2018年9月18日火曜日

意祁命(仁賢天皇)の比賣:手白髮郎女 〔260〕

意祁命(仁賢天皇)の比賣:手白髮郎女


弟の後を継いだ意祁命(仁賢天皇)には七人の御子が誕生する。ところが男子は唯一人で、六人の比賣達は、娶った地が春日・丸邇であって決して広いところではなく、各地に散らばることになったようである。

皇統の継続は、早々と危機に直面するのである。誕生した比賣、これが皇統維持に関わることになる。概略は既に紐解いて来たが、未達のところを述べてみようかと思う。

古事記原文…、

袁祁王兄・意祁命、坐石上廣高宮、治天下也。天皇、娶大長谷若建天皇之御子・春日大郎女、生御子、高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女・糠若子郎女、生御子、春日山田郎女。此天皇之御子、幷七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。


<石上廣高宮>
仁賢天皇は「石上廣高宮」に坐した。石上にあって山の中腹にあって広く開けたところであろうか。

現在の同県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所、ロマンスヶ丘と呼ばれているところと推定される。

古事記の宮は概ね清流、池の近傍にあるが、少々異なる場所のように感じられる。鍾乳洞に囲まれて湧水に事欠くことはなかった?…かもしれない。

谷間に座する天皇とは些か趣の違った天皇だったようである。葛城に少しは近付いた場所である。

弟は積年の恨みを晴らすことに注力して夢途中で亡くなった。その後を引き継いだ兄は弟の果たせなかったことを、と思ってみてもやはり時間はそう多くはなかったのであろう。

娶ったのが大長谷若建天皇之御子・春日大郎女と記述されるが、出自が不詳なのである。古事記には珍しく布石されていない。記述漏れか?…とは思うが、雄略天皇紀で「丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣」を娶ろうと出向いたが逃げられたという説話が残っている。


<金鉏岡・袁杼比賣>
ただそれだけの話であって、「佐都紀」の場所を示すだけか、とも勘ぐってしまうような内容である。

ところが「金鉏岡」の歌まで送っているのだからそれだけの事件ではなかったようにも受け取れ、この説話が春日大郎女の出自に関連するのでは?…とも思われる。

春日との境界に居たわけだから春日に移っても不思議はないが、丸邇氏がかなり春日に侵出していたことになる。

一時期のことだったのか、情報不足で正確には記述できなかったのかもしれない。

他書では雄略天皇が認知しなかった比賣のことだと記されているようである。詮索はここまでで、春日の地に居た比賣としておこう。

何れにしても、この時代ともなれば伝承も記録も無いわけではなかったと思われる。かなり奥歯にものが挟まった感じの表現であって、尚且、皇統存続の危機に面した割には御子の確保に対する策も貧弱であろう。取り巻きの豪族達にすれば、気軽に比賣を差し出すのも控えた方が良いと判断したのかもしれない。

逆に言えば、強力な豪族の出現待ちの状態を作り出していた、とも思われる。倭国連邦言向和国として最大の危機を迎えつつあった時と推察される。

御子は「高木郎女、次財郎女、次久須毘郎女、次手白髮郎女、次小長谷若雀命、次眞若王」の内、次期天皇の小長谷若雀命及び特定不可の眞若王、そして「手白髮郎女」を除いた高木郎女、財郎女、久須毘郎女が坐していたところは既に比定した。

残っていたのが手白髮郎女」で、都夫良意富美の比賣及びその韓比賣を雄略天皇が娶って誕生した「白髮命」の居場所を突き止めるまでは不詳のところであった。それが求められて一気に当時の様相が浮かんで来るようになったのである。
 
手白髮郎女


<手白髪郎女>
「白髪命」(太子)に関連するところと思われる。雄略天皇が都夫良意富美の比賣、韓比賣を娶って誕生した太子である。


後の清寧天皇となるが早逝し、「白髪部」を定めたと記述される。ただ「手」が付いている意味は何と解釈するか、であろう。

何と!…手が付いていた。古事記の表記が地形象形であることの証左になるような名前である。

「白髪」で病弱な太子のイメージを出しながら地形を示し、更にそれを繋げて行く、その時には病弱なイメージなどお構い無しで・・・この大后が辛うじて皇統を繋ぐ役目を果たすことになるのである。

この比賣も長女達と同じく各地に散らばった比賣の一人となっていたのである。しかも御子もなく早逝した白髮命(清寧天皇)の誕生地に作られた「白髮部」の近隣の場所である。皇統維持のための苦肉の策とも言えよう。

後から見れば、この保険がなければ全く途切れていたのだから、倭国の百官達はよくやった、と述べているのかもしれない。この地は古の「若狭国」に該当する。その谷を下れば大毘古命とその息子が出会った相津である。本ブログも巡り巡って、また「相津」に出会うことになった。

後に継体天皇がこの比賣を大后として娶る。そして辛うじて皇統維持ができたと伝えている。

さて、一人息子の小長谷若雀命(武烈天皇)、雄略天皇と仁徳天皇の二人から譲り受けたような命名なのであるが、名前だけではどうにもならなかった、のである。彼が坐した宮など、整理してみる。
 
小長谷若雀命

小長谷若雀命、坐長谷之列木宮、治天下捌歲也。此天皇、无太子。故、爲御子代、定小長谷部也。御陵在片岡之石坏岡也。
天皇既崩、無可知日續之王。故、品太天皇五世之孫・袁本杼命、自近淡海國、令上坐而、合於手白髮命、授奉天下也。
 
武烈天皇は「長谷之列木宮」に坐した。例の「長谷」にある。「列木」は並木と訳されるようであるが、「木(山稜)」とすると…、
 
<長谷之列木宮>
列(並び連なる)|木(山稜)

…「山稜が並び連なっているところ」と紐解ける。障子ヶ岳山系から並木のように延びる枝稜線を示していると思われる。

現在の田川郡香春町採銅所の黒中辺り、その中央部ではなかろうか。

小長谷若雀命」は雄略天皇と仁徳天皇にあやかったような命名なのであるが、「長谷」の地であることは上記した通りである。

「雀」はやはり「大雀命」と同様の解釈なのであろうか?…、
 
若(成りかけ)|雀(頭の小さい鳥の地形)

…と紐解ける。すると、谷間から広がる台地が鳥のような姿に見えなくもない、成りかけの状態と気付かされる。「列木」で納得している場合ではない。更に被せて居場所を示していたのである。まだまだ、古事記編者は手抜き?の段階ではないようである。

良き場所なのであろうが、「无太子」では如何ともし難しであろう・・・。