2021年4月29日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(13) 〔509〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(13)


和銅六年(西暦713年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月戊辰。備前國獻白鳩。伯耆國獻嘉瓜。左京職獻稗化爲禾一莖。丙子。從四位下行伊福部女王卒。丁亥。授正四位上巨勢朝臣麻呂。正四位下石川朝臣宮麻呂並從三位。无位門部王從四位下。无位高安王從五位下。正五位上阿倍朝臣廣庭。笠朝臣麻呂。多治比眞人三宅麻呂。藤原朝臣武智麻呂並從四位下。正六位下巨勢朝臣安麻呂。正七位上石川朝臣君子。從六位下佐伯宿祢沙弥麻呂。正七位上久米朝臣麻呂。正七位下大神朝臣興志。從七位下榎井朝臣廣國。正六位上大藏忌寸老。錦部連道麻呂。伊吉連古麻呂並從五位下。

正月四日に備前國が「白鳩」を、伯耆國が「嘉瓜」を、左京職が「稗が変化して稲になったもの」を一茎献上している。十二日に「伊福部女王」が亡くなっている。<「行」が冠位の後に付加されているが、律令制では冠位が官職より高い場合に用いられるとのこと。女王の官職?…であり、些か不明な表現となっているようである>

二十三日に巨勢朝臣麻呂石川朝臣宮麻呂に從三位、門部王に從四位下、高安王(父親?の竹田王に併記)に從五位下、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)・笠朝臣麻呂多治比眞人三宅麻呂藤原朝臣武智麻呂に從四位下、「巨勢朝臣安麻呂」・「石川朝臣君子」・「佐伯宿祢沙弥麻呂」・久米朝臣麻呂(尾張麻呂に併記)・大神朝臣興志(兄の忍人に併記)・「榎井朝臣廣國」・「大藏忌寸老」・錦部連道麻呂伊吉連古麻呂に從五位下を授けている。

<備前國:白鳩>
備前國:白鳩

文武天皇即位二年(698年)に侏儒備前國が赤烏を献上した記事があった。「侏儒」の解釈が実に興味深いところであったが、詳細は原報を参照願って、白鳩探しに入る。

山深く山稜の地形が明確な地では、鳥を見つけるのが、極めて様になるようである。烏の南側に鳩=ふっくらと丸みを帯びた鳥が二羽並んでいる場所が見出せる。その麓の地を開拓したのであろう。

余談だが、数日前に千葉県船橋市の畑で白雉が見つかり、その写真が新聞記事に載っていた。吉兆をもたらすか?・・・とのことだが、「令和」を止めて「白雉」にでもしないと有難味がないのかも、である。

勿論、本著は下総國ではなく、香春二ノ岳と三ノ岳の間にある平坦な頂(「麻山」と推定)の麓(宍戸國)に鎮座していると解釈したが・・・こちら参照。

<伯耆國:嘉瓜>
伯耆國:嘉瓜

「伯耆國」は現在の宗像市池田を中心とした地域であったと推定した。狭い谷間が海老のように曲がって延びた(伯耆)その先に広がる丘陵の地形である。

「瓜」の地形は頻出に近いほど多く登場する地形であり、それらしきところは幾つか見出せる。やはり「嘉」の文字で伝えるところがあると思われる。

「嘉」=「壴+加」と分解される。「壴」=「鼓(ツヅミ)」を象った文字と知られる。書紀で伊豆嶋の火山爆発による鼓音の記載があった。それが表す地形は大きく湾曲した形であると解釈した。

纏めると嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と読み解ける。図に示した場所と推定される。谷間に瓜の形の地がぶら下がっていると見るのではなく、押し開くのが適切であろう。通常の意味の「嘉」の文字が上手く嵌ったわけである。が、一体如何なる瓜かと問われても答えはなし、なのである。

<左京職:稗化爲禾>
左京職:稗化爲禾

「左京職」(宮内の東側にある役所)も参加の献上物語なのだが、これは少しばかり風変わりな稲を一茎差し出したと解釈しても差し障りはないように思われるが、やはり文脈上何処かを整地したのではなかろうか。

と言うことで、平城宮の周辺を探索することになる。図に平城宮の場所及び左右京職を示した。

すると左京職の場所近隣に山稜の端が米粒のように延びている場所が見出せる。多分山麓の地で広さが不十分で少々手を加えなければならなかったのであろう。

何故「稗」を持ち出して来たのかは、「稗」の丸く扁平な形状から米粒のような細長い粒状の地形となったことを告げているように思われる。ともかくも平城宮が左右対称ではなくそれぞれ個性があったことを知らしめているように伺える。

<伊福部女王>
● 伊福部女王

この女王の出自に関しては全く情報がないようである。後に續紀中同名の人物が登場するが、年代が異なる。また書紀では伊福部連(因幡國)が宿禰姓を賜った記述があるくらいでその出自は不詳と思われる。

そんな背景で「福」の文字に着目して考察すると神社福草の名前の人物が登場していた。香春一ノ岳の東南麓の山稜が示す地形を象った表記と解釈した。

伊福部=谷間で区切られた山稜の端が酒樽のような高台となっている地の近隣と読み解ける。どうやら「池邉宮」を出自とした女王だったのではなかろうか。逝去が記載されるくらいだから天皇に親い系譜だったのであろう。

<巨勢朝臣安麻呂>
● 巨勢朝臣安麻呂

大勢の「巨勢朝臣」が登場して来たが、その多くは系譜が知られていて、居場所もある程度見定めることが可能であった。然るにこの人物、しかも「安麻呂」と言う最も用いられている名前なのであるが、素性が掴まらない。

「安麻呂」である以上谷間がきちんと見られる地形であるとして、直近でしばしば登場される巨勢朝臣邑治(祖父)辺りで求めてみよう。

すると近隣にそれらしき谷間が、些か小ぶりだが、見出せる。勿論この地に出自を持つ人物の出現はなく、空いていた地である。

どう見ても「祖父」あるいはその父親の「黑麻呂」に関わる系譜のように思われるが、確たるところは定かではない。叙位前の爵位は正六位下、それほど低くもなく、由緒ある若手だったと推測される。

<石川朝臣君子・樽・麻呂>
● 石川朝臣君子

「石川朝臣」の登場も夥しく、かつ土地が狭い故にかなり密な配置となっている。また系譜がはっきりしているのは「連子」大臣系列だけのようである。それなりの理由が憶測されるが、後日としよう。

この人物も系譜は定かではなく、少々調べてから出自の場所を探索しようかと思う。別名に吉美侯があったようで、これは重要な情報を提供してくると期待できる。

初出の「候」の文字から読み解くことにする。「侯」=「人+厂+矢」から成る文字と知られる。地形を表す文字要素からなっていることが解り、「侯」=「山麓の谷間にある矢のような様」と解釈される。

吉美侯の語順が重要で、纏めると吉美侯=山麓の谷間が広がった地が矢のような山稜で蓋をされたところと読み解ける。これで図に示した場所に特定することが可能となったと思われる。君子とは何とも洒落た表記を用いたものでろう。前出の「小老」との関りがあるようだが、不明である。

後(元正天皇紀)に石川朝臣樽・石川朝臣麻呂が登場する。樽=山稜が樽のような様と解釈すると、図に示した山稜の麓が出自の場所と思われる。「麻呂」は「萬呂」とすると、「君子」と「樽」に挟まれた場所と思われる。石川朝臣一族における系譜は知られていないようである。

<佐伯宿祢沙弥麻呂>
● 佐伯宿祢沙弥麻呂

調べると佐伯連子麻呂の孫、父親は「家主」と記載されている。佐伯の谷間の最も北側の谷間が出自の場所と推定される。「子麻呂」は『乙巳の変』で一躍脚光を浴びて歴史の表舞台に躍り出たと、書紀が語っていた人物である。

家主家=宀+豕=山稜の端が豚の口のような様であり、「子麻呂」の南側にある真っ直ぐに延びた()の山稜の端辺りが出自の場所と思われる。

沙彌=水辺で山稜の端が削られたように薄く延びて広がった様であり、図に示した谷間が少し広がった場所が沙彌麻呂の出自と推定される。

「子麻呂」の系列では「大目」の活躍が記載されていたが、その兄弟の「家主」は目立っていなかったが、その子が後に正五位下信濃守に任じられている。

<榎井朝臣廣國>
● 榎井朝臣廣國

「榎井朝臣」は元は「物部朴井連」一族であって、改名して「榎井朝臣」を賜ったと記載されていた。調べると倭麻呂の子であると知られている。すると倭麻呂の山稜の端が広がった場所を示していると思われる。

この人物の南側は「韓國連廣足」の出自の場所と推定したがこの地の山稜の端が東谷川沿いに広がっている地形に基づいた命名であろう。

後には従四位下大倭守になったと伝えられている。それなりに活躍されたようである。

<大藏忌寸老・伎國足・廣足>
● 大藏忌寸老

「大藏忌寸」の出自の場所は、前出の大藏直廣隅の近辺と推測される。更に遡れば「大藏衣縫造」の地、現地名では田川郡香春町五徳の谷間と思われる。

図に示したように「廣隅」の北側、五徳川が大きく蛇行する川辺がの場所と推定される。この後の登場も少なく、十年後の叙位で従五位上を授けられたという記事が記載されているのみである。

後(元正天皇紀)に大藏忌寸伎國足が登場する。伎國足=谷間が岐れた傍らの大地が足のように延びているところと読み解くと、図に示した「老」の北側に接する場所を表していると思われる。

更に後(聖武天皇紀)に大藏忌寸廣足が登場する。廣足=山稜が広がった足のように延びているところと読み解ける。出自は、「老」と「伎國足」に挟まれた場所と推定される。

二月甲午朔。日有蝕之。壬子。始制度量調庸義倉等類五條事。語具別格。丙辰。志摩國疫。給藥救之。

二月一日に日蝕になっている。十九日、度・量・調・庸・義倉等の類について初めて五箇条を制定しているが、詳細は別途と記している。二十三日に志摩國で疫病が発生し、医薬を給して救済している。

三月壬午。詔曰。任郡司少領以上者。性識清廉。雖堪時務。而蓄錢乏少。不滿六貫。自今以後。不得遷任。」又詔。諸國之地。江山遐阻。負擔之輩。久苦行役。具備資粮。闕納貢之恒數。減損重負。恐饉路之不少。宜各持一嚢錢。作當爐給。永省勞費。往還得便。宜國郡司等。募豪富家。置米路側。任其賣買。一年之内。賣米一百斛以上者。以名奏聞。又賣買田。以錢爲價。若以他物爲價。田并其物共爲沒官。或有糺告者。則給告人。賣及買人並科違勅罪。郡司不加検校。違十事以上。即解其任。九事以下量降考第。國司者式部監察。計違附考。或雖非用錢。而情願通商者聽之。

三月十九日に以下のことを詔されている。概略は、郡司の少領以上の者は、意識が清廉潔白で、その時の業務に堪能であっても銭の蓄えが六貫にも満たない者を今後は遷任(他職からの転任)してはならない。また次のようにも述べている。諸國は川や山に阻まれて調・庸などを運ぶ者にとっては永らく苦しめらている。持ち運ぶ物資・食料の量を減らしても貢物あるいは食料の不足が生じてしまう。一袋の銭を携帯すれば事なきを得る筈である。そのために國郡司は道端に米を置いて売買できるようにし、一年で百石以上を売った者の名前を奏上せよ、と詔している。更に続けて、田の売買についても銭を用いること、反すれば罪を科し、郡司の取締りが不十分で、度が過ぎると解任もある。國司もその勤務評定に反省するべし、と述べている。




 

2021年4月25日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(12) 〔508〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(12)


和銅五年(西暦712年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月丁酉朔。割陸奥國最上置賜二郡隷出羽國焉。癸丑。禁六位已下及官人等服用蘇芳色并賣買。丙辰。從四位上息長眞人老卒。甲子。遣新羅使等辞見。乙丑。詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。

十月一日に陸奥國の「最上・置賜」の二郡を割いて「出羽國」に属させている。十七日に六位以下及び官人が蘇芳色(黒味を帯びた赤色)の服を着用すること並びに売買することを禁じている。二十日に息長眞人老が亡くなっている。二十八日、遣新羅使等が辞見(使者などが出退時に拝謁する儀礼)している。

二十九日に以下のことを詔されている。概要は、諸國の役夫・運脚が帰郷する際に食料が乏しく、郷に到達できないことがある。そこで群稲を割いて、役夫が買えるようにせよ、また旅人には必ず銭を持たせるようにせよ、と述べている。重い荷物を担ぐことなく銭の便利さを知らしめるようにせよ、とも述べている。

<出羽國:最上郡・置賜郡>
出羽國:最上郡・置賜郡

前記で北方領土は一度や二度の征伐ではなかなか思うように統治できず、国を建てて、しっかりと防備を固める必要があると説いていた。

一瞬、越後國で郡別した出羽郡を母体した地域かと思われたが、この記事で陸奥國の近隣に設けられたことが分った。

先ずは陸奥國の「最上郡・置賜郡」の場所を求めてみよう。「最」の文字は記紀を通じて地形象形に用いられたことがないようで、あらためてこの文字を読み解いてみよう。

「最」=「冃+取」と分解される。更に幾度か登場の「取」=「耳+又」と分解され、「取」=「山稜の傍らに耳の形の地がある様」と読み解いた。「冃」=「覆い被さる様」を表す文字要素と知られる。纏めると最=山稜の傍らに耳の形の地があるところに覆い被さる様と読み解ける。「最」は古事記で登場した相津の地を表し、その上流地域を最上郡と名付けていたと推定される。

置賜郡の幾度か養生の「置」=「网+直」=「網ように真っ直ぐに並んだ山稜がある谷間」と読み解いた。初登場の「賜」=「貝+易」と分解される。「易」=「蜥蜴」を象った文字と知られ、「平らに細長く延びる様」を表している。「賜」=「谷間が平らに細長く延びる様」と解釈される。纏めると置賜=網の様に真っ直ぐに並んだ山稜がある谷間が平らに細長く延びている様と読み解ける。

図に示した場所にこの二つの郡があったと推定される。出羽國は、それらの北側、山稜の端がのように延びた地域を示すと思われる。二郡を併合したという記述と整合性のある位置関係であることが解る。前出の金上元國覓忌寸八嶋の居場所が隣接あるいは含まれる地だったと思われる。

従来より「置賜郡」の前身は陸奧國優𡺸曇郡(図中”𡺸”はフォントの都合上”耆”を用いた)と言われているようだが、全く受け入れることのできない推論であろう。置賜(オキタマ)の「易(蜥蜴)」と優𡺸曇(ウキタマ)の「老(海老)」の地形は前身ではないことを表し、更に「優𡺸曇郡」は陸奥國の主たる地域である。文字が解読されず、読みが似ているとして、その場所が不詳のままの推論では、主要場所を他國に併合することになる。

十一月辛巳。加左右弁官史生各六人。通前十六員。乙酉。從三位阿倍朝臣宿奈麻呂言。從五位上引田朝臣邇閇。正七位上引田朝臣東人。從七位上引田朝臣船人。從七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣太麻呂。无位長田朝臣多祁留等六人。實是阿部氏正宗。与宿奈麻呂無異。但縁居處更成別氏。於理斟酌良可哀矜。今宿奈麻呂特蒙天恩。已歸本姓。然此人等未霑聖澤。冀望。各止別氏。倶蒙本姓。詔許之。

十一月十六日に左右の弁官に史生六人追加し、併せて十六人としている。二十日、阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が次のように言上している。引田朝臣邇閇(爾閇)・「引田朝臣東人」・「引田朝臣船人」・「久努朝臣御田次」・「長田朝臣太麻呂」・「長田朝臣多祁留」等の六人は、阿部氏の正宗で、「宿奈麻呂」とは異なることがなく、居所に拠って別氏となった。道理を斟酌すると真に不憫なことと思う。今、「宿奈麻呂」は天皇の特別の恩恵を受けて本姓(阿倍朝臣)に戻っており、願わくは別氏を止めて本姓に帰したく、と言上し、許されている。

<引田朝臣・久努朝臣・長田朝臣>
● 引田朝臣東人・船人

「引田朝臣邇閇」は爾閇の表記で既に登場していた。図に示した引田の地の最も北側に位置する場所と推定された。

その南側にの形の地が見出せる。現在は大きな池に突き出た山稜の端であるが、当時はおそらく川辺の場所だったのではなかろうか。船人の居場所は、些か曖昧である。

更に「爾閇」、「船人」の地に抜ける谷間が東=突き通る様を示していると思われる。東人の出自の場所と推定される。幾度も用いられている名前の一つである。

「引田朝臣祖父」(武藏守、爾閇に併記)など他にも幾人かが登場していたが、爵位からしても若手の登用、ひいては「宿奈麻呂」の派閥の拡充狙いだったのかもしれない。

● 久努朝臣御田次 久努朝臣は既に登場した久努臣麻呂の系譜であろう。場所は、阿倍朝臣に返り咲いた狛朝臣秋麻呂の西側に当たる。御田次=次々と積み重なる田を束ねる様と読み解ける。残念ながら現在の墓場の地形では、それを伺うことは叶わないが、おそらく棚田が広がっていたのではなかろうか。

● 長田朝臣太麻呂・多祁留 「阿倍」の地に「長田」はないであろう…と訝ることは全くなしである。「久努」の西側の谷間がその地形を示している。太麻呂=大きく広がって平らな積み重なった様とすれば図に示した山麓辺りが出自の場所と推定される。幾度も登場の文字列である多祁留=山稜の端が寄り集まった高台で谷間の隙間が押し広げられた様と読み解ける。「太麻呂」の南側に位置する場所と推定される。

既に復帰の願いが叶った「狛」、それに加えて「引田」、「久努」、「長田」の別氏が「阿倍」を名乗ることができたようである。離合集散の一族だった、と伝えているようである。現在は広大な墓所となっていることも、この一族の本来の”離散”の性を示しているように感じられる。

十二月辛丑。制。諸司人等衣服之作。或褾狹小。或裾大長。又衽之相過甚淺。行趨之時易開。如此之服。大成無礼。宜令所司嚴加禁止。又无位朝服。自今以後。皆著襴黄衣。襴廣一尺二寸以下。」又諸国所送調庸等物。以錢換。宜以錢五文准布一常。己酉。東西二市始置史生各二員。丁巳。有司奏。自今以後。公文錯誤。内印著了。事須改正者。少納言宜申官長。然後更奏印之。

十二月七日に以下のように制定している。概略は、諸司の衣服に関することで、褾(袖口)、裾、衽(おくび、着物の左右の前身頃に縫いつけた細長い布)の体裁が乱れていると指摘し、厳しく禁じている。加えて無位の者についても規定している。また調・庸を銭で賄う時の換金の基準を記載している。

十五日に東西の二市に初めて史生二名をそれぞれ置いている。二十三日、有司(官人)が以下のように奏上している。内印(天皇の押印)が終わってから公文に錯誤があった場合、少納言が官長(太政官の長官)に申告し、あらためて奏上して内印するべき、と述べている。

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『續日本紀』巻五巻尾。

2021年4月21日水曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(11) 〔507〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(11)


和銅五年(西暦712年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月壬申。駿河國疫。給藥療之。癸酉。禁六位已下以白銅及銀餝革帶。辛巳。詔曰。諸國大税。三年賑貸者。本爲恤濟百姓窮乏。今國郡司及里長等。縁此恩借妄生方便。害政蠧民莫斯爲甚。如顧潤身。枉收利者。以重論之。罪在不赦。甲申。初定國司巡行并遷代時給粮馬脚夫之法。語具別式。太政官奏稱。郡司有能繁殖戸口。増益調庸。勸課農桑。人少匱乏。禁斷逋逃。肅清盜賊。籍帳皆實。戸口無遺。割斷合理。獄訟無寃。在職匪懈。立身清愼。〈其一〉居官貧濁。處事不平。職用既闕。公務不擧。侵沒百姓。請託公施。肆行奸猾。以求名官。田疇不開。減闕租調。籍帳多虚。口丁無實。逋逃在境。畋遊無度。〈其二〉又百姓精務農桑。産業日長。助養窮乏。存活獨惸。孝悌聞閭。材識堪幹。〈其三〉若有郡司及百姓准上三條有合三勾以上者。國司具状附朝集使。擧聞。奏可之。乙酉。詔諸司主典以上。并諸國朝集使等曰。制法以來。年月淹久。未熟律令。多有過失。自今以後。若有違令者。即准其犯。依律科斷。其彈正者。月別三度。巡察諸司。糺正非違。若有廢闕者。乃具事状。移送式部。考日勘問。又國司因公事入京者。宜差堪知其事者充使。使人亦宜問知事状。並惣知在任以來年別状迹。随問弁荅。不得礙滯。若有不盡者。所由官人及使人。並准上科斷。自今以後。毎年遣巡察使。検校國内豊儉得失。宜使者至日。意存公平。直告莫隱。若有經問發覺者。科斷如前。凡國司。毎年實録官人等功過行能并景迹。皆附考状申送式部省。省宜勘會巡察所見。丙申。太政官處分。凡位記印者。請於太政官。下諸國符印者申於弁官。

五月四日に駿河國で疫病が発生し、医薬を給して治療させている。五日、六位以下の者が白銅及び銀を用いて革帯を飾ることを禁じている。十三日に以下のように詔している。概要は、諸國の貸し付けの大税を三年間無利息するのは、百姓の窮乏を救済するためである。しかるにそれを良いことに國郡司及び里長などが私利を増やそうとしている。これは重罪であって、恩赦の対象からも外す、と述べている。

十六日に初めて國司の巡行や交替の時の食料・馬・脚夫の支給方法を定めている。詳細は別途と記されているが、参考資料によれば『令集解』に記載されているそうである。また郡司及び百姓(人民)の評価ついて太政官が奏上している。概略は、郡司については、戸口・庸調を増やし、盗賊を取締ったりして職を怠らず身の処し方が潔白な者<其一>、それとは対照的な開墾もせず、名声を求めて租税を減じたりして官でありながら欲深い者<其二>、百姓でありながら生業に勤しみ窮者を助けるなど父母や目上によく仕えて才能や知識のある者<其三>として、郡司及び百姓で上記三条の中の三項目に該当するする者を國司が朝集使(国内の政治の状況を中央政府に報告する使者)に付託して報告させるようにしたい、と述べている。

十七日に諸司の主典以上並びに朝集使等に詔されている。概略は、律令が定められて久しいが、未だに不慣れで過失が多い。令に違反する者は処罰の対象とし、弾正台は毎月三回諸司の巡察結果を式部省に報告せよ。國司が京に入って報告する際の担当者はそれに対応できる者を当てよと指示している。毎年巡察使を遣わして国情を調べさせるが、國司の報告との異同を確認するようにせよ、勿論食い違いがあれば処罰の対象となる、と述べている。

二十八日、太政官処分が記されている。全ての位記の印は太政官に申請せよ、また諸國符の印は弁官に申請せよと、している。

六月乙巳。地震。
秋七月壬午。伊賀國獻玄狐。」令伊勢。尾張。參河。駿河。伊豆。近江。越前。丹波。但馬。因幡。伯耆。出雲。播磨。備前。備中。備後。安藝。紀伊。阿波。伊豫。讃岐等廿一國。始織綾錦。甲申。播磨國大目從八位上樂浪河内。勤造正倉。能効功績。進位一階。賜絁十疋。布卅端。

六月七日に地震があったと記している。

七月十五日、伊賀國が「玄狐」を献上している。また、伊勢・尾張・參河・駿河・伊豆・近江・越前・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・播磨・備前・備中・備後・安藝・紀伊・阿波・伊豫・讃岐等の二十一國(こちらこちら参照)に初めて綾・錦を織らせている。玄狐」は土地を開拓したのではない?…かもしれないが、下記で詳述する。直ぐ後に天皇が言及されている(祥瑞黒狐)。

十七日に播磨國大目の「樂浪河内」の正倉造営の功績に報いて進位一階し、絹・綿布などを与えている。尚「正倉」(律令制において中央・地方の官衙や寺院など公的な施設に設置された穀物や財物を保管する倉庫のこと)と解説されている。

<樂浪河内>
● 樂浪河内

この人物は極めて有能であったらしく、後には「高丘連」姓を授かり、正五位下大学頭を務めている。天智天皇即位二年(663年)頃に百濟から帰化した一族の後裔と知られているようで、『白村江』前後の混乱の時である。

後に記載されるが、この一族は河内國古市郡に住まったようである。「樂浪」は倭風の名称ではないように見えるが、地形象形表記であることには違いないであろう。

樂=糸+糸+白+木=山稜に挟まれた丸く小高い様と読み解く。幾度か登場の「藥」の文字に類する解釈である。浪=氵+良=水辺でなだらかな様であり、その地形を「古市郡」に求めると図に示した場所と推定される。現地名は行橋市大字福丸(福永)である。現在の小波瀬川と山崎川に挟まれた山稜の麓、それを河内と表現としたのであろう。

後(聖武天皇紀)に高丘連の氏姓を賜ったと記載されている。高=皺が寄ったような様であり、地図に記載された筋状の山稜が延びている様を表現したものと思われる。現在の標高(約10m)から、「河内」の居処の東側は当時では海面下にあったと推測される。「河内」と言える、ぎりぎりの場所だったようである。

八月庚子。太政官處分。諸國之郡之郡稻乏少。給用之日有致廢闕。宜准國大小。割取大税。以充郡稻。相通出擧。所息之利。隨即充用。事須取足。勿令乏少。但割配本數。不令減損。自今以後。永爲恒例。庚申。行幸高安城。

八月三日に太政官処分が公布されている。概要は、諸國の郡稻(國司管理下で郡に分置したもの)が少なく、必要な時に欠乏してしまうことがある。それで國の大小に準じて、今後は大税を割り当ててることにするが、その税の限度以下まで割くことは控えよ、と記載されている。二十三日、高安城に行幸されている。これは、多分、前記の河内國高安烽があった場所であろう。

九月己巳。詔曰。故左大臣正二位多治比眞人嶋之妻家原音那。贈右大臣從二位大伴宿祢御行之妻紀朝臣音那。並以夫存之日。相勸爲國之道。夫亡之後。固守同墳之意。朕思彼貞節。感歎之深。宜此二人各賜邑五十戸。其家原音那加賜連姓。」又詔曰。朕聞。舊老相傳云。子年者穀實不宜。而天地垂祐。今茲大稔。古賢王有言。祥瑞之美無以加豊年。况復伊賀國司阿直敬等所獻黒狐。即合上瑞。其文云。王者治致太平。則見。思与衆庶共此歡慶。宜大赦天下。其強竊二盜常赦所不免者。並不在赦限。但私鑄錢者。降罪一等。其伊賀國司目已上。進位一階。出瑞郡免庸。獲瑞人戸給復三年。又天下諸國今年田租。并大和。河内。山背三國調。並原免之。庚午。授正六位上阿直敬從五位下。辛巳。觀成法師爲大僧都。弁通法師爲少僧都。觀智法師爲律師。乙酉。以從五位下道君首名。爲遣新羅大使。己丑。太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。奏可之。於是始置出羽國。乙未。禁取三關人爲帳内資人。

九月三日に以下のことを詔されている。概略は、「家原音那」(故左大臣多治比眞人嶋の妻)と「紀朝臣音那」(故右大臣大伴宿祢御行の妻)は、夫存命中には国を治める道を勧め、夫の死後(共に12年間)では墓を共にすることを固く守り、その貞節に感嘆させられる。依って食封各々五十戸を与え、「家原」には連姓を授ける、と述べている。元明天皇自らに重なる、かもである。糟糠の妻としての内助の功を讃えた褒賞であろう。

また故老が言うには子の年(和銅五年も)には穀物の実が良く稔らないとのことだが、加えて古の賢王が、祥瑞が良いといえども豊作の年には及ばないとも言う。ところが、今年は豊作である上に伊賀國司の「阿直敬」等が「黒狐」を献上した。これは上瑞であって、王が世の中を良く治めて太平の世に至らしめる時に現れるとのことである。

拠って大赦を行うが、強盗などは外し、また私鑄錢者は罪一等を減じることにする。伊賀國司の目以上は進位一階、当該の郡の庸を、瑞を獲えた戸の租税を三年間免除すると、述べている。併せて諸國の今年の田租を、「大和」・河内・山背の三國の調を免除すると記している。大和の表記は「記紀」を通じて初出である。以後大倭と混在するようであるが、詳細は後日とする。

四日に「阿直敬」に從五位下を授けている。十五日、觀成法師を大僧都、弁通法師を少僧都、觀智法師を律師としている。十九日に道君首名を遣新羅大使に任じている。

二十三日に太政官が以下のことを奏上している。國を建て領土を開くには戦の手柄を貴び、官衙を設けて礼法による教化を貴ぶ。しかるに北方の蝦狄は都から遠く険しい地であることから狂気の心を恣にしてしばしば辺境を脅かしている。そこで官軍が攻めて凶賊を霧散させ、今は安らかな地となっている。この機に乗じて一國を設け、人民を永らく鎮撫することを申し上げる、と記載している。これを可とし、「出羽國」(次回に詳細を述べる)を初めて設置している。

二十九日に三關(鈴鹿關不破關愛発關)の人を採用して帳内・資人とすることを禁じている。憶測するに国防上の拠点なのだが、平時は余剰の人材が屯する地であり、その人材を採用したがる傾向だったのであろう。それにしても平和な時を謳歌している様相である。

<家原音那・家原連河内-大道-首名>
● 家原音那

多治比眞人嶋の妻なのだが、氏が「家原」、名が「音那」と解釈されるが、Wikipediaによると「音那=女」なのだそうである。

次に登場する「紀朝臣音那」にも用いられているところからもそれらしき雰囲気なのだが、これは間違いなく地形に基づく名称と思われる。

頻出の文字である家=宀+豕=谷間にある豚の口のような様と読むと、家原はその口の前で広がった野原の様子を表していると思われる。配偶者の「嶋」の山稜の形状を示していることが解る。

音=言+一=耕地(言)が区切られた(一)様と読み解いた。次に登場する「紀臣音那」に牽連すると思われる紀臣大音などに用いられていた文字である。通常の地図では判別し辛いが、現在の航空写真を見ると、那=平らに広がっているが、大きく段差がある地形であることが分り、それを「」で表現したのであろう。

後に「家原」一族に連姓を授けたと記載される。登場するのは家原河内大道首名の名前が挙げられている。河内が父親のような感じであるが、不詳。川に挟まれた場所と思われる。大道は「家」の裾が首のような様と見做したのであろう。同様に首名山稜の端が首にようになっている様と思われる。地形図では判別し辛い場所であるが、何とかそれらしき様子が伺えたと思われる。

<紀朝臣音那>
● 紀朝臣音那

図に『壬申の乱』の功臣である「紀臣大音」の出自の場所を再掲し、それに「音那」を併記した。多分、「大音」のもう少し下流域にある那=しなやかに曲がる様の地形のところと推定される。

音那(オンナ)と音読みで解釈するのであるが、ならば思い切り和語として「オトナ」と読んでは如何であろうか?…續紀編者も、些か苦笑いの様子であろう。現在、豊前市にある鈴木谷と呼ばれている場所である。

Wikipdiaに色々記載されている(こちらこちら参照)。「夫への貞節を要求する儒教の影響が表向きの倫理として浸透しつつある時代でもあった」だそうである。

伊賀國:玄狐

<伊賀國司:阿直敬・玄狐>
天皇の詔で記載されているのは、上瑞の「狐」である。と言うことは、天皇は伊賀國が献上した「狐」を巧みに利用して大赦の根拠の一つにしたのである。

やはり、「玄狐」はその地形をした開拓地の献上物語であったと分かる。「玄」=「弓の弦のような様」、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の御子、櫻井之玄王などに用いられていた文字である。

「狐」=「犬+瓜」=「平らな頂で弓の弧のような様」と解釈される。纏めると玄狐=平らな頂で弓の弦と弧からなる様と読み解ける。図に示した場所、現在は広大な団地となっているが、おそらくなだらかな丘陵地であったと推測される。

この地は既出であって、持統天皇紀に禁猟区とされた伊賀國伊賀郡身野の一部に該当する場所と思われる。身=弓なりになった様であり、「狐」に繋がる表記がなされていたことが解る。更に禁猟区とされたのは、そもそも狩猟場所であったことを伝えていて、開拓地ではなかったことが伺える。

● 阿直敬

伊賀國司の出自の場所を求めておこう。頻出の文字列である阿直=真っ直ぐな台地と解釈される。「玄狐」の西側の山稜の地形を表している。「敬」の文字は初出で少し詳しく紐解いてみよう。「敬」=「茍+攴」と分解される。「茍」=「羊の角」を象った文字と知られる。頻出の「牛」の角とは異なった地形を表していると思われる。「攴」=「枝岐れした様」を表す文字と解釈されている。

纏めると敬=羊の角のような山稜が細かく岐れている様と読み解ける。図に示したように「阿直」の端で方向を変えて山稜が岐れ、谷間を作っているように見える。羊の角は頭部から真っ直ぐに延びるのではなく、後方(斜め横)に延びる形をしている。その形を捉えた表記と思われる。見事に特徴を捉えた文字使いであろう。

少々余談になるが、通常「敬」=「うやまう」の意味を持つ。また「警」、「驚」などにも含まれる要素でもある。コアの意味は「畏まる、身を引締める」と解説されている。

これらの意味を表すために「羊の角」ではなく、「羊の毛」に注目したのではなかろうか。羊の「縮毛」の利用はかなり古くからであり、幾多の変遷を経て家畜化されている。「身を縮める」がコアとなった文字群と勝手に推測してみたが・・・。



2021年4月17日土曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(10) 〔506〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(10)


和銅五年(西暦712年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月乙酉。詔曰。諸國役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。轉填溝壑。其類不少。國司等宜勤加撫養量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名報本属也。戊子。授无位上道王。大野王。倭王並從四位下。无位額田部王。壹志王。田中王並從五位下。正五位上佐伯宿祢麻呂。巨勢朝臣祖父並從四位下。從五位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大伴宿祢道足。佐太忌寸老並正五位下。從五位下紀朝臣男人。笠朝臣吉麻呂。多治比眞人廣成。大伴宿祢宿奈麻呂並從五位上。從六位上大神朝臣忍人。鴨朝臣堅麻呂。正六位上佐伯宿祢果安。小治田朝臣月足。正六位下額田首人足。從六位下後部王同竝從五位下。壬辰。廢河内國高安烽。始置高見烽。及大倭國春日烽。以通平城也。

正月十六日に以下の様に天皇が詔されている。概略は、諸國の役民が帰郷する際に食糧が絶えて溝や谷に転がり落ち、それを埋めている。國司は物などを与え、死者が出た場合には埋葬し、姓名を記録するようにせよ、と述べている。

十九日に諸王・臣に爵位を以下の様に授けている。「上道王」・「大野王」・倭王(磯城皇子の子。酒部王に併記)に從四位下、「額田部王」・「壹志王」・「田中王」に從五位下、佐伯宿祢麻呂巨勢朝臣祖父(邑治)に從四位下、穗積朝臣山守巨勢朝臣久須比大伴宿祢道足佐太忌寸老に正五位下、紀朝臣男人笠朝臣吉麻呂多治比眞人廣成大伴宿祢宿奈麻呂に從五位上、「大神朝臣忍人」・鴨朝臣堅麻呂(吉備麻呂の弟)・佐伯宿祢果安(石湯の弟)・小治田朝臣月足額田首人足(大寶三年70310月に登場)・「後部王同」に從五位下。

二十三日に「河内國高安」の烽台を廃して、初めて「高見」の烽台を設置している。そして「大倭國春日」の烽台に届かせて、「平城」に通報させることができたと記載している。真に奇妙な記述であり、奈良大和の地では、西から河内國高安(高見)烽→[平城]→春日烽と並んでいることになる。[平城]はその名の通り、西方を遮る山稜は無く、現在の生駒山地を見通せる筈である。即ち「春日烽」を通す必要などない。

調べてもこの記述に言及した情報は全く見つからず、ほぼ無視されて来たようである。勿論初めて設置したと言う「高見烽」は皆目見当もつかない有様である。この「烽」は、間違いなく難波における緊急事態を速報する目的であろう。狼煙を上げて京へ如何に早くその状況を伝えられるか、狼煙を遮るものがないように配置したと伝えているのである。以下で詳述してみよう。

<上道王・廣河女王>
● 上道王

天武天皇の穂積皇子の子と知られている。その地に出自の場所を求めるのだが、上道=高く盛り上がった地の麓にある首の付け根のように窪んだところと解釈される。

図に示した穂積皇子の北側の山稜に見出すことができる。天武天皇の子が忍坂の金辺川沿いに散らばったのだが、その後裔達の出自もそれに寄り添うことになるのであろう。

續紀での登場はずっと後(淳仁天皇紀)になるが、娘の廣河女王が従五位下を叙爵されたと記載されるが、その後に登場されることはないようである。廣河=川が流れる谷間の出口が広がったところと解釈される。別名に廣川があり、広がった川(現在の金辺川)の畔を表していると読み取れる。

● 大野王 上記に続き天武天皇の忍壁皇子の子と知られている。大野が示す場所は父親の近隣、金辺川沿いかと思われる(図は省略)。

<額田部王・大和女王>
● 額田部王

「額田」は幾つかの場所で用いられた表現である。古くは古事記の天津日子根命が祖となった額田部湯坐連、書紀の孝徳天皇紀にには額田部連甥などが登場していた。

「額田部」=「額田の近隣」を表す表記であって、額田(首)人足の登場で初めて額田の場所が示されることになる。現在の愛宕山の西麓にある椿台を「額」と見做した表現であり、「額田」はその麓、「額田部」は更に山稜が延びた裾野を表すと解釈された。

当該の王は、おそらくその山稜の端、現在の光願寺辺りが出自の場所だったのではなかろうか。その先に古事記の袁本杼命(継体天皇)の伊波禮之玉穗宮(勾金小学校辺りと推定)も候補となるが、「額田部」と記載していることから少し東側の場所と推測した。

後(聖武天皇紀)に大和女王が従四位上を叙爵されて登場する。例に依って、初見で極めて高位で、かつ系譜不詳なのである。大和=しなやかに曲がって延びる平らな頂の山稜の麓として、図に示した場所が出自と推定した。

<壹志王・春日王・湯原王>
<榎井王・白壁王・高田王>
● 壹志王

調べると「天命開別天皇(天智天皇)」の施基皇子の子と言う系譜であることが分り、「施基皇子」の出自の場所で壹志の地形を求めることにする。

併せて兄弟の湯原王春日王、後に「光仁天皇」となる彼らの兄弟である白壁王の場所も探索してみる。

壹=吉(蓋+囗)+壺=壹=大きく広がった谷間に蓋をするような山稜がある様と読み解いた。古事記の天押帶日子命が祖となった壹比韋で用いられた文字であり、魏志倭人伝の邪馬壹國にも含まれている。

その地形を「施基皇子」の南側の谷間の出口が塞がれたようになっているところが示していると思われる。志=蛇行する川を地図上では確認できないが、間違いなく存在していたと推測される。父親の「湯原王」の湯=水が飛び散って流れる様と読み解いた。「壹志王」の西側の急傾斜の谷間を示し、その出口辺りが出自の場所と推定される。

白壁王は「湯原王」の弟であり、後に光仁天皇(西暦770-781年在位)となられる。現在のところ最も高齢での即位のようである。そんな背景と「白壁」の文字列が示す地形を確認することを目的に読み解いてみようかと思う。実は「草壁」で「壁」の文字は登場していたのだが、「草壁=日下部」としてそのものの地形象形表記をおざなりにしていた経緯もある。

「壁」=「辟+土」と分解される。更に「辟」=「尸+口+辛」と分解され、尸(死体)を刃物で切り開く様を表す文字と知られる。物騒な文字なのであるが、地形象形的には「壁」=「谷間を平らに広げる様」と解釈する。とすると草壁=丸く小高くなった山稜の端が並ぶ谷間が平らに広がったところと読み解ける。「忍坂」の谷間が広がった場所、即ち日下部の地を表していることが解る(草壁吉士などを参照)。

地形象形表記であることが解ると白壁=二つの谷間が平らに広がってくっ付いているところと読み解ける。図に示した湯原王の北側が出自の場所と推定される。現在は高速道路が通り、些か見辛い地形となっているが、当時を偲ぶことは叶いそうな様子であろう。

未だご登場されていないが、長男が春日王と知られている。「春日王」の初出は記紀を通じて古く、所謂「春日」の地の王として読んで来たが、「施基皇子」の子であれば、その地の近隣が出自であろう。春日=[太陽]のような山の前で[炎]のように山稜が延びているところと読み解いた。その地形が西側の谷奥に見出せる。

同じく史書には登場されないが、ずっと後にその息子が活躍される榎井王がいたと知られている。既出の文字列である榎井=山稜が覆い被さるように取り囲んだところと解釈した。図に示した場所が出自と推定される。

また後(聖武天皇紀)に高田王が登場する。「春日王」の子とする説もあるが、初位が従四位下であり、皇孫の扱いであり、兄弟だったのではなかろうか。高田=皺が寄ったような山稜の麓の平らなところと読み解いた。図に示した場所が出自であり、「施基皇子」の子として申し分のない配置と思われる。

<大神朝臣忍人・興志>
● 田中王

この王の出自も不詳のようである。「田中」は舒明天皇の岡本宮が被災して急遽移られた田中宮辺りを出自としていたのではなかろうか。

● 大神朝臣忍人

調べると大神朝臣高市麻呂の子と分かった。この系譜は既に求めているが、図が少々立て込んでいるので、あらためて掲載することにした。

図に示した通り、父親の高市麻呂の南側、忍人=一見ではそれとは判らない(忍)谷間(人)と読み解ける場所が出自と推定される。

直ぐ後に弟の大神朝臣興志が登場する。忍人の西側、興=手+手+同+廾(両手)=山稜に囲まれて四角く区切られた様の地が辛うじて見出せる。谷間から流れる蛇行する川が流れていたのであろう。図に示した場所が出自と推定される。

大神朝臣(三輪君)は、六世代以上の系譜が知られている真に稀有な一族だったようである。遡れば古事記に記載された出雲の大物主大神に辿り着く一族であると思われる(三輪君:引用図の美和山西麓)。天皇家が畏敬する神の末裔となろう。

● 小治田朝臣月足

既に小治田朝臣一族の出自の場所を纏めて示した。月足=山稜の延びた先が三日月の形をしている様と読み解けば、その図に示した場所と推定される。

● 後部王同

天武天皇即位五年(676年)11月の記事に「高麗、遣大使後部主簿阿于・副使前部大兄德富、朝貢」とあり、「後部」、「前部」は高麗の地域名称と思われる。幾度か登場する百濟王の記載のように元の名前を踏襲して、倭名を持っていなかったのであろう。

高安烽・高見烽・春日烽

さて、一月の記事で「烽(台)」の改廃が述べられていた。そもそもこの「烽」の目的は難波・攝津における一大事を如何に素早く京に知らせるために設けられていたと推測される。それが飛鳥の地から藤原宮そして平城宮と遷る過程で不具合が生じたことによる改廃であったのであろう。

<高安烽-高見烽-春日烽>

「河内國高安烽」に含まれる「高安」は幾度か書紀に登場していた。倭國高安城(現地名京都郡苅田町の高城山辺りと推定)、この城は大寶元年(701年)八月に廃城とされている。また何も冠されない高安城(現地名田川郡香春町鏡山-柿下と京都郡みやこ町犀川大坂の境)が壬申の乱の戦闘場面で登場する。勿論、「高安」は固有の名称ではない。

では河内國高安烽があったのは何処の峰を示しているのであろうか?…上記の背景を念頭にしてみると、現在の障子ヶ岳が候補に浮かんで来る。その峯は図に示したように高安=皺が寄ったような山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっている様であることが確認される。そしてこの峰からは難波・攝津を見渡すには極めて都合よく、更に狼煙を飛鳥の地から眺めることができる位置にあることが解る。

一方、平城宮からは畝火の香春岳に阻まれて全く見ることができない。上記でこの河内國高安烽を廃して高見烽を新たに設置したと記載している。それを求める前に大倭國春日烽を求めてみよう。これは間違いなく春日の地を麓に持つ峰と推定される。古事記の意祁命(仁賢天皇)の子、春日山田郎女(書紀では春日山田皇女)が登場している。

大坂山~戸城山の尾根に一段高くなった峰が見出せる。これを「春日山」と呼称し、そこに設置されたのが春日烽であったと推定される。ここで挙げられた狼煙は、十分に平城宮から確認できる位置にあることが分る。すると高見烽は、現地名京都郡みやこ町勝山大久保・犀川大坂との境にある鉄光坊山と呼称される峰に設置されていたと思われる。高見=皺が寄ったような山稜の谷間が長く延びている様の地形を持つ峰である。

續紀が敢えてここで記載したのは、平城遷都によって難波・攝津における非常事態を即時に受ける態勢が致命的な欠陥として浮かび上がって来たことによるのである。上記したように奈良大和での配置とするのは、全く致命的な解釈となろう。續紀は、書紀の解釈は様々に行われていることに比べて極めて少ない。然したる話題が少なく、記述は”古事記風”である。だが、そこに記された内容は実に単刀直入であり、簡明である、と思われる。

二月戊午。詔賜京畿高年鰥寡惸獨者絁綿米塩。各有差。高年僧尼亦同施焉。
三月戊子。美濃國獻木連理并白鴈。
夏四月丁巳。詔。先是。郡司主政主帳者。國司便任。申送名帳。隨而處分。事有率法。自今以後。宜見其正身。准式試練。然後補任。應請官裁。

二月十九日に京畿の高齢者や寡婦・夫等に、また高齢の僧尼に綿・米などを与えている。
三月十九日、美濃國が「木連理」とそれに併せて「白鴈」を献上している。
四月十九日に以下のように詔している。これまで郡司の主政(三等官)・主帳(四等官)は國司が任じていたが、今後は正身(本人)を見て式(施行細則)に準じて試練し、その後に任命して太政官の決裁を請うようにせよ、と述べている。

美濃國:木連理・白
美濃國:木連理・白

勿論、これらは美濃國の瑞祥ではなく、その地を開拓し、公地として差し上げた事例であろう。木連理は既出で、慶雲元年六月に阿波國が献上し、木連理=連なった山稜が区切られている様と解釈した。

山だらけの美濃國で至る所で見られそうな地形なのだが、やはりちゃんと心得ておられてるようである。現在の貫山の東北麓で谷間で区切られた場所が見出せる。その麓の地を開拓したのであろう。

「鴈」=「厂+人+鳥」と分解すると、鴈=崖下の谷間に鳥のような形の山稜がある様と読み解ける。土地の開拓では定番の白=くっ付いて並ぶ様であり、図に示した場所を表していると思われる。

『壬申の乱』における功臣である多臣(朝臣)品治及び古事記編者の太朝臣安萬侶の出自の場所と推定した谷間の奥に当たる(こちら参照)。「品治」の肩書に唐突に「湯沐令」なるものを持ち出して書紀編者の博識ぶりを示した、それもあるが、如何に水が飛び散るほどの急流がある谷間の地形(湯沐)であることを表していたと読み解いた。その更に上流域を開拓したのであろう。











2021年4月13日火曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(9) 〔505〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(9)


和銅四年(西暦711年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月甲子。勅依品位始定祿法。職事二品二位。絁卅疋。絲一百絢。錢二千文。王三位廿疋。錢一千文。臣三位十疋。錢一千文。王四位六疋。錢三百文。五位四疋。錢二百文。六位七位各二疋。錢卌文。八位初位一疋。錢廿文。番上大舍人。帶劔舍人。兵衛。史生。省掌。召使。門部。物部。主帥等並絲二絢。錢十文。女亦准此。」又詔曰。夫錢之爲用。所以通財貿易有无也。當今百姓。尚迷習俗未解其理。僅雖賣買。猶無蓄錢者。隨其多少。節級授位。其從六位以下。蓄錢有一十貫以上者。進位一階叙。廿貫以上進二階叙。初位以下。毎有五貫進一階叙。大初位上若初位。進入從八位下。以一十貫爲入限。其五位以上及正六位。有十貫以上者。臨時聽勅。或借他錢而欺爲官者。其錢沒官。身徒一年。与者同罪。夫申蓄錢状者。今年十二月内。録状并錢申送訖。太政官議奏令出蓄錢。」勅。有進位階。家存蓄錢之心。人成逐繦之趣。恐望利百姓或多盜鑄。於律。私鑄猶輕罪法。故權立重刑。禁斷未然。凡私鑄錢者斬。從者沒官。家口皆流。五保知而不告者与同罪。不知情者減五等罪之。其錢雖用。悔過自首。減罪一等。或未用自首免罪。雖容隱人。知之不告者与同罪。或告者同前首法。

十月二十三日に天皇が勅して、品や位に依る禄の支給規定を初めて定めている。概略は、職事(執掌を持つ官人)の二品二位、王の三位、臣三位から以下の者に対して、及び舍人・兵衛・史生・省掌・召使・門部・物部(罪人の処罰)・主帥等についても、与える禄の種類・量が記載されている。また以下のことを詔され、「蓄錢」を奨励して、その多少に基づいて叙位する、と述べている。

そうなれば「私鑄」が行われることになるが、その罪が軽く、今後は重刑に処することにする。最も重い刑が斬(首)刑と記されている。犯罪を知りながら届けなかった者も処罰対象となっている。因みに現在の通貨偽造罪の法定刑は「無期または3年以上の懲役」だそうである。

十一月甲戌。蓄錢人等始叙位焉。辛夘。從六位下菅生朝臣大麻呂。正七位上高橋朝臣男足並授從五位下。壬辰。詔曰。諸國大税。三年之間。借貸給之。勿收其利。」又賜畿内百姓年八十以上及孤獨不能自存者衣服食物。」又出擧私稻者。自今以後。不得過半利。餘者如令。

十一月四日に蓄錢人等に初めて叙位している。二十一日、「菅生朝臣大麻呂」・高橋朝臣男足(高橋朝臣若麻呂等に併記)に從五位下を授けている。二十二日に諸國の大税について三年間、無利息で貸付けて、その利息を徴収してはならない、と詔されている。そして畿内の百姓で八十歳以上、自立できない者に衣服・食物を与えている。また「出擧」(利子付きの貸付)では利率が五割を越えてはならない、と述べている。

<菅生朝臣大麻呂-國益-古麻呂>
● 菅生朝臣大麻呂

「菅生朝臣」一族は、前記で國桙が登場していた。中臣朝臣、忌部宿禰、巫部宿禰の面々に加えられての登場であった。日本の古代における神祇を担った一族であろう。

出自の場所は、現地名の田川郡福智町伊方と推定した。後に登場する人物も含めて纏めて示したのが右図である。残念ながら彼らの系譜は定かではないようであるが、名前が示す地形からそれぞれの出自を求めてみよう。

大麻呂の表記は曖昧で場所の特定は叶わない。最も特徴的な國益は、頻出の益=谷間に挟まれて平らに広がり延びた様から図の場所と推定される。

古麻呂古=丸く盛り上がった様であり、國益の南に隣接する場所と思われる。すると大麻呂國益の間の平らな頂の様()を表しているのではなかろうか。菅生=管のような山稜が並んでいる様であり、その管に連なっている場所が彼らの出自の場所と推定される。

十二月壬寅。大初位上丹波史千足等八人。僞造外印假与人位。流信濃國。」以從五位下葛木王。補馬寮監。丙午。詔曰。親王已下及豪強之家。多占山野。妨百姓業。自今以來。嚴加禁斷。但有應墾開空閑地者。宜經國司。然後聽官處分。壬子。從五位下狛朝臣秋麻呂言。本姓是阿倍也。但當石村池邊宮御宇聖朝。秋麻呂二世祖比等古臣使高麗國。因即号狛。實非眞姓。請復本姓。許之。庚申。又制蓄錢叙位之法。无位七貫。白丁十貫。並爲入限。以外如前。

十二月二日に「丹波史千足」等八人が外印を偽造し、人に位を偽って与えたので信濃國に流罪としている。またこの日に葛木王を馬寮監に任じている。六日、親王以下及び勢力のある者が山野を占有しているが、空閑地で開墾すべき地があれば申し出るようにせよ、と命じている。

十二日に狛朝臣秋麻呂が以下のように奏上している。そもそもの姓は「阿倍」であるが、「石村池邊宮御宇聖朝」の時に「秋麻呂」の二世代前の「比等古臣」が高麗國の使者となり、「狛」と号するようになった。本来の姓に戻したい、と言い、これを許している。二十日に蓄錢叙位之法の若干の修正を加えている。

<丹波史千足>
● 丹波史千足

「丹波」の地、現地名で行橋市稲童辺りで史=中+又(手)=山稜が真ん中を突き通す様の地形を求めることになる。この地は山稜の端が長く延びた地形であり、多くの「史」が存在するように思われるが、意外に稀であることが解る。

やはり古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に登場する氷羽州(比婆須)比賣命氷羽州=羽のような州を二つに割った様の近隣の地が有力な場所と推測される。

幾度か登場の「千」=「人+一」=「谷間を束ねた様」であり、千足=山稜が長く延びて谷間を束ねたようなところと読み解ける。図に示した場所を表しているのではなかろうか。この人物の出自は定かではないようだが、旦(丹)波の地には天神族が進出する以前から多くの渡来があったと推測される。そんな一族の後裔だったのであろう。

<池邊宮>
石村池邊宮御宇聖朝

古事記では「池邊宮」の「橘豐日命」、書紀では「磐余」にあった「池邊雙槻宮」の「橘豐日天皇」の時代を示していると思われる。

「磐余」は古事記の「伊波禮」に当たると知られる。古事記で求めた「池邊宮」及び「伊波禮」の場所を再掲した。

少し振り返ると池=氵+也=川が曲がりくねっている様邊=辶+自+丙+方=端に向かって左右に広がる様と読み解いた。

「池邉宮」の場所は図に示したように金辺川の流れが広がりつつあるところと推定された。古事記は些か舌足らずの表記であるが、宮の場所としては香春一ノ岳の麓辺りとした。

伊波禮
書紀は少し修飾された表現をしており、「雙槻」が加わる。これに類似した表記は、書紀の斉明天皇の宮、後飛鳥岡本宮の別名に兩槻宮があったと記載されている。

槻=木+規=山稜が丸く盛り上がった様であり、その「槻」が宮を挟んで両側にある地形を表していると読み解いた。

「雙」も「対を成す二つ」の意味を表す文字と知られるが、雙=隹+隹+又=隹(鳥)の形の山稜が並んでいる様と読み解ける。即ち「池邉宮」も兩槻なのだが山稜の端が「鳥」=「三角の形」を示していると解釈される。

<石村池邊宮>
詳細図を示すと対を成した三角の山稜の端に挟まれた場所に「池邉雙槻宮」があったと述べていると思われる。現在の蓮華寺辺りがその地形要件を満たすと推定される。

續紀では「石村」が冠されている。石=磯である。石上=磯の上にあるところの近隣の場所であることを示していると思われる。續紀は池邉を繋げた表現をしていることが解る。

書紀はその地を磐余=山稜の端が延びて広がった様と表現している。古事記の伊波禮=谷間で区切られた山稜の端が高台になっている様は上図に示した通り、大坂山・愛宕山の山稜の端にある場所を示している。

地形象形として、曖昧な「磐余」の表記からすると「伊波禮」の近辺を含めた場所も示すと解釈できるが、厳密には「池邉宮」は「伊波禮」の地ではない。ここで書紀が「磐余」の表記を用いたわけが明らかになる。奈良大和の配置は、「伊波禮」と「石上」が近接していては甚だ不都合だからである。

續紀は、書紀編者によって暈された、所謂読み手の解釈に委ねる、池邉の関係をあからさまにしていると思われる。書紀の続編のような捉え方をされているようだが、その編集方針は全く異なっていると思われる。以前にも述べたが、古事記の素朴で率直な、且つ舌足らずの表記をしっかりと踏襲したものと感じられる。

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本居宣長以来、万葉仮名の前駆である宣命体による古事記解釈、和語の音に拠る解釈から抜け出せていない。「磐」と「伊波」は「イワ」とし、更に「石」に繋げているのである。「余(餘)」の文字は無視されているのか、それとも「余」の訓に「ワレ」があるから、「イワワレ」を短縮した、とでもなるのであろうか?・・・。

記紀・續紀は漢文で記述されている。漢字は表意文字であり、その根幹をなす象形文字を地形に当て嵌めたのである。古事記序文に太朝臣安萬侶が記載しているように必要な時に和語の訓を注記するとしている。天=一+大=一様に平らな頂の山稜阿麻=擦り潰されたような台地と註しているのある。漢字の表意の場合は天(テン)=頭を意味すると但している。

奈良大和の遺跡をいくら掘り返しても、その地にヤマト政権が古から存在していたことの確固たる証は得られない、と確信する。また、不動ではない木簡などがその地を特定するものではないことを、解っていながら成果とする確信犯であってはならないであろう。