2017年8月7日月曜日

言向和平された出雲国 〔077〕

言向和平された出雲国


高天原を追い出された須佐之男命は八雲立つ出雲の地に国を作った。その地では英雄であり、子孫も作り国の基礎を作り上げたのである。その子大国主神は数々の試練を乗越えて出雲国を引継ぎ発展させていく、というシナリオであった。彼らの活躍の場所は玄界灘、響灘の「淡海」であり、それに面した場所を示す。決して山陰の日本海ではない。

だが、高天原の神達はそれでは満足しない。後に詳細を記述することになろうが、伊邪那岐・伊邪那美が産んだ島、大八嶋の最後、大倭豊秋津嶋への浸透がなければ彼らは容赦なく動く。それが古事記の記述目的である。山陰の出雲の説話が記述全体の中で、神話・伝説の挿入と受止められてきたのは、地理的理解とこの目的の把握が欠如しているからであろう。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

天照大御神之命以「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。」言因賜而天降也。於是、天忍穗耳命、於天浮橋多多志而詔之「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、伊多久佐夜藝弖有那理此。」告而、更還上、請于天照大神。[天照らす大神のお言葉で、「葦原の水穗の國は我が御子のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊ばすべき國である」と仰せられて、天からお降しになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになって御覽になり、「葦原の水穗の國はひどくさわいでいる」と仰せられて、またお還りになって天照らす大神に申されました]

神様達は下々が騒ぐのがお気に召さないようで、天照大神と須佐之男命の誓約で生まれた長男を使いに出す、というのが物語は始まる。「天浮橋=天からの階段」という訳、既にこの説話は神話の領域に取り込まれている。「天浮橋」は伊邪那岐・伊邪那美が国生みする前に「淤能碁呂嶋」を創ったところである。あらためて紐解いてみよう。

天浮橋


淤能碁呂嶋」は古事記神代紀の記述からではその場所を特定することは困難であった。通説は様々である。後代の仁徳天皇紀に唯一登場するのだが、特定困難な場合は神代とその後の記述の統一性は無視するのが通説である。あれはあれ、これはこれ、方式である。

仁徳天皇が目にした淤能碁呂嶋」は伊邪那岐・伊邪那美が立った場所である。これに基づき紐解いたのが現在の下関市彦島西山町・竹ノ子島町であった。あらためて「天浮橋」と関連付けて考えてみよう。あくまで縄文海進の時代、現在よりも数メートル海面上昇した状況を考慮して…。

「浮橋」の「橋」は、そのように見える、である。その原義は「端」と同じで「端にあるもの」を「橋」という表現にしたと解説されている。上記の


竹ノ子島(町)

が該当すると思われる。現在の標高から古代においては細長い帯状の二つの島から成っていたことが推測される。

  
この地は出雲国、現在の北九州市門司区大里辺りの様子を伺うには好都合なところであったろう。偵察隊への指示も間断なく行える、というわけである。当然ながら「淤能碁呂嶋」を創るにも最適な場所だったと思われる。国生みは縄文海進の後退と推察した。伊邪那岐・伊邪那美が掻き回すことで少々早く嶋が誕生したのかもしれないが…。

現在も「竹ノ子島町」は西山町から独立した行政区分のようである。古事記の記述と合致する。これらの町はその創生の形態が異なるのである。何度か登場する「天浮橋」この橋は実在した地名として理解することができる。と同時に…


高天原と現実の世界とを繋ぐ「境」

…として表現されている。

「黄泉国の比良坂」と同じ概念に当て嵌まるのであろう。記述のパターン化を行い、伝えんとすることを簡潔にした表現方法である。逆にそれが読めないと伝えるところが読めない、そうして来たのが通説と言われるものであろうか…。漸くにして古事記の主要地点、「淤能碁呂嶋」と「天浮橋」の特定が完了した。

古事記の時制は自由である。既に天照大神と須佐之男命の次男坊である天菩比神を遣わしていたのだが梨の礫、それもその筈息子の建比良鳥命が代わりにご活躍だから。古事記の中では影が薄い存在である。そこで代わりに天若日子命を派遣するすることになった。

ところがその命もさっさと現地妻(下照比賣)を娶って既に八年が過ぎた、とのこと。邪心があるかないか、手続き上の話が続いて、結局は高木神に亡き者にされてしまう。それに嘆き悲しんでるところに下照比賣の兄の阿遲志貴高日子根神が登場、死者と似ているなんて言われたのが癇に障ったのか喪屋を壊してしまう、と説話が続く。

美濃國藍見河<追記>


この説話の挿入の意味が読取り難い。神様にも葬式らしきものがあった…神とは言っているが実は人なんだ…そんなことを告げているような感じもする。そして唐突に「美濃國藍見河之河上」の「喪山」に喪屋があった、と告げる。「美濃国」=「三野国」として初出の「藍見河」を何と紐解くか…。

「藍」=「ぼろ(破れた衣服)」という意味がある。「三野国」に特定したところ、北九州市小倉南区に「朽網(クサミ)」=「ぼろぼろになった網」の地名がある。そこを「朽網川」が流れる。


藍見河=朽網川

であることがわかった。「喪山」の場所は下図を参照願う(詳細はこちらを参照)。


「朽網」の登場がこんなに早くにあったとは、少々驚きであるが、三野の地も早くから認知されたところだったのであろう。

現在も残る難読の地名は、極めて重要である。残念ながら確定的なその地名由来が残されていないこと、当然の後始末だった、であろう・・・。

さて、本題に話は進む。古事記史上最強の神の登場である。

天安河河上之天石屋に住む伊都之尾羽張神に使いを遣って、その神之子、「建御雷之男神」を派遣することになった。



天鳥船神と二人が降り立ったところが「出雲國伊那佐之小濱」で、早速大国主神に問うと、事代主神に聞いてくれと言うが、ご本人、呆気なく職責放棄?して引っ込んでしまった。

出雲國伊那佐之小濱

事代主神が暢気に釣をしていたのが「御大之前」ここは間違いなく良い釣場だが、船着き場でもある。先に遭遇しそうな雰囲気だが、建御雷之男神らが降り立ったところではなかった。「出雲國伊那佐之小濱」とは?…「伊那佐」=「タタナメテ」楯を並べたように…である。

伊那佐之小濱=奇麗に並んだ小さな浜

となる。これは「淡海之多賀」の近隣と思われる。矢筈山の山稜が海に接するところ、現在地名は北九州市門司区大里東辺りである。天鳥船神は何処にでも接岸できる優れた船だったのかも?「言向」だから正面の「御大之前」ではなく脇から…かも?

古事記、万葉集で多用される「伊那佐」これを解せず、いや、無視して地名比定する。古代の解釈は姑息さで満ちているようである、これに反論できるのであろうか…。結果的に誤った解釈であったとしても姑息さと無縁であって欲しく思うのである。O保方論文事件を想い出す・・・。

科野國之州羽海


大国主神の切り札、建御名方神の登場である。この神、現在の信濃国の諏訪大社に鎮座している神である。

故爾問其大國主神「今汝子、事代主神、如此白訖。亦有可白子乎。」於是亦白之「亦我子有建御名方神、除此者無也。」如此白之間、其建御名方神、千引石擎手末而來、言「誰來我國而、忍忍如此物言。然欲爲力競。故、我先欲取其御手。」故令取其御手者、卽取成立氷、亦取成劒刄、故爾懼而退居。爾欲取其建御名方神之手乞歸而取者、如取若葦搤批而投離者、卽逃去。故追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方神白「恐、莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者、隨天神御子之命獻。」[そこで大國主の命にお尋ねになったのは、「今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか」と問われました。そこで大國主の命は「またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、「誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴かむぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立っている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言ってこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追って信濃の國の諏訪の湖に追い攻めて、殺そうとなさった時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子の仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました]

元官幣大社であり、全国に関連する神社の元締めたる諏訪大社の由来である。古事記に記載があることで由緒がある、ただそれだけのようである。記述の内容は甚だ情けないもの、獻上し、諏訪からは出て行かない、全国に散りばめられているのだが、仰せに任せるだけ…無駄な争いをせず賢明な人だった?

…理解を越える経緯が存在するのであろうか?…。現在の諏訪の地、その本来の歴史を取り戻されんことを祈るばかりである。豊かな古代の世界を明日に還元できると信じる。古事記は現在の諏訪の地ことを記述していない。

最強の戦士「建御雷之男神」が「建御名方神」を追い詰めたのが「科野國之州羽海」とある。「科野国」は現在の北九州市小倉南区葛原辺りである。出雲国から足立山~戸ノ上山の山系を越えたところにある国である。その南、現在は曽根平野となっているところは海であった。大きな干潟を形成する入江である。

州羽=中州が羽根のような形をしている

そんな海と紐解ける。河口、入江における地形象形で幾度となく出現した表現である。「大羽江」「氷羽州」等、河川の水(沖積)と海水(干満)とが織り成す特異的な地形を象形した記述である。通説が「諏訪湖」と断じることの根拠は皆無であろう。

既に縄文海進が後退し沖積が進行した現在の地形に「州羽海」は存在しない。古事記の中にしか存在しない。「建御名方神」と同様にその世界から外に出ることはないのである。現在の諏訪大社、それはそれとして大切にお祀り申し上げることであろう。

大国主神は言いたい放題の立派な宮を造って貰ってご隠居になるという。これが「言向和平」だと言いたいのであろうが、出雲に御子を送り込んで実際の統治を始めるのはかなり後になる。「意富富杼王」の時代である。出雲国内部の状況は記述されないから、様々な解釈が蔓延ることになる。「風土記」などとの繋がりは後日としよう。

出雲國之多藝志之小濱


隠居先は「出雲國之多藝志之小濱」とある。


多藝志=多(出雲の)|(果ての)|(之:蛇行した川)

これも上記した風師山の山稜によって道が途切れる(現在とは異なる)ところであろう。現地名は門司区二夕松・風師町辺りである。出雲国に居て、かつ、表向きには活動しない、邪魔にならない場所の候補は他にあり得なかった、と解釈される。



最後に「鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵」が現れる。出雲と杵との関係を紐解いた時に引用した文言である。現在の企救半島南部は最も早期に開けた場所であった。それは古事記が一貫として伝えることである。

同じ場所を異なる言葉で表す。幾度か遭遇した地名の表記である。その目的は古事記全体の記述の中で重要な意味を持つ地であることを示す。

出雲国の在処、同一場所の異なる地形象形による表現が、場所の特定に間違いがないことを確認するためである。安萬侶くんの伝えること、無視しては全く伝わってなかったと言い切れる。

…と、まぁ、邇邇芸命の降臨の準備万端、といったところであろうか・・・。



<追記>


2017.12.07
「美濃」の由来。詳細は後日に…。



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