山部小楯・大楯
古事記に「楯」の文字が出現するのは、大国主命が娶った「神屋楯比賣命」、神倭伊波禮毘古命が登美能那賀須泥毘古と戦った「楯津」などがある。「楯」=「山稜を切り取ったような隙間」と紐解いた。この解釈は「楯」=「木+斤+目」と分解して、それぞれの文字が表す意味を繋げたことに拠る。古事記が用いる常套手段である(引用は下記参照)。
この「楯」を名前に持つ二人の重臣が、説話に登場する。端役と言えばそれまでだが、説話の中の役割に加えて彼らの居場所が古事記全体の記述に果たす役割は無視できないものであろう。紐解いて来た地名ピースも隈なく進捗している、と自負される。
小楯
「小楯」の表記は、伊邪本和氣命(履中天皇)の御子である市邊之忍齒王が大長谷若建命(雄略天皇)に謀殺された時、二人の御子の意祁王・袁祁王の逃亡先、針間国の志自牟之家の新築祝に参加した針間国長官となっていた「山部連小楯」で登場する。
古事記原文は「山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂・・・」である。皇統が途絶えた時に先の天皇の御子を見つけ出すと言う役割を担う。何とも際どい皇統なのであるが、何とか彼らを都に引き戻し、皇位を繋げた人物と記される。
この「小楯」については、仁徳天皇紀に歌…、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
<石之日賣命> |
嫉妬に狂った石之日賣命が山代川(犀川:現今川)を遡って、青に良しの那良に辿り着き、その山口で詠ったと記される。
大后の行動及び語らせる内容は、極めて重要であり、この段のみからでも古事記の舞台は大和奈良ではないことが伺える。
詳細は既述のこちらを参照願うが、概略の行程図を示した。
自らが育った葛城の地を遠望し、引き返して山代の大筒木に止まったのである。千々に乱れる心の様を表現する記述であり、実に良くできた説話であろう。
それはともかく、「小楯」は「夜麻登」を修飾する文字であり、枕詞として理解するならば、一体何を意味するのであろうか?…武田祐吉氏の訳は「青山の囲んでいる」とある。通説でも「楯を並べたような山に囲まれた」とされる。これを読み解いたのが下記である。
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<小楯> |
だが、実際の大和は山に囲まれてはいるが、「楯」が繋がる地形とは掛離れた様相であろう。
では、何故「小楯」という表現が生まれたのであろうか?…やはり「楯」の文字解釈である。
大国主命が娶った神屋楯比賣命、事代主神の母親でもあるが、また神倭伊波禮毘古命と登美能那賀須泥毘古の初戦の場所となった楯津などがある。
これらの名前に含まれる「楯」の解釈は「楯」=「木(山稜)+盾」更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解すると…、
山稜の端に斧で切り取られたような隙間があるところ
…と読み取れる。これこそ「夜麻登」の地形そのものを表していることが解る。神倭伊波禮毘古命の段の詳細を参照すると、小さな隙間を登って行くところなのである。尚、「小」は「小さい」に重ねて、推古天皇の小治田宮近傍に類似の地形であり、[小]の字形を象った表記であろう。
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「夜麻登」は、山稜の端が斧で切り取られたような隙間の谷であることを表していると解る。枕詞として全く適した表記であろう。それしても古事記、万葉集に現れる枕詞の解釈は、全く体を成していない。ブログを公開し始めて、その初期に『枕詞千年の謎』(藤村由加著、1992年)について述べたが(飛鳥を主題として)、全く変わらずの気分である。
「令和」の発案者元学長が、前例になく、マスコミに登場しているが、万葉集に基いたと明言している。古事記も万葉集も読めてないのである。そこに使われた文字が示す意味の多様さを明らかにできていなくては、本来の意味を理解できない。古事記・万葉集の編者・作者が意図する多様な意味を止揚して達する意味を解っていないのである。
世界に類を見ない多様なDNAハプログループを有する極東の端に住まう日本人が、根源的な危機の状態にあることを全く理解できていない現状を、心から憂う日々である。
横道に逸れ過ぎた感じであるが・・・「山部連小楯」は、「夜麻登」を囲む地に居たと解る。「山部」=「山の一部」と読み取れる。山裾を示しているのであろう。
<二羽の鳥:逃避行程> |
大楯
せこい将軍もいたもので…あや、その妻も…道を外したとは言え、天皇の弟妹であり、彼らが所持するものを自由にしてはいけません。そんな訳で、やや怪しげな役どころで登場する。
大雀命(仁徳天皇)が庶妹女鳥王を娶ろうとして其弟速總別王を使いに出すのだが、何を思ったか女鳥王が御意に反して速總別王と駆落ちしたという説話である。
鳥同士の諍いである。その駆落ちを追い詰めて二人は命を落とすのだが、追手の大将が將軍「山部大楯連」と伝える。
その際「女鳥王所纒御手之玉釧」を奪い、それを妻に与えて、その妻が宮中の宴の際に身に着けて参加、案の定に発覚し、「大后石之日賣命給死刑」となった次第と語っている。
「大楯」を登場させるのに良い説話が見当たらなかったのであろうか?・・・。
倉椅山、宇陀、蘇邇と位置関係が良く見える。とりわけ「蘇邇」の文字解釈は重要である。詳細はこちらを参照。
<小楯・大楯> |
「小楯」の近隣、直ぐ南隣に山稜の裂け目がやや広い場所が見出せる。「小楯」の「小」の形に対して「大」の形を示している。
共に「伊波禮」の地に中心部にあり、それぞれ主要な立場に居たことが伺える。
古事記が伝える后の言動がとても興味深いものがある。とある放送局の大河ドラマではないが、女性を主役の幾つかの場面が浮かんで来る。
彼女達の賢明さが次代の天皇に次期継がれて行くことを思えば、興味の深さも増すようである。
仁徳天皇紀については、従来より丸邇氏と葛城氏という氏族間の抗争を漂わせていると知られる。これらの両氏族に敬意を払い、それらが保有する情報を大切にするという流れである…上手くできた記述と素直に受け止めておこう・・・。