2018年9月29日土曜日

竺紫君石井の『石』 〔264〕

竺紫君石井の『石』


既に「竺紫君石井」については記述した。邇邇藝命の降臨地、竺紫日向の近隣として、現在の孔大寺山山系にある「石峠」に目を付けた。谷間にある複数の堰などから「井」と組合された命名と紐解いたが、これでは従来の残存地名に準拠した比定であって、何とも心許ない。

加えて好き勝手に怪しげな文献を引っ張り出して都合の良いところを繋ぎ合わせて論拠(通常論拠にはならないが、世の中ではこれで通じる?)とする気はさらさら持ち合わせていない。ではどうするか?…ありふれた文字「石」これを紐解いてみよう、ということになった。

最近の「大」などありふれた文字の解釈が残っているのである。いや、ありふれているからこそ読み解き難度が一気に上る、が、避けては通れないところであろう。少々振り返りながら話しを進める。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。[この御世に筑紫の君石井が皇命にわないで、無禮な事が多くありました。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させました]

后と御子の名前の羅列に入った古事記が継体天皇紀に記す説話に登場する。大事件であったと思われれるが、これだけ寡黙では何とも・・・日本書紀、築後国風土記などにはもう少し詳細が載っているようである。とりわけ後者などから推論されて墓所(福岡県八女市吉田の岩戸山古墳)などが比定されている。


<竺紫君石井①>
大規模な古墳であり、九州に居た豪族が天皇家に匹敵する勢力を持っていたと解釈すると別の王朝の存在を示す証左と見る向きもあるとのこと。

古代史解釈の物的証拠を遺跡、遺物に求めるのは当然のこととして、そこから様々な説が生まれているようである。

前記したように筑前・筑後は筑紫ではない。更に竺紫は筑紫でもない。古代史のゴチャゴチャ感をまさに示す例であろう。

日本の古代史は古事記、日本書紀、風土記など豊富な過去資料に恵まれながら、全く読み取れていない現状を示す。

逆に言えば、改竄された書物が残る故にゴチャゴチャになったとも・・・中国史料…こちらのほうが信頼される?…の解釈も参戦である。そんな訳で意味不明の記述とされて、改竄の魔手から逃れた古事記を頼りに古代を読み解く羽目になって今に至る、ってところであろうか・・・。
 
多无禮」の詳細は分かる筈もないが、峠を越えるとそこは阿岐国(宗像)である。玄界灘を自由に行き来する海洋民族の溜まり場とも…朝鮮半島の動向が逸早く影響するところであったろう。様々な情報・人材が入り乱れていたと推測することは容易である。

そんな地に接するところに居ては天皇家の乱れに乗じることもあり得たかもしれない。倭国の中心からすると統治可能だが、やはり遠いところなのである。憶測領域だが事件の背景はそれとなく読み取れるのではなかろうか。
 
<竺紫君石井②>
現存地名など状況証拠的には、ほぼ確実なところかと思われるが、古事記は地形象形としての表記をしている筈である。

ありふれた文字「石」を紐解いてみよう。「石」=「厂+口」と分解され「崖下+塊」の象形と解説されている。

「口(塊)」=「口(台地)」と置き換えてみると、現在の遠賀郡岡垣町から石峠に向かう谷の入口に小高い丘が見出だせる。

応神天皇紀に登場した「堅石王」及び後の宣化天皇紀に誕生する「石比賣命(訓石如石)、下效此、次小石比賣命」の「石」の解釈に類似する。

竺紫君石井は現在の荒平神社辺りに坐していたと推定される。現在、この「石」を取り囲むように谷川沿いに豊かな棚田が作られているが、古くから開拓された土地なのであろう。

石峠の由来は知る由もないが、まさに残存地名かもしれない。邇邇藝命の降臨地、竺紫日向は孔大寺山山系であったことをあらためて確信するところである。繰り返しになるが、「竺紫」=「筑紫」ではない。全く異なる地形を持つ、別の地であることを忘れてはならない。
 
<物部・宇陀水取>

遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也」と記述される。前記で「物部」の出自の場所を求めた。

娶りの関係はなかったのであろうが、邇藝速日命の血統を持つ人々が居たことは間違いない場所である。

宇摩志麻遲命が祖となった時は「連」とされたが「大連」となっている。武人としての功績があったのであろうか。

「荒甲」は…、
 
荒(荒々しい)|甲(山)

…塔ヶ峯は決して高山ではないがその斜面はかなりの勾配を有している。かつ、カルスト台地の石灰岩の岩山であることが知られている。それを表していると推察される。名は体を示す…石井征伐の功績は益々その地位を高めたのではなかろうか。

歴史上有名な事件と思われるが古事記は寡黙である。天皇家は、また、激動の渦の中に巻き込まれて行くことになるのだが、その伏線とならないよう配慮された記述のように感じられる。上記で示した地域を念頭に、他書の情報も参照することになるかもしれない。

補足になるが、継体天皇が尾張の目子郎女を娶って誕生した廣國押建金日命が次の安閑天皇となる。御子もなく兄弟相続が発生する。継体天皇の後裔は多く誕生して、皇統断絶には至らないが、素直な感じの皇位継承とはならなかったようである。既に述べたが、文字解釈など加筆・修正を兼ねて記述する。


廣國押建金日命(安閑天皇)

御子、廣國押建金日命、坐勾之金箸宮、治天下也。此天皇、無御子也。乙卯年三月十三日崩。御陵在河之古市高屋村也。
 
<勾之金箸宮>
坐したところは勾之金箸宮」とある「勾」は文字の形通りの地形、現在の田川郡香春町高野にある地形と思われる。伊波禮之甕栗宮の「甕」に該当すると思われる。

また伊波禮之玉穗宮の「玉」とも表現されたところでもある。稲穂のような地形から「玉穂」が決まった。

するともう一方の端、それが勾之金箸宮」ではなかろうか…「箸」=「端」と表記していると解釈できる。

更に「金」は上記の廣國押建金日命同様に「金」=「今(含む)+ハ(鉱物)+土」と紐解いて…、
 
勾の端で[ハ]の字の段差のある山麓の台地

…と解釈される。ここは伊波禮の地、[ハ]の字形をした神を祭祀するところとなる。これを組合せて地形象形したと読み解ける。漢字の原点、見たまんまの表現である。再度地図を掲示する。
 

<河內之古市高屋村>
神倭伊波禮比古から始まる伊波禮の地に見事に並んだ宮の配置である。

石上に祭祀する神への畏敬、倭国の原点であろう。上図を眺める度に、その石上が大きく変化している様に、決して晴れ晴れしい気分は生じないのである。

今に残る小、中学校の名前こそ、この地が「伊波禮」と言われた時があったことを告げているのではなかろうか。

御陵は「河之古市高屋村」と記される。「古市」=「古くからの交通の要所」と紐解いて、河内にある現在の行橋市長尾、椿市と呼ばれる近隣ではなかろうか。

南には小高い山があり「高屋」を示すものと思われる。尚、この地のほぼ真東に「毛受」がある。娶りの説明がないのは后がなく、御子も無く、逝去されたとのことである。早々に兄弟が後を引き継ぐことになる。