2018年9月25日火曜日

袁本杼命の后:手白髪命・麻組郎女 〔262〕

袁本杼命の后:手白髪命・麻組郎女


さて、前記続き袁本杼命(継体天皇)の娶りについて述べてみよう。意祁命(仁賢天皇)の比賣を大后にして何とか皇統継続を果たした、と言う筋書きである。

意祁天皇之御子・手白髮命


天國押波流岐廣庭命が誕生して次期の天皇になったとのことである。「手白髮」の地名は雄略天皇が都夫良意富美之女・韓比賣を娶って誕生した「白髮命」に由来すると思われる。


<天國押波流岐廣庭命>
「都夫良」の近隣、出雲から「若狭」に向かう場所である。病弱な御子のためにその地に「白髮部」を定めたと記されていた。

更に仁賢天皇が雄略天皇の比賣春日大郎女を娶って誕生した御子の中に「手白髮郎女」が登場する。「白髮部」に近接するところと比定した。

この郎女が「手白髮命」である。都夫良意富美・目弱王から派生して来てここに繋がるのである。

従来の物語の舞台は「葛城」である。都夫良意富美が雄略天皇に差し出す葛城の地「五處之屯宅」の記載からであろう。

継体天皇が「若狭」即ち「越前」の匂いを醸し出すのは、彼の出自ではなく娶った比賣の居場所からなのである。従来からの諸説定まらぬ雰囲気はこの混乱に由来する。日本書紀の記述がそれを増幅しているようである。

ところで、この久々に登場する長たらしくて厳つめらしい名前を読み下してみよう。
 
天(遍く)|國(大地)|押(田を作る)|波(端)|流(延びる)
岐(分かれる)|廣(広がる)|庭(山麓の平坦地)

…「端が延びて分かれた山麓に広がる平地に遍く田を作る」命と読み解けるようである。特定できる場所があるのか?・・・母親の近隣にある。安萬侶コードは健在である、上図<天國押波流岐廣庭命>を参照。坐したところは現在の角ノ林公園辺りではなかろうか。

天國押波流岐廣庭命は後に即位して第二十九代欽明天皇となる。古事記の中では「若狭」出身の最初で最後の天皇である。そして「宗賀」の比賣を娶るのである。

息長眞手王之女・麻組郎女

息長眞手王については初出である。全く出自が語られていない。「息長」は開化天皇紀の日子坐王が娶った近淡海国天之御影神の比賣、息長水依比賣で初めて登場する。この比賣の母親は不詳であって、居場所は御子の名前から推測する方法を採用すると、長男が「丹波比古多多須美知能宇斯王」で丹波にその子孫を繁栄させたとあり、「息長水依比賣」は丹波に居た可能性が高い。

また旦波国を平定した日子坐王、その子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶って誕生したのが迦邇米雷王で、この王が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」を娶って息長宿禰王が生まれる。更にこの王が葛城之高額比賣を娶って生まれたのが息長帶比賣命、虛空津比賣命、息長日子王と記載される

これらから丹波は「息長」の発祥の地、とりわけ古事記記述からすると「丹波之遠津」が「息長」姓を名乗る一族が居たと推測される。「遠津」は現在の行橋市稲童下にある奥津神社辺りと比定した。石並古墳群がある近隣である。この名前をもたらした経緯は不詳であるが、おそらくは古くから開けた地に渡来した人々の中に居た一族ではなかろうか。

後になるが倭建命が「一妻」を娶って誕生した御子に「息長田別王」が居る。隋所に登場する「息長」ではあるが、決して詳細には語らない。「息長」と書けば当然判る、という「常識」があったとも思われる。一応、上記のような読み解きを行えば必然的に至る結果ではある。

が、少々不親切な感じもするが…恣意的に何かあからさまにできない訳でもあったのかもしれない。それはさておき、では「眞手」は何処を示しているのであろうか?…「まことの手の形、手の形で満たされた」程度で探索すると・・・、
 
<息長眞手王・麻組郎女・佐佐宜郎女>
・・・覗山を中心として五本の指が東、北に延びていると見ることができそうである。

これを「眞手」と表現したのではなかろうか。眞手王はその「中央」の覗山山塊西麓、現地名行橋市高瀬辺りに坐していたと推測される。

図が示すように山塊及びその周辺こそ「息長」一族が生息していた地域と推定される。

日子坐王が征伐した「玖賀耳之御笠」、「日女嶋(難波之比賣碁曾社)」など目白押しに並ぶ場所に、その中心となるところが加わったようである。

息長」として後々まで天皇家と関わる一族と深い関連、いや一族そのものであったことを示しているのであろう。だからこそ単刀直入には「息長」の素性、在処を示さず記述したと推測される。

新羅の王子、天之日矛と阿加流比賣の難波之比賣碁曾社(沓尾山麓と比定)の説話を述べ、息長帯比賣との繋がりを書き、新羅凱旋まで記述する。安萬侶くんの伝えたかったことは「息長」一族、それは新羅から渡来した人々であった、ということであろう。彼らが如何に深く天皇家に関わったかを、真に簡略に、記述している…もう少し蛇足があっても・・・。

比賣の名前の「麻組」の「組」=「糸+且」と分解できる。「糸」=「連なった様」を表し、「且」=「段差のある高台」と読み解くと…、
 
麻(近接する)|組(連なった段差のある高台)

…「近接する連なった段差のある高台」と紐解ける。中央部の三つの山を示していると思われる。「且」は下記にも登場する。大宜都比賣に含まれていた文字である。「宜」=「宀(山麓)+且(段差のある高台)」と紐解いた。比賣の名前が「佐佐宜郎女」とある。

「佐佐」は「佐佐紀之山」のように「笹」を表しているのであろう。大宜都比賣の「宜」の解釈は「宜」=「宀(山麓)+且(段差のある高台)」から…、
 
佐佐(笹のような)|宜(山麓の段差がある高台)

…「笹のように曲がった山稜の麓の段差がある高台」に坐す郎女と紐解ける。行橋市長井の地名であるが、当時は麓は海面下であったと推定される。現在は畑地の様子であり、水田にするには水利が悪い、古代も谷間の水田とするには不向きなところであったと推測される。佐佐宜王は伊勢神宮を拝したと記載される。
 
通説に関して述べることは極力控えているが、Wikipediaに記載された内容についてはどうしても一言述べたくなる。「息長」は・・・『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている。・・・「記紀」と一纏めにすることも引っ掛かるが、上記したように、古事記に「息長」が登場するのは開化天皇紀の日子坐王の記述である。

その御子の山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶ってから一気に「息長」の地に後裔達が広がって行くのである。意富富杼王が祖となった「息長坂君」に出自を求めるとは全くの筋違いであろう。「息長」の地は丹波国の一部もしくは隣接するところである。天皇家の草創期に皇統に絡む人材を輩出した地域なのである。

有能な人材、開かれた大地があった場所は近淡海国(近江と置き換えらるのだが…)でも河内でもない。これらの地域は後に開拓されていく場所である。未開の地から人材は出ない。徹底的に歴史認識の欠如を露呈している記述である。

古事記が何故神話時代と言われる時に種々の神々を散らばらせ、祖となる命の記述を行ったのか?…それらの地が既に開かれた地となっていたことを伝えるためである。最後に感想を・・・。

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先住の渡来人達との確執、これを抜きにしては倭国の成立は語れないであろう。散りばめられた記述をいずれまた纏めてみよう。その作業は欠かせないように思われる。今のところは、この程度で留めることにしたい。それにしてもこの地域の隅々までが比定された。終わってみれば、また少々続きがあるが、何とも呆気ないような気分でもある。
 
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