を求めて来たが、「弓削皇子」には全く子孫がなかったような記述であった。また、現在までに知られている子孫も伝えられていない。

では、御方大野の出自の場所を「弓削皇子」の近隣に求めることができるか?…図に示した通り、御方=岐れて延びる山稜を束ねるようなところと表記しているのである。広がった台地大野=平らな頂の野とすれば、出自の場所を表している。

子に御方廣名が居たと知られる。後(淳仁天皇紀)に御方宿祢の氏姓を賜っている。廣名=山稜の端の三角州がひろがっているところと読めば、図に示した父親の北側の場所と推定される。「弓削皇子」の近隣に配置されていることが解る。勿論、この地を出自とする人物は、登場することはなかったのである。

一説に磯城皇子の系列と言われているようだが、皇孫である酒部王はしっかりと従四位下を賜っていて、確かに影の薄い皇子ではあったが、不逞の気配は感じられない。また他の兄弟(倭王・廣瀬王)も伝えられている。尚、前出の粟田女王・河内女王も弓削皇子に関わる出自ではないかと推測したが、いずれにしても未記録の王・女王が多くいたようである。

更なる異説では、梅原猛氏が「弓削皇子」と紀皇女(天武天皇の皇女、文武天皇の妃。本著では、續紀が記す紀朝臣竃門娘と推定)との密通、それを持統天皇が処断したと推察されているが、的を得た推論のように思われる(詳細はこちら参照)。聖武天皇と雖も、如何ともし難い過ぎ去りし日の皇后の不倫と言う大スキャンダルであり、異母兄妹の悲恋が垣間見えたような気分である。

十一月丙子。以外從五位下中臣丸連張弓爲皇后宮亮。從四位上多治比眞人廣足爲兵部卿。從四位下多治比眞人占部爲刑部卿。春宮大夫兼學士從四位下吉備朝臣眞備爲右京大夫。從五位下坂合部宿祢金綱爲信濃守。從五位上茨田王爲越前守。正五位下大井王爲丹波守。從五位上粟田朝臣馬養爲備中守。己夘。詔曰。朕以去天平十三年二月十四日。至心發願。欲使國家永固。聖法恒修。遍詔天下諸國。國別令造金光明寺。法華寺。其金光明寺各造七重塔一區。并寫金字金光明經一部。安置塔裏。而諸國司等怠緩不行。或處寺不便。或猶未開基。以爲。天地災異一二顯來盖由茲乎。朕之股肱豈合如此。是以差從四位下石川朝臣年足。從五位下阿倍朝臣小嶋。布勢朝臣宅主等。分道發遣。検定寺地。并察作状。國司宜与使及國師。簡定勝地勤加營繕。又任郡司勇幹堪濟諸事。専令主當。限來三年以前。造塔金堂僧坊悉皆令了。若能契勅。如理修造之。子孫無絶任郡領司。其僧寺尼寺水田者除前入數已外。更加田地。僧寺九十町。尼寺卌町。便仰所司墾開應施。普告國郡知朕意焉。己亥。賜无位高橋王佐保眞人姓。

十一月四日に以下の人事を行っている。中臣丸連張弓を皇后宮亮、多治比眞人廣足(廣成に併記)を兵部卿、多治比眞人占部を刑部卿、春宮大夫兼學士の吉備朝臣眞備(下道朝臣眞備)を右京大夫、坂合部宿祢金綱を信濃守、茨田王(茨田女王)を越前守、大井王を丹波守、粟田朝臣馬養を備中守に任じている。

七日に次のように詔されている・・・朕は去る天平十三年二月十四日に、真心から発願して国家を永く固め、聖なる仏の教えを常に修行させようと思い、広く天下の諸國に詔して、國別に金光明寺と法華寺を造立させようとした。その金光明寺には各々七重塔一基を造立し、併せて金字の金光明経一部を写して、塔の中に安置させることにした。<続>

ところが諸國の國司等は怠けて実行せず、或る場合は寺の場所が便利なところではなく、或る場合は未だに基礎も置いていない。思うに、天地の災異が一、二現れているのは、おそらくこのせいであろう。朕の最も頼りとする臣が、このようなことであっていいのであろうか。そこで、石川朝臣年足阿倍朝臣小嶋(子嶋。兄の駿河に併記)・布勢朝臣宅主(多祢に併記)等を各道に分けて派遣し、寺地を検べて決定するとともに、造作の状況を視察させよう。國司は使及び國師とともに地勢の優れた土地を選び定め、努めて造営修繕を加えよ。<続>

また郡司の中で決断力があって才能に優れ仕事の処理ができる者を選んで、専らことを担当させ、これから三年以内を限度として塔・金堂・僧坊を全て造り終えさせよ。もし、よく勅を守ることができ、その通りに修造したならば、その子孫を絶えることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数を除いて、さらに田地を加え、僧寺は九十町、尼寺は四十町とし、所司に命じて開墾させて施入するであろう。広く國郡に告げて朕の意のあるところを理解させよ・・・。

十七日に「高橋王」に「佐保眞人」姓を賜っている。

<高橋王(佐保眞人)>
● 高橋王

全く出自が不詳の王であり、無位の初見で、いきなり臣籍降下後の氏姓佐保眞人が記載されている。

古代の皇籍離脱を纏められた文献が入手できるが、その中でも「佐保眞人」については、この續紀の記述のみとのことである(例えばこちら参照)。

前記に高橋女王が従四位下を叙爵されて登場した。皇孫と推測され、磯城皇子に関わる女王だったのではないか、と推測して出自の場所を求めた。

高橋=皺が寄ったような山稜が小高くしなやかに曲がって延びているところと解釈し、皇子等の近隣とすることで、推定した結果であった。「高橋」の地形は、決して平凡ではなく、かなり限られた場所であることも解った。

ここでは臣籍降下時の氏名で「佐保」が決め手であろう。既出の文字列である佐保=谷間で左手のように延びた山稜の端が丸く小高くなっているところと読み解ける。すると高橋女王の東側、廣瀬王との間の場所を表しているのではなかろうか。磯城皇子に関わる系譜ではなく、この隙間を出自とした人物だったのであろう。いやはや、何とも難解な出自であった。

十二月乙巳。以從五位下大伴宿祢犬養爲少納言。從五位上當麻眞人鏡麻呂爲民部大輔。乙夘。勅。頃者。太上天皇。枕席不安。稍經弦朔。醫藥療治。未見効驗。宜大赦天下。自天平十九年十二月十四日眛爽以前大辟罪以下咸赦除之。但八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者不在赦限。」勅。天下諸國。或有百姓情願造塔者。悉聽之。其造地者必立伽藍院内。不得濫作山野路邊。若備儲畢。先申其状。

十二月四日に大伴宿祢犬養(三中に併記)を少納言、當麻眞人鏡麻呂を民部大輔に任じている。

十四日に次のように勅されている・・・この頃太上天皇は、夜安眠ができないことが十数日続いた。医薬を用いて治療したが、まだその効きめがあらわれない。そこで天下に大赦を行おうと思う。天平十九年十二月十四日の夜明け以前の死罪以下、全てを赦す。但し八虐を犯した者、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗、及び通常の赦では許されないもの、いずれも赦免の限りではない・・・。

また、次のように勅されている・・・人民の中で真心から塔を造立することを願う者があれば全て許せ。その造る場所は、必ず伽藍の院の中として、濫りに山野や路辺に造ってはならない。貯えが整ったならば、その状を申上げせよ・・・。