2020年7月28日火曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(1) 〔437〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(1)


天皇のプロフィールから始まるのであるが、一部既に天武天皇が即位した年として記載されたり、ややこしい記述となっている。また、本紀は、ほぼ後に言われる「壬申の乱」の詳細であり、多くの地(人)名が登場する。錯綜とした内容となっており、極めて難解な文章と言われている。加えて、先取りの天皇が登場したり、記述内容が同時代的であって、世に言う、恣意的な書換えが行われているようでもある。

古事記から始まった”地形象形表記”としての解釈が通用するのか、通説の数多ある不明、不詳の記述を納得の記述に変え得るのか、いよいよ正念場、”瀬田橋の戦い”に突入である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

天渟中(渟中此云農難)原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐㠜之姿、及壯雄拔神武、能天文遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女、爲正妃。天命開別天皇元年、立爲東宮。

(渟中此云農難)が開示されている。幼名が「大海人皇子」であり、「岐㠜」(たかくさとい:幼にして秀でぬきんでる)の意味だそうで、古事記で「賢帝」と解釈した垂仁天皇にも用いられている。「道教神仙思想」に基づく命名と言われているようである。勿論、お構いなく地形象形表記として紐解くことにする。
 
<天渟中(農難)原瀛眞人天皇>
壯雄拔神武」は「壮年になっては雄々しく卓抜し、人間離れした武勇」の意味であろうが、後に明らかとなるが、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の倭国侵攻の戦略である「日を背にして向かう」を採用する。それに重ねた表記であろう。「神武を抜く雄々しさ」と読めるかもしれない。

正妃「菟野皇女」は天智天皇の次女、「鸕野皇女(娑羅々皇女)」の別称である。他に「讚良皇女」とも言われる。纏めて読み解くことにする。

「天渟中原瀛眞人天皇」の文字を一文字一文字読み取いてみよう。瀛」なんとも凄い文字を使ったものである。

通常これで「大海」を表すそうであるが、幼名「大海人皇子」から拝借したように受け取れる。この「海」も所謂「ウミ」とは読まないが、それにしても何と解釈できるであろうか?・・・「瀛」=「氵+亡+囗+月+女+凡」と分解される。参考文献が見つからず、筆者の独断であるが・・・。

すると既出の地形要素を示す文字から成り立っていることが解る。そのまま読み下して行くと、「瀛」=「水が地を覆う場所で嫋やかに曲がる台形の山稜の端の三角州がある様」となる。すると、「瀛眞人」=「[]が一杯に満たす谷間」と解釈される。

纏めると、天渟中原瀛眞人天皇=[阿麻]の地で[渟]の真ん中突き通す野原があって[瀛]に満ちている谷間に坐す天皇となる。現地名は福岡県田川郡香春町長畑辺りである(以後福岡県は省略)。飛鳥淸原大原(記)、飛鳥淨御原宮(紀)の場所を示していることが解る。

「渟中」=「農難(ノナ、ヌナ)」と訓されている。幾度か登場の、例えば「信濃」、美濃など、「農」=「臼+囟+辰」と分解される。「貝殻を使って地を柔らかくする様」を表すとのことであるが、地形象形的には「農」=「二枚貝が舌を柔らかく伸ばしたような様」と読み解いた。すると二枚貝が舌を柔らかく大きく曲げて(難)伸ばしたようなところと読み解ける。
  
<菟野皇女(讚良皇女)>
「渟中此云農難」としながら、補足の表記であろう。「道教神仙思想」に拠る命名とか、「渟中原」を「渟・中原」と区切って、「中原を統治する」かのような解釈がなされている。これはあり得ない。

「渟中・原」の注記を無視しては・・・これが罷り通っているから不思議である。

「鸕野皇女(娑羅々皇女)」は既に読み解いた鸕」が示す地形は、微妙である。当時でも判別が難しかったのかもしれないし、字画が多いのも別表現が好まれた理由かもしれない。

「菟野皇女」の「菟」も書紀で多用される。古事記の「菟(ト)」(大斗)の使用を徹底的に排除された様相である。繰返しになるが「菟」=「艸+免」と分解され、菟=山稜に囲まれた谷間が[分娩]の様のようなところを表すと読み解いた。それなりにあからさまな表記である。

父親である中大兄皇太子の谷間の出口、多くの御子に囲まれた場所である(詳細はこちら、但し伊賀采女などの御子、大友皇子等は別途)。すぐ東隣が建皇子、その東が大田皇女(天武天皇との間に大伯皇女、大津皇子を生むが、早くに亡くなられた)の出自の場所となる。

「讚良皇女」の讚岐國に使われた文字である。「讚」=「言+贊」と分解し、「言」=「辛+囗」=「刃物で耕地にされた地」、「贊」=「山稜の端が並んでいる様」として、讚岐=耕地にされた地が谷間の端で岐れて並んでいるところと読み解いた。図に示したように山稜の端がくっ付く様に集まっている様を表している。その場所が良=なだらか様と伝えている。

古事記も書紀も一文字一文字に込められた内容は”濃厚”である。それを漢字の成立ちに遡って考察しない限り、記紀編者の伝えんとするところは、全く見えて来ない。巷で人気のようである「白川漢字学」では全くあらぬ方に向かうことになるであろう。

四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮引入大殿。時安摩侶、素東宮所好、密顧東宮曰、有意而言矣。東宮、於茲疑有隱謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業、乃辭讓之曰「臣之不幸元有多病、何能保社稷。願陛下舉天下附皇后、仍立大友皇子宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功德。」天皇聽之。卽日出家法服。因以、收私兵器悉納於司。

「天智天皇即位四年」だが、天智天皇紀では即位十年に(671年)当たる。中大兄皇太子の称制が長く、どこからを即位とするかで異なってくるようである。また本段(10月17日)の記述は天智紀に記載された内容を若干補足している。そこには登場しなかった「蘇賀臣安麻侶」が天皇に会われるならご注意を!と耳打ちしたようである。大海人皇子は固辞して、出家となっている。「兵器」も返上したと付け加えられている。

「蘇賀」と記載されているが、これに注目されて、いや、しない方が「記紀」を読み解いていないことになるのだが、本紀の編者達にも、既に「蘇我」の威光(?)が影を薄くしつつあったことを物語っているように感じられる。古事記の蘇賀石河宿禰から始まった蘇賀の地に一族が広がって行った経緯を纏めたこちらを参照。「蘇賀」は現在の京都郡苅田町の大きな谷間全体を示し、「蘇我」はその東側の、現地名では稲光・葛川辺りを示す表記と思われる。「蘇我」は「蘇賀」の一支族だった わけである。
 
<蘇賀臣安麻侶>
● 蘇賀臣安麻侶

「蘇賀臣安麻侶」は「蘇我(賀)連大臣」(倉山田石川大臣:乙巳の変の立役者と兄弟)の子で、歴とした「蘇賀」の一員である。

安=宀+女=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読む。すると「連」(繋がり延びた山稜)の西側の谷間の出口辺りにある凹凸のない(麻)積重なった(侶)場所が見出せる。

祖父である「蘇我倉麻呂」は「蘇我馬子」の子であり、「蘇我蝦夷」とは兄弟、競争に負けて西に飛ばされたのかもしれない。豊かになった故に「蘇賀」の東西における確執を引き摺っているようである。
 
近江大津宮・菟道・嶋宮・吉野宮

壬午、入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。

癸未、至吉野而居之。是時、聚諸舍人謂之曰「我今入道修行、故隨欲修道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。」然无退者。更聚舍人而詔如前。是以、舍人等半留半退。十二月、天命開別天皇崩。

十月十九日、天智天皇に出家すると告げた二日後、いよいよ出立し、吉野に入る記述である。二十日には舎人達を集めて、去る者は追わず、と仰っているわけだから、十七日に近江大津宮から吉野までの移動日数は、僅か二日強と書かれている。通説(奈良大和中心)では、とても不可能な距離を移動することになるので、なんとも”難解”な文章になっている。勿論、間違いの多い書紀のことだから、日にちを・・・矛盾なしであろうか・・・。

本著が”難解”と述べているのは、日にちのことではなく、「入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉」の記述である。即ち、大海人皇子が大津宮から退去した後、吉野に入るまでに、「菟道」と「嶋宮」の二つの場所を経由しているが、どちらが先なのか、大津宮との距離である。登場順では「菟道」が先となる。だが、その行為の時系列は曖昧である。

これら四つの場所を纏めて下記に示す。詳細は各リンクの地図を参照願うとして、現地名を挙げると・・・、

近江大津宮:行橋市天生田(天智天皇紀)
菟道:北九州市小倉南区呼野(天智天皇紀、固有の地名ではない、「菟」は菟野正妃と同様)
嶋宮:田川市糒(欽明天皇:磯城嶋宮、古事記では師木嶋大宮)
吉野:北九州市小倉南区平尾台(神武天皇紀)

・・・である。これらの拠点を念頭に置いて「壬申の乱」が如何に戦われたかを読み解くことにする。いずれにせよ、舎人達の半数が去った後の静かな日々が流れようとしていたのであろう。

「吉野」は古事記で登場した吉野國巣の場所である(通説は奈良県吉野市付近)。前記したごとく、菟道は吉野近隣である。因みに、これらの推定場所からすると「近江大津宮」~「磯城嶋宮」~「菟道」~「吉野」の総歩行距離は、50km前後である。

十二月には天智天皇が逝かれた。吉野での静かな佇まい・・・いずれにせよ、上記の書紀本文だけで、云々することは避けて、後に、本紀は全編移動の記述、明らかにするつもりである。そして、書紀編者の”超絶の技巧”に惑わされつつも、何とか終着したいものである。

元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。
夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢賜郭務悰等。是日賜郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。

元年?…気が早い、と言うか、完全なるフライングであろう。クーデターを起こして政権奪取した年に間違いないのだが・・・それは無視して672年三月の出来事である。筑紫に「小七位阿曇連稻敷」を遣わして、天智天皇の喪を郭務悰等に知らせたら、「東」に向いて額づいたと述べている。勿論、大海人皇子が命じる立場ではない。

劉德高・郭務悰等は、既に「大閲于菟道」を経て「飛鳥」に入った。その時に、彼らの関心事である天智天皇の宮は、”ず~っと”「東」にあると聞かされたことであろう。故に、「東」に向いたのである。「奈良飛鳥」に入るなら”ず~っとず~っと”「北」にあると知らされた筈である。

全てを省略して記述すれば、都合よく収まった、あまり都合好過ぎて、記載したのは良いが、「小七位」は、これまたフライングである。この時期、この冠位は存在しない。要するに、この段は”ず~っと後になったとしたら”であって、決して信用しないでくれ、と告げているようである。

度々登場の「郭務悰」については、また、別の機会に纏めて述べようかと思うので、ここでは省略する。上記したように彼の倭國における滞在場所は極めて重要である。(筑紫大宰筑紫都督府の場所は、各リンクを参照)。

阿曇連稻敷
● 阿曇連稻敷

冠位不詳で登場の「阿曇連稻敷」の出自の場所を求めておこう。「阿曇連」の地で「稻敷」とは、些か難しい、現在の稲敷らしき場所は、当時はほぼ全て海面下であろう。

大規模団地に開発されている場所がおそらく当時も平坦な地形を示していたのでは、と推測して、どうにかそれらしき場所が見出せる。敷=稲穂が敷き詰められたようなところと読み解ける。

「比羅夫」の南、団地の北側に位置する場所と推定される。変貌してしまって他にも該当する場所があったのかは、全く定かではない。

五月には、「郭務悰」に多くの物を下賜したと述べている。彼等の駐留の目的については、様々に語られているようである。「白村江」以降、唐が日本國統治のために寄越したとか、何らかの目的あってのことであろうが、今少し、先に進んでから考察してみようかと思う。彼等は五月末に帰っている。

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」
 
同じく五月のこと、「朴井連雄君」が天皇(フライング表記)に、偶々私用で美濃、尾張に出向いたら、朝廷が天智天皇の陵を造ると称して人を集め、兵器を与えているとの噂を聞き、これは一大事になるかと思う、と告げて来た。また、近江京から倭京に間に監視役を置いたり、皇大弟宮(これが真面な表記)の舎人が菟道で食料を運ぶのを止められているとも告げられた。そこで、皇大弟宮が立ち上がった、と記述されている。
 
<朴井連雄君-子麻呂>
● 朴井連雄君

省略されているが、「物部」の「朴井一族」である。吉野から「宇陀之穿」を抜けて、崖下に降りたところと推定した場所である。

出家中の皇大弟宮のご機嫌伺いを兼ねて伺っただけでは、ご登場の役割は果たせないようで、実は吉野宮から脱出は、彼の出自の場所を通過、と言うか、彼の先導で険しい崖を下ったと思われる。

「朴井」の北西端の山稜が「鳥」、しかも尾の長い「雄」の地形を示している。山麓の小高いところに居たのであろう。この地の少し南側が「菟道」である。

後に弟の朴井連子麻呂が昇級されて登場する。谷の対面の細く延びた山稜の端が出自の場所と思われる。おそらく兄に従って吉野脱出の手助けを行ったのであろう。

皇大弟宮の舎人達が日常の生活を営むためには通行せざるを得ない道筋に当たる場所と思われる。最後に、なかなかに興味深い地名が登場するので、「菟道守橋」を求めてみよう。
 
<菟道守橋・名張>
● 菟道守橋

上記の「菟道」の近隣であろう。守=宀+寸(肘)=肘の様に曲がった山稜に囲まれた様と読み解いた。道=辶+首=首根っこの様である地を取り囲んでいる山稜を表している。

続く「橋」の文字解釈が面白いのである。「橋」=「木+夭+高」と分解される。橋=山稜の端が高く曲がっている様を表す文字である。

通常の「橋」は高く曲がる様を垂直方向に見るわけで、錦帯橋のイメージである。地形象形的には、水平方向に見た橋と言うことになる。これが天浮橋の地形を表している。

図に示したように「守」の肘に当たる場所から更に山稜が延び出ている地形を表していると思われる。地図が見えたので、ついでながら、この「守橋」の西側が「名張」(山稜の端の三角州が張り出しているところ)である。「宇治」に隣接する「名張」とは、記紀編者達の生真面目さが伺える配置であろう。
 
『壬申の乱』

いよいよ、世に言われる『壬申(西暦672年)の乱』の勃発である。これまでに多くの『壬申の乱』が語られて来ているようであるが、果たして如何なることになるのか、楽しみである。





2020年7月24日金曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅷ) 〔436〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅷ)


唐の侵攻に対する備えは、まだまだ安心できる状態ではなく、更なる策はないかと思案に暮れていたことであろう。そんな中で藤原鎌足内大臣が亡くなった。極東の端で国として生き延びる為の礎を築いた、決して表にシャシャリでることがなかった功労者であろう。中央集権体制への移行、それは避けることのできなかった時代の要請であったと思われる。

さて、孤独な天皇は如何に過ごされたのであろうか。既に天命を待つ身であったことは確実である。天智天皇紀最後の段である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

六月、邑中獲龜、背書申字、上黃下玄、長六寸許。秋九月辛未朔、遣阿曇連頰垂於新羅。是歲、造水碓而冶鐵。

六月に亀の背中に「申」の文字が見られた。この文字の意味は「果実が成熟して固まって行く状態を表わす」と知られる。また、一杯に成熟して逆に「騒がしい様」を示すとも解釈されるようである。予兆であろう。

「水碓」=「水車を動力として穀物をひく時などに用いた臼」とのこと。それを用いて「治鐵」=「鉄に手を加える」と読めるが、ひょっとすると鉄鉱石を細かく砕いたのではなかろうか。かつては新羅から「鉄」を入手して、加工するのが主流だったであろうが、鉄鉱石からの量産化には欠かせない道具となったのであろう。いずれにせよ、古事記もそうだが、武器及びその生産に関する記述は簡明である。阿曇連頬垂の出自はこちら参照。

十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。(御史蓋今之大納言乎。)甲辰、東宮太皇弟奉宣(或本云大友皇子宣命)施行冠位法度之事、大赦天下。(法度冠位之名、具載於新律令也。)

即位十年(西暦671年)正月に大々的な人事が告げられている。太政大臣に大友皇子、左右大臣に蘇我赤兄中臣金連となっている。「太政大臣」はこれが最初である。当時の役職を知るわけにはいかないが、朝廷における最高職には違いがないであろう。中臣鎌子連が「内大臣」の職を授けられたが、それよりもより具体的な執行役のように感じられる。

「蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣」を御史大夫(大納言か?…と注記)に任命している。一月六日に東宮太皇弟(大海人皇子)が新しい冠位・法度を施行している(異説では大友皇子)。人心一新の新体制のようである。九日に高麗が使者を遣わして進調。十三日には百濟鎭將が文書が届いている。

<巨勢人(比等・毘登)臣>
● 巨勢人臣

「人」は、既出の文字で「谷間」と解釈して来たが、より三角形に形を強調した表記であろう。とは言え、山稜の端によく見られる形を示していて、特定に至らないようでもある。

調べると別表記があって、「比等」、「毘登」などがあることが判った。それらも含めて地形を探すと、図に示した場所が見出せる。

既出の「比」=「並んでいる様」と解釈した。「等」=「竹+寺」と分解され、「竹簡を綴って揃える」様を表し、その情景から「揃っている、等しい」の意味を表す文字として用いられると解説されている。とすると、比等=山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。

また、「毘」=「囟+比」=「窪んだ地で並んでいる」、「登」=「小高いところから山稜が岐れている様」と解釈して来た。毘登=小高いところから山稜が岐れた谷間で揃って並んでいる様と読み解ける。別名表記は「人」の種々の側面を表していることが解る。小ぶりな谷間ではあるが、実に多機能である。現地名は直方市上頓野である。

<紀大人臣・紀朝臣弓張-麻呂・眞人>
● 紀大人臣

今度は「大人」である。「大」=「平らな頂の麓」であるが、これだけではいたるところに見られる地形である。調べると父親が「紀大口」となっている。これで目安ができたようである。

山稜の端が「口を開いたような様」になった台地が見出せる。そしてその脇にある谷間を「人」で表したと思われる。

現地名は豊前市八尾である。当時はこの台地の周囲は海面下にあり、大きな入江に突出た岬のような台地であったと推測される。海進と沖積の影響で現在とは大きく異なる地形であったと思われる。

後の天武天皇紀の最後の段で紀朝臣弓張が登場する。「紀大口」の子と知られる。「弓張」は何と?…そのままの形態を示す場所が見出せる。少々凹凸が少なくなった地であり、陰影を付けて強調した図に切り替えて表示した。尚、「臣」が改姓で「朝臣」となっている。

「大人」の子、紀朝臣麻呂が後の持統天皇紀に登場する。父親の谷間に接する山稜の端の麻呂=萬呂の地が出自の場所と推定される。また天武天皇紀には紀朝臣眞人が登場している。「大口」の次男と知られている。眞人=谷間が寄り集まった窪んだところと解釈すると、図に示した場所ではなかろうか。

この時代になると、下流域での開拓が進んでいたことを伝えている。山間の田が、麓に移り、更に海辺へと扇のように広がって行く様を「記紀」の登場人物が物語ってくれているようである。それにしても「紀」の地は長く延びていたものである。確かに古事記が語る「木」の時代から大きく変わって行ったのであろう。
 
<蘇我果安臣>
● 蘇我果安臣

この人物は、倉山田石川大臣、蘇我赤兄大臣等の兄弟である。父親、蘇我倉麻呂の後ろの谷間を埋め尽くすように子供等が配置されたようである。

相変わらずの山間の場所であるが、現在も道路が通じているように伺える。その先の中腹の棚になった場所と推定される。

既出の「果」=「実がなった様」と読んだ。「安」=「山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間」である。

果安=丸く小高いところが実がなったように並ぶ山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読み解ける。周囲の地形をそのまま名前にしたら、こうなった、の感じであろう。残念ながら、大臣には届かなかった末っ子である。

是月、以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明(法官大輔)、以小錦下授鬼室集斯(學職頭)、以大山下授達率谷那晉首(閑兵法)・木素貴子(閑兵法)・憶禮福留(閑兵法)・答㶱春初(閑兵法)・㶱日比子贊波羅金羅金須(解藥)・鬼室集信(解藥)、以上小山上授達率德頂上(解藥)・吉大尚(解藥)・許率母(明五經)・角福牟(閑於陰陽)、以小山下授餘達率等五十餘人。童謠云、

多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘儞農倶

余自信、鬼室集斯以下の百濟人に授けた冠位がズラリと挙げられている。「法官大輔」は官人の勤務評定などを行う司法次官、「學職頭」は後の大学寮の長官とも言われる。「沙宅紹明」の文才は高く評価されていたようである。その他、城造りを任された者の名前も挙がっている。

「鬼室集信」と記されているが、出自の場所は、間違いなく、「福信」に近付くことからもひょっとするとこちらが「鬼室福信」の息子だったのかもしれない。童謡である、例によって参考資料を引用して・・・、

橘は 己が枝枝 生れれども 玉に貫く時 同じ緒に貫く

二月戊辰朔庚寅、百濟、遣臺久用善等進調。三月戊戌朔庚子、黃書造本實、獻水臬。甲寅、

二月に百濟から進調あった。三月には「黃書造本實」が「水臬」(水準器らしい)を献上している。この人物も詳細は分からず、調べて出自の場所を求めてみよう。三月十七日に「常陸國」が「中臣部若子」を献上、十六歳で一尺六寸(46cm)と記されている。

<黃書造本實-大伴・蓆集造>
● 黃書造本實

調べると、「黃書」は「黃文」とも表記され、高麗系渡来人を祖として、「山背國」に住まっていたようである。

「本實」以外に「大伴」の名前も登場し、天智天皇以降数代に仕えたと伝えられている。これだけ判れば何とかなる、と思われる。

「黃」=「平たく広がった様」、幾度か登場の「書」=「聿+者」と分解され、「山稜が交差するように集まった様」と読み解いた。

「本」=「麓」として、「實」=「宀+貫」と分解されるが、更に「貫」=「𡇒+貝」と分解され、「一杯に詰まった様」を表すと解説される。

纏めると、黃書造本實=平たく広がった地の麓で山稜が交差するように一杯に集まったところと読み解ける。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、五十日帶日子王に重なる場所と思われる。水準器の「水臬」を献上したことからも、時代が変わって渡来し、入植したのであろう。後の天武天皇紀に登場する黃書造大伴を併記した。

後の天武天皇紀に東隣の地を蓆集造と記載されている。古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山代大國之淵が登場している。早期に拓けた土地であった。逆に言えば、その隣の未開地に入植した(させた)と推測される。併せて図に示した。

<常陸國・中臣部若子>
常陸國

「常陸國」は、既に登場しているものとばかりに思っていたが、これが初登場である。一方「常陸」の文字列は、天智天皇が娶った蘇我赤兄臣の娘、「常陸娘」に登場した。

常陸=北向きの開けた地が広がって谷間が長く延びた(常)段差のある盛り上がった(陸)ところと読み解ける。

すると「常陸國」は、図に示した現地名北九州市門司区吉志にある山稜の麓辺りと推定される。古事記の常道仲國・道奥之石城國の「常道仲國」に該当する場所である。「道奥之石城國」は書紀の陸奥蝦夷(熟蝦夷)國となる。

その後に国譲りされ、拡大された配置との一致は、見事である。更に付け加えれば、「常陸國」と「陸奥國」との間が空いていることに気付く。現在で言えば、茨城県と宮城県の間に福島県が挿入されているが、実はそこは空白の地であった。何故か?…図に示した「吉志新町」に当たる場所は、当時は山稜が延びた端であって、住まうことができる土地ではなかったからである。実に、実に丁寧な国譲りであろう。

● 中臣部若子

ちょっとした話が挿入されている。「小さい」に捉われていると肝心なことを見逃してしまいそうである。「中臣」と言っても、「鎌足」の地に居たわけではなかろう。

夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺、始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。是月、筑紫言、八足之鹿生而卽死。五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿、皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田儛。六月丙寅朔己巳、宣百濟三部使人所請軍事。庚辰、百濟遣羿眞子等進調。是月、以栗隈王爲筑紫率。新羅、遣使進調、別獻水牛一頭・山鶏一隻。秋七月丙申朔丙午、唐人李守眞等・百濟使人等、並罷歸。

四月の記事である。「漏剋」(水時計)を新しい台に置いている。皇太子時代に作ったものらしい。それで時を告げたようである。筑紫が八足の鹿が生まれたがすぐに死んだと述べている。何かの予兆なのか、不明。五月五日の「田儛」(五穀豊穣を祈願する歌舞)など、穏やかな時が流れている。元来は庶民の行いであったのを宮廷の儀式にした。皇太子(大海人皇子)が主催したことが重要なのである。

六月に入って百濟が「請軍事」に来たと記している。高麗は滅亡したのであるが、やはり百濟の時と同様に反乱軍が百濟方面に侵攻していたようで、決して沈静化したわけではなかったようである。以前にも述べたように百濟南部の連中は、これもかつてと同じく、日本に頼らざるを得なかったのであろう。朝鮮半島内の混乱は、まだまだ続いていたと推測される。

蘇我赤兄臣が大臣就任、それに伴う人事であろう。「栗隈王」(既出の栗前王)が筑紫大宰になっている。

八月乙丑朔丁卯、高麗上部大相可婁等罷歸。壬午、饗賜蝦夷。九月、天皇寢疾不豫。(或本云八月天皇疾病。)冬十月甲子朔庚午、新羅遣沙飡金萬物等、進調。辛未、於內裏、開百佛眼。是月、天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺佛。

八月に入って高麗の使者が帰り、また、蝦夷を饗応している。九月に天皇が病気になって寝込んでしまった、異説では八月とも。十月に新羅が進調。仏像開眼。天皇は法興寺に珍財を奉納したと伝えている。病気回復の祈願であろう。

庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥內、詔曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。於是、再拜稱疾固辭、不受曰「請奉洪業付屬大后・令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家修道。」天皇許焉。東宮起而再拜、便向於內裏佛殿之南、踞坐胡床、剃除鬢髮、爲沙門。於是、天皇遣次田生磐、送袈裟。壬午、東宮見天皇請之吉野修行佛道、天皇許焉。東宮、卽入於吉野。大臣等侍送、至菟道而還。

十月半ば、病状悪化して東宮(大海人皇子)に、事後を任せると仰ったと記している。簡単には受けないのが通常、大后(倭姫王)に譲られて、大友王(皇子)に執政するように返答している。そして自らは出家する。天皇は「次田生磐」を遣わして袈裟を送り、大海人皇子は吉野での仏道修業を許され、大臣等に「菟道」まで見送られて(見届けられて?)吉野入ったと伝えられている(詳細は天武天皇紀にて)。

左右大臣が決まり、更に太政大臣に大友皇子が就任した人事が行われた。大海人皇子の息の掛かった人々ではなく、どちらかと言うと皇子は蚊帳の外であった。この情勢下では、間違いなく、謀反人になってしまったであろう。さっさと身を隠すのが賢明、その通りの行動であるが、それでも後追いで濡れ衣を被せられそうである。さて、如何なることになるのであろうか・・・。
 
<次田生磐>
● 次田生磐

この人物の情報は、ほぼ皆無である。古事記・書紀には関連するであろう「茨田」の表記が数多く見られる。文字解釈からすると「茨」=「艸+次」であるから、「次」には「山稜に挟まれた様」が欠落していると思われる。

これを頼りに「記紀」で「茨田」関連の場所を当たってみることにした。すると、

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命(三兄弟の長男)が祖となった手嶋連の地形が浮かび上がって来た。

生磐=生え出た山稜が延びて広がったところと読み解ける。山稜の端が広がった地が出自の場所であろう。現地名は京都郡みやこ町勝山松田の飛松辺りである。

と言うことは、天皇が「次田生磐」を使って送った袈裟を「大海人皇子」は自分の住処で受け取ってから吉野に向かったと思われる。決して「近江」から直接「吉野」に向かったわけではない。この辺り微妙な記述(時間経過)となっていることも重要であろう。これは、かなり重要な記述である。先取りすれば、「近江大津宮・菟道・吉野」の三か所の配置に関わることになる。また、詳細は後日に述べることにする。

十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」

十一月十日に對馬國司が筑紫大宰府に使者を遣わして来て、月初めに「沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人」が唐から来て、唐の使者(正式に)、郭務悰等が訪問の予告をして来たと告げている。日本側の返答もなく、筑紫大宰府との遣り取りも省略されており、何とも中途半端な文言である。

二千人と言う多勢は、百濟の難民も含まれていたかもしれない。日本側の対応記述がないのだが、通説の対馬~奈良大和であれば、半年ぐらい「比智嶋」(地形象形表記とすると「巽竹島」かもしれない)に留め置かれることになる。消化不良の物語であるが、いずれ整理をしてみよう。

<筑紫君薩野馬(薩夜麻)>
● 筑紫君薩野馬

「筑紫」とくれば通説は、博多湾岸(筑前)とするのであるが、「筑紫君磐井」は有明海(筑後)に飛んでいることから、この人物もその辺りの出自と推定されている。

幾度も述べて来たように、「筑前・筑後」であって「筑紫」ではない。「筑紫君磐井」は、古事記の竺紫君石井であろう。

この君は「筑紫」ではなく「竺紫」に居たのである。書紀には「筑前」、「筑後」、「竺紫」の文字は出現しない。そして編者は、「淡海」と同様「竺紫」→「筑紫」として曖昧にしたのである。

「竺紫」は古事記の「竺紫日向」の地である。現地名の遠賀郡岡垣町であり、「竺紫」は宗像市との境に連なる孔大寺山系と推定した。

前記で「薩」=「段丘(阝)が生え出て(產)連なっている(艸)様」を表す文字と読み解いた。その連なった段丘が「馬」の形を示していると解釈される。纏めると、薩野馬=段丘(阝)が生え出て(產)並んでいる(艸)野原に[馬]の形があるところと読み解ける。

また「薩夜麻」とも表記される。薩夜麻=段丘(阝)が生え出て(產)並んでいる(艸)狭い谷間のところと読み解ける。馬の足元は、谷が一段と狭まったところである。「石峠」は、おそらく、いや間違いなく残存地名であろう。

<韓嶋勝娑婆・羽束造>
● 韓嶋勝娑婆

全く情報が欠落している人物である。関連ありそうな文字は「勝」であろう。

頻出の「韓」=「囲まれた様」であり、すると、「韓嶋」=「囲まれた山が鳥の形をしている様」と読み解ける。

既出の「勝」=「朕+力」=「地が盛り上がった様」であり、「娑婆」=「嫋やかに曲がる水辺の端」から、纏めると、韓嶋勝娑婆=嫋やかに曲がる水辺の端で囲まれた山が鳥の形をした地の傍らで盛り上がったところと読み解ける。

「吉士」からの登場は、実に凄まじいが、この裏ノ谷の出口付近からの登場は初めてあった。地形的には十分人が住まうことができる場所と推測されるが、登場人物名には見当たらなかった地である。歴史の表舞台に出るか、否かであろう。地形象形表記としては、申し分なしの感じである。

更に後の天武天皇紀に、羽束造に「連」姓を与える記事に登場する。鳥の羽を束ねたような地を表す表記であろう。南側の、現在の裏ノ谷池間近の場所と推定される。併せて図に示した。
 
<布師首磐>
● 布師首磐

この人物は、調べると「河内國」に関係していたことが判った。早速文字解きを行うと、既出の「布」=「布を拡げたように平らな様」、「師」=「諸々とした(小さな凹凸が広がる)様」、「磐」=「般+石」=「麓で広がり渡る様」である。

幾度も登場して、同様に解釈して来た文字である。がしかし、ここで突当たったのが、これも頻出の「首」の解釈、「首の付け根のような様」では、既に山稜の端が平らに広がり、「首」の凹凸を見出すことが叶わない。地形象形表記の一番苦手な地形であろう。

と言いつつも、少し見方を変えて、「付け根」ではなく、「首」そのものを表しているとすると、図に示した場所が浮かび上がって来た。布師首磐=布を拡げたように平らで小さな凹凸が広がった地が縊れて(首)その先が広がり渡ったところと読み解ける。

この地からの登場人物は希少である。広々とした田地が広がっていたように思われるが、やはり下流域の治水は時代が進まないと困難だったのであろう。「白村江」には様々な人々が寄集っていたことが伺える記述である。

丙辰、大友皇子在於內裏西殿織佛像前、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、六人同心奉天皇詔、若有違者必被天罰、云々。於是、左大臣蘇我赤兄臣等、手執香鑪、隨次而起、泣血誓盟曰、臣等五人隨於殿下奉天皇詔、若有違者四天王打、天神地祇亦復誅罰、卅三天證知此事、子孫當絶家門必亡、云々。

丁巳、災近江宮、從大藏省第三倉出。壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

十一月二十三日、いよいよ大友皇子を中心とする体制の固めの儀式である。登場人物の出自の場所は既に読み解いた。「蘇我」、「中臣」、「巨勢」、「紀臣」と言った馴染みの連中の集まりである。翌日、近江宮が被災したのは「大藏省」の第三倉庫の出火が原因と記している。隣接する場所であったことを伝えているようである。また、新羅への下賜を行ったと述べている。

<大藏省>
大藏省

さて近江大津宮の近隣に「大藏省」が示す場所があるのか?・・・「大藏」は斉明天皇紀に大藏衣縫造麻呂が登場し、大藏=平らな頂の麓にある四角く囲まれたところと読み解いた。

すると宮の東隣の谷間がその地形を示すように思われるが、四方を取り囲まれてはいない。該当しないのか?・・・省=削ぎ取られた様を表すと解説される。

即ち、一方の壁が削ぎ取られたような「藏」だと表現しているのである。谷間の出口が開いている様を「省」で表記したと思われる。まるで現在大蔵省を匂わせるような文字使い、これでは解釈が路頭に迷う筈である。

失火は「第三倉」と記載している。不詳だが、宮に最も近いところにあったとしてみたが、果たして的を得ているのであろうか、知る術は持ち合わせていない。

十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。于時、童謠曰、

美曳之弩能 曳之弩能阿喩 阿喩舉曾播 施麻倍母曳岐 愛倶流之衞 奈疑能母騰 制利能母騰 阿例播倶流之衞
於彌能古能 野陛能比母騰倶 比騰陛多爾 伊麻拕藤柯泥波 美古能比母騰矩
阿箇悟馬能 以喩企波々箇屢 麻矩儒播羅 奈爾能都底舉騰 多拕尼之曳鶏武

十二月三日に天皇が近江宮で亡くなった。「童謠」(例によって参考資料を引用して)があって…、

み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ(其の一)
(み吉野の、吉野の鮎、鮎は川の中の岩の側にいる。苦しいよ。水葱(ミズアオイ=水草の一種)や芹(セリ=植物)の下にいるので私は苦しい。)

臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねは 御子の紐解く(其の二)
(臣下である子が、八重の紐を解く。一重も解かないのに、御子はもう紐を解いてしまった。)

赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ(其の三)
(早く走るという赤い馬が行くのも嫌がる葛の原っぱ。その葛の原っぱでなかなか進まないように、伝言が伝わらない。直接、言ったらいいのに。)

…全て大海人皇子について謡ったものである。吉野での苦悩ぶり、戦う気配、そして「赤駒」に喩えた逡巡の様であろう。「赤駒」は万葉歌に皇子の居場所として読み込まれている。こちらを参照。

己卯、新羅進調使沙飡金萬物等罷歸。是歲、讚岐國山田郡人家有雞子四足者。又大炊有八鼎鳴、或一鼎鳴、或二或三倶鳴、或八倶鳴。

十二月十七日、新羅の使者が帰っている。「讚岐國山田郡」は既出の屋嶋城があった讚吉國山田郡を示すと思われる。四つ足の鶏の子は?…また、「鼎」(竈?)が鳴るとは?…吉兆なのかは不明。後日の課題としておこう。

天智天皇紀、漸くにして終了である。唐・新羅による朝鮮半島内の騒乱に危機を感じた母親と息子の天皇が前例のない策略に奔走した時代であった。何とか、壊滅的な事態には至らずで、その生涯を閉じられたようである。まだまだ、多くの地(人)名が登場するのであろうが、目下のところ、全てすんなりと想定内の地域に収まったようである。



2020年7月21日火曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅶ) 〔435〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅶ)


天智天皇は多くの御子を誕生させたが、皇子の数は極僅か、大半が皇女であった。長男に当たる建皇子が夭折したこと、祖母の斉明天皇が深く嘆かれたのも頷けることだった。また、それが天皇の弟の存在が皇統に関わって来ることを暗示している。幾度も繰り返される皇位継承の課題を抱えつつ物語は進んで行くようである。

即位七年(西暦668年)四月から、朝鮮半島内も歴史的な時を迎えていた。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏四月乙卯朔庚申、百濟遣末都師父等進調。庚午、末都師父等罷歸。五月五日、天皇縱獵於蒲生野。于時、大皇弟・諸王・內臣及群臣、皆悉從焉。六月、伊勢王與其弟王、接日而薨。(未詳官位。)
 
<蒲生野>
四月に入って百濟が使者を送って進調した来たと記載している。唐・新羅の支配下にあっても百濟の地は変わることなく、とりわけ南部は、高麗攻略に忙しく未だ新羅による統治が浸透していなかったように思われる。

錦江から熊津辺りでの状況と東津江以南、扶安郡辺りの状況は大きく異なっていたと推測される。使者名「末都師父」はいつの日か読み解いてみよう。いずれにしても十日ばかりで帰ったと述べている。
 
蒲生野

五月に一族郎党で「蒲生野」で狩猟をしたとのこと。六月に「伊勢王」とその弟王が相次いで亡くなったと記しているが、伊勢王の人物特定は難しいようである。

ここの記述も、「蒲生」と言えば、そうそう伊勢王が・・・の気分の記述であろう。同じ登場させるなら、もう少し丁寧な記述を、お願いしたいところである。

おそらく、「長門國」の城、そして少し足を延ばして「水城」の視察を兼ねていたと思われる。「蒲生」はれっきとした残存地名であえる。「伊勢」は、影も形も残されていないが・・・。

秋七月、高麗、從越之路遣使進調。風浪高、故不得歸。以栗前王、拜筑紫率。于時、近江國講武、又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至、又饗蝦夷、又命舍人等爲宴於所々。時人曰、天皇天命將及乎。

七月に高麗が「越之路」で「進調」に来たのだが、海上は「風浪高」で帰りは使わなかったと述べている。これは前記で想定した唐・新羅侵攻ルートの一つで、関門海峡に入り、上陸して「越」を経由するルートであろう。関門海峡の海は、不慣れな者にとって決して簡単に航行できる海峡ではないことを確認したことになろう。多分にこのルートへ誘導したように感じられる。

「栗前王」(出自は後に述べる)が筑紫率(筑紫大宰)に赴任した。その時「近江國」は武術の対策を講じ、馬の牧場を多く設置したと記載している。騎馬戦闘の備えであろう。更に越國に「燃土與燃水」(石炭、石油か?)を準備させたとのことである。大将同士が矢を放って当てた方が勝ち、なんて言う気楽な気楽な戦いではなくなったのである。おそらく「火器」の使用は「白村江」での敗戦が根底にあると思われる。

「於濱臺」(後に述べる)のこと、また蝦夷の饗応は上記の関門海峡の奥からの侵攻に備えての布石であろう。何としても「肅愼・蝦夷」を抑えておく必要があったのである。味方に引き入れるにはあの手この手で、ある。その饗応の凄まじさに、いよいよ天皇交替の時が来たか、と人々は受け取った、と記している。

「越之路」から始まるこの段が伝えることは、関門海峡侵攻ルートに対する防衛策であろう。決して「越」、「筑紫」、「近江」そして「蝦夷(エゾ)」の各地の事柄を羅列したのではない。遠賀川・紫川からの侵攻は、築城も含めて自然の地形を活かした防衛策を施して来たが、この方面には「肅愼・蝦夷」上陸に加えて、もう一つ重要な、いや最も危険なルートが存在することに気付かされる。

それは葦原中國上陸ルートである。そもそも「天神族」が侵攻したのがこのルートであった。そして、書紀編者が最も頭を悩ませなければならない事態となる。そこで登場したのが「近江國」となってしまった、と思われる。即ち、「葦原中國」(出雲國)が面する「淡道」(淡道之狹之穂別嶋)の「淡」を「近江」に置換えたと読み解ける。「出雲國」がこんなところにあっては不都合なのである。

天皇家の祖先が出雲に上陸しても、山に囲まれた地から這い出るには狭い谷間を通って「高志(越)」に抜けるルートが残されているのみであった。それは変わらずであり、「越」を固めることと、上陸地点での戦闘防御が避けられないと考えたのであろう。逆に、出雲の地で上陸させ包囲する戦略と思われる。この戦闘に「蝦夷」の協力を得る思惑もあっただろう。
 
<栗前王・高坂王・石川王・稚狹王・大宅王>
● 栗前王

唐突にご登場なので、少々調べて出自の概略を求めてみた。これは既述の欠落としか思いようがない有様で、Wikipedia(別名栗隈王)に記載された内容を信じて出自の場所を求めてみようかと思う。

それによると敏達天皇の御子、難波皇子の子(孫?)とある。難波皇子は、古事記にも同様の人物名、難波王が登場する。「春日中若子之女・老女子郎女」が生んだ御子の一人で、「漢王」とも表記される。

母親が不明なのだが、その「難波王」の子、もしくは一代挟んで孫と言われることから、先ずはその地の周辺を当たってみると、それらしき場所が見出せる。

「栗」=「栗の穂が長く延びた様」と読み解いて来た。例えば上記の栗隈首德萬など多くの例がある。栗前(隅)=栗の穂が長く延びた地の先(隅)のところと読み解ける。長いだけではなく、広がっている様から「隅」と別表記されたのであろう。書紀は「漢王」との繋がりが発生することを回避したかったのかもしれない。後に登場する兄弟「高坂王」、「石川王」、「稚狹王」、「大宅王」を併記した。
 
<於濱臺>
於濱臺

この臺に至っては全く不詳で、一般的な「浜にある高台」ような解釈で終わっているようである。実に勿体ない有様であろう。

「於」の文字は、古事記の国(島)生みの段の淤能碁呂嶋に含まれている。直近では出雲國於友郡の解釈も全く同様とした。

「於」=「㫃(旗)+二(くっ付く、重なる)」と分解されて、於=旗がなびくような地がくっ付いた様と読み解ける。

於濱臺=旗がなびくような地がくっ付いた浜にある高台と読み解ける。すると齶田郡の齶田浦辺りの高台を表していると思われる。現在の地形は大きく変形していると思われるが、辛うじて当時の姿が伺える状況のように思われる。

魚が水面を覆うほど集まるとは、なかなかの盛況の饗応だった、かもしれない。兎も角もこの地を越えて侵攻されることは絶対に防ぐ必要があったと思われる。蝦夷への対応は、正に深謀遠慮の戦略の一環であったと推測される。

秋九月壬午朔癸巳、新羅、遣沙㖨級飡金東嚴等進調。丁未、中臣內臣、使沙門法辨・秦筆、賜新羅上臣大角干庾信船一隻、付東嚴等。庚戌、使布勢臣耳麻呂、賜新羅王輸御調船一隻、付東嚴等。

冬十月、大唐大將軍英公、打滅高麗。高麗仲牟王初建國時、欲治千歲也、母夫人云「若善治國、不可得也、但當有七百年之治也。」今此國亡者當在七百年之末也。

十一月辛巳朔、賜新羅王絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚、付金東嚴等。賜東嚴等物、各有差。乙酉、遣小山下道守臣麻呂吉士小鮪於新羅、是日金東嚴等罷歸。是歲、沙門道行、盜草薙劒逃向新羅、而中路風雨荒迷而歸。

九月半ばに新羅が進調して来た。中臣鎌足は船を一隻進呈し、引き続いて使者を派遣して進調用の船を一隻進呈したと伝えている。表現は下賜であるが、新羅との関係を良好に保つための遣り取りであろう。十月、高麗が滅んだ。仲牟王が建国してちょうど七百年後のことであったと記載している。

十一月には新羅に絹、綿、皮革などを下賜し、使者も派遣している。新羅は背後を突かれては困るし、日本にしてみれば来るとしても唐だけにするのが目的である。いや、唐との関係は決して悪くはない故に、敵対的な態度は無用であっただろう。

<布勢臣耳麻呂・布勢朝臣御主人-色布智>
● 布勢臣耳麻呂

「布勢臣」も初登場である。調べると、阿倍内麻呂(倉梯)大臣の弟と記載されている。この地に関連する場所であろう。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)の孫、意富富杼王が祖となった記述に布勢君が登場する。現地名は北九州市門司区寺内にある高台である。

母親の名前が不詳で、阿倍大臣の父親(阿倍鳥)が出向いて誕生し、母親の許で育てられてのであろう。それにしても、栗前王やら、やたら年寄り(多分?)を活用している。時代の変動期、歴史の表舞台に立つ機会も様々に揺れ動いていたように思われる。

耳麻呂の耳の地形は、若干変形しているように見えるが、図に示した辺りかと推定される。国土地理院の年代別写真(1961~9年)を参照して求めた場所である(こちら参照)。現在の住宅地になる前の地形を知る上に於いて貴重な情報かと思われる。

後の天武天皇紀の最後、弔辞を述べる役目で布勢朝臣御主人が登場する。何とも変わった名前であるが、御主人=谷間で真っ直ぐに延びる山稜を束ねたところと読み解ける。現在は開発されて、当時の地形を再現しているかは不明であるが、図に示した高台の付け根辺りと思われる。

更に後の持統天皇紀に布勢朝臣色布智が登場する。何度も用いられている色=渦巻くような様であり、「勢」の高台を模した表記と思われる。頻出の布=平らに広がった様智=矢+口+日=鏃と炎に形がある様と読み解いて来た。「色」の尻尾に当たる場所に、その地形を見出すことができる。現在は中央を高速道路が通り、居場所を特定するには至らないようである。「布勢」の登場機会は少なく、纏めた図とした。

<道守臣麻呂・吉士小鮪>
● 道守臣麻呂・吉士小鮪
 
またまた「吉士」の登場である。「道守臣」は、書紀では初出なのであるが、古事記では若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、建豐波豆羅和氣が祖となった道守臣が登場している。

そのままの名称であり、場所も変更する要がないと思われる。確かに書紀の「吉士」の地に含まれる、あるいは近隣であるが、どうやら「吉士」の表記の地形ではないことを拘ったのかもしれない。

既出の文字列であるから、道守=首の付け根のような地がある肘を曲げたような山稜に囲まれたところと読み解ける。現地名は行橋市矢留である。

一方、素直に「吉士」を付けた「小鮪」は「鮪」=「魚+有」と分解される。幾度も登場している「魚」は「灬」の四つの小さな山稜が並んで連なっている様であろう。「有」=「しなやかに曲がる山稜の麓に三角州がある様」と読み解いた。「小」=「三角形の様」として、小鮪=しなやかに曲がる山稜の麓に三角州があって四つの小さな山稜が突き出ているところと読み解ける。現地名は行橋市彦徳、松田池の南に隣接する場所である。

八年春正月庚辰朔戊子、以蘇我赤兄臣拜筑紫率。三月己卯朔己丑、耽羅、遣王子久麻伎等貢獻。丙申、賜耽羅王五穀種、是日、王子久麻伎等罷歸。夏五月戊寅朔壬午、天皇、縱獵於山科野。大皇弟・藤原內大臣及群臣皆悉從焉。

即位八年(西暦669年)正月に蘇我赤兄臣が筑紫大宰を拝命したと記している。三月には耽羅の王子がやって来て朝貢、五穀の種を下賜した。僅か一週間ばかりで帰ったと述べている。五月に天皇は「山科野」に狩猟に出向き、「藤原内大臣」(少しフライングか?)以下が随行したと伝えている。

耽羅の接触はかなり頻度高くなって来たようであるが、その関係性の変化は語られていない。王子名が来る度に変わっている。耽羅も地形象形表記であることは、ほぼ間違いないと思われるが、今後の課題としよう。雲隠れしていた「蘇我赤兄臣」が顔を出している。
 
<山科野>
山科野

「科野」は前記で登場した。駿河國の西側にある海辺の国であった。古事記の記述をそのまま使った表記と解釈した。

「山」が付けば如何なる地形を表わそうとしたのであろうか?…「山科」と区切って読むと「山が科のところ」である。山科=山稜が段々になっているところと読み解ける。

その地形を探すと、近江大津宮の南、御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の裏側に見出せる。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊である。

通説は、勿論現地名の京都市山科区であろう。何とも位置関係の類似性は、見事である。更に勿論「山科」の地形は見当たらないようである。

秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城、仍恤民疲、止而不作。時人感而歎曰、寔乃仁愛之德、不亦寛乎、云々。是秋、霹礰於藤原內大臣家。九月丁丑朔丁亥、新羅、遣沙飡督儒等進調。

八月には入って、天皇は「高安嶺」に登って、城を造ろうとしたが、民のことを考えて止めた。それを「仁愛」と時の人が言ったと伝えている。「嶺」は連山の中で最も高いところを示す。前記したように、高安城はその少し下側の平らになったところに造ったと述べた。

より高いところに城を造って見通しを良くしようと企んだが、やはり狭過ぎたのであろう。「高安」の地形及び城を造る目的を物語っているのである。高安城は、間違いなく情報伝達のために築城されたことを伝えていることが解る記述であろう。

藤原内大臣の家に「霹礰」(落雷)があったと言う。予兆なのであろうか?…それとも何かの祟りとでも?…九月には新羅が進調して来たと述べている。

冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃詔曰「天道輔仁、何乃虛說。積善餘慶、猶是无徵。若有所須、便可以聞。」對曰「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」云々。時賢聞而歎曰「此之一言、竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞、詎可同年而語哉。」

十月十日に天皇は藤原内大臣を見舞った。”盟友”が最後の時を迎えようとしている時の会話である。先逝くものの達成感を聞き取ることになる。真偽は別として、物語の一人の主人公であろう。

庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨。(日本世記曰「內大臣、春秋五十薨于私第、遷殯於山南。天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉。」碑曰「春秋五十有六而薨。」)甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔、仍賜金香鑪。

十月十五日に「東宮大皇弟」(大海人皇子)が訪問して「授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏」と正式に記述されている。翌日逝かれた。碑(勿論、見つかってはいない?)によると五十六歳とのことである。十九日には”大錦上”の蘇我赤兄臣を遣わして金の香炉を与えたと記されている。「赤兄」は後に大臣となる。

十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。

十二月に「大藏」が火災に遭い、「高安城」を手直しして畿内の田税を収めたと述べている。落雷等のリスクがあるが、やはり失火による延焼回避が目的だったのかもしれない。斑鳩寺も同じ目に遭ったと伝えている。

この年、唐に「河內直鯨」等を遣わしている。近況報告だったか?…唐は郭務悰等二千人を送って来たと記している。百濟から移り住んだ「餘自信」、「鬼室集斯」等を「近江國蒲生郡」に転居させている。入植時は約四百人で、三百人ぐらいが増えている。後続の入植があったのかもしれない。
 
<河内直鯨・田邊小隅>
● 河內直鯨


「河内」もそれなりに出現である。既出の「鯨」=「魚+京」と分解して、「魚」の「灬」=「四つの小ぶりな山稜が並んでいる様」と解釈した。

頻出の「直」=「真っ直ぐに凹んだ様」とすると、それらの地形要素が集まったところが見出せる。

直鯨=高く聳える(京)麓の四つの小ぶりな山稜が並んでいる(魚)傍らの真っ直ぐに凹んだ(直)ところと読み解ける。

現地名は京都郡みやこ町勝山黒田である。後の天武天皇紀に田邊小隅が登場する。全くのお隣さんの様子で図に併記した。「小」の文字形の「隅」=「阝+禺」=「二つの山稜が出会った様」が出自の場所と思われる。

ところで『新唐書』に「咸亨元年(西暦670年)、遣使賀平高麗」と記述されている(詳細はこちら)。おそらく、これに該当する遣唐使だったと思われる。適切な外交と思われるが、一つ間違えば、命を落とす役目でもあったと推測される。無事にご帰還なされたのであろうか・・・餘自信鬼室集斯、及び近江國蒲生郡については、それぞれのリンクを参照。

九年春正月乙亥朔辛巳、詔士大夫等、大射宮門內。戊子、宣朝庭之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄・妖偽。

即位九年(西暦670年)正月。「白村江」以来、早六年以上が経っている。正月定例の行事が行われている。「朝廷」の儀礼として行き逢ったら互いに避けるのだが、勿論下位者が道を譲ることになる。妖しげなことは禁断である。

二月、造戸籍、斷盜賊與浮浪。于時、天皇、幸蒲生郡匱迮野而觀宮地。又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。三月甲戌朔壬午、於山御井傍、敷諸神座而班幣帛、中臣金連宣祝詞。

二月に戸籍を作り、盗賊、浮浪者を断てるようにしている。天皇は「蒲生郡匱迮野」に出向いて宮にする地を視察されている。また「高安城」を手直しして穀物と塩を格納したと、述べている。この城は緊急時の避難場所のような位置付けになりつつある。「倭國」の境にあった拠点として機能させる算段かと思われる。

また、長門城と筑紫城を造っているのだが、前記の城が完成したことなのか、あるいは新たに追加したのかは定かではないようである。「山御井」の傍で神事を行ったのだが、「中臣金連」が執り行ったと記載している。「忌部」は次第に主要な神事から外されて行ったのであろう。
 
<蒲生郡匱迮野>
蒲生郡匱迮野

「蒲生」だから上記の「蒲生野」辺りを散策してみることにする。「匱」=「米櫃」、「迮」=「迫る」の意味とすると、「匱迮野」=「米櫃に迫る野原」となるが、意味不明である。

ところが、「蒲生野」の北方に、何と米櫃のような山稜の端が鎮座していることが分る。そして、その「米櫃」に蓋をするように迫っている山稜が見出せる。

この山稜、現在は広大な住宅地に開発されていて、地表の状態は確認できないが、高い山稜ではなく、凹凸のある野原の様相であったのではなかろうか。現地名は北九州市小倉北区熊谷・篠崎辺りである。

「匱迮野」は、水城が延びた先の紫川対岸の丘陵地帯である。「水城」の東端には「筑紫大宰」があり、西端には宮を造って東西から見守る必要があったと思われる。天皇は、あっちこっちと彷徨されているのではなく、国防戦略上の重要拠点を更に強化しようと現地視察されたのである。
 
<山御井>
山御井

神事を執り行うとは、極めて珍しい出来事のように思われる。国政に関することは概ね仏事と記述されて来たようであり、これは天皇家の私事であろう。

すると多数の御子が養育されている谷間中大兄皇太子(葛城皇子)の出自の場所であろう。「山御井」の文字列を紐解いてみよう。

頻出の文字故に、山御井=山が束ねる(御)四角く取り囲まれたところと読める。「山」は真ん中を貫く山稜である。これは、とりもなさず、「中大兄」の地形を表していることが解る。

その傍らと記載されているが、詳細を求めることは難しいようである。御している「山(筆)」の中央部辺りと推定した。如何なる神事であったのか、不明であるが、十名に及ぶ御子達の健やかなる成育祈願だったのかもしれない。
 
<中臣金連>
● 中臣金連

「中臣」の地からも凄まじいばかりの登場である。また、何とも簡明な名前である。「金」は「金」の文字形の地形象形表記と読み解いて来た。直近では對馬國金田城がある。

心配無用で、中臣の谷間の入口が「金」の地形を示していた。藤原鎌足の従兄弟であるが、実に並んでいる地である。父親が「中臣糠手子」と言われる。

同じくその場所を求めると、対岸の山麓辺りと推定される。「糠」=「米+广+隶」と分解され、糠=崖の麓で追い付いた様=寄集った山稜の僅かな隙間で並んでいる様と読み解ける。それなりに古事記で登場する文字である。

極めて狭く押し迫った谷間の表記に用いられている。「手子」=「腕のように延びた山稜の先」と読める。どちらに向かっても峡谷であることには変わりはないようである。出自の地形とその人物の人となり、実に興味深いところであるが、勿論それが全てではない。

尚、この人物は、鎌足亡き後、重用されて行く。同時に「忌部一族」は主たる神事から遠のくことになる。歴史の裏舞台でも、また様々な出来事が生じていたのであろう。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。五月、童謠曰、

于知波志能 都梅能阿素弭爾 伊提麻栖古 多麻提能伊鞞能 野鞞古能度珥
伊提麻志能 倶伊播阿羅珥茹 伊提麻西古 多麻提能鞞能 野鞞古能度珥

四月三十日の未明に法隆寺が火災し、全勝したと伝えている。大雨で雷がなった。五月に童が謡った(参考資料を引用)・・・、

打ち橋の 集落の遊に 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出でましの 悔はあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自
(板をかけただけの簡易的な「打ち橋」の詰所まで出てきた子。その子は玉手(=立派な人)の家の八重子の刀自(=中年の婦人)さん。出てきても後悔はありませんよ。出てきた子は玉手の家の八重子の刀自さん)
 
<蘇我刀自古郎女>
挿入歌の解釈は超難解なのだが、訳された文字列が目に止まった。山背大兄王の出自を求めた時の併せて母親の蘇我刀自古郎女についても少々言及した。書紀も古事記も、この王の出自を語ず、調べた結果に基づいている。


母親は「刀自古郎女」(蘇我馬子宿禰の娘)と言われ、出自の場所を図に示したところと推定した。刀自古=[刀]の地形の端(自)にある丸く小高い(古)ところと読み解いた。

玉手家=勾玉のような手の形をして山稜に囲まれ突き出た(家)ところと読み解く。「馬子」を「玉手」と表現している古事記に登場する葛城の玉手岡に類似する。

八重子=谷(八)が重なる地から生え出た(子)ところと読む(こちら参照)。「玉手の家の八重子の刀自」=「刀自古郎女」と読み解ける。原文「多麻提能伊鞞能」も同様に読み解けるが、省略する(「鞞」に注目あれ)。

思わぬところで「刀自古郎女」の場所の傍証が得られたようである。巷間に伝えられる”固有名詞”は、当時の地形象形表記である可能性が極めて高い、と思われる。引用した上田恣さんの直観は的を得ていたようである。「刀自」=「中年のおばさん」と一体誰が解釈したのか・・・もう一人、聖武天皇の夫人、犬養広刀自と知られる。開けっ広げな”中年のおばさん”では済まされないのでは?・・・。

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<法隆寺>
法隆寺

「法隆寺」の名称が史書に出現した最初である。別称である「斑鳩寺」、また、出土した土器に記されている「鵤寺」から確信的に斑鳩の地に建立された寺と言われている(こちら参照)。

「斑鳩(イカルガ)」の読みについて考察されているこちらを参照しても、何とも漠とした状況のようである。「鵤(イカル)」は、漢語ではなく国字とされている。音読みはなく、訓読みのみである。

既に述べたように「鵤」=「角+鳥」=「鳥のような形をした山稜が角にある様」と解釈され、実に明瞭な地形象形表記なのである。従って書紀は「斑鳩」の文字を当てて、その所在を曖昧にしたのである。

さて、法隆寺の名称は、地形象形表記であろうか?…当然、詳細な場所を表している筈である。「斑鳩」で暈せば、後はそのままの表記を用いているのであろう。

「法」=「氵+去」=「水辺で四角く囲まれた窪んでいる様」、「隆」=「阝+夅+生」=「小高く盛り上がっている様」と解釈される。纏めると法隆=水辺で四角く囲まれた窪んでいる地の先で小高く盛り上がっているところと読み解ける。

図に示した「斑鳩宮」の場所に隣接する小高い地に「法隆寺」が建立されていたことを表していると思われる。この地が「斑鳩寺・鵤寺・法隆寺」の”本貫”の地と推定される。

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