2021年1月28日木曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(16) 〔487〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(16)


大寶三年(即位七年、西暦703年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三年春正月癸亥朔。廢朝。親王巳下百官人等拜。太上天皇殯宮也。甲子。遣正六位下藤原朝臣房前于東海道。從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道。從七位上高向朝臣大足于北陸道。從七位下波多眞人余射于山陰道。正八位上穗積朝臣老于山陽道。從七位上小野朝臣馬養于南海道。正七位上大伴宿祢大沼田于西海道。道別録事一人。巡省政績。申理寃枉。

正月元日の朝賀を止めて親王以下百官人等は太上天皇の殯宮で拝礼している。二日、「藤原朝臣房前」を東海道へ、多治比眞人三宅麻呂を東山道へ、高向朝臣大足を北陸道へ、「波多眞人余射」を山陰道へ、穗積朝臣老を山陽道へ、「小野朝臣馬養」を南海道へ、「大伴宿祢大沼田」を西海道へ道別に録事を一人付けて遣わし、各国司の治績の巡視及び冤罪を申告させ、正している。各使者は全て初登場であり、人心一新の年が明けたようである(リンクがあるのは以前に父親の登場に従って併記)。

<藤原四家:武智麻呂・房前・宇合・麻呂>
● 藤原朝臣房前

藤原不比等の四兄弟、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の次男である。後にそれぞれ南家北家式家京家の家系となって、空前の権勢を有することになる。

またライバルでもあり、競い合いながら一層の権力を増大させて行ったようである。聖武天皇紀天平九年(西暦737年)、疫病により四兄弟はこの世を去ったと伝えられている。

さて、狭い中臣の谷間に彼らの出自の場所を求めてみよう。房前は、不比等の「不」の片割れの前と解釈される。不=花の子房を象った文字に置き換えた表記である。

兄の武智麻呂は、頻出の武=矛のような様智=鏃の傍らに炎の形がある様、共に幾度も登場した文字列である。房前の東側の山稜を示していると思われる。その矛先辺りが出自の場所であろう。三男の宇合=谷間で延びた山稜が出合う様と読み解けるが、更に別名に馬養=馬の地形の傍のなだらかな谷間が広がる様があったと知られている。武智麻呂の南側に当たる場所と思われる。

四男の麻呂は、これだけでは何ともし難いのであるが、別名が萬里と知られている。麻呂は「萬侶」の表記があったのかもしれない。すると中臣の谷間から外に出た山稜が見事な萬=蠍の形をしていることが解る。不比等の山裏に当たる場所である。

四家の由来は如何であろうか?…兄より北側で北家、弟より南側で南家、式部卿だったから式家、左京大夫だったから京家なんて言われているようであるが・・・[北]の字形の麓にある家[南]の字形の麓にある家折れ曲がった山の麓にある家大きな岡の麓にある家となる。藤原四兄弟の出自の場所、申し分なく確定である。

いずれにしても房前は、おそらく二十歳前後の年齢のように思われ、不比等の威光もさることながら、秀でた人物だったように伺える。四家の中で最も権勢を誇った北家の祖である。

<波多眞人余射>
<波多朝臣廣麻呂-僧麻呂-安麻呂-古麻呂-孫足>
● 波多眞人余射

「波多朝臣」ではなく「眞人」だから書紀の羽田公矢國の近隣と思われる。残念ながら系譜は定かではないようで、勿論矢國との繋がりは不明である。

余=谷間で山稜が延びた端の様射=身+寸(手)=山稜の端が弓なりに曲がった様と読み解いて来た。既出の文字列の組合せである。

すると「矢國」の東側で矢筈山から延びた山稜の端が身の地形を示していることが解る。更に別名が與射と表記されるとのことで、與=複数の手が差し伸べられた様を表すと解説されている。

図に示したように矢筈山から延びる「手」(山稜)は、複数寄り集まって延びているように見える。残念ながらこの高台の何処が出自の場所かは分かりかねるが、谷間に近接、即ち高台の北側辺りではなかろうか。

後に波多朝臣廣麻呂が登場する。「眞人」とは別系列であろう。既出の羽田朝臣齋の台地が延びて広がった場所が出自と推定される。更に後の聖武天皇紀に波多朝臣僧麻呂・安麻呂・古麻呂が登場する。僧=人+曾=谷間で積み重なった様と解釈すると「廣麻呂」の前の小高くなった場所と推定される。

頻出の安麻呂安=宀+女=山稜の囲まれた谷間が嫋やかに曲がっている様と解釈すると、「僧麻呂」の南側の谷間と推定される。同様に頻出の古麻呂の古=丸く小高い様とすると、「波多」の山稜の端の地形を表していると思われる。「羽田(波多)朝臣」の系譜は定かではないように思われる。後(聖武天皇紀)に波多朝臣孫足が登場する。孫(子+系)足=生え出た山稜に連なっている山稜があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。

<小野朝臣馬養・老・東人>
● 小野朝臣馬養

「小野朝臣」については小野臣妹子からの系譜が伝えられている。一族の出自の場所は現地名田川郡赤村内田、平成筑豊鉄道田川線内田駅の近傍と推定した。

古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった小野臣の地、かなり由緒のある一族であろう。

「毛」(鱗)の地とは異なる場所に「馬養」を求めるとこの一族が御祓川の西岸に広がって行った様子が伺える。

幾度か登場の馬養=馬の地形の傍にある谷間がなだらかに広がった様と読み解いて来た。「毛野」の南側にその地形を見出すことができる。その兄と共に活躍した兄弟であったようである。

後(元正天皇紀)に「毛野」の子と知られる小野朝臣老が登場する。正六位下から従五位下に進位されたと記載されている。老=海老のように山稜が曲がっている様と読み解いて来たが、図に示したようにその傍らの谷間が出自の場所と推定される。

更に後(聖武天皇紀)に小野朝臣東人が外従五位下を叙爵されて登場する。「廣人」の子とする系図が残されているようで、その近辺を探すと、それらしき場所が見出せる。頻出の東人=谷間を突き通すようなところである。謀反に加担して、自白の後に拷問を受け獄死したと伝えられている。

<大伴宿禰大沼田>
● 大伴宿禰大沼田

この人物の系譜は不詳のようである。書紀の天武天皇紀に登場した大伴連馬來田のように田が付くことからも大伴の谷間の出口辺りと推測される。

その地で沼=氵+召=水辺で曲がった様を探すと、図に示した場所辺りが候補となるであろう。「馬來田」登場の段に大伴朴本連大國も登場する。この二人の出自に近接する場所と思われる。

一に特定することは叶わないが、石川(河)(現白川)の西岸の高台に田を作っていたのであろう。系譜も分らず、この後も昇位の記述に記される程度で活躍は伝えられていないようである。

東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道・南海道

所謂畿内七道と呼ばれた中の「七道」の名称が記載されている。このうち書紀の天武天皇紀に東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道」の五道が記述されていて、「北陸道」と「西海道」が加わったことになる。この二道を加えた全体図を示す。

<七道:東海・東山・北陸・山陰・山陽・西海・南海>

❸北陸道は❷東山道の北側に位置し、越前國・越中國・越後國・飛騨國・佐渡國などが含まれていると思われる。更に上記の記述のみでは不確かなのであるが、飽田・渟代・津軽蝦夷などに繋がる道と推測される。位置関係からすると肅愼國は❹山陰道に含まれるのであろう。あらためて❷東山道を見ると、やはりそれは陸奥國(かつては陸奥蝦夷)で行き止まっている。「北陸」=「陸奥の北側」を表していると思われる。

❻西海道は、西の海である。そして前記された筑紫七國が含まれると思われる。安藝國・因幡國(書紀の因播國)・伯耆國・隱伎國は西海道に属することになる。「筑紫七國」の表記は、❻西海道を登場させるのに必要な記述だったのであろう。現在では中国地方西部に位置する場所(❹山陰道・❺山陽道)であろうが、国譲りによって大きく変化した地と思われる。

古事記の東方十二道、それに続く書紀・續紀の「七道」の記述は決して明解ではない。拡大膨張させた後での編集であることから、曖昧にせざるを得なかったように推測される。この後も引き続き修正をしながら本来の「七道」を辿ってみようかと思う。

丁夘。奉爲太上天皇。設齋于大安。藥師。元興。弘福四寺。辛未。新羅國遣薩飡金福護。級飡金孝元等。來赴國王喪也。是日。制。主礼六人。元以大舍人爲之。宜准斯例蠲其課役。壬午。詔三品刑部親王知太政官事。

一月五日に太上天皇を奉らん為に大安寺藥師寺元興寺(法興寺)・「弘福寺」の四寺で齋を設けている。尚、「弘福寺」は川原寺にあった中金堂(伽藍の中心)を指すようである。九日に新羅の使者が國王の喪を知らせている(孝昭王、702年7月逝去)。その日、主礼六名は元来大舎人が任に当たっていたので同様にその課役を免じるようにしている。二十日、刑部親王に太政官を統括させている。

二月丁未。詔。從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人。預定律令。宜議功賞。於是。古麻呂及從五位下伊吉連博徳。並賜田十町封五十戸。贈正五位上調忌寸老人之男。田十町封百戸。從五位下伊余部連馬養之男。田六町封百戸。其封戸止身。田傳一世。丙申。從七位下茨田足嶋。衣縫造孔子。並賜連姓。癸夘。是日當太上天皇七七。遣使四大寺及四天王山田等卅三寺。設齋焉。」大宰史生更加十員。

二月十五日に下毛野朝臣古麻呂等四人に律令選定の功により賞を与えられている。「古麻呂」と伊吉連博徳には田十町と封戸五十、調忌寸老人の息子には田十町と封戸百、伊余部連馬養(馬飼)の息子には田六町と封戸百を与えている。但し封戸は一代限り、田は子の代までとすると記載されている。

二月四日、茨田足嶋と「衣縫造孔子」に連姓を授けたと記載されているが、記述順からして上記の「丁未(十五日)」で良いのか、少々戸惑う箇所である。また「茨田足嶋」への連姓授与は既出でもある。十一日は太上天皇も七七(四十九日)に当たり、四大寺及び四天王寺山田寺等三十三寺に使者を遣わして齋を設けている。この日大宰の史生(官司の書記官)を十名増やしている。

<衣縫造孔子>
● 衣縫造孔子

「衣縫造」は大藏衣縫造內藏衣縫造の二つが登場している。「大藏」でも「內藏」でもない場所を表しているようである。孔=穴である。すると「內藏」の「內」が表す場所ではなかろうか。

子=生え出た様であり、纏めると孔子=穴の傍らにある生え出たところと読み解ける。図に示した「香來山」(持統天皇の万葉歌登場)の東麓の山稜の端に当たる場所と推定される。

「孔子」の地形象形表記が示す場所が求まったことになる。さぞかし天下の四聖人も苦笑い・・・「諱は丘、字は仲尼」と知られている。丘を谷間が突き通す様子を表しているのかもしれないが、偶然であろう。

三月戊辰。賜從四位下下毛野朝臣古麻呂功田廿町。辛未。詔四大寺讀大般若經。度一百人。丁丑。下制曰。依令。國博士於部内及傍國取用。然温故知新。希有其人。若傍國無人採用。則申省。然後省選擬。更請處分。又有才堪郡司。若當郡有三等已上親者。聽任比郡。戊寅。信濃。上野二國疫。給藥療之。乙酉。以義淵法師爲僧正。

三月七日にまたもや下毛野朝臣古麻呂に功田として二十町が与えられている。十日に四大寺で大般若経を読経し、百人を出家させたと記している。十六日に國博士はその国内もしくは隣国から採用する決まりであったが、そんな人は稀であって、隣国に居ないならば、申し出よと述べている。また郡司の才があるが、三等以上の者が既に郡司となっている場合は、隣国の郡司とすることを許可している。

十七日、信濃國上野國に疫病が発生、薬を給して治療させている。二十四日に義淵法師を僧正にしている。即位三年(西暦699年)十一月の記事に稲一万束を貰ったと記載されていた。



2021年1月24日日曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(15) 〔486〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(15)


大寶二年(即位六年、西暦702年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちら(巻二)を参照。

十一月丙子。行至尾張國。尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿祢。國守從五位下多治比眞人水守封一十戸。庚辰。行至美濃國。授不破郡大領宮勝木實外從五位下。國守從五位上石河朝臣子老封一十戸。乙酉。行至伊勢國。國守從五位上佐伯宿祢石湯賜封一十戸。丁亥。至伊賀國。行所經過尾張。美濃。伊勢。伊賀等國郡司及百姓。叙位賜祿各有差。戊子。車駕至自參河。免從駕騎士調。

十一月十三日に尾張國に到着している。前記で十月十日に參河國に行幸されたと記載されていた。およそ一ヶ月の滞在だったようである。「尾治連若子麻呂・牛麻呂」に宿禰姓を授けている(本段に登場の國はこちらを参照)。どうやら行幸の「往」の記述ではなく、「復」の道すがらの仔細を記述しているようである。

書紀の天武天皇紀に記述された五十氏(尾張連を含む)には「尾治連」は含まれていなかった。「治(ハリ)」と訓することができるが、やはり文字が異なれば、「尾張」の中心地ではないように思われる(下記詳述)。併せて國守の「多治比眞人水守」に封十戸を与えている。この人物は、「丹比眞人嶋」の次男、「池守」の弟に当たる(こちら参照)。

十七日に美濃國に到着している。不破郡大領の「宮勝木實」に外從五位下を授けている。併せて國守の「石河朝臣子老」に封十戸を与えている。『壬申の乱』における好意に報いた行幸であったようである。初戦での不破道の封鎖は大きな成果と描かれていた。士気を挙げるためにも効果大の出来事であったと思われる。ここでも上記の「丹比」→「多治比」と同じく、「石川」→「石河」であり、古事記表記を採用している。

二十二日に伊勢國に到着している。國守の「佐伯宿祢石湯」に封十戸を与えている。二十四日、伊賀國に至っている。行幸中に立ち寄った美濃國・伊勢國・伊賀國等の國郡司及び百姓にそれぞれ位階・禄を与えている。二十五日に車駕が參河國から帰着したと記している。従った騎士の調を免じている。伊賀國に至った翌日に帰京している。各國の配置はこちら参照。

車駕至自參河」の表現は微妙である。本来なら車駕至自伊賀」であろう。何故?…その行程の所要時間が合わないからである。勿論、奈良大和が舞台として読ませるために直截的な記述を避けたのであるが、当時はともかく、地図がある現在では全く辻褄が合わない結果となっている。行幸行程については下記で述べることにする。

<尾治連若子麻呂・牛麻呂>
● 尾治連若子麻呂・牛麻呂

「尾治連」に含まれる「治」=「氵
+台」と分解して、治=水際にある耜のような様と読み解いて来た。確かに「尾張」と同じ訓となるが、この「治」が示す地形が重要なのである。

すると山稜の端が「耜」の地形を持つ場所が尾張國の西部に見出せる。現地名は北九州市小倉南区横代東町辺り、当時は海に突き出た山稜である。

古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が東方に向かって船出をして最初に敵と応戦した青雲之白肩津の近隣の場所である。

若子麻呂若=叒+囗=腕のように延びた多くの山稜寄り集まっている様と読み解いて来た。子=生え出た様であり、図に示した山稜を示していると思われる。その東側の山稜は、牛の角のように岐れていることが解る。牛麻呂の出自の場所と推定される。

上記したように「國守」の名前を「多治比眞人水守」と記載している。「丹比」の表記を用いなかったのは、「治」の文字が表す地形を示唆する記述であることが解る。續紀の編者からすると容易い別表記と言えるであろう。古事記の「青雲之白肩津」(楯津、日下之蓼津)の記述では古事記編者が思い切り戯れた表記を行っている。それにあやかったのかもしれない。

<不破郡大領:宮勝木實>
● 破郡大領:宮勝木實

勿論壬申の乱のランドマークである「不破」であるが、「大領」が居たと記している。既出の惣領と同じく、立派な地形象形表記、それを兼ねていると思われる。

宮=宀+呂=山稜に挟まれた地で積み重なった様勝=朕+力=盛り上がった様と読み解いて来た。すると不破郡と片縣郡の間の谷間にある地形を表していると思われる(こちら参照)。

現在は広い宅地に開発されており、地表の状態を求めることは叶わないが、元の姿を推し測ることができそうである。

領=令+頁=四角く平らな地を寄せ集めた様と解釈した。図に示したように山稜の端の平たくなったところ()の麓に並んでいると見做したのであろう。その中で一際小高くなった場所を宮勝と名付けたと推定される。木實=山稜が実のような様と解釈される。

<佐伯宿禰石湯-太麻呂-果安・百足>
● 佐伯宿祢石湯・百足

調べると佐伯連麻呂の子であることが判った。狭い谷間を大伴連と分け合うにもそろそろ限界かもしれないが、それらしき場所が見出せるようである。

「麻呂」の南側の深く切れ込んだ谷間の麓辺りと思われる。幾度も登場の湯=水が飛び散って流れる様であり、温泉が出るところではない。

残念ながら現在の地図上で川の存在は確認されないが、北側の「大目」の地形との類似性から当時は存在していたものと推測される。「石」は、その谷間の出口辺りが平らに広がっている様を表していると思われる。

また長男が太麻呂、弟が果安と知られ、後に登場する。太=大きく広がった様果安=丸く小高い地の傍らにある谷間が嫋やかに曲がっている様と読み解ける。既に蘇我果安臣などに含まれていた文字である。彼らの出自は、少々混み入っているが、図に示した場所と推定される。

少し後に百足が登場する。こちらは廣足の子と知られている。些か地図が見辛くなっているが、父親の南側の山麓ではなかろうか。上図に併せて記載した。

<參河國行幸>
參河國行幸

太上天皇(持統天皇)の『壬申の乱』に関わる行幸は、度重なる吉野宮は別として、持統天皇即位六年(西暦692年)三月の伊勢・志摩・伊賀即位九年(西暦695年)十月に菟田吉隱への記事があった。

前者は約二週間程度、後者は一泊二日の日程であった。後者の行幸目的は記述されず、土地の者への施しもなく、不明なことが多いが、この地への所要時間は一日以内であったことは確かである。

また前者は、「志摩國」が記載され、『壬申の乱』における鈴鹿郡・三重郡以降のルートが異なって、伊勢神宮方面に向かっていることが解る。即ち朝明郡には足を踏み入れていないのである。おそらく当時に朝日が差す中で迹太川の畔で望拝した天照大神(伊勢神宮)を訪れることが目的のように思われる。

太上天皇としては、どうしても乱における残りの部分を埋め合わせたかったのであろう。これが參河國から帰京しながらの行幸だったと推測される。さて、今回は如何なることになるのであろうか?…『壬申の乱』の戦闘図を再掲した(見やすくなったかどうかは不確かだが、背景を陰影起伏図とした)。

參河國は、現在の企救半島の付け根辺りであり、今回も何の説明もなく登場することからも往路は船路であったと推測される。そしてこの國におよそ一ヶ月滞在したと記述しているのである。乱には、勿論登場しない國であり、関連する人物も見当たらない。正に謎めいた記述と言える。

戦闘図は重要な意味、即ち配置を示していることが分る。參河國と筑紫大宰(図❼)とは、直線距離で約1.5km、船は係留したままで後は陸路で済まされるのである。そして、參河守(許勢朝臣祖父は遣唐使として出航済み)の不在の場所よりも筑紫大宰(この時は石上朝臣麻呂)の地に滞在したのではなかろうか。乱の時の大宰は栗隈王であり、二人の息子も加えた大友皇子の使者への対応がなければ、謀反人として処罰されていた、かもしれなかったのである。

太上天皇としては、前半戦、最大の山場を見逃すわけには行かなかったであろう。「伊勢桑名」での不安な雰囲気を思い起こされていたのかもしれない。当然の流れであるが、續紀編者してみれば、「筑紫行幸」とは、流石に記載するわけにはいかなかったと思われる。故に、曖昧な記述となってしまったわけである。

後は「尾治連」やら「不破郡大領」を登場させて、太上天皇が「桑名郡」でじっと耐えていた時の戦いの場所を漸く目の当たりにすることができたようである。既に多くの褒賞を与えた者以外の人物を描くとは、気配りがあったと言うことかもしれない。また、最後の「伊賀國」から帰京まで一日で済ませている。「菟田吉隱」から一日足らずの表記と矛盾しない記述であろう。

十二月甲午。勅曰。九月九日。十二月三日。先帝忌日也。諸司當是日宜爲廢務焉。戊戌。星晝見。壬寅。始開美濃國岐蘇山道。乙巳。太上天皇不豫。大赦天下。度一百人出家。令四畿内講金光明經。甲寅。太上天皇崩。遺詔。勿素服擧哀。内外文武官釐務如常。喪葬之事務從儉約。乙夘。以二品穗積親王。從四位上犬上王。正五位下路眞人大人。從五位下佐伯宿祢百足。黄文連本實。爲作殯宮司。三品刑部親王。從四位下廣瀬王。從五位上引田朝臣宿奈麻呂。從五位下民忌寸比良夫爲造大殿垣司。丁巳。設齋於四大寺。辛酉。殯于西殿。壬戌。廢大祓。但東西文部解除如常。

十二月二日に九月九日と十二月三日は先帝の忌日に当たる故に諸司は職務を止めよと命じられている。六日、金星が昼間に見えたと述べている。十日に初めて美濃國の「岐蘇山道」を開通させている。十三日に太上天皇の病気が重くなったので天下にに大赦し、百人に出家させて四畿内で金光明経を講じさせている。二十二日、崩御され、文武官は常の如くに務め、葬儀は倹約しろと遺言されたそうである。

二十三日に穗積親王・「犬上王」・路眞人大人・佐伯宿祢百足(上図に併記)・黄文連本實を殯宮造営の司とし、刑部親王廣瀬王引田朝臣宿奈麻呂・「民忌寸比良夫」を大殿垣を造る司としている。二十五日、四大寺で設齋を執り行っている。二十九日に西殿の殯宮に安置している。三十日の大祓を中止したが、東西の文部の厄除けの儀は常のように行ったと記している。

<美濃國:岐蘇山道>
美濃國:岐蘇山道

美濃國の木曽山道…と思わず読んでしまいそうだが、全く異なる表記である。素直に文字列を読み解いてみよう。頻出の岐=山+支=分岐する様蘇賀蘇=艸+魚+禾=魚の形の山稜と稲穂のような山稜が並んで延びている様と読み解いて来た。

図に示したように山稜が寄り集まる谷間を真っ二つに分ける山道を見出すことができる。不破郡と多伎郡の間から礪杵郡を通り尾根に向かう道と思われる。

何とも見事な配置であろう。勿論、これを国譲りした結果なのだから当然と、言える。”木曽路”の本貫の場所である。「不破」はそのまま、「多伎」は「多芸」と一時は言われ、「礪杵」は「土岐」に音を残している。

現在も尾根には林道貫山線、更に井手浦線が走っている。「菟田」に繋がる山中の道だったようである。初めて「岐蘇山道」が通じたと記載しているが、貫山・水晶山山塊を越えるようになるにはまだまだ多くの時間を要したのではなかろうか。

<民忌寸比良夫・袁志比・大梶
● 民忌寸比良夫

調べると父親が民直小鮪と知られているようである。そうなると民直の地に「比良夫」の地形を見出せるか否やになる。図に示したように思い煩うことなく出自の場所を求めることができたようである。

比良夫=くっ付いているなだらかな地が岐れて広がっていると解釈される。「比羅夫」など文字を変えながら多くの名前に用いられている。

後(元明天皇紀)に民忌寸袁志比が登場する。系譜は定かではないようだが、近隣に住まっていたと推測される。既出の文字列であって袁志比=ゆったりとした山稜の端(袁)で蛇行する川(志)が並んでいる(比)様と読み解ける。図に示した場所辺りと推定される。当時の彦山川が複数に分かれて流れていたと思われる。「民」一族だが、「德太」系列ではなかったのであろう。

更に後(聖武天皇紀)に民忌寸大梶(大楫とも記載される)が登場する。系譜は不詳のようであり、名前から出自の場所を探ってみよう。大=平らな頂の山稜として、「梶」=「木+尾」と分解される。更に「尾」=「尸+毛」とすると、梶=山稜が延びた地が鱗のような形をしている様と解釈される。併せて「楫」=「木+囗+耳」とすると、「耳」の形をしている場所が出自と推定される。

「民直(忌寸)」の地を檜隈の南側にあったと推定したが、近隣を含めても登場する地名・人名は殆ど見られることがなく、傍証することが叶わなかった。上図に示したように、その地に知られている五人の名前を当て嵌めることができたと思われる。倭漢一族として片付けられているようだが、彦山川を挟んで東西の配置であり、特異な存在の一族であったと推測される。

<犬上王>
● 犬上王

初見で従四位下を叙爵されているが、系譜不詳である。皇孫扱いなのだが、母親の出自に問題でもあったのかもしれない。

と言う訳で、名前が示す地形から出自の場所を求めてみよう。「犬上」は古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった犬上君に用いられている。

犬上=[犬]の文字形をした地の上にあるところと読み解いた。現地名は京都郡苅田町山口にある北谷・等覚寺辺りである。その地形を飛鳥近辺で探索すると、図に示した場所が見出せる。

持統天皇及び文武天皇の喪葬に関わったと記載され、最終正四位下・宮内卿であり、皇族の行事に関わった人物だったように伝えられている。

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『續日本紀』巻二巻尾。




























2021年1月20日水曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(14) 〔485〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(14)


大寶二年(即位六年、西暦702年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

五月辛未。勅。若五世王自有辞訟須受理者。特給坐席而与所分。丁亥。勅從三位大伴宿祢安麻呂。正四位下粟田朝臣眞人。從四位上高向朝臣麻呂。從四位下下毛野朝臣古麻呂。小野朝臣毛野。令參議朝政。

五月五日、五世王が自ら訴訟を起こして、それを受理する場合は特別に座席を設けて裁定するようにしろ、と命じている。二十一日に大伴宿祢安麻呂粟田朝臣眞人高向朝臣麻呂下毛野朝臣古麻呂小野朝臣毛野に朝廷の政治に参画させている。

六月壬寅。復大倭國吉野宇知二郡百姓。癸夘上野國疫。給藥救之。庚申。以從三位大伴宿祢安麻呂爲兵部卿。甲子。震海犬養門。乙丑。遣唐使等去年從筑紫而入海。風浪暴險不得渡海。至是乃發。

六月六日、大倭國の吉野郡宇知郡の百姓の租税を免じている。大倭國の範囲がどんどん広がって、畿内と重なるような感じになって来ているが、意識的な記述なのであろう。

<宇閉直弓・白海石榴>
吉野郡かつての吉野國巢の場所として、宇知郡は、天武天皇紀の「宇閉直弓」が「白海石榴」を献上したと言う記述に関連する場所と思われる(図を再掲)。

「宇が閉じる」の知=鏃の形を用いた名称と思われる。確かに吉野の「首」に当たる場所ではあるが、地形的には「宇」であろう。「記紀・續紀」を通じて確度の高い比定場所となったようである。

七日に上野國で疫病が流行り、薬を与えて救ったと記載している。二十四日、大伴宿祢安麻呂を兵部卿に任命している。

二十八日に「海犬養門」が震えたようである(「海犬養」はこちら参照)。その門のような谷間の入り口付近に落雷があって震えたのではなかろうか。

二十九日に延び延びになっていた遣唐使が漸く出航することができたと述べている。大寶元年一月の記事に記載されていた(遣唐執節使としての粟田朝臣眞人から山於億良までの計九名)。

秋七月己巳。有勅斷親王乗馬入宮門。癸酉。詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。又在山背國乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴驗。宜入大幣及月次幣例。乙亥。詔。令内外文武官讀習新令。」美濃國大野郡人神人大獻八蹄馬。給稻一千束。丙子。天皇幸吉野離宮。乙未。始講律。是日。赦天下罪人。

七月四日に親王が乗馬して宮門に入ることを禁じている。八日、伊勢太神宮の封物は神の御品である故濫りに穢すことを禁じる。また「山背國乙訓郡」の「火雷神」は旱魃の折に霊験あらたかである故、大幣と月次の帛を奉るようにせよ、と命じられている。

十日に内外の文武官に新令を習わせている。また「美濃國大野郡」の人、「神人大」が「八蹄馬」を献上し、稲一千束を与えている。十一日に天皇は吉野離宮に行幸。三十日、初めて大寶律を講義している。同日、恩赦している。

<山背國乙訓郡・火雷神>
山背國乙訓郡・火雷神

山背國に「乙訓」の文字列が示す地形を見出すことができるのであろうか?…直感的には文字の意味ではなく文字形そのものを地形象形に用いているように思われる。

またその地にあった「火雷」の地形も重要な情報を提供していると思われる。「雷」の古字体、「靁」=「雨+畾」と分解される。「畾」=「丸いものが多く寄り集まった様」を表すと解説される。「鬼」にも含まれる「田」の文字要素である。

これで思い出されるのが、天武天皇紀に登場した坂田公雷である。御所ヶ岳山系南麓の山稜が示す形を「雷」と見做したと解釈した。この「雷」を含む地をよく見ると、広い谷間が「乙」の形になっていることが解る。「訓」=「言+川」に分解できる。

纏めると乙訓郡=[乙]の形になった耕地(言)の傍らを川が流れている郡と読み解ける。火雷神=丸く小高いところ(畾)から垂れる(雨)山稜が炎(火)のように延びた先の高台(神)と紐解ける。おそらく社は図に示した場所にあったのではなかろうか。

国譲りされた現在も、実に絶妙な配置になっている(近江・葛野・山科・乙訓)。と言うことは、主たる各地の名称は国譲り後に付けられたのではなく、それ以前にあったと推測される。「〇前・〇中・〇後」の配置も全く同様の状況を示唆していると思われる。

<美濃國多伎郡・大野郡>
美濃國大野郡:八蹄馬

美濃國多伎郡に併記した図を再掲する。前記で登場した飛騨國神馬のような大騒ぎはないのだが、やはり開拓した地を献上したものと推測される。

「蹄」が八つもある馬は、珍しい「瑞」と解釈するのも勝手であるが、やはり絵空事となってしまうようであろう。折角の地形情報を見失ってしまうことになる。

「蹄」=「足+帝」と分解される。地形象形で解釈するなら「山稜が長く延びた端で締め括られた様」と読み解ける。

八蹄馬=谷間で山稜が長く延びた端で締め括られた馬のようなところと読み解ける。残念ながら現在は広い団地になっているようで全体の地形を伺うことは叶わないが、主要な地形要素を知ることができそうである。

この「馬」の先は周防灘の海となっていたと推測される。正に入江に突き出た岬である。それを「蹄」で表記したと解釈される。開拓者、神人大=延びる高台(神)にある谷間(人)で平らな頂の麓(大)を示すと読み解ける。図に示した須佐神社の小高い地の麓に住まっていたのではなかろうか。

八月丙申朔。薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。」授出雲狛從五位下。己亥。以正五位上高橋朝臣笠間。爲造大安寺司。庚子。駿河下総二國大風。壊百姓廬舍。損禾稼。癸夘。震倭建命墓。遣使祭之。戊申。有勅。五衛府使部始准兵衛給祿。辛亥。以正三位石上朝臣麻呂爲大宰師。癸亥。勅伊勢太神宮服料用神戸調。

八月一日、「薩摩多褹」は変化(倭國化)を遠ざけ命令に逆らっている。故に兵を送って征討し、戸を調べ、官吏を置いたと記載している。同日、「出雲狛」に從五位下を授けている。『壬申の乱』(出雲臣狛)で具体的な活躍が記載されていたが、遅まきながら?・・・少し後に「臣」姓を授けたと記載される。書紀の記述は後の冠位で表記したのであろう。この時点では無姓だったようである。「出雲」に神経を尖らせるのには変わりはないようである。

四日に高橋朝臣笠間を「大安寺」築造の司に任命している。五日、駿河國・下総國に大風が吹いて、百姓の家が壊れ、稲に損害が出ている。即位二年(西暦698年)九月にも大風の記事があったが、南方からの風が吹き堪る地形によるのかもしれない。八日に倭建命の墓(古事記:白鳥御陵)に落雷があって、使者に鎮祭させている。

十三日、初めて五衛府使部にも兵衛に準じて禄を与えている。十六日に石上朝臣麻呂(物部連麻呂)を大宰帥に任命している。二十八日、伊勢太神宮の衣服料に神戸の調を用いることを命じている。

<薩摩多褹>
薩摩多褹

多褹は、書紀で多禰と表記された島である。續紀は「多褹」に置換えている。ここでは、それに「薩摩」を付加して記述している。この文字列は、「摩」を「麻」とすると、書紀に薩麻之曲(耽羅國、現在の済州島東北の隅と推定)として登場していた。

また文武天皇紀では薩末(現在の福岡市南区)の表記も登場する。いずれにせよ固有の名称ではなく、地形を表すために用いられた表現である。既出の「薩」、「摩」と同様にして解釈できる。

纏めると、薩摩=二つに岐れて生え出た山稜が細切れになったようなところと読み解く。「多褹」は延びた山稜の端の地形であるが、その山稜に住まっていた人物を竺志惣領と記載していた。即ち、すんなり延びた山稜ではなく、途切れ途切れの地形を示す山稜と見做していたのである。薩摩多褹は、これらを併せた地域を示していると解釈される。

<大安寺・熊凝精舎・熊凝王>
大安寺

「大安」だけではとても特定することは叶わないが、調べると本寺の前身は廐戸皇子に関わる一寺、「熊凝精舎」と判った。

「熊」=「隅」、「凝」=「行き止まって寄り集まった様」とすると、山稜の端が途切れて小高く盛り上がった様を表していると思われる。

大安=平らな頂の麓で谷間が嫋やかに曲がっている様である。これらの地形要素を満たす場所を、容易に求めることができる。書紀の天武天皇紀に倉梯と名付けられた山稜の先端部の地形を表していると思われる。

後(續紀の元明天皇紀)に熊凝王が登場する。出自の詳細は不明のようであるが、おそらくこの大安寺付近に住まっていたのではなかろうか。関連する主要な名称を併記したが、藤原宮(新益京)、後には平城京へと都の中心が西に遷って行く中で、必要な大寺だったのであろう。

九月乙丑朔。日有蝕之。戊寅。制。諸司告朔文者。主典以上送弁官。惣納中務省。」討薩摩隼人軍士。授勲各有差。辛巳。駿河。伊豆。下総。備中。阿波五國飢。遣使存恤。癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮。乙酉。從五位下出雲狛賜臣姓。丁亥。大赦天下。己丑。詔。甲子年定氏上時。所不載氏今被賜姓者。自伊美吉以上。並悉令申。

九月一日に日蝕があったようである。十四日、諸司の告朔の文書は、主典以上は弁官に送り、弁官が纏めて中務省に納めるようにせよ、と命じられている。同日、「薩摩隼人」(上記<薩摩多褹・隼人>を参照)を討伐した軍士に、それそれ勲位を授けている。十七日、駿河國伊豆國(嶋)・下総國備中國阿波國(粟國)の五國が飢饉が発生している。使者を遣わして「存恤」(慰問し恵むこと)している。これらの國の地形を考えると台風による風水害の影響だったのかもしれない。

十九日に使者を遣わして、「伊賀國・伊勢國・美濃國・尾張國・三河國」の五國に行宮を造らせている(各國の配置はこちらを参照)。二十一日に「出雲狛」に臣姓を授けている。二十三日、天下に大赦。二十五日に甲子の年の氏上を定める時に不記載であって現在姓を授かっている者で、「伊美吉」(忌寸)以上は全て申し出るように、と命じられている。

冬十月乙未朔。從四位下路眞人登美卒。丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。」唱更國司等〈今薩摩國也。〉言。於國内要害之地。建柵置戍守之。許焉。」鎭祭諸神。爲將幸參河國也。甲辰。太上天皇幸參河國。令諸國無出今年田租。乙巳。近江國獻嘉禾。異畝同穗。戊申。頒下律令于天下諸國。乙夘。詔。上自曾祖。下至玄孫。奕世孝順者。擧戸給復。表旌門閭。以爲義家焉。

十月一日に路眞人登美(迹見)が亡くなっている。「登美」は古事記の表記(登美能那賀須泥毘古)が示す場所である。續紀の記述で古事記表記に還元された例を纏めると興味深い結果が得られるかもしてないが、後日としよう・・・。

三日に薩摩隼人の征伐に向かう際に前もって(筑紫)大宰が所管する地九ヶ所の神で祷祈している。これが荒賊を平らげるのに威力を発揮したようである。よって幣帛を奉納したと記載している。今は「薩摩國」となっているが、その國内の要害の地に柵を設置し、守衛を置くことにしたいとする國司の言上を認めている。この日、諸神を鎮祭しているが、參河國(三河國)へ行幸されるためである。

十日に太上天皇が參河國に行幸されている。関係する諸國の今年の田租は免除している。十一日に近江國が嘉禾を献上し、「異畝同穗」だったとか。十四日に律令を天下の諸國に頒布している。二十一日、曽祖父から玄孫に至るまで,累代孝行を尽くす一家には,その戸の税を免除し,家の門や里の入口に掲示し,「義家」とせよ、と命じている。

<近江國:嘉禾>
近江國:嘉禾(異畝同穗)

文武天皇即位二年(西暦698年)六月に近江國が白樊石を献上したと記載されていた。この地を近江國蒲生郡の山麓を開拓したと解釈した。現地名は京都郡苅田町尾倉・新津辺りである。

また書紀の天武天皇紀に縵造忍勝が嘉禾:異畝同頴を献上した記事があった。「異畝同頴」は「異畝同穗」とは類似の表記と思われる。即ち、類似の地形を表している。

図に示したように離れた尾根から延びる山稜が端でくっ付くようになっている様を示していると思われる。海辺の台地での水田稲作を可能にしたのであろう。現地名の新津は地形象形表記かもしれない。忘れるところであった・・・嘉=壴+加=鼓のような湾曲して盛り上がった様と読み解くと「異畝」の「禾」が綺麗な形をした鼓に向かって延びている様を示していることが解る。

近江國蒲生郡の地に百濟人やら美濃國多伎郡の人々を入植させて、急斜面の地の開拓が進展したのであろう。「記紀・續紀」は正に国土開発の史書なのである。





2021年1月16日土曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(13) 〔484〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(13)


大寶二年(即位六年、西暦702年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三月壬申。因幡。伯耆。隱伎三國。蝗損禾稼。乙亥。始頒度量于天下諸國。戊寅。正五位下中臣朝臣意美麻呂。從五位下忌部宿祢子首。從六位下中臣朝臣石木。忌部宿祢狛麻呂。正七位下菅生朝臣國桙。從七位下巫部宿祢博士。正八位上忌部宿祢名代。並進位一階。己夘。鎭大安殿大祓。天皇御新宮正殿齋戒。惣頒幣帛於畿内及七道諸社。

三月五日に因幡國(書紀の因播國)伯耆國隱伎國で蝗害が発生した模様である。「隱伎國」は古事記の隱伎之三子嶋と記載された島々と思われる。「菟」が住まう島と描かれていた。「記紀」を通じて漸く人…蝗も…の存在が確認されたようである。余談だが、蝗(イナゴ)に関して、Wikipediaには・・・、
 
日本での発生は稀なため、漢語の「蝗」に誤って「いなご」の訓があてられたが、水田などに生息するイナゴ類が蝗害を起こすことはない。
 
・・・と記載されている。蝗」はトノサマバッタ類とのこと。中国での発生の記録が多くあり、直接あるいは朝鮮半島経由で飛来したのかもしれない。疫病発生と関連しているように思われるが、定かではない。

八日に初めて度・量を諸國に頒布している。「度量」=「長さと容積」でその基準・測る器具などを含んでいるのではなかろうか。

十一日に中臣朝臣意美麻呂忌部宿祢子首・「中臣朝臣石木」・「忌部宿祢狛麻呂」・「菅生朝臣國桙」・「巫部宿祢博士」・「忌部宿祢名代」の各冠位を一階進めている。十ニ日、大安殿にて大祓を行い、天皇は新宮正殿で齋戒(身を浄めること)している。また畿内及び七道諸社に幣帛を頒布している。尚、「七道」ついては後に詳細を述べることにする(概略図はこちらを参照)。

<中臣朝臣石木>
● 中臣朝臣石木

「中臣朝臣」の一族なのだが、系譜など全く不詳のようである。更に氏名の「石木」が簡明が過ぎて、これも地形象形的にも困難な状況である。

石木=山麓の小高い地が木の形をしている様と読み解けるが、それを頼りに「中臣」の狭い谷間を散策すると、「中臣朝臣意美麻呂」の西側の山稜がそれらしき様相を示していると気付かされる。

若干「木」の形を認識するには地図の解像度不足の感があるが、丸まった地形ではないようである。この地は武天皇紀に宿禰姓を賜った「中臣酒人連」の出自の場所に近接する。この「連」の系譜など不明なところが多く、「石木」に共通するようである。「中臣朝臣意美麻呂」が中臣一族を代表する立場になって推挙されたのかもしれない。

<忌部宿禰狛麻呂・名代>
● 忌部宿祢狛麻呂・名代

調べると「忌部宿禰狛麻呂」は「子首」の子であり、「忌部宿禰名代」は「子首」の弟の色弗(色夫知)の子と判った。

『壬申の乱』では倭京陥落時に活躍し、日本書紀編纂に従事した功労者となり、中臣氏の隆盛で神事に関わる存在が薄れる中で気を吐いている人物のように伺える。

前記で推測したように、それらに加えて天武天皇一家が桑名(現地名北九州市小倉南区日の出町)に滞在した時に忌部一族がそれを支えたのではなかろうか。当時の大臣中臣金連への対抗意識も利用した桑名への逃亡であったように思われる。

狛=犬+白=平らな頂の山稜がくっ付いて並ぶ様と読み解いたが、「首」の北側にその地形を見出すことができる。名代=山稜の端の三角形の地が背後にある様と読み解ける。父親「色弗」の西側に当たる場所と推定される。

<菅生朝臣國桙>
● 菅生朝臣國桙

「菅生」の文字列は、「記紀」には登場しない。「朝臣」の姓とは言え「正七位下」であり、その系譜に高位の者がいなかったようでもある。いずれにせよ、登場のなかった地が出自であろう。

「菅」の文字も決して多くはなく、古事記に伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の菅原之御立野中陵及び穴穗命(安康天皇)の菅原之伏見岡陵に登場するぐらいである。

「菅」=「艸+官」と分解され、通常は「管のような草」即ち「茅」の形を表す文字と知られている。それを地形象形に用いて、管のような山稜が並んでいる(艸)様を示していると解釈される。

図に示したようにが太く広がった場所ではなく、西側の細く生え出たような地を菅生と表記していると思われる。「桙」=「木+牟」と分解される。木製の「鉾」を表すと解釈することもできるが、「牛」の古文字の形で囲われた地形と見做すこともできそうである。國桙=大地が矛のような様と読み解ける。

「菅生」一族は、天兒屋命が遠祖であり、「中臣」一族とは同根と知られる。神事に関わる氏族だったようで、今回の昇進に加えられたのではなかろうか。尚、この後にも多くの人物が登場するようになったようである。

<巫部宿禰博士>
● 巫部宿禰博士

天武天皇紀に「宿禰」姓を賜った「連」の一覧の中で登場していた(こちら参照)。現地名の北九州市小倉南区志井の中心地辺りと推定した。

この地の人物も「記紀」で出現すことはなく、貴重な記述と思われる。博士=突き出た山稜(士)が四方に平らに広がっている(博)ところと読み解ける。

持統天皇紀に登場した文忌寸博士(勢)などの解釈と同様である。図に示した志井川が大きく蛇行するところの脇で広がった平らな場所が出自の場所と推定される。

『日本姓氏語源辞典』によると「巫部」は…福岡県北九州市小倉南区徳力に建立した神社で祈念した住民が古墳時代の雄略天皇の病が平癒して賜った名前と伝える。江戸時代に佐野姓で1940年頃に戸籍上の姓として称したとの伝もあり…と記載されている。

間違いなく残存地(人)名と思われる。と言うわけで「巫部」に関連する発言は、都合が悪く、少ないのであろう。名前の通り、神事に関わっていた一族と推測される。上記の「菅生」も含め、神事関連の埋もれた人材の掘起しを行ったように思われる。

甲申。令大倭國繕治二槻離宮。」分越中國四郡屬越後國。庚寅。美濃國多伎郡民七百十六口。遷于近江國蒲生郡。甲午。信濃國獻梓弓一千廿張。以充大宰府。丁酉。聽大宰府專銓擬所部國掾已下及郡司等。

三月十七日、大倭國に二槻離宮(兩槻宮:後飛鳥岡本宮)を修繕させている。また「越中國」の四つの郡を「越後國」に属するようにしたと記している。調べるとその四郡は「頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡」のようである。転属の真意は憶測になるが、北方からの脅威に対応するためかもしれない。下記で「越中國」の有様と合わせて示すことにする。

二十三日に「美濃國多伎郡」の民七百十六人を「近江國蒲生郡」に遷している。これもどんな背景なのかは定かではないが、かつて天智天皇紀に、百濟百姓を一旦「近江國神前郡」に住まわせ、四年後に「蒲生郡」に転居させたと言う記述があった(こちら参照)。多分土地開発が順調に進展して人が住まう場所が確保されつつあったのであろう。また更に発展させるためにも移住の命を下したのではなかろうか。

二十七日に信濃國が弓千二十張を献上、従前通りに大宰府に充てている。三十日、大宰府が國司の「掾」(三等官)以下の者及び郡司を選考することを許可している。

<越中國四郡>
越中國四郡

「越後」は前出であり、越後蝦狄の名称で續紀に登場する。勿論「記紀」には見当たらない文字列である。

既に読み解いたように「越」=「高志」であり、その背後に位置する地名として用いられていると思われる。

本来ならば「後」に対して「前」の表記がなされるのであろうが、「越前」は既に別の場所で用いられている(こちら参照)。それ故に「越中」の表記にしたものと推察される。

上記したようにこの四郡は頸城郡古志郡魚沼郡蒲原郡と知られている。国譲りされて現在でも馴染みのある名称が並んでいる。先ずはこの郡の場所を求めてみよう。

「頸」=「首」とされるのでそれを用いて解釈するも良しだが、頸=坙+頁=頭部に真っ直ぐに突き通す様と読むこともできる。いずれにせよ、図に示したように首の付け根の地形を表していると思われる。城=土地を盛り上げて平らにした様であり、これらの地形要素を満たしていることが解る。

古志=丸く小高い地の傍らで川が蛇行している様であり、最も東側の場所を表していると思われる。「高志」の高=皺が寄ったような様であり、全体を捉えた表現となるが、「古」を用いればその場所が特定されることになる。実に適切なものであろう。

「魚沼」の「魚」は多くの例があったように山稜の端が細かく四つに分かれている様を示すと思われる。「沼」本来の意味は、沼=水+召=水辺が大きく曲がっている様であり、通常使われる「沼」とは異なることに気付くべきであろう。その地形を頸城郡の東隣に見出すことができる。蒲原郡蒲=艸+水+甫=水辺で平たく広がった様と読み解いた。更にその東隣の地が該当すると思われる。

四郡は越中國の北部に並んだ地域であることが解る。それらを背後の越後國に統合したと記載しているのである。越中國に残されたのは飛騨國との境までの一郡程度の広さになったようである。律令制定に伴って國・郡の整備も急速に進められていたように伺える。

同じような表記に備前・備中・備後があるが、既に読み解いたように吉備國が分割されたのではないことを述べた。「備」の地形の位置関係から名付けられたものと考察した。いずれにせよ、都に近い、遠いの表現ではないことは確かであろう。

また、四郡を受け入れた越後國の領域は、現在の北九州市門司区春日町の行政区分に重なっている。既に幾度か見られた現象であるが、古の”國境”を反映しているのではなかろうか。

<美濃國多伎郡・大野郡>
美濃國多伎郡

『壬申の乱』では重要な役割を果たした國であり、既に不破郡・片縣郡礪杵郡(昭和池の南側)そして安八磨郡が登場していた。これらに「多伎郡」が加わることになる。

常用の文字列、多伎=山稜の端の三角州が谷間で岐れた様と読み解ける。現在の地形図から容易に見出すことができる場所である。東朽網小学校周辺の地となろう。

当時はこの小学校の北側は海に面し、広大な入江となっていたと推測される。「乱」の際に先発隊が侵攻したのだが、捕らえられたり、逃げ帰ったりしたと記述された場所に当たる。多くの谷間に潜んだ敵に恐れをなした、と言うわけであろう(詳細はこちら参照)。

現在の地形とは大きくかけ離れて、耕作地は極めて少ない土地であったと思われる。おそらく「乱」の功績もあった人々を新たな開拓地に入植させたのではなかろうか。現地名の朽網=山稜が曲がって延び至った先が見えなくなる様と読むことができる。山稜の端が水没した地形、依網であったことを今に残していると思われる。

少し後に大野郡が登場する。「平らな頂がある野原」とすれば、多伎郡の北に接して海に突き出た山稜の端の地が見出せる。この地の人の献上物が記載されるが、詳細はその時に述べることにする。多伎郡は耕地を拡げるには、やはり地形的に無理があったのであろう。

夏四月庚子。禁祭賀茂神日。徒衆會集執仗騎射。唯當國之人不在禁限。乙巳。飛騨國獻神馬。大赦天下。唯盜人不在赦限。其國司目已上。出瑞郡大領者。進位各一階。賜祿有差。百姓賜復三年。獲瑞僧隆觀免罪人京。〈流僧幸甚之子也。〉又普賜親王以下畿内有位者物。免諸國今年田租。并減庸之半。丁未。從七位下秦忌寸廣庭獻杠谷樹八尋桙根遣使者奉于伊勢大神宮。庚戌。詔定諸國國造之氏。其名具國造記。壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。

四月三日に「賀茂祭」(場所はこちら参照)の時に武器を執り、騎射することを禁じているが、山背國の人はその限りではないと述べている。八日、飛騨國が「神馬」を献上している。それ故に天下に大赦し(盗人は除く)、國司の「目」以上の者、「瑞」を出した郡の大領の冠位を一階進めている。

更に百姓の賦役三年間の免除を与え、担当の「僧隆觀」(流罪となった僧幸甚の子)の入京を許している。また畿内の有位者に物を与え、諸國の今年の田租を免じ、庸を半減している。久々の大献上物だったようである。勿論、「馬」ではなかろう。

十日に「秦忌寸廣庭」が「杠谷樹八尋桙」(八尋もある柊の桙)に根が付いたような樹を使者を遣わして伊勢大神宮に奉納している。葛野秦造河勝の後裔と知られる。十三日、諸國の國造の氏を定め、その名が『國造記』に具わっている。十五日、「筑紫七國」及び越後國に、采女・兵衛を「簡點」(人選)し、貢進させているが、陸奥國からは除外している。

<飛騨國:神馬・僧隆觀>
飛騨國:神馬

「飛騨國」は、現在の北九州市門司区黒川西に当たると推定した場所である。さて、そこに神馬が放牧されているのであろうか?…神=示+申=山稜が畝って延びた高台の様と読み解いた。

馬=馬のように見える様であろう。すると飛騨國西側の麓で延びた山稜に目が止まる。山稜の端が一段小高くなっているところを頭部見立てたのであろう。

これまでにも土地開発の立役者の名前が記載された場合は、それが重要なヒントを示していた。僧隆觀の名前に潜められた情報は・・・隆=降+生=高く盛り上がった様を表す文字と知られる。「馬」の頭部を示しているようである。

前記で筑紫國の觀世音寺で用いられた觀=鳥のように見える山稜がある谷間と読み解いた。これらの地形要素を満たす場所が現在の不動院辺りに見出せる。即ち、「神馬」の北麓の谷間から東郷中学校に至る地を開拓したことを述べていると思われる。大盤振る舞いのような記述であるが、決してそうではなく、この「神馬」の献上は大きな成果であったことが伺える。

<秦忌寸廣庭-大魚・百足>
● 秦忌寸廣庭

「山背國」に蔓延った秦氏一族ではあるが、二系統、即ち現地名では京都郡みやこ町犀川大村辺りと田川郡赤村赤辺りを中心とする系列があったようである。

前者は秦大津父などが、後者は葛野秦造河勝が登場している。「葛野」と冠されたのにはそれなりにわけがあったと言うことになる。

地形的には犀川(現今川)が大きく曲がって流れることによって、彼らの統治域も些か飛地のような配置になったものと推察される。

調べると「廣庭」は後者の葛野系であり、秦忌寸石勝の子であることが判った。息子に秦忌寸大魚がいたとも記載されている。幾度か登場の廣庭=山麓で平らに広がった様と読み解いた。図に示したように犀川の川辺に近い場所と思われる。頻出の「魚」は、変わらず「灬」の象形であろう。

慶雲元年(西暦704年)正月の記事で秦忌寸百足が登場する。これも調べると「石勝」の子、「廣庭」とは兄弟と知られる。その東隣の山稜が百足の脚のように延びた場所を出自としていると思われる。実に”分かりやすい”一族であろう。

<筑紫七國>
筑紫七國

「筑紫七國」の表記は、「記紀」も含めて他には全く登場せず、実に曖昧なのであるが、書紀・續紀で登場する国々、筑前國・筑後國因幡國伯耆國隱伎國安藝國などを纏めて表現したものかもしれない。

では何故「筑紫」と冠したのか?…図に示すと右のような配置であることが解る。古事記の表現では「竺紫(日向)」であり、またその西側は「胸形」及び「阿岐」となる。

一方、書紀では「筑紫(日向)」と表記する。即ち、着目する山稜の形でそれに関わる地の名称としたと思われる。これが日向國の由来である。

更に續紀は西端の山稜に着目し、それを「筑」と見做して、その前後で筑前・筑後と名付けていると解釈した。これらの書紀において用いられた命名(方法)を引き継いで言い表したのが筑紫七國かと思われる。国史記述の一貫性を重んじた作業を行ったのではなかろうか。

ただ、既に述べたように古事記における地形象形表記の適切さも損なわないようにしているのが續紀と思われる。興味深いところではあるが、この辺で・・・通説、續紀にそれは存在しないのかもしれないが、古事記の筑紫嶋の「面四」の筑紫國・豐國・熊曾國・肥國の中で熊曾國以外を前後二つに分けて計七つにする解釈が見受けられる。「采女・兵衛」を供出させるには、少々漠然過ぎた地域のような気もするが、筑紫嶋を九州島とすると必然の結果なのであろう。