2018年2月20日火曜日

伊邪那岐の禊祓から生まれた神:その壱 〔171〕

伊邪那岐の禊祓から生まれた神:その壱



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
伊邪那岐は諦めきれずに黄泉国まで伊邪那美を追って行く。だがそこで見たものは真に棘々しい世界で這々の体で逃げ帰ったと記述される。この間の記述にも興味ある箇所が見出せるのだが、それは後日に述べることにして神生みを優先しようかと思う。

「黃泉比良坂」=「出雲國之伊賦夜坂」を通って逃げたところが「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」である。既に求めた場所で現地名は福岡県遠賀郡岡垣町辺りである。そこで禊祓を行って神々を生むことになるが、その名前の紐解きは高難度である。従来は橘小門も含めて不詳とされるようであるが、さぁ、如何なる結果になるであろうか・・・。

身之物から生まれた神

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

故、於投棄御杖所成神名、衝立船戸神。次於投棄御帶所成神名、道之長乳齒神。次於投棄御囊所成神名、時量師神。次於投棄御衣所成神名、和豆良比能宇斯能神。此神名以音。次於投棄御褌所成神名、道俣神。次於投棄御冠所成神名、飽咋之宇斯能神。自宇以下三字以音。次於投棄左御手之手纒所成神名、奧疎神。訓奧云於伎。下效此。訓疎云奢加留。下效此。次奧津那藝佐毘古神。自那以下五字以音。下效此。次奧津甲斐辨羅神。自甲以下四字以音。下效此。次於投棄右御手之手纒所成神名、邊疎神。次邊津那藝佐毘古神。次邊津甲斐辨羅神。
右件自船戸神以下、邊津甲斐辨羅神以前、十二神者、因脱著身之物、所生神也
[その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝き立つフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てるであらわれた神は煩累の大人の神、投げ棄てる褌であらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です]

伊邪那岐が身に着けていたものから神が誕生する。「杖」からの「衝立船戸神」は…、

衝立(突き立てた)|船戸(船が出入りする戸口)|神

…「杖」を柱にして「突き立てた柱がある船の出入り口」の神となる。澪標と同じく水脈(水路)を示すものであろう。当時は「州」の近隣が船着き場とする場合が多かったと推測されるが、水脈の在処は着船するには極めて重要であったろう。禊祓の場所は「阿波岐原」飛沫の盛んな水辺の場所である。

「帯」からの「道之長乳齒神」は…、

道之(道の)|長(長い)|乳歯(綺麗に並んだ石)|神

…石垣を組んだような道の表現であろう。「道に長くて綺麗な石を並べる」神となる。現在の防波堤のイメージではなかろうか。干満差の大きなところでは必須の設備かと思われる。これらの二神は港の詳細を示していると思われる。禊祓の場所は間違いなく州、干潟の様相のところである。

囊」からの「時量師神」は…、

時(時間)|量(測る)|師(専門家)|神 ⇒???

…「囊」からもの出すのに掛かる時間で時を測ったのではなかろうか(砂時計のような)…「師」が付くのはそれなりの技術を要することを示している・・・と安萬侶くんの罠に嵌ってしまいそうだが、前後の流れからは全く当て嵌まらない。

では何と紐解くか?…「時」=「日+止(之)+手」とバラバラにしてみると少し見えてくる…「時」=「日が之く(進む)」…出てきました「之」の文字が…「蛇行する川」である。「量」=「液体を注ぎ込む」が原義とある。「師」=「諸々(凹凸)」とすると…「時量師神」は…


時(蛇行する川)|量(流れ込む)|師(凹凸のあるところ)|神

…「蛇行する川が流れ込む凹凸のあるところ(干潟)」の神と解釈される。囊」からできたものとしては納得できるものであろう。また禊の地は広大な汽水湖があったところと推定したところである。これこそメインの神の出現なのである。何とも文字遊びとしか受け取れないような・・・。



「時」も昼・夜を繰り返して流れて行く。それと川が蛇行するする形「之」とを重ねて用いていると思われる。古事記の自然観が出ているようである。存在するもの全てが決して直線的に進むのではなく、蛇行し、捻れながら進むことの理解である。まさか、あの螺旋構造を・・・。

衣」からの「和豆良比能宇斯能神」は…、

和(揃う)|豆良(面)|比(並ぶ)|能(の)|
宇(山麓)|斯(之:蛇行する川)|能(の)|神

…「衣」が広がって「斜面が揃って並ぶ山麓にある蛇行する川」の神となる。上図の橘小門の左手にある山麓を示しているようである。既述した日子坐王の御子「丹波比古多多須美知能宇斯王」が登場する。この「宇斯」と繋がるのである。

褌」からの「道俣神」は…ここまで詳細に具体的に神を述べて来て、単に「道の俣」とは到底思われない。そこで・・・「道」=「辶+首」に分解すると…「首の俣」海に面して大きく凹んだところの奥にあるところではなかろうか…、

道(首の形)|俣(奥の付け根)|神

…両足の象形であろう。下図に参考例を示す。首のところは当時海面下であったろう。彦島向井町と記されたところが神の居場所と思われる。褌」からできたとして上出来の配置であろう。上図では少々分かり辛いが台地が刳り取られて「首」の地形になったところは多く見られる。



冠」からの「飽咋之宇斯能神」は…、

飽(飽きるほど)|咋(喰らう)|之(の)|宇(山麓の)|斯(蛇行する川)|能(の)|神

…「冠」については少々補足を要する。冠の部位は右図
のように解説されている。

部位名称の由来は定かではないが、天辺に甲(山)があり、額、磯、海と山のある島の象形のような名付けである。

「冠」から生まれた神は漁獲の豊かな地を作っていたと述べている。大宜都比賣に繋がる表現ではなかろうか。

この比賣は現在の北九州市若松区、石峰山の南麓が洞海湾に接するところに居たと推定した。

山麓と干潟が近接する場所は豊かな漁場を提供していたのである。そこに人が集まり住まっていたこと、古事記が繰り返し記述する古代の暮らしである。

左御手之手纒」からの「奧疎神」は…、

奥(沖の)|疎(遠く離れた)|神 ⇒???

…註記(於伎=オキ)に従って読むと上記のようである。沖だから遠く離れている?…沖と被る解釈となり、意味が通らない。「疎」は何と紐解くか?…「手纒」から生じているのなら「山」の地形と関連するように思われるが・・・。

「疎」=「𧾷+束」と分解する。「速秋津」の「速」=「辶+束」と同じ扱いにしてみると、「足」=「山稜」を束ねた地形と解釈される。


奥(沖の)|疎(山稜の束)|神

…「複数の山稜が束になっているところ」の神と紐解ける。手纒」の地形象形として納得できるものであろう。古事記中には「疎」の文字はこの段のみである。残念ながら検証は叶わないのであるが…。

上記の場合と同様である。続いて「奧津那藝佐毘古神」は…、

(沖の津)|那藝佐(渚)|毘古(田を並べて定める)|神

…「奥津」と一纏めにしたが、沖にある「津」=「川と海の合流地点」を意味する。山稜が束に成ることによって海辺が広がり海岸線も滑らかになると推測される。「山稜の束」と繋がる「渚」の表現と判る。

更に「奧津甲斐辨羅神」は…、

(沖の津)|甲斐(山に挟まれた)|辨羅(花弁が連なる)|神

…「奥津」は上記と同じ。「花弁」は「甲斐」を作る山腹を表すと解釈される。束になった山稜間を表している。この空間は人が住まうのに好適であり、それが複数ある重要な地点であることを告げているのである。

次いで「右御手之手纒」からは「邊疎神、邊津那藝佐毘古神、邊津甲斐辨羅神」が誕生する。「奥=沖」に対して「邊」=「海辺」で、海の手前が「邊」と表現されている。それ以下の神名は同様の解釈であろう。

これらの神々は現在の遠賀郡及び宗像市が響灘・玄界灘に面して広がる広大な海浜地帯を表現しているものと思われる(上図参照)。この帰結は禊祓の地の比定の強力な傍証になっていると判る。古事記はその地を繰り返し伝えているのである。

奥津、辺津の文字は現在の宗像大社に関連する。前記で「秋津」をこの宗像大社がある場所に比定した。後に邇邇芸命が降臨する竺紫日向之久志布流多氣(現在の孔大寺山系)を挟んで伊邪那岐の禊の地があったと読み解いた。間違いなくこの地域に多くの渡来があったと思われる。そして「天」の天神一族が移り住んで来たところである。

しかしながら遠賀川河口付近の土地は狭い。豊かな水田にするには当時の「技術」では叶わぬ夢物語であったろう。古事記を通読すると、河口付近の開拓までには及んでいないことが窺い知れる。宗賀(蘇我)一族がそれを為し得た地は全く稀有の場所であったと判る。いや、だからこそ彼らが圧倒的な財力を有することになったのであろう。

そして、伊邪那岐の末裔、神倭伊波禮毘古命が東に向かう事件が発生するのである。いやぁ~「身之物」と「地形」、何とか繋がりました。記述された文字列の解釈、「之」どころの騒ぎではない・・・まだまだ三貴神に辿り着かない・・・。