天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(47)
天平二十年(西暦748年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
三月戊寅。宣勅。朕以薄徳君臨四海。夙興夜寢。憂勞兆民。然猶風化未洽。犯禁者多。是訓導之不明。非黎首之愆咎。万方有罪。在予一人。咸洗瑕穢。更令自新。宜大赦天下。自天平廿年三月八日昧爽已前。大辟已下咸悉赦除。己夘。正六位上葛城忌寸豊人授外從五位下。壬午。以從五位下巨勢朝臣君成爲下野守。壬辰。從三位藤原朝臣豊成授從二位。拜大納言。從三位藤原朝臣仲麻呂正三位。正四位下大野。廣瀬。粟田女王並正四位上。從四位上河内女王正四位下。
三月八日、以下ように勅されている・・・朕は德の薄い身であるが、君として四海を統治し、朝早く起き、夜遅く寝て多くの人民のことを心配している。しかしまだ教化が行き渡っていないので、禁を犯す者が多い。これは訓え導くことが明らかになっていないからであり、諸々の人民の過ちや罪ではない。多くの国々の中で罪があるとすれば、私一人の責任である。全ての傷や穢れを取り去って、更に自らを新しくさせて出直そう。天下に大赦を行うこととする。天平二十年三月八日の夜明け以前の死罪以下全てを赦せ・・・。
九日に「葛城忌寸豊人」に外従五位下を授けている。十二日に巨勢朝臣君成を下野守に任じている。二十二日に藤原朝臣豊成に従二位を授け、大納言に任じている。藤原朝臣仲麻呂に正三位、「大野女王」・廣瀬女王(長皇子の子。廣背女王)・粟田女王に正四位上、河内女王に正四位下を授けている。
<葛城忌寸豐人> |
● 葛城忌寸豊人
「葛城忌寸」の氏姓は、書紀の天武天皇紀の『八色之姓』制定時に記載され、元は「葛城直」であり、「連」姓に変更された後に「忌寸」姓とされていた。
具体的な登場人物は記載されず、ここに至ったようである(書紀の崇峻天皇紀以前には幾人かの記載あり)。
古事記の品陀和氣命(応神天皇)が娶った葛城之野伊呂賣の出自の場所、現在の弁城川の谷間と推定した。既出の文字列である豐人=谷間に段差のある高台があるところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と思われる。
「葛城」と言えば、建内宿禰の子、葛城長江曾都毘古の子孫が玉手の台地に隈なく広がったと伝えられるが、台地の東端は、「葛城直」一族の居処となっていたのであろう。一時は天皇家の外戚として権勢を振るったのであるが、玉手臣等の活躍は殆ど表舞台に登場することがなかったようである。
● 大野女王 初見で正四位上であり、廣背女王と同じく皇孫に違いなかろう。「大野王」(忍壁皇子の子。出自は皇子の近隣)と同じ場所を出自とした女王だったのではなかろうか。この後續紀に登場されることもないようである。
夏四月庚申。太上天皇崩於寢殿。春秋六十有九。辛酉。以從三位智努王。石上朝臣乙麻呂。從四位上黄文王。從四位下大市王。正四位上紀朝臣麻呂。從四位下藤原朝臣八束。爲御裝束司。六位已下八人。從三位三原王。從四位上石川王。道祖王。從四位下紀朝臣飯麻呂。吉備朝臣眞備爲山作司。六位已下八人。從五位上阿倍朝臣嶋麻呂。外從五位下丹比間人宿祢若麻呂。爲養役夫司。六位已下十人。勅令左右京。四畿内及七道諸國擧哀三日。壬戌。於大安寺誦經。甲子。於山科寺誦經。丙寅。當初七。於飛鳥寺誦經。自是之後。毎至七日。於京下寺誦經焉。丁夘。勅天下悉素服。是日火葬太上天皇於佐保山陵。
四月二十一日に太上天皇(元正天皇)が寝殿で亡くなっている。享年六十九歳。二十二日に智努王(文室淨三)・石上朝臣乙麻呂・黄文王・大市王・紀朝臣麻呂(麻路)・藤原朝臣八束(眞楯)を御装束司、他に六位以下の官人八人を任じている。三原王(御原王)・石川王・道祖王(鹽燒王に併記)・紀朝臣飯麻呂・吉備朝臣眞備(下道朝臣眞備)を山作司(御陵を造る司)、他に六位以下の官人八人を任じている。阿倍朝臣嶋麻呂・丹比間人宿祢若麻呂(和珥麻呂)を養役夫司(食糧補給の臨時の司)、他に六位以下の官人十人を任じている。天皇は勅して、左右京・四畿内及び七道の諸國に命じて挙哀(哀悼の声を発する儀礼)を三日間行わせている。
二十三日に大安寺で経文を読ませている。二十五日に山科寺(山階寺。興福寺)で経文を読ませている。二十七日は初七日に当たり、飛鳥寺(元興寺。元の法興寺)で経文を読ませている。これより以後は、七日ごとに京内の寺で経を読ませることにしている。二十八日に勅されて、天下の全ての人々に白の喪服を着させている。この日、太上天皇(元正天皇)の遺骸を「佐保山陵」に於いて火葬している。
<佐保山陵> |
佐保山陵
先帝の元明天皇は、遺言に依って大和國添上郡藏寳山雍良岑(実葬されたのは椎山)に埋葬されたと記載されていた。預かった首皇子(後の聖武天皇)への譲位が実現せず、元正天皇に委ねることになった。
その思いが、平城宮を望拝できる地を自ら選ばれた心情を窺い知ることができる記述と思われた。その思いを成し遂げた元正天皇も、時の流れに歯向かうことはできず、遂にこの世を去られたのであろう。聖武天皇の彷徨も収まり、少しは落ち着かれた気分の中での崩御かもしれない。
頻出の文字列である佐保=谷間にある左手のような山稜の先に丸く小高い地があるところと読み解ける。その地形を那富山(聖武天皇の夭折した皇太子を埋葬)の山稜の端に見出すことができる。後の天平勝寶二(750)年十月に「太上天皇改葬於奈保山陵」と記載されている。那富(奈保)山に本葬されたのであろう。
五月丁丑。勅令天下諸國奉爲太上天皇。毎至七日。國司自親潔齋。皆請諸寺僧尼。聚集於一寺。敬礼讀經。己丑。右大史正六位上秦老等一千二百餘烟。賜伊美吉姓。
五月八日に勅されて、天下の諸國に対して太上天皇のために七日ごとに國司が自ら心身を浄めて、諸寺の僧尼を招いて一つの寺に集め、敬礼し読経させるようにしている。二十日に右大史の「秦老」等千二百余戸に「伊美吉」姓を賜っている。
● 秦老
「秦」一族は、書紀の皇極天皇紀に「葛野秦造河勝」の系列、直近では「秦忌寸石勝」の子、「大魚」が登場している(こちら参照)。また「秦忌寸牛麻呂」の系列では、「辨正」、「嶋麻呂」、「朝元」等に関する記述も度々記載されている(こちら参照)。
今回の「伊美吉」姓を賜った人々は、これらの系列とは異なる場所…と言っても葛野の地であろうが…を出自としていたと推測される。
そんな背景であらためて葛野の未出の場所を探すと、図に示した地域が浮かんで来る。頻出の老=山稜が海老のように曲がって延びている様と解釈したが、図に示した場所が秦老の出自と推定される。
賜った伊美吉姓は、「忌寸」と置き換えられるが、伊美吉=広がった谷間にある区切られた山稜が蓋をするように延びているところと読み解ける。元来、臣・連・宿禰等の姓の名称も地形象形表記から派生した表記であったが、久々に元の姿を表した名称となっている。何とも、”遊び心”に溢れた記述ではなかろうか。「秦忌寸」氏姓を改称したのではない。續紀に「秦伊美吉」と記載される人物は登場しない。
後(称徳天皇紀)に秦忌寸弟麻呂が私財を献じて外従五位下を叙爵されている。系譜は、勿論、不詳なのであるが、外位であることから、上記の一族だったのではなかろうか。弟=ギザギザとしている様と解釈して図に示した場所が出自と推定される。その後に登場されることはないようである。
六月壬寅。正三位藤原夫人薨。贈太政大臣武智麻呂之女也。癸夘。令百官及諸國釋服。
六月四日に藤原夫人が亡くなっている。贈太政大臣の藤原朝臣武智麻呂の娘であった。天平九(737)年二月に「夫人无位藤原朝臣二人<闕名>並正三位」と記載された内の一人であろう。五日に百官及び諸國に命じて喪服を脱がせている。
秋七月戊寅。正六位下中臣部干稻麻呂賜中臣葛野連姓。正八位下山代直大山等三人並賜忌寸姓。丙戌。從五位下大倭御手代連麻呂女賜宿祢姓。奉爲太上天皇奉寫法華經一千部。戊戌。河内出雲二國飢。賑恤之。
七月十日に「中臣部干稻麻呂」に「中臣葛野」連の氏姓を、また「山代直大山」等三人にそれぞれ「忌寸」姓を賜っている。十八日に「大倭御手代連麻呂女」に「宿祢」姓を賜っている。また太上天皇のために法華経一千部を書写し奉っている。三十日に河内・出雲の二國に飢饉が起こり、物を恵み与えている。
<中臣部(葛野連)干稻麻呂> |
● 中臣部干稻麻呂(中臣葛野連)
今回もその地の人物として、名前が示す場所を探索する。少々変わった名前であり、それ故に地形を端的に表記しているのではなかろうか。
既出の「干」=「山稜の端が二股に岐れている様」と解釈した。「干」の古文字が示す形である(図中に記載)。「稻」=「禾+舀」=「三つの山稜が窪んだところに延びている様」と解釈した。合わせると干稻=端が二股に岐れた山稜がある三つの山稜が窪んだ地に延びているところと読み解ける。
「加比」の北側の谷間の様相を表していることが解る。賜った葛野=山稜に遮られて野が閉じ込められているところと解釈した。罷り間違っても”一面に葛「くず」の驚る野原が広がっていた”からではない。同じ地域に複数の登場人物、彼等の名前が示す地形により、その確からしさが増したように思われる。
● 山代直大山
「山代直」に関しては、書紀の天武天皇紀に「山背直」小林・百足が登場していた。ここでも續紀は、「背」を古事記の表記である「代」に戻しているのである。少し補足すれば、”山が背”ではあるが、この地域は代=人+弋=谷間に杙のような山稜が延びている様なのである。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。
名前の大山は、何とも地形象形表現としては解釈し辛いように思われる。勿論、”大きい山”として、それは御所ヶ岳、では、あり得ない。出自の場所を示すには、余りにも曖昧であろう。
頻出の「大」=「山稜の頂が平らになっている様」として、「山」を何と読み解くか?…前出の山村王の場合に類似すると思われる。「山稜が平面的に[山]の文字形に並んでいる様」を表しているのではなかろうか。
纏めると、大山=平らな頂の麓で[山]の形に山稜が並んでいるところと読み解ける。取り残されたような存在であったのが、漸く「忌寸」姓を賜って表舞台に登場したのであろう。言い換えれば、聖武天皇紀に至って、氏姓制度が隅々にまで行き渡るようになったことを告げていると思われる。
<大倭御手代連(宿禰)麻呂女> |
● 大倭御手代連麻呂女
初見ながら内位の従五位下を叙爵されているが、関連情報は皆無のようである。「大倭」と冠されていることから大倭國の地を出自としていたのであろう。
また「御手代」の文字列も、記紀・續紀を通じて初見であり、ほぼお手上げ状態に陥ったように感じられる。挫けずにこの文字列が表す地形、及び現在までに登場していない場所を探索する。
既出の文字列であり、御手代=手のような地と谷間にある杙のような地を束ねるところと読み解ける。大倭の地で、これに合致する場所が図に示したところに見出せる。文武天皇紀に、家に”嘉稻”が生えたと告げた人物、大神大網造百足の麓に当たる場所である。
現在の御祓川を挟んで古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮があった場所となる。早期に拓かれた地であり、然るべき人物が住まう場所だったのであろう。埋もれた人材であり、上記と同様に「氏姓」の確立だったように思われる。
八月辛丑。近江播磨飢。賑給之。」賜外從五位下高市大國連姓。癸夘。改定釋奠服器及儀式。乙夘。八幡大神祝部從八位上大神宅女。從八位上大神杜女並授外從五位下。己未。車駕幸散位從五位上葛井連廣成之宅。延群臣宴飮。日暮留宿。明日。授廣成及其室從五位下縣犬養宿祢八重並正五位上。是日還宮。
八月三日に近江・播磨國に飢饉が起こり、物を与えて救っている。また高市大國に「連」姓を賜っている。五日に釈奠(孔子を祭る儀式)での服装や器物及び儀式を改定している。十七日に「八幡大神」祝部の「大神宅女・大神杜女」に外従五位下を授けている。
二十一日に天皇は散位の葛井連廣成(白猪史廣成)の宅に行幸している。群臣を招いて酒宴を催し、日が暮れたので宿泊している。あくる日に「廣成」とその妻の縣犬養宿祢八重共に正五位上を授けている。この日に宮に還っている。
八幡大神
天平九(737)年四月に「遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣以告新羅无禮之状」と記載された筑紫八幡社と錯覚しそうであるが、後に「豊前國宇佐郡」にあったと記載される。
元正天皇紀に沙門法蓮が宇佐君の氏姓を賜ったと記載されていた。即ち「豊前國宇佐郡」として郡建てされたことが伺える。現在の京都郡みやこ町上高屋にある蔵持山の北麓に広がる谷間を表している。
更に、豊前國宇佐郡廣幡と記載されることから、八幡大神は、図に示した場所…現在の地図では神社(名称不詳)が鎮座している…にあったと推定される。通説では、上記の「筑紫八幡社」との区別もなく、併せて現在の八幡総本宮宇佐神宮と解釈されている。”筑紫”は、”筑前”でもなく、勿論”豊前”でもない。
少し後に比咩神も鎮座していたと伝えている。大神に一品、比咩神に二品を授けたと記載している。「咩」=「口+羊」=「山稜に挟まれた谷間の出口が開いている様」と解釈すると、比咩=山稜に挟まれた谷間の出口がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。図に示した場所を表していることが解る。
● 大神宅女・杜女 それは兎も角、少々紛らわしいのが、「大神」の表記である。大神=平らな頂から延びた山稜の端が高台になっているところとして、既出の大神朝臣の出自を読み解いた。現在の北九州市小倉北区にある砲台山西麓を示すと推定した。そして、その地形に類似する場所が蔵持山北麓にあることが解る。
「大神」が見出せれば、宅女=谷間に長く山稜が延びている地の女(巫女)、杜女=山稜が盛り上がった地の女(巫女)と解釈すれば、図に示した場所に、各々出自を見出せる。「杜女」は、この後に活躍されたようで、禰宜となり、朝臣姓を賜ったりして最終従四位下まで昇進されたと知られるが、とある事件に連座して配流されている。
少し後に主神司の大神田麻呂が登場する。「杜女」と共に「大神朝臣」姓と賜ったと記載されている。「田麻呂」の表記では、些か特定し辛いが、麻=萬として、神社近隣の場所を図に示した。
余談になるが、「大神(オオミワ)」と訓されるようである。何故「オオミワ」なのか?…「大神朝臣」は「三輪君」の系列故に、そう訓しても許せるが、この地は全く無関係である。記紀・續紀を”読ん”では、あらぬ方向に向かってしまうのでる。
更に後(淳仁天皇紀)に大神東女等が高齢者優遇で播磨國の稲を賜ったと記載されている。豊かな隣國から支援させた、のであろうか。東女=谷間を突き通すようなところの女と解釈され、図に示した場所が居処であったと思われる。
冬十月乙丑。詔免京畿内七道諸國田租。丁亥。正七位下廣幡牛養賜秦姓。
十一月己丑。下道朝臣乙吉備。眞事。廣三人。並賜吉備朝臣姓。
十二月甲寅。遣使鎭祭佐保山陵。度僧尼各一千。
十月二十八日に、詔されて、京・畿内・七道の諸國の田租を免除している。丁亥(?)、「廣幡牛養」に「秦」氏を賜っている。
十一月二十三日に「下道朝臣乙吉備・眞事・廣」の三人に「吉備朝臣」氏姓を賜っている。
十二月十八日に使者を遣わして佐保山陵を鎮め祭らせている。僧と尼それぞれ千人得度させている。
<廣幡(秦)牛養> |
● 廣幡牛養
「秦姓」を賜ったと記載されていることから、書紀の皇極天皇紀に登場した葛野秦造河勝一族の近辺と思われる。現地名は田川郡赤村赤である。
また、孝徳天皇紀に古市皇子の謀反に加担した朴市秦造田來津が登場し、「河勝」一家の東側の山稜奥深くにも蔓延っていたことが伺える。但し、謀反連座では、この地域での秦一族の人物の登場は見られなかったのであろう。
「田來津」の東側に大きく広がり延びた山稜が見られる。それを廣幡と表記したのであろう。少々入組んでいるが、複雑に枝分かれした山稜の一部が牛の頭部の形をし、その先は、養=羊+良=谷間がなだらかに延びている様、現在の犀川(今川)の川辺、となっていることが解る。上記の秦老など、正に氏姓制度の巷間への浸透を目論んだ結果のように思われる。
● 下道朝臣乙吉備・眞事・廣
「下道朝臣」については、入唐学生であった「眞備」が登場した際に系譜も含めて詳しく述べた(こちら参照)。権勢を振るうようになって、「吉備朝臣」という吉備國を代表するような氏姓を賜ったのであろう。
多くの兄弟がいたことも分かっていたが、ここに来て彼等も「吉備朝臣」と名乗るようになったと記載している。「乙吉備」の名前に見られるように、この地も「吉備」の地形なのである。道理に叶っていたから改称が認められたのではなかろうか。
さて、眞事=取り囲まれて窪んだ地に真っ直ぐ延びる山稜が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所、「眞備」の東側辺りがこの人物の出自と推定される。更に、その東が「廣」、一字なので廣=广+黃=山麓で広がり延びている様と解釈すると、出自の場所と思われる。
この後、「眞事」は幾度か登場するが、他の兄弟に関する記述は見当たらないようである。最終官位正二位・右大臣・勲二等の「眞備」が傑出していたのであろう。