履中天皇・反正天皇

仁徳天皇【説話】                         允恭天皇

履中天皇・反正天皇



1. 伊邪本和氣命(履中天皇)

聖帝仁徳天皇が亡くなり四人の御子達の時代へと移る。早々に事件が勃発するが結果として伊邪本和氣命(履中天皇)が即位したと告げている。残り三人の御子達が順次即位するという少々変則的な時代が続くのである。また、それによって事件も発生する。いずれにしても大国となった倭国の内政的な物語に移って行くようである。

古事記原文…、

子、伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也、此天皇、娶葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女。三柱。

1-1. 伊波禮の宮

伊邪本和氣命は「伊波禮之若櫻宮」に坐したとある。「伊波禮」の文字は「神倭伊波禮毘古命」に含まれ、これが地名になったと推測される。古事記中に出現する「伊波禮」の地について考察してみよう。神武天皇が坐した畝火之白檮原宮」に端を発する場所であり、倭国の重要な地点となったであろう。

古事記の中で「伊波禮」の文字の初出は「神倭伊波禮毘古命」誕生の記述である。天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶って誕生した四人の御子、五瀬命、稻氷命、御毛沼命、若御毛沼命(亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命)、末っ子の若御毛沼命の別名に含まれる。

明らかに地名と記述されるようになるのは、伊邪本和氣命(履中天皇)の「伊波禮之若櫻宮」、白髮大倭根子命(清寧天皇)の「伊波禮之甕栗宮」及び袁本杼命(継体天皇)の「伊波禮之玉穗宮」である。こう並べてみると「神倭伊波禮毘古命」によって切り開かれた地に名付けられたものと考えて良さそうである。

畝火之白檮原宮」の場所を既に求めて来たが、それを振り返りながら「伊波禮」の地の詳細を探ってみよう。神倭伊波禮毘古命が嫁探しに行った高佐士野で「伊須氣余理比賣」を見染める時の説話から…随行の大久米命の歌[武田祐吉訳]…、

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]

「高佐士野」中では「多加佐士怒」である。「佐士」=「佐(タスクル)|士(天子)」と解釈と「匕(匙:サジ)」の地形象形の重ねられた解釈がある。宮は畝火之白檮原宮である。その傍らにあったところを示している。「夜麻登」=「狭い谷間を挟む山稜が二つに分かれるところにある高台」となる。「夜麻登能」は…、
 
延び出た山稜の端が擦り潰されたようになった谷間に山稜が二つに岐れている高台があるところの隅

…と解釈されるが、「高佐士野」・「多加佐士怒」は幾通りかの解釈となろう…、
 
❶皺が寄ったような山稜(天子を奉り仕える/[匙]の地形の)野原
稜端に重なる[匙]の地形と突き出た地形及び嫋やかに曲がる山稜が寄集まった中心のところ

複数の意味に受け取れる表記と思われる(詳細はこちら)。現在の「田川郡香春町高野」これこそが「畝火之白檮原宮」があったところである。現在の行政区分では細分されているが、香春一ノ岳の東南麓に面する広がりの地域であったろう。
 
神倭伊波禮毘古命・畝火之白檮原宮
ところで「
伊波禮」は地形的な意味を示しているのであろうか?…神倭伊波禮毘古命で紐解いた結果を再掲すると…、
 
伊(谷間に区切られた山稜)|波(端)|禮(山裾の高台)

…と紐解ける。「神倭」は、図に示す愛宕山(大坂山)山稜が長く延びる様を表していると読み解いた。

では、一つ一つ宮の在処を紐解いてみよう。
 
伊波禮之若櫻宮

<伊波禮之若櫻宮>
「伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮」と記述されている。

伊波禮」の地に「若櫻」を示す場所は何処であろうか?…それは地名?…はたまた地形に関係するのであろうか?・・・。

既に登場した蘇賀石河宿禰が祖となった櫻井臣と同じ手法を用いると…「櫻」=「木+貝+貝+女」と分解される。

「貝」=「谷間」の象形であり、「櫻」=「二つの谷間が合わさった谷間」と紐解ける。

「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まった様」(下図参照)と解釈すると…、
 
若(山稜が寄り集まった地)|櫻(二つの谷間が合わさった谷間)

…と紐解ける。図中の金辺川と呉川が合流する谷間の入口付近という意味であろう。

大河の金辺川と呉川が作る「貝」である。この二つの谷間が合流する近傍であると解る。この地も見事に「櫻」の「女」を表している。そこに「井」がなかった。と言うか、おそらく当時はかなり大きく広い範囲の「津」の場所であったと思われる。

<伊波禮の宮>
現地名香春町鏡山と上高野との境界付近、下図中JR九州日田彦山線と国道201号線が交差する近隣と推定される。

宮の在処は、おそらく上高野(大字高野)に含まれるところではなかろうか。
 
伊波禮之甕栗宮
 
「白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮」と記述されている。キーワードは「甕」と「栗」である。

地形象形と見て該当するところを探すと…現在の日田彦山線香春駅の近隣、香春町松丸、庄ヶ原(下高野一区)の地名となっているところが浮かび上がる。
 
甕の形状と栗の毬のような台地の縁
 
…となっていることが判る。白髮大倭根子命」の「大倭根子」は…、
 
大(平らな頂きの山稜)|倭(嫋やかに曲がる)|根(山稜の端)|子(延びたところ)

…「平らな頂きの山稜が嫋やかに曲がった端が更に延びたところ」と紐解けば「甕栗宮」の位置と正に合致すると思われる。山は大坂山(愛宕山)を指し示していることが解る。現在の香春町役場がある近隣と古事記が伝えている。

自然環境的な変化に加え人的な変遷を経て、1,300年間という途轍もなく長い年月のなかで根本(中心)の場所が不変であったことに驚嘆する。これが「歴史」であり、これを語る書物を「史書」という。
 
伊波禮之玉穗宮

「品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮」と記述されている。応神天皇五世の継体天皇が坐した場所である。この天皇の出自についてはサラリと流してきたが、いずれキチンと纏めることになるであろう。
 
玉穗=玉(勾玉)|穂(穂のような先端)

曲がった地形でその端にある地形を探すと…上記「甕栗宮」の東北の近隣、現在の香春町高野にある勾金小学校辺りと推定される。現地名は変化しているが小中学校の名前に過去の地名に由来する名前が残っている。既に幾度か遭遇した現象である。

「甕」「勾金」を合わせると上記の「栗」その中にすっぽりと収まっている様と判る。見事である。地図が無い時代にどの場所で観察して命名したのか、実に興味ある記述と思われる。図を参照願う。勿論通常の地図では上記の意味は全く読み取れず、色別標高図を駆使しての結果である。

「伊波禮」の地を紐解いて倭国の中心の場所が浮かび上がって来た。長い時間を掛けて漸く辿り着いた場所である。倭国(大倭)の全体を見渡すことができるようになったと言える。安萬侶くんに裏切られることなく導かれたことを感謝する。そして「伊波禮」関連の言葉に潜められた情報の豊かさに感嘆する。まだまだ彼が伝えることを見逃しているのではと、怯える気持ちも生じるのである。
 
1-2. 后と御子

履中天皇は一人の后を娶っただけである。上記に「葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名黑比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女。三柱。」とある。履中天皇の母親は葛城之曾都毘古之子・石之日売だから孫同士、従兄妹間の娶りということになる。葛城一族が深く姻戚に絡んだと伝えている。
 
葦田宿禰之女・名黑比賣命

仁徳天皇の黒比賣の黒金ではなく、今度は黒田(豊かな水田)の黒であろうか…枯れた大地の葛城はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。一族の隆盛を示す記述である。当然丸邇一族の影が薄くなったということである。この二人の居場所は、ほぼ突き止められているような感じであるが、詳細に如何であろうか?…「葦田宿禰」は…「葦」=「艹+韋」として…、
 
(丘陵で囲まれた田)|宿禰(山麓の小高いところ)
 
<葦田宿禰・黑比賣命>
…と紐解ける。常福池のある谷間にある小高いところの麓に居たと推定される。

既に葦原中国葦原色許男などで「葦」は登場した。山稜に囲まれた地を表すと解釈したが、敢えて「丘陵」と訳した。

「艹」は「連なる山(丘)稜」を表す文字と読み取ることにする。「玉手」の一部を抜き出して表記したものと思われる。

黒比賣命」の「黑」は、孝霊天皇の黑田廬戸宮「黑」=「囗+米+土+灬(烈火)」であろう。

また、前記の吉備の黑日賣と同じ解釈として「黒比賣命」は…、
 
谷間に[炎]のような山稜が延びているところ
 
…の比賣と読み解ける。父親の地にある地形の麓にあった田を示していると思われる。よくあることではあるが、父親と比賣の二人を合わせて地名の特定ができる典型的な例であろう。彼等が坐した場所までは特定しかねるが、現在の二つの神社を地図に示した。

葛城一族が続々登場するようになる。上記したようにこの地はすっかり穀倉地帯に変貌したのであろう。綏靖天皇から始まった葛城への侵出、実に見事な戦略であった、と思われる。

後に説話に登場する「市邊之忍齒王」について述べてみよう。皇位継承が変則となるのだが彼の出番が与えられなかった、という悲運の王子のように思われる。
 
市邊之忍齒王

市」は人々が多く集まるところ、物の交換(交易)、歌垣(歌の交換か?)などの解釈があるが、ちょっと変わったものでは「聖と俗との境界」表わすとも言われるようである。現在とは異なり、物々交換が主体となった交流の場と考えて良いように思われる。が、実際にそれが行われていた場所を示すのであろうか?・・・。

「市」は海と川が混じり合う場所を表しているのではなかろうか。海と川との交流の場所である。そう考えるならば、現在の福岡県田川郡福智町市場辺りが該当する場所として浮かび上がる。「市津」という地名も残る。この場所は正に海と川との境界、縄文海進と沖積進行の兼合いで生じた地形と思われる。
 
市(海と川が混じり合う)|邊(畔)|之|忍(目立たない)|齒(牙)|王

…「海と川が混じりあう畔の目立たない牙のようなところ」の王と紐解ける。下図に示した通り、川に突き出た地形の近隣に坐していたと推定される。蝮之水齒別命(反正天皇)の「歯」に類似する。「水歯」=「水面のように平らな牙(細長く延びた山稜)」と読み解いた。
 
御馬王
 
この名前は「馬」がポイントであろう…、
 
御(束ねる)|馬(踏み台の形をした地形)|王
 
…そんな地形が並んでいる場所が見出だせる。何と感想を述べて良いのやら戸惑うばかりであるが、地形象形、である。下図に示した現在の松尾神社辺りがこの踏み台の地形を束ねているように見える。続いて誕生したのが、別名を持つ比賣のようである。
 
青海郎女・亦名飯豐郎女
 
「青海」青い海の傍に居る比賣なのであろうが、やはりもう一つ意味が込められている。
 
青(成りかける)|海
 
<黒比賣命の御子>
…「海に成りかけるところ」の郎女と紐解ける。上記の「若櫻」の「若」と同義であろう。「忍海」と同じく「海が目立たないところ」である。

ほぼ場所は特定できるが、別名飯豐郎女の「飯豐」で確定されるようである。

「飯」=「なだらかな山稜の麓」と既に紐解いた。讃岐国の謂れ飯依比古などに含まれていた。

「豐」は「豊かな」と普通に読んでも違和感は感じられないが、やはり、筑紫嶋の豐國の解釈に準じるのでなかろうか…、
 
飯(なだらかな山稜の麓)|豐(多くの段差がある高台)
 
…「なだらかな山稜の麓で多くの段差がある高台」その通りの表現で「青海」を眺める岸の地形を示していると思われる。それぞれの坐した場所までは特定しかねるが、現在の神社を含め纏めて図に示した。

この地は神功皇后を香坂王・忍熊王が迎え討とうとした斗賀野と言われた場所と思われる。当時は彦山川を遡って来るとこの地で上陸する交通の要所でもあったようである。

葛城の地に広がった御子達であり、大きな繁栄が期待されたことであろうが、時代の流れは簡単ではなかったようである。後の説話に登場する「市邊之忍齒王」を通じて一族は荒波に晒されることになるのである。

1-3. 難波宮炎上

原文は直ぐに説話に移る。又もや皇位継承によるいざこざである。長文になるので段落を付けて述べる。


本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、
多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆
到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、
波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理
故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、
淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流
故、上幸坐石上神宮也。
[はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒にお浮かれになつて、お寢すみなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢の直の祖先のアチの直が、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤めになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、
タヂヒ野で寢ようと知つたなら屏風をも持つて來たものを。寢ようと知つたなら。
ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、
ハニフ坂にわたしが立つて見れば、盛んに燃える家々は妻が家のあたりだ。
かくて二上山の大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路から廻って、越えておいでなさいませ」と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、
大坂で逢つた孃子。道を問えば眞直にとはいわないで當麻路を教えた。
それから上つておいでになつて、石の上の神宮においで遊ばされました]

仁徳天皇が葛城之曾都毘古之女・石之日賣命(大后)を娶って生まれた四人の御子、大江之伊邪本和氣命、墨江之中津王、蝮之水齒別命、男淺津間若子宿禰命の内、長男から三男までが絡んだ皇位継承に纏わる事件である。次男の墨江之中津王が宮殿に火を放って長男を亡き者にしようとしたのがこの事件の発端と記述される。

放火に気付いた、といっても賢明なる部下に助けられて、逃亡劇が始まる。地名が入った念入りに記されるのであるが、逃亡中に登場する地名を順に挙げると…、

難波宮→多遲比野→波邇賦坂→大坂山口→當岐麻道→石上神宮

切羽詰まった逃亡中に暢気に歌など詠う…流石天皇危機迫っても余裕が…従来の解釈はこんなところであろうか。歌に「真実」が潜められている、幾度か示した通りである。それを紐解いてみよう。

炎上する宮殿の方を見て詠った歌の中にある「迦藝漏肥=カゲロヒ=曙光」…陽炎と訳されるが、「毛由流=燃ゆる」に掛かる言葉として、東の空に見える明け方の太陽光の赤々とした情景の描写と解釈される。酔い覚めの眼で西方から難波宮近辺を眺めていたと思われる。伊邪本和氣命一党は…、
 
”難波宮の西方に逃げた”
 
…と推定される。前記した難波宮は御所ヶ谷住吉池近隣(行橋市大字津積)とした。その西方に上記②~⑥の場所があることになる。
 
多遲比野

「多遲」は多用される。例えば多遲麻國布多遲等々これら全て「多遲」=「山稜の端の三角州が刃物のような形をしているところ」と紐解いて来た。それに従うと…「多遲比野」は…、
 
(山稜の端の三角州)|遲(延びた山稜が刃物の形)|比(並ぶ)|野
 
<多遲比野>
…「山稜の端の三角州が延びた刃物のような形をして並んでいる野」と読み解ける。現在の地形から推定できるであろうか?・・・。

蝮之水歯別命(後の反正天皇)が坐したところが多治比之柴垣宮と記される。御所ヶ岳山系の北麓、難波之高津宮に並ぶところと紐解いた。

難波宮が近隣にあった住吉池の西方に広がる水田地帯が示されている。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保と記載されているところである。

更に西方は「三嶋湟咋」及びその子孫達によって切り開かれた「茨田」が広がる地に繋がる。

近淡海國南部の穀倉地帯として開拓された重要地点であった。主要な地点に囲まれていて、そして現在も御所ヶ岳山塊を越える峠の道が通じるところでもある。
 
波邇賦坂

多遲比野から坂を登るとなれば御所ヶ岳山系を越えるルートと容易に推測される。現在も県道242号線が通る峠越えである。当時と道筋は異なるであろうが山系の標高が低くなった場所である。通説では波邇賦坂」=「埴生坂」と訳される。勿論現存地名が準備されていて、それだけで、ここだ!…と比定されている。

波邇賦坂」の文字列を紐解いてみよう・・・。「波」=「水辺で覆い被さるような様」、「邇」=「辶+爾」=「延び広がっている様」、「賦」=「貝+武」=「谷間にある矛のような山稜」とすると…、
 
水辺で覆い被さるように延び広がった山稜が矛のような形をしている傍らの坂

…と紐解ける。御所ヶ岳山塊が一段低くなったところ、現在の井尻川によって遮られたところを「端」と見做したのである。

井尻川は御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の北麓を流れる川で、無数の川が集まって流れる。おそらく当時は現在と比して大河の様相を示していたものと推測される。更にその西北側には初代川・長峡川がある。逃げる方向は自ずと限られていたと推測される。
 
<波邇賦坂>
また「賦」の意味は、単に付与するのではなく、”無理に”、
”割って(分けて)”という意味が含まれていると解説される。

賦役、天賦などの意味がこれに準ずる。一本の谷筋を登って行くことができず、複数の谷間を縫って作られた坂道だったのであろう。

現在も幾つもの細い山道が見られるが、最もらしく思われる山道を図に示した。Google Mapを参照。

この山稜を越えて行くには、かなり険しく急峻なところである。標高160m弱、南面はもっと険しい斜面を下ることになろう。

古事記の坂には、別の表記「酒(富)」がある。これらは「境の坂」、即ち「酒迎えの坂」なのであるが、単純に「坂」と記している。

即ち、ここでは彼らが常時行き来する坂道であったことを表している。「坂」の論考については、既稿のブログを参照。

品陀和氣命(応神天皇)もここを通っていたと推定したように、険しくはあっても重要な峠の道であったことを示していると思われる。石上神宮に逃げる常套の通路であったことが解る。

もう少し別の文字解釈も行ってみよう。「賦」=「貝(財)+武(武器)」とすると、「財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した」と読めるかもしれない。勿論この時は真面目に戦う気持ちであった筈で、後に記述する「弾碁」戦法に気付くのは、この坂を下りてからである。

曙光を見て愕然とし、メラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

その坂を登ったところで難波宮の炎上を見て詠った…、

波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理

武田氏は「迦藝漏肥」=「盛んに」と訳す。陽炎(カゲロウ)はユラユラと立ち昇る様で炎上ではない。「曙光」の眩しさこそ「毛由流伊幣牟良」の炎上に相応しい。ならば、東方に見えたと解釈するのが論理である。彼は判っていて「盛んに」という言葉を当てたのであろう。何故なら、通説の大阪難波高津宮では西方には逃げられないからである。そこは難波である。

波邇賦坂の峠から見たとして難波宮まで約1.3km、妻の家があったとした村まで約1.7kmの距離である。目視観察できる現実的な距離と思われる。空想の、はたまた後日思い出しての回想ごとき解釈ではない。「迦藝漏肥」に掛ける怒りの気持ちも臨場感ある歌と捉えるべきであろう。
 
――――✯――――✯――――✯――――

初見の記述を再掲しておく…

東にある難波宮で寝込みを襲われた伊邪本和氣命、賢臣達に馬に乗せられ「ここは何処ぞ?」なんて暢気なことを言うと、「あれをご覧下され」と、漸く納得して、腸が煮えくり返るほどに激高した。よく見ると、愛しき嫁が焼死するような…歌は「かげろひ」ごとくの彼の心境を表している。

西へ、倭へ。大坂山口に入ってしまうと、もう都は墨江中王のものになってしまう。戻って戦うかどうか、逡巡もあっただろう、賢臣達の一先ずは逃げることの進言に後ろめたさを感じながらも従ったのであろう。
 
――――✯――――✯――――✯――――

さてさて、揺れ動く心を抱きながら坂を下り、大坂山に向かう。

大坂山口

大坂山南麓を抜ける峠越えの道の入口であろう。現在の京都郡みやこ町犀川大坂辺り、県道204号線が通り、当時とは異なる道筋となっているのであろうが、集落がある場所を指し示しているように思われる。だが、説話はその正規ルートを通らなかったと記述する。ドラマが生まれる。と同時に古代史上重要な言葉が語られることになる。

當岐麻道

當岐麻道(タギマジ)」大坂山口に至るととある女性に敵の兵が待ち構えているから異なる道に行けと教えられる。事の成り行きとして至極当然のことであろう。逃亡するのに幹線道路使用は危険であると伝えられたのである。通説は「當麻道」現在も残る近畿大和の道、幹線道路である。「岐」を省略して幹線道路、この矛盾に目を瞑るわけにはいかない。

ここも歌にその「真実」が潜められているのである。

淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能
[大坂で逢あつた孃子(おとめ)。道を問えば眞直(まつすぐ)にとはいわないで當麻路(たぎまじ)を教えた]

これでは何も伝わって来ない。オーム返しの歌を詠っていると見せ掛けているのである。多陀邇波能良受」は通訳のように「多陀邇波」=「直には」であろう。やはり次の「能良受」が解釈のポイントである。「能良受」=「告()らず」=「乗()らず」である。「乗る」=「調子づく、勢いがつく」の意味である。「多陀邇波能良受」は…、
 
(タダ)ちには乗()らず=すぐには勢いづかず
 
…と解釈できる。

「當藝麻知」=「當岐麻道」と解釈したのが通訳である。が、この短い文の中で、同じ文字数の句に変えるのは隠された意味がある。例によって文字の区切りを変えてみる。「當藝麻知」=「當藝麻・知」(通訳)=「當藝・麻知」としてみる。

「當藝」とは何であろうか? ネット検索すると容易に次のことが見出された。「當藝(タギ)」=「弾碁(タギ)現在ではほとんど忘れ去られた「遊戯」であるが中国の漢時代に始められて流行ったものという。源氏物語にも記載があり、専用の盤があって当時の大宮人には良く知られたものであったという。

数年前韓国で大流行した「アルカギ」に類似?との記載もあるが、用いる碁盤の形状が異なるようである。記載された「遊戯」から想像すると、四角い盤上に中央が盛り上がったところ()があり、それを挟んで相手方に置かれた碁石めがけて自分の碁石を弾く、「弾いて当てる遊戯」である。

當岐」=「當藝」と置換えられている。麻知」=「待ち」と思われる。通してみると…、
 
當藝麻知=當藝|麻知=弾碁待ち

「石当て遊戯(のような戦闘)待ち」を「能流」=「宣る」ということになる。全体を通してみると…「多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流」は…、
 
すぐには勢いづかず弾碁待ちを宣する

…「弾碁」に寓意された「戦闘」は正にこの事件の地理的状況を表している。大坂山を挟んでの攻防である。また難波宮と石上神宮の置かれた状況を示していると思われる。両方とも決して大坂山山塊から離れた距離にはないことが伺える。

「能」=「告」=「乗」=「宣」に掛けている。いや、だからこそ「能」という字を用いたのであろう。それを解釈しなければ歌の真意は読み取れないのである。

「當岐麻道」をあらためて見返してみよう。前半部「當岐」で、歌は「藝」とした。「岐」に意味がある。「岐」=「分岐」と解すれば「當岐」=「分岐(する)に当たって」となる。「麻」=「摩」とすれば「麻道」=「摩道」=「消えかかった道」と解釈される。
 
分岐路が消えかかった(判りづらい)道
 
…ということになろう。記述に登場する地元の一女人」の必然的出番である。そして待伏せする敵には知られていない道であることを伝えている。だから履中天皇は生き延びることができた、そうである。

…偶々()出会った女人から地元人以外にはわからない迂回の脇道を教えられて命拾いをした。そうだ、今は怒りに任せての復讐を急がず、しっかり準備して弾碁のように狙いを絞って戦ってやろう…。

<逃亡行程>
ちょっと「乗り」で訳してますが…履中天皇の心中、その歌の伝えるところはこんな感じではなかろうか。

そして用いた「弾碁」の石は、後に登場する弟の水齒別命が懐柔した墨江之中津王の幹部隼人の「曾婆訶理」、放った石は一発必中であった。

當岐麻道」は固有の地名ではなかった。いや、固有の名詞になるわけがないのである。なぜなら分岐路としては判り辛く名も無いのだから。

日本書紀は「当麻()徑」と表記する。そして固有の地名として「竹内街道」を示すかのごとくにしたのである。そうするには「岐」が邪魔であった。「竹内街道」もどうも怪しい名前のようだが・・・。

現在でも大坂山南麓を横切るには複数のルートがあることが伺える。上図に示したように分岐が判り辛いルートを推定してみた。矢印の先は山浦大祖神社向かう。春日、木幡村(現地名:田川郡赤村内田)、丸邇(現地名:香春町柿下)を抜けて石上神宮へと向かうことができる。

石上神宮

石上(イソノカミ)神宮、超がつく有名な神社である。勿論奈良大和にある、ではない。上記のルートを辿った先は伊邪本和氣命が坐した伊波禮」の地となる。その眼前に聳えるのが畝火山、現在の香春一ノ岳、最高品質の結晶性石灰石を産出する山である。

石上神宮は香春一ノ岳に鎮座していたと思われるが、現在は、全くその面影もなく、削り取られている。南麓に香春神社がある。由来を調べると西暦709年に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳に各々祭祀されていた神社(辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比売神社)を移設したものとある。

そのうちの2社は西暦843年に正一位の神階になり、天理市布留の石上神宮は西暦868年であることが知られている。そのものズバリの名前を持つ後者よりも早くに、である。不思議なことだと誰しも感じることであろう。不思議なことは後に述べてみようかと思うが、今はその事実のみ…。

<石上>
「石上(イソノカミ)」とは?…これはずっと後代に登場する天皇の宮の在処から推定することができた。

結果のみを示すが…、
 
石上=磯の上

…である。金辺川、御禊川が合流するところは広大な池(沼)の状態であったと推定される。

複数の岩山の山稜の端がそれに接するところは「磯」であったと推測することは容易である。この文字も正に地形を象った表記であった。初見で種々考えてみたことを併記して置く。

この神社の名前については従来より様々に語られて来ている。少し横道に逸れるが・・・、

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この「石上」は「石上布留(イソノカミフル)」であり、「イシガミ」ではない。ならば「五十神降」と表記できるのではなかろうか。「五十神」=「多くの神」が「降」=「寄り集まる」ことを表していると思われる。「フル()」=「触」=「振」も同様である。余談になるが、伊勢神宮はその古名を磯宮(イソノミヤ)という。関係深い宮川水系のイスズガワは五十鈴川と表記される。日本中に数多の神社があるが、「神宮」の名称を許されるのはこの伊勢と石上だけである。これもまた謎めいた話である。

神は人である。香春岳は石灰石もさることながら、銅の産地(東大寺大仏)であり、後には近くは石炭であり、資源が豊富であれば、神も人も寄り集まって来る、そして去って行く、ということであろう。自然の営みに任せるなら許せるが、人為的であってはならないものであろう。神はもう降ってこないのだから。
 
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さて、説話はいよいよクライマックスへと進んで行く。「弾碁」の実行に移るのである。

1-4. 近つ飛鳥・遠つ飛鳥

於是、其伊呂弟水齒別命、參赴令謁。爾天皇令詔「吾疑汝命若與墨江中王同心乎、故不相言。」答白「僕者無穢邪心、亦不同墨江中王。」亦令詔「然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言。」故卽還下難波、欺所近習墨江中王之隼人・名曾婆加理云「若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。」曾婆訶理答白「隨命。」
爾多祿給其隼人曰「然者殺汝王也。」於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛刺而殺也。故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。
爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇「政既平訖參上侍之。」爾召入而相語也
[ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許においでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢い心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還って行って、スミノエノナカツ王を殺して上っておいでなさい。その時にはきっとお話をしよう」と仰せられました。依って難波に還っておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人を欺いて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。
依ってその隼人に澤山物をやって、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいっておられるのを伺って、 矛で刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上っておいでになる時に、大坂の山口においでになってお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行ったら、かえってその心が恐しい。依ってその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まって、まずお前に大臣の位を賜わって、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まって假宮を造って急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わって百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成ったと思つていました。
そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになって、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになった大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上っておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥と名づけます。大和に上っておいでになって仰せられますには、「今日は此處に留まって禊祓をして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石上の神宮に參って、天皇に「すべて平定し終って參りました」と奏上致しました。依って召し入れて語られました

武田氏の訳の通りに読み下せば何とも凄惨な事件であることを述べている。ギャング映画のよう、と初見で書いたが、読み返しても同じである。「弾碁」は鉄砲玉と言われる役回りそのものである。

「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」勝手な言い分だが、所詮は裏切り者の運命なのだと述べておられるようである。そんな事件の中に時代を表す言葉が出現する。

二つの飛鳥

我々はこの文字を見ると、「アスカ」と読んでしまうほど慣れ親しんだ、だが、なんで「アスカ」なの?なんて気にもしない。そのまま読めば「飛ぶ鳥=トブトリ」である。「鶏」ではない。


これは、何を示すのか?…「飛ぶ鳥」=「隼:ハヤブサ」と置換えてみる。
 
「飛鳥」=「隼」=「隼人」=「曾婆加理」
 
となる。これでギャング映画の出来事と地名の繋がりが見えてくる。

近 と 遠

「飛鳥」=「曾婆訶理(ソバカリ)」だから「近飛鳥」=「近曾婆訶理」、「遠飛鳥」=「遠曾婆訶理」となる。

 
近・飛鳥=近・曾婆訶理=曾婆訶理を近付ける
遠・飛鳥=遠・曾婆訶理=曾婆訶理を遠ざける
 
「雖報其功、滅其正身」は…、
 
近付けて報い、滅して遠ざける

…と告げてる。「滅正身」は「祓禊:祓って禊ぐ」で完了する。

こう見ると、出来事そのものを名付けており、生々しさしか残らない。先人達の知恵の出しどころ、その読みを変えてしまった。

飛鳥=アスカ

再度、関連する原文は…爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

どうやら王子が「明日、明日」と地名を付ける前に宣っておられることに目を付けたようである。

明日の場所=明日処(アスカ)

「処」は場所を示す接尾辞(ex.すみか)

近飛鳥⇒アスカソバカリチカづけるソバカリ省略
アスカチカづける⇒チカアスカ

遠飛鳥⇒アスカソバカリトオざけるソバカリ省略
アスカトオざける⇒トオアスカ

先人達の素晴らしい知恵で、その生々しくておどろおどろしい内容を…、

飛鳥=明日処(アスカ)
    (明るい日の場所)


…に変えた。その現在の地名は…、

近飛鳥:京都郡みやこ町犀川大坂字大坂
遠飛鳥:田川郡香春町香春(の香春一ノ岳東南麓)

<難波之高津宮~石上神宮>
…と推定される。破線は水齒別命(曾婆訶理は一部)が通ったと推定されるルートを示す。

近飛鳥・遠飛鳥は決して広い範囲を示すのではなく、限られた場所であることが判ってきた。

宮(若しくは神社)の中心とした地域の広さと思われる。垂仁天皇紀の大中津日子命が祖となった飛鳥君として登場している。

既に述べたように石上神宮のあるところは「飛鳥」の山裾の地であった。だから「隼人=飛鳥」に掛けて、亡き者にした地、即ち大坂山口の近隣を「近つ飛鳥」と呼んだと記述しているのである。

倭国における神、石上(イソノカミ=五十神=多くの神とも読める?)が宿る場所として、そして「伊波禮」はその傍らにあって、人々が住む国の中心として位置付けられていると思われる。神が実在するという観念に基づく古代の国の有様を伝えているようであるが、果たしてそうなのか?・・・。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。

<隼人曾婆訶理>
その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?…後世の出来事に由来するのかもしれないが・・・。

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曾婆訶理の出生地

隼人は、前記の邇邇芸命の段で「火照命此者隼人阿多君之祖」と記される。

母親の神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)の近隣と推定した。この阿多の地で「曾婆訶理」を紐解くと…、
 
曾(積み重ねる)|婆(山稜の端)|訶(谷間の耕地)|理(区切る)

…山稜の端が一段高くなっている地(現金山)の谷間に区切られた耕地があるとことが出自の場所(現地名は北九州市門司区黒川東辺り)と紐解ける。

急傾斜の谷間を段々に区切って耕地にしていたのではなかろうか。砂利山山塊の谷間から青雲の志を持って都に向かった隼人だったのであろう・・・多分。

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近飛鳥・遠飛鳥 補足

上記で近=近付ける遠=遠ざけると解釈した。決して「近い・遠い」の位置関係を述べているのではないのである。更にこの二文字は、地形象形表記として用いられていることを明らかにして来た。即ち、近=辶+斤=[斤]の文字形ような様遠=辶+袁=ゆったりと長く延びている様の地形を表している。

では、この二つの飛鳥を「近」と「遠」を用いて如何に表現したのであろうか?…近飛鳥の地形を再確認すると、正に「近」の文字形の飛鳥であり、一方の遠飛鳥は「遠」の文字が表す姿の飛鳥であることが解る(こちら参照)近淡海の「近」、全く揺るぎのない表記だったわけである。万葉の世界を十二分に堪能させられる、古事記であろう。

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1-5. 事績及び御陵

天皇於是、以阿知直、始任藏官、亦給粮地。亦此御世、於若櫻部臣等、賜若櫻部名、又比賣陀君等、賜姓謂比賣陀之君也。亦、定伊波禮部也。天皇之御年、陸拾肆歲。壬申年正月三日崩。御陵在毛受也。
[ここにおいて、天皇がアチの直を大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀の君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります

炎上する宮殿から天皇を救い出した阿知直にはそれ相当の褒章があったという訳である。「藏官」は大蔵大臣を示すとか…現在に繋がる官庁名だったのである。若櫻は立派な田地になったことを示している。谷川の氾濫を鎮め、治水が施された。「伊波禮」も豊かな水田を持てるようになったことを告げている。現在の状況になるにはまだまだ時間が必要であったであろうが…。

開化天皇紀に日子坐王が山代の苅幡戸辨を娶って誕生した大俣王の子の菟上王が比賣陀君の祖となった記述があった。「比賣陀」=「日枝」であって現在の行橋市上・下稗田辺りと推定した。これ以外の君等にも姓を与えたという意味であろう。

御陵は「毛受」仁徳天皇の毛受之耳原で比定した通りに現在の行橋市延永辺にある丘陵地の中央辺り([受]の地形)と思われる。地図は下記を参照。

2. 水齒別命(反正天皇)

弟、水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。此天皇、御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。天皇、娶丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女、生御子、甲斐郎女、次都夫良郎女。二柱。又娶同臣之女・弟比賣、生御子、財王、次多訶辨郎女。幷四王也。天皇之御年、陸拾歲。丁丑年七月崩。御陵在毛受野也。

坐したところは「多治比」仁徳天皇崩御の後に直ぐ下の弟の墨江之中津王に焼き出されて逃げた時立ち止まる場所である「多遲比野」を指すと思われる。実のところ「遲=治」であることを気付かされた記述なのである。「遲」⇒「刃物」、「治」⇒「耜(スキ)」を表していると解釈した(詳細はこちら参照)。

多遲比=山陵の端の三角州(多)が擦り潰された刃物のような形(遲)をして並んでいる(比)ところの解釈に進み、更に「多遲摩国」の理解が納得へと導かれたことを思い出す。反正天皇紀は「種明かし」の記述とも言える。すると「多治比」は…、
 
山陵の端の三角州(多)が耜のような形(治)をして並んでいる(比)ところ

…と読み解ける。「耜」の表記がより忠実にこの地を示すことになろう。次の「柴垣宮」は「難波之高津宮」の場所の特定に決定的な役割を果たすのである。

現地名は福岡県京都郡みやこ町勝山大久保辺りで、その西側の勝山松田(茨田)から続く古くからの広大な治水地帯であると紐解いた。「蝮之水齒別命」と記されるが「蝮」=「タジヒ」であり、そもそも住んでいた場所なのである。
 
多治比之柴垣宮

柴垣宮の「柴」=「雑木の小枝、垣根、塞いで守る」のような意味を示すとある。それはそれで宮を取り囲む垣根として不都合はないように思われるが、これまでに幾たびも遭遇した、一見普通に思える記述は要注意である。何かを意味しているのではなかろうか・・・。
 
<多治比之柴垣宮・難波之高津宮>
既に幾度か登場した「柴」=「此+木」と分解され、「此」=「止+匕」から「柴」=「谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている」様を表すと解釈した。

「垣」=「囲まれている」様であり、すると「柴垣」は…、
 
谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びて取り囲んだところ
 
…と紐解ける。御所ヶ岳山系の麓にあって、燃えて焼失した「難波之高津宮」と並ぶ位置にある場所を示していると思われる。

更に付け加えると「此」は「妣(亡き母)」に通じる。即ち亡き人と並ぶという意味も含まれることになる。既述した柴野入杵の「柴」も、亡き須佐之男命と並ぶという意味を示すものと解釈される。「塞いで守る」その対象が大切な「亡き人」であった。

図に示したように住吉池傍の難波之高津宮に並ぶように水齒別命の「多治比之柴垣宮」があったと推定される。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保平尾辺りと推定される。その間にある複数の南北の稜線が「垣」を表していると読み取れる。
 
<水歯>
難波之高津宮」は履中天皇、反正天皇にとって忘れられない宮であり、その鎮魂の意味を込めている、と思われる。

おそらく宮の周りに柴垣があった、それも的外れの解釈ではないのであろう。それも重ねた宮の名前としておこう。

御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠」歯の長さまで記されている。注目されるのが「上下等齊」である。

「上下」を図のように解釈すると、見事に揃った「牙」であることが解る。十二分に戯れている気もするが、象形表示としては納得せざるを得ないものではなかろうか。

こんな文字遊びに触れて、「古事記・万葉集」の世界に住まう人々の心の豊かさを感じさせられる。実に爽快である。

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上記したように「遲」⇄「治」と置換えることで、古事記が表す地形を読取ることができた。一方で、それを示唆と受け取ると同時に、何故ここで「治」の文字を用いたのか?…と考えさせられる。今一度文字解釈を行ってみよう。

「遲」=「辶+犀」と分解される。通常は「進み方がおそい、時間におくれる」などを意味する文字である。動物の「犀」の動作に基づく解釈なのであろうが、また鋭い角を暗示させる意味も有する。「犀」=「尸+辛+牛」と分解すると、「辛」=「刃物」を象った文字が含まれている。

「治」=「氵(水)+台」と分解される。「台」は「臺」の略字ではなく、別字である。「台」=「ム(耜)+囗(大地)」の構成要素から成るとされる。「耜」は「鋤」などの「刃が付いた農具」である。これで「遲」と「治」が繋がったことが解る。

遲=刃物を用いて(辛)山稜の端()にある谷間を[Y(牛)]型にした様を表すと読み解ける。「多」=「山稜の端の三角州」と合わせると、既に読み解いて来た「多遲」=「山稜の端の三角州が治水されたところ」と導くことができる。治=川の傍らを刃物で大地を整えた様と読み解け、結果「多治」=「多遲」となる。

更に「治」に含まれる「(ム)」=「耒+㠯」の「㠯」=「積み上げた様」から「大地を盛り上げた状態」を表す。この微妙とも言える文字が示す差を用いて表記したと思われる。上図に示した「歯(牙)」の右側の先端は二つに分かれていることが分る。「多遲」ではあるが、更に「多治」となったところが並んでいる場所を示している。そして「柴垣宮」の場所を特定することが可能となるのである。

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丸邇之許碁登臣
 
<丸邇之許碁登>
丸邇の姉妹を娶る。「丸邇之許碁登」は何処であろうか?…ポイントは「碁」の解釈であろう。

碁石でもなく、字源から導かれる「比賣碁曾社」で登場した「崖下の石」では何ら地形の特徴を示さない。

上記と同じく分解してみると「碁」=「其+石」更に「其」=「箕」に通じると解釈される。
 
許(下)|碁([箕]の形をした山)|登(山稜が分かれる高台)

…「丸邇にある箕(図参照)の形をした山の麓で山稜が二つに分かれるところにある高台」と紐解ける。「登」は夜麻登に含まれている。

現在の田川郡香春町柿下の近隣でその場所を探すと、「柿下大坂」の地名が見つかる。大坂山南麓の坂を登った場所である。
 
<箕>
地図を参照願うが、稜線の端が「箕」の形をしていることが判る。数少ない地形象形と思われるが、それだけに特徴的な地形を示している。

この地は孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となったと記述にあった「大坂臣」の近隣に当たると思われる。

現在も「大坂」「柿下大坂」と別記されるように異なる集落であったようである。兎も角も「許碁登」が「大坂」に繋がり、詳細地図のピースが埋まるとはビックリである。
 
都怒郎女と弟比賣

娶った比賣が「都怒郎女」とその妹、産まれた御子が「甲斐郎女、都夫良郎女、財王、多訶辨郎女」と記載される地名を直接的に表現しているであろう「甲斐」は既に登場の「甲斐酒折宮」に関連すると思われる。現地名は北九州市門司区恒見の鳶ヶ巣山の西~南麓である。

「都夫良」は後の安康天皇紀に出現する都夫良意富美の居場所と思われる。文字解釈は省略するが、現在の北九州市門司区大里桜ヶ丘辺り、城山町から鹿喰峠へ向かうところと推定した。
 
<都奴郎女と御子>
「都怒」は仲哀天皇紀に登場した都奴賀に関連すると思われる。「奴」=「[女]・[又(手)]の地形」を示すと紐解いた。「怒」の文字を用いたのには理由があろう。「都怒」は…、

都(集まる)|怒([女]・[又(手)]の地形+中心)

…「[女]と[又(手)]の形が集まる地の真ん中辺り」を表していると読み解ける。

「丸邇」から唐突に出現する比賣の名前は、他には求められることなく、この角のように突き出た入江の奥、その中央付近に坐していた郎女と解釈される。

いや、だからこそ何の修飾も無く記載したのであろう。現地名門司区喜多久であり「財」=「江野財」建内宿禰の子、若子宿禰が臣の祖となった地である。同じく喜多久の内陸側と推定される。

多訶辨」は初出ではあるが…、
 
多(山稜の端の三角州)|訶(谷間の耕地)|辨(別けられた地)
 
…「訶」の意味からすると「谷間を切り開いて作った耕地を田にして別けられた地」と紐解く。「財」の山側で最も深い谷筋と推定する。現地名は門司区喜多久、母親と変わらずである。

かなり遠くの地名が当てられている。反正天皇は五十五歳前後での即位と思われ、即位前の御子達の食い扶持を与えるには距離を障壁にすることができなかったのかもしれない。

その一方で、仁徳天皇が開拓した難波津から海路で往来することを思うと全く問題ない場所とも思われる。むしろ、仁徳天皇紀以降のこの交流の容易さを示すために記述されたようにも受け取れる。
 
<毛受・毛受野>
履中天皇を引継いで五年後に崩御する。極めて短い「天下」であったと伝える。

坐した宮は多治比之柴垣宮であり、「多治比」は元々住んでいたところである。晩年での即位と兼ね合わせて最もらしい選択であったようである。

御陵も父、兄の毛受之耳原、毛受に次いで「毛受野」現在の行橋市長尾辺りの草原地帯と思われる。墓所の中心は、神社がある小高いところと推定したが、定かではない。
 
葛城と丸邇

水齒別命は「丸邇之許碁登」の比賣二人を娶る。葛城系の市邊之忍齒王等の即位が叶わなかった主要因のようにも思われる。「許碁登」は壹比韋(辰砂の産出地)に近く、また現在の地形からではあるが、豊かな茨田(松田)を持つ地域となっていたのではなかろうか。それを背景とした「財力」が起死回生の姻戚回復に向かわさせたと推測される。

古事記はこの争いについては全く語らないが、履中天皇後の皇位継承の「異常」さがそれを如実に物語っているようである。従来より解説されてきたことではあるが、その「実態」らしきものが垣間見えた・・・この係争はしばらく尾を引くことになる。
 
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ブログとして公開し始めた説話であった。懐かしく、そしてコピペで簡単になどとタカを括っていたがトンデモナイ間違い、多くの修正・追加を余儀なくされた。やはり伊邪那岐・伊邪那美を見習ってグルグル回って初めて生まれるものなのであろうか…少々反省の色ありの解釈であった。


仁徳天皇【説話】                         允恭天皇