天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(28)
天平十二年(西暦740年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
秋八月甲戌。和泉監并河内國焉。癸未。大宰少貳從五位下藤原朝臣廣嗣上表。指時政之得失。陳天地之災異。因以除僧正玄昉法師。右衛士督從五位上下道朝臣眞備爲言。
八月二十日に和泉監を河内國に併合している。靈龜二(716)年に河内國の三郡を分置したが、旧に戻している(こちら参照)。二十九日に大宰少貮の藤原朝臣廣嗣が上表し、時の政治の得失を指摘して天地の災害や異変について陳べている。それによると災害や異変の原因である僧正の玄昉法師と右衛士督の下道朝臣眞備を追放するように、と言上している。
藤原式家の嫡男である「廣嗣」は、天平十(738)年四月に”式部少輔・大養徳守”に任じられていたが、”大宰少貮”と記載されている。下記に天皇自らが、その理由を述べられているが、素行の悪さが原因で左遷されていたことが分る。そうすれば、益々反逆することになったのであろう。本人は、天下のために進言しているつもりなのだから。
九月丁亥。廣嗣遂起兵反。勅以從四位上大野朝臣東人爲大將軍。從五位上紀朝臣飯麻呂爲副將軍。軍監軍曹各四人。徴發東海。東山。山陰。山陽。南海五道軍一萬七千人。委東人等持節討之。戊子。召隼人廿四人於御在所。右大臣橘宿祢諸兄宣勅授位各有差。并賜當色服發遣。己丑。勅從五位上佐伯宿祢常人。從五位下阿倍朝臣虫麻呂等。亦發遣任用軍事。」從五位下神前王賜姓甘南備眞人。補攝津亮。乙未。遣治部卿從四位上三原王等奉幣帛于伊勢大神宮。己亥。勅四畿内七道諸國曰。比來縁筑紫境有不軌之臣。命軍討伐。願依聖祐欲安百姓。故今國別造觀世音菩薩像壹躯高七尺。并寫觀世音經一十卷。乙巳。勅大將軍大野朝臣東人等曰。得奏状知遣新羅使船來泊長門國。其船上物者便藏當國。使中有人可採用者。將軍宜任用之。戊申。大將軍東人等言。殺獲賊徒豊前國京都郡鎭長大宰史生從八位上小長谷常人。企救郡板櫃鎭小長凡河内田道。但大長三田塩篭者。着箭二隻逃竄野裏。生虜登美板櫃。京都三處營兵一千七百六十七人。器仗十七事。仍差長門國豊浦郡少領外正八位上額田部廣麻呂。將精兵卌人。以今月廿一日發渡。又差勅使從五位上佐伯宿祢常人。從五位下安倍朝臣虫麻呂等。將隼人廿四人并軍士四千人。以今月廿二日發渡。令鎭板櫃營。東人等將後到兵。尋應發渡。又間諜申云。廣嗣於遠珂郡家。造軍營儲兵弩。而擧烽火徴發。國内兵矣。己酉。大將軍東人等言。豊前國京都郡大領外從七位上楉田勢麻呂。將兵五百騎。仲津郡擬少領无位膳東人。兵八十人。下毛郡擬少領无位勇山伎美麻呂。築城郡擬少領外大初位上佐伯豊石。兵七十人。來歸官軍。又豊前國百姓豊國秋山等殺逆賊三田塩篭。又上毛郡擬大領紀宇麻呂等三人。共謀斬賊徒首四級。癸丑。勅筑紫府管内諸國官人百姓等曰。逆人廣嗣小來凶惡。長益詐姦。其父故式部卿常欲除弃。朕不能許。掩藏至今。比在京中讒乱親族。故令遷遠。冀其改心。今聞。擅爲狂逆。擾乱人民。不孝不忠。違天背地。神明所弃。滅在朝夕。前已遣勅符。報知彼國。又聞。或有逆人。捉害送人。不令遍見。故更遣勅符數十條。散擲諸國。百姓見者。早宜承知。如有人雖本与廣嗣同心起謀。今能改心悔過。斬殺廣嗣而息百姓者。白丁賜五位已上。官人隨等加給。若身被殺者賜其子孫。忠臣義士。宜速施行。大軍續須發入。宜知此状。
九月三日に「廣嗣」が遂に兵を動かして反乱している。天皇は勅を下し、大野朝臣東人を大将軍に、紀朝臣飯麻呂を副将軍に、軍監・軍曹は四人づつ任じて、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道から一万七千人を徴発し、「東人」等に節刀を授けて「廣嗣」等を討たせている。四日に二十四人の隼人を天皇の御在所に召し出し、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が勅を宣べ、それぞれに位階を授けると共に、それに応じた色の服を賜り、討伐に出発させている。
五日に佐伯宿祢常人(豐人に併記)・阿倍朝臣虫麻呂(豐繼に併記)等もまた軍事を担当させるために出発させている。この日、神前王に「甘南備眞人」姓を賜い、攝津亮に任じている。十一日に治部卿の三原王(御原王)等を遣わして伊勢大神宮に幣帛を奉納させている。
十五日に四畿内・七道諸國に次のように勅されている・・・此の頃、筑紫周辺に無法の臣下が現れたので軍に命じて討伐させている。仏のありがたい助けにより人民を安泰にさせようと願っている。そのために國ごとに高さ七尺の観世音菩薩像を一体造るとともに観世音経十巻を写経するようにせよ・・・。
二十一日に大将軍の「東人」等に以下ように勅されている・・・奏状によって遣新羅使の船が長門國に停泊している。その船に積んである物は便宜に従って長門國に収蔵せよ。また使節の中で討伐のために採用すべき人があれば、将軍はその者を任用するがよい・・・。
二十四日に大将軍の「東人」等が次のように言上している・・・賊徒である豊前國「京都郡」の鎮長(律令制にはない。中国関連はこちら)でもある大宰史生の「小長谷常人」と「企救郡」の「板櫃鎮」の小長(鎮の次官)の「凡河内田道」を打ち殺した。但し「板櫃鎮」の大長の「三田塩篭」を箭を二本身に受けたまま原野に逃げ隠れた。また「登美・板櫃・京都」の三ヶ所の兵営の兵、千七百六十七人を捕虜とした。捕獲した武器は十七種類であった。そこで「長門國豊浦郡」の少領の「額田部廣麻呂」に命じて精兵四十人を率いて、今月二十一日に出発して海を渡り増援させた。また勅使の「常人」と「虫麻呂」等に命じて隼人二十四人と軍士四千人とを率いて、今月二十二日に出発し、海を渡り、「板櫃営」(板櫃の軍営)に陣取らせた。「東人」等は後からやって来る兵達を率いて、その次に出発し、海を渡ろうと考えている。また間諜の報告によると、「廣嗣」は「遠珂郡」の郡家に軍営を造って、弩などの武器を準備し、烽火を挙げて国内の兵を調達している・・・。
二十五日に大将軍の「東人」等が次のように言上している・・・豊前國京都郡大領の「楉田勢麻呂」が兵を五百騎、「仲津郡」擬少領の「膳東人」が兵を八十人、「下毛郡」擬少領の「勇山伎美麻呂」と「築城郡」擬少領の「佐伯豐石」が兵を七十人を、それぞれ率いて官軍に帰順した。また豊前國の百姓の「豊國秋山」等が逆賊の「三田塩篭」を殺した。また「上毛郡」大領の「紀宇麻呂」等三人が共に謀って賊の仲間の首を四つ斬った・・・。
二十九日に筑紫府管内の諸國の官人・百姓達に以下のように勅されている・・・逆人の「廣嗣」は小さい時より凶悪で、成長するに及んでよく人をいつわり陥れるようになった。そのため、父の故式部卿(宇合)は常に「廣嗣」を朝廷から排除しようと願っていた。朕は、その願いを聞き入れることができずに今までかばい保護して来た。ところが京内でしきりに親族をそしり仲が悪いので、遠くに遷して彼が心を改めるようにと願っていた。しかし今、恣に凶悪な反逆をなして、人民の生活を騒がし乱していると聞いた。これは不孝・不忠で、天地の理に違背し、神々も受け入れないことである。「廣嗣」の滅亡は目前に迫っている。これは以前既に勅符を送ってかの國に報知した。しかしまた、「廣嗣」の仲間の謀反人が勅符を送る人を捉えて殺害し、広く行き渡らせないようにしていると聞く。そのためあらたに勅符数十通を諸國にまきちらせた。これを見た人民はその趣旨を早く承知せよ。もし、もとから「廣嗣」と心を同じくして謀反を起こした人であっても、今、心を改めて過ちを悔い、「廣嗣」を斬殺して人民の生活をやすらかにさせたいならば、無位・無官の庶民の場合は五位以上を賜り、官人の場合には、等級に応じてさらに高い位を加給しよう。もし、自身が殺されたなら、その子孫に下賜しよう。忠臣・義士は速やかにこの趣旨を実行せよ。大軍が引き続き出発して波乱の地に進入するであろう。汝等はこの状態をよくわきまえるべきである・・・。
さて、いよいよ「廣嗣」が武装蜂起したと伝えている。その地が豊前國であり、その地に住まう連中を一挙に登場させている。この國の所在は、現地名の京都郡みやこ町上・下高屋辺りと推定した。蔵持山の山稜を「豐」の地形と見做し、その前後の地を豊前國・豊後國と呼称していたのである(こちら参照)。
<豊前國各郡> |
尚、後に宇佐郡が登場する。元正天皇紀に沙門法蓮が宇佐君の氏姓を賜ったと記載され、その周辺の地を郡建てされていたと思われる。併せて図に示した。
京都郡に含まれ、既出の文字列である京都=大きな高台が寄り集まっているところと解釈される。書紀の景行天皇紀に「豊前國長峽縣」が登場し、その地を「京」と号した、と記載されている。「豊國」を分割して前・後の國としたのでは、決してない。
各郡の由来は、その地から登場される人物名と共に読み解くこととし、「廣嗣」が武装した郡家があったとされている遠珂郡について述べてみよう。頻出の遠=辶+袁=山稜がゆったりと長く延びている様、既に用いられた珂=玉+可=谷間の出口に丸く小高い地がある様と解釈した。現地名の犀川大熊にその地形を見出すことができる。
それにしても福岡県東部において、現在用いられている地名に類似する名称が目白押しに並んでいるようである。北部の企救(半島)、中部の京都(郡)・仲津(小中学校名)、南部の築上(郡)・上毛(町)、そして西部の遠賀(郡)となる。これだけ一致すれば、「豊前國」は、この地のことである・・・これは論理ではない。
● 小長谷常人・楉田勢麻呂
京都郡の鎮長兼大宰史生である小長谷常人が早々に征伐されている。勿論、出自はこの郡と見做すと、既出の小長谷=[小]の字形(三角)に開いた長く延びる谷間と解釈した。
上図<豐前國各郡>に記したように、大きく別けて三つある蔵持山の谷間で、”小”に開いた谷間、即ち谷奥の山稜が三角に尖った谷間は、唯一である。
こちらの拡大した地図を見ると、他の谷間の奥の山稜は平らになっていて、”小”の尖った地形ではないことが解る。その谷間に常人=谷間で北向きに延びる山稜が並んでいるところが見出せる。これも幾度か登場した名前であり、「常」は頻出である。
郡の大領である楉田勢麻呂は、抵抗することなく帰順したと記されている。「楉」=「木+若」と分解される。更に「若」=「叒+囗」=多くの山稜が延び出ている様と解釈される。纏めると楉田=大きな山稜から細かく幾つもの延び出た山稜の傍らに田があるところと読み解ける。
頻出の勢=埶+力=押し上げられたような丸く小高い様であり、これらの地形を示すところが図に示した場所と推定される。「宇佐君」氏姓を元正天皇から賜った法蓮法師の出自は、その西側に当たる。宇佐は、豐前國京都郡の中心地を示す表記なのである。既に述べたが、「法蓮」は医術に優れ、民を救ったことから文武天皇紀に多くの田を与えられている。また英彦山修験の中興の祖であったとも伝えられている。
「玄昉」を排除しようとする「廣嗣」と、「宇佐君法蓮」を信望する「常人」が大宰府で職場を共にすることによって肝胆相照らすようになったのではなかろうか。豐前國の民にとって、重用される「玄昉」に対する不信の大きさを示唆している事件でもあろう。これが豐前國での蜂起の要因と思われる。
● 凡河内田道・三田塩篭
これらの人物は企救郡にあった板櫃鎮の小長と大長と記載されている。今に残る企救半島の「企救」であるが、文字列が示す地形を求めてみよう。
調べると、「企」の文字は、記紀・續紀を通じて、ほぼ全てが”企(キ)”の音として用いられ、地形象形表記としては、極めて稀であることが分る。多分、これが初登場であろう。
「企」=「人+止」と分解される。「人が爪先立っている様」を表し、「先を見て何かを計画する」という意味に展開する文字と知られている。現在では、この展開した意味で用いられていることになる。
地形象形的には、もっと直接的に解釈できるであろう。即ち「企」=「谷間で山稜が区切られている様」となろう。「救」の出現も少なく、あらためて解釈すると「救」=「求+攴」=「山稜が四方から寄り集まっている様」となる。
「球」=「玉+求」であり、丸く寄り集まった様となるが、「救」では、「寄せ集められて混在している様」を示していると解釈される。纏めると企救=谷間で区切られた地に山稜が寄せ集められているところと読み解ける。この地形を京都郡の東北に見出すことができる。
そして、この地に板櫃鎮があったと告げている。先ずは「板櫃」が示す地形を求めてみよう。既出の「板」=「木+反」=「山稜が麓で延びている様」と解釈した。初登場の文字である「櫃」=「木+匱」と分解される。「匱」は、書紀の天智天皇紀に蒲生郡匱迮野が記載されている。要するに「米櫃のような地に蓋をするように山稜が延びている様」を表わしていると解釈した。
纏めると板櫃=米櫃のような地に蓋をするように山麓の山稜が延びているところと読み解ける。そのものずばりの地形を図に示した祓川の川辺に見出すことができる。この地は、元正天皇紀の靈龜二(716)年五月の記事に「大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。」と記載されていた場所と推定した(こちら参照)。「戍(ジュ)」=「武器を持って国境をまもる駐屯地」と解説されている。これを「鎮」と表記していると思われる。
板櫃鎮は、豐前・後國への部外者の侵入を阻止するための重要な拠点であり、本事件が発生する以前から武装されていたことが分る。更に憶測すれば、律令制施行に依らずこの地の自衛手段として不可欠な国防(防疫を含めて)だったのであろう。聖地英彦山を守る人々の地域だったと思われる。当然、官軍は、その「鎮」を壊滅することになる。
凡河内田道の「凡河内」は、既に登場した文字列である(こちら参照)。固有の地名と読んでは、全く意味不明となろう。凡河内=[凡]の文字形の谷間がある川に囲われたところと解釈した。国道が通って些か変形してはいるが、その地形を板櫃鎮の北側で確認することができる。田道=田が首の付け根のような窪んでいるところが出自の場所と推定される。
三田塩篭の幾度か登場の三田=田が三段に積み重なっているところと解釈した。既出の文字列である塩篭(鹽籠)=平らな地が取り囲まれているところと読むと、板櫃鎮の南側の山麓に見出せる。矢を打たれて遁走したが、結局は捕まって殺害されたと記載されている。後に関連するところを述べる。また、三田兄人が登場する。図に示した場所が出自と思われるが、「塩篭」との繋がりは不詳のようである。
<仲津郡:膳東人> |
● 膳東人
仲津郡の擬少領だった人物で、戦わずに帰順したと記載されている。既出の文字列である仲津=谷間を突き通すように延びた川が合流する(水辺で筆のような形の)ところと解釈した。
すると、京都郡の北側、その谷間の出口辺りの高屋川沿いの地を示していると思われる。地図上では、上記の企救郡との境となる谷間に川を確認することはできないが、航空写真を見ると、間違いなく谷川が存在していることが伺える。
膳東人の頻出の膳=月+羊+言+言=山稜に囲まれた地に二つの谷間に耕地が延びている先で山稜の端に三角州があるところと解釈した。図に示した地形を表している。これも固有の地名でも、また膳(宮中で食膳の調理を司る職)を生業とする人の名称でも、決してない。
やたら登場の東人=谷間を突き通すようなところであり、この人物の出自の場所を特定することができる。山稜の起伏が明瞭であり、地形象形表記として、読み解く上で曖昧さが少ないようである。現地名は京都郡みやこ町下高屋であり、上高屋との境である。
● 勇山伎美麻呂・紀宇麻呂
勇山伎美麻呂は下毛郡の擬少領で、部下を引き連れて帰順し、紀宇麻呂は上毛郡の大領で、反逆人の首を四つ取ったと記載されている。その首は下毛郡の大領、上毛郡の擬少領なのかもしれない。
それはともかくとして、下毛=下流にある鱗のようなところ、上毛=上流にある鱗のようなところと解釈すると、蔵持山の北麓で長く延びた山稜が丘陵のようになっている場所を示していることが解る。
「上(下)毛」とくれば、「上(下)毛野」の”野”を省くことはできないであろう。固有地名ならば省略はあり得ない。ましてや、”毛”を省いて「上(下)野」と繋げては、混乱が増すばかりである。
人物は登場しないが、登美郡があったと記載されている。古事記の登美能那賀須泥毘古、路眞人登美で用いられた表記である(こちら参照)。上・下毛郡の東側の長い谷間と思われる。極めて類似した地形を示している。尚、「登美」は現地名には残されていない。豐前國にあっては都合が悪いからである。残存地名が一部合致していることに注目する論旨の不確かさであろう。
勇山伎美麻呂の既出の勇(甬+力)山=突き通すように真っ直ぐに山稜が延びているところと読み解ける。伎美=谷間が二つに岐れて広がったところであり、図に示した場所が出自と思われる。紀宇麻呂の紀=糸+己=[己]の形に山稜が曲がっている様、宇=宀+于=谷間に山稜が延びている様と解釈した。その地形が図に示した場所に見出せる。若干地形に変化が見受けられるが、基本的な様相に違いはないように思われる。
● 佐伯豐石
築城郡の擬少領であった佐伯豐石も帰順したと伝えている。反逆に加わった連中は、早期に総崩れの状態になったようである。
築城の「築」=「筑+木」と分解される。頻出の「筑」を含んでいる。あらためて「筑」=「竹+巩」と分解され、更に「巩」=「工+丮」から成る文字と知られている。
「丮」=「両手を差し出す様」を表す文字要素である(こちら参照)。「工」=「T+一」の図形から「突き通す様」を模した文字である。頻出の筑紫では、「筑」=山稜が[筑]の文字形に延びている様と解釈し、多くの類似する地形の場所を表すと読み解いて来た。
そして、全ての該当場所が谷間がくっきりとした地形であり、文字形に合せることが容易であったが、築城が示す地形は、城=突き固められた台地を表している。どうやら、「筑」を用いずに「築」とした理由が潜んでいるようである。
「築」を文字形に頼らずに解釈すると、築=山稜の前にある両手を差し出して突き通すように山稜が延びている様と読み解ける。すると蔵持山北麓で上記の上・下毛郡の西側に延びている山稜の端の地形を表していると思われる。即ち、「築」は「山稜の端にある[筑]の地形」を示すために用いられていたことが解る。そして、丘陵地形になって、明確な文字象形ではなく、その文字要素に基づく解釈となったと思われる。
佐伯豐石の「佐伯」は「佐伯宿禰」一族と同名であるが、勿論、この人物は豐前國築城郡の出自であろう。佐伯=谷間にある左手のような山稜の傍で谷間がくっ付いているところと解釈した。「築」の左手に当たる山稜の傍で谷間がくっ付いている地形を表してる。何とも、本家の「佐伯」よりも地形的には明確であろう。豐石=段々になった高台が山麓にあるところと読めば、出自の場所は図に示した辺りと推定される。
● 豊國秋山
板櫃鎮の大長であった手負いの三田塩篭を追い詰めて殺害したと記載されている。この人物は豐前國内ではあるが郡名がない地に居処があったのであろう。
豊國をそのまま読んでは、とんでもないことになる。”豊前國の豊國”となって、意味不明なのである。何故こんな名前が出現るのか?…これも固有の名称とすることから生じる齟齬であろう。歴史学は黙して語らず、である。
手負いの「塩篭」は、間違いなく祓川上流域へと遁走したと思われる。図に示したところに、正に名前通りの豊(豐)國=段差のある高台があるところ、秋山=炎のように山稜が延び出た山が見出せる。
首謀者と思われる人物は皆殺害された。九月初めからその月内での出来事と記されている。巷間で伝えられている各地の配置からして、東海・東山道から徴発した大軍団(一万七千人)の移動(多分船?)を考えると時空を超えたようにも思われるが、仔細が不明でもあり、考察は控えることにする。勿論、上記で述べた現在の福岡県東部の出来事ならば、素直に受け取れる出来事であるが・・・。
● 額田部廣麻呂
遣新羅使を乗せる船が停泊していた場所が長門國の豊浦郡にあったと伝えている。当然、精鋭の兵士達及び武器が積載される予定だったと推測される。
長門國は幾度も登場した國であり、現地名の北九州市小倉南区守恒・山手辺りにあり、その西側は、伊勢國の領域に接していると推定した。
するとここで登場した豊浦郡は、東側の谷間、尾張國との境にあったのではなかろうか。図に一部示したが、現在の標高10mを目安にして(青色の部分)、当時は石田川と稗田川の合流地点辺りまで海であったと推測される。
これで一気に豊浦郡の所在が浮かび上がって来た。何度も用いられる豊(豐)=段差のある高台であり、現在は広大な団地になってはいるが、その東側は崖の様相であることが確認される。また「額田部」の額=額のように張り出た様であり、段差の一つを表現していると思われる。以前に登場と同じく、額田部=[額]の麓にある田の近隣にあるところと解釈される。
浦=氵+甫=水辺で平らに広がった様とすると、図に示した領域がその地形を示していることが解る。額田部廣麻呂の出自の場所は、図に示した辺りと思われる。船の着岸地点を求めることも可能なようであるが、定かではない。ただ、興味深いのは、渡来の船は、大宰府近辺であり、出発待機は長門國豐浦であったことが伺える。勿論、足立山の西南麓をすり抜けて、”古小倉湾”に向かったのであろう。
後(称徳天皇紀)に額田部直塞守が銭・稲を献上して外従五位下の爵位と豊浦郡大領を任じられたと記載される。ひょっとすると直姓もその時に授けられたのかもしれない。塞守=両肘を張り出したように山稜が延びている地の前が塞がれているところと読み解ける。些か標高差が少なく判別に難があるが、図に示した場所が出自と推定される。
更に後に長門國厚狹郡が登場する。「豊浦郡」と共に蚕を養わせ、調の銅を止めて、代わりに真綿を出させることにしたと記載される。厚狹=分厚く広がった麓の平らな山稜に挟まれたところと解釈すると、豊浦郡の西側に当たる地域と推定される。
・・・と言うことで、まだまだ事件は続くようだが、一休み・・・。