今皇帝:桓武天皇(16)
延暦六年(西暦787年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
五月己丑。有勅。令皇太子帶劔。于時太子未加元服矣。戊戌。典藥寮言。蘇敬注新修本草。与陶隱居集注本草相検。増一百餘條。亦今採用草藥。既合敬説。請行用之。許焉。壬寅。授從四位上紀朝臣古佐美正四位下。正五位上大中臣朝臣諸魚。笠朝臣名末呂。藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂並從四位下。乙巳。授正六位上忍海原連魚養外從五位下。戊申。以從五位下多治比眞人豊長爲内藏助。春宮少進如故。外從五位下榮井宿祢道形爲造兵正。外從五位下中臣栗原連子公爲大炊助。從五位上藤原朝臣乙叡爲中衛少將。少納言從五位下藤原朝臣繩主爲兼右衛士佐。從五位下山上王爲内兵庫正。
五月六日に勅されて、皇太子(安殿親王)に剣を帯びさせているが、この時まだ元服していなかった。十五日に典薬寮が以下のように言上している・・・蘇敬が注した『新修本草』(こちら参照)を陶隠居が撰した『集注本草』(こちら参照)と付き合わせて点検すると、前者の方が百条あまりも増補している。また現在採取して用いている薬草は蘇敬の説明に合致していて、これを採用したいと思う・・・。これを許可している。
十九日に紀朝臣古佐美に正四位下、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)・笠朝臣名末呂(賀古に併記)・藤原朝臣雄友(❷)・藤原朝臣内麻呂(❻)に從四位下を授けている。二十二日に「忍海原連魚養」に外從五位下を授けている。
二十五日に多治比眞人豊長(豊濱。乙安に併記)を春宮少進のままで内藏助、榮井宿祢道形を造兵正、中臣栗原連子公(栗原勝)を大炊助、藤原朝臣乙叡(❻)を中衛少將、少納言の藤原朝臣繩主(❷)を兼務で右衛士佐、山上王を内兵庫正に任じている。
「忍海原連」は初見の氏姓であるが、延暦十(791)年正月に以下のような記載がある。
・・・典藥頭外從五位下忍海原連魚養等言。謹検古牒云。葛木襲津彦之第六子曰熊道足祢。是魚養等之祖也。熊道足祢六世孫首麻呂。飛鳥淨御原朝庭辛巳年。貶賜連姓。尓來再三披訴。一二陳聞。然覆盆之下難照。而向隅之志久矣。今属聖朝啓運。品物交泰。愚民宿憤。不得不陳。望請。除彼舊号。賜朝野宿祢。光前榮後。存亡倶欣。今所請朝野者。所處之本名也・・・。
名前の魚養=[魚]の尻尾のように岐れて延びる山稜の麓で谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に賜る朝野宿祢の朝野=山稜に挟まれた丸く小高い地の麓に野が広がっているところと解釈される。言上の通りに、その地の名称であろう。
閏五月丁巳。陸奥鎭守將軍正五位上百濟王俊哲坐事左降日向權介。癸亥。左右京二職所掌調租等物。色目非一。或不勤徴収。多致未納。或犯用其物。遷替之司。貽累後人。於是。始准攝津職。与解由放焉。戊寅。外從五位下白鳥村主元麻呂爲織部正。從五位上丈部大麻呂爲隱伎國守。從五位上文室眞人於保爲備後守。己夘。左中弁兼河内守從四位下巨勢朝臣苗麻呂卒。
閏五月五日に陸奥鎮守将軍の百濟王俊哲(②-❶)が事件に関係して罪に問われ、日向権介に左遷されている。十一日に左右京識は、職掌として扱う調や租などの物の種類が一つではない。徴収に努力せず未納のままにすることが多かったり、その物を盗んで流用したりして、転任する役人が後任の人に迷惑を及ぼしている、そこで初めて、攝津職の例に準拠して交替の際に解由を与えて離任させるようにしている。
二十六日に白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)を織部正、丈部大麻呂を隱伎國守、文室眞人於保(長谷眞人)を備後守に任じている。二十七日に左中弁で河内守を兼任する巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)が亡くなっている。
六月辛丑。正六位上平田忌寸杖麻呂。路忌寸泉麻呂。從七位下蚊屋忌寸淨足。從八位上於忌寸弟麻呂等四人。並改忌寸賜宿祢姓。壬寅。河内國志紀郡人林臣海主野守等。改臣賜朝臣。
六月二十日に平田忌寸杖麻呂・「路忌寸泉麻呂」・蚊屋忌寸淨足・於忌寸弟麻呂(人主に併記)等の四人は「忌寸」姓を改めて「宿祢」姓を賜っている。二十一日に河内國志紀郡の人である「林臣海主・野守」等に臣姓を改めて朝臣姓を賜っている。
路=足+各=山稜の端が開いた足のように岐れて延びている様であり、図に示した場所の地形を表していると読み解いた。路眞人の地形に類似する。
泉麻呂の泉=囟+水=窪んだ地から水が流れ出ている様を表し、図に示した谷間の出口辺りが、この人物の出自場所と推定される。現地名は京都郡みやこ町犀川久富である。
河内國志紀郡には林連一族が既に登場していたが、「臣」姓については初見と思われる。現地名は行橋市二塚であり、多くの渡来系の人々が居処としていた地域である。
名前の海主=真っ直ぐに延びた山稜の前に水辺で母が子を抱くように延びた山稜に囲まれているところと解釈される。「林」の谷間の奥に当たる場所である。もう一人の名前である野守=山稜が両肘を張り出して取り囲んだように延びている前で野が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
彼等は「朝臣」姓を賜ったと記載されている。それなりの系譜を持つ人物だったのであろうが、詳細は伝わっていないようである。「林朝臣」としての登場は、以後に見られない。
秋七月己未。太白晝見。戊辰。右京人正六位上大友村主廣道。近江國野洲郡人正六位上大友民曰佐龍人。淺井郡人從六位上錦曰佐周興。蒲生郡人從八位上錦曰佐名吉。坂田郡人大初位下穴太村主眞廣等。並改本姓賜志賀忌寸。丙子。先是。去寳龜十年立制。牧宰之輩。奉使入京。或無返抄而歸任。或稱病而滯京下。求預考例兼得公廨。如此之類莫預釐務。國司奪料。郡司解任。容許之司。亦同此例。而自時其後。希有遵行。至是重下知。諸國不悛前過。猶致緩怠。即科違勅罪矣。
七月八日に太白(金星)が昼間に見えている。十七日に右京の人である大友村主廣道(廣公に併記)、近江國野洲郡の人である大友民曰佐龍人(大友村主人主に併記)、淺井郡の人である錦曰佐周興(勝首益麻呂に併記)、蒲生郡の人である錦曰佐名吉(佐佐貴山公賀比に併記)、坂田郡に人である穴太村主眞廣(勝首益麻呂に併記)等に本姓を改めて「志賀忌寸」の氏姓を賜っている。
二十五日、これより以前、去る寶龜十(779)年に以下のような制度を立てた・・・國司や郡司は、使者として上京した時、中央官司の受領証を貰わないまま任國に帰ってしまったり、病気と称して京に滞在したまま、勤務評定を受けて昇進する扱いに入れてもらい、併せて公廨を得ることを要求したりしている。このような連中はっ職務に関与させてはならない。國司は給与を没収し、郡司は解任せよ。容認した官司も同様な処分とせよ・・・。
しかしながら、この後も遵守し実行することは稀であった。ここに至って重ねて命令を下し、諸國の國司・郡司が以前の過失を悔い改めず、なお怠り怠けた場合には、違勅の罪を適用する、としている。
八月丙申。以治部卿正四位下壹志濃王爲參議。甲辰。行幸高椅津。還過大納言從二位藤原朝臣繼繩第。授其室正四位上百濟王明信從三位。
八月十六日に治部卿の壹志濃王(❷)を参議に任じている。二十四日に高椅津(交野・百濟寺に併記)に行幸された帰りに、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)の邸に立寄って、妻の百濟王明信(①-⓱)に従三位を授けている。
九月丁夘。以近衛少將從五位下紀朝臣兄原爲兼少納言。從五位上大伴宿祢弟麻呂爲左中弁。從五位上文室眞人与企爲右中弁。中納言從三位石川朝臣名足爲兼左京大夫。兵部卿皇后宮大夫如故。從五位下高倉朝臣殿嗣爲亮。從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲近衛少將。内匠助如故。從五位下采女朝臣宅守爲日向守。丁丑。先是。贈左大臣藤原朝臣種繼男湯守有過除籍。至是賜姓井手宿祢。
九月十七日に近衛少將の紀朝臣兄原(眞子に併記)を兼務で少納言、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を左中弁、文室眞人与企(与伎)を右中弁、中納言の石川朝臣名足を兵部卿・皇后宮大夫のまま兼務で左京大夫、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を亮、坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を内匠助のままで近衛少將、采女朝臣宅守を日向守に任じている。
冬十月丁亥。詔曰。朕君臨四海。于茲七載。未能使含生之民共洽淳化。率土之内咸致雍熈。顧惟虚薄。良用慙嘆。而天下諸國。今年豊稔。享此大賚。豈獨在予。思與百姓慶斯有年。其賜天下高年百歳已上穀人三斛。九十已上人二斛。八十已上人一斛。鰥寡孤獨。癈疾之徒。不能自存者。所司准例加賑恤。仍各令本國次官已上巡縣郷邑。親自給稟。又朕以水陸之便遷都茲邑。言念居民。豈無騒然。宜免乙訓郡延暦三年出擧未納。其郡司主帳已上賜爵人一級。丙申。天皇行幸交野。放鷹遊獵。以大納言從二位藤原朝臣繼繩別業爲行宮矣。己亥。主人率百濟王等奏種種之樂。授從五位上百濟王玄鏡。藤原朝臣乙叡並正五位下。正六位上百濟王元眞。善貞。忠信並從五位下。正五位下藤原朝臣明子正五位上。從五位下藤原朝臣家野從五位上。无位百濟王明本從五位下。是日還宮。癸夘。從五位下佐伯宿祢葛城爲民部少輔。下野守如故。甲辰。右衛士督從四位下兼皇后宮亮丹波守勳十一等笠朝臣名末呂卒。
十月十日に次のように詔されている・・・朕が即位して國を治めるようになって今年で七年になる。未だに生ある民を朕の教えに全て馴化させ、支配する地を悉く安泰にさせることはできていない。才能がないことを反省すると、まことに恥じ入り嘆くばかりである。しかしながら今年は豊作であった。天からの賜物を受けるのが、一人自分だけであってよいものであろうか。人民と共にこの豊作を喜びたいと思う。---≪続≫---
そこで高齢者で百歳以上には籾米を各三石、九十歳以上には二石、八十歳以上には一石を与える。鰥・寡・孤・獨、病気で苦しむ人や自活できない人には、所管の官司が前例に準拠して物を恵み与えよ。そのために、それぞれの國司の次官以上には村々を巡回させ、直接に籾米を与えさせよ。また朕は、水陸の便利なことを考慮して、都をこの長岡村に移した。そこで住民のことを考えるに、慌ただしくないであろうか。そこで乙訓郡の延暦三年の出挙の未納分を免除し、郡司の主帳以上には、位階を一階ずつ与えよ・・・。
十七日に交野に行幸され、鷹狩を行って遊猟し、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)の別荘を行宮としている。二十日、別荘の主人が百濟王氏の人々を引率して種々の音楽を演奏させている。百濟王玄鏡(①-⓯)・藤原朝臣乙叡(❻)に正五位下、百濟王元眞(②-⓫)・百濟王善貞(②-⓬)・百濟王忠信(①-⓴)に從五位下、藤原朝臣明子に正五位上、藤原朝臣家野に從五位上、百濟王明本(②-⓭)に從五位下を授けている。この日、宮に帰られている。
十一月甲寅。祀天神於交野。其祭文曰。維延暦六年歳次丁夘十一月庚戌朔甲寅。嗣天子臣謹遣從二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣繼繩。敢昭告于昊天上帝。臣恭膺眷命。嗣守鴻基。幸頼穹蒼降祚覆燾騰徴。四海晏然万姓康樂。方今大明南至。長晷初昇。敬采燔祀之義。祇修報徳之典。謹以玉帛犧齊粢盛庶品。備茲禋燎。祇薦潔誠。高紹天皇配神作主尚饗。又曰。維延暦六年歳次丁夘十一月庚戌朔甲寅。孝子皇帝臣諱謹遣從二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣繼繩。敢昭告于高紹天皇。臣以庸虚忝承天序。上玄錫祉率土宅心。方今履長伊始。肅事郊禋。用致燔祀于昊天上帝。高紹天皇慶流長發。徳冠思文。對越昭升。永言配命。謹以制幣犧齊粢盛庶品。式陳明薦。侑神作主尚饗。
十一月五日に天神を交野に祀っている。その祭文は以下のようである・・・ここ延暦六年丁卯の年、十一月の朔が庚戌に当たる甲寅の日に、跡継ぎの天子である私が、謹んで行大納言兼民部卿で造東大寺司長官の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を派遣して、敢えて明らかに昊天上帝(天上界を支配する神)に申し上げる。私はうやうやしく情け深い仰せを受けて、皇位を継承し守って来た。幸いにも天は福を下し、万物を覆い育てている証を示され、世界は平安であり、全ての民も安泰に暮らしている。---≪続≫---
まさに今、太陽が最も南に下り、長い影が初めて伸びている。うやうやしく生贄を捧げて天を祭る儀式を行い、謹んで天の徳に報いる式典を行う。そこで謹んで玉や絹、生贄の肉、器に盛った穀物などの品々を取り揃えて、この天帝の祀りに備え、謹んで高潔な誠の心を捧げる。また、高紹天皇(光仁天皇)を神に配して祀る。どうかお受け下さい・・・。
また、高紹天皇への祭文は以下のようである・・・ここに延暦六年丁卯の年、十一月の朔が庚戌に当たる甲寅の日に、孝子である皇帝の私、山部が謹んで行大納言兼民部卿で造東大寺司長官の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を派遣して、敢えて明らかに高紹天皇に申し上げる。臣は平凡で才能がないのにも拘わらず、忝くも皇位を継承した。天より福を授かり、天下の民が心を寄せている。---≪続≫---
今まさに、冬至が始まったので、謹んで郊外で天を祭ることを執り行い、肉を供えて昊天上帝をお祀りする。高紹天皇の幸は(殷が天下を得た時)長発の歌と同じく行渡り、その德は(周の祖先の)思文の歌より優れている。天帝に対うべく明らかに天に昇らせ、永くここに天命を配する。そこで謹んで幣帛を供え、生贄の肉、器に盛った穀物などの品々を整えて、もって祭祀の供え物とする。神に相伴させて祀る。どうかお受け下さい・・・。
十二月庚辰朔。授外正七位下朝倉公家長外從五位下。以進軍粮於陸奥國也。
十二月一日に朝倉公家長(朝倉君時に併記)に外従五位下を授けている。兵糧を陸奥國に献上したことによる。