2024年10月21日月曜日

今皇帝:桓武天皇(15) 〔698〕

今皇帝:桓武天皇(15)


延暦六(西暦787年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月壬辰。授正四位下多治比眞人長野從三位。无位矢庭王。大庭王。正六位上岡田王並從五位下。從四位下大伴宿祢潔足從四位上。從五位上文室眞人波多麻呂。安倍朝臣常嶋。藤原朝臣眞友並正五位下。從五位下文室眞人久賀麻呂。阿倍朝臣弟當。藤原朝臣宗嗣。紀朝臣眞子並從五位上。正六位上大原眞人長濱。橘朝臣安麻呂。藤原朝臣今川。百濟王玄風。正六位下紀朝臣全繼。從六位上巨勢朝臣人公。正六位上石川朝臣永成並從五位下。

延暦六年正月七日、多治比眞人長野に從三位、「矢庭王・大庭王・岡田王」に從五位下、大伴宿祢潔足(池主に併記)に從四位上、文室眞人波多麻呂安倍朝臣常嶋藤原朝臣眞友()に正五位下、文室眞人久賀麻呂阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)・藤原朝臣宗嗣()・紀朝臣眞子に從五位上、大原眞人長濱(年繼に併記)・橘朝臣安麻呂()・藤原朝臣今川(今河。)・百濟王玄風(①-)・紀朝臣全繼(眞媼に併記)・巨勢朝臣人公(宮人に併記)・石川朝臣永成(在麻呂に併記)に從五位下を授けている。

<矢庭王-大庭王-岡田王>
● 矢庭王・大庭王・岡田王

関連する情報を調べると、最後の岡田王について、「殖栗王」(古事記では橘豐日命[用明天皇]の子の植栗王)の子孫だったらしい。厩戸皇子の兄弟である。

現地名は田川市夏吉、「植栗」は白髪川の西岸に延びる山稜の形を象った表記と推定した。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の大后であった比婆須比賣命の狹木之寺間陵があった場所である。

称徳天皇紀に「寺間臣」一族が「大屋朝臣」を賜姓されたと記載されていた(こちら参照)。岡田王岡田=谷間に延びる山稜に麓で田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

すると、矢庭王矢庭=[矢]のように延びる山稜の麓が平らに広がっているところ大庭王大庭=平らな頂の山稜の麓が平らに広がっているところと解釈され、各々の出自場所を図にように求めることができる。文室眞人一族が蔓延った東側に当たる場所である。

それぞれ、この後に幾度か登場されているが、續紀中では「岡田王」が臣籍降下して「蜷淵眞人」の賜姓された記述は見られない。「蜷淵」は、彼のみの居処の地形を表しているのだが、詳細は省略する(他の王二人の情報は不明)。尚、「蜷淵」は、南淵に関わると言われているが、勘違いであろう。

二月庚申。勅。諸勝賜姓廣根朝臣。岡成長岡朝臣。以從五位下高倉朝臣石麻呂爲中務少輔。從五位下中臣朝臣比登爲和泉守。從五位下甘南備眞人繼成爲伊賀守。外從五位下御使朝臣淨足爲參河介。近衛少將從五位上佐伯宿祢老爲兼相摸守。少納言如故。從五位下紀朝臣眞人爲介。從五位下百濟王玄風爲美濃介。從五位下佐伯宿祢葛城爲陸奥介。從五位下石淵王爲若狹守。從五位下紀朝臣馬守爲越中守。從五位下丹比宿祢眞淨爲丹波介。從五位下大宅朝臣廣江爲丹後守。外從五位下丹比宿祢稻長爲伯耆介。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼美作守。中務卿如故。從五位下紀朝臣安提爲備中守。從五位上雄倉王爲阿波守。正五位上内藏宿祢全成爲讃岐守。陸奥介從五位下佐伯宿祢葛城爲兼鎭守副將軍。癸亥。以從五位下石浦王爲少納言。從五位下石川朝臣永成爲左大舍人助。從五位下榮井宿祢道形爲内藏助。從五位下橘朝臣安麻呂爲雅樂助。從五位下巨勢朝臣人公爲民部少輔。外從五位下麻田連眞淨爲主税助。外從五位下奈良忌寸長野爲鼓吹正。從五位下阿倍朝臣祖足爲左京亮。從五位下石川朝臣魚麻呂爲攝津亮。從五位下藤原朝臣繩主爲右衛士佐。從五位下大伴王爲主馬頭。甲戌。渤海使李元泰等言。元泰等入朝時。柁師及挾杪等逢賊之日。並被劫殺。還國無由。於是。仰越後國。給船一艘柁師挾杪水手而發遣焉。庚辰。以從五位上大伴宿祢弟麻呂爲右中弁。從五位上文室眞人久賀麻呂爲攝津亮。從五位下和朝臣國守爲參河守。從五位上多治比眞人濱成爲常陸介。從五位下佐伯宿祢葛城爲下野守。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲陸奥介。從五位下石川朝臣魚麻呂爲丹後守。從五位下池田朝臣眞枚爲鎭守副將軍。

二月五日に勅されて、「諸勝」に「廣根朝臣」、「岡成」に「長岡朝臣」(こちら参照)の氏姓を与えている。高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を中務少輔、中臣朝臣比登(必登。藤原朝臣夜志芳古に併記)を和泉守、甘南備眞人繼成(繼人。清野に併記)を伊賀守、御使朝臣淨足を參河介、近衛少將の佐伯宿祢老少納言まま兼務で相摸守、紀朝臣眞人(大宅に併記)を介、百濟王玄風(①-)を美濃介、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を陸奥介、石淵王(山上王に併記)を若狹守、紀朝臣馬守(馬借)を越中守、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を丹波介、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を丹後守、丹比宿祢稻長(丹比新家連)を伯耆介、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を中務卿のまま兼務で美作守、紀朝臣安提(本に併記)を備中守、雄倉王(小倉王)を阿波守、内藏宿祢全成(忌寸。黒人に併記)を讃岐守、陸奥介の佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を兼務で鎭守副將軍に任じている。

八日に石浦王()を少納言、石川朝臣永成(在麻呂に併記)を左大舍人助、榮井宿祢道形を内藏助、橘朝臣安麻呂()を雅樂助、巨勢朝臣人公(宮人に併記)を民部少輔、麻田連眞淨(金生に併記)を主税助、奈良忌寸長野(秦忌寸)を鼓吹正、阿倍朝臣祖足(石行に併記)を左京亮、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を攝津亮、藤原朝臣繩主()を右衛士佐、大伴王()を主馬頭に任じている。

十九日に渤海の使節の李元泰が以下のように言上している・・・元泰等が日本に来朝した時、柂師や挾杪などが賊に遭遇した際、それぞれ拉致されたり殺害されたりしたので、帰る手段を失くしてしまった・・・。そこで越後國に命じて、船一艘と柂師・挾杪や水手を与えて出発させている。

二十五日に大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を右中弁、文室眞人久賀麻呂を攝津亮、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)を參河守、多治比眞人濱成(歳主に併記)を常陸介、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を下野守、藤原朝臣葛野麻呂を陸奥介、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を丹後守、池田朝臣眞枚(足繼に併記)を鎭守副將軍に任じている。

<諸勝(王)[廣根朝臣]>
● 諸勝[廣根朝臣]

氏名が無く唐突に登場しているが、調べると光仁天皇が女孺に産ませた子と知られているようである。「諸勝」は、光仁天皇紀に従五位下を叙位された縣犬養宿祢勇耳の子であった。

当然のことながら、名前は出自の場所を表しているのであるが、その場所は母親の近隣と推測される。諸勝=盛り上がった地の前で耕地が交差しているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

賜った氏姓である廣根朝臣廣根=[根]のような地が広がっているところと解釈される。母子の居処の地形を表していることが解る。皇族が臣籍降下すると眞人姓かと思われるのだが、朝臣姓となっている。「長岡朝臣」を賜姓された「岡成」も同様なのだが・・・共に「王」が付記されていない。

續紀中での登場は、この場限りであるが、後に従五位下を叙爵され、最終従五位上・攝津介であったと伝えられている。地形変形が凄まじく、国土地理院航空写真から求めた「八重」等の出自場所の確からしさが高まったようである。

三月丁亥。宴五已上於内裏。召文人令賦曲水。宴訖賜祿各有差。己亥。散事從四位上飽波女王卒。甲辰。詔曰。養老之義著自前修。歴代皇王率由斯道。方今時属東作。人赴南畝。迺眷生民。情深矜恤。其左右京五畿内七道諸國。百歳已上各賜穀二斛。九十已上一斛。八十已上五斗。鰥寡孤獨及癈疾之徒者。量其老幼。三斗已下。一斗已上。仍令本國長官親至郷邑存情賑贍。丙午。以從五位上中臣朝臣常爲神祇大副。從五位下藤原朝臣繩主爲少納言。從五位上阿倍朝臣弟當爲左少弁。從五位下笠朝臣江人爲右少弁。播磨大掾如故。正五位下藤原朝臣眞友爲右大舍人頭。下総守如故。近衛將監從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲兼内匠助。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲式部少輔。春宮亮越前介如故。從五位下朝原忌寸道永爲大學頭。東宮學士文章博士越後介如故。從五位上紀朝臣作良爲治部大輔。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲少輔。從五位下文室眞人八嶋爲正親正。從五位下廣田王爲鍛冶正。從五位上藤原朝臣乙叡爲右衛士佐。

三月三日に五位以上と内裏で宴会し、文人を召して曲水の詩を作らせている。宴の後それぞれに禄を賜っている。十五日に散事の飽波女王が亡くなっている。

二十日に次のように詔されている・・・老人を養うことの意義は前代より明らかであり、歴代の天皇も、この道理に従って来た。今はちょうど春の耕作の時期に当たり、人々は田畠に出向いている。そこで人民に目をかけ、深い情をもって憐れみ恵もうと思う。左右京、畿内五ヶ國と七道の諸國にいる百歳以上の者にそれぞれ籾米二石を与えよ。また、九十歳以上の者には一石を、八十歳以上の者には五斗を、鰥・寡・孤・獨と病気で苦しんでいる者には、年齢に応じて三斗以下、一斗以上を与えよ・・・。そこで各國の長官に自ら村々に行かせ、思いやりをもって施し与えさせている。

二十二日に中臣朝臣常(宅守に併記)を神祇大副、藤原朝臣繩主()を少納言、阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を左少弁、笠朝臣江人(眞足に併記)を播磨大掾のままで右少弁、藤原朝臣眞友()下総守のままで右大舍人頭、近衛將監の坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を兼務で内匠助、安倍朝臣廣津麻呂春宮亮・越前介のままで式部少輔、朝原忌寸道永(箕造に併記)を東宮學士・文章博士・越後介のままで大學頭、紀朝臣作良を治部大輔、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を少輔、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を正親正、廣田王()を鍛冶正、藤原朝臣乙叡()を右衛士佐に任じている。 

夏四月乙夘朔。唐人王維倩。朱政等賜姓榮山忌寸。乙丑。武藏國足立郡采女掌侍兼典掃從四位下武藏宿祢家刀自卒。庚午。山背國獻白雉。戊寅。授蒲生采女從七位下佐佐貴山公賀比外從五位下。

四月一日に唐人の「王維倩・朱政」等に「榮山忌寸」の氏姓を賜っている(晏子欽等に榮山忌寸を賜姓。こちら参照)。十一日に武藏國足立郡の采女で、掌侍・典掃を兼任する武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)が亡くなっている。十六日に山背國が「白雉」を献上している。二十四日に蒲生采女の「佐佐貴山公賀比」に外従五位下を授けている。

<山背國:白雉>
山背國:白雉

山背國獻白雉は、寶龜六(775)年四月にも記載されていた。山背の地では、瑞祥が繰り返し捕獲されたのだ、ではない。早期に開拓された場所の中で、希少な未開拓地だったことを告げているのである。

白雉=[矢]のような鳥がくっ付いて並んでいるところと解釈した。その地形を探すと、図に示した愛宕郡の東部に見出せる。現地名は田川郡赤村赤であるが、京都郡みやこ町犀川喜多良(豊前國遠珂郡)との端境に位置する。

唐突に記載される白雉献上物語であるが、後の”平安遷都”に繋がるものであろう。残念ながら續紀記述の範囲外ではあるが・・・。

<佐佐貴山公賀比・錦曰佐名吉>
● 佐佐貴山公賀比

「蒲生采女」とは、近江國蒲生郡を出自とする采女であろう。氏姓名が「佐佐貴山公」であり、聖武天皇紀に登場した佐佐貴山君親人・足人は、それぞれ近江國の蒲生郡・神前郡の大領を任じられていたと記載されていた。

その後に佐佐貴山公由氣比が大領となり、善政を行った攝津國、豊後國の大領と共に外従五位下を叙爵されていた。

「由氣比」の出自場所は、元々の佐佐貴山君の居処、現地名の北九州市八幡西区笹田に求めたが、今回登場の「賀比」は、おそらく近江國蒲生郡を出自としていたのであろう。

賀比=押し開かれた谷間がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。大領の「由氣比」は、多分、その近隣を居処としていたのではなかろうか。この場限りの登場であって、この後の詳細は不明である。

直後の七月記に蒲生郡の人である錦曰佐名吉等が志賀忌寸の氏姓を賜ったと記載されている。既出の文字列である錦曰佐=三角に尖った左手のような山稜が谷間から延び出ているところ、名前の名吉=山稜の端の三角の地が蓋をしているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

賜った志賀忌寸(志賀=蛇行する川が流れる押し開かれた谷間)の氏姓は、「賀比」の「賀」に蛇行する川が流れていたことを表している。