天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(49)
天平勝寶元年(西暦749年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
五月戊辰。无位御浦王授從四位下。正六位上中臣伊勢連大津外從五位下。又從七位上陽侯史令珍。正八位下陽侯史令珪。從八位上陽侯史令璆。從八位下陽侯史人麻呂並授外從五位下。四人並是眞身之男。各貢錢千貫也。戊寅。上野國碓氷郡人外從七位上石上部君諸弟。尾張國山田郡人外從七位下生江臣安久多。伊豫國宇和郡人外大初位下凡直鎌足等。各獻當國國分寺知識物。並授外從五位下。庚寅。鰥寡孤獨及疾疹之徒不能自存者給穀五斗。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。力田人者。无位叙位一階。陸奧國者免三年調庸。小田郡者永免。其年限者待後勅。自餘諸國者。國別一年免二郡調庸。毎年相替周盡諸郡。又咸免天下今年田租。
五月五日に御浦王(舎人親王の子。守部王に併記)に從四位下、中臣伊勢連大津(伊勢直族大江に併記)に外從五位下、また「陽侯史令珍・陽侯史令珪・陽侯史令璆・陽侯史人麻呂」に外從五位下を授けている。四人共に眞身の息子であり、各々銭千貫を貢いだことによる。十五日に「上野國碓氷郡」人の「石上部君諸弟」、尾張國山田郡人の「生江臣安久多」、伊豫國宇和郡人の「凡直鎌足」等がそれぞれの國の國分寺に寄進したことにより、外從五位下を授けている。
二十七日に「鰥寡孤獨」や病人で自活できない者に籾米五斗を与えている。「孝子順孫・義夫節婦」は、その家の門と村の入口にその旨を示し、終身課役を免除している。篤農の人で無位の者には位を一階授けている。陸奥國には三年の調・庸を免除し、小田郡には永く免除するが、年限は後の勅で告示するのを待つこと。自余の諸國は、國別に一年間、二郡の調・庸を免除し、毎年その二郡を替えて、全ての郡にいきわたるようにしている。また悉く天下の今年の田租を免除している。
● 陽侯史令珍・令珪・令璆・人麻呂
陽胡(侯)史眞身は、元正天皇紀に律令撰定の功により褒賞を受けたと記載れて登場していた。その後に外従五位下、更に内位の従五位下を授かり、但馬守に任じられている。
有能な人物であったのであろう。その子等が財を成し、大枚な貢進を行ったと述べている。勿論「眞身」の近隣を出自として、その地の開拓を進展させたと思われる。
四人の息子であるが、末っ子になって”倭風”の名前を付けたのであろうが、三人の兄達の名前は実に巧みな文字使いのように感じられる。漢字を習熟した素性を表しているのであろう。
令珍の「令」、三名に共通するが、を名前に用いられるのは希少である。地形象形表記として読み解いてみよう。「令」=「亼+卩」と分解される。「蹲っている人を寄せ集めた様」を表していると解説される。「令」=「山稜を寄せ集めて揃え並べている様」と解釈する。
「珍」=「玉+㐱(人+彡)」=「玉のような地の傍らの谷間に山稜が延びている様」と解釈する。纏めると令珍=玉のような地の傍らの谷間に寄せ集められて揃え並べられた山稜が延びているところと読み解ける。珍努宮で用いられた「珍」と全く同様の解釈である。図に示した東側の場所を表していると思われる。
令珪の「珪」=「玉+圭」と分解される。「圭」=「土+土」から成る文字であるが、「三角に尖った様」を表す文字と知られている。すると令珪=玉のような地の傍らに寄せ集められて三角に尖っている山稜が揃え並べられているところと読み解ける。図に示した西側の場所を表していることが解る。
令璆の「璆」=「玉+翏(羽+羽+人+彡)」と分解される。「谷間に羽のような地が二つ並んでいる様」を表していると解釈される。纏めると令璆=玉のような地の傍らの谷間に寄せ集められて揃え並べられた二つの山稜が羽のような形をしているところと読み解ける。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した日下之蓼津に含まれる「蓼」の解釈に類似する。
実に巧みな地形象形表記であることが確認される。四男の人麻呂は、図に示した辺りと推定される。谷間(人)の麻呂=萬呂であろう。勿論「珍・珪・璆」が示す地形の場所から離れていることが解る。
上野國碓氷郡
「上野國」の所在は、下野國の東側、現地名では北九州市門司区吉志と推定した。續紀は書紀に記載された配置を踏襲した表記である(こちら参照)。
「碓」=「臼」とし、「碓」=「[臼]のように窪んだ様」、「氷」=「仌(冫)+水」=「二つに割れたような様」と解釈した。合わせると碓氷=[臼]のような地が二つに割れたようになっているところと読み解ける。図に示したように窪んだ地に山稜が延びて二つの谷間ができている場所を表していると思われる。
● 石上部諸弟 石上=磯の上と解釈する。頻出の文字列であろう。また、部=近辺である。すると[臼]を真っ二つにした山稜の端で諸=言+者=耕地が交差するような様の場所が見出せる。弟=ギザギザとした様と解釈したが、その山稜の端の形状を表しているのであろう。出自の場所は、図に示した辺りと推定される。図中の青い部分は現在の標高10m以下である。
● 生江臣安久多
尾張國山田郡は、書紀の天武天皇紀に、唐突に記載されていた。新嘗祭の供物を献上する役割を担っている。貧しい地ではなかったのであろう。今回の寄進も繋がった記述かと思われる。
それもその筈で、古事記の倭建命が立ち寄った尾張國造美夜受比賣の家があった場所である。その後に登用された人物がいなかったのであろう。
生江臣に含まれる既出の文字列である生江=生え出た山稜の先にある水辺で窪んだところと読み解ける。図に示した辺りの地形を表していることが解る。同様に既出の文字列である安久多=嫋やかに曲がる谷間にある[く]の形に延びる山稜の端にあるところと読み解ける。
時と共に尾張國の中心地は、長野川の下流域へと移っていったのであろう。残された人々が弛まずその地を守っていたように感じられる。
後(孝謙天皇紀)に生江臣智麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の智=矢+口+日=山稜が鏃のようになった地の近傍に炎のような地があるところと解釈した。その地形を「安久多」の南側に見出せる。多分、兄弟だったのであろう。寄進への協力が認められたのではなかろうか。
更に後(称徳天皇紀)に生江臣東人が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の東人=谷間を突き通すようなところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。この人物に関しては、通説では越前國足羽郡(孝謙天皇紀に初見)の人のように解説されている。確かにその地の大領を務めたようであるが、本貫は「安久多」の一族と思われる。
● 凡直鎌足
伊豫國宇和郡は、書紀の持統天皇紀に銀を産出したと記載されたのみで、この地の人物の登場はなかった。續紀中でも、ここでの記載されるのみで、この後に登場人物は見当たらないようである。正に貴重な人物名である。
凡直の凡=谷間が[凡]の形をしている様であり、多くの使用例がある。直=四角く延びた様であり、併せて谷間の形状を表している。図に示した場所と思われる。
鎌足=延びた山稜が鎌の形をしているところと解釈した。藤原鎌足で用いられた表記である。実に素直な名付けであり、「鎌足」の所以を的確に捉えているようである。
閏五月甲午朔。從四位上橘宿祢奈良麻呂。從五位上阿倍朝臣嶋麻呂並爲侍從。正五位下多治比眞人屋主爲左大舍人頭。從五位下紀朝臣男楫爲兵部少輔。從五位下柿本朝臣市守爲丹後守。從五位下小野朝臣田守爲大宰少貳。壬寅。於宮中度一千人。癸夘。詔。朕以寡薄恭承寳祚。恒恐累二儀之覆載。虧兆庶之具瞻。徒積憂勞。政事如闕。神之貽咎。實由朕躬。比者。時属炎蒸。寢膳乖豫。百寮煌灼。左右勤劬。今欲克順天心消除災氣。乃求改往之術。深謝在予之愆。則宜流渙汗之恩。施蕩滌之政。可大赦天下。自天平感寳元年閏五月十日昧爽已前大辟已下咸赦除之。但殺其父母。及毀佛尊像者。不在此例。甲辰。陸奧國介從五位下佐伯宿祢全成。鎭守判官從五位下大野朝臣横刀並授從五位上。大掾正六位上余足人。獲金人上総國人丈部大麻呂並從五位下。左京人无位朱牟須賣外從五位下。私度沙弥小田郡人丸子連宮麻呂授法名應寳入師位。冶金人左京人戸淨山大初位上。出金山神主小田郡日下部深淵外少初位下。是日。伊勢齋王爲遭二親喪。自齋宮退出。癸丑。詔捨大安。藥師。元興。興福。東大五寺。各絁五百疋。綿一千屯。布一千端。稻一十万束。墾田地一百町。法隆寺絁四百疋。綿一千屯。布八百端。稻一十万束。墾田地一百町。弘福。四天王二寺。各絁三百疋。綿一千屯。布六百端。稻一十万束。墾田地一百町。崇福。香山藥師。建興。法花四寺。各絁二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。因發御願曰。以花嚴經爲本。一切大乘小乘。經律論抄疏章等。必爲轉讀講説。悉令盡竟。遠限日月。窮未來際。今故以茲資物。敬捨諸寺。所冀太上天皇沙弥勝滿。諸佛擁護。法藥薫質。万病消除。壽命延長。一切所願。皆使滿足。令法久住。抜濟群生。天下太平。兆民快樂。法界有情共成佛道。」飛騨國大野郡大領外正七位下飛騨國造高市麻呂。上野國勢多郡小領外從七位下上毛野朝臣足人。各獻當國國分寺知識物。並授外從五位下。丙辰。天皇遷御藥師寺宮。爲御在所。壬戌。中納言正三位大伴宿祢牛養薨。大徳咋子連孫。贈大錦中小吹負之男。
閏五月一日に橘宿祢奈良麻呂・阿倍朝臣嶋麻呂を侍從、多治比眞人屋主(家主に併記)を左大舍人頭、紀朝臣男楫(小楫)を兵部少輔、柿本朝臣市守を丹後守、小野朝臣田守(綱手に併記)を大宰少貳に任じている。九日に宮中に於いて千人を得度させている。
十日に以下のように詔されている・・・朕は德が少ないながら、慎んで皇位を受け継いだ、天は覆い地は載せるという皇位にいるが、多くの人民が共に仰ぎ見る徳に欠けるのではないかと常に恐れている。いたずらに心配と苦労ばかりして、政事にあやまちがあるように思う。神が咎を残したのは、実に朕自身に由来するものである。此の頃は時候は激しく暑い季節に入り、日常生活は不調である。役所という役所は焼けるように熱く、左右の官人は勤めに苦しんでいる。今、よく上天のこころに順って、災気を消し、取り除きたいと思っている。ついては過去を改める術を求め、心から朕の身にあるあやまちを謝りたい。そこで恵みのある詔を発して今まで溜った罪を洗い落とす政治を行うべきであると思う。天下に大赦せよ。天平感寶元年閏五月十日の夜明け以前の死罪以下すべてを赦免せよ。但し、父母を殺したり、仏の尊像を破壊した者は、赦免の対象とはならない・・・。
十一日に陸奧國介の佐伯宿祢全成、及び鎭守判官の大野朝臣横刀(東人に併記)に從五位上、大掾の余足人(義仁に併記)及び獲金人で上総國人の「丈部大麻呂」に從五位下、左京人の朱牟須賣(蓋高麻呂に併記)に外從五位下、私的に得度した沙弥の小田郡人の「丸子連宮麻呂」に法名「應寳」と師位(僧位の一つ、公的に認可)、冶金をした人で左京人の「戸淨山」に大初位上、金が出た山の神主の小田郡の「日下部深淵」に外少初位下を授けている。この日に伊勢齋王(縣女王?)が父母の喪にあったことから齋宮を退出している。
二十日に詔されて、大安寺・藥師寺(平城藥師寺)・元興寺・興福寺・東大寺(金鍾寺)の五寺に。それぞれ絁五百疋・真綿千屯・麻布千端・稲十万束、墾田の地百町を、法隆寺に絁四百疋・真綿千屯・麻布八百端・稲十万束、墾田の地百町を、弘福寺(川原寺)・四天王寺の二寺に、それぞれ絁三百疋・真綿千屯・麻布六百端・稲十万束、墾田の地百町を、崇福寺(志賀山寺、紫郷山寺)・香山藥師寺(藥師寺。藤原宮近隣。持統天皇の万葉歌:香來山)・建興寺(小墾田豐浦寺)・法花寺(法華寺。隅院近隣)の四寺には、それぞれ絁二百疋・麻布四百端・真綿千屯・稲十万束、墾田の地百町を喜捨している。
これによって、御願を起こして次のように述べられている・・・花厳経を根本として、一切の大乗・小乗の経・律・論(以上三蔵)・抄・䟽・章(以上注釈)等を必ず転読し講話して、全て最後まで行わせよ。朕は遠く年月の尽きる限りまで、未来の窮まるまで続けようと思う。今その故に、右の品々を敬んで諸寺に喜捨した。願っているのは、太上天皇沙弥勝満(聖武天皇の法名)を諸仏が擁護し、仏法が薬のように身体にしみわたり。万病を消除して寿命が延び、全ての願いを皆満足させ、仏法を長く太平に万民は快く楽しく暮らして、全宇宙の衆生と共に仏道に入らせようということである。
この日に「飛騨國大野郡」大領の「飛騨國造高市麻呂」、「上野國勢多郡」少領の上毛野朝臣足人(荒馬に併記)が、それぞれの國分寺に寄進の物を献上している。それぞれに外従五位下を授けている。
二十三日に藥師寺の宮に遷御して、御在所としている。二十九日に中納言の「大伴宿祢牛養」が亡くなっている。大德の「咋子連」(咋連)の孫で「小吹負」(吹負)の息子である(こちら参照)。「大伴金村・咋」一家についてはこちら参照。
「丈部」は、元明天皇紀に相摸國足上郡の孝行の人、丈部造智積が登場していた。上総國の人ではない。即ち「丈部」が表す類似の地形の場所なのであろう。
現在は、広大な宅地となっていて、地形を伺うことは殆ど不可能なのであるが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、この人物の出自を求めてみよう。
そもそも、「上総・下総」で用いられる「総(總)」=「一ヶ所にまとめる様」であり、山稜がまとめられた塊が上下あることから名付けられたと解釈した。正にその地形が航空写真で確認される。そして、丈部=長く延びている山稜の近傍にあるところと読み解ける。
大麻呂の名前から、図に示した場所辺りが出自と推定される。谷間の西側は武藏國埼玉郡となり、國境の地であることが解る。興味深いのが、この人物は、この後も幾度か登場され、齋宮頭や地方官を歴任した、と續紀に記載されている(無姓のまま、最終官位従五位上)。単なる幸運の持ち主ではなく、有能だったのであろう。
後(称徳天皇紀)に丈部細目が事変の功績により外従五位下を叙爵されて登場する。既出の「細」=「糸+囟」=「山稜の傍らで窪んでいる様」とすると、細目=山稜の傍らで窪んで目のように見えるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。
同じく事変の功績により外従五位下を叙爵された桧前舎人直建麻呂が登場する。更に後の神護景雲元(767)年九月に「河内國志紀郡人正六位上山口臣犬養等三人賜姓山口朝臣。上総國海上郡人外從五位下桧前舍人直建麻呂上総宿祢」と記載されている。
「海上郡」の海上=水辺で母が両腕で抱えるように山稜が延びている地が盛り上がっているところと解釈される。「丈部」の西側に当たる地形を表していることが解る。「桧(檜)」=「山稜が寄り集まって積み重なっている様」を表す文字であり、檜前=[檜]の地が前にあるところと読み解ける。
「建麻呂」の建=廴+聿=筆のような山稜が延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在は広大な団地に開発されているが、それ以前の地形を示す航空写真から、極めて正確に出自の場所を求めることができたように思われる。
「海上郡」は、古事記の建比良鳥命が祖となった上菟上國造・下菟上國造の表記に関わる地である。しかしながら、「菟上」は「上総國・下総國」の全体の地形を表しているのであって、「海上」はその一部の郡名である。本居宣長の解釈を乗り越えられていない古代史学である。
金発掘の現地の僧と神主が褒賞されている。仏と神への感謝の気持ちを表しているのであろう。それにしても、この小田郡の狭い地に前出の小田臣根成を含めて三名の登場である。
丸子連宮麻呂に含まれる「丸子」は、前出の丸子大國に類似する地形を示していると思われる。丸子=丸の形の山稜が生え出たところと解釈した。「寶」に含まれる「玉」の地形を解釈した場所である。
頻出の宮=宀+呂=谷間の奥まで積み重なった様であり、「丸」の北側の谷間を示していることが解る。法名應寶を授けられている。寶=[感寶]の寶と、その東側に鎮座する應=广+人+隹+心=山麓の谷間の中央に鳥の形した山稜とを合わせた名前と解釈される。
日下部深淵の「日下部」も幾度も登場する名称であるが、勿論、あの”草壁”ではなかろう。名前の深淵が、この人物の出自の場所を教えてくれるようである。深=氵+穴+火+又=穴のような谷間の水辺に火のような山稜が延びている様と解釈した。
図に示した場所の地図の解像度では確認し辛いが、おそらく、その谷間に幾つかの川と山稜が延びているようである。淵=水辺が寄り集まった様とすると、谷間の出口辺りが出自と思われる。すると「日下部」の日=山稜が火のように延びている様は、谷奥の山の形を表していることが解る。日下部=[日]の麓の近辺と解釈される。金が発見されたのは、この[日(火)]の山だった、と述べているのである。
● 戸淨山
左京人の情報以外には皆無、勿論初見であり、この後に登場されることはない。「戸」は「門」の片割れを表す文字であり、囲まれた地を閉ざすような地形と思われる。頻出の「淨」=「水+爪+ノ+又」=「水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様」と解釈した。
纏めると、この人物の出自の場所は、戸淨山=戸がある両腕のような山稜が取り囲んでいる地にある山の辺りと読み解ける。疑うべくもなく渡来系である。そして、”冶金”に長けていた人物と推測される。
図に外従五位下を叙爵された朱牟須賣の出自の場所を併記した。前記で、その出自場所の配置から「蓋高麻呂」の妻ではないか、と推測した。彼等は大陸系の渡来人であり、「高麻呂」は医師として高名であったと伝えられている。
憶測になるが、「朱牟須賣」の叙爵の根拠、即ち金発掘への寄与の詳細が不明である。「戸淨山」が”冶金”で貢献したことから、「丈部大麻呂」が発掘したのは金鉱石であり、勿論「大麻呂」には、それが金鉱石であるとは知らず、ちょっと変わった水晶として、夫の「高麻呂」のところに持ち込まれたのであろう。それを鉱物に詳しい(”冶金”方法も含めて)「牟須賣」が、金鉱石と認定し、鉄の”冶金”を生業としていた(もしくは経験がある)、同じ左京人の「淨山」が実際に金塊としたのではなかろうか。
情報伝達手段が限られていた時代に、医師が果たした役割は極めて大きかったと推測される。人々の生業の情報が集まる場所だったのである。通常、「大麻呂」は砂金を見つけた、とされている。山で見つかったと記載され、”冶金”の作業が加わる、自然金である砂金では、決してあり得ない。
飛騨國大野郡
飛騨國の郡名としては初見であろう。この地を出自とする人物には、文武天皇紀に配流された僧幸甚の子、僧隆觀が神馬を献上し、入京を許されたと記載されていた。
また聖武天皇紀になって金宅良・金元吉に國看連姓を賜っている。いずれも飛騨國の辺境に近い場所であろう。要するに、飛騨の中心地及びそれを出自とする人物は登場していなかった。
● 飛騨國造高市麻呂 出自の場所は、既出の高市=皺が寄ったような山稜が寄り集まったところと解釈される。図に示した辺りが國造の居処であったと推定される。高市皇子の出自場所との地形が酷似していることが解る。
大野郡の大野=平らな頂の山麓の野と読めば、図に示した範囲を表しているように思われるが、上記の本文記述からでは定め難いようでもある。詳細は、後の記述に委ねることにする。
<上野國勢多郡> |
上野國勢多郡
上記で「上野國」は、碓氷郡があった國、下野國の東隣の國と推定した。現地名では北九州市門司区吉志辺りである。既に述べたように、「上野國」の表記は、二つの場所を示して、混乱状態なのである。書紀の記述を引き継いだのであろうが、極めて曖昧である。
今回も同様の状況なのであるが、少領の上毛野朝臣足人が、この「上野國」は、「上毛野」の上流域に広がっていた國であることを示唆していると思われる。現地名は、築上郡上毛町上唐原辺りである。
そこに多胡郡があったことが記載されていた。既出の文字列である勢多=山稜の端が丸く小高くなっているところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。上記と同じく郡の範囲は定め難いが、推測の範囲を表示した。元明天皇紀に従五位下を叙爵された池田朝臣子首は、この郡に含まれる地を出自としていたのであろう。