2022年4月7日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(44) 〔581〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(44)


天平十九年(西暦747年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十九年春正月丁丑朔。廢朝。天皇御南苑宴侍臣。勅曰。朕寢膳違和。延經歳月。顧己推物。尚可矜慈。宜大赦天下救濟憂苦。其自天平十九年正月一日昧爽已前流罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒咸悉赦之。但死罪者降一等。私鑄錢人首。及強竊二盜。常赦所不免者不在赦限。壬辰。國見眞人眞城。改賜大宅眞人姓。丙申。御南苑。宴五位已上。諸司主典已上賜酒肴。」授正四位上智努王從三位。正四位下三原王正四位上。從四位下多治比眞人廣足從四位上。正五位上石川朝臣年足。平群朝臣廣成。正五位下大伴宿祢古慈備。正五位上橘宿祢奈良麻呂並從四位下。正五位下石川朝臣麻呂。百濟王孝忠。紀朝臣宇美並正五位上。從五位下大伴宿祢百世。從五位上巨勢朝臣堺麻呂並正五位下。從五位下當麻眞人鏡麻呂。阿倍朝臣嶋麻呂。藤原朝臣乙麻呂並從五位上。外從五位下大養徳宿祢小東人。正六位上縣犬養宿祢小山守。布勢朝臣宅主。大野朝臣横刀。小野朝臣田守並從五位下。正六位上黄文連伊加麻呂。池上君大歳。葛木連戸主並外從五位下。无位井上内親王二品。无位難波女王。飛鳥田女王並從四位下。无位長柄女王。久勢女王。池上女王並從五位下。无位藤原朝臣殿刀自授正四位上。外從五位上廬郡君從四位下。无位穗積朝臣多理從五位下。癸夘。制令七道諸國沙弥尼等。於當國寺受戒。不須更入京。

正月一日の朝賀を中止している。天皇は南苑に出御して、侍臣を集めて宴を催し、以下のように勅されている・・・朕は朝夕の体の調子が悪くなってから、かなりの歳月を経た。己を顧みて物事を推し量るに、なお憐れみ慈しむべきことがある。そこで全国に大赦を行って人民の憂苦を救おうと思う。天平十九年正月一日の夜明け以前の流罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに罪のあらわれたもの、まだ罪の発覚しないもの、すでに罪の定まったもの、審理中のもの、囚われて現に囚人となっているものなど、悉くその罪を赦す。但し、死罪のものは罪一等を減ずる。贋金造りの主犯、及び強盗・窃盗、通常の赦では許されないものは、いずれも赦免の限りではない・・・。

十六日に「國見眞人眞城」に改めて「大宅眞人」姓を賜っている。二十日に南苑に出御されて、五位以上の官人を集めて宴を催し、六位以上の官人の諸司の主典以上に酒肴を授けている。

またこの日に以下の叙位を行っている。智努王(文室淨三)に從三位、三原王(御原王)に正四位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)に從四位上、石川朝臣年足平群朝臣廣成(平羣朝臣)・大伴宿祢古慈備(祜志備)・橘宿祢奈良麻呂に從四位下、石川朝臣麻呂(君子に併記)百濟王孝忠(①-)・紀朝臣宇美に正五位上、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)巨勢朝臣堺麻呂に正五位下、當麻眞人鏡麻呂阿倍朝臣嶋麻呂藤原朝臣乙麻呂に從五位上、大養徳宿祢小東人(大倭忌寸小東人)縣犬養宿祢小山守(五百依に併記)・布勢朝臣宅主(多祢に併記)・大野朝臣横刀(父親東人に併記)・小野朝臣田守(綱手に併記)に從五位下、黄文連伊加麻呂(許志に併記)・池上君大歳(朝妻金作大歳。養老四[720]年12月、賜池上君姓)・「葛木連戸主」に外從五位下、井上内親王に二品、難波女王(海上女王に併記)・「飛鳥田女王」に從四位下、「長柄女王」・久勢女王・「池上女王」に從五位下、「藤原朝臣殿刀自」に正四位上、廬郡君に從四位下、穗積朝臣多理(老人に併記)に從五位下を授けている。

二十七日に以下のように制している・・・七道諸國の沙彌尼等をその國の寺において受戒させ、入京させないようにせよ・・・。

<國見眞人眞城>
● 國見眞人眞城

「國見眞人」に関する情報は、全く得られず、皆目知られていない一族のようである。「國見」を含む氏姓では、當麻眞人國見が書紀の天武天皇紀に記載されていた。

「當摩公豐濱」の子であり、「眞人」姓は、『八色之姓』の中でも最高位に位置し、十三の「公」姓の氏族に与えられたと記載されている。

本文は「國見眞人眞城。改賜大宅眞人姓」と記載されている。”改”は、”再び、もう一度”の意味を持つ文字と解釈すると、「國見眞人」は、「當麻眞人」から改称されていたのではなかろうか。「當麻眞人國見」は、『壬申の乱』の功臣として褒賞に与り、また後には東宮大傅に任じられたりしている。

國見眞人眞城の既出の文字列である眞城=突き固められたような高台が寄り集まったところと解釈される。図に示した場所がこの人物の出自と推定される。後に「眞木」と表記されるが、木=山稜とすれば、別名として支障がないようである。

賜った大宅眞人大宅=平らな頂の山稜が谷間に長く延びているところであり、古事記の大宅臣(後に大宅朝臣)などで既出の文字列である。「眞城」がある山稜の全体を表す表記と思われる。

續紀全体を調べると、この「大宅眞人」姓は、この人物のみに授けられた氏姓であって、後に國見眞人阿(安)曇が登場する。詳細は略すが(阿曇=台地が炎と雲の傍らにあるところ)、この人物の出自は図に示した場所と推定される。確かに、この場所では「大宅」の地形とは言い難いのである。

また、國見連今虫なる人物も登場する。「眞人」ではなく、出自も図に示した谷間の反対側に当たる場所を示していると思われる。今蟲=三つに岐れた山稜の端(蟲)が覆い被さるように広がり延びている(今)ところと解釈される。どうやら、不詳の「國見」が謎解けたようである。

<葛木連戸主・葛木宿祢大床>
● 葛木連戸主

「葛木連」は、記紀・續紀を通じて初見である。「葛城」と混同してはならないし、ましてや、「葛木王」とも無縁の名称であろう。即ち、「役君小角」が修行をしたと伝えられている「葛木山」の麓の地と推定される(こちら参照)。

葛木=閉じ込められたような地に山稜が延びているところと読み解いた。葛木山、現在の雲取山の南麓の谷間を示している。ところが、現在は福智山ダムとなっていて、正に湖に沈んだ場所である。

また、書紀で記載された畿内の北限、赤石櫛淵と表記された場所と推定した。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、古時点ではダム造成が行われておらず、山稜が犇めく谷間の様相を伺うことができる。

葛木連戸主戸主=真っ直ぐに延びた山稜が戸になっているところと読み解ける。閉じ込められた谷間の「戸」を表しているのである。最終官位正五位下であるが、續紀にもこの後幾度か登場、また他の史書にもかなりの事績が残されているとのことである。

それにもまして、妻の和氣廣蟲(和氣淸麻呂の姉)が女官として活躍されたようである。後に續紀で登場する和氣姉弟の出自とされる備前國藤野(原)郡の場所は、こちら参照。

後(淳仁天皇紀)に葛木宿祢大床が外従五位下を叙爵されて登場する。既に宿祢姓を賜っている。大床=平らに四角く区切られているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。

天平勝寶八歳(756年)に「收集京中孤兒而給衣糧養之。至是。男九人。女一人成人。因賜葛木連姓。編附紫微少忠從五位上葛木連戸主之戸。以成親子之道矣」と記載されていた。その中の一人かもしれない。

● 飛鳥田女王 天武天皇の皇子、舎人親王の娘と知られている。既に親王の多数の子の一人として、出自の場所を求めた。飛鳥=山稜が飛ぶ鳥の形をしているところである。現在は整地されて、当時を偲ぶ術はないが、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、はっきりとその地形を確認することができる(こちら参照)田=平らに整えられた様と解釈して、図に示した場所が出自と推定した。

● 長柄女王 系譜不詳であり、他の手掛かりも得られず、名前の長柄=長く延びた山稜の端が二つに岐れているところとして、難波長柄豐碕宮の近隣を出自とする女王だったと思われる。長らく天皇が行幸される以外は、留守役のように住まっていたのであろう。

<池上女王>
● 池上女王

最終官位が従三位・勳二等となる女王にも拘わらず出自は全く不詳のようである。勳二等は、女官としては最高位とのことで、後の藤原朝臣仲麻呂の謀反に際して与えられたと伝えられている。

初位が従五位下と記載されることから皇孫ではなく、それ以降の後裔であることが分かる。皇族関係で「池」を含む文字列としては、池邉王が登場している。

十市皇女と大友皇子との間に生まれた葛野王の子である。「池」=「川が曲がりくねる様」、「邉」=「近辺」と解釈したが、池上=川辺が曲がりくねっている地の上にあるところと読み解ける。上記の池上君大歳の解釈に類似するが、こちらは”海辺”である。

図に示したように「池邉王」は現在の赤村中学校辺りであり、池上女王は赤村小学校辺りと推定される。葛野王の系列は天智・天武両天皇の血筋となるが、紆余曲折があって、その系譜は欠落していたのかもしれない。

<藤原朝臣殿刀自>
● 藤原朝臣殿刀自

藤原朝臣不比等の娘として記載された資料は残ってなく、大伴宿祢古慈備(祜志備)の室であった娘が殿刀自と推測されている。

前出の藤原朝臣吉日は、「不比等」の娘であることは記録されているが、橘宿祢諸兄の正室であった「多比能」(別名)とされている。

「不比等」の娘であり、かつ娶った相手は当時の重要な人物なのだが、何処か一部の記録が欠如している有様である。それにしても無位からの初見で正四位上、夫の「古慈備」が従四位下である。何かの間違いのような、皇孫以上の叙位であろう。

さて、「殿」=「尻のような様」(尾が生え出ている様)と解釈すると、殿刀自=尻のような地の端で山稜が刀の形をしているところと読み解ける。図に示したように「吉日」の西側の谷間が出自と推定される。兄の藤原朝臣麻呂(京家)、「吉日」と三人が谷間に並んだ配置となる。不比等の娘として納得されるであろう。但し、續紀には二度と登場されることはないようである。

二月丁夘。以去年亢旱年穀不稔。詔爲治産業。賜大臣已下諸司才伎長上已上税布并塩各有差。戊辰。大倭。河内。攝津。近江。伊勢。志摩。丹波。出雲。播磨。美作。備前。備中。紀伊。淡路。讃岐一十五國飢饉。因加賑恤。

二月二十一日、去年はひどい日照りで穀物の作柄が悪かったので、詔されて、産業を治めさせるために、大臣より以下、諸司の才伎長上(常勤の官人)以上の者に身分に応じて税布と塩を授けている。二十二日に大倭・河内・攝津・近江・伊勢・志摩・丹波・出雲・播磨・美作・備前・備中・紀伊・淡路・讃岐の十五ヶ國で飢饉が起こったので、物を恵み与えている。

三月戊寅。命婦從五位下尾張宿祢小倉授從四位下。爲尾張國國造。乙酉。以從四位下藤原朝臣八束爲治部卿。從五位下阿倍朝臣毛人爲玄蕃頭。從五位下大伴宿祢三中爲刑部大判事。從五位下額田部王爲大藏大輔。從五位下布勢朝臣宅主爲右京亮。從五位下楢原造東人爲駿河守。從四位下秦忌寸嶋麻呂爲長門守。丙戌。以從四位下石川朝臣年足爲春宮大夫。」從四位下石川朝臣加美卒。辛夘。改大養徳國。依舊爲大倭國。

三月三日に命婦の尾張宿祢小倉に従四位下を授け、尾張國國造に任じている。十日に以下の人事を行っている。藤原朝臣八束(眞楯)を治部卿、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を玄蕃頭、大伴宿祢三中を刑部大判事、額田部王を大藏大輔、布勢朝臣宅主(多祢に併記)を右京亮、楢原造東人を駿河守、秦忌寸嶋麻呂(朝元に併記)を長門守に任じている。

十一日に石川朝臣年足を春宮大夫に任じている。この日、石川朝臣加美(枚夫に併記)が亡くなっている。十六日に大養徳國を元に戻して大倭國としている。

夏四月己未。紀伊國疫旱。賑給之。丁夘。天皇御南苑。大神神主從六位上大神朝臣伊可保。大倭神主正六位上大倭宿祢水守並授從五位下。」以外從五位下葛井連諸會爲相摸守。

四月十四日、紀伊國に疫病と干害が起こり、物を恵み与えている。二十二日に南苑に出後されて、大神神主の「大神朝臣伊可保」と大倭神主の大倭宿祢水守(大倭忌寸水守)にそれぞれ従五位下を授けている。葛井連諸會(大成に併記)を相模守に任じている。

<大神朝臣伊可保-妹-東方>
● 大神朝臣伊可保

「大神朝臣」は、既に多くの登場人物が記載されていたが、調べると、高市麻呂の後裔であることが分かった。前出に麻呂が登場し、推定した出自の場所から、この人物も同様の系列のように思われたが、記録に残っていないのであろう。

現地名は北九州市小倉北区黒原・霧ヶ丘辺り、砲台山の西麓である。天平九(737)年四月に新羅の無礼振りを報告した四社の大神社・筑紫住吉社・筑紫八幡社・香椎宮の筆頭に記載されていた。

伊可保は、既出の文字列であり、伊可保=谷間に区切られた山稜(伊)が二つに岐れて長く延びた(可)端にある丸く小高い(保)ところと読み解ける。図に示した辺りと推定される。祖父の「高市麻呂」の南側に当たる。麻呂は、資料に残っている弟麻呂かもしれない。

大神神主は、「大神社」を祭祀する役目であろう。現在の立法寺辺りと推定したが、「伊可保」の出自の場所は申し分のないように思われる。尚、大倭神主大倭宿祢水守は、書紀で記載された大倭大神の祭祀を任じられていたのであろう。こちらも、神主と神社の場所は近接していることが分かる。

後(淳仁天皇紀)に女孺の大神朝臣妹が従五位下を叙爵される。妹=女+未=嫋やかに曲がる道が山稜を横切って窪んで(縊れて)いるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。「伊可保」の「保」の地形に関わるところと思われる。

更に後(称徳天皇紀)に同じく女孺の大神朝臣東方が従五位下を叙爵される。東方=四角く区切られた地が谷間を突き抜けるように延びているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。この場限りの登場のようである。

五月丙子朔。以從五位下中臣朝臣益人爲神祇大副。從五位下石川朝臣名人爲少納言。外從五位下文忌寸黒麻呂爲主税頭。從五位下中臣朝臣清麻呂爲尾張守。戊寅。太政官奏曰。封戸人數縁有多少。所輸雜物其數不等。是以。官位同等所給殊差。於法准量。理實不愜。請毎一戸。以正丁五六人中男一人爲率。則用郷別課口二百八十。中男五十。擬爲定數。其田租者毎一戸以卌束爲限。不合加減。奏可之。庚辰。天皇御南苑觀騎射走馬。」是曰。太上天皇詔曰。昔者五月之節常用菖蒲爲縵。比來已停此事。從今而後。非菖蒲縵者勿入宮中。丁亥。地震。庚寅。於南苑講説仁王經。令天下諸國亦同講焉。辛夘。力田外正六位下前部寳公授外從五位下。其妻久米舍人妹女外少初位上。癸巳。近江。讃岐二國飢。賑恤之。

五月一日に以下の人事を行っている。中臣朝臣益人を神祇大副、石川朝臣名人(枚夫に併記)を少納言、文忌寸黒麻呂を主税頭、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を尾張守に任じている。

三日に太政官が次のように奏上している・・・封戸は戸によって人数が多少があるので、封戸が貢納する種々の品物の数量は等しくない。このようなわけで封戸の支給を受ける官人の官職と位階が同等であっても支給される数量には差がでることになる。法律に基づいて考えるに、これではまことに道理に叶わないことである。そこで封戸一戸ごとに正丁五、六人と中男(十七歳から二十歳の男子)一人の人数を標準として、一郷で課口(課役を負担する者)二百八十人、中男五十人の人数を仮に定数としたい。その田租は封戸一戸ごとに稲四十束を限度として、加減しないようにしたい、と思う・・・。奏上の通りに許可されている。

五日に南苑に出御されて、騎射と走馬を観覧されている。この日、太上天皇が次のように詔されている・・・昔は五月五日の節会には常に菖蒲を縵としていたが、近頃はその風が行われなくなっている。今後は菖蒲の縵を着けていない者は宮中に入ってはならない・・・。

十二日に地震が起こっている。十五日に南苑において仁王経を講義させている。天下の諸國にもまた同じく講義させている。十六日に力田(篤農家)である「前部寶公」に外従五位下、その妻の「久米舎人妹女」に外少初位上を授けている。十八日に近江・讃岐の二國に飢饉が起こったので、憐れんで物を与えている。

<前部寶公・久米舎人妹女>
● 前部寶公・久米舎人妹女

「前部」について、元正天皇紀に「後部王同」、本紀では「後部王起」が登場していた。既に述べたように彼等は高麗地域名である「前部・後部」に基づく名称と推察した。

高麗人を武藏國に集団で移住させた経緯があり、多分それに従ったのではなかろうか。倭風名称とは異なっていると思われ、妻の名前から居処を求めてみよう。

頻出である久米=谷間が[く]の字形に曲がって細かく山稜が突き出ているところと解釈した。高麗郡と埼玉郡との境にある谷間、当時は入江になっていたと推測されるが、そこに舎人=谷間にある山稜が延びた端のところとなる。妹=女+未=山稜が途切れて窪んだ様と解釈するが、図に示した辺りを表していると思われる。

前部寶公寶=宀+缶+玉+貝=山稜に挟まれた谷間にふっくらと膨らんだ地と玉のような地がある様と解釈したが、「妹女」の西側の山稜の端の地形を示しているように思われる。地形の変形が大きく詳細を求めるわけにはいかないが、この夫婦によって武藏國の海辺が開拓されていたのではなかろうか。

六月戊申。長門國守從四位下秦忌寸嶋麻呂卒。辛亥。正五位下背奈福信。外正七位下背奈大山。從八位上背奈廣山等八人。賜背奈王姓。外從五位下茨田弓束。從八位上茨田枚野宿祢姓。外從五位下出雲屋麻呂臣姓。己未。於羅城門雩。丁夘。從五位上多治比眞人牛養爲備後守。

六月四日に長門國守の秦忌寸嶋麻呂が亡くなっている。七日に背奈福信(背奈公福信)・「背奈大山・背奈廣山」等八人に背奈王姓を、茨田弓束・「茨田枚野」に宿祢姓を、出雲屋麻呂に臣姓を賜っている。十五日に羅城門(平城宮の正門)において雨乞いを行っている。二十三日に多治比眞人牛養(犢養)を備後守に任じている。

<背奈王福信-大山-廣山>
● 背奈大山・廣山

「背奈福信」は、天平十(738)年三月に外従五位下に叙爵されていた背奈公福信であろう。その後、内位の従五位下となり、既に「背奈王福信」と記載されていた。

ここで登場の大山廣山は、調べると「行文」の息子達であったことが分かった。勿論、「福徳」一家である。要するに、福=山稜が酒樽のように高く盛り上がっている様の傍らではない場所を示していることになる。

大山は、現在の高蔵山及び中腹にある平らな頂の山稜の麓を表していることが解る。作図の関係上で示していないが、こちらを参照すると「大」の地形を確認することができる。

廣山=山が広がっているところであり、図に示した山稜の地形を表していると思われる。おそらく、少し窪んだ谷間が出自と推定される。尚、後に高麗朝臣の氏姓を賜って高麗朝臣大山高麗朝臣廣山と呼称されている。

<茨田宿祢枚野>
● 茨田枚野

弓束に併記できるが、別途図を起こしてみた。宿祢姓の授与に際して、従八位上の人物を記載していることから、枚野は「弓束」の子のようであり、その近隣が出自であろう。

枚野=山稜が細かく岐れた端の傍らに野があるところと解釈すると、智識寺の西側に当たる場所が見出せる。鋳銭次官などに任じられているが、その後に関する記述は見られないようである。

後になるが、図に示した智識寺を初めとする河内國六寺に孝謙天皇が行幸され、仏教信仰が盛んな土地柄だったように思われる。「枚麻呂」は、地方官にも任じられ、その地での写経を行った事績が残っているとのことである。