天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(43)
天平十八年(西暦746年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
五月癸丑。從四位下紀朝臣清人爲武藏守。戊午。外從五位上菅生朝臣古麻呂。巨勢斐太朝臣嶋村。物部依羅朝臣人會。高丘連河内。外從五位下楢原造東人。小治田朝臣諸人。民忌寸眞楫並授從五位下。庚申。禁諸寺競買百姓墾田及園地永爲寺地。丙子。令諸國依舊進仕丁之廝。
五月二日に紀朝臣清人を武藏守に任じている。七日に菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)・巨勢斐太朝臣嶋村(大男に併記)・物部依羅朝臣人會・高丘連河内・楢原造東人・小治田朝臣諸人(當麻に併記)・「民忌寸眞楫」に従五位下を授けている。九日に諸寺が競って人民の墾田及び園地を買い取って永代の寺地とすることが行われているが、これを禁止している。二十五日に諸國に命じて、仕丁の廝(身辺の世話役)廃止していたが旧制の通りに復活させている。
「民直(忌寸)」一族は、書紀の欽明天皇紀に登場し、天武天皇紀には幾人かの子孫が記載されていた。系譜不詳の人物も含めて、現在の田川郡福智町(金田)と糸田町の境の地に居処があったち推定した(こちら参照)。
直近に記載された人物は、「大梶)」であり、最も南側の山稜の端が出自と思われる。眞楫の「楫」は、この人物の別名「大楫」に含まれている。
楫=木+囗+耳=山稜の端にある耳の形に区切られた様と解釈すると、図に示したように二つの「耳」が寄せ集められた(眞)ようなところが見出せる。この谷間が出自の場所と推定される。
「大梶(楫)」は、天平九(737)年九月に外従五位下、天平十二(740)年十一月に従五位下を叙爵されている。また天平十三(741)年四月に、河内國と攝津國とが河の堤の帰属について相争っている場所を調べる使者に任じられた、と記載されて以降の登場は見られない。二人は親子、もしくは兄弟関係のような感じであるが、記録に残っていなかったのであろう。
後(淳仁天皇紀)に民忌寸総麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。総(總)=細かく岐れた山稜が延び出ている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在は宅地開発がなされているが国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、その地形であったことが確認できる。
更に後(称徳天皇紀)に民忌寸古麻呂・民忌寸礒麻呂が登場する。古=丸く小高い様であり、また、既出の礒=石+羊+我=麓でギザギザとした谷間が広がっている様と解釈した。それぞれの地形を図に示した場所に見出せ、出自の場所と推定される。
六月丙戌。地震。壬辰。從五位下高丘王授從四位下。无位大養徳宿祢麻呂女從五位下。己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊昉。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。安置内道塲。自是之後。榮寵日盛。稍乖沙門之行。時人惡之。至是死於徙所。世相傳云。爲藤原廣嗣靈所害。壬寅。以從五位下石川朝臣名人爲内藏頭。從五位下引田朝臣虫麻呂爲木工頭。從五位下物部依羅朝臣人會爲信濃守。從五位下藤原朝臣宿奈麻呂爲越前守。從五位下大伴宿祢家持爲越中守。
秋七月辛亥朔。遣使於畿内祈雨焉。
六月五日に地震が起きている。十一日に高丘王(久勢王に併記)に従四位下、「大養德宿祢麻呂女」に従五位下を授けている。
十八日に僧「玄昉」が死んでいる。「玄昉」は俗人の時の姓を「阿刀」氏(こちら参照)といい、靈龜二(716)年に学問僧として入唐して研鑽を積んでいる。唐の天子(玄宗)は「玄昉」を尊んで、三品に准じて紫の袈裟を着用させている。天平七(735)年に遣唐大使の多治比眞人廣成に随って帰国している。その際、仏教の経典とその注釈書併せて五千余巻と各種の仏像を将来している。日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで僧正に任じ、内道場に安置している。これにより後、天皇の派手やかな寵愛が日毎に深まり、そのため僧侶としての行いに叛く行為がだんだんと多く、当時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所(筑紫觀世音寺)において死んだのであるが、世間では藤原廣嗣の靈によって殺害された、と伝えている。
七月一日に使者を畿内の諸社に派遣して、降雨を祈らせている。
<大養徳宿祢麻呂女> |
● 大養徳宿祢麻呂女
「大養徳宿祢」氏姓は、天平九(737)年十一月に大倭忌寸小東人・水守の二人が「宿祢」姓を賜ったと記載されていた。その後、「大倭」が「大養徳」と名称変更されている。
「宿祢」を賜ったのはこの二人だけで、その他は「連」姓とされたとも付記されている。直近で登場した大養徳忌寸廣庭・佐留は、一族なのだが、更に周辺に出自を持つ人物だったのであろう。
麻呂女は、間違いなく小東人・水守に深く関連する出自を持っていたと思われる。そんな背景を念頭にしてして麻呂=萬呂として読むと、東人の谷間の奧の地が出自の場所ではなかろうか。
「小東人」は、『廣嗣の乱』に連座して天平十三(741)年正月に配流され、天平十六(744)年九月には復帰している。爵位は外従五位下であり、内位となるのは、この後の天平十九(747)年正月である。「麻呂女」は、無位からいきなり従五位下に叙爵されている。残念ながら、関連する他の情報もなく、これ以上の詮索は難しいようである。
八月丁亥。以從五位下伊香王爲雅樂頭。外從五位下土師宿祢牛勝爲諸陵頭。從五位下中臣朝臣益人爲主税頭。外從五位下壬生使主宇太麻呂爲右京亮。壬寅。置齋宮寮。以從五位下路眞人野上爲長官。
九月庚戌朔。外從五位下秦忌寸大魚爲下野守。外從五位下客君狛麻呂爲土左守。壬子。先是縣女王爲齋王。至是發入。大臣已下送出門外。諸司亦送至京外而還。壬戌。地震。癸亥。以從五位下藤原朝臣宿奈麻呂爲上総守。從五位下百濟王敬福爲陸奧守。從五位下大伴宿祢駿河麻呂爲越前守。戊辰。以從五位下紀朝臣廣名爲少納言。正五位下石川朝臣麻呂爲中務大輔。從四位下山背王爲右大舍人頭。從五位下穗積朝臣老人爲内藏頭。從五位下久勢王爲大學頭。從五位上茨田王爲宮内大輔。從五位下多治比眞人木人爲下総守。己巳。以正四位下石上朝臣乙麻呂爲右大弁。從四位下佐伯宿祢清麻呂爲皇后宮大夫。從五位下縣犬養宿祢古麻呂爲治部少輔。從五位下藤原朝臣乙麻呂爲兵部大輔。從五位下阿倍朝臣子嶋爲少輔。從五位下巨勢斐太朝臣嶋村爲刑部少輔。從五位下紀朝臣可比佐爲大藏少輔。從五位下波多朝臣足人爲宮内少輔。從五位下多治比眞人犢養爲左京亮。正五位上平群朝臣廣成爲攝津大夫。正五位上石川朝臣年足爲春宮員外亮。從四位下紀朝臣飯麻呂爲常陸守。從五位下高丘連河内爲伯耆守。從五位上多治比眞人屋主爲備前守。從五位上粟田朝臣馬養爲筑前守。從五位下大伴宿祢百世爲豊前守。甲戌。民部卿從四位上紀朝臣麻呂爲兼右衛士督。戊寅。恭仁宮大極殿施入國分寺。
九月一日に秦忌寸大魚(廣庭の子)を下野守、客君狛麻呂(山背甲作客小友に併記)を土左守に任じている。三日、これより以前に縣女王(安積親王に併記)を「齋王」に任じたが、この日に至って準備が整い、京を出発し、伊勢齋宮に向かっている。大臣以下は門の外まで出て見送り、諸司も、また京外まで出て見送り、帰還している。十三日に地震が起きている。
十四日に藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を上総守、百濟王敬福(①-❽)を陸奥守、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を越前守に任じている。十九日に紀朝臣廣名(宇美に併記)を少納言、石川朝臣麻呂(君子に併記)を中務大輔、山背王(長屋王の子)を右大舎人頭、穗積朝臣老人を内藏頭、久勢王を大学頭、茨田王(茨田女王)を宮内大輔、多治比眞人木人を下総守に任じている。
二十日に石上朝臣乙麻呂を右大弁、佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)を皇后宮大夫、縣犬養宿祢古麻呂を治部少輔、藤原朝臣乙麻呂を兵部大輔、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を少輔、巨勢斐太朝臣嶋村(大男に併記)を刑部少輔、紀朝臣可比佐(飯麻呂に併記)を大藏少輔、波多朝臣足人(孫足)を宮内少輔、多治比眞人犢養(家主に併記)を左京亮、平群朝臣廣成(平羣朝臣)を攝津大夫、石川朝臣年足を春宮員外亮、紀朝臣飯麻呂を常陸守、高丘連河内を伯耆守、多治比眞人屋主(家主に併記)を備前守、粟田朝臣馬養を筑前守、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を豊前守に任じている。
二十五日に民部卿の紀朝臣麻呂(麻路)に右衛士督を兼ねさせている。二十九日に恭仁宮の大極殿を國分寺に施入している。
元正天皇紀に久勢女王(輕皇子の娘と推定)が齋宮に向かう時に百官達が見送ったと記載されていた。今回も、大臣が登場するくらい高位の女王と考えることもできるが、そうではなく、平城門の南側が出立の場所だったからではなかろうか。尚、齋王の表記は、記紀・續紀を通じての初見と思われる。
閏九月乙酉。无位塩燒王授本位正四位下。從五位下百濟王敬福從五位上。戊子。正六位上依羅我孫忍麻呂授外從五位下。從五位下高橋朝臣國足爲越後守。辛夘。地震。
閏九月七日に鹽燒王(罰せられて無位)に本位の正四位下、百濟王敬福(①-❽)に従五位上を授けている。十日に「依羅我孫忍麻呂」に外従五位下を授けている。また、高橋朝臣國足を越後守に任じている。十三日に地震が起きている。
● 依羅我孫忍麻呂
唐突の叙爵であるが、後の天平勝寶二(750)年八月に「攝津國住吉郡」の住人であることが記載されている。と言っても、「住吉郡」そのものが初見のようである。先ずは、この郡の所在を求めてみよう。
「住吉」の文字列は既出であって、書紀の天武天皇紀に「住吉大神」、文武天皇紀では「住吉社」として記載されていた(こちら参照)。現地名は京都郡みやこ町稲光の山稜の端辺りと推定した。
住吉=谷間にある真っ直ぐに延びる山稜が蓋のようになっているところと解釈した。現在の矢留山塊を表していることが解る。住吉郡は、山塊の西側、即ち、今川(犀川)に挟まれた山麓の地を示していると思われる。
依羅我孫忍麻呂の文字解釈を行うと、「依羅」も既出の文字列であって、上記で信濃守に任じられた物部依羅朝臣人會に含まれている。依羅=谷間に延び出た山稜の端の三角州が連なり並んでいるところと解釈した。主稜線から延びた枝稜線が並び揃っている地形を表している。図に示した「住吉」の北側の山麓の場所と思われる。
「我孫」の文字列は、記紀・續紀を通じて初見である。一文字一文字を読み解くと、我=ギザギザとした様、孫=子+系=連なる山稜で生え出たような様となる。矢留山の山塊において北部の地形を表していることが解る。西側は「我」が示す「依羅」の地形であり、東側も「依羅」ほど揃ってはいないが、同じように山麓がギザギザとしていることが伺える。
依羅我孫は、上図で示した山塊を表現したものと解釈される。名前の忍麻呂は、古事記で「忍坂・忍海」で解釈したように「忍」=「一見では[坂・海]とは分からない様」とすると、忍麻呂=一見では[麻呂=丸]とは分からないところと読み解ける。即ち、この人物の出自は、二つの山稜に挟まれて、谷間の奥が隠されたようになっている場所を示していると思われる。
この地は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、建豐波豆羅和氣王が祖となった忍海部造の場所と推定した。攝津國に渡来した人物が重用される蔭で細々と世代を繋げていたのであろう。次に登場される時には「宿祢」姓を賜っている。
冬十月癸丑。日向國風雨共發。養蚕損傷。仍免調庸。甲寅。天皇。太上天皇。皇后行幸金鍾寺。燃燈供養盧舍那佛。佛前後燈一万五千七百餘坏。夜至一更。使數千僧令擎脂燭。讃歎供養繞佛三匝。至三更而還宮。丁巳。令安藝國造舶二艘。丁夘。從四位下下道朝臣眞備賜姓吉備朝臣。癸酉。正五位下百濟王孝忠爲大宰大貳。
十月五日に日向國で風雨が激しく、養蚕に被害があったので調・庸を免除している。六日に天皇・太上天皇・皇后が金鐘寺に行幸し、燈火を灯して廬舎那仏を供養している。仏の前後には燈火が一万五千七百余基置かれ、夜一更(午後七時から九時)に至る頃に数千人の僧侶に脂燭(夜間の照明具)を捧げさせ、讚歎して供養し、仏の周囲を三度回らせている。三更(午後十一時から午前一時)に至って、天皇等は宮に還っている。
十一月壬午。以春宮員外亮正五位上石川朝臣年足爲左中弁。從五位下笠朝臣蓑麻呂爲中務少輔。從五位上巨勢朝臣堺麻呂爲式部大輔。從五位下大伴宿祢犬養爲少輔。從四位下石川朝臣加美爲兵部卿。
十二月丁巳。停七道鎭撫使。又京畿内及諸國兵士依舊點差。
是年。渤海人及鐵利惣一千一百餘人慕化來朝。安置出羽國。給衣粮放還。
十二月十日に七道の鎮撫使を停止している。また京・畿内及び諸國の兵士を元の制度(大寶令制)によって調べて徴発している。
この年に「渤海」の人と「鐵利」の人合わせて一千一百余人が天皇の德を慕って渡来して来ている。彼等を出羽國に置いて保護し、衣食を与えて放ち帰国させている。
渤海・鐵利の「渤海」は、神龜四(727)年九月に渤海郡王の使者が出羽國に来着したと記載されていた。その後来朝したり、また使者を派遣したりの交流があったようである(こちら参照)。「鐵利」は、「靺鞨」の一分派で、741年に渤海に併合されたと知られている。今回も出羽國に一旦受け入れても、その地に住まわせることはなく、帰している。
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『續日本紀』巻十六巻尾