天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(48)
天平勝寶元年(西暦749年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
天平勝寳元年春正月丙寅朔。廢朝。始從元日。七七之内。令天下諸寺悔過。轉讀金光明經。又禁斷天下殺生。己巳。比年頻遭亢陽。五穀不登。官人妻子多有飢乏。於是。文武官及諸家司給米。人別月六斗。乙亥。上総國飢。賑給之。
正月一日の朝賀を中止している。元日より始めて七々(四十九日)の間、天下の諸寺に命じて悔過(罪や過失を懺悔すること)を行い、金光明経を転読させている。また天下の殺生を禁断している。四日、この頃しきりに厳しい日照りにみまわれ、五穀が稔らないので、官人の妻子の多くは飢えて乏しい生活を送っている。そこで文武官及び諸の家司に人別月ごとに六斗の米を給与している。十日、上総國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。
二月丁酉。大僧正行基和尚遷化。和尚藥師寺僧。俗姓高志氏。和泉國人也。和尚眞粹天挺。徳範夙彰。初出家。讀瑜伽唯識論即了其意。既而周遊都鄙教化衆生。道俗慕化追從者。動以千數。所行之處聞和尚來。巷无居人。爭來礼拜。隨器誘導。咸趣于善。又親率弟子等。於諸要害處造橋築陂。聞見所及咸來加功。不日而成。百姓至今蒙其利焉。豊櫻彦天皇甚敬重焉。詔授大僧正之位。并施四百人出家。和尚靈異神驗觸類而多。時人号曰行基菩薩。留止之處皆建道塲。其畿内凡卌九處。諸道亦往々而在。弟子相繼皆守遺法。至今住持焉。薨時年八十。庚子。下総國旱蝗飢饉。賑給之。丁巳。陸奧國始貢黄金。於是。奉幣以告畿内七道諸社。壬戌。勅曰。頃年之間。補任郡領。國司先検譜第優劣。身才能不。舅甥之列。長幼之序。擬申於省。式部更問口状。比校勝否。然後選任。或譜第雖輕。以勞薦之。或家門雖重。以拙却之。是以其緒非一。其族多門。苗裔尚繁。濫訴無次。各迷所欲。不䫃礼義。孝悌之道既衰。風俗之化漸薄。朕竊思量。理不可然。自今巳後。宜改前例簡定立郡以來譜第。重大之家。嫡々相繼。莫用傍親。終塞爭訟之源。永息窺窬之望。若嫡子有罪疾及不堪時務者。立替如令。」以從五位下大倭宿祢小東人爲攝津亮。從四位下紀朝臣飯麻呂爲大倭守。丙午。石見國疫。賑給之。丙辰。以朝庭路頭屡投匿名書。下詔。教誡百官及大學生徒以禁將來。
二月二日に大僧正の「行基」和尚が遷化(死去)している。和尚は藥師寺の僧である。俗姓は「高志」氏で、「和泉」國の人であった。和尚は性質が純粋であり、人に抜きんでた生まれつきの才能を持ち、人の手本となる德が早くから現れていた。初め出家した際、瑜伽唯識論(仏教聖典)を読んで即座にその意味を理解している。早くから都や田舎を回って多くの人々を教化したので、僧侶や俗人の中には教化を慕う者が多く、あとに付き従う者は、どうかすると千単位で数えるほどであり、行く先々で争って来て礼拝している。それらの才能に従って指導して。全て善に向わせている。
また自ら弟子たちを率いて、諸所の要害の場所に橋を造り堤防を築いている。評判の及ぶ範囲の人は全てやって来て労働を提供したので、日数がかからずに完成し、人民は今に至るまでその利益を蒙っている。
豐櫻彦(聖武)天皇は、和尚をたいへん敬い重んじている。詔されて、大僧正の地位を授けると共に供養のために四百人を出家させている。和尚には事あるごとに不思議な異変や人智を超えた験を多くあらわしたので、時の人は行基菩薩と号している。
滞在した処にはみな道場を建てている。畿内におよそ四十九処で、諸道にもところどころあり、弟子がそれらの道場を受け継ぎ、みな和尚の遺した仏法を守って今に至るまで住持している。薨じた時は、八十歳であった。<元正天皇紀に掲載した”行基図”に若干手を加えて再掲した>
五日に下総國に日照りと蝗の害による飢饉が起こったので物を与えて救っている。十一日に石見國に疫病が起こったので物を与えて救っている。二十一日に朝廷の路の畔にしばしば匿名の書を投じる者がいるので、詔されて百官及び大学生徒を教え戒め、これから先そのようなことがないように禁止している。二十二日に陸奥國より初めて黄金を貢進している。そこで幣を奉って畿内・七道の諸社に報告をしている。
二十七日に以下のように勅されている・・・近頃数年間、郡領の補任に当たって、國司は先ず系譜の優劣や才能の有無、一族内の地位の上下、長幼の順序を調べ、候補者を選考して式部省に申し、その省が更に口頭試問して優れているかどうかを比べて検討し、その後で選任している。或る場合は、系譜が低いが、功労があるので推薦し、或る場合は家門が重くても拙劣であるので退けている。そのため選考する緒は一つではなく、一族は多くの家門に分かれている。子孫はたくさんあって、順序なく自分勝手の訴訟を起こし、それぞれが各自の欲に迷って、礼儀を顧みない状態である。親や兄に仕える道が既に衰え、風俗を徳化することも次第に亡びようとしている。<続>
朕は密かに考えるに、道理としてそうであってはならない。今より以後、前例を改めて、郡を建てて以来の系譜の重々しい家を選び定め、その嫡流に代々継がせることにし、傍流の親族を任用しないことにしよう。そうすれば訴訟の原因を断ち、永く身分不相応の望みを抱くことをなくしたい。もし嫡子に罪や疾病がある場合、及び時に応じた適切な務めに堪えられない場合は、令に従って立て替えよ・・・。この日、大倭宿祢小東人を攝津亮、紀朝臣飯麻呂を大倭守に任じている。
三月乙丑朔。日有蝕之。丁夘。左大舍人頭從四位下高丘王卒。
三月一日に日蝕があった、と記している。三日に左大舎人頭の高丘王(久勢王に併記)が亡くなっている。
夏四月甲午朔。天皇幸東大寺。御盧舍那佛像前殿。北面對像。皇后太子並侍焉。群臣百寮及士庶分頭。行列後。」勅遣左大臣橘宿祢諸兄。白佛。三寳〈乃〉奴〈止〉仕奉〈流〉天皇〈羅我〉命盧舍那佛像〈能〉大前〈仁〉奏賜〈部止〉奏〈久〉。此大倭國者天地開闢以來〈尓〉黄金〈波〉人國〈用理〉獻言〈波〉有〈登毛〉。斯地者無物〈止〉念〈部流仁〉。聞看食國中〈能〉東方陸奧國守從五位上百濟王敬福〈伊〉部内少田郡〈仁〉黄金出在奏〈弖〉獻。此〈遠〉聞食驚〈岐〉悦〈備〉貴〈備〉念〈久波〉。盧舍那佛〈乃〉慈賜〈比〉福〈波陪〉賜物〈尓〉有〈止〉念〈閇〉受賜〈里〉恐〈理〉戴持百官〈乃〉人等率〈天〉礼拜仕奉事〈遠〉挂畏三寳〈乃〉大前〈尓〉恐〈无〉恐〈无毛〉奏賜〈波久止〉奏。」從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣。現神御宇倭根子天皇詔旨宣大命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原〈尓〉天降坐〈之〉天皇御世〈乎〉始〈天〉中今〈尓〉至〈麻弖尓〉天皇御世御世天日嗣高御座〈尓〉坐〈弖〉治賜〈比〉惠賜來〈流〉食國天下〈乃〉業〈止奈母〉神奈我良〈母〉所念行〈久止〉宣大命衆聞食宣。加久治賜〈比〉惠賜來〈流〉天日嗣〈乃〉業〈止〉今皇朕御世〈尓〉當〈弖〉坐者天地〈乃〉心〈遠〉勞〈弥〉重〈弥〉辱〈美〉恐〈美〉坐〈尓〉。聞食食國〈乃〉東方陸奧國〈乃〉小田郡〈尓〉金出在〈止〉奏〈弖〉進〈礼利〉。此〈遠〉所念〈波〉種種法中〈尓波〉佛大御言〈之〉國家護〈我〉多仁〈波〉勝在〈止〉聞召。食國天下〈乃〉諸國〈尓〉最勝王經〈乎〉坐。盧舍那佛化奉〈止〉爲〈弖〉天坐神地坐神〈乎〉祈祷奉。挂畏遠我皇天皇御世治〈弖〉拜仕奉〈利〉衆人〈乎〉伊謝〈奈比〉率〈弖〉仕奉心〈波〉禍息〈弖〉善成危變〈弖〉全平〈牟等〉念〈弖〉仕奉間〈尓。〉衆人〈波〉不成〈哿登〉疑朕〈波〉金少〈牟止〉念憂〈都都〉在〈尓〉三寳〈乃〉勝神〈枳〉大御言驗〈乎〉蒙〈利〉天坐神地坐神〈乃〉相宇豆〈奈比〉奉佐枳〈波倍〉奉〈利〉又天皇御靈〈多知乃〉惠賜〈比〉撫賜〈夫〉事依〈弖〉顯〈自〉示給〈夫〉物在〈自等〉念召〈波〉。受賜〈利〉歡受賜〈利〉貴進〈母〉不知退〈母〉不知夜日畏恐〈麻利〉所念〈波〉天下〈乎〉撫惠〈備〉賜事理〈尓〉坐君〈乃〉御代〈尓〉當〈弖〉可在物〈乎〉拙〈久〉多豆何〈奈伎〉朕時〈尓〉顯〈自〉示賜〈礼波〉辱〈美〉愧〈美奈母〉念〈須〉。是以朕一人〈夜波〉貴大瑞〈乎〉受賜〈牟〉。天下共頂受賜〈利〉歡〈流自〉理可在〈等〉神奈我良〈母〉念坐〈弖奈母〉衆〈乎〉惠賜〈比〉治賜〈比〉御代年号〈尓〉字加賜〈久止〉宣天皇大命衆聞食宣。辞別〈弖〉宣〈久〉。大神宮〈乎〉始〈弖〉諸神〈多知尓〉御戸代奉〈利〉諸祝部治賜〈夫〉。又寺々〈尓〉墾田地許奉〈利〉僧綱〈乎〉始〈弖〉衆僧尼敬問〈比〉治賜〈比〉新造寺〈乃〉官寺〈止〉可成〈波〉官寺〈止〉成賜〈夫〉。大御陵守仕奉人等一二治賜〈夫〉。又御世御世〈尓〉當〈天〉天下奏賜〈比〉國家護仕奉〈流〉事〈乃〉勝在臣〈多知乃〉侍所〈尓波〉置表〈弖〉与天地共人〈尓〉不令侮不令穢治賜〈部止〉宣大命衆聞食宣。又天日嗣高御座〈乃〉業〈止〉坐事〈波〉進〈弖波〉挂畏天皇大御名〈乎〉受賜〈利〉退〈弖波〉婆婆大御祖〈乃〉御名〈乎〉蒙〈弖之〉食國天下〈乎婆〉撫賜惠賜〈夫止奈母〉神奈我良〈母〉念坐〈須〉。是以王〈多知〉大臣〈乃〉子等治賜〈伊自〉天皇朝〈尓〉仕奉〈利〉婆婆〈尓〉仕奉〈尓波〉可在。加以挂畏近江大津宮大八嶋國所知〈之〉天皇大命〈止之弖〉奈良宮大八洲國所知〈自〉我皇天皇〈止〉御世重〈弖〉朕宣〈自久〉大臣〈乃〉御世重〈天〉明淨心以〈弖〉仕奉事〈尓〉依〈弖奈母〉天日嗣〈波〉平安〈久〉聞召來〈流〉此辞忘給〈奈〉弃給〈奈止〉宣〈比之〉大命〈乎〉受賜〈利〉恐〈麻利〉汝〈多知乎〉惠賜〈比〉治賜〈久止〉宣大命衆聞食宣。又三國眞人石川朝臣鴨朝臣伊勢大鹿首部〈波〉可治賜人〈止自弖奈母〉簡賜〈比〉治賜〈夫〉。又縣犬養橘夫人〈乃〉天皇御世重〈弖〉明淨心以〈弖〉仕奉〈利〉皇朕御世當〈弖毛〉無怠緩事〈久〉助仕〈天〉奉〈利〉加以祖父大臣〈乃〉殿門荒穢〈須〉事无〈久〉守〈ツツ〉在〈自之〉事伊蘇〈之美〉宇牟賀〈斯美〉忘不給〈止自弖奈母〉孫等一二治賜〈夫〉。又爲大臣〈弖〉仕奉〈部留〉臣〈多知乃〉子等男〈波〉隨仕奉状〈弖〉種種治賜〈比ツ礼等母〉女不冶賜。是以所念〈波〉男〈能未〉父名負〈弖〉女〈波〉伊婆〈礼奴〉物〈尓〉阿礼〈夜〉。立雙仕奉〈自〉理在〈止奈母〉念〈須〉。父〈我〉加久斯麻〈尓〉在〈止〉念〈弖〉於母夫〈氣〉教〈祁牟〉事不過失家門不荒〈自弖〉天皇朝〈尓〉仕奉〈止自弖奈母〉汝〈多知乎〉治賜〈夫〉。又大伴佐伯宿祢〈波〉常〈母〉云如〈久〉天皇朝守仕奉事顧〈奈伎〉人等〈尓〉阿礼〈波〉汝〈多知乃〉祖〈止母乃〉云來〈久〉海行〈波〉美〈豆久〉屍山行〈波〉草〈牟須〉屍王〈乃〉幣〈尓去曾〉死〈米〉能杼〈尓波〉不死〈止〉云來〈流〉人等〈止奈母〉聞召〈須〉。是以遠天皇御世始〈弖〉今朕御世〈尓〉當〈弖母〉内兵〈止〉心中〈古止波奈母〉遣〈須。〉故是以子〈波〉祖〈乃〉心成〈伊自〉子〈尓波〉可在。此心不失〈自弖〉明淨心以〈弖〉仕奉〈止自弖奈母〉男女并〈弖〉一二治賜〈夫〉。又五位已上子等治賜〈夫〉。六位已下〈尓〉冠一階上給〈比〉東大寺造人等二階加賜〈比〉。正六位上〈尓波〉子一人治賜〈夫〉。又五位已上。及皇親年十三已上无位大舍人等至于諸司仕丁〈麻弖尓〉大御手物賜〈夫〉。又高年人等治賜〈比〉困乏人惠賜〈比〉孝義有人其事免賜〈比〉力田治賜〈夫〉。罪人赦賜〈夫〉。又壬生治賜〈比〉知物人等治賜〈夫〉。又見出金人及陸奧國國司郡司百姓至〈麻弖尓〉治賜〈比〉天下〈乃〉百姓衆〈乎〉撫賜〈比〉惠賜〈久止〉宣天皇大命衆聞食宣。」授正三位巨勢朝臣奈弖麻呂從二位。從三位大伴宿祢牛養正三位。從五位上百濟王敬福從三位。從四位上佐伯宿祢淨麻呂。佐伯宿祢常人並正四位下。從四位下阿倍朝臣沙弥麻呂。橘宿祢奈良麻呂。多治比眞人占部並從四位上。從五位下藤原朝臣永手從四位下。從五位上大伴宿祢稻君正五位下。從五位下大伴宿祢家持。佐伯宿祢毛人並從五位上。正六位上藤原朝臣千尋。藤原朝臣繩麻呂。佐伯宿祢靺鞨。正六位下藤原朝臣眞從並從五位下。」進知識物人外從八位下他田舍人部常世。外從八位上小田臣根成二人並外從五位下。」正三位橘夫人從二位。從四位上藤原朝臣吉日從三位。從五位上藤原朝臣袁比良女。藤原朝臣駿河古並正五位下。无位多治比眞人乎婆賣。多治比眞人若日賣。石上朝臣國守。藤原朝臣百能。藤原朝臣弟兄子。藤原朝臣家子。大伴宿祢三原。佐伯宿祢美努麻女。久米朝臣比良女並從五位下。」以從二位巨勢朝臣奈弖麻呂爲大納言。正三位大伴宿祢牛養爲中納言。乙未。大赦天下。自天平廿一年四月一日昧爽以前大辟罪已下。咸悉赦除。戊戌。詔授從五位下中臣朝臣益人從五位上。正六位上忌部宿祢鳥麻呂從五位下。伊勢大神宮祢宜從七位下神主首名外從五位下。因遣民部卿正四位上紀朝臣麻路。神祇大副從五位上中臣朝臣益人。少副從五位下忌部宿祢鳥麻呂等。奉幣帛於伊勢大神宮。丁未。天皇幸東大寺。御大盧舍那佛前殿。大臣以下百官及士庶。皆以次行列。詔授左大臣從一位橘宿祢諸兄正一位。以大納言從二位藤原朝臣豊成拜右大臣。授從五位下市原王從五位上。无位三使王。岸野王。三形王。倭王。額田部王。多治比王。厚見王。葛木王。大坂王。出雲王。三河王。長嶋王。高嶋王並從五位下。從五位下國君麻呂從五位上。无位別君廣麻呂從五位下。外從五位下高市連大國外從五位上。正六位上蓋高麻呂。吉田連兄人並外從五位下。」又授二品多紀内親王一品。從三位竹野女王正三位。无位橘宿祢通何能正四位上。」改天平廿一年爲天平感寳元年。戊申。大臣以下諸司仕丁以上。賜祿各有差。京畿内僧尼等施物。亦各有差。辛亥。正六位上丹羽臣眞咋授外從五位下。乙夘。陸奧守從三位百濟王敬福貢黄金九百兩。
四月一日に天皇は東大寺に行幸して、廬舎那仏の像の前殿に出御し、北面して像に向かい、皇后・皇太子(阿倍内親王)が共に近侍している。群臣・百寮の官人及び一般人民は分れて前殿の後に並んでいる。勅されて、左大臣の橘宿祢諸兄を遣わして仏に次のように述べている(宣命体)・・・三宝の奴としてお仕え申し上げている天皇の命として廬舎那仏の像の御前に申し上げようと仰っている。この大倭國では天地の初めより以来、黄金は他國より献上することはあっても、この國にはないものと思っていたが、統治している國内の東方にある陸奥國の守である百濟王敬福(①-❽)が管内の「小田郡」に黄金が出たと申し献じて来た。<続>
このことをお聞きになり、驚き悦び貴んで思うには、廬舎那仏がお慈みなさり、祝福なさいます物であると思い、受け賜わり、畏まって頂き、百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えしようということを、口に出すのも恐れ多い三宝の御前に、まことにかしこまって申し上げると申している・・・。
中務卿の石上朝臣乙麻呂が次のように述べている・・・現つ御神として天下を統治する倭根子天皇の詔として、宣べ聞かせられる大命を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、及び天下の公民は皆々承れと申し渡す。高天原から降臨された天皇の時代を始めとして、中頃から現在に至るまで、代々の天皇の御代は、天つ日嗣として、高御座に座して天下を治められ、人民を慈しまれて来た、天下統治の業であると、神としても思し召されると仰られる大命を皆々承れと申し渡す。<続>
このように統治され慈しまれて来た天つ日嗣の業として、いま自分の治世に当たって在位しているので、天地の心を気遣わしく思い、重大に考え、もったいなく、恐れ多く思っておいでになったところが、統治しているこの國内の東方にある陸奥國の小田郡に金が出たと奏上して献じて来た。これを思うに種々の法の中で、仏の御言葉が国家を護るためには勝れているとお聞きになり、統治している天下の諸國に最勝王経を置かせ、廬舎那仏をお造り申し上げようとして、天におられる神と地におられる神にお祈り申し上げ、口に出すのも恐れ多い先祖の天皇の時代から始まって代々の天皇の御霊魂が仏を礼拝申し上げて、多くの人民を廬舎那仏造営に誘い率いてお造りしようとする心は、禍が止んで善くなり、危機が変じて全く平安となるであろうと思ってのことである。<続>
こうしてお仕え申している間に、多くの人民は成功しないであろうと疑い、朕は金が少ないと思い憂えていたところ、三宝の特に不思議な御言葉の効験を蒙り、天におられる神と地におられる神が互いによしとされ、祝福をお与え下され、また、祖先の天皇たちの御霊魂が恵みたまい、撫で慈しみ賜うことによって、その金は出現してものであろうとお思いになれば、金を受け賜わったことを歓び、またそのことを貴いものとして、進むことも退くことも知らずに夜も昼も常に恐れ多く思っているが道理に叶っている賢君の時代にこそあるべきであるのに、拙く頼りとするものがない朕の時代に出現させてお示し頂いたことは、もったいなく恥じ入る思いがする。<続>
そこで朕一人がどうして貴い大瑞を受けることができようか。天下の人々と共に金を頂きお受けして歓ばせることこそが道理であろうと、神として思し召されて、皆をお恵みになり、お治めなされて、御代の年号に字をお加えになると仰せられる天皇の大命を、皆承れと申し渡す。
言葉を改めて別に仰せられるには、大神宮(伊勢大神宮)を始めとして諸神に神田を奉って、諸の祝部をお治めになり、また寺々に墾田を所有することを許し、僧綱を始めとして多くの僧尼を敬いお治めになり、新しく造った寺で官寺とすべきであるのは官寺となされる。大御陵を守りお仕えしている人たち一、二人をお定めなる。また御代御代にあたって天下の政を執り申し、国家を護りお仕えすることに優れている臣達の侍っている場所に表を置いて、天地と共に、人々に侮らせず、穢させず、治めてやれと仰せられる大命を皆承れと申し渡す。<続>
また、天つ日嗣の高御座の仕事として天下を治めていることは、進んでは口に出すのも恐れ多い天皇という大切な御名をお受けになり、退いては母の大御祖(藤原宮子)の養育を蒙ってこそ、天皇の治める國である天下をお撫でになり、お恵みなることができるのであると神として思し召される。それで朕が王と大臣の子等をお治めになることが先の天皇の朝廷にお仕えし、母にお仕えすることに通じるのである。<続>
それだけではなく、口に出すのも恐れ多い近江大津宮で大八嶋國をお治めになった(天智)天皇の大命として、奈良宮(平城宮)で大八嶋國をお治めなされた我が太上(元正)天皇まで次々と御代を重ねて、朕に仰せられたことには、「大臣がどの御世にも明るく浄い心をもってお仕えすることによってこそ、天つ日嗣のことは平らかで安らかに伝えられてきたのであると、この言葉を忘れたり、捨てたりなさいますな」と申し渡されたお言葉を、お受けになり恐れ謹んで、汝等をお恵みになり、お治めなされると仰せ下される大命を、皆々承れと申し渡す。<続>
また三國眞人・石川朝臣・鴨朝臣・伊勢大鹿首等は、位階をお上げになるべき人としてお簡びになり、位階をお上げになる。また縣犬養橘夫人(三千代)は、天皇の御代を重ねて、明るく浄い心をもってお仕えになっても怠り緩むこともなく助けお仕えし、それのみならず、祖母の大臣(藤原不比等)の家門を荒らし穢すことなく、守っていることを、よく勤めたことであると認め、うれしく思い、そのことをお忘れにならないように、孫たち一人、二人の位階をお上げになる。また大臣としてお仕え申し上げる臣たちの子等については、男はお仕え申し上げる状態に応じて、種々に位階をお上げになったが、女には位階をお上げにならない。<続>
そこで思うに、男のみが父の名を負い、女は何ら関りのないものであろうか。双方とも、共にお仕えすることが道理であろうと思し召される。父が子にこのようにあって欲しいと思い、導き教えたことを過らず失わずに家門を荒らさずに、天皇の朝廷にお仕え申し上げよとして汝たちの位階をお上げになる。<続>
また大伴・佐伯の宿祢は、常にも言っているように天皇の朝廷をお守り仕え申し上げることに己の身命を顧みない人たちであるから、汝等も祖先たちが言い伝えていることに、「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ のど(穏やか)には死なじ」と言い伝えている人たちであるとお聞きになっている。<続>
そこで遠い先祖の天皇の御代を始めとして、今の朕の御代においても、天皇をお守りする側近の兵士と思ってお使いになる。そのようなわけであるから子は祖先の心のような心となることが、子としてあるべきことである。このような心を失わずに明るく浄い心をもってお仕え申し上げよとの御心により、男女併せて一、二人の位階をお上げになる。<続>
また五位以上の官人の子等の位階をお上げになる。六位以下の位階を一階お上げになり、東大寺を造営した人たちには位階を二階お加えになり、正六位上の官人には、その子一人の位階をお上げになる。また五位以上の官人、及び皇族の年十三歳以上のもの、位の無い大舎人等から諸司の仕丁に至るまでに、天皇からの賜物を与える。<続>
また高齢者達の位をお上げになり、貧苦に悩んでいる人に物をお恵みになり、孝行で節義ある人にはその課役を免除され、篤農の人にはその位をお上げになる。罪人を御赦しになる。また壬生の位をお上げになり、多くのことを知っている人たちの位をお上げになる。また金を発見しが人、及び陸奥國の國司・郡司から人民に至るまでに位階をお上げになり、天下の全ての人民を撫で慈しまれると仰せられる天皇の大命を、皆承れと申し渡す・・・。
巨勢朝臣奈弖麻呂に従二位、大伴宿祢牛養に正三位、百濟王敬福(①-❽)に従三位、佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)に正四位下、阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)・橘宿祢奈良麻呂・多治比眞人占部に従四位上、藤原朝臣永手に従四位下、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)に正五位下、大伴宿祢家持・佐伯宿祢毛人に従五位上、「藤原朝臣千尋」・「藤原朝臣繩麻呂」・佐伯宿祢靺鞨(全成に併記)・「藤原朝臣眞従」に従五位下、寄進の物を献上した「他田舎人部常世」・「小田臣根成」に外従五位下、橘夫人(橘宿祢古那可智)に従二位、藤原朝臣吉日に従三位、「藤原朝臣袁比良女・藤原朝臣駿河古」に正五位下、「多治比眞人乎婆賣・多治比眞人若日賣」・石上朝臣國守(國盛。麻呂の娘、藤原宇合の妻)・「藤原朝臣百能・藤原朝臣弟兄子」・「藤原朝臣家子」・「大伴宿祢三原」・佐伯宿祢美努麻女(全成に併記)・久米朝臣比良女(湯守に併記)に従五位下を授けている。また、巨勢朝臣奈弖麻呂を大納言、大伴宿祢牛養を中納言に任じている。
二日に天下に大赦して、天平二十一(749)年四月一日の夜明け以前の死罪以下、悉く赦している。五日に詔されて、中臣朝臣益人に従五位上、忌部宿祢鳥麻呂(烏麻呂)に従五位下、伊勢大神宮の禰宜の「神主首名」に外従五位下を授けている。これに関連して、民部卿の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)、神祇大副の中臣朝臣益人、少副の忌部宿祢鳥麻呂等を遣わして幣帛を伊勢大神宮に奉納している。
十四日に東大寺に行幸されて、大廬舎那仏の前殿に出御されている。大臣以下百官及び一般人民は皆、順序に従って行列して並んでいる。詔されて、左大臣の橘宿祢諸兄に正一位を授け、大納言の藤原朝臣豊成を右大臣に任じている。市原王(阿紀王に併記)に従五位上、「三使王・岸野王・三形王」・「倭王・額田部王・多治比王・厚見王」・「葛木王・大坂王・出雲王・三河王」・「長嶋王・高嶋王」に従五位下、國君麻呂に従五位上、「別君廣麻呂」に従五位下、高市連大國に外従五位上、「蓋高麻呂」・「吉田連兄人」に外従五位下を授けている。また多紀内親王(託基皇女)に一品、竹野女王に正三位、橘宿祢通何能(古那可智に併記)に正四位上を授けている。天平二十一(749)年を改めて「天平感寶」元年としている。
十五日に大臣以下諸司の仕丁以上に、それぞれ禄を授けている。京・畿内の僧尼等にも、それぞれ物を施している。十八日に「丹羽臣眞咋」に外従五位下を授けている。二十二日に陸奥守の百濟王敬福(①-❽)は黄金九百両を貢進している。
陸奥國小田郡
「小田郡」は初見であるが、神龜五(728)年四月に丹取軍團を改称して玉作軍團を設置したと記載されていた。どうやら、全体としての丹取郡が分割され、その一部を小田郡と名付けたのであろう。
既出の文字列である小田=三角形に区画されたところと解釈すると、図に示した谷間を表していると思われる。何ともこじんまりとした郡別を行ったものである。
最初の「丹取」も「丹」と「取」の地を寄せ合わせて名付けているが、ぴったりとした名称が思い付かなかったようで、後々まで郡名が落ち着かない様相だったのであろう。ともあれ、入組んだ谷間の地であり、幸運にも黄金が発見されたと述べている。
● 小田臣根成 それに関わった(郡領)として、外従五位下を賜ったと記載されている。南側の遠田郡領遠田君雄人の場合に類すると思われる。根成=山稜が根のように延びた先で平らに盛り上がったところと解釈される。図に示した谷間の出口辺りと推定される。地方の豪族が一国一城の主となって、中央官庁の思惑での郡として一括りにできない状況を顕している感じである。丹取郡が存続できなかった理由の一つであろう。
天平感寶
”宝”の発見に甚く”感動”されて、名付けられた元号であるが、勿論、例に違わず、地形象形表記と思われる。初見ではないが、「感」=「戊+一+囗+心」と分解される。それぞれの文字要素は、地形象形に用いられており、それをそのまま繋げると「感」=「地の中心に戊(先の広がった武器)のような形をした山稜が延びている様」と解釈される。
また、幾度か登場の「寶」=「宀+玉+缶+貝」=「山稜に挟まれた谷間に[玉]や[缶]のような地形がある様」と解釈した。纏めると感寶=戊のような形をした山稜が中央に延びている地の谷間に[玉]や[缶]のような形をした山稜が延びているところと読み解ける。「小田郡」の谷間の様子を表現したものと解る。後に天平勝寶と改名される。「勝」でも何ら差支えはないが、「感」が端的に地形を表していると思われる。
<藤原朝臣千尋-袁比良女-駿河古> |
● 藤原朝臣千尋・袁比良女・駿河古
「千尋・袁比良女」は、「房前」の子、即ち北家の一員であったと知られている。上記の従四位下を叙爵されている「永手」の弟妹となる。少し後に登場する「楓麻呂」も含めて出自の場所を求めてみよう。
千尋に含まれる頻出の「千」=「人+一」=「谷間を束ねた様」と解釈した。「尋」は初見の文字であり、文字構成を調べると、「尋」=「⺕(=又)+工+又+囗」と分解される。前半の「又+工」=「左手」、後半が「又+囗」=「右手」から成る文字であることが分かる。
纏めると千尋=谷間を左右の手のような山稜で束ねたところと読み解ける。通常、「1尋の千倍。転じて、非常に長いこと、極めて深いこと」と解釈されている。地形象形表記が示す意味とのギャップに、些か驚かされる気分である。出自の場所は、最も北側にある谷間を示している。別名の御楯=谷間を塞ぐように延びる山稜を束ねたところも受け入れられる表記であろう。
袁比良女は、既出の文字列として読むと袁比良女=ゆったりとした山稜がなだらかに並んでいるところとなる。別名の宇比良古=谷間の山稜がなだらかに並んでいる先にある小高いところと解釈される。残念ながら現在の地図の解像度では「古」を確認することは叶わないようである。父親房前の眼前だったようである。
並んで正五位下を叙爵されている駿河古については、北家の一員である記録はないが、図に示した場所に駿河古=急峻な川が流れる先にある丸く小高いところが見出せる。「淸河」の東隣の狭い場所となるが、おそらく「房前」の娘だったと思われる。
後に登場の藤原朝臣楓麻呂は、列記とした北家の一員であり、最終従三位・参議であったと伝えられている。楓=木+風=山稜に寄り添う谷間が[凡]の形をしている様と解釈される。「風」=「凡+虫」=「[凡]の形に囲まれて曲がりくねった地がある様」として、幾度か用いられていた文字である。その地形を「房前」の西側の谷間に見出せる。
● 藤原朝臣繩麻呂
南家「武智麻呂」の孫、「豐成」の四男と知られている。藤原朝臣嫡流の四男なのだが、早期に従五位下を叙爵されている。贈従二位・大納言だったようなので、それなり活躍されたのであろう。
さて、この地は変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年で、他の三人の兄弟も併せて出自の場所を求めてみよう。豐成の近傍には、違いないであろう。
繩麻呂の「繩」は初見である。「繩」=「糸+黽」に分解すると、地形象形表記として繩=山稜が捩り合わさって太くなった様と解釈される。別名の綱麻呂の表記は、捩れた様を簡略にしたものであろう。いずれにしても、航空写真からでは判別は難しいが、太く延びた山稜が確認される。その端が出自と推定される。
乙繩は、「繩麻呂」の東側の山稜が、「乙」の形になっていることを示し、その山稜の端が出自と思われる。繼繩は、「繩麻呂」の麓、「豊成」の西側を示していると解る。武良自は、既出の文字列であり、武良自=戈のような山稜(武)がなだらかに(良)延びた端(自)のところと読み解ける。最も東側の山稜の端が出自と推定される。
それにしても、以前にも述べたが、1965(昭和40年)前後から始まった”日本列島改造”の凄まじさに改めて驚かされる。それ以前の、真に貴重な航空写真であろう。
● 藤原朝臣眞從
「武智麻呂」(南家)の孫、仲麻呂の長男と知られている。上記の「豊成」一家と競い合うように子孫が叙爵されたようである。また、多くの兄弟も知られているが、續紀での登場は限られていることから、「眞光・久須麻呂・刷雄」の三人を併記する。
とは言うものの、地形の判別が極めて難しい地域であり、一層出自場所の特定には些か曖昧さが残る結果となった。例によって、国土地理院航空写真1961~9年を用いることにする。
眞從の「從」は殆ど名前に用いられることはないが、「從」=「从+辵」と分解される。「从」=「人+人」であるが、横に並ぶのではなく、積み重なるように縦に並ぶ様を表している。地形象形的には、「從」=「谷間が縦に積み重なっている様」と解釈する。
「眞」=「窪んだ地に寄せ集められた様」だから、眞從=積み重なるような谷間が窪んだ地に寄せ集められているところと読み解ける。図に示した辺りが出自と推定される。妹に藤原朝臣兒從がいたと知られている。「兒」=「小さい、成りかけ」と解釈できるが、「臼」の部分が「囟」を表すとする解釈もできる。すると兒從=窪んだ地に谷間が積み重なるようになっているところと読み解ける。兄の近傍が出自と思われる。
藤原朝臣眞光の「光」=「火+儿」=「[火]の形の山稜が長く延びた様」であるが、残念ながら、それを明確に確認することは叶わないようである。図に示した山稜の端が寄り集まった窪んだところではなかろうか。別名に眞先があったと知られる。どうやら「火」の地形が曖昧なことと通じている感じである。藤原朝臣久須麻呂の久須=[く]の形に曲がっている州があるところとすると、珍しく容易に推定できる出自となる。
藤原朝臣刷雄の「刷」は、名前に用いられた例として初見のようである。文字解釈をすると、「刷」=「尸+巾+又+刀」と分解され、「尻の汚れを手で拭き取る」様を表していると解説される。「刀」を加えて、「刷」=「削って擦り取る」の意味を持つ文字である。
地形象形的には、そのまま用いられるであろう。刷=山稜の端が削り取られた様と読み解ける。既出の雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様であり、図に示した場所が出自と推定される。尚、兄弟の薩雄と同一人物とする説があるようだが、別人であろう。詳細はご登場の時に述べるが、「刷雄」の東側が出自と思われる。
● 他田舎人部常世
「他田舎人」は、元正天皇紀に他田舎人直刀自賣に正五位上を叙爵したと記載されていた。初見での爵位であり、しっかりとした系譜が残っている。
元正天皇紀には、多くの女王や女官が叙爵されていた。その中の一人であり、有能な人物であったことが伺える。
ここでは「他田舎人部」と記載され、その近隣の地を表していることが分かる。名前の常世=北向きに山稜が延びる地が途切れずに繋がっているところと解釈した。古事記の常世國であり、直近では常世連で用いられた文字列である。
早期に開拓された他田の谷間の中でも、現在でも一際目立つ棚田が広がっている。廬舎那仏への寄進ができるほどに財を成していたのであろう。そして、その褒賞(外従五位下)によって、一層蓄財が促されたように推測される。
● 多治比眞人乎婆賣・多治比眞人若日賣
並んで記載された二人の賣の系譜は不詳、そんなものを一々書かなくても当然分かる、のような有様である。兎も角、「多治比眞人」一族には系譜不詳が目立って多い。
直近で登場した木人(この人物も系譜不詳だが縣守の子と推定)等の谷間であろう、と推測して、名前から彼女等の出自の場所を求めることにする。
既出の文字列である乎婆=嫋やかに曲がって延びて水辺で覆い被さるような山稜の前で口を大きく開けたような谷間があるところと読み解ける。図に示した多夫勢の南側にその地形を見出せる。以前にも述べたが、ゴルフ場は元の地形を活かした設計をしている。勿論全てではないのだが・・・。
するとその西側、少々地形が崩れてはいるが、これも既出の文字列である若日=[日]のような丸く小高い地の前で細かく岐れた山稜が延び出ているところと読み解ける。石足の北側に当たる場所と推定される。妙齢なご婦人お二人の出自の場所、思いの外に容易に特定することができたようである。
● 藤原朝臣百能・弟兄子・家子
百能は、京家「麻呂」の娘であり、豊成の室であった。夫「豊成」の「仲麻呂」との確執に伴い、浮き沈みするが、最終的には從二位まで昇進したと伝えられている。兄弟の諍いは、なかなかに凄まじいものがあろう。
既出の文字列である百能=丸く小高い地が束ねられた隅にあるところと読み解ける。図に示した場所、「麻呂」の東隣の谷間と推定される。
藤原朝臣弟兄子の出自は不詳なのであるが、弟兄=奥が広がった谷間がギザギザとしているところと解釈する。唐から甘子(柑橘類の一種)を持ち帰り、従五位下を賜った播磨直弟兄に用いられていた。子=生え出た様であり、谷間の出口の先辺りが出自と思われる。その地形を「麻呂」の西側の谷間に見出せる。おそらくこの女性も「麻呂」の子ではなかろうか。
藤原朝臣家子は式家「宇合」の子であり、北家「房前」の子、魚名の室であったと知られている。最終は贈正三位だから、女官として活躍された様子が伺える。頻出の家=宀+豕=山稜の端が豚口のようになっている様と解釈した。少々見辛いが、宇合の近隣にその地形を見出せる。
地形は、少なくともその原形は、人が手を加えなければ千年経っても変わらないようである。上記と同じく子=生え出た様であるが、別名に家兒とも記されていたようである。「生えかかった様」だったのであろう。
● 大伴宿祢三原
初見で從五位下を叙爵されていることから、「大伴宿祢」一族の奔流に位置していた人物だったと推測されるが、全く系譜は不詳である。
名前の三原=三段に並んだ野原があるところと解釈すると、図に示した場所が出自ではなかろうか。多くの人物が登場して来ているが、この地が関わることがなかったようである。この後も續紀で記載されることはなく、多分、他の史書にも出現していないのであろう。これ以上の憶測は控えることにする。
● 神主首名
本文に「伊勢大神宮祢宜從七位下神主首名外從五位下」と記載されている。『日本大百科全書』によると・・・、
【神主】もとは神事をつかさどる者、あるいは神を祀(まつ)る聖なる者の意である。現在は神職と同義に用いられる。『古事記』崇神(すじん)天皇の条に「意富多多泥古命(おほたたねこのみこと)を以(も)ちて神主と為(し)て、御諸(みもろ)山に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前(みまえ)を拝(いつ)き祭りたまひき」とあり、また『日本書紀』には神功(じんぐう)皇后自らが斎宮に入って神主となり、託宣を行ったことがみえる。上古には祭政一致であったため氏上(うじのかみ)が氏人を率いて奉祀(ほうし)したり、また国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)などの地方長官が司祭者として祭祀を行った。各地の神社のなかには、大(おお)神主、総神主、権(ごん)神主などとよばれるものもあり、また神職としては宮司(ぐうじ)、神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)、巫(かんなぎ)などがあった。宮司は主として神社全般の事務管掌責任者であるが、神主はもっぱら祭祀のことに奉仕する最上位の職であった。近世以後はこれらの神職を総称して俗に神主とよぶようになった。また民間では、宮座を構成する人々のなかから1年交代で神主を務める当屋(とうや)神主、一年神主、年番(ねんばん)神主の制が近代まで広く行われた。選ばれた者は1年間は精進潔斎し、村人全体の代表者として神に奉仕する一方、村人に対しては神の象徴として臨み、氏神の祭祀にあたった。
・・・と解説されている。と言うことは、この人物の「神職」が「禰宜」であり、名前が「神主」であったと記述しているのであろう。「神主」は地形象形表記である。図に示したように、古事記の佐久久斯侶伊須受能宮に含まれる山稜を神主と表現し、その端にある首の付け根のような窪んだところを首名で表したと解釈される。
以前にも少し述べたが鈴鹿郡赤坂頓宮は、現在の三重県亀山市関町にあったと推定されている。書紀の天武天皇紀に記載された鈴鹿關と混同されているのである。伊勢神宮の古名「佐久久斯侶伊須受能宮」が示す意味が全く読み解けていないのが現状であろう。
日本の古代は、意味不明なのである。そして、曖昧なままの上に歴史が積み重ねられている。即ち、移民(難民)であった”倭人”が作り上げた國であり、そのアイデンティティへの欲求が『古事記』となったのである。いつまでも曖昧なロマン溢れる古代ではなかろう。
後(淳仁天皇紀)に神主枚人が外従五位下を叙爵されて登場する。光明皇太后の体調回復を願う祈祷を行い、諸社の禰宜等の位を進めたと記載されている。枚人=山稜が折れ曲がる傍の谷間のところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
更に後(称徳天皇紀)に神主忍人が外従五位下を叙爵されて登場する。等由氣宮(外宮)祢宜であったと記載される。また、この時「首名」は外従五位上を賜っている。忍人=谷間に山稜が突き出て刃のようになっているところと読み解ける。少々地形変形が進んでいるが、図に示した辺りが出自と推定される。尚、国土地理院航空写真1961~9年を参照。
● 三使王・岸野王・三形王
三使王は、舎人親王の子、もしくは孫とされている。初見で従五位下に叙爵されていることからすると孫のような感じではあるが、子と同様に「舎人」の地に出自を持つ王であったには違いなかろう。
同一名の「三使王」(出自は三使連の近隣の藤原宮と推定)が前出していたが、ここは間違いなく舎人親王の孫であろう。
三使=三段に並んでいる谷間の真ん中を突き通すように山稜が延びているところと解釈したが、図に示したように船王の山稜が更に延びた様子を表していると思われる。別名の御使王も何ら差支えなく用いられることが分かる。
岸野王の岸=山+厂+干=山稜の端が二股に広がっている様であり、上記の山稜の端の地形を表している。系譜不詳であるが、ほぼ確実に舎人親王の孫であったと思われる。同様に系譜不詳の三形王の形=井+彡=山麓に四角く区切られた地がある様と解釈すると、図に示した場所にその地形が三つ並んでいることが解る。
大炊王(後の淳仁天皇。守部王に併記)の西側に当たる。この王は舎人親王の七男だったことが知られている。上図に示したような配置となり、”舎人”の地に広がっていることが解る。即ち、ここで登場した三王は、紛うことなく舎人親王の”孫”ではなく、”子”であったと思われる。
<倭王・額田部王・多治比王> <厚見王・眞立王> |
● 倭王・額田部王・多治比王・厚見王
系譜不詳の王が列記されているが、厚見王については、舎人親王の子とする系図が残っているとのことである。従五位下での初見は、子ではなく孫の可能性が高いように思われる。
そして、「舎人」の山稜ではなく、前出の従四位下に叙爵された飛鳥田女王の近辺と推測される。現在では全く見る影もなく山稜が削り取られた場所である。
倭王の倭=人+禾+女=谷間の傍らの山稜が嫋やかに延びている様であり、図に示した谷間を示していると思われる。出自の詳細は些か不明だが、その谷間の中央部と推定した。額田部王の額=山麓に小高い山稜が突き出ている様と解釈したが、その地形が見出せる。多治比王に含まれる頻出の多治比=山稜の端の三角の地が耜のような形をして並んでいるところを「額田部王」の東側に見出せる。
厚見王の「厚」=「山稜が大きく広がっている様」、「見」=「目+儿」と分解して解釈すると、厚見=大きく広がっている山稜にある谷間が長く延びているところと読み解ける。出自の場所は、倭王と同様に、その谷間の中央部辺りと推定した。
後(淳仁天皇紀)に眞立王が従五位下を叙爵されて登場する。眞立=窪んだ地に山稜が並んで寄り集まっているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「厚見王」の谷間の奥に当たる場所が出自と思われる。
現在からでは想像もできないくらいに谷間が入組んでいて、そこに多くの王等が住まっていたことが解る。「厚見王」は、舎人親王の子とするよりも孫、また、ひょっとすると、ここで挙げられた王等は他の皇子の孫だったのかもしれない。
● 葛木王・大坂王・出雲王・三河王
この四人の王の中では、唯一出雲王が鈴鹿王の子であったことが知られているのみである。また、葛木王については、長屋王の子に同名の王がいたが、事変の際に自死したと記載されていた(二十年前の天平元[729]年二月)。
この「葛木王」の住居跡を出自とする王だったのではなかろうか。長屋王系列の王の子と推測される。図に示した通り、高市皇子の近隣の場所となる。
出雲=竈から煙が出るように山稜が延びているところと読めば、「鈴鹿王」の東側、「山形女王」を挟んだ山稜の端辺りが出自と推定される。「鈴鹿王」には、他にも幾人かの子がいたことが知られているが、ご登場の際に述べることにする。
大坂王については、全く情報が欠如している。おそらく多くの王・女王の居処であったと推定した呉川の対岸と推測される。大坂=平らな頂から手のような山稜が延びたところと解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。前出の六人部王と丹生女王との間の地となる。
三河王も同様に情報が見当たらず、近辺で三河=三つの谷間の出口が並んでいるところと解釈して、その地形を探索すると、図に示した場所が見出せる。「出雲」、「大坂」、「三河」と既出の地名が並記されているが、勿論、全く無関係であろう。蛇足だが「三河」=「三川」と読んでは、全く異なる地形の場所を求めることになる。
少し後に山代女王が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらずの情報欠如であり、登場もその時限りである。名前も一に特定するには、困難な感じであるが、”山代國”の類似した地形なのではなかろうか。すると、大坂王・三河王と並びの場所と思われる。「山代」=「山が背にあるところ」と読んでもよいが、代=人+弋=谷間に杙のような山稜が延びている様の解釈をすると、三河王の西側の山稜の端辺りがこの女王の出自と推定される。
● 長嶋王・高嶋王
この二王の出自を調べると大市王の子達であったことが分かった。即ち、天智天皇の長皇子の孫に当たる。と言う訳で「大市王」の周辺の地を探索する。
長嶋王に含まれる頻出の嶋=山+鳥=山稜が鳥のような形をしている様と解釈するが、父親の大市王から少し離れた、叔父の「河内王」の南側の山稜の地形を示しているのではなかろうか。鳥の尾羽が長く延びた様を長嶋で表記したものと思われる。
弟の高嶋王に含まれる、これも頻出の高=山稜が皺が寄ったような形をしている様であり、少し南側の山稜に挟まれた谷間にその地形を見出せる。現在は広範囲な宅地となっているが、かつてはなだらかな山稜が延びていたと推測される(国土地理院1961~9年航空写真参照)。
後(淳仁天皇紀)に文室眞人高嶋として官職を任じられたと記載されている。父親の臣籍降下に従ったのであろう。「長嶋王」の再登場は見られないようである。また文室眞人眞老が従五位下を叙爵されて登場する。既に臣籍降下後の名称である。眞老=海老のように曲がっている延びる山稜が寄り集まっている窪んだところと解釈される。
更に後(称徳天皇紀)に清原王(淨原王)が従五位下を叙爵されて登場する。「長田王」の孫と知られている。図に示した谷間を清=氵+生+井=水辺で四角く囲まれた様、あるいは淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様の地形と見做した表記であろう。
更に調べると備前國藤野郡の「和氣」一族は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった吉備之石无別の後裔と分った。
列記とした”眞人”に属していて、後に續紀で記載される氏姓は、「藤野別」眞人(「吉備藤野和氣」眞人)となっている。即ち、本貫の「石无」からの「別」であったと推測される。これで簡略に記載されたワケが読み解けたようである。
天平三(731)年正月に「美作國獻木連理」と記述された、その場所である(こちら参照)。廣麻呂の出自の場所は、図に示した辺りと推定される。麻=萬と解釈できるようである。どうやら奔流の一族は、藤野郡へと移住したのであろう。残された人々が住まい、そして開拓を進めて来たのではなかろうか。
● 蓋高麻呂
この人物の氏名である「蓋(盖)」は、盖山を示していると思われる。おそらく、「王多寶」と同様に渡来系であったと推測されるが、調べると大陸系であったとのことである。
高麻呂の「高」を上記の「高嶋王」と同様に高=皺が寄った筋目のような様と解釈すると、図に示した谷間辺りを表していると思われる。ずっと後になるが、医師としての活躍が認められて、一族は吉水連の氏姓を賜ったようである。吉水=水辺を蓋するようなところと読み解くと、上図の地形を示していることが解る。「吉」=「蓋+囗」として解釈することと見事に整合しているのである。
すぐ後に朱牟須賣が外従五位下に叙爵されて登場する。文脈から採金に関連した女性だったと思われるが、詳細は不明である。既出の文字列ではある朱牟須=途切れた山稜の端が谷間に挟まれて州になっているところと読み解ける。朱・牟須賣と区切ると「牟須賣=娘」と洒落ているのかもしれない。ひょっとすると、この二人は夫婦だったのかもしれない。
● 吉田連兄人
「吉田連」も上記の神龜元(724)年五月に吉宜・吉智首が賜った氏姓であった。彼等の一族として兄人が外従五位下を叙爵されたと記載している。
医師として活躍し、「吉田連宜」は、典薬頭を任じられたと伝えられている。「吉水連」一族と似通り、渡来系の人々が医薬の分野で果たした役割は極めて大きかったのであろう。
「吉」は、間違いなく「蓋」の地形を表している。図に再掲したが、山稜の形を蓋として捉えることが普通に行われていたと推測される。邪馬壹國(「壹」=「吉+壺」)の解釈に通じる、古代の表現と思われる。これをスルーしていては、全く日本の古代は読み解けない、と断言できる。
ともあれ、頻出の兄人=谷間に奥が広がった地があるところと読むと、図に示した辺りがこの人物の出自と推定される。残念ながら三名の繋がりは記録に残っていないのであろう。
<丹羽臣眞咋> |
● 丹羽臣眞咋
漸く、最後の人物に辿り着くことができた。そして、「丹羽臣」とは、何とも懐かしい名称である。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった尾張丹羽臣の地と思われる。
頻出の「眞」=「鼎+匕」=「窪んだ地に寄せ集められた様」、「咋」=「囗+乍」=「大地がギザギザとしている様」と解釈した。纏めると、眞咋=ギザギザとした大地が窪んだ地に寄せ集められているところと読み解ける。
図に示した「丹羽」の中心の地が出自と推定される。外従五位下の叙爵であり、由緒ある地を出自とするが、長い空白を経た結果なのだろうか。「丹羽臣」として續紀中、初見であり、唯一の登場である。
図にも示したが、西側の「羽」は、文武天皇紀に宿祢姓を賜った尾治連若子麻呂・牛麻呂の居処と推定した。「丹羽臣」としての繁栄は限られていたのであろう。「尾治宿祢」もずっと後に一名が記載されるのみである。