2018年5月4日金曜日

日子国 〔204〕

日子国


古事記中に「丸邇」の文字が登場するのは日子国の意祁都命が祖となったという記述が初めてとなる。これ以降頻出するのであるが、決して「和珥」「和丹」「和仁」などとは記載されることはない。「和邇」については前記(和邇と菟)で述べたように「鰐」ではなく「輪の地形の近く」の意味と解釈した。

既に丸邇の「丸」は「壹比韋」を示し、その近くに居た一族と紐解けることを述べたが、祖となる意祁都命が居た場所をあらためて見直してみよう。関連するところは抜き出して示すと…古事記原文…、

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。・・・<中略>・・・又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命、生御子、日子坐王。

若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が娶った意祁都比賣命の兄の肩書として「丸邇」と「日子国」が記載される。「丸邇」は本ブログでは頻出して当然のように使っている文字であるが、あらためてその意味するところを紐解いてみよう。「宇遲=内」と繋げた解釈はこちらを参照願う。

「丸」は様々な用い方があって示す意味も多様である。「〇」の形状を地形象形とすると「総てを並べ囲んだ」の意味とした「壹比韋」(現地名田川郡赤村内田山の内)と推定できる。また「丸」=「丸い粒・塊」とすると「丹の丸い塊」を産出する場所を示しているようでもある。これらを掛け合わせて「丸」の文字を使っていると思われる。

前記した「内色許」=「内側が渦巻く地形の傍ら」とも繋がる。異なる表現で同一の場所を示しているのである。「壹比韋」を中心とした地形を、そして「丹」の時代へと進んで行く様相が伺える記述である。「日子国」は何処であろうか?…例によって「日」=「邇藝速日命」とすれば、邇藝速日命の「子」の国と考えると「春日」=「田川郡赤村内田」である。内色許男命一家が住まう地、その近隣であろう。


日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命

更に「意祁都」の意味は何と読み解けるであろうか?…「意」は「心に思っている事、物事に込められている内容(趣き)」と解説されている。この意味を地形象形的には「意」=「地勢(土地の有様)」と解釈すると…、

意(地勢)|祁(大いに)|都(集まる)

…「山稜の端が大いに集まっている地勢」と読み解ける。図に示したように山稜の端が寄り集まって谷間を形成している場所である。現地名は田川郡赤村内田大坂と香春町柿下大坂に跨るようである。

壹比韋及び穗積臣の祖となった内色許男命の居場所とは山稜を一つ越えたところである。

また「意(心に思う)|祁(大いに)|都(天子の住む処)」天下を取る心算を示していると読めなくもない。

丸邇臣の祖となる記述は丸邇一族の台頭が大きな話題となる説話の伏線と思わさせる記述のようである。

御子に一人息子の日子坐王が誕生する。本人及び子孫を含めて多くの説話が載せられている。華々しい一族の活躍が始まるのである。

丸邇一族は「壹比韋=丹の本丸」ではなく近隣に居たことを示す命名であろう。「沙本」(壹比韋の麓)と類似する表現である。「丸邇」⇔「丹」の深い関連から「邇=丹」のような錯覚に陥りがちではあるが…。いずれにしても壹比韋」を中心とした物語が暫し続けられる。

其母弟・袁祁都比賣命

次日子坐王・・・<中略>・・・其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。

母親である日子国の意祁都比賣命の妹、叔母の袁祁都比賣命を娶ったと記される。「山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王」が誕生する。この比賣の在処は上図の範囲であり、「袁(ゆったり)」が付くとすると…、


袁(ゆったり)|祁(大いに)|都(集まる)


…図の下流域で山稜の端が広がって集まっている様を表していると思われる。比古意須王の「意須」、伊理泥王の「伊理」は…、


意(地勢)|須(州)
伊(小さく)|理(区分けされた田)
 
…「川の合流が直角に近く一見州のようには見えない」という有様を述べているのであろう。

比古意須王は図の合流点近く、また伊理泥王は小ぶりな谷間に作られた田の近隣と推定される。

日子国に隈なく御子達の食い扶持が分け与えられていたことを示している。

がしかし、この地では多くの御子を養うには土地が不足する状態であったと思われる。長男は早々と山代に移っていたのである。

「大筒木」の地名は開化天皇の一番目の娶り、旦波之大縣主の由碁理の比賣、竹野比賣が生んだ比古由牟須美命の子、大筒木垂根王に現れている。何らかの理由があって養子のような形で移動したのであろう。その彼の系譜が記述される。

古事記原文…、

山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。

此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。

又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。此者多遲摩國造之祖也。

誕生した山代之大筒木眞若王の娶り関係が詳細に記述される。

当然なのであるが、そこに「息長帶比賣命(神功皇后)」が現れ、後の応神天皇が誕生することになる。

邇藝速日命の系譜は決して消えることなく皇統に繋がって行ったのであろう。前記(息長一族)で息長の発祥地について述べたが、また後日に追加してみよう。

春日之伊邪河宮に坐した開化天皇は春日、即ち邇藝速日命が登美夜毘賣に生ませた宇摩志麻遲命の後裔(穂積臣)、地元「登美」(詳細はこちら)との関係を深めながら天皇家の礎を築いたと告げている。綏靖天皇から始まった葛城の地での努力が漸くにして報われようとしている時期であった。