袁祁之石巢別命:取父仇之志
皇位継承が途切れてしまった、危うし天皇家…と言う場面である。大長谷若建命(雄略天皇)の挙動が引き起こした事件はそれとしても、その後が続かなかったのである。それをひょんなところから
針間の志自牟のところに居た市邊忍齒王御子が見つかって皇位に就けたと伝える。
古事記は内なる脅威の物語一色に様変わりする。既にそのシナリオを紐解いて来たが、残したところを拾い上げてみようかと思う。また、物語は途切れることなく語られることもあり、長くなるがこの段の全文を再掲することにした。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子・袁祁之石巢別命、坐近飛鳥宮治天下、捌歲也。天皇、娶石木王之女・難波王、无子也。此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老媼、參出白「王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。」御齒者、如三技押齒坐也。爾起民掘土、求其御骨、卽獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓帒之子等、令守其陵。
然後持上其御骨也。故還上坐而、召其老媼、譽其不失見置・知其地、以賜名號置目老媼、仍召入宮內、敦廣慈賜。故其老媼所住屋者、近作宮邊、毎日必召。故鐸懸大殿戸、欲召其老媼之時、必引鳴其鐸。爾作御歌、其歌曰、
阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母
於是、置目老媼白「僕甚耆老、欲退本國。」故隨白退時、天皇見送、歌曰、
意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟
初天皇、逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人。是得求、喚上而、斬於飛鳥河之河原、皆斷其族之膝筋。是以、至今其子孫、上於倭之日、必自跛也。故能見志米岐其老所在志米岐三字以音、故其地謂志米須也。
天皇、深怨殺其父王之大長谷天皇、欲報其靈。故、欲毀其大長谷天皇之御陵而、遣人之時、其伊呂兄意祁命奏言「破壞是御陵、不可遣他人、專僕自行、如天皇之御心、破壞以參出。」爾天皇詔「然隨命宜幸行。」是以意祁命、自下幸而、少掘其御陵之傍、還上復奏言「既掘壞也。」
爾天皇、異其早還上而詔「如何破壞。」答白「少掘其陵之傍土。」天皇詔之「欲報父王之仇、必悉破壞其陵、何少掘乎。」答曰「所以爲然者、父王之怨、欲報其靈、是誠理也。然、其大長谷天皇者、雖爲父之怨、還爲我之從父、亦治天下之天皇。是今單取父仇之志、悉破治天下之天皇陵者、後人必誹謗。唯父王之仇、不可非報、故、少掘其陵邊。既以是恥、足示後世。」如此奏者、天皇答詔之「是亦大理、如命可也。」
故、天皇崩、卽意祁命、知天津日繼。天皇御年、參拾捌歲、治天下八歲。御陵在片岡之石坏岡上也
[イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目の老媼という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅草の低い原や小谷を過ぎて鈴のゆれて鳴る音がする。置目がやつて來るのだな。
ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、明日からは山に隱れてしまつて見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯を奪つた豚飼の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。
かくて天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります]
幼い時に父親を惨殺された記憶は決して消し去ることはできない。また決死の逃亡をの途中で降りかかった災難も同じこと、二人の命にとってこれらの清算が課題となったのである。
坐したところが「近飛鳥」と記される。蝮之水齒別命(反正天皇)が曾婆訶理を欺くために假宮を造ったところであろう。袁祁之石巢別命にしてみれば祖父及びその弟(大叔父)が天皇になる切っ掛けとなったなった場所でもあろう。歴史に遡りはないけれども、ここが彼等の始りの地でもあった…そんな思いも描いていたのかもしれない。
何れにしてもこの天皇は葛城の地には赴かず、倭国の南方に坐したことになる。宮が「山代」に移ったのは最初で最後である。「石巣別」が名前に付加される。「石巣」の地が分け与えられたと思われるが、何処であろうか?・・・。
戸城山の南方、英彦山の北陵が延びた尾根に「岩石山」という岩だらけの山がある。花崗岩の塊のような山で、後代では難攻不落の岩石城として有名な場所であったと伝えられる。まさに「石巣」の状態であろう。
[イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上りなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目の老媼という名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦くお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅草の低い原や小谷を過ぎて鈴のゆれて鳴る音がする。置目がやつて來るのだな。
ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、明日からは山に隱れてしまつて見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯を奪つた豚飼の老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞りました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。
かくて天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります]
幼い時に父親を惨殺された記憶は決して消し去ることはできない。また決死の逃亡をの途中で降りかかった災難も同じこと、二人の命にとってこれらの清算が課題となったのである。
坐したところが「近飛鳥」と記される。蝮之水齒別命(反正天皇)が曾婆訶理を欺くために假宮を造ったところであろう。袁祁之石巢別命にしてみれば祖父及びその弟(大叔父)が天皇になる切っ掛けとなったなった場所でもあろう。歴史に遡りはないけれども、ここが彼等の始りの地でもあった…そんな思いも描いていたのかもしれない。
何れにしてもこの天皇は葛城の地には赴かず、倭国の南方に坐したことになる。宮が「山代」に移ったのは最初で最後である。「石巣別」が名前に付加される。「石巣」の地が分け与えられたと思われるが、何処であろうか?・・・。
戸城山の南方、英彦山の北陵が延びた尾根に「岩石山」という岩だらけの山がある。花崗岩の塊のような山で、後代では難攻不落の岩石城として有名な場所であったと伝えられる。まさに「石巣」の状態であろう。
この山の西麓を彦山川が流れるのであるが、固い岩(山)に挟まれて大きく蛇行しながら北に流れている。また幾つかの川が合流する地点でもあるが、不動川と呼ばれる川と大きな「州」を形成していることも判る。現在の田川郡添田町添田辺りである。ということは…、
…「岩でできた州」と解釈できる。「巣」は重ねられた表記と受け取れる。袁祁命はこの州の別となった、即ち直轄の領地を保有したのである。
父親が雄略天皇に亡き者にされたのだから地領は何もなかったのであろう。現在は広大な耕地となっているように見受けられる場所である。
がしかし、当時はまだまだ岩だらけで、沖積の進行に伴って次第に耕地としての広がりを示し始めていたのであろう。
配下の者が移り住み開拓していったと推測される。「石木」はその中心地、添田町岩瀬辺りではなかろうか。
倭国の南部…大河の中流域に該当する…の開拓を行ったと見ることもできる。この地の西北は「志毘」などが居た中元寺川流域の平群の地である。支流の谷間の開拓ではなく、大河そのものの中流域での、より広大な耕地の確保に目を付けていたのではなかろうか。遅々ではあるが、稲作の広がりを伺わせる記述と思われる。
既に記述したが・・・、
比賣の名前が「難波王」とある。蛇行する、またほぼ直角に曲がる川が「難波」を作っていたと推測される。古事記は「難波」を…、
…として記述していることが明らかである。氾濫を繰り返し、蛇行する川の流れと切り離して解釈することは到底不可能と思われる(図を参照)。
・・・である。難波は固有の地名ではない。
さて、読み残した文字を紐解いてみよう・・・父の亡骸を在り処を教えてくれた老婆が見つかった、と告げる。
「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が忍歯王の御骨を埋めたところを告げたので、御骨を掘り出して「蚊屋野之東山」に埋め直し、事件の発端に絡んだ韓帒の子に御陵を守らせた、と記述される。「淡海国」実はこれが初出である。
「近淡海国」では、決して、ない。既に「蚊屋野」は「淡海之久多綿之蚊屋野」として登場した。
古遠賀湾に面する場所、「国」と言えるほど人が住むようになった、のであろう。
「東山」=「この地の東方にある山」と解釈される。現在の皿倉山・権現山の山塊を示すと思われる。
陵はその麓とすると現在の北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。「置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。「不失見置・知其地」からの命名とあり、そのままの通りかと思われるが、古事記の読み解きでは、要注意の表現である。
「置目」とは?…「目」=「筋、区切り」とすると、福智山山塊が北に延びた先で大きな谷を作るところ、皿倉山・権現山の南麓の谷筋を示すと思われる。
…「山稜を区切る谷間に留めた」老媼と紐解ける。見たまんまの表記と言えばそれまでだが、淡海国の東側の地形をものの見事に表現している。御陵はこの谷間に造ったのであろう。「置」=「留める」から、その後移したことも重ねた表記のように思われる。
繰り返し述べて来たように古事記の世界に「住所」は無いのである。いや、その概念さえもなかったであろう。当時の環境の中で、それを記録に止めようとした勇気と根気に敬意を表したい。これが読めていない現状では、総ての古事記解釈は妄想の域を脱していないと言えるであろう。
「伊豫之二名嶋」の呼称が消えるのと同様、河口付近の地形、古遠賀湾の変化が大きく影響した者と思われる。
地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。
また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。
「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。
犀川(現今川)に合流する。その河原を「志米須」と命名したそうだが…、
…「蛇行する川が[米]の字のように集まってできる州」と紐解ける。大坂山の山稜から多くの小川が集まっている様子を表現しているのであろう。
現在の状況が当時を再現しているかは不確かであるが、複数の小川が寄り集まっている場所が見出だせる。
大坂山から流れ出す川は、現在よりももっと多く、また蛇行の程度も激しかったのではなかろうか。
古事記に一時期頻繁に登場する「大坂山口」、当時を偲ぶには、余りに静寂な環境となっているようである。千数百年の歴史の重みを感じるところである。説話は兄の見事な「取父仇之志」を記述する。二人の幼い時の体験が為さしめたことなのかもしれない。
石巣=石(岩)|巣(州)
<石巢・石木> |
父親が雄略天皇に亡き者にされたのだから地領は何もなかったのであろう。現在は広大な耕地となっているように見受けられる場所である。
がしかし、当時はまだまだ岩だらけで、沖積の進行に伴って次第に耕地としての広がりを示し始めていたのであろう。
配下の者が移り住み開拓していったと推測される。「石木」はその中心地、添田町岩瀬辺りではなかろうか。
倭国の南部…大河の中流域に該当する…の開拓を行ったと見ることもできる。この地の西北は「志毘」などが居た中元寺川流域の平群の地である。支流の谷間の開拓ではなく、大河そのものの中流域での、より広大な耕地の確保に目を付けていたのではなかろうか。遅々ではあるが、稲作の広がりを伺わせる記述と思われる。
既に記述したが・・・、
比賣の名前が「難波王」とある。蛇行する、またほぼ直角に曲がる川が「難波」を作っていたと推測される。古事記は「難波」を…、
難(安楽には進めない)|波(水面の起伏運動)
…として記述していることが明らかである。氾濫を繰り返し、蛇行する川の流れと切り離して解釈することは到底不可能と思われる(図を参照)。
・・・である。難波は固有の地名ではない。
さて、読み残した文字を紐解いてみよう・・・父の亡骸を在り処を教えてくれた老婆が見つかった、と告げる。
置目の老媼
「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が忍歯王の御骨を埋めたところを告げたので、御骨を掘り出して「蚊屋野之東山」に埋め直し、事件の発端に絡んだ韓帒の子に御陵を守らせた、と記述される。「淡海国」実はこれが初出である。
<淡海国> |
古遠賀湾に面する場所、「国」と言えるほど人が住むようになった、のであろう。
「東山」=「この地の東方にある山」と解釈される。現在の皿倉山・権現山の山塊を示すと思われる。
陵はその麓とすると現在の北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。「置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。「不失見置・知其地」からの命名とあり、そのままの通りかと思われるが、古事記の読み解きでは、要注意の表現である。
「置目」とは?…「目」=「筋、区切り」とすると、福智山山塊が北に延びた先で大きな谷を作るところ、皿倉山・権現山の南麓の谷筋を示すと思われる。
置(留める)|目(谷間の区切り)
…「山稜を区切る谷間に留めた」老媼と紐解ける。見たまんまの表記と言えばそれまでだが、淡海国の東側の地形をものの見事に表現している。御陵はこの谷間に造ったのであろう。「置」=「留める」から、その後移したことも重ねた表記のように思われる。
繰り返し述べて来たように古事記の世界に「住所」は無いのである。いや、その概念さえもなかったであろう。当時の環境の中で、それを記録に止めようとした勇気と根気に敬意を表したい。これが読めていない現状では、総ての古事記解釈は妄想の域を脱していないと言えるであろう。
<飛鳥河①> |
地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。
飛鳥河
「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。
<飛鳥河②> |
志(蛇行する川)|米([米]の字のように集まる)|須(州)
…「蛇行する川が[米]の字のように集まってできる州」と紐解ける。大坂山の山稜から多くの小川が集まっている様子を表現しているのであろう。
現在の状況が当時を再現しているかは不確かであるが、複数の小川が寄り集まっている場所が見出だせる。
大坂山から流れ出す川は、現在よりももっと多く、また蛇行の程度も激しかったのではなかろうか。
古事記に一時期頻繁に登場する「大坂山口」、当時を偲ぶには、余りに静寂な環境となっているようである。千数百年の歴史の重みを感じるところである。説話は兄の見事な「取父仇之志」を記述する。二人の幼い時の体験が為さしめたことなのかもしれない。