2022年4月20日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(46) 〔583〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(46)


天平二十年(西暦748年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

廿年春正月壬申朔。廢朝。宴五位已上於内裏。賜祿有差。其餘於朝堂賜饗焉。甲戌。大倭連深田。魚名並賜宿祢姓。戊寅。天皇御南殿宴五位以上。授正五位上坂上忌寸犬養從四位下。正六位上角朝臣道守從五位下。正六位上津史秋主外從五位下。宴訖賜祿有差。

正月一日、朝賀を中止している。五位以上の官人を内裏に集めて宴を催し、それぞれに禄を授けている。その余の官人は朝堂で饗宴を賜っている。三日に「大倭連深田・魚名」に宿祢姓を賜っている。七日に南殿に出御し、五位以上の官人に宴を催している。坂上忌寸犬養に従四位下、「角朝臣道守」に従五位下、津史秋主(馬人に併記)に外従五位下を授けている。宴が終わってそれぞれに禄を賜っている。

<大倭連深田・魚名>
● 大倭連深田・魚名

「大倭連」は、書紀の天武天皇紀に『八色之姓』の中で「大倭忌寸」の氏姓を賜ったと記載されている。續紀では大倭忌寸五百足等が伊波禮(現地名田川郡香春町高野)の地に住まっていたと推定した。

また元明天皇紀には大倭國添下郡人大倭忌寸果安なる人物も登場していた。現地名は田川郡添田町添田である。これらの地の「大倭連」ならば忌寸姓を賜っていた筈であろう。

当時は未だ連姓ではなかったか、であっても「大倭」内の異なる場所に住まう一族であって神祇に関わらない一族のように推測される。いずれにせよ、「大倭宿祢」氏姓を賜った故に未だかつて登場していない地域であろう。

ならば、深田魚名が唯一の手掛かりであり、それらが示す地形を探索することになる。既出の文字列である深田=穴のような谷間で水辺に[火]の形の山稜が延びている地に平らに整えられたところ、同じく既出の魚名=魚の尻尾のような地が山稜の端にあるところと読み解ける。これらの地形が近隣にある場所を図に示した。

<角朝臣道守>
峠を越えた東側は小野朝臣一族が蔓延っていたと推定した谷間である。少し下流域では、元正天皇紀に「大和國人腹太得麻呂姓改爲葛」と記載された人物が登場していたが、記紀・續紀を通じて初見の土地と思われる。現地名は、腹太得麻呂と同じく田川郡大任町今任原である。

● 角朝臣道守

「角朝臣」は、元正天皇紀に角朝臣家主が登場していた。「角」は、古事記で記載された建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった都奴臣の後裔と推定した。現地名の豊前市中村辺りであり、”角田”の名称が今も残る地と推定された。

既出の名前である道守=首の付け根のように窪んだ地で山稜が両腕で抱えられるようなところと解釈した。「家主」の角田川を挟んだ対岸の場所に、その地形を見出すことができる。續紀では、この後に登場されることはないようである。

二月己未。授從三位巨勢朝臣奈弖麻呂正三位。正四位上三原王。正四位下石上朝臣乙麻呂並從三位。從四位上紀朝臣麻路正四位上。從四位上多治比眞人廣足。從四位下大伴宿祢兄麻呂並正四位下。從四位下佐伯宿祢淨麻呂。佐伯宿祢常人並從四位上。正五位上石川朝臣麻呂。百濟王孝忠。紀朝臣宇美並從四位下。正五位下巨勢朝臣堺麻呂。背奈王福信並正五位上。從五位上多治比眞人屋主。藤原朝臣巨勢麻呂並正五位下。從五位下石川朝臣名人。鴨朝臣角足。民忌寸眞楫並從五位上。外從五位下若犬養宿祢東人。國君麻呂。正六位上百濟王元忠。藤原朝臣魚名。多治比眞人石足。佐伯宿祢乙首名。久米朝臣湯守。柿本朝臣市守。粟田朝臣奈勢麻呂。石川朝臣豊人。平群朝臣人足。田中朝臣少麻呂。大伴宿祢御依。阿倍朝臣鷹養。津嶋朝臣家虫。佐味朝臣廣麻呂。建部公豊足。日下部宿祢大麻呂並從五位下。外從五位下陽侯史眞身外從五位上。正六位上高市連大國外從五位下。辛酉。從五位上佐伯宿祢稻麻呂贈從四位上。壬戌。進知識物人等。外大初位下物部連族子嶋。外從六位下田可臣眞束。外少初位上大友國麻呂。從七位上漆部伊波並授外從五位下。乙丑。授從五位上佐味朝臣虫麻呂正五位下。從五位下葛井連廣成從五位上。外從五位上陽侯史眞身從五位下。

二月十九日に、以下の叙位を行っている。巨勢朝臣奈弖麻呂に正三位、三原王(御原王)石上朝臣乙麻呂に從三位、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に正四位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)大伴宿祢兄麻呂に正四位下、佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)佐伯宿祢常人(豐人に併記)に從四位上、石川朝臣麻呂(君子に併記)百濟王孝忠()紀朝臣宇美に從四位下、巨勢朝臣堺麻呂背奈王福信に正五位上、多治比眞人屋主(家主に併記)藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に正五位下、石川朝臣名人(枚夫に併記)鴨朝臣角足(治田に併記)民忌寸眞楫に從五位上、若犬養宿祢東人(檳榔に併記)國君麻呂百濟王元忠(。孝忠の子)・藤原朝臣魚名(鳥養に併記)・多治比眞人石足(木人に併記)・佐伯宿祢乙首名(全成に併記)・「久米朝臣湯守・柿本朝臣市守・粟田朝臣奈勢麻呂・石川朝臣豊人・平群朝臣人足」・田中朝臣少麻呂(稻敷に併記)・大伴宿祢御依(三中に併記)・「阿倍朝臣鷹養」・津嶋朝臣家虫(家道に併記)・佐味朝臣廣麻呂(虫麻呂に併記)・「建部公豊足」・日下部宿祢大麻呂に從五位下、陽侯史眞身(陽胡史)に外從五位上、「高市連大國」に外從五位下を授けている。

二十一日に死亡した佐伯宿祢稻麻呂(人足)に從四位上を贈っている。二十に日に寄進の物を進上した人々である「物部連族子嶋・甲可臣眞束・大友國麻呂・漆部伊波」に外従五位下を授けている。二十五日に佐味朝臣虫麻呂に正五位下、葛井連廣成(白猪史廣成)に従五位上、陽侯史眞身(陽胡史)に内位の従五位下を授けている。

<久米朝臣湯守-比良女-子虫>
● 久米朝臣湯守

「久米朝臣」の登場は、それほど多くはなく、元明天皇紀の尾張麻呂の出自場所に纏めて示した。古事記の久米王(書紀では來目皇子)の近隣の地と推定した。

ここで登場の湯守の「湯」は、久々に記載された文字で、湯=水が沸騰するように跳ね散る急流の様と解釈した。「伊余湯」を現在の”伊予温泉”に比定すると言う、頓珍漢な解釈が改められることもなく現在に至っているのである。

それはさて置き、頻出の守=宀+寸=両腕で抱え込むような様であり、これらの地形要素を満足する場所と探すと、図に示したところが見出せる。折角、従五位下で叙位されながら、この後に登場されることはないようである。

少し後に久米朝臣比良女が同じく従五位下に叙爵されている。「比良」の文字列は古事記(黄泉比良坂)で登場、様々な解釈を試みた経緯があるが、一文字一文字が表す地形で読んでみよう。「比」=「くっ付いている様」、「良」=「なだらかな様」から、比良=くっ付いている地がなだらかなところと解釈される。図に示した谷間を表していることが解る。

更に後(淳仁天皇紀)に久米朝臣子虫が従五位下に叙爵されている。子蟲=生え出た山稜の端が細かく岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

<柿本朝臣市守・柿本小玉>
● 柿本朝臣市守

「柿本朝臣」の系譜は、記録に残っていたようで、直近では、佐留(猨)は、「大庭」の子であり、「人麻呂」の兄と知られている。また、子に「建石」、その子が市守と繋がっていたと伝えられている。

元を質せば古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった柿本臣の後裔に当たる一族と思われる。

前記した配置図上に記載することも可能であるが、些か登場人物が多くなって、煩雑になり、あらためて作図したものを掲載する。父親の「建石」の山稜を挟むように守=宀+寸=両腕で抱えるように山稜が延びてる様が見出せる。二つの「守」が寄り集まった()ところが出自の場所と推定される。

少し後に柿本小玉が外従五位下を叙爵されて登場する。廬舎那仏造立に関わっていたと推測されるが、朝臣姓は付かず、また”外”でもある。小玉=三角に尖った玉のようなところと読み解ける。「人丸」の南側の山稜の形を表しているように思われる。「子玉」の別名があると、確定的なのだが・・・。

<粟田朝臣奈勢麻呂>
● 粟田朝臣奈勢麻呂

「粟田朝臣」一族は、少し前では「眞人」系列の「必登(人)・人上」兄弟の活躍が記載されていた。直近では、系列不詳の「堅石」が従五位下を叙爵されていた(出自の場所はこちら参照)。

今回登場の人物も系譜は定かではないようである。名前が示す地形を探索することになる。奈=木+示=山稜が高台になっている様=埶+力=押し上げられて丸く小高い様と解釈した。

その地形を図に示した「粟田朝臣」の谷間の奥に見出すことができる。おそらく、その高台の西麓の谷間辺りが出自の場所と推定される。上記の「柿本朝臣」と同様に天押帶日子命が祖となった粟田臣の後裔となる一族も途絶えることなく人材輩出の地であったようである。

<石川朝臣豊人>
● 石川朝臣豊人

「豊人」の父親は、蘇賀連子大臣の子、難波麻呂と知られている。既に、この系列は同じく大臣の子である安麻侶の後裔が多く登場し、叙爵されて来ている。

また、彼等の出自の場所近隣にも多くの人物がいたと推定され、谷間の出口の狭い地に、正にひしめくような有様であったと推測される(こちら参照)。

「難波麻呂」の系列は初見であり、父親の近辺で豐人の地形を探すと、図に示した谷間()の場所を見出すことができる。豐=高台に段差がある様であり、伯父の「蟲名」の近隣となる場所と推定される。

後に地方官に任じられたりして、最終従四位上・大藏卿であったと伝えられている。亡くなられたのが西暦790年とのことで、長く官職を勤められたようである。

<平群朝臣人足-蟲麻呂>
● 平群朝臣人足

「平群朝臣」一族は、直近では遣唐使としての廣成所業が多く記載されている。何と言っても、崑崙まで漂流した後、無事に帰国というドラマの持ち主であった。

「子首」、「豊麻呂」そして「廣成」の系列はしっかりと記録されていたのだが、今回登場の人足は、全く不詳のようである。

思い起こすと、「平群朝臣」は古事記の「平群都久宿禰」の後裔であり、彼が祖となったのが、「平群臣・佐和良臣・馬御樴連」と記載されていた(こちら参照)。即ち、「廣成」は「平群臣」系列であり、「人足」はそれ以外であったと思われる。

図に示したように「佐和良臣」の山稜の端に人足=谷間にある足のようなところの地形を見出せる。この地が出自と推定される。後に越後守に任じられたと、續紀に記載されている。文武天皇紀に登場した平羣朝臣安麻呂の出自が、その谷間の奥と推定した。同じ系列だったと思われる。

後(淳仁天皇紀)に平群虫麻呂が渤海使が帰る時の送使(判官)として登場する。頻出の虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れて延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

<阿倍朝臣鷹養>
● 阿倍朝臣鷹養

途切れることがない「阿倍朝臣」一族である。但し「鷹養」の系譜は全く不詳のようで、書續紀での登場も、この後に主計頭に任じられたと伝えるのみである。

名前に用いられた「鷹」の文字は、初見であり、文字構成に戻って読み解いてみよう。「鷹」=「广+人+隹+鳥」と分解される。鷹狩の様子を文字で表現したもの、と解説されている。

地形象形的には、それぞれの要素は既出であり、それに従って解釈すると、鷹=山麓(广)の谷間(人)で二羽の鳥(隹・鳥)がくっ付いている様となろう。その地形を求めると、現在の七ツ石峠を越えたところと思われる。

養=羊+良=谷間がなだらかに延びている様であり、鷹養の出自の場所は図に示した辺りと推定される。現在の行政区分では北九州市門司区大里から同区猿喰に少し入り込んだ地となる。

<建部公豊足・建部大垣>
● 建部公豊足

「建部」は、古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった建部君の後裔と思われる。と言うか、当時は、「建部」の場所を求めることは叶わず、ここで漸くにしてその場所を突き止めることができたわけである。

後に「信濃國更級郡建部大垣」が登場し、「建部」の場所が記載されている。更=丙+攴=二股に広がる様級=糸+及=山稜が繋がり延びる様であり、図に示した信濃國の谷間の出口にある山稜の形を表現していることが解る。

即ち、「更級郡」は、一時期、諏方國として分割されていた場所に該当することが解る。「建部」の人々が住まう地を分けてみたが、やはり元に戻したのであろう。

これで一気に登場人物の出自を読み解くと、豐足=段々になった山稜の端が二股に岐れているところとなる。また大垣=平らな頂の山稜に取り囲まれたところと解釈される。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所が、それぞれの出自の場所と推定される。

<高市連大國(眞國)-眞麻呂>
● 高市連大國

「高市連」は、書紀に記載された『八色之姓』で、「高市縣主」に賜った氏姓であろう。高市縣主許梅が登場しており、その出自の場所を求めた。

高市皇子が多くの子孫を残し、中でもその一人であり長屋王の後裔が隈なく蔓延った地、現在の田川郡香春町鏡山、の一角にある場所と推定した。

頻出の文字列である大國=平らな頂の山稜に囲まれたところと読めば、「許梅」の南側の谷間が出自と思われる。眞國=山稜に取り囲まれて窪んだところと解釈すると素直に受け取れる別名であろう。

あらためて地図を眺めると、実に上手い塩梅に収まっているようであり、まるでこの地を避けるように高市皇子の系列が広がったことが解る。書紀・續紀が記す「高市縣」は、間違いなく香春町鏡山と言える。

後に高市連眞麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。その時には「大國」は内位の従五位下を叙爵されており、急激に昇進しているようである。調べると、彼等は、廬舎那仏鋳造作業の中心的役割を果たし、その節目ごとに昇位された、と伝えられている。麻呂=萬呂として、[萬]が寄り集まっている窪んだところが出自と思われる。「大國」の西隣辺りと推定される。

<物部連族子嶋>
● 物部連族子嶋

物部一族については、元正天皇紀に「伊莒弗」から始まる系列を纏めた。「守屋」に至る物部大連系列と、途中系譜の記録が途切れるが、「麻呂」(石上朝臣)の系列に多くの人物が登場している(こちら参照)。

派生した一族も含めると、古代における物部一族の繁栄ぶりがしっかりと伝わってくる様相である。現地名の小倉南区井手浦を中心とした広範囲に跨る地域である。

この人物には「族」が付加され、そんな背景の中で、一族なのだが、系譜が定かではなかったのであろう。「子嶋」を頼りに出自の場所を求めることになる。子嶋=生え出た山稜が鳥の形をしているところと読むと、図に示した場所と推定される。「守屋」の西側で突き出た山稜を表している。

廬舎那仏への寄進ができるほどに豊かになっていたのであろう。澁河(現井手浦川)の強烈な蛇行(氾濫)を抑えて水田を拡張することが叶ったようである。

<甲可臣眞束>
● 甲可臣眞束

廬舎那仏への寄進者であり、「甲」の文字を持つ名前から、近江國甲賀郡に関わる人物として出自を求めてみよう。更に可=谷間の出口を表す文字であり、「賀」=「押し開かれた谷間」の出口辺りを示す表記と推測される。

「束」は「木を束ねた様」を象形した文字である。地形象形的には「束」=「山稜を束ねたような様」と解釈される。纏めると眞束=束ねられた山稜が寄せ集められたところと読み解ける。

図に示した通りに亀の甲羅のような山稜の麓辺りがこの人物の出自と推定される。大伴・佐伯の谷間と同様に、当時は急斜面に多くの棚田(茨田)が形成されていたのではなかろうか。

この地は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した「國神、名謂贄持之子」(阿陀之鵜飼の祖)の父親、「贄持」の居処であったことが解る。甲賀の谷間を登れば吉野、これはあからさまにはできない位置関係であろう。がしかし、地形象形文字は、素直にそれを示しているのである。

<大友國麻呂>
● 大友國麻呂

「大友」(無姓)について調べると、近江國滋賀郡に関わる一族だったようである。勿論志賀郡ではなく、續紀では元正天皇紀に近江國志我郡と記載され、現地名では京都郡苅田町集と推定した。

通説では”志賀”も”志我”も、同じ訓となって、”滋賀”と置き換えられる。何度も述べるように”訓”で読み替えては、全くの誤りとなるのである。

その地に大友=平らな頂の山稜が並んで延びているところを探すと、図に示した場所が見出せる。急傾斜の山稜であるが、それが延びた先で平らになっている場所を表している。残念ながら「國」の地形があったと思われる場所の変形が大きく、明確にはできないが、おそらく現在の貯水池辺りが、その地形であったのではなかろうか。

尚、「大友國麻呂」は「夜國麿」と記されて、間違いとされているが、夜=亦+夕=谷間に山稜の端の三角州がある様と解釈すると、別名表記であろう。記紀・續紀を通じて「夜」の文字が表す意味が全く読み解けていないのである。

<漆部伊波・良弁>
● 漆部伊波

「漆部」の氏名については、書紀・續紀中に物部一族で幾人かの登場があり(こちら参照)、また左京人として漆部造君足等が記載されていた。

漆=漆を採取するように谷間が寄り集まっている様と解釈したが、類似の地形の場所と出自とする人物の氏名であることが伺える。

調べると相摸國を出自とする人物であることが分かった。勿論、「相摸」の谷間は、立派なの地形を示していることが解る。部=近隣とすると、谷間を出た辺りが出自と思われるが、現在では大きく地形が変化している。

国土地理院航空写真1961~9年を参照して、詳細を求めてみよう。頻出の文字列である伊波=谷間に区切られた山稜の端のところと読み解ける。図に示した辺りがと推定することができる。尚、父親の名前が足人=谷間にある足のように山稜の端が岐れたところとすると、「伊波」の少し北側の場所を表している。

彼等は「漆部直」であり、後に宿祢姓を賜ったとのことである。廬舎那仏への寄進によって歴史の表舞台に登場した、のであろう。最終官位は内位の従五位下・尾張守と知られている。

上記四人の寄進物が『続日本紀2(直木考次郎他著)』の注記に記載されている。物部連族子嶋:銭千貫・車十二両・牛六頭、甲可臣眞束:銭千貫、大友國麻呂:稲十万束・屋十間・倉五十間・栗林二丁・家地三町、漆部伊波:商布二万端。出典は『造寺材木知識記』。

孝謙天皇紀に「良弁法師爲少僧都」として登場する良弁は、後に大僧都となり、様々な提言を行ったと記述されている。彼は、「漆部足人」の子、「伊波」の兄弟であったと言われている。良弁=なだらかに延びる山稜が花弁のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

また、鎌倉生まれと伝えられているが、「弁」を「鎌」に見立てて鎌倉=鎌のような山稜の麓に谷間があるところと読むことができる。相摸・御浦・鎌倉、そっくりそのまま”国譲り”が行われたようである。「鎌倉」の解釈は、こちら参照。