2019年5月13日月曜日

伊邪本和氣命(履中天皇):『波邇賦坂』の再考 〔345〕

伊邪本和氣命(履中天皇):『波邇賦坂』の再考


大雀命(仁徳天皇)が亡くなった後の跡目相続紛争が勃発する。次男の墨江中津王が天下取りために兄弟を抹殺しようと宴の際に高津宮に火を放ったというシナリオである。この長い説話には多くの地名が登場し、それらの位置関係を明瞭に示している。


<逃亡行程>


近飛鳥・遠飛鳥、多遲比(蝮)野など、通説では全くと言い程に読み取れて来なかった文字も出現する。

現在でも時代を代表する「飛鳥」の文字も、その由来は怪しいのである。

これらに関連するところの詳細はこちらを参照願うとして、火中を逃げ延びた伊邪本和氣命(後の履中天皇)が痛恨の歌を詠う場所…、
 
波邇賦坂

…の文字解釈をあらためて行ってみようかと思う。

概略の逃亡行程については、図を再掲する。高津宮を脱出して、多遲比野から坂を登るとなれば御所ヶ岳山系を越えるルートと容易に推測される。

現在も県道242号線が通る峠越えである(迂回の旧道。実際の通行はみやこトンネル)。当時と道筋は異なるであろうが山系の標高が低くなった場所である。通説では波邇賦坂」=「埴生坂」と訳される。勿論現存地名が準備されていて、それだけで、ここだ!…と比定されている。

波邇賦坂」の文字列を紐解いてみよう・・・。「賦」=「割り付ける、与える」とされるが、原義は、単に付与するのではなく、”無理に”、”割って(分けて)”という意味が含まれていると解説される。賦役、天賦などの意味がこれに準ずる。
 
波(端)|邇(近く)|賦(設ける)|坂

…「端に近いところに設けた坂」と紐解ける。御所ヶ岳山塊が一段低くなったところに”無理に”山稜を”割った”ように作られた坂と解釈される。「波(端)」は、現在の井尻川によって遮られたところを「端」と見做したのである。

井尻川は御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の北麓を流れる川で、無数の川が集まって流れる。おそらく当時は現在と比して大河の様相を示していたものと推測される。更にその西北側には初代川・長峡川がある。逃げる方向は自ずと限られていたと推測される。


<波邇賦坂>
一本の谷筋を登って行くことができず、複数の谷間を縫って作られたのであろう。

現在も幾つもの細い山道が見られるが、最もらしく思われる山道を図に示した。Google Mapを参照。

この山稜を越えて行くには、かなり険しく急峻なところである。標高160m弱、南面はもっと険しい斜面を有していることが判る。

古事記の坂には、別の表記「酒(富)」がある。これらは「境の坂」、即ち「酒迎えの坂」なのであるが、単純に「坂」と記しているのは、彼らにとって常時行き来する坂道であったことを表している。

品陀和氣命(応神天皇)もここを通っていたと推定したように、険しくはあっても重要な峠の道であったことを示していると思われる。石上神宮に逃げる常套の通路であったことが解る。

もう少し別の文字解釈も行ってみよう。「賦」=「貝(財)+武(武器)」とすると、「財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した」と読めるかもしれない。勿論この時は真面目に戦う気持ちであった筈で、別途記述した「弾碁」戦法に気付くのは、この坂を下りてからである。

川やら道(山道)の形は長い年月を経て様変わりすることは十分に予想されるが、それでも当時の様子を伺うことは全く不可能でもないことが判る。それには周辺の地形についての情報が不可欠で、今回も「蝮」の地形象形が明確になって来たことが大きく寄与したと思われる。前記<大雀命(仁徳天皇):蝮之水齒別命 〔341〕>も参照願う。