2018年9月29日土曜日

竺紫君石井の『石』 〔264〕

竺紫君石井の『石』


既に「竺紫君石井」については記述した。邇邇藝命の降臨地、竺紫日向の近隣として、現在の孔大寺山山系にある「石峠」に目を付けた。谷間にある複数の堰などから「井」と組合された命名と紐解いたが、これでは従来の残存地名に準拠した比定であって、何とも心許ない。

加えて好き勝手に怪しげな文献を引っ張り出して都合の良いところを繋ぎ合わせて論拠(通常論拠にはならないが、世の中ではこれで通じる?)とする気はさらさら持ち合わせていない。ではどうするか?…ありふれた文字「石」これを紐解いてみよう、ということになった。

最近の「大」などありふれた文字の解釈が残っているのである。いや、ありふれているからこそ読み解き難度が一気に上る、が、避けては通れないところであろう。少々振り返りながら話しを進める。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。[この御世に筑紫の君石井が皇命にわないで、無禮な事が多くありました。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させました]

后と御子の名前の羅列に入った古事記が継体天皇紀に記す説話に登場する。大事件であったと思われれるが、これだけ寡黙では何とも・・・日本書紀、築後国風土記などにはもう少し詳細が載っているようである。とりわけ後者などから推論されて墓所(福岡県八女市吉田の岩戸山古墳)などが比定されている。


<竺紫君石井①>
大規模な古墳であり、九州に居た豪族が天皇家に匹敵する勢力を持っていたと解釈すると別の王朝の存在を示す証左と見る向きもあるとのこと。

古代史解釈の物的証拠を遺跡、遺物に求めるのは当然のこととして、そこから様々な説が生まれているようである。

前記したように筑前・筑後は筑紫ではない。更に竺紫は筑紫でもない。古代史のゴチャゴチャ感をまさに示す例であろう。

日本の古代史は古事記、日本書紀、風土記など豊富な過去資料に恵まれながら、全く読み取れていない現状を示す。

逆に言えば、改竄された書物が残る故にゴチャゴチャになったとも・・・中国史料…こちらのほうが信頼される?…の解釈も参戦である。そんな訳で意味不明の記述とされて、改竄の魔手から逃れた古事記を頼りに古代を読み解く羽目になって今に至る、ってところであろうか・・・。
 
多无禮」の詳細は分かる筈もないが、峠を越えるとそこは阿岐国(宗像)である。玄界灘を自由に行き来する海洋民族の溜まり場とも…朝鮮半島の動向が逸早く影響するところであったろう。様々な情報・人材が入り乱れていたと推測することは容易である。

そんな地に接するところに居ては天皇家の乱れに乗じることもあり得たかもしれない。倭国の中心からすると統治可能だが、やはり遠いところなのである。憶測領域だが事件の背景はそれとなく読み取れるのではなかろうか。
 
<竺紫君石井②>
現存地名など状況証拠的には、ほぼ確実なところかと思われるが、古事記は地形象形としての表記をしている筈である。

ありふれた文字「石」を紐解いてみよう。「石」=「厂+口」と分解され「崖下+塊」の象形と解説されている。

「口(塊)」=「口(台地)」と置き換えてみると、現在の遠賀郡岡垣町から石峠に向かう谷の入口に小高い丘が見出だせる。

応神天皇紀に登場した「堅石王」及び後の宣化天皇紀に誕生する「石比賣命(訓石如石)、下效此、次小石比賣命」の「石」の解釈に類似する。

竺紫君石井は現在の荒平神社辺りに坐していたと推定される。現在、この「石」を取り囲むように谷川沿いに豊かな棚田が作られているが、古くから開拓された土地なのであろう。

石峠の由来は知る由もないが、まさに残存地名かもしれない。邇邇藝命の降臨地、竺紫日向は孔大寺山山系であったことをあらためて確信するところである。繰り返しになるが、「竺紫」=「筑紫」ではない。全く異なる地形を持つ、別の地であることを忘れてはならない。
 
<物部・宇陀水取>

遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也」と記述される。前記で「物部」の出自の場所を求めた。

娶りの関係はなかったのであろうが、邇藝速日命の血統を持つ人々が居たことは間違いない場所である。

宇摩志麻遲命が祖となった時は「連」とされたが「大連」となっている。武人としての功績があったのであろうか。

「荒甲」は…、
 
荒(荒々しい)|甲(山)

…塔ヶ峯は決して高山ではないがその斜面はかなりの勾配を有している。かつ、カルスト台地の石灰岩の岩山であることが知られている。それを表していると推察される。名は体を示す…石井征伐の功績は益々その地位を高めたのではなかろうか。

歴史上有名な事件と思われるが古事記は寡黙である。天皇家は、また、激動の渦の中に巻き込まれて行くことになるのだが、その伏線とならないよう配慮された記述のように感じられる。上記で示した地域を念頭に、他書の情報も参照することになるかもしれない。

補足になるが、継体天皇が尾張の目子郎女を娶って誕生した廣國押建金日命が次の安閑天皇となる。御子もなく兄弟相続が発生する。継体天皇の後裔は多く誕生して、皇統断絶には至らないが、素直な感じの皇位継承とはならなかったようである。既に述べたが、文字解釈など加筆・修正を兼ねて記述する。


廣國押建金日命(安閑天皇)

御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇、無御子也。乙卯年三月十三日崩。御陵在河之古市高屋村也。
 
<勾之金箸宮>
坐したところは勾之金箸宮」とある「勾」は文字の形通りの地形、現在の田川郡香春町高野にある地形と思われる。伊波禮之甕栗宮の「甕」に該当すると思われる。

また伊波禮之玉穗宮の「玉」とも表現されたところでもある。稲穂のような地形から「玉穂」が決まった。

するともう一方の端、それが勾之金箸宮」ではなかろうか…「箸」=「端」と表記していると解釈できる。

更に「金」は上記の廣國押建金日命同様に「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と紐解いて…、
 
勾の端で[ハ]の字の段差のある山麓の台地

…と解釈される。ここは伊波禮の地、[ハ]の字形をした神を祭祀するところとなる。これを組合せて地形象形したと読み解ける。漢字の原点、見たまんまの表現である。再度地図を掲示する。
 

<河內之古市高屋村>
神倭伊波禮比古から始まる伊波禮の地に見事に並んだ宮の配置である。

石上に祭祀する神への畏敬、倭国の原点であろう。上図を眺める度に、その石上が大きく変化している様に、決して晴れ晴れしい気分は生じないのである。

今に残る小、中学校の名前こそ、この地が「伊波禮」と言われた時があったことを告げているのではなかろうか。

御陵は「河之古市高屋村」と記される。「古市」=「古くからの交通の要所」と紐解いて、河内にある現在の行橋市長尾、椿市と呼ばれる近隣ではなかろうか。

南には小高い山があり「高屋」を示すものと思われる。尚、この地のほぼ真東に「毛受」がある。娶りの説明がないのは后がなく、御子も無く、逝去されたとのことである。早々に兄弟が後を引き継ぐことになる。



2018年9月27日木曜日

袁本杼命の后:三尾之倭比賣・阿倍之波延比賣 〔263〕

袁本杼命の后:三尾之倭比賣・阿倍之波延比賣


袁本杼王(継体天皇)、何はともあれ元気に子孫繁栄の道に勤しまれた、失礼ながらそんな記述が続く。病弱で早逝の天皇では皇統維持は難しい、当たり前のことではあるが・・・。最後の娶り関連を述べてみよう。


三尾君加多夫之妹・倭比賣

垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた石衝別王が祖となったところである。現在の同県京都郡みやこ町光富辺りと比定した。
 
三(三つの)|尾(山稜の端)


<三尾>
…「山稜の端が三つに分かれたところ」と解釈した。図に示したように旦波国を流れる祓川の中流域に当たるところである。

かつては開化天皇紀に旦波之大縣主・名由碁理が住まっていたところとした。草創期に開かれていたが、その後登場の機会がなかった
地である。

古事記はあからさまには語らないが、間違いなくこの「大懸」の解体を画策したと思われる。幾人かの御子を派遣するのであるが、皇統に絡む人材は出て来なかったようである。

開かれた地にはその地なりの歴史が刻まれているのであろうが、ここで再度「三尾」として登場する。下記の通り三尾の地を開拓した人の妹を娶ったのである。「加多夫」は…、
 
加(増やす)|多(田)|夫(連なる川の合流点)

…「連なる川の合流点で田を増やす」君と紐解ける。開化天皇の御子、日子坐王が山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨を娶って誕生した志夫美宿禰王の「夫」の解釈に類似する。多くの川が合流する様を表した表現であろう。
 
<三尾の御子>
この三尾君の名前から大河の中流域の開拓が進んだことが伺えるのである。

山間の狭い谷間から広々とした領域を、氾濫し蛇行する川の側で大面積の水田にできるようになったのであろう。

この量的拡大は豪族達の質を大きく変えることに関連する。

極言すれば天皇家を凌ぐばかりの勢力を保ち得る財力を生み出すことになる。古事記は大きな時代の変節点に向かうことになる。

蛇行する川…比賣の名前も「倭」=「曲がり畝る」であろう・・・いえいえ、「倭」=「従順で慎ましい」という本来の意味がある・・・両意の解釈を狙った表記であろう。

まさかのまさか、「大和」に置き換えることは無い筈なのだが・・・。


<現在の航空写真>
御子に「大郎女、次丸高王、次耳王、次赤比賣郎女」と記される。男女の区別は難しいが全て三尾で住まうことができたのではなかろうか。

「大郎女」は…、
 
[大]の字の山稜(谷)の郎女

「丸高王」は…、
 
丸く高いところの王

「耳王」は…、
 
耳の地形のところの王

「赤比賣郎女」は、美和河の赤猪子と同様に「赤」を解釈して…、
 
山腹に突き出た複数の稜線の麓で田畑を並べて生み出す郎女

…と紐解ける。上図に纏めて示した。御子達の命名が見事にこの地の地形を表していることが解る。現在は写真のように再生エネルギー利用の施設などで山容は大きく変わっているようである。
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余談だが…日本書紀等から継体天皇の母方の先祖は上記の「石衝別王」とのことである。「三尾」からの娶りが増えることとは繋がる話である。古事記記述の空白部が埋まる?…継体ができればより古代が豊かになるかもしれない。
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阿倍之波延比賣

「阿倍」は孝元天皇の御子大毘古命の子、建沼河別命が祖となる「阿倍臣」で登場したところと思われる。御子「若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王」の名前からもほぼ確実であろう。とりわけ「都夫良」は既出で安康天皇を亡き者にした目弱王が逃げ込んだ「都夫良意富美」が居たところである。現在の北九州市門司区畑、鹿喰峠辺りと推定した。

「阿倍」はその近隣にあると見て調べると、「大里桜ヶ丘」として開発され団地を形成しているところが浮かび上がって来た。
 
阿(台地)|倍(離れて二つになる)

<阿倍>
…台地が峠に向かう道によって遮られて二つに分かれた様子を示していると思われる。更に…「阿豆」は…、
 
阿(台地)|豆(凹凸のある地)

…団地の対面を表していると思われる。

この地は峠に向かう山間のところ、その後に開拓され繁栄始めた場所だったのであろう。

若屋郎女の「若屋」は…「屋」=「尸+至」=「崖が尽きるところ」と解釈すると…、
 
若(成りかけ)|屋(崖が尽きる)

…「崖が尽きかけるところ」と紐解ける。「阿豆」の更に先に進んだところではなかろうか。「都夫良郎女」は「都夫良」の近隣、都夫良意富美の居た場所と思われる。

倭国の各地が盛んに開拓されている。がしかし、大国を支えるまでには至っていない現状であったと推測される。急速な社会環境の変化に旧の統治体制が追い付いていない、これが様々なジレンマを生じていたのではなかろうか。
 
上記阿倍之波延比賣の「波延」は「都久波」と関連し、美和山(竹和山:現足立山)~戸ノ上山山稜の「端」を示すことに繋がる。関連する記述が全て整合していることが読取れるのである。

継体天皇は上記の波延比賣及び前記した手白髪命と、現在の鹿喰峠を挟んだ地の比賣を娶ったと告げられる。些か影の薄かった「若狭国」に足繁く通ったことになる。これが袁本杼王は即位前に越前を統治していた、と言う、あらぬ解釈を生んだのではなかろうか。





2018年9月25日火曜日

袁本杼命の后:手白髪命・麻組郎女 〔262〕

袁本杼命の后:手白髪命・麻組郎女


さて、前記続き袁本杼命(継体天皇)の娶りについて述べてみよう。意祁命(仁賢天皇)の比賣を大后にして何とか皇統継続を果たした、と言う筋書きである。

意祁天皇之御子・手白髮命


天國押波流岐廣庭命が誕生して次期の天皇になったとのことである。「手白髮」の地名は雄略天皇が都夫良意富美之女・韓比賣を娶って誕生した「白髮命」に由来すると思われる。


<天國押波流岐廣庭命>
「都夫良」の近隣、出雲から「若狭」に向かう場所である。病弱な御子のためにその地に「白髮部」を定めたと記されていた。

更に仁賢天皇が雄略天皇の比賣春日大郎女を娶って誕生した御子の中に「手白髮郎女」が登場する。「白髮部」に近接するところと比定した。

この郎女が「手白髮命」である。都夫良意富美・目弱王から派生して来てここに繋がるのである。

従来の物語の舞台は「葛城」である。都夫良意富美が雄略天皇に差し出す葛城の地「五處之屯宅」の記載からであろう。

継体天皇が「若狭」即ち「越前」の匂いを醸し出すのは、彼の出自ではなく娶った比賣の居場所からなのである。従来からの諸説定まらぬ雰囲気はこの混乱に由来する。日本書紀の記述がそれを増幅しているようである。

ところで、この久々に登場する長たらしくて厳つめらしい名前を読み下してみよう。
 
天(遍く)|國(大地)|押(田を作る)|波(端)|流(延びる)
岐(分かれる)|廣(広がる)|庭(山麓の平坦地)

…「端が延びて分かれた山麓に広がる平地に遍く田を作る」命と読み解けるようである。特定できる場所があるのか?・・・母親の近隣にある。安萬侶コードは健在である、上図<天國押波流岐廣庭命>を参照。坐したところは現在の角ノ林公園辺りではなかろうか。

天國押波流岐廣庭命は後に即位して第二十九代欽明天皇となる。古事記の中では「若狭」出身の最初で最後の天皇である。そして「宗賀」の比賣を娶るのである。

息長眞手王之女・麻組郎女

息長眞手王については初出である。全く出自が語られていない。「息長」は開化天皇紀の日子坐王が娶った近淡海国天之御影神の比賣、息長水依比賣で初めて登場する。この比賣の母親は不詳であって、居場所は御子の名前から推測する方法を採用すると、長男が「丹波比古多多須美知能宇斯王」で丹波にその子孫を繁栄させたとあり、「息長水依比賣」は丹波に居た可能性が高い。

また旦波国を平定した日子坐王、その子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶って誕生したのが迦邇米雷王で、この王が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」を娶って息長宿禰王が生まれる。更にこの王が葛城之高額比賣を娶って生まれたのが息長帶比賣命、虛空津比賣命、息長日子王と記載される

これらから丹波は「息長」の発祥の地、とりわけ古事記記述からすると「丹波之遠津」が「息長」姓を名乗る一族が居たと推測される。「遠津」は現在の行橋市稲童下にある奥津神社辺りと比定した。石並古墳群がある近隣である。この名前をもたらした経緯は不詳であるが、おそらくは古くから開けた地に渡来した人々の中に居た一族ではなかろうか。

後になるが倭建命が「一妻」を娶って誕生した御子に「息長田別王」が居る。隋所に登場する「息長」ではあるが、決して詳細には語らない。「息長」と書けば当然判る、という「常識」があったとも思われる。一応、上記のような読み解きを行えば必然的に至る結果ではある。

が、少々不親切な感じもするが…恣意的に何かあからさまにできない訳でもあったのかもしれない。それはさておき、では「眞手」は何処を示しているのであろうか?…「まことの手の形、手の形で満たされた」程度で探索すると・・・、
 
<息長眞手王・麻組郎女・佐佐宜郎女>
・・・覗山を中心として五本の指が東、北に延びていると見ることができそうである。

これを「眞手」と表現したのではなかろうか。眞手王はその「中央」の覗山山塊西麓、現地名行橋市高瀬辺りに坐していたと推測される。

図が示すように山塊及びその周辺こそ「息長」一族が生息していた地域と推定される。

日子坐王が征伐した「玖賀耳之御笠」、「日女嶋(難波之比賣碁曾社)」など目白押しに並ぶ場所に、その中心となるところが加わったようである。

息長」として後々まで天皇家と関わる一族と深い関連、いや一族そのものであったことを示しているのであろう。だからこそ単刀直入には「息長」の素性、在処を示さず記述したと推測される。

新羅の王子、天之日矛と阿加流比賣の難波之比賣碁曾社(沓尾山麓と比定)の説話を述べ、息長帯比賣との繋がりを書き、新羅凱旋まで記述する。安萬侶くんの伝えたかったことは「息長」一族、それは新羅から渡来した人々であった、ということであろう。彼らが如何に深く天皇家に関わったかを、真に簡略に、記述している…もう少し蛇足があっても・・・。

比賣の名前の「麻組」の「組」=「糸+且」と分解できる。「糸」=「連なった様」を表し、「且」=「段差のある高台」と読み解くと…、
 
麻(近接する)|組(連なった段差のある高台)

…「近接する連なった段差のある高台」と紐解ける。中央部の三つの山を示していると思われる。「且」は下記にも登場する。大宜都比賣に含まれていた文字である。「宜」=「宀(山麓)+且(段差のある高台)」と紐解いた。比賣の名前が「佐佐宜郎女」とある。

「佐佐」は「佐佐紀之山」のように「笹」を表しているのであろう。大宜都比賣の「宜」の解釈は「宜」=「宀(山麓)+且(段差のある高台)」から…、
 
佐佐(笹のような)|宜(山麓の段差がある高台)

…「笹のように曲がった山稜の麓の段差がある高台」に坐す郎女と紐解ける。行橋市長井の地名であるが、当時は麓は海面下であったと推定される。現在は畑地の様子であり、水田にするには水利が悪い、古代も谷間の水田とするには不向きなところであったと推測される。佐佐宜王は伊勢神宮を拝したと記載される。
 
通説に関して述べることは極力控えているが、Wikipediaに記載された内容についてはどうしても一言述べたくなる。「息長」は・・・『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている。・・・「記紀」と一纏めにすることも引っ掛かるが、上記したように、古事記に「息長」が登場するのは開化天皇紀の日子坐王の記述である。

その御子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶ってから一気に「息長」の地に後裔達が広がって行くのである。意富富杼王が祖となった「息長坂君」に出自を求めるとは全くの筋違いであろう。「息長」の地は丹波国の一部もしくは隣接するところである。天皇家の草創期に皇統に絡む人材を輩出した地域なのである。

有能な人材、開かれた大地があった場所は近淡海国(近江と置き換えらるのだが…)でも河内でもない。これらの地域は後に開拓されていく場所である。未開の地から人材は出ない。徹底的に歴史認識の欠如を露呈している記述である。

古事記が何故神話時代と言われる時に種々の神々を散らばらせ、祖となる命の記述を行ったのか?…それらの地が既に開かれた地となっていたことを伝えるためである。最後に感想を・・・。

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先住の渡来人達との確執、これを抜きにしては倭国の成立は語れないであろう。散りばめられた記述をいずれまた纏めてみよう。その作業は欠かせないように思われる。今のところは、この程度で留めることにしたい。それにしてもこの地域の隅々までが比定された。終わってみれば、また少々続きがあるが、何とも呆気ないような気分でもある。
 
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2018年9月21日金曜日

袁本杼命の后:目子郎女と御子 〔261〕

袁本杼命の后:目子郎女と御子


小長谷若雀命(武烈天皇)には御子もなく早逝した。いよいよ皇統は断絶の危機を迎えたと古事記は記す。やりくりの皇位継承では、やはり限界が見えて来た感じである。そんなゴタゴタを古事記は省略して先へと進むようである。

八方に手を尽くして応神天皇五世の「袁本杼命」が即位したと伝える。近淡海国に住んでいたのを探し、仁賢天皇の御子、手白髮郎女を娶らせて大后とし、何とか皇位断絶の危機は回避できたということらしい。久々に多くの御子が誕生する。大半は既に読み解いて来たのだが、不足の部分を続けて述べてみようかと思う。

古事記原文…、

品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。又娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命。二柱。
 
袁本杼命(継体天皇)

それにしても意富多多泥古の時は、しっかりと素性を語らせて数世代にわたる出雲の状況が伺えるのであるが、袁本杼命は全く…天皇即位の面接?ではなかった、ということであろう。語るほどの物語にはならなかった、のかもしれない。
 
<袁本杼命>
何れにしても、記録がなく、例えあったとしても不確かなもので、記載することができなかったと推測される。

古事記の記述方針からすると登場人物の名前もさることながら、居場所の確からしさを求めている。その情報の欠如が未記載という結果を生んだと思われる。

継体天皇が坐した伊波禮之玉穗宮は前記を参照願うとして、倭国の中心に出戻った感じである。

天皇家の出直しを意味するのではなかろうか・・・突如引っ張り出されても、如何せんなのだが、この天皇、しっかりと古より倭国を支えた地に足を運んでいるのである。

「袁本杼命」は何処に居たのか?…近淡海国の…、
 
袁(緩やかな)|本(麓)|杼(横切る)

…「緩やかになった山麓を横切るような地形」に坐していた、と紐解ける。近淡海国の中で探すと最適な地形を示す場所がある。

仁徳天皇の御子、墨江之中津王が切り開い入江の近隣である。おそらく多くの人々が集まり賑わっていた場所ではなかろうか。後には宗賀一族の「泥杼王」が坐したところと比定した地でもある。間違いなく豊かな土地になっていたものと推測される。

何れにしても古事記は言葉少なめで憶測が発生するのであるが、他書も含めて、また過去の論考も、様々な解説がなされているようである。「記紀」に記載と引用して、袁本杼命が越前(古事記では高志に該当するか?)に居たとの解説は、「近淡海→近江」のルール?から外れている。

無節操な解釈なのか、はたまた、日本書紀もいよいよ独り立ちの時期を迎えたのか?…「近淡海国」の文字を勝手に変えることはできない筈だが・・・。
 
尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女

<目子郎女>
尾張連は既出で尾張国に関連するのであるが「凡連」の文字は初出である。「凡」は天照大神と須佐之男命の誓約で誕生した天津日子根命「凡川内国造」の祖となったという記述に使われている。

川内の中で種々の国に分かれている、未だ川内国そのものの領域が確定していない為に全体を表す意味で使われたと推測される。
 
とすれば「凡連」も尾張国の種々の「連」を取り纏めて表現したもので、時代の変化と密接に関連する言葉使いと思われるが、少々古事記解釈から逸脱しそうなので、これ以上は足を踏み入れないことにする。

目子郎女の「目子」は場所を示すのであろうか?…通説は「メコ」と読み下しているようであるが、「目子」=「目(マ)ナ子(コ)」と読む。
 
<廣國押建金日命・建小廣國押楯命>
語源的な解釈があり、目の中の瞳を指すのが原義である。そんな地形があるのか?…と言われそうだが、見つかるのである。

尾張国の中心地、その近隣である。国土地理院の色別標高図が無ければ到底見つけることができない地形象形である。

現在は全国に地名番地が宛がわれているが、全く地名番地という概念のなかった時代には地形に対する真面目さが桁違いと思わさせられる。

逆に現代人は地形に対してあまりにも鈍感ではなかろうか。地名を用いることの便利さにすっかり浸かっているからであろう。勿論ブログ主も同様であるが…。

御子に「廣國押建金日命、建小廣國押楯命」と記される。彼らはそれぞれ後に皇位に就く。「廣國押」=「大地に田を作り広げる」と解釈できるであろう。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)で紐解いた「國押」に類似する。


「金」は、そのままでは何とも読み解け難いように見受けられる。「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と解説される。「今」の甲骨文字から「段差のある山麓」と紐解く。既に登場の藤原之琴節郎女の「琴」に含まれる「今」の解釈に類似する。「金日命」は…、
 
金([ハ]の字の段差のある山麓の台地)|日(炎の地形)

…「[炎]の地形で[ハ]の字形の段差のある山麓の台地」に座していたと紐解ける。図に示したところと思われる。命が坐したところは現在の護念寺辺りではなかろうか。廣國押建金日命」は後に勾之金箸宮に坐したと記される。「金」は全く同じ解釈である。また…、
 
楯(縁にある柵のような地形)

…と解釈すれば図の柵のような山稜の傍らと推定される。いずれにしても山麓に田を広げて行った命達を表していると思われる。

御子達は後に皇位に就く。古事記の草創期から登場する、交通の要所としての尾張国なのだが、天皇を輩出する稀有な例となるようである。


2018年9月18日火曜日

意祁命(仁賢天皇)の比賣:手白髮郎女 〔260〕

意祁命(仁賢天皇)の比賣:手白髮郎女


弟の後を継いだ意祁命(仁賢天皇)には七人の御子が誕生する。ところが男子は唯一人で、六人の比賣達は、娶った地が春日・丸邇であって決して広いところではなく、各地に散らばることになったようである。

皇統の継続は、早々と危機に直面するのである。誕生した比賣、これが皇統維持に関わることになる。概略は既に紐解いて来たが、未達のところを述べてみようかと思う。

古事記原文…、

袁祁王兄・意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。天皇、娶大長谷若建天皇之御子・春日大郎女、生御子、高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女。此天皇之御子、幷七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。


<石上廣高宮>
仁賢天皇は「石上廣高宮」に坐した。石上にあって山の中腹にあって広く開けたところであろうか。

現在の同県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所、ロマンスヶ丘と呼ばれているところと推定される。

古事記の宮は概ね清流、池の近傍にあるが、少々異なる場所のように感じられる。鍾乳洞に囲まれて湧水に事欠くことはなかった?…かもしれない。

谷間に座する天皇とは些か趣の違った天皇だったようである。葛城に少しは近付いた場所である。

弟は積年の恨みを晴らすことに注力して夢途中で亡くなった。その後を引き継いだ兄は弟の果たせなかったことを、と思ってみてもやはり時間はそう多くはなかったのであろう。

娶ったのが大長谷若建天皇之御子・春日大郎女と記述されるが、出自が不詳なのである。古事記には珍しく布石されていない。記述漏れか?…とは思うが、雄略天皇紀で「丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣」を娶ろうと出向いたが逃げられたという説話が残っている。


<金鉏岡・袁杼比賣>
ただそれだけの話であって、「佐都紀」の場所を示すだけか、とも勘ぐってしまうような内容である。

ところが「金鉏岡」の歌まで送っているのだからそれだけの事件ではなかったようにも受け取れ、この説話が春日大郎女の出自に関連するのでは?…とも思われる。

春日との境界に居たわけだから春日に移っても不思議はないが、丸邇氏がかなり春日に侵出していたことになる。

一時期のことだったのか、情報不足で正確には記述できなかったのかもしれない。

他書では雄略天皇が認知しなかった比賣のことだと記されているようである。詮索はここまでで、春日の地に居た比賣としておこう。

何れにしても、この時代ともなれば伝承も記録も無いわけではなかったと思われる。かなり奥歯にものが挟まった感じの表現であって、尚且、皇統存続の危機に面した割には御子の確保に対する策も貧弱であろう。取り巻きの豪族達にすれば、気軽に比賣を差し出すのも控えた方が良いと判断したのかもしれない。

逆に言えば、強力な豪族の出現待ちの状態を作り出していた、とも思われる。倭国連邦言向和国として最大の危機を迎えつつあった時と推察される。

御子は「高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王」の内、次期天皇の小長谷若雀命及び特定不可の眞若王、そして「手白髮郎女」を除いた高木郎女、財郎女、久須毘郎女が坐していたところは既に比定した。

残っていたのが手白髮郎女」で、都夫良意富美の比賣及びその韓比賣を雄略天皇が娶って誕生した「白髮命」の居場所を突き止めるまでは不詳のところであった。それが求められて一気に当時の様相が浮かんで来るようになったのである。
 
手白髮郎女


<手白髪郎女>
「白髪命」(太子)に関連するところと思われる。雄略天皇が都夫良意富美の比賣、韓比賣を娶って誕生した太子である。


後の清寧天皇となるが早逝し、「白髪部」を定めたと記述される。ただ「手」が付いている意味は何と解釈するか、であろう。

何と!…手が付いていた。古事記の表記が地形象形であることの証左になるような名前である。

「白髪」で病弱な太子のイメージを出しながら地形を示し、更にそれを繋げて行く、その時には病弱なイメージなどお構い無しで・・・この大后が辛うじて皇統を繋ぐ役目を果たすことになるのである。

この比賣も長女達と同じく各地に散らばった比賣の一人となっていたのである。しかも御子もなく早逝した白髮命(清寧天皇)の誕生地に作られた「白髮部」の近隣の場所である。皇統維持のための苦肉の策とも言えよう。

後から見れば、この保険がなければ全く途切れていたのだから、倭国の百官達はよくやった、と述べているのかもしれない。この地は古の「若狭国」に該当する。その谷を下れば大毘古命とその息子が出会った相津である。本ブログも巡り巡って、また「相津」に出会うことになった。

後に継体天皇がこの比賣を大后として娶る。そして辛うじて皇統維持ができたと伝えている。

さて、一人息子の小長谷若雀命(武烈天皇)、雄略天皇と仁徳天皇の二人から譲り受けたような命名なのであるが、名前だけではどうにもならなかった、のである。彼が坐した宮など、整理してみる。
 
小長谷若雀命

小長谷若雀命、坐長谷之列木宮、治天下捌歲也。此天皇、无太子。故、爲御子代、定小長谷部也。御陵在片岡之石坏岡也。
天皇既崩、無可知日續之王。故、品太天皇五世之孫・袁本杼命、自近淡海國、令上坐而、合於手白髮命、授奉天下也。
 
武烈天皇は「長谷之列木宮」に坐した。例の「長谷」にある。「列木」は並木と訳されるようであるが、「木(山稜)」とすると…、
 
<長谷之列木宮>
列(並び連なる)|木(山稜)

…「山稜が並び連なっているところ」と紐解ける。障子ヶ岳山系から並木のように延びる枝稜線を示していると思われる。

現在の田川郡香春町採銅所の黒中辺り、その中央部ではなかろうか。

小長谷若雀命」は雄略天皇と仁徳天皇にあやかったような命名なのであるが、「長谷」の地であることは上記した通りである。

「雀」はやはり「大雀命」と同様の解釈なのであろうか?…、
 
若(成りかけ)|雀(頭の小さい鳥の地形)

…と紐解ける。すると、谷間から広がる台地が鳥のような姿に見えなくもない、成りかけの状態と気付かされる。「列木」で納得している場合ではない。更に被せて居場所を示していたのである。まだまだ、古事記編者は手抜き?の段階ではないようである。

良き場所なのであろうが、「无太子」では如何ともし難しであろう・・・。

2018年9月16日日曜日

袁祁之石巢別命:取父仇之志 〔259〕

袁祁之石巢別命:取父仇之志


皇位継承が途切れてしまった、危うし天皇家…と言う場面である。大長谷若建命(雄略天皇)の挙動が引き起こした事件はそれとしても、その後が続かなかったのである。それをひょんなところから
針間の志自牟のところに居た市邊忍齒王御子が見つかって皇位に就けたと伝える。

古事記は内なる脅威の物語一色に様変わりする。既にそのシナリオを紐解いて来たが、残したところを拾い上げてみようかと思う。また、物語は途切れることなく語られることもあり、長くなるがこの段の全文を再掲することにした。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子・袁祁之石巢別命、坐近飛鳥宮治天下、捌也。天皇、娶石木王之女・難波王、无子也。此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老媼、參出白「王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。」御齒者、如三技押齒坐也。爾起民掘土、求其御骨、卽獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓帒之子等、令守其陵。
然後持上其御骨也。故還上坐而、召其老媼、譽其不失見置・知其地、以賜名號置目老媼、仍召入宮、敦廣慈賜。故其老媼所住屋者、近作宮邊、毎日必召。故鐸懸大殿戸、欲召其老媼之時、必引鳴其鐸。爾作御歌、其歌曰、
阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母
於是、置目老媼白「僕甚耆老、欲退本國。」故隨白退時、天皇見送、歌曰、
意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟
初天皇、逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人。是得求、喚上而、斬於飛鳥河之河原、皆斷其族之膝筋。是以、至今其子孫、上於倭之日、必自跛也。故能見志米岐其老所在志米岐三字以音、故其地謂志米須也。
天皇、深怨殺其父王之大長谷天皇、欲報其靈。故、欲毀其大長谷天皇之御陵而、遣人之時、其伊呂兄意祁命奏言「破壞是御陵、不可遣他人、專僕自行、如天皇之御心、破壞以參出。」爾天皇詔「然隨命宜幸行。」是以意祁命、自下幸而、少掘其御陵之傍、還上復奏言「既掘壞也。」
爾天皇、異其早還上而詔「如何破壞。」答白「少掘其陵之傍土。」天皇詔之「欲報父王之仇、必悉破壞其陵、何少掘乎。」答曰「所以爲然者、父王之怨、欲報其靈、是誠理也。然、其大長谷天皇者、雖爲父之怨、還爲我之從父、亦治天下之天皇。是今單取父仇之志、悉破治天下之天皇陵者、後人必誹謗。唯父王之仇、不可非報、故、少掘其陵邊。既以是恥、足示後世。」如此奏者、天皇答詔之「是亦大理、如命可也。」
故、天皇崩、卽意祁命、知天津日繼。天皇御年、參拾捌、治天下八。御陵在片岡之石坏岡上也
[イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目の老媼という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅草の低い原や小谷を過ぎて鈴のゆれて鳴る音がする。置目がやつて來るのだな。
ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、明日からは山に隱れてしまつて見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯を奪つた豚飼の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。
かくて天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります]

幼い時に父親を惨殺された記憶は決して消し去ることはできない。また決死の逃亡をの途中で降りかかった災難も同じこと、二人の命にとってこれらの清算が課題となったのである。

坐したところが「近飛鳥」と記される。蝮之水齒別命(反正天皇)が曾婆訶理を欺くために假宮を造ったところであろう。袁祁之石巢別命にしてみれば祖父及びその弟(大叔父)が天皇になる切っ掛けとなったなった場所でもあろう。歴史に遡りはないけれども、ここが彼等の始りの地でもあった…そんな思いも描いていたのかもしれない。

何れにしてもこの天皇は葛城の地には赴かず、倭国の南方に坐したことになる。宮が「山代」に移ったのは最初で最後である。「石巣別」が名前に付加される。「石巣」の地が分け与えられたと思われるが、何処であろうか?・・・。

戸城山の南方、英彦山の北陵が延びた尾根に「岩石山」という岩だらけの山がある。花崗岩の塊のような山で、後代では難攻不落の岩石城として有名な場所であったと伝えられる。まさに「石巣」の状態であろう。

この山の西麓を彦山川が流れるのであるが、固い岩(山)に挟まれて大きく蛇行しながら北に流れている。また幾つかの川が合流する地点でもあるが、不動川と呼ばれる川と大きな「州」を形成していることも判る。現在の田川郡添田町添田辺りである。ということは…、
 
石巣=石(岩)|巣(州)
 
<石巢・石木>
…「岩でできた州」と解釈できる。「巣」は重ねられた表記と受け取れる。袁祁命はこの州の別となった、即ち直轄の領地を保有したのである。

父親が雄略天皇に亡き者にされたのだから地領は何もなかったのであろう。現在は広大な耕地となっているように見受けられる場所である。

がしかし、当時はまだまだ岩だらけで、沖積の進行に伴って次第に耕地としての広がりを示し始めていたのであろう。

配下の者が移り住み開拓していったと推測される。「石木」はその中心地、添田町岩瀬辺りではなかろうか。

倭国の南部…大河の中流域に該当する…の開拓を行ったと見ることもできる。この地の西北は「志毘」などが居た中元寺川流域の平群の地である。支流の谷間の開拓ではなく、大河そのものの中流域での、より広大な耕地の確保に目を付けていたのではなかろうか。遅々ではあるが、稲作の広がりを伺わせる記述と思われる。

既に記述したが・・・、

比賣の名前が「難波王」とある。蛇行する、またほぼ直角に曲がる川が「難波」を作っていたと推測される。古事記は「難波」を…、
 
難(安楽には進めない)|波(水面の起伏運動)

…として記述していることが明らかである。氾濫を繰り返し、蛇行する川の流れと切り離して解釈することは到底不可能と思われる(図を参照)。

・・・である。難波は固有の地名ではない。

さて、読み残した文字を紐解いてみよう・・・父の亡骸を在り処を教えてくれた老婆が見つかった、と告げる。
 
置目の老媼

「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が忍歯王の御骨を埋めたところを告げたので、御骨を掘り出して「蚊屋野之東山」に埋め直し、事件の発端に絡んだ韓帒の子に御陵を守らせた、と記述される。「淡海国」実はこれが初出である。
 
<淡海国>
「近淡海国」では、決して、ない。既に「蚊屋野」は「淡海之久多綿之蚊屋野」として登場した。

古遠賀湾に面する場所、「国」と言えるほど人が住むようになった、のであろう。

「東山」=「この地の東方にある山」と解釈される。現在の皿倉山・権現山の山塊を示すと思われる。

陵はその麓とすると現在の北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。「置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。「不失見置・知其地」からの命名とあり、そのままの通りかと思われるが、古事記の読み解きでは、要注意の表現である。

「置目」とは?…「目」=「筋、区切り」とすると、福智山山塊が北に延びた先で大きな谷を作るところ、皿倉山・権現山の南麓の谷筋を示すと思われる。
 
置(留める)|目(谷間の区切り)

…「山稜を区切る谷間に留めた」老媼と紐解ける。見たまんまの表記と言えばそれまでだが、淡海国の東側の地形をものの見事に表現している。御陵はこの谷間に造ったのであろう。「置」=「留める」から、その後移したことも重ねた表記のように思われる。

繰り返し述べて来たように古事記の世界に「住所」は無いのである。いや、その概念さえもなかったであろう。当時の環境の中で、それを記録に止めようとした勇気と根気に敬意を表したい。これが読めていない現状では、総ての古事記解釈は妄想の域を脱していないと言えるであろう。
 
<飛鳥河①>
「伊豫之二名嶋」の呼称が消えるのと同様、河口付近の地形、古遠賀湾の変化が大きく影響した者と思われる。

地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。
 
飛鳥河
 
また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。

「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。


<飛鳥河②>
犀川(現今川)に合流する。その河原を「志米須」と命名したそうだが…、
 
志(蛇行する川)|米([米]の字のように集まる)|須(州)

…「蛇行する川が[米]の字のように集まってできる州」と紐解ける。大坂山の山稜から多くの小川が集まっている様子を表現しているのであろう。

現在の状況が当時を再現しているかは不確かであるが、複数の小川が寄り集まっている場所が見出だせる。

大坂山から流れ出す川は、現在よりももっと多く、また蛇行の程度も激しかったのではなかろうか。

古事記に一時期頻繁に登場する「大坂山口」、当時を偲ぶには、余りに静寂な環境となっているようである。千数百年の歴史の重みを感じるところである。説話は兄の見事な「取父仇之志」を記述する。二人の幼い時の体験が為さしめたことなのかもしれない。